「世界と?」
「うん」
問答をそこで打ち切って、ジーンは空を見上げた。空高く掲げられた剣の影に、もう入っている。その根元に、エステルとアレクセイの姿があった。
「生きる意志、ってところかねえ。人間なんて、死んだ方が良かったとしても生きたくて生きちまうもんだし」
背後から届いたレイヴンの回答に、クスリと笑って「ポエミーなこと言うのね」と水を差した。
「ちょっとお?ジーンちゃんが言わせたんでしょうに」
「あなたが勝手に語ったのよ。さて」
ユーリが船首を駆けて、接近に合わせてエステルに向けて手を伸ばす。あちらも、こっちのことは視界に入っているだろう。縋るように片手が伸びた。
「エステル!」
と、叫んだのかもしれない。ジーンにその声は聞こえなかった。背後に佇むアレクセイが、険しい表情のままその手の大振りな
同時に、ジーンの片目がその術式の解析を始めた。右腕が夢遊するように動き始める。
固唾を飲んで成り行きを見守る皆の前で、白い布がふわりと踊った。ユーリとエステルの手が交錯するその一瞬。
「ジーン?」
右脚で踏み切って、ジーンはアレクセイがトリガーを引いたエアルの暴風に飛び込んだ。
帝都に充満するエアルを、今のエステルは強制的に放出することができる。その力が、帝都の
要にあるのは、
フィエルティア号がジーンの体で受け止めきれなかった暴風に煽られて傾いていく。浅黒い手がジーンに向けて伸ばされているのを知覚する。
どちらも意に介さずに、ジーンはそっと右腕を掲げた。エアルの暴風を捩じ伏せ、正常に呼吸し、荒れた空と同じ色の光をその身に浴びる。
差し伸べた右腕が、悍ましい光を放っていた。
これが、ジーンの受けた祝福の、或いは呪いの正体。
触れるだけで人の技術の粋をぐちゃぐちゃにする力が、赤黒くとぐろを巻きながらジーンの右腕に絡み付いていた。
瞬きの間にも満たない静寂の中。パキリ、パキリと精緻な術式が崩されていく。エステルを囲う球体と、帝都を囲う結界と、アレクセイの手にある剣と、
制御を失って御剣の階梯から落下していくエステルの体を掴んだ。
ジーンは、そちらを選ぶことにした。
アレクセイも、
殺さなかったし、砕かなかったし、奪わなかった。
「これでいいのか、エルシフル」
この目と、この腕は、この時のためのものだったのか。
"この約束が果たされる限り"
これで、違えなかったことになるのか。
"
かの者の残り香である赤黒い力は、肌の奥に吸い込まれて消えていった。
「ジー、ン?」
腕の中でエステルが小さく呻いた、のだと思う。急速に世界から切り離されつつある時間の中で、ジーンは赤く染まった空を見上げた。
空と海は変わらずそこにあった。ジーンもずっと、地べたを這いながらこの空を見上げ続けている。
浮遊感は長く続かない。重力に捕まり、跳躍から遥か遠い地面までの落下に切り替わるその直前。
「っと……!」
ぱし、とジーンの腕を掴む手があった。
グングンと帝都から遠ざかっていく船にぶら下がっている間、階梯で歪な笑みを浮かべるアレクセイの姿が小さくなっていくのがよく見えた。何秒かは、視線が合っていたように思う。
最終的に、何事かを吐き捨て、アレクセイはマントを翻しその場を去っていった。
足元がすっかり森に切り替わった頃、頭上から何やら掛け声が届いて船上へと引き上げられた。
すぐさま抱えていたエステルの体を下ろして、気絶しているらしい彼女の体に残った術式を検分する。
無理矢理突き崩してしまったが、あれはあれで自由意志がない以外は安定しているようだったので、手痛いフィードバックが襲っているだろう。また同じように構築するなら帝都の
バチン、と音を立てて両頬が叩かれた。叩かれたというより、挟み込まれたのだと無理矢理首を動かされて理解した。殺気がないので直前まで気付かなかったらしい。
「な、に……?」
両耳が覆われている。くぐもった自分の声だけがよく聞こえた。目線を合わせるように、ジーンの頬を挟んだままのユーリがその場に膝をつく。
「せめて一言言ってから落ちてくれねえか!?」
耳を離すなり、ユーリは大声で怒鳴ってきた。聞こえてないと思われたんだろう。声量の問題じゃないんだが。
「落ちた?落ちたつもりはないけど」
「ああ!?」
柄が悪い。下町育ちだものなあと納得しながらも、ならフレンはどうなのだ、と思い直した。性格か。
「だって、バウルが船を釣り上げてるロープ、下にも伸びてるじゃない?だからそこ掴もうと思って。これでも軽業師やってるんだし、片腕だけでもロープ伝って甲板まで戻れるわよ。エステルちゃん連れて」
「アンタなあ……」
がっくりと肩を落としたユーリは、そのままの勢いで甲板に腰を落とす。その隣で、船縁から身を乗り出したままだったレイヴンがズルズルとだらしなく崩れ落ちていった。
「勘弁してジーンちゃん……心臓止まるかと思っちゃった……」
「あなたが言うと笑い事じゃないのよね」
「笑い事じゃねえんだよ、ったく」
ユーリに同意するように、ラピードが鋭く吠える。
どうやらジーンが飛び出たことで焦らせたらしい。ジーンの本職が知れ渡ってないようだ。あまりにも芸を見せなすぎたか。
「ともかく、一旦船を降ろせる?可能な限り早く帝都に戻った方がいい。
「帝都の
「あら、流石モルディオ博士。後は任せて大丈夫そうね」
リタは生返事を返した。ジーンがズタズタにしてしまったが、残った術式の修復を試みながら機能の整理を始めているようだ。
「あの遺跡はどうするんだ?」
「それは……。エステルちゃんの状態が安定してからでいいわ。いえ、もう行かなくてもいいかも」
「行かなくていい?」
眉を跳ね上げたユーリに、ジーンは憑き物が取れたような気持ちでコクリと頷いた。
「だってもう選んじゃったもの」
何を、と。誰も問いかけなかった。何もかもを明かすような関係じゃなかった、秘密を受け入れていた、見せた面だけで関係が構築されていた、信頼されていた。理由は様々。
ともあれジーンは選んでしまった故に、肩の荷を降ろしたのだ。
コツコツと、古いブーツが大理石の廊下を鳴らす。
夜も更けたというのに、
場所は帝都、未だ空席の皇帝の居城。ユーリの旅はここから始まったという。脱獄中にフレンを探して城を飛び出そうとするエステルと出会い、成り行きで帝都の外に出た。
「ジーン」
名前を呼ぶ音くらいは、経験で分かるものだ。ましてや、夜の静けさの中でなら。
「男振りが増したんじゃない?」
「そう思う?」
振り返れば、へらりと笑うレイヴンがそこに立っていた。息を吐いて、数歩分離れていた距離を詰める。
左頬が紅葉形に赤く染まっていた。エステルに謝罪に行って、見事張り手を頂戴したらしい。
リタの尽力で目を覚ました彼女は今、自室で体を休めていた。リタの作業が上手く進み、満月の子の力を抑制出来ているとか。アレクセイの研究の賜物と言うのが気にくわないらしいけど。
一旦帝都から離れ、ハルルの街あたりに降り立った一行は、バウルがエステルの放ったエアルの嵐で翼を痛めたこともありそこから徒歩での移動を開始した。
立ち寄ったハルルの街では、思わぬ再会があった。
もう一人の皇帝候補であるヨーデルとフレンを始めとした帝国騎士団の誘導の指揮の元、異変に包まれた帝都からは殆どの住民が脱出していたらしい。
皆は安堵していたが、そんなに楽観視できる状況でもない。ハルルと砦の備蓄を動員すれば何日かは保つかもしれないが、流石に世界最大都市の住民全ては収容しきれないだろう。
ともかく、帝都だ。一部の騎士と共に地上経由で帝都に戻った時、アレクセイや親衛隊の姿はなかったが、代わりに空を赤く染めていたエアルの異常も収まっていた。
ヨーデルから損害の少ない城内を宿として提供され、今はこうして静まり返った廊下を歩いている。レイヴンが張り手をもらいにエステルの部屋を訪れる少し前、ジーンも彼女の部屋にいた。
ケジメをつけろと言われた通り。目を覚ました彼女と、二人きりで話をしたのだ。
「という経緯です。私は二度、君のことを優先しなかった。連れて行かれるのを良しとしたし、アレクセイから取り返さなかった。申し開きはこの通り。ああそうだ、ユーリから土下座して謝れって言われたのよね」
「いえ、結構です」
来客用だと示された椅子から立ち上がりかけたジーンを、エステルは思いがけず強い口調で押し留めた。
腰の前で組まれた両手は、硬く握り込まれている。
「でも……」
「ジーンは自分の取った行動を、何か反省してるんですか?」
開きかけた口は、また少女の言葉に沈黙させられた。浮かせた腰を落として、続く言葉を待つ。
「後悔していますか?次また同じことがあった時、違う行動を取りますか?」
「……いいえ。取らないわね」
それが正直な気持ちだった。
何度でもジーンはエステルを見捨てるだろう。
「それなら、言葉だけの謝罪って意味ないです。貰っても嬉しくありません」
「うん、そうだね。これは私が悪かった。ただ……」
「分かってますよ。だって今日、ジーンは私を助けてくれました。謝らなきゃと思って今夜私の部屋に来てくれました。それはジーンが私のことを想ってくれた証拠です」
言い切って、ニコリと笑う。
こうした強さと清廉な在り方を見せつけられると、ジーンは溶けて無くなりそうな気持ちになる。
それは理想的で、理想論だ。
外界と隔絶された城の中の小さな部屋で、彼女はどうやって何が正しいのかを学んだのだろう。
「ジーンにとって私が優先すべき存在じゃなかったことは、やっぱりちょっと悲しいです。でもちょっと悲しいだけで、それより嬉しいことがありました」
固く組まれていた両手が解かれて、ジーンの手を下からそっと持ち上げる。以前にもこのように、手を包んでもらったことがあった。
あの時のように治癒術を使うことは出来ないけれど、エステルの真価はそこにはない。
「ジーン、ずっと思いつめたような顔をしていましたから。あなたの悩みが解決したならそれで、良いんです」
彼女のように、心から他人を想える力があったら。
ジーンはもっと簡単に、心の治療というやつが出来ただろう。誰を傷つけることもなく、心が死んでしまった男を癒せただろう。
「私、エステルちゃんみたいにあれたらって思ったことがある。エステルちゃんだったらどうしたんだろうって考えたことも」
「私だったら、ですか?」
「悪人の戯言よ、真に受けないで」
そう言ったとしても、流せる子じゃないと知っているけれど。
握ったままのジーンの両手を見下ろしたエステルは、「なら戯言ついでに、聞いてもらえますか」と囁いた。
何か罪深いことを告白するかのように、少女は躊躇いがちに口を開く。罪を告白するのはこちらになるだろうな、と感じながら、悪人であるジーンはゆったりと微笑んだ。