規則上、騎士団本部に勝手に部外者が出入りするのは禁止されているらしい。当然のことだ。だが今は非常時だし、一応隣にいるのは隊長首席だ。
「もしかしてアレクセイが造反した今、あなたが騎士団のトップなのでは?」
「勘弁してよ、そういうタチじゃねえって」
「正式に辞めてきたの?」
「そりゃあ……。まだだけども」
復興準備のため深夜まで騎士たちは慌ただしく本部を出入りしており、アレクセイの執務室も調査の対象となったようだった。鍵は外され、めぼしい資料は既に運び出された後だったが資料に用があったわけではない。
「それを言うならシュヴァーンなんて騎士は元々存在しないわけで、俺ぁ一体何処になんの書類を出しゃいいんだか」
「どうせばっくれるつもりの癖に聞かないでよ」
騎士団長の執務室と言っても、何か特別な部屋なわけではなかった。多くの人員が出入りしていたのだろう、扉は両開きで立派だが、室内は実用性に富んだ作りになっている。
小姓たちが作業でもしていたのか長机が手前にあって、アレクセイが座っていただろう椅子は窓を背に奥側にあった。
戯れに座ってみたところで、アレクセイの考えを読めるわけでもない。点々と転がる死体を前に慟哭していた男が、部下の犠牲を気に留めなくなるまでに何があったのか。
「うーん、分からないな。権力に目が眩んだとか?」
「そんなに気になんの?ジーンちゃんにしては珍しいな」
「言ったでしょう、他の事例を知りたかっただけ」
ふうん、とやる気のない返事と共にレイヴンは長机に備え付けられた椅子の一つに腰掛けた。行儀悪く後ろ足だけに重心をかけて、ゆらゆらと揺れている。
「俺が知る限り、アレクセイは確かに高潔な騎士だった。身分を問わず実力があれば誰でも取り立てて、この腐った帝国を本気で変えようとしていた。敵は多かったみたいだがね」
「ふうん、理想が高いほど折れた時も盛大に行くものなのかもね」
今度はジーンが投げやりな返事をした。
「なに、知りたかったんじゃないの」
「アレクセイのことが知りたいんじゃない。どう折れたかを知ろうと思ったの」
「同じじゃ?」
「違う」
きっぱりと断言して、ジーンは「同じ状況になったら誰でも変わるのかとか、知っておいて損はないでしょ」と続ける。
「変わりたいわけ?もう変わり終わったのに?」
「それ皮肉?クソみたいな夢をどうもありがとう。文字通り、夢のようだったわ」
「うへえ、皮肉で返さないでくれ」
苦虫を噛み潰したような顔だった。普段より表情が豊かなことに気付いていて、指摘はしない。
なにも返さずにいれば、ギコギコと椅子が漕がれて、ありもしない天井のシミが一つ二つと数えられて、魂でも抜けそうな溜息が長机に染み込んだ。
「ジーンちゃんはさあ。世界の反対には何を置くの」
ぺたりと頬を机につけて、体まで預けながら、横向きの視線がジーンを見ている。月明かりを反射して、薄青の瞳がボンヤリと浮かび上がっていた。
「天秤の話。ジーンちゃんにとって世界に釣り合うものは何?」
世界と天秤にかけるに値するものは何か。帝都に来る前、ジーンが彼に聞いたことだ。
「なんだと思う?」
「言いたかないが、青年とか?」
「なんで言いたくないのよ……」
「言わなきゃわからねえから」
混ぜっ返された。青年、とレイヴンが呼ぶのはユーリのことだ。
ユーリ・ローウェル。ジーンの実の弟。生き別れた家族。たった一人残った、血の繋がった肉親。
「実際のところ、青年のことどう思ってんの、ジーンちゃん。家族だからってのを理由にする子じゃないのは知ってんのよ、ずっと見てきたんだから。けど、青年への態度だけ異常なのも分かる」
確かに、ジーンにとって仲間の情や家族の情など、石ころほども価値のないものだ。石ころは上手く使えば人を殺して余りある分、情の方が明確に下。
けれども、行動は逆を行っている。
不殺を誓い、その生き方を染み付かせようと足掻いていたジーンは、人と戦うことになると知っていてユーリの旅に着いていこうとした。弟だと知って、その命を優先するような行動を取った。
ジーンはユーリをどう思っているのか?
初めは、打算だった。
誰でもいいと戦えそうな集団に声をかけた。弟だとも知らなかった。
知ってから、なんとしても同行しなければならないと強迫観念のようなものに囚われた。それは、彼がまだ弱かったからだろう。触れれば死んでしまう子供のように見えていた。死なせるわけにはいかなかった。だから、着いていった。
次に、期待があった。ドンのようにジーンを理解するのではないかと。ジーンにとって殺せない人間であってくれるのではないかと、期待した。
今はどうだろう。まだ期待しているのかどうかはよく分からなかった。それでも変わらず、死なせてはならないと思う気持ちがある。
何故か。
「私が人として生まれたことの証明、かなあ」
幼き日、産まれたばかりの弟を抱き上げたその時はまだ、ジーンは普通の人間だった。命を慈しむことを知っていた。
その記憶は『普通』に生きていこうとするジーンにとって必要なものだ。崩落した人間性の中で、僅かに残った一欠片。ギリギリで踏みとどまらせてくれる安全地帯。だからジーンは、ユーリを死なせないことには全力を注ぐ。
「それは世界と比べられる?」
「ノー、かな。私の中で、『私』ってのはどうしても世界っていう概念に含まれるから。天秤の反対側には載せられない」
ゆっくりとした瞬きだけでジーンの言葉を受け流して、レイヴンは「じゃあ」と躊躇いがちに口にした。
「じゃあ、これは釣り合わない?」
とん、と軽い音と共に、小さな装置のようなものが机上に置かれた。そのまま、レイヴンの手によってズルズルとジーンの方に押し出される。
「なに?」
「俺の心臓の停止装置。ジーンちゃんにあげる」
「は?」
ここをこう回せば、と使い方の説明をする声が、ふつりと途絶えた。違う、ジーンが耳を塞いだ。
「何を言い出すかと思えば……!何をさせたいの。私がどうすると思ってるの。何のために……!どんな思いで私があなたを生かしたと思ってんの!」
カッとなって怒鳴りあげれば、喉の奥がひりついた。怒りに任せて席を立ち、机を飛び越えるようにしてヘラヘラと笑う男の前に立つ。
指先だけがまだ装置にかかっていて、未だ最後とひと押しをジーンに向けて押し出すように動く。
気付けば長机を殴りつけていた。
取り上げるように装置を奪って、床に叩きつけるために振り上げる。
「そっちの方が好きだろ、ジーン」
実行する前に、素早く動いた男がジーンの腕を渾身の力で縫い止めた。
怒鳴るような声だった。ビリビリと震える声に、声量の問題じゃない、と昼にも思ったことが過って泣きたくなる。
「俺が死んでなきゃ意味ないだろ。死んだ人間に救われたのに、生きてもらっちゃ困るだろ。死人しか愛せないくせに。なあ…………もう、俺の声も聞こえてない」
ジーンに聞こえる声は元から二つだった。一人は死んだ、一人は生き返った。どちらもジーンに安寧を与えた、死なない人間ではなくなった。
その他大勢の中に含まれて、もうレイヴンの声は記憶の中にしかない。
「俺が今怒ってるか、笑ってるか、悲しんでるか。声からじゃ分からねえだろ」
「い、今更……!今更何言ってんの。そんなの百も承知で私はあなたを生かしたんだよ。生き残るつもりがなかったから!生きる理由があなたであるうちに、ちゃんと死んでやろうと思ってたんだ!馬鹿!」
「馬鹿ぁ!?馬鹿はそっちでしょうが」
「どう考えてもそっち!」
勢いのままに、ジーンは今度こそ装置を床に叩きつけた。ガシャンと甲高い音を立てて割れたそれに、収まらなくて足を振り下ろす。
「い、言ったじゃん。あなたが死ぬと死ぬに死ねなくなるって。私だって何でこんな人間が生きてるか分かんないんだよ。でも死ねないんだ。生きてもない奴は死ねないんだ、知ってるでしょ。だからちゃんと私が生きる理由であって。いつか。いつか私をちゃんと殺して。死ぬに死ねなくならないように、ちゃんと生きてて。私を、生きてるって勘違いさせて。お願い」
口に出せば出すほど、安上がりな言葉に変貌していくようだった。
浅ましい。レイヴンの生を願っているようで、自分の命の責任を押し付けている。他人に縋らないと生も謳えない。数多の命を奪ってきたくせに、自分のためだけに個人の生を願っている。
まだ。浅ましくも、自分が普通の人間として死ねるのではないかと願ってる。幼い頃、弟を抱き上げていた頃に戻れるんじゃないかと。その為の楔を欲して、その為の手段を求めている。
終わりたかったのだ。何故死ねていないのか分からないのだ。かつて砂漠で死んだ青年のように、死んだはずなのに動いているのだ。吐き気を催すような邪悪が、どうしてまだ生きているのか分からない。
自分の行いをどうしようもなく悪だと認定してしまって、人として崩落したまま。僅かに残った支柱を、排斥するように動く。
それがジーンの善性だ。生かすことが善だと知っている人間の。そうして生きていきたいと思っている人間の。
いつの間にか、ジーンの左腕はレイヴンの羽織を皺くちゃになるまで握りしめていた。
その手を咎めるでも無く、目の前の男はジーンの頭に手を置いた。そのまま、グリングリンと好き勝手に撫で回す。
「……はいはい。ったく、色々言いたいことはあるけど本音が聞けたから良しとするか。ちゃんと生きるつもりはあんのね、ジーンちゃん。熱烈な告白をどーも」
「っ、は、あ?こっちは真面目に話してるんだけど」
「こっちもクソ真面目だよ」
「なら取り敢えず頭離せよ」
わしゃわしゃとかき混ぜてから、レイヴンは戯けたようにパッと手を離した。
「なんだか全部スッキリしちゃいましたって顔してたからね。思いつめてた奴がそういう顔すると、その翌日川に浮かんでるとかよくあんのよ」
軽い口調、ではあると思う。けれど、その顔は歪んでいた。取り繕ってこれなのだ、全く救えない。
「生きろって言っといてなんだが、難しいでしょ。俺もなあ、ただ生きろって言われただけで生きていけるんなら十年も死んでねえ。分かるか、ジーン。お前のいう通り世界ってのが自分を含めて構成されてんなら、俺が世界と天秤にかけるのはお前になる。お前が俺にしたのはそういうことだし、出来るんなら俺もお前にそうしたい」
ジーンの生きる理由がレイヴンであったように、レイヴンが生かされた理由もジーンだ。ただ、前者はもう取り返しがつかない。その二つが両立することはない。そういう、話をしていた。
ジーンは死んだレイヴンに夢を見ていて、ドンの死がきっかけであったにしろ最初の望み通り彼を生き返らせる道を選び、夢から覚めた。出会った時から手放すことになると知っていた。
残ったのは元通り、人であることを投げ捨てた幽鬼だ。その状態のまま、願われた通りなんとか生きようと模索している。アレクセイが折れた原因を探ろうとするのも、その一環ではあるだろう。
「ばー、か。何言ってんの。言っとくけど。あなた、自分のことを私の天秤で世界と釣り合うと思ってるなら、自意識過剰だから」
「ズビズビしながら何言ってんの、説得力ないよ?」
「最悪。明日私の目が腫れてたらレイヴンに乱暴されたって泣きついてやる」
「洒落になんないからやめて下さい。俺様青年に殺されちゃう」
「なんでユーリなのよ。リタちゃんの方が怖いでしょ」
「いやまあ……そっちもそうなんだけども」
自分の方がユーリをわかってる、というような態度がむかついたので、立ち上がっているのを良いことに思い切り脛を蹴っ飛ばした。
「痛ぁ!?」
「あのねえ。世界と釣り合うのなんか、それはもう世界でしかないの。後はどういう世界かだけ。まだ生きてるから、私の役目だったから、しょうがないから、私はもう選んだ。この先あなたがどんだけ苦しむとしても気にしてやらないの。私は、もう、既に、選んだ」
一言一言を短く切って、「良く言うでしょ、明日世界が終わるとしたら何をする、って」と首を振った。ジーンがしたのはその類の問いかけだ。
あなたにとって世界とは何か。
「ちゃんと答えたつもりだぜ?それも二回も」
レイヴンの回答は簡潔だった。確かに二度、レイヴンはこのことに触れている。
初め、生きる意志だと答えた。二度目、それはジーンのことだと言った。
「……あなたはさあ。どこまで本気なの?」
「どこまでって?」
「私が世界を敵に回すって言ったら着いてくるの?それとも私を止める?そういう意味で聞いてる」
「そうねえ……。俺は──────」
その口元が紡いだ言葉を、ジーンは出来るなら彼の声として聞きたかった。そういう意味では、ジーンはまだユーリに期待しているだろう。そちらの道に引き戻してくれることを願っている。
「ばーか」
どっと疲れた気分で肩を落として、何歩か後退ればアレクセイの執務机にぶつかった。そのまま凭れるようにズルズルと崩れ落ちていく。
こういう時に、ちょうど良い言葉がある。ただ、それを言葉にすることをジーンはずっと拒んでいた。
胸の内で首を擡げる度に殺されていく。そういう、破綻した人間だからだ。『矛盾している』と、エステルが指摘した通り。
「じゃあもう勝手にしろ。私は私で勝手に落ちていくし、止まってやらない。それでいいんでしょ?」
「おうおう、言ってくれるじゃないの」
一度目を伏せて、それで最後にしようと思えた。この先ジーンの生が長く続いたとしても、明日で終わりだったとしても。
「夜は長い。話をしようぜ、ジーン。どうしてお前は死んだんだ。何を選ばなきゃいけなくて、どれを選んだんだ。そういう話をさ」
この男から目を逸らすのは、これで最後にしようと思えた。