深く息を吸ったその一瞬で、エステルは話したいことを整理し終えたらしい。毅然とした表情でこちらを見据えた彼女の瞳からは、もう躊躇いは感じられなかった。
「ジーンが私だったら、どうしますか。私、そんなつもりはなかったのに、沢山の人を傷つけました。
もしかすると。かもしれない。曖昧な言葉だ。
生まれたことに罪などなく、意思の介在しない行為にも罪はなく。と、するには重すぎる事実ばかりが積み上がった。
ジーンも、君に罪はないと言ってやることは出来なかった。自分が生まれ出でたことに、一定の罪を感じているからだ。
「ユーリから聞きました。ジーンは……
「そうね」
肯定したジーンの手を、エステルはぎゅうと握り締めた。
「私、知ってます。対人戦闘の時、ジーンは同じ後衛にいることが多いので、つまりだいたい私の横にいるんです。ノールでラゴウを追った時も、ユーリが死んでしまうかもって震えていたジーンの手を握ったことがあります」
だから心の底から怯えていたのが分かるんです、と囁き声が言った。
「ジーンの誓いは本物でした。例え本当のジーンがその通りには生きられない人間だったとしても、それが本物になるくらい不殺に向き合ってきたんだと分かります。どうしてですか」
どうして。
どうして不殺を誓ったのか、ではない。聞かれているのは、どうしてその在り方が共存するのか。
「ジーン、あなたはどうしてそのままで生きているんですか。矛盾、してます。人を殺したくて、でも殺したくなくて。ジーンの生き方は、矛盾しているように見えます。なのに、生きている。だから聞きたいんです。そこにどんな意味がありましたか。死んでしまいたいって顔をしてるのに、あなたはどうして死んでいないんですか?」
まさかエステルからこんなに苛烈なパンチを貰うとは思っていなかった。
意識して強い言葉を使ったのだろう。すぐに「戯言にしても過ぎたことを言いました、ごめんなさい」という謝罪が続く。
「……それは、私にだけは聞いても意味がない質問かもね」
「そうでしょうか。私には、そうは思えません。きっとジーンが一番、真剣に向き合って考えたことだと思います」
生きていることと死んでいること、生かすことと殺すこと。
普通の人間は、これらと向き合う必要がないらしい。生きているのは自然で、生かすのが当然だからだ。
だからどうしても、普通の人間とジーンの間には分厚い壁がある。今も珍獣の呻き声を解読するような心地で他人の声を聞いているジーンは、周囲から見れば異端なのだろう。
「……私はね、エステル。一回死んだの。こんなのは自分じゃないって否定出来なかった。これが私なんだって思った。その時私は死んだし、死んだまま生き続けてる」
「それは……人を、殺した時ですか」
「ええ。初めて人を殺した時……と、言えるのかな。それか、自分が人を殺していると気付いた時かもしれない。気付いちゃいけないことに気付いた時、足元が全部崩れ落ちた気分になるわよね」
ジーンとエステルが同じだとは露ほども思わない。
けれど、同じ一線は踏み越えていて、その点だけは共有できる。いつかの夜、ユーリが「アンタがどう思うのか知りたかった」と告げたように。
「私はそれをそのまんま、人として崩落するんだと思ってる。自分が悪いことをしたんだって認識しちゃうと、全部ガラガラと崩れていっちゃう。それでも……何かは残ってると思うの。これまでの人生で成したことが、崩れて無くならない足場として残ってるでしょう。だってエステルちゃんは『死んでしまいたい』と思ったとしても、現に今こうして生きている」
「そう、ですね。私もジーンも、生きてます」
どうして、とあまりにも純粋な瞳が問いかけていた。
どうしてそのままで生きているのか。そこからどうすればいいのか。
「簡単な話よ。周りが崩れて無くなっちゃったんなら、もう誰かに手を引いて貰うしかないじゃない。その方法だって、君はもう知っているでしょう」
ずり落ちた穴の先で、人は天に手を伸ばすものだ。遠くに見える空に向かって。そこは朝焼けであるか、夕焼けであるか、真昼の空かもしれないし、星の瞬く眩い夜かもしれない。
「君が手を掴みたいのは誰?」
その答えだって、エステルはもう知っているはずだ。城の中で一生を終えるかもしれなかったお姫様は、自分の意思で行動を起こし、ステージに上がっている。
「私は……」
「ま、ユーリなら『自分で選んだ道かどうかだ』って言うでしょうけどね」
言い淀んだ彼女が答えを告げる前に、ジーンはユーリの名を出した。「ユーリから聞いた」と言っていた通り、ジーンの訪問前に彼と話したんだろう。そこでジーンに聞いた問いの答えなど、とっくに得ているはずだ。
「ふふ、そうかもしれませんね」
「結局、選ぶのは自分よ」
「はい。……自分で選んだ道を歩き切る。ですよね?」
最後の一言は念押しをするような強さで発された。結論、ここに至るための会話だったのだろう。
言ったことの責任はとれ。やったことの責任はとれ。一度決めたのなら最後まで歩き切れ。
これまでに何人もの人間がジーンに同じことを求めた。
「エステルちゃん、実は私を脅すためにこんな話したね?」
都合が悪いので退散しようと席を立つ。
ニコニコしながら、エステルは「もう行っちゃうんですか?」とそそくさと去っていくジーンを見送っていた。
なんて一幕を思い出し、ジーンとて張り手は食らわなかったが似たようなものだ、と苦笑する。
反省を見せたレイヴンとは違ってスタコラサッサと逃げたのだから、誰にも申し開きできなかった。
「逃げ遅れた下町の連中、城内に逃げ込めてたらしいよ。今食堂の方にいる。街はエアルの影響で滅茶苦茶だが、じきに復旧も進むでしょ。そしたらハルルやらデイドン砦やらに逃げ込んだ避難民も戻ってくる」
「そう」
「あんま興味なさそうねえ、まあ仕方ねえか」
なんとなく空が見たくなったが、生憎とこの廊下に窓はなかった。あったとしても、ジーンは星空を見上げない。夜は過ごしにくい時間帯だった。
「下町の人たちには会わせる顔がないのよねえ、知り合いがいたらどうしましょう」
「ジーンちゃんの名前、ふと出されるだけで気付かれるんじゃないの?」
「黙ってたら結びつかないと思うけど。白髪のジーンなんて娘は下町にいなかったわけだし」
「まあ……」
曖昧に頷いて、レイヴンは「ところで、どこ向かう途中?案内しよっか?」と話題を変えた。
「何処、というか。アレクセイはどうやって壊れたのかなあって思って。この城にいたんでしょう」
「気になるの?」
「あなたについて、ほどじゃないけれど。彼、十年前とは人が変わったようでしょう。ああいう壊れ方、覚えがあって」
人間性だとか、善性だとか、そうしたものは現実から強い圧力がかかると湾曲するものだ。
夢の中で人は歪まない。いつだって残酷すぎる現実だけが人を変えていく。
「失敗した身としては、どうやったらあそこまで人が変わるのかは知っておきたいかなあって」
「失敗?ジーンちゃんだってちゃんと変わったでしょうに。それが良い方でも、悪い方でも」
「いえ。あなたには希望を見せてもらったけど、変わったと言うより、『良い夢を見た』としておくのが正確だと思う。そうなると、失敗したってことでしょう?」
悪夢の間違いじゃないの、とすかさず返したレイヴンはなんとも言えない表情をしていた。
「まあ……。アレクセイが変わった原因ねえ。奴の執務室なんかは別のとこだが。再建された騎士団本部の方だ」
「再建?帝都って何かあったの?」
「いんや、騎士団本部だけ。色々あって一回爆破事件があったのよ」
「ああ……あなたも結構暗殺してるものねえ」
権力闘争や恨みつらみはいくらでもあるか、と頷けば「なんで知ってるんだか」と呟かれた。
「そりゃあ同業者っぽい話は嫌でも聞くし。裏じゃシュヴァーンの暗殺って有名だよ」
「マジ?」
「マジ」
アレクセイの部屋でも行ってみるか、と歩き出したレイヴンの後ろを着いて歩いていれば、階段に差し掛かったところで足が止まった。
「……いや待った、ジーンちゃん噂なんか聞こえないよな?」
「お、気付いた」
「気付くよ、もーサラッと騙すんだから」
べえ、と舌を出しておく。ジーンがどれほどの執念を持ってシュヴァーン・オルトレインという架空の騎士のことを調べ上げたのか、別に知って欲しいとは思わない。
「でも残念、再建されたんならあなたが昔鍛錬してたところとか執務室とか、なくなっちゃったのか」
「完全に建て替えたってわけでもねえが、ってそもそも俺は副隊長よ?執務室とか無いから」
「へえ、副隊長。ああ、じゃああのコンパクトの持ち主は隊長さんかな?」
ピシリと固まったレイヴンを前にくふりと笑って、行き先もわからずに一歩、二歩と階段を降りる。最後の数段を飛び降りて、踊り場でくるりと振り返った。
「変形弓を装備した貴族平民混合の新設部隊。名前は……。キャナリ隊」
動かない男を見上げて、殊更に美しく見えるように微笑む。
ユーリのことを綺麗な兄ちゃんと呼んでいたくらいだ、なんだかんだジーンの顔はよく眺めていたこの男がジーンから目を逸らさなくなった今、ユーリにどこか似たこの顔はそれなりに効果的らしい。
「恋人だったの?」
「いや、そんなんじゃない。……あいつには恋人がいてな」
「へえ?でも好きだったんだ」
「もー、勘弁して……。さっき嬢ちゃんに洗いざらい吐かされたばっかなんだから」
「あはは、エステルちゃんも容赦ないねえ。勘弁して欲しいの、こっちの方だけど」
顔を覆った男を放って、ジーンは残りの階段を一息にぴょんと飛んだ。貴人がしずしずと歩くために設計された城の階段は一段一段が小さく出来ていて、その分の奥行きがある。
「っと」
とはいえこのくらい、足音を立てずに着地するのは朝飯前だった。いつ身につけた技術だろう。考えるのも億劫なくらい、過去の話だ。
「ほんと、昔っから曲者なんだから」
最低限の靴音だけを伴って、レイヴンが階下に降りてくる。同じように後半部分を飛び降りて隣まで来たと思ったら、正気か、とでも言いたげな視線を向けてきた。
「ドスン」
「再現しないで!?」
「響かないだけあなたもすごいと思うけどね」
ジーンの割と本気のフォローは気に入らなかったらしい。ぶちぶち文句を言っていたが、はいはいと聞き流しながら、共にアレクセイの執務室へと向かった。