世界は、音から生まれた。
はるか太古――まだ大地も空も形を持たぬ頃、虚無を満たしたのは一筋の旋律だった。それは澄み渡る清音であり、世界に秩序をもたらす響き。旋律は重なり、和を成し、やがて大河のような交響となって宇宙を包んだ。
その調べは、後に「聖音・シンフォニクス」と呼ばれる。
聖音は生命を育み、心を震わせ、無数の存在に「生きるリズム」を与えた。鳥が歌を持ち、風がさざめき、海が潮騒を奏でる。すべては聖音の余韻だった。
だが――。
旋律の影から、必ず「歪み」が生まれる。
清らかな響きは、やがて重圧となり、均衡を嫌うものを生んだ。それは雑音、ノイズ、破壊の衝動。聖音の和を打ち破り、ただ自己の叫びを放つための音。
こうして「邪音・ディストーダー」が生まれた。
現代。
街の片隅で、再び沈黙が芽生えつつあった。人々はそれを「音消失事件」と呼んでいる。だがそれは偶然の異常現象ではない。
邪音が目を覚まし、人間の心の歪みに寄生し、怪物へと変じていたのだ。
その名は――ノイズ。
怒り、嫉妬、虚栄、絶望。負の感情がディストーションのように増幅され、人の姿を壊し、音を奪う存在へと変貌する。
彼らは世界の音を喰らい尽くし、完全なる沈黙――「虚無の交響曲」を奏でようとしている。
*
――音が聞こえる。
暗闇の中。
どこからともなく、一筋の旋律が流れてくる。
それは透き通るように澄んだヴァイオリンの音色だった。やがてピアノが重なり、管楽器の響きが寄り添う。夢の中で、その音の波に飲み込まれていった。
見渡す限りの闇に、光の粒が浮かび上がる。粒は音符の形をしており、舞い踊りながら彼の周囲を取り囲んでいく。やがてそれは、巨大な五線譜のように空へ伸び、まるで世界全体が譜面となるかのようだった。
その旋律は――彼を呼んでいる。
「……俺を?」
声に出した瞬間、闇の中から答えが返ってきた。
―― お前の音を、信じよ
それは柔らかくも厳かな声。
男性でも女性でもない、ただ“音そのもの”の響き。
和音は震えながらも、その声に手を伸ばした。
しかし次の瞬間――闇に裂け目が走り、甲高い雑音が流れ込んでくる。
耳をつんざくようなノイズ。
五線譜が破れ、光の粒が黒く染まり、音符が砕け散る。
「やめろ……!」
和音の叫びも、ノイズに飲み込まれる。
そこに現れたのは、無数の影。
歪んだスピーカーのような顔を持ち、血のように赤い目を光らせる怪物たち――ノイズ。
彼らは囁く。
――「お前には無理だ」
――「お前は音を壊す者だ」
――「お前が選ばれるはずがない」
その囁きは和音の胸の奥に直接突き刺さり、記憶を呼び覚ます。
和音の視界が揺らぎ、夢は過去の光景に変わった。
――中学二年の頃。
和音は合唱部に所属していた。
父はクラシックのヴァイオリニスト、母は声楽家。
幼い頃から音楽の中で育ち、期待を背負わされてきた。
「和音ならきっと才能を開花させられる」
「
教師も仲間も、皆がそう口にした。
だが、その日は違った。
合唱コンクール本番。
和音が指揮者としてステージに立ったとき、心臓が跳ねるように早鐘を打った。
緊張で手が震え、タクトがうまく振れない。
曲は崩れ、歌声は乱れ、演奏は無残に終わった。
会場に広がる沈黙。
仲間たちの落胆。
観客席から聞こえたのは、失望と嘲笑。
「やっぱり二世でも才能はないのか」
「父親の名前だけじゃな」
その言葉が、和音の心を深く抉った。
父は何も言わなかった。
ただ冷たい眼差しで舞台を見つめていた。
母は帰り道で「あなたは本当に音楽に向いていないのかもしれない」と呟いた。
――それ以来、和音は「自分の音」を信じられなくなった。