「暗殺者が
その指先は、長さでも測るような気楽さで、軽く喉元に触れただけだった。冷めた目線が、一切の関心を抱かずこの身体を通り抜けていく。
ゆっくりと鎖骨の中心に向けて降りていく指先が、肉を割り開いていくように感じられた。喉の奥で、ありもしない短刀がゴツリと頚椎と衝突する錯覚をする。何が起きているのか分からないまま、本能は必死に未知の刺激を齎す相手に全神経を傾けた。
蜘蛛糸のような白髪から、泥のような瞳が覗いている。
それが恐怖であると、彼は知らなかった。
「あ、いたいた」
だだっ広い平原には目印になるようなものもなく、ふと気を抜いたら帰り道が分からなくなりそうだ。
そういう一般論を頭の中で組み立てながら、岩陰の裏を覗き込んだ。気分は湿った岩をひっくり返して虫を探す子供である。
ジーンが帰り道を見失うことも、わざわざ虫を探すことも、ありえない話だけれど。いや、虫探しは小さい頃にしたかもしれない。
「聞いてる?」
取り留めのない思考の間も反応がなくて、岩陰に縮こまっている相手にもう一度声をかける。ボンヤリとした表情は僅かにも動かなかった。
特徴的な桃色の髪に、金の差し色。黒装束には己を締め付けるようなベルトが並び、左腕部分は途中で質量が途切れ、風に靡いていた。周囲には彼のものだろう暗器が散らばっている。
「ねえ」
呼びかけて、暫し固まった。
名前、なんだったかな。
ジーンは多分一回しか会っていないと思うが、ユーリに何度もしつこく絡んできていた暗殺者。狂気的な笑い声が特徴で、確かジかズかゼか、そんな感じの濁音が着いた名前だった気がする。
「君、もう少しテンション高い感じじゃなかったっけ」
たしかそれでリタ辺りが嫌がっていたような。ジーンは結局のところ他人に興味がなくて、頭を捻ってもそれ以上のことは出てこなかった。
左手に掴んでいた革袋を彼の前に投げ捨てて、すっかり夜の更けた空を見上げる。生憎と曇り模様で、星は殆ど見えなかった。見えたところで、こうもあたりが血腥いと風情もないだろう。
ヒピオニアで大規模な魔物のスタンピードが発生してから、数日が経っている。初回の大攻勢は鎮圧したものの、以降も散発的な襲撃は続いており、リハビリがてらジーンは単騎でフラフラと魔物の大群を狩っていた。
その中で、あの大攻勢に助力した男がずっと同じ場所に留まっていることも、とっくに気付いてはいた。さあ今から腹ごなしだ、って時に一箇所の魔物だけ先を越されることが続けば、いくらジーンだって一回面を拝んでおくか、という気持ちにもなる。執着を捨てて別の道を進むなら応援する、というのも本当だし。
「こんだけ魔物の死体があれば飢えないだろうけど、水はないでしょ。君の存在は私しか気付いてないし、ユーリたちに言うのもなんか……違うかなって思ったから、差し入れ」
革袋を指さして、それで用も済んだので踵を返した。いくら夜とはいえ、あまり船を離れて彷徨いているとユーリたちにバレる可能性があった。疚しいことはしていないけど、何も言わずに出てきているし、余計な心配をかけたくない。
「ジーン・ローウェル」
だが、一歩踏み出す前に、背後から届く弱々しい声が引き留めた。正直、話したいこともないし、無視しようかな、という気持ちの方が大きい。それでも足を止めて振り返ったのは、ジーンが成長している証だろう。
「何?」
そういえばなんでフルネーム知っているんだろう。ジーンの苗字って、結構トップシークレットなんだけど。
漏れた経路をいくつか想定してみるが、どれもピンと来ない。ユーリたちが言いふらすとは思えないし、あとはデュークか、一部の
ドンに近しい古株のユニオンメンバーは情報管理も徹底的してるし、花精の足跡の構成員はもうずっと昔に皆いなくなっているし、一番有りそうなのは偶々あの日の特別なステージに参加しておらず、運良く難を逃れた帝国貴族か。それも殆ど暗殺者時代のジーンの餌食になったはずなんだけど。
もし最後のが正解だったとしても、ジーンと花精の足跡を結び付けない限り絶対に辿り着くことの出来ない情報だ。
改めて彼を見下ろしてみれば、確かにそこにいるのに、限りなく存在感が薄い。かつての様子からは片鱗しか見えなかったが、狂気的な態度を取り除けば優秀な暗殺者なのだろう。
「ジーン・ローウェル」
「だから、何?」
もう一度掠れた声で呼ばれて、眉を顰めながら聞き返す。
元から死んだ魚のような目をしていた男だったが、今現在は輪をかけて生気が失われていた。
理屈は、分かる。彼には執着と呼べるものが感じられない。だからこそジーンは、執着を消し去って新たな道を選んだのだろう、と思っていた。けれど、そう単純な話でもなさそうだ。
しつこくユーリを追いかけていた熱量がすっかり消え去って、そのついでに元からあった人格が喪失している。
ジーンの声が聞こえているのかどうか、虚ろな視線で宙を見つめていた男は、ジーンが痺れを切らす寸前を見計らったかのように再び口を開いた。
「何故、救う?」
どうして。
どうして世界を、救うのか。どうして人を救うのか。滅ぼそうとしたくせに。殺そうとしたくせに。
言葉足らずな疑問に紐付いた問いかけが、直接ジーンの脳内に飛び込んでくる。漸く慣れてきた感覚だ。ジーンはこうやって、世界と繋がっている。
多分それは、共感とか、同調とか、長らくジーンが失っていたもの。引き剥がしたエルシフルが世界の遠くに行ってしまったから、一度結びついた縁は長く長く伸び、結果的にその間に世界が挟まったような感覚。
「ああ、思い出したわ。君に会うのって3回目ね。ヘラクレスで殺しかけて、レイヴンに邪魔されたんだったかな」
ぽん、と手を打って、彼の質問へは然程気を回さず欠伸をひとつ。知らないうちに心を入れ替えたんだと思っていたが、これは多分ジーンのせいだ。
確かあの時、ジーンは彼の左腕となっていた
あの時のジーンはエアルを大量に消費するヘラクレスにいたというのもあって、今思い返せば無自覚にエルシフルの遺志に呑まれていた。
そうして多分、身に染み付いた所作のように一番簡単な動作で障害を排除しようとした。つまり、ヘラクレス停止の邪魔をする彼を殺そうとした。彼がしつこくユーリを探していたというのも、それを後押ししたように思う。
が、結果的にレイヴンが蹴り落とす形で阻止された。多分、今の彼がこうなっているのはその後遺症だろう。
ジーンにとって誰かに死を齎すということは、永遠に覚めない夢に突き落とすことと同義だ。よって、まず精神が閉じ、次いで肉体が閉じる。
何が言いたいのかというと、彼の心だけを殺した状態で中断されたんじゃないかという推測だ。単にどっかに頭をぶつけただけの可能性もあるけれど、彼のしぶとさは経歴が証明している。
「参ったな。私、心の治療というやつは出来ないんだけど」
とはいえこれをエステルに任せるのは申し訳ないが過ぎる。悲しいことに、心が死んだ奴の扱いに一日の長があるのはジーンの方だろう。当事者だし。
因みにジーンは自分の腕に自負があるから、これが治るとはちっとも思っていなかった。
「何故」
いい加減名前が気になってきた彼は、また疑問を繰り返しながらぼんやりとこちらを見上げていた。そうだ、ザギだ。そんな名前だった気がする。
「今の話を、私が君を救おうとしていると取ったの?アレクセイと言い、どうして突然こういう役回りばかりになるのかしら」
それか、世界を救おうとしている人の元には、救われたい人が集まるものなのだろうか。だとしたらジーンがユーリと再会した偶然に違う意味が生まれそうで、少し居心地が悪いけれど。
「ま、経験則上、心というやつは何回死んだって問題ないわ。だって君はまだ生きているもの。死にたい奴が生きているはずない、だったかしら。全く、無責任で呆れるくらい正論ね」
かつてのドンの言葉が正しかったとは、ジーンは断言できない。それでも間違ってはないと思うのだ。
「……ならば、もう一度」
「いいわよ」
もう一度、何なのかを言われる前に頷いたジーンに、呆気にとられたような間が空いた。表情は何も変わっていなかったけれど、光の無い瞳が漸くジーンに焦点を当てたらしい。
良い傾向だ。いくらジーンが稀代の天才興行師だったとしても、客側に見る気がなければ万全なステージは開けない。
「ステージ?」
「そう。夢を見たいんでしょう?もう一度、今度は覚めたまま見る夢を見せてあげるわ」
違うが、という無言の視線は見なかったことにして、パチリと瞬きをすれば空からナイフの雨が降ってくる。
うん、これは違うかもだ。
「君って、存外真面目な暗殺者なのね」
ギョッとしたザギが跳ね起き、地面の暗器を掴んで弾くように空を薙いだ。その全てがすり抜け肉体に降りかかるけれど、所詮は幻、地面に吸い込まれて消えていった。
もう一度瞬けば、今度は白い羽毛が空から舞い降りてくる。うん、こちらの方がそれらしい。
空に飛び立つためには翼が必要だ。
「何の、つもりだ?」
「言ったでしょう。心というやつは、何回死んだっていいの。今、君が降り注ぐ刃を前に身を守ろうと動いたように、身体がまだ生きているならいつかまた芽を出すから」
あまり似合わないな、と降り積もる羽毛に覆われていく彼を見ながら思った。ジーンの肩や頭も同じようになっているだろうが、これも別に似合っていないだろう。
「どうして救うのか、ね……」
呟きながら、星の見えない空を見上げる。
ジーンは、穴底に落ち、空を見上げながら捥げた羽をバタつかせる醜い雛だった。翼は持っていないし、空の飛び方も知らない。誰かを救うなんて大層なこと、とても出来やしない。
「でも、そうあろうとしているの。そちらの方が難しくて、多くの傷を受けて、その分、生きてるって思えるから」
奪うのは簡単だ。殺すのも簡単だ。守って慈しむ方が余程難しい。現実は無情に横たわり、大事なものを貫き通すには、それ以外を切り捨てる覚悟がいる。
それはジーンのようなものにとって酷く苦しいものだけど、そちらの方がより美しいのだ、と語って死んでいった偉大な者を知っているから、そうやって苦しんでくれと望んだ馬鹿がいるから、ジーンはこうして生きていくのだ。
「さて、疑問は解消した?私もう行かないと。悪いけど私、悪人だから、君のその後の進退までは気を遣ってやれないわ」
悲観するほどではないだろうけど。両足で立ち、武具を握り締め、ジーンを睨みつけている姿を見ながらそう思った。
周りに散らばる魔物の死体は、一撃で仕留められた見事なものだ。彼はどうしてこんな所で延々と魔物を倒していたのだろうか、なんて疑問の答えは多分、ジーンと同じだ。
何故、と問いかけた時点で心を奪われているのと同義。十分に観察され、真似をされ、何か思うことがあったから答えを求めた。本当に、アレクセイといい、ジーンが人を導く立場になるとは。
「いえ、夢を見せるとはそういう事ね」
踵を返す寸前、持ち歩いていたダガーの一つをザギの足元に投げつけた。ジーンの仕事用のものだ。
今のジーンは座長なので、開店休業状態だった軽業師に復帰するつもりはない。そうなるとこの世界に名うての軽業師がいなくなるということで、それはちょっと勿体ないから。
「この世界と繋がる方法は一つじゃないわ。客が取れるようになったら、ユーリと見に行くから」
「この俺に、ただの人のように生きろと?」
「今もただの人でしょう」
「貴様が、人にした」
恨まれているのだろうか、とその低い声に考える。
殺した人間に恨まれることがあるのかどうか、ジーンは知らなかった。そんな相手が生きて罵ってくる経験なんてあるわけないし。エルシフルだけが唯一の例外で、彼は恨みを残さなかった。
「そうね。暗殺者というものは元より人ではない、人でなしだもの。死んで人間になるなんておかしな話だけど、生きてもないならそういうこともあるでしょう」
「お前は?」
「人間がベラベラと喋るのは大抵、自分の経験を大袈裟に語る時よ」
一度外道に落ちた者にはそれ相応の報いがあるものだ。二度と元には戻れないし、犯した罪を償いきる方法もない。罪を責め立てられれば償っている気持ちになれるけど、死人は生者を恨まない。
これからジーンがどれだけの人を助けたって、この手が血に濡れた過去は変わらず、許されることもない。それはこの男も同じこと。
けれど、人は矛盾を孕む生き物だから、血濡れたままでも光に手を伸ばすことが出来る。必要なのは、そこに光があると知れるかどうか。容易い道に流されず、選んだ道を歩き切る覚悟があるか。
「人が変わるためには、それまでの自分が死ぬくらいの衝撃が必要なんだろうとは、思うわ。お互いね」
「……そうだ。その点お前は、恐ろしかった」
「へえ?良い事ね、怖いものがあるのは、生きている証拠だわ」
白い羽が雪のように降り積もっていく。ジーンが歩き去るにつれ、あの岩陰は雪解けのようにその白が消え去っていくだろう。
誰も知らない、世界の片隅の零れ話。昔むかし、ある暗殺者は雪の日に産まれたという。
真っ白に漂白された後に何が芽吹くかは、本人のみぞ知る話。