一握りの土を掌に広げると、案外様々なものが入り交じっていることに気付く。大陸が違えば植生が違い、気候が違い、それが顕著に表れるのが土だ。
負けて地べたに這い蹲ると言うが、そういう時にふと土の違いが目に入り、長く旅をしてきたものだと感慨深くなるのだろう。
「ま、私が体験する日は来ないだろうけど」
「では何故今その話をしたのかね」
「聞きたい?」
「いいや、全く」
即座にノーを突きつけられて、ジーンは目の前で地べたに這い蹲っている男を見下ろした。
病院着に毛が生えたような簡素な身なりは、とても世界を旅する者の装いとは思えない。
木剣一つ、鞄一つ、身一つ。
それが、明らかに体格差のある女の前で無様に敗北した男の全財産だった。
「やはり、筋力の衰えばかりはどうしようもないな」
「え、嘘。全盛期でも私に勝ててないのに、筋力がどうこうとかいう話なんだ」
「君に勝つことは、私の目的ではない」
苦々しげに言い放って、男は身を起こした。くすんだ灰色の髪は元々一つに結わえてあったが、髪紐が切れてしまったらしい。煩わしそうに掻き上げながら、落ちた木剣を拾いに歩いている。
上背の割に体の薄い、けれどもしゃんと背の伸びた男だった。これで実際、昔と比べたら見る影もなく筋肉が落ちているのだから、彼の言うことも一理はあった。
袖の隙間から覗く両腕には薄く沈着した傷跡が見え隠れしている。それは全身に広がり、顔の左半分までをも覆い尽くしていた。左目は使い物にならなくなっなっているので、ジーンと左右対称のように眼帯が収まっている。
「アレクセイ」
戯れに彼の名を呼んで、ジロリと睨みつけてくる視線をに肩を竦める。
アレクセイ・ディノイア。帝国騎士団元騎士団長にして、数多の悪事の黒幕。星喰みを招いたザウデ不落宮にて公式的には命を落としたことになっており、その実数奇な巡り合わせで重症を負いながらも生き延びた、諸悪の根源。
「ルーカスだ。その名で呼ばないでくれと何度言えばいい?」
「自分の名前が浸透しきっていないなら、君の努力が足りないんじゃない?」
もの凄い眼力で射抜かれたが、所詮ジーンに負けた男の戯言だ。長きに渡る療養生活は高潔な騎士団長と謳われた彼をモヤシ同然に弱体化させ、かつて軽々扱っていた長剣を振り回す力も失わせていた。
第一級犯罪者である彼が武力を失う分には誰も困らないのだけど、そうなるとリハビリと称してアレクセイ、もといルーカス相手に白星を積み重ねているジーンが悪いことをしているみたいだ。
名前を変えたら、というアドバイスを素直に聞き入れ、アレクセイはその後ルーカスと別名を名乗るようになっていた。
現在の身分としては、帝国の追放者。
瀕死の状態で騎士団に匿われていたのはもう何年も前の話だ。ジーンが施した治療によって驚異の回復を遂げた彼は、その知識や罪、経験の全てを洗いざらい吐かされた後、新たに即位した皇帝陛下の特赦によって、帝国領土からの追放刑という犯した罪からは軽すぎる罰を言い渡されていた。
そこまでであればまだ良かったのだ。ジーンとは関係の無い話だし。
「どうする?もう一本する?」
「いや、結構。今日はもう君から得られるものはないだろう」
「あ、そう」
頼んできたのはそっちなのに偉そうな、と心の中で文句をつけて、離れたところに張っていたテントに戻る。
帝国支配圏の街には大っぴらに顔を出せず、かと言ってギルド側からも恨まれているアレクセイには、行く宛てがない。オルニオンのような街もあるけれど、彼らだって元は帝国やギルドの人間な訳で、騎士団長アレクセイを知っている可能性は大いにあった。
とはいえ、髪を結って素朴な服に身を包み、顔も半分傷跡に覆われているとなれば、まさか死んだはずのアレクセイ本人とは思われないだろう。そういう意味ではアレクセイが自粛している、と捉えてもいいかもしれない。
必要最低限の物資を得るために商隊に接触することはあるにしろ、今の彼は拠点を持たずに世界各地を点々と旅する流浪者だ。
そして、そういう意味ではジーンと全く同じ立場であった。
その辺で適当に拾い集めた枝で小さな山を作って、薬缶を片手に火打石を掴んで即見なかったことにした。一度勢い余って粉々にしてから、どうにも苦手だ。指をパチンと鳴らして済ませることにする。
「あの男が何度も忠告していると思うが、くれぐれも人前で術を使わないでくれたまえ」
「そもそも私のところに来る人間がどれだけいると思ってるのかしら。君の前となると、去年のカロルくんよ」
魔術で焚き火をつけただけでネチネチと。小規模なことしか出来ないとはいえ、この些細な術一つが、今の世界にとってはジーン程のけったいな経歴がなければ成せない奇跡なのは確かだけど。
どれも、デュークとの決戦を最後に人里を離れたジーンにとっては遠い世界の話だ。稀に魔物討伐依頼を受けている時に、明かりのない夜の街を遠目に見かけるくらい。
「そういえば、リタちゃんがエアルを使わない兵装の実験に成功したって聞いたわ」
「世捨て人の割に耳が早いな。副帝陛下経由か?」
「エステルちゃんと文通してるって、ユーリには言わないでね。あの子、知ったら拗ねて口を利いてくれなくなるわ」
「自業自得だろう」
「だって、毎度探してくれるの健気で可愛いんだもの」
貴様が逃げ回っているからだろう、と口から零れるのをグッとこらえたアレクセイは、ジーンが適当に火にくべた薬缶を持ち上げ、位置を調整してから置き直した。
この男は生来曲がったことが嫌いで、ついでに世話焼きなんだとか。それが本当かどうかは知らないけれど、昔を知る人間がそう言うのだから、取り敢えずは信じることにしている。
「それで、今度はまた何の用?」
「世捨て人は暦の感覚もないらしい。そろそろダングレストの大襲撃の時期だ」
「ああ、もうそんな頃なのね。リマインドどうも」
それで、と問いかけた疑問の体勢のまま、ジーンはアレクセイを見上げる。
まさかそんなことの為だけにこんな山奥までジーンを探しには来まい。いくら彼がちょっとした事情のせいでジーンの居場所に詳しくても、ジーンの耳にダングレスト近郊での魔物発生の知らせが届く経路などいくらでもある。
「今回、久しぶりにギルド対抗の討伐戦が再開されるそうだ」
「ふうん、まあ結界がなくなって、ドンもいなくて、
「そうだな、ユニオンの新たな主導者も板に付いてきた頃だ。だが問題はここからだぞ、ジーン・ローウェル」
「待って、嫌な予感がしてきたわ」
そういえば、何故アレクセイとジーンがこんな山奥で手合わせをする事になったのか、今のアレクセイとジーンがどのような関係を築いているのか、肝心な話をし忘れていた。
「報告だ、
アレクセイが唇の端を釣り上げて、悪役さながらの笑みを浮かべる。座長と、そう呼んだ相手はジーンのことで間違いない。その呼び名をジーンがされたくないと思っていることを重々承知の癖に、「それ以外に何と呼べばいいのかね」とばかりに自己の正当性を主張している。
時に、アレクセイに特赦が出された際、皇帝陛下直々に下された条件があった。アレクセイはそれを快諾し、「皇帝陛下へ多数の進言があったのだろう」と鼻で笑いもしていた。
条件は一つ。罪人アレクセイはギルド『
つまり、「お前が治したんだからお前が責任取れよ」、とジーンに監督責任を押し付けたのだ。
結果として、所属者がいなかったはずのギルドの第一メンバーは何の芸も出来ないアレクセイと相成り、ジーンは定期的に、とは言っても人を介してにさせてもらっているが、帝国とギルドユニオンへアレクセイの近況を報告する義務を負った。
これでジーンが失踪することはなくなった、と大喜びしていたカロルに文句をつけるのは憚られたが、その後ろでニヤニヤしていた入れ知恵しただろう面々にはしっかり文句をつけておいた。とはいえ断れなかったのはジーンが彼らに甘いから、だろう。
「もう解散しよっかな、うちのギルド」
「君と私がエルシフルの残滓を縁に互いを把握出来る以上、如何なる名目であっても監視責任は負わされると思うがね」
「分かってるわよ!エルシフルも厄介な置き土産しやがって。というか、流石にものを考える意思はないからデュークよデューク、絶対」
「指向性を弄ったのは彼だろうが、元はと言えば君が私の意思を無視して治療を試みたのが原因だろう」
「治そうとはしてないわ、結果的に治っただけで」
「いや、その前にザウデで私を生かしたところからだな」
それは全くもってそうなので、この話においてジーンは敗北続きだ。
「それで?ギルド活動なんかしたことないルーカスさんは、今更ボスに何の用?」
「何、傲岸不遜にも我らがギルドへ挑戦状が出されていてな。忠実なる部下である身として、座長殿は知らないだろうと知らせに参っただけのこと。なんでも、今回の討伐戦において
「は?」
「まさか、漸く盛り返してきたダングレストの祭典を台無しにする訳にもいくまい?彼らも考えたものだ。ギルド対抗を謳う以上、存命中の討伐戦タイトルホルダーが所属するギルドを競争対象として挙げるのはさして不自然な話でもない」
「やっぱ解散しよっかな、うちのギルド」
そんな騙し討ちみたいな、と確実に運営側で関わっているだろう凛々の明星やハリーたちを思い浮かべる。
彼らがサプライズを企むのはまあいいとして、報連相が出来ていない連絡係の存在が確定している方が問題だ。具体的にはレから始まってンで終わるやつの話。
「帰ってきたらとっちめてやる」
「そういう本人は何処へ行った?ダングレスト近郊では見かけなかったが」
「一昨日まではいたんだけど。騎士団の方よ、ちょっと手が足りないとかで」
未だにあっちへフラフラ、こっちへフラフラ、と中途半端な立ち位置をキープしているレイヴンは、
一応、どちらも副業という扱いで、専らジーン──と、ジーンに紐づいているアレクセイ──とギルド、帝国とのパイプ役に徹していることが多い。ジーンは放浪しながらエアルクレーネの巡回や各大陸の魔物の間引きをしていたりするので、妙な兆候が見られればレイヴンが各地を飛び回って調整することになる。
そうでもなければ、まあ。簡単に言えば、ジーンとレイヴンは同じ舞台の中にいる、ということだ。
「なるほど、これは体よく君の世話を押し付けられたな」
「は?どういう意味かしら?」
「最後に火の通った食事を取ったのは?」
勝ち誇ったような表情で、アレクセイは嫌味たらしくテントの周辺を見渡した。そんな所を探しても何もあるわけが無い。アレクセイの探し物は、テントの中で積み上がっている空の弁当箱だろう。
「今朝よ」
「作り置きの?」
「うるさいわね」
一応弁明しておくと、見ての通りジーンにだって火起こしくらいは出来る。最近は作り置きの弁当がなくなる前にレイヴンが戻ってきていたというだけで、必要に駆られたら多分何とかなるものだ。確かにジーンは生きるために必要なことが大体上手くないけれど。
レイヴンの方は、仕事が思ったよりも長引きそうとなった時に丁度アレクセイがダングレストの近くで情報収集していることを知って、それならあと数日は何とかなるだろうという算段をつけたに違いない。
レイヴンからアレクセイに向ける信頼はあの旅の後に少しずつ再構築されていったもので、今では不在の間ジーンを任せるくらいにはなっているらしい。こっちの意向を無視している辺りが実に彼らしかった。
どうせダングレストで合流出来るわけだし、放置されてキレたジーンは魔物を狩らせてストレス発散させればいいとか思ってそう。
「なるべく早くダングレスト入りしなくてはな。私とて、かつての部下の信頼を裏切りたくはない。余計な濡れ衣を着せられるのもな」
「……まあいいわ、ちょうど温かいスープが飲みたいと思ってたのよね。あと最近山ばっか見てたから海の幸と、デザートにはエステルちゃんの手紙にあったレシピのやつでよろしく」
「少しは遠慮したまえよ」
「座長命令です」
どうせ言うと思った、みたいな態度で焚き火の前に座り込んだアレクセイは、いそいそと鞄から食材を取りだしている。
存外この人は丁寧な生活をしていて、レイヴンの言う通り、曲がったことが嫌いで、世話焼きなのだ。