午後の喫茶店。ガラス窓から射し込む柔らかな光が、テーブルに置かれたカップの縁を淡く照らしていた。和音と美羽は並んで座り、ほとんど口をつけていないコーヒーを前にしていた。向かいにいる人物の存在に、ただ緊張で喉を動かすこともできずにいたのだ。
その人物——光上レミ。
彼女は静かに紅茶を口に運び、その所作ひとつひとつが自然に視線を奪っていく。長い髪は艶やかに流れ、整った顔立ちは「可愛い」というより「美しい」と表現するほうが正しい。彼女の纏う雰囲気は、芸能人特有の距離感ではなく、もっと不思議な気品をまとっていた。
美羽が小さく息を飲む。
(本物の……ひかり先輩……!)
数時間前。Audexのオフィスで告げられた言葉が、和音の頭をよぎる。
「次の楽曲提供の相手は——“陽向ひかり”だ」
その名を聞いた瞬間、和音も美羽も目を見開いた。
陽向ひかり。Vtuber界の伝説と呼ばれる存在。華やかなビジュアルと透き通るような歌声で、投稿する楽曲は常に百万人単位で再生され続けている。現在の登録者数は五百万人を突破。まさに、Vtuberという枠を超えた「歌姫」として知られていた。
だが――そこには裏があった。
「ひかりの中の方は光上レミさん。……実は音痴なんです」
海瀬の言葉に、和音は一瞬耳を疑った。
音痴。つまり、世間を熱狂させてきた歌声は、徹底的な編集と調整によって生み出された“虚像”だったのだ。
そしてAudexからの依頼は、次の大型企画・陽向ひかりのチャンネル登録者五百万人記念3Dライブ。そのトリを飾る新曲の提供。そして、レミ本人への歌唱指導。
「……は?」
和音は思わず声を漏らしていた。
「つまり、レミさんが“生歌”を初披露するってことだよ!」
美羽が興奮を隠せずに叫んだ。
だが和音にとっては衝撃だった。自分が作る曲を、今まで「歌姫」と呼ばれながら実際には歌えていない人間に託す。その重圧は想像以上だった。重圧よりも、自分は歌唱指導をしたことがない。それなのに何故、それを自分に振られるのか。
「どうして俺たちに……」
「決まっているだろう」
鳴子が笑った。
「君の曲は人の心を揺らす。
虚像ではない“光上レミ”にそれを歌わせることで、新しい伝説をつくる。
それがAudexの狙いなのよ」
そうして今、目の前にいるのが光上レミ。世間が憧れる歌姫の正体は、ただ紅茶を口にしながら小さく緊張を隠す女性だった。
「……すげぇ」
和音は呟き、視線を泳がせる。自分がこれから導かねばならない相手が、あの陽向ひかりの中の人だという現実に。
一方、美羽は真っ直ぐにレミを見つめていた。目は輝き、尊敬と期待を込めて。
「ずっと動画で見てました! ひかり先輩の歌声、本当に大好きなんです!」
レミは少し驚いたように目を瞬かせ、それから控えめに笑った。
「ありがとう。でも音乃瀬さんと響野さんは社長から私の事情は聴いていると思うけど、音痴なのは事実。お二人にはご迷惑をおかけしてしまうけれど、今回ばかりは逃げたくないの。どうか、力を貸して下さい」
レミは2人にゆっくり頭を下げた。そのレミの姿に、和音の胸はますます重くなっていった。美羽のきらめく視線と、レミの影を落とした表情。その狭間で、和音は自分の役目の重さを痛感していた。
和音は、それから数日間、レミと美羽の二人と共にレッスンスタジオに通うことになった。そこはAudex専用のレッスンルーム。防音設備と最新の発声サポートシステムが備えられ、数多のアーティストがここから羽ばたいていったという由緒ある場所だった。
「じゃあ、今日は発声の基礎からやりましょう」
和音がピアノの前に座り、鍵盤を軽く叩く。ド・レ・ミ・ファ・ソと音階が流れる。
「……あ、あぁ〜……あ、あ〜……」
レミが声を出す。
音は外れ、リズムも揺らぎ、まるで細いロープの上をよろけながら歩くような不安定さだった。
「……」
横で聞いていた美羽は思わず目を丸くする。
(ここまでとは……)
和音も胸の奥で苦い息を吐く。覚悟していたが、予想以上だった。
だが、レミは必死だった。汗を浮かべ、喉を押さえながらも繰り返し声を出し続ける。その真剣な姿に、和音は言葉を失った。
(下手でも……この人は本気で“歌おう”としてるんだ)
「大丈夫です、先輩!」
美羽が明るい声を上げる。
「私も一度もレッスン受けた事が無いので、正直スタートラインは一緒です!!」
彼女は自分も並んで音を出す。
「ら〜ら〜ら〜♪」
伸びやかでまっすぐな声が響く。
それに合わせてレミも声を重ねるが、音程はずれ、調子も合わない。しかし美羽は気にせず、にこにこと隣で歌い続けた。
「先輩の声、すごく優しいです。きっと届きますよ!」
「……ありがとう」
レミは微笑もうとするが、胸の奥には針が刺さるような痛みが広がる。
美羽の声はまるで陽射しのように眩しかった。レミがどれだけ練習しても掴めない音を、美羽は自然に掴んでしまう。
――私は“伝説の歌姫”として崇められているのに。
どうして、まだ舞台にも立っていない彼女と比べて、こんなに惨めに感じるの……?
その後もレッスンは続いた。音階練習、腹式呼吸、リズム取り。美羽はどれも一発で要領を得て、和音に「センスがある」と褒められる。一方レミは何度やっても音が外れ、呼吸は乱れ、足並みが揃わない。
「も、もう一度……お願いします」
声を掠れさせながらも、レミは食い下がる。和音は真剣な瞳に心を打たれ、根気強く繰り返し指導した。
美羽はそんなレミの姿に尊敬を隠せなかった。
「すごいです先輩! あたしなら絶対投げ出してます!」
「……ほんとに?」
「はい! あたし、先輩みたいに一生懸命な姿を追ってVtuberという扉を叩いたんです!」
レミの胸がぎゅっと痛む。憧れの言葉が嬉しいはずなのに、その裏で「彼女の方が自分にふさわしいのでは」と恐怖が囁く。
――数日が経った。
その日もレッスンを終え、美羽と和音に笑顔を見せて別れた。
だが足はまっすぐには帰らなかった。
ふらりと立ち寄ったのは、小さな公園だった。夜の帳が下り始め、街灯に照らされたベンチやブランコが静かに影を落としている。
レミは深呼吸し、声を出した。
「……あ、ああ……あああ〜……」
音程は揺らぎ、虚空に吸い込まれていく。彼女は唇を噛みしめ、もう一度挑戦する。けれど何度やっても、求める音には届かない。
(どうして……どうして私だけ、こんなに……)
その時だった。通りすがりの若者たちの笑い声が耳に刺さる。
「マジで外れてたよな」
「アイドル目指してる子? ヤバすぎ」
ただの雑談に過ぎなかったのかもしれない。だがレミには、全てが自分を笑っているように聞こえた。
心臓が縮こまり、視界が滲む。
(……やっぱり私は、“歌姫”なんかじゃない)
「その痛み、とても甘美だわ」
艶やかな声が背後から降ってきた。振り返ると、黒と深紅のドレスを纏った女が立っていた。長い金髪が闇に映え、赤い唇が妖艶に弧を描いている。
「だ、誰……?」
「私はレディ・オペラ。あなたの苦しみを救いに来たの」
彼女の手には、禍々しい輝きを放つ円盤――ノイズディスク。
「これを手にすれば、誰よりも美しい歌声を得られるわ」
「そ、そんな……」
レミは首を振り、後ずさる。
だがレディ・オペラの視線は鋭く、レミの胸を射抜く。
「あなた、不安でしょう?
生歌の舞台で、笑われることが。
……美羽という少女に追い越されることが」
「!」
レミの呼吸が止まる。心の奥で隠してきた劣等感を、彼女は完璧に突き刺してきた。
「虚像の歌姫、陽向ひかり。その仮面の裏はただの音痴な作られた歌姫。怖いのでしょう?」
胸が軋む。美羽の澄んだ声。和音に褒められる姿。隣で必死に足掻く自分。そのコントラストが、心をずたずたに裂いていく。
「……わたし……」
震える指先が、差し出されたノイズディスクへと伸びる。
「そう。それでいい。あなたの本当の声を、私が引き出してあげる」
レディ・オペラの囁きに導かれるまま、レミはその手を取ってしまった。黒い光が彼女の胸の奥に灯る。抗えなかった。彼女は己の弱さに飲み込まれ、禁断の円盤を受け取ってしまったのだった。
*
ゲネプロ(最終リハーサル)当日。照明の熱と、音響の反響が渦巻く広いスタジオに、和音、美羽、そして光上レミの三人が並んで立っていた。
「本番と同じつもりでいきます。大丈夫ですか?」
和音が確認する。
「……はい」
レミは小さく頷いた。その笑顔の裏に、張り詰めた不安が滲んでいることを、和音も美羽も気付いていた。
カウントが入り、音源が流れる。
煌めくようなトラック。華やかでポップなメロディ。それは“Vtuber界の歌姫”にふさわしい楽曲だった。
「いけます、先輩!」
美羽が隣で軽く声を重ねる。その声は眩しいほど安定していた。
レミは喉を震わせる。
「……あ、あぁぁぁ〜……」
――外れる。ほんの少しのズレでも、モニターを通すと大きな亀裂になる。
「ちょっと外れてますね、もう一度!」
スタッフが明るく声を掛ける。それは決して悪意のない指摘。だがレミには、その一言が槍のように胸を突いた。
(笑われてる……?)
背後からスタッフ同士の囁きが聞こえた気がする。
「やっぱ素人かよ」
「これで歌姫って……」
ありもしない言葉が脳裏で反響する。
そして横を見ると、美羽が真剣に和音の指示に耳を傾けている姿が目に入る。伸びやかに響く声。ブレのない音程。
――比べる必要なんてないのに。
それでも、差は歴然だった。
(響野さんは……私より才能がある。音乃瀬さんだって……)
頭の奥で妄想が膨らむ。和音が冷たい目で言い放つ。
「もう君に用はない。陽向ひかりなんて偽物だ」
スタッフが笑いながら背を向ける。
「やっぱり期待外れだよな」
観客が一斉に呆れ顔を向ける。
「歌下手すぎ」
「伝説なんて嘘じゃん」
現実には存在しない声が、次々と彼女を侵食していく。そして、自分のソロパートが訪れた瞬間——胸の奥で黒い熱が爆ぜた。ポケットに忍ばせていたノイズディスクが赤黒く脈動し始める。
「……あっ……!」
強制的に共鳴し、レミの体を覆う。光が弾け、邪音が会場を包み込んだ。
「レミさん!?」
美羽が叫ぶ間もなく、彼女の身体は黒いスモークに呑み込まれた。
次の瞬間、そこに立っていたのは光上レミではなかった。きらびやかなステージ衣装が、歪んだキャンディポップのように変容している。甘さと毒を併せ持つその姿——ポップノイズ。
「いやぁぁぁぁっ!」
スタッフが悲鳴を上げて逃げ惑う。機材が倒れ、モニターが破裂する。ポップノイズは甲高い笑い声を上げ、リハーサル会場を飛び出した。暴走する本能が彼女を広場へと導いていく。
人で賑わう駅前の広場。買い物帰りの人々が、突如現れた異形の存在に悲鳴をあげ、四方八方に逃げ散っていく。
「ひ、ひぃっ! ばっ…バケモノ!?」
「警察! 誰か呼んで!」
ポップノイズはその声すら甘美な嘲笑に変え、甲高い歌声を放った。それは不協和音のような超音波となり、街灯を砕き、窓ガラスを震わせる。
――その前に、和音が立ちはだかった。
「光上さん……!」
拳を握り、ソニックドライバーを装着する。
《
《
《
「変身ッ!」
光の波紋が広がり、粒子が装甲のように和音の身体に吸い寄せられ、次々と結晶化していく。ヘッドセット型のバイザーが閉じ、紅い光が視界を覆ったソニックはゆっくりと拳を構える。
「さぁ、作曲開始だっ!」
ポップノイズが嘲るように奇声を上げ、跳びかかる。鮮やかなドレスが裂け、鋭い爪と化した腕がソニックに襲いかかった。ソニックは咄嗟に腕で防御する。しかし衝撃は重く、体が後ろへ弾かれる。
(くっ……! コイツも力が強い!)
続けざまに、ポップノイズが声を張り上げる。
「アアアァァァアーーーッ!」
その絶叫は空気を振動させ、目に見える波紋となって街を叩いた。ソニックの体が大きく揺らぎ、耳をつんざく痛みが襲う。
「ぐっ……!」
膝をつくソニック。ポップノイズは攻撃の手を緩めない。旋律に乗せた嫉妬と不安が、邪音という刃に変換され、何度もソニックを切り裂いていく。
(こんなにも……負の感情が……! これじゃ互角どころか、押される……!)
街の人々が逃げ惑う中、美羽が2人の近くまで駆け寄った。
「和音! しっかりして!」
「……大丈夫だ」
ソニックは立ち上がろうとするが、ポップノイズの一撃が胸を直撃し、再び地面に叩きつけられる。
「う、あぁぁぁっ!」
その姿を、広場の隅で見ていたレディ・オペラは、愉悦の笑みを浮かべていた。
「ふふ……甘いわね。嫉妬と劣等感は最高の楽器。さぁ、もっと奏でなさい」
ソニックの動きが鈍くなる。ポップノイズはその隙を突き、鋭い爪を振り下ろそうとした。
「やめろっ……!」
和音の叫びも空しく、刃が迫る。
《
その時、空気が低く震えた。
黒を基調に、ネオンブルーのラインが流れる戦士が現れた。夜の闇を切り裂くように立つその姿は、まるで“音そのもの”が具現化したようだった。
「……誰だ?」
ソニックが問いかける。
戦士は静かに、しかし力強く答えた。
「仮面ライダービート。お前と同じ、仮面ライダーだ」
名乗りと同時に、低音のキックが心臓に直接響くようなビートが広場全体を震わせた。ビートは腰のベルトにあるフェーダーへ指を伸ばした。カチッ、とフェーダーが押し上げられる。
《
直後、彼の動きが一変する。リズムが倍加したかのようにステップが速まり、ポップノイズの突撃を軽々とかわす。一瞬の加速で背後に回り込むと、鋭い右ストレートを叩き込む。衝撃はまるでスネアドラムの鋭い一撃。ポップノイズの身体が揺れた。
「BPMを……変えてる?」
ソニックが目を見開いた。それはソニックと同じテンポを変える能力だ。しかし、自分と明確に違うのはそのテンポを細かく変化させている事。ビートは再びフェーダーが操作する。
《
速度がさらに上がり、残像が幾重にも広がる。細かいリズム変化で、ポップノイズは完全に翻弄されていった。そして、ビートは腰のホルダーから一枚のディスクを取り出した。それは、かつてメタルノイズが使っていた邪音のディスク。
「重低音が足りねぇな…。ならコイツだろ」
《
ディスクが青白い光に包まれ、音声が鳴り響く。そのままアイアンメタルディスクをベルトに装填されていたディスクを取り出し、装填する。
「ビートチェンジ」
《
鋼鉄の重低音が轟き、装甲が金属質へと変化する。肩や腕に重厚なメタルパーツが展開し、まるでリズムマシンが鎧へと変わったようだった。
ポップノイズの音撃が降り注ぐ。しかし、ビートは動じない。鈍く光る装甲が音の刃を弾き返し、逆に拳を叩き込む。再びフェーダーが操作される。
《
BPMを落とし、鋼鉄の重量を最大化した重撃。ドラムのバス音のような拳がポップノイズを吹き飛ばす。
さらにビートはベルトのフェーダーを上げる。
《
今度は速度を優先し、嵐のようなラッシュを浴びせた。テンポを自在に操り、攻防を入れ替えるリズムの戦術。ポップノイズは成す術なく追い込まれていく。
「ラストフックだ。盛り上げていくぜ」
ビートはドライバーのフェーダーをカチッ、カチッ、カチッ、と三連続で切り込む。
《
重低音が轟き、必殺の待機音声が鳴り響く。腰を沈めたビートの足元に、ソニックと同様にスペクトルのような音の波形が出現した。フェーダーの上下に合わせてスペクトルが脈打ち、上下動を繰り返す。
その波形が一点へと収束していく。
《
右腕にスペクトルが凝縮し、巨大な光の鉄拳が形成された。ビートはそれを振り下ろし、ポップノイズの胸を砕かんと迫る。
「やめろおおっ!」
ソニックは直感的に走り出していた。レミが必死にレッスンを続けていた姿。涙をこらえ、不安に怯えながらも歌おうとした姿。それが脳裏をよぎった。
《
《
赤い残像が閃き、ソニックの蹴りがビートの拳と正面から衝突する。光と衝撃波が炸裂し、広場全体を揺るがせた。
「何!?」
「彼女は……倒す相手じゃない! まだ救えるんだッ!」
ソニックの叫びが響く。
拳と蹴りが拮抗し、赤と青の二人の仮面ライダーが火花を散らして睨み合う。その瞬間、ただの戦いではない、新たな対立の幕が開かれたのだった。