部屋を出て適当に歩けば、こちらの様子を伺っていたのだろう、ユーリがひょこりと顔を出した。
「話はできたか?」
「話は……。そうね、あんましてないかも」
「ま、仲良くお喋りしてるとこは想像つかねーけど」
そう言う割には、満足そうな表情をしている。廊下の壁に意味もなく視線を向けて、窓ないんだった、と溜息を漏らす。極秘で収容されているアレクセイの部屋が窓のある廊下に面しているはずはないのだけど。
「ユーリこそ、アレクセイに何か言いたいこととかないの?」
「アンタにねえならないな」
「そりゃ絞り出せば文句はあるけれど……。いや、やっぱり無いかも。私って悪い奴だから」
「悪い奴だから、悪人を治療したってか?」
「してないわよ」
「ふうん?」
アレクセイの部屋の方角が騒がしい。ジーンの訪問中席を外していた医師が戻ったのだろう。
深くは問わずに、ユーリはそのままジーンの腕をガシリと掴んだ。
「さて、と」
「えーっと。ユーリくん?」
「この後が本番だって言ったよな?」
にっこりと笑ったユーリは、「下町、着いてきてもらうぜ」と笑顔にそぐわないドスの効いた声でジーンを脅してきた。
王城を出たユーリは、すぐに下町には向かわず、人通りの少ない貴族街を通って一度街の外に出た。彼曰く、「普通の街で慣らしても意味が無い」とのこと。
そうして、旅に出た彼が通った道だという、下町側の入口へジーンを連れてきた。
足を踏み入れた瞬間、ジーンを強烈な既視感が襲う。この道を、ジーンは知っている。ジーンの腰丈すらもない小さな子供が、脇を駆け抜けて行ったような幻覚を見る。このざわめきを、この匂いを、ジーンは知っていた。
頭上を見上げれば、上階の屋根同士に張られたロープに洗濯物がたなびいている。少し先からは水の音が聞こえていた。あれが、ユーリが
それでも、ここはジーンが生まれた街だった。
「戻ってきた気分はどうだ?ジーン」
「……。やっぱり私は、下町で生きるのは向いてないと思うわ。今も振り返って逃げ出したいもの。そういう意味で、私の『準備』が出来る日ってのは、いつまでも訪れないのかもしれない」
いつでもどこでも、人は死ぬ。それは普遍的な事実だ。下町は、少しばかりその真理に近いところにある。
「でも……。一度だけ、君の家を見てみたい、かな」
「あー、悪いが多分、ジーンの知ってる家じゃねえぞ」
「いいのよ。むしろそっちの方が勘弁。君がどういうふうに育ったのか、そういう話が聞きたいの」
くしゃりと微笑んだユーリは、広場に向かう緩やかな登り坂を先導するように歩き始めた。そうして時折、懐かしそうにそこかしこに指を差す。
この道は丁度子供二人が横並びに走るのに都合が良く、毎日のように足の速さを競っていたとか。
もう少し行くと、拾った木の枝を振り回していた時に傷付けた壁が見えるとか。
子犬の頃のラピードが雨で増水した水路に落ちたことがあり、フレンと二人で服を着たまま飛び込んだ結果身軽なラピードだけがスイスイ泳いで道に上がってしまったとか。
あっちの家に住んでいたお婆さんは気難しく、子供が家に近付くと追い払うから、見つからずに何処まで近付けるかを競って、キッチンのクッキーを盗み食いして帰ったことがあるとか。
「……それ、私もやった記憶があるわ」
「はは!やんちゃなのは血筋だな」
「そうかもね」
短い道だ。どれだけゆっくり歩いても、広場はすぐに見えてくる。穏やかな話し声は、ユーリが姿を見せたことでピタリと止んだ。
そして、隣に連れられている白髪の女に視線が集まる。
「よ、戻ったぜ」
「ユーリ。隣のはお仲間さんかい?この間は見かけなかったようだけど……」
「あー、ちっとワケありでな。こいつも下町生まれなんだ」
「ジーン?」
何処か覚えのある声が、ユーリの言葉を遮った。そっと視線を向ければ、一人の老人が呆然とこちらを見つめている。
ひょい、と肩を竦めたユーリは、「紹介するぜ」とジーンの背中を軽く叩いた。
「ジーン・ローウェル。下町生まれ。俺の、ねーちゃんだ」
下町には、当時のジーンを知る人間がいくらか残っていた。それでも、ジーンがどういう子供だったかを覚えている人は極わずか。その中の一人、ハンクスさんはジーンに謝罪と共に一通の手紙を差し出した。
「これは?」
「返信だ。ずっと、預かっていた。送ろうにも、宛先がないと戻されたものでな」
「……もしかして、本当にあの手紙届いてたの?」
古びた上に質の悪い便箋だった。
返信と聞いて思い当たるのは、先代に託して母とユーリ宛に送ったものくらい。代わりに送るなんて口先だけだと思っていたが、本当に届いていたのか。
「母さんか」
「……うん」
丁寧に開けば、震える筆跡で短い言葉が記されている。書かれているのはこうだ。
『私も』
それだけ。
私も、なんだろうか。会いたいとか、愛してるとか、寂しいとか、頑張ります、とか。
その全部か。
いや、違うな。
父が母にあてて送った手紙にはきっと、別れの言葉が書いてあった。その返信であるならば、これはきっと覚悟の言葉だ。実際に、ユーリはこの街できちんと大人になれた。
「わしらがちゃんと見張ってればお前さんらが捕まることもなかった。相当な苦労をしただろう。すまない、ジーン」
「なんでハンクスさんが謝るの?気にしてないってフレンくんに伝えてもらったと思うのだけど」
「ふん。これはなあ、後悔じゃよ」
「ふうん。ならご随意に。返事は二十年越しに受け取りました。お元気で。ユーリ、この手紙あげる」
少なからず母の直筆だ。ジーンよりはよほど大事にできるだろう。溜息交じりに「預かっとく」と了承したユーリは、早くも帰ろうとしていたジーンを呼び止めた。
「次は無いって思ってたから誘ったんだ。アンタ、世界救ったらどっか行っちまうんじゃねえかと思ってな」
世界を救ったらどうするのか。
また旅を続けるのか、ユニオンに身を置くのか、下町に帰るという選択肢もあるし、いっそのことユーリたちのギルドに加入するという選択肢もある。
ユーリは「一緒に世界を救おう」とは言ったけれど、それは期限付きの契約だ。その後は、決まっていない。
「帝国から見てもギルドから見ても、私はただの殺人鬼よ。私が為したことは単に私と結びついていないだけで、許されるものではない。己に反した罪は背負うつもりだけど、一般的な見方としては償うつもりはないと言えるでしょう」
だから、ジーンは普通の街娘のようには生きていかない。そうする資格もない。下町に足を踏み入れるのも、これで最後になるかもしれない。
だから少し無理を言って連れてきたのだろう。世界が救われる前に。
「遠いところに行こうかな、と思う。この旅でも行かなかったような、本当にまだ誰も知らない場所へ。そこに家でも建てて、年の半分は自給自足で、もう半分は世界を流離って生きていくとか、どうかな」
「隠居か?」
「近いかも」
まだ若いのに、とジーンより若いのにジジ臭いことを言ったユーリは、「ま、そうなるだろうなって思って、大丈夫なのか心配してたんだが。アンタ生きていくためのスキルには滅茶苦茶欠けてるし……」と失礼なことを宣った後に、「どうも、その必要はないみたいだが」と首を振る。
ここに至るまでの道中で、ジーンはユーリにひとつ重大な種明かしをしていた。それを受けて、ユーリはこんな話をしている。
「アンタはちゃんと、明星に誓いを立てたんだもんな」
不殺と不変と、と指を折って、最後に肩を落として笑う。
「永遠を」
随分とロマンチックな言い方をするものだと思った。思ったし、そのまま口に出した。
「お姫様に毒されたんだよ。今度はちゃんと揃って宣言しに来い、待ってるから」
「ええ」
「いや、やっぱ今のナシ」
「え?」
悪戯っぽく笑ったユーリは、「盛大にするとアンタ絶対来ないしな」と文句をつけた。
何をかって、それはこれからの話次第だ。
「完全に忘れてたが、そういや俺たちは依頼を完遂したわけだ。『ジーンの秘密を暴くこと』。依頼主はジーン、報酬はレイヴン持ち」
「あれ、チャラにするんじゃなかった?」
「アンタから正式に取り下げの要請を受け取った記憶はねえな。だから、さ。俺から探しに行く。待っててくれよ。報酬のケーキはそっち持ちな?」
この子結構甘党だな、と今更なことを思いながらジーンは頷いた。
「伝えておくわ。うんと甘いのを用意させないとね」