青春ブタ野郎はパラレルスプリングの夢を見ない   作:もドえラん

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まずは嬉しいお知らせがありましたので、前書きにて書かせていただきます。

本日、咲太役の石川界人さんと、のどか役の内田真礼さんのご結婚が発表されました。心からお祝いをお伝えします。

作品のファンとしては、咲太が麻衣さんではなく、どこかの可能性の世界でのどかと結ばれたかのような、そんな不思議な縁を感じる青ブタ婚だなあと感じました。

お二人の末永い幸せを願いつつ、今回の物語をお届けします。



4.残らない記録と、託された想いを抱える

 

 十一月七日

 

 文化祭から数日。

 

 文化祭は、古賀と咲太のおかげで、思っていた以上に楽しく過ごせた。ふたりの掛け合いを横で見ているだけで退屈しなかったし、古賀の憂鬱も少しは晴れたようだった。

 

 ——ただ、その一方で。

 

 人混みの中で見かけた“あの子”のことが、どうにも頭から離れなかった。

 

 階段の踊り場で、手すりを掴み損ねて転げ落ちそうになった少女。咄嗟に腕を伸ばして助けた。

 

 そのときのか細い声も、荒い呼吸も、今でもはっきり覚えている。

 

 けれど不思議なことに、記憶には確かに残っているはずなのに、ノートにもタブレットにも残したはずの記録が、気づけば曖昧に欠け落ちているのだ。

 

 俺にとって“記録”は拠り所だ。なのにそれが当てにならないとなれば、自分ひとりで抱えるより——誰かに相談してみるのも一つの手だ。

 

 もし思春期症候群に関してなら、話せる相手は限られている。

 

 結局、足が向いたのは双葉のところだった。

 

 放課後、俺は双葉と一緒に物理実験室にいた。

 

 壁際には使い込まれた発光装置や分光器が並び、窓の外には傾き始めた陽が差し込んでいる。

 

 「……で、この前の文化祭のさ」

 

 タブレットを開きながら、俺は話を切り出した。

 

 「感想を言いに来たんだ。展示、じっくり見れてよかったよ。内容も整理されてて、見やすかった」

 

 双葉は手を止め、少しだけ目を見開く。

 

 「……ありがとう」

 

 それだけをあっさり告げ、すぐに視線をチョークへ戻した。けれど、その耳の先がわずかに赤くなっているのを俺は見逃さなかった。

 

 そして小さく咳払いしてから、俺を見やる。

 

 「……で、本当にそれだけを言いに来たの?」

 

 「え」

 

 「岸和田がわざわざここに顔を出すなんて珍しいでしょ。もっと別の話題がある顔をしてる」

 

 観察者らしい鋭さに、苦笑いが漏れる。

 

 「……やっぱバレてるか」

 

 双葉は肩をすくめただけで、それ以上は催促しない。促されるように、俺は口を開いた。

 

 「文化祭の日にさ、中学生ぐらいの女の子を見かけたんだ。一瞬だけ、すごく印象に残った」

 

 「ふぅん」

 

 「しかも、その子……階段の踊り場で手すりを掴み損ねて、転げ落ちそうになったんだ。咄嗟に腕を伸ばして支えた。か細い声で“ありがとうございます”って言われて……その顔も息遣いも、今でもはっきり覚えてる」

 

 双葉の眉がわずかに動く。

 

 「でも日にちが経つにつれて、記録したはずの顔も服装も曖昧になっていたんだ」

 

 「記録が?」双葉がすぐに尋ねる。

 

 「そう。確かに残したはずなんだ。ノートにもタブレットにも。でも開いてみたら、どれも肝心な部分が抜け落ちてた。記憶にははっきり残ってるのに、記録の方が曖昧になってる」

 

 双葉は顎に手を当て、少し考えるように目を細める。

 

 「その子がどんな特徴をしてたのか、覚えてる?」

 

 「髪の長さとか身長くらいは……でも、それ以上は記録が頼りにならなかった」

 

 「ふぅん」

 

 俺は息をつき、机の端に手を置いた。

 

 「だから相談しに来た。俺の記録が曖昧になるなんて普通はない。……思春期症候群っぽい匂いがする時に、頼れるのはお前しかいないから」

 

 双葉は軽くため息をつき、それからこちらを横目で見た。

 

 「ねえ岸和田、それって……単にロリコンなんじゃないの?」

 

 「ちげーよ!」

 

 思わず声を荒げると、双葉は肩を震わせて笑った。

 

 「冗談。でも、記憶は残ってるのに記録が曖昧になるっていうのは、やっぱり普通じゃないね」

 

 彼女はチョークを指で転がしながら、独り言みたいに続けた。

 

 「ただそれだけの情報じゃ、思春期症候群と関係があるかは正直断定できない。でも……」

 

「でも?」

 

「私が思うに、特異点である岸和田と関係がある可能性はあるね」

 

 「……また特異点扱いかよ」

 

 「事実でしょ。夏休み前の未来予測ループもそうだし、こうやって曖昧になっている記録でも、岸和田は“記憶”として残してる。しかもその上で違和感が続いてるなら、無視できない」

 

 双葉の視線は黒板に向いているのに、まるで俺の奥底を覗き込んでいるように感じられた。

 

 観察する側のはずが、気づけば観察されている。そんな逆転の居心地の悪さに、胸の奥がざわつく。

 

 俺は軽く肩をすくめて答えた。

 

 「……じゃあ、とりあえず経過観察ってことだな」

 

 「そう。岸和田の得意分野でしょ、観察と記録」

 

 双葉はペンを走らせながら小さく笑い、俺のタブレットに目をやった。

 

 その笑みは研究者のものなのか、それとも俺を“実験対象”と見ているからなのか、判断はつかなかった。

 

 「……そういえば、この間知ったんだけどさ」

 

 俺はペンを回す双葉に声をかけた。

 

 「咲太って、妹いたんだな?」

 

 双葉は少し驚いたように瞬きをして、すぐに口角を上げる。

 

 「岸和田、梓川と同じ中学だったのに知らなかったんだね」

 

 「……まあ、特に噂も聞かなかったし、そもそも別のクラスだったしな。」

 

 俺は続けた。

 

 「今、咲太は妹さんのリハビリをしてるって聞いた。麻衣先輩も手伝ってるらしいけど……妹さん、何かあったのか?」

 

 双葉のペンが止まる。

 

 迷うように視線を伏せた後、彼女は小さく息をついた。

 

 「ほんと、岸和田って……観察してるだけかと思ったら、おもいっきり踏み込むとこあるよね」

 

 苦言を呈しながらも、その声色は諦め半分、感心半分だった。

 

 「……ああ」

 

 俺はただ頷く。

 

 双葉はしばし黙ったあと、静かに言葉を選ぶように続けた。

 

 「これは、他の人や、梓川の前では話さないでほしいんだけど」

 

 「……わかった」

 

 「梓川の妹、かえでちゃんって言うんだけど、中学の時ネットでいじめられてね。その影響で、体にあざや切り傷ができる“思春期症候群”を引き起こしたらしい。」

 

 淡々とした説明の裏に、重さが滲む。

 

 「その後、解離性障害による記憶喪失になって、不登校になった。だから……梓川は携帯を持ってないんだよ」

 

 「…だから、携帯持ってないのか、咲太は」

 

 気づけば、胸の奥に引っかかっていた疑問が、そのまま口から零れていた。

 

 重く沈む声に自然となっていたのが、自分でもわかった。

 

 双葉はペンを止め、しばらく俺を見つめる。

 

 「……そう。普通の理由じゃない、だから今も梓川はかえでちゃんと二人暮らしだしね。」

 

 低く抑えた声でそう告げ、視線を伏せる。

 

 俺は言葉を失った。

 

 ——だから、あいつは。

 

 (……不登校、か)

 

 その言葉に、胸の奥がざわついた。

 

 中一の二学期の終わり頃、布団から出られなくなり、窓越しに同年代の足音をただ聞いていた日々。

 

 あのとき「自分だけが取り残されている」と思った感覚が、咲太の妹さんの姿と重なった。

 

 そして中三の頃。

 

 思春期症候群について声を荒げて主張していた、あの日の咲太。

 

 七月十八日の終業式、廊下でふいに俺に話しかけてきた時の言葉も思い出す。

 

 「……中学の時に、七里ヶ浜で会った女の子がいてさ。この高校の制服を着ててさ。その子が話を聞いてくれて、救われたんだ。……あの頃、僕もちょっと色々あったからな」

 

 その断片が、今ようやく一つにつながった気がした。

 

 「……咲太、お前も色々あったんだな」

 

 胸の奥で、誰に向けるでもなくそう呟いた。

 

 十一月十六日 

 

 この土日は新宿のシフトも休みで、珍しく藤沢で過ごしていた。

 

 藤沢駅へ続く商店街を歩いていると、白い帽子をかぶり、大きな白と茶色のバッグを肩に掛けた女子が前を歩いていた。

 

 「あれ……豊浜さん?」

 

 思わず声をかけると、豊浜さんがぱっと振り返り、帽子のつばを押さえながら笑っていた。

 

 「あ、きっしー。偶然だね」

 

 そのまま俺の隣に並んで歩いてくる。

 

 歩調を合わせながら、俺はふと口にした。

 

 「……その“きっしー”って呼び方、気に入ったのか?」

 

 豊浜さんは目を丸くし、それから小さく吹き出す。

 

 「え? だって呼びやすいし、なんかしっくりくるんだよね」

 

 「雑なあだ名だと思ってたんだけどな」

 

 「雑じゃないって。むしろ愛称はシンプルなのが一番」

 

 彼女の笑顔に、妙に押し切られた気がして、俺は肩をすくめるしかなかった。

 

 「今日は麻衣先輩と一緒じゃないのか」

 

 「うん。お姉ちゃんは先に行ってる。これから咲太と……かえでちゃんと海に行くからさ」

 

 一瞬、頭の中で問い返したが、すぐに双葉との会話を思い出した。

 

 ——咲太の妹、梓川かえで。

 

 「……咲太の妹さん、だよな」

 

 「そうそう、なんで知ってるの?」

 

 「咲太の友だちから聞いた」

 

 「そうなんだ」

 

 豊浜さんは軽く頷き、それ以上は深く触れなかった。

 

 俺もそれ以上は聞かず、ただ隣を歩きながら、あの時双葉から聞いた説明を思い返していた。

 

 しばらくは、商店街の人混みに紛れながら並んで歩いた。

 

 会話は取り留めもなく、今日の天気や、冬物の制服がそろそろ必要だって話。けれど、不思議と沈黙が気まずくはならなかった。

 

 「そういえば豊浜さん、もう冬服に替えた?」

 

 「うん。朝のレッスンが寒くてさ。ブレザーの下にカーディガン着てる」

 

 「なるほど。豊浜さんは寒がりそうだし」

 

 「その“さん”いらないって。距離ある感じしない?タメだし咲太みたいに呼び捨てでいいよ。」

 

 苦笑して「じゃあ、豊浜」と呼び直すと、彼女は満足げに笑った。

 

 その後は自然に「豊浜」と呼ぶようになり、会話のリズムも不思議と軽くなった気がした。

 

 「そういえばさ、きっしーって何が得意科目なの?」

 

 豊浜が軽い調子で尋ねてくる。

 

 「数学と社会。計算は嫌いじゃないし、地図や資料を見ながら考えるのも性に合ってる」

 

 「へえ。あたしは英語と数学かな。文法を整理するのは楽しいし、リスニングも結構好きなんだ」

 

 「じゃあお互い数学は共通ってわけか」

 

 「うん。テスト前に問題集解いてると、答えの出し方が似てるのに気づいたりするんだよね。そういうときちょっと気持ちいい」

 

 「わかる。途中式の組み立てが綺麗にハマると、無駄な動きがない感じで爽快なんだよ」

 

 二人で小さく笑い合う。

 

 「……優等生っぽい会話してるな、俺たち」

 

 「いいじゃん、真面目に盛り上がれるのって意外と貴重だし」

 

 互いの得意分野を話すだけなのに、不思議と息が合う。答えを見つけていくプロセスそのものを楽しんでいる感覚があって、気づけば会話は自然と続いていた。

 

 「……ねえ、海って行く?」

 

 不意に豊浜が聞いてきた。

 

 「たまに。観察のついでに」

 

 「またそれ? ほんと観察好きだよね」

 

 呆れたように言いながらも、少し笑っていた豊浜は、バッグの紐を持ち直し、ちらっと横目でこちらを見た。

 

 少し沈黙が続いたあと、彼女が不意に口を開く。

 

 「ねぇ、そういえばさ」

 

 「何?」

 

 「LINE交換しとこ。きっしーって連絡先知らないとすぐ行方不明になりそうだし」

 

 「……俺をなんだと思ってる」

 

 苦笑しつつもスマホを取り出すと、豊浜はすぐにQRコードを表示して差し出してきた。

 

 通知音が鳴り、画面に「豊浜のどか」の文字が並ぶ。

 

 「はい、記念にスタンプ送っとくね」

 

 スマホにポップなキャラのスタンプが跳ねる。

 

 「……便利さのためだけじゃなさそうだな」

 

 「……まあ、“勉強会でも開こうか”ってときに連絡できなきゃ困るでしょ?」

 

 冗談めかして肩をすくめる豊浜に、俺は思わず吹き出す。

 

 「勉強会って……豊浜が言うと妙に現実味あるな」

 

 「でしょ!」

 

 豊浜は帽子のつばを少し直し、にやりと笑った。

 

 「それじゃ、また」

 

 豊浜は改札の方へ駆け出す前に、振り返って小さく手を振る。

 

 残された俺はスマホの画面を見下ろし、まだ新しいチャット欄を開いたまま、胸の奥で小さく呟いた。

 

 ——やっぱり、これから先、彼女と関わることは避けられそうにない。

 

 十一月十七日

 

 勉強を切り上げて机に突っ伏していると、スマホが震えた。

 

 画面を開くと、豊浜からのメッセージが届いていた。

 

 《昨日はありがと。きっしーって、思ったより普通の人だった》

 

 「普通ってなんだよ」と返すと、すぐに既読がつき、追いかけるようにメッセージが届く。

 

 《褒めてるの。昨日ね、咲太から色々聞いたの》

 

 《中学生活がめちゃくちゃになったこととか……夢で見た人に救われたこととか》

 

 一瞬、指が止まる。

 

 咲太がそんな話を豊浜にするなんて、少し意外だった。

 

 さらに続けてメッセージが飛んでくる。

 

 《あとね、きっしーと咲太って同じ中学だったんでしょ?》

 

 《それ聞いてちょっと驚いた。なんか、もっと最近知り合った感じかと思ってたから》

 

 「まあ……そうだな。同級生だったのは事実だ」

 

 そう打ち込んで送る。

 

 数秒後、スタンプが返ってきた。猫が両手を広げて「なるほど〜」と呟いている。

 

 《やっぱり普通だね。でも、それがちょっと安心した》

 

 短いやり取りだったが、その“普通”という言葉と“同級生”という事実は、不思議な余韻を残した。

 

 ——普通。

 

 その響きに、胸の奥がかすかに揺れた。

 

 中学で人間関係に疲れ果て、三月を繰り返す異常な時間に囚われた俺にとって、“普通”という評価は一番遠い場所にあるものだった。

 

 それなのに、豊浜から見れば俺はただの「普通の同級生」で、「安心できる相手」らしい。

 

 自分がどこか特別で、異物のように世界から外れていると感じ続けていたからこそ、当たり前の存在として扱われることが、不思議なほど心に残った。

 

 十一月二十五日

 

 ここ数日、校内で麻衣先輩の姿をまったく見かけなくなった。

 

 文化祭のあとも時折姿を見せていたのに、二十日を境にぱったりといなくなった。

 

 最近、麻衣先輩には校内で自分から会いに行くことはあまりしていなかった。

 

 咲太との交際を公表してからは、二人っきりの時間を奪うような真似はしたくなかったし、最近は俺自身が咲太と一緒にいることで意図せず目立ってきている。

 

 古賀曰く、“咲太と最近よく話してる優等生”なんて噂が出回っていたらしい。

 

 だからこそ、普通の学生生活を送るためにも、余計な注目は避けたかった。

 

 何より、麻衣先輩は仕事で学校にいないことが多い。だから「見かけなくなった」という感覚は、いつものことなのかもしれない。

 

 ——それでも、今回は妙に気にかかっていた。 

 

 (……咲太も先週ぐらいから落ち着かない様子だし。妹さんのこともあるし、余計に忙しいのかもしれない)

 

 そう考えつつも気になり、豊浜にLINEを送ってみた。

 

 《最近、麻衣先輩見ないけど……どうしてる?》

 

 数分後、通知音が鳴る。

 

 《お姉ちゃん? 今は金沢に行ってるよ。ロケでしばらく戻れないの》

 

 仕事か……そう思うと胸の重さが少しだけ和らぐ。

 

 けれど同時に、咲太の顔が頭に浮かんだ。

 

 妹のリハビリと麻衣先輩の不在、どちらも咲太の肩にのしかかっているのは想像に難くない。

 

 そんな風に思っていたところに、続けて、豊浜はすぐに追いメッセージを送ってきた。

 

 《咲太のこと、気にしててあげてほしい》

 

 《かえでちゃんのことで今手いっぱいで、お姉ちゃんがそばにいないから余計に無理してると思う》

 

 俺は画面を見つめたまま、指を動かした。

 

 「じゃあ、来週さ。藤沢のバイトで咲太と同じシフトに入るんだ」

 

 「それと、学校でもそれとなく様子を見ておくよ」

 

 既読がついたあと、しばらく返事が来なかった。考え込んでいるのかもしれない。

 

 ようやく返信が届いたのは、数分後だった。

 

 《……ありがとう》

 

 《咲太、無理してるから。ほんとに、ちょっとでいいから、見てあげて》

 

 画面の文字が胸に響いた。頼みごとというより、どこか切実な願いのように思えた。

 

 (豊浜も気づいてるんだな。咲太が背負い込みすぎてることに)

 

 俺は深く息をつき、短く返した。

 

 「任せとけ。無理しすぎないように見ておく」

 

 送信ボタンを押すと、すぐに《ありがと、きっしー》という返事が返ってきた。

 

 その言葉は、ほんの短い一文なのに、不思議と胸を温めた。

 

 十一月二十九日

 

 一昨日珍しく咲太が学校を欠席し、昨日学校での咲太は元気がなかった。

 

 授業中もどこか心ここにあらずで、休み時間も机に突っ伏していることが増えていた。

 

 (……豊浜が言ってた“無理してる”ってやつか)

 

 声をかけるタイミングは何度かあったが、結局できなかった。

 

 軽く聞き流される未来が目に浮かんだし、踏み込みすぎて余計に気を遣わせるのも違うと思ったからだ。

 

 ——それでも心配で、豊浜にLINEを入れた。

 

 「咲太、元気なさそうだけど……何かあった?」

 

 すぐに既読がつき、短い文面が返ってきた。

 

 《かえでちゃんのこと。今、ほんとに辛い時期なんだと思う》

 

 それだけで胸の奥が重くなる。

 

 妹のリハビリと、麻衣先輩の不在。両方が重なれば、咲太が疲弊するのも当然だ。

 

 《……詳しくは言えないけど、この二年間のことを何も覚えてないの。あたしのことも、お姉ちゃんのことも》

 

 目を落とした指先が、しばらく動かなかった。

 

 ——そんなことを、軽々しく聞くべきじゃなかった。

 

 双葉からこの間聞いた、咲太の妹さんが抱えていた、解離性障害による記憶喪失。

 

 豊浜のLINEの文面を見ただけで、俺には察せてしまった。

 

 申し訳ないことを聞いてしまったという罪悪感が、胸の奥に沈殿する。

 

 それでも豊浜は、それを打ち明けてくれた。

俺に、知っておいてほしいと思ったからなのか。

 

 画面を見つめながら、俺は短く打ち込んだ。

 

 《……ごめん》

 

 数秒後に既読がつき、返ってきたのはシンプルな一文だった。

 

 《きっしーが悪いわけじゃないよ》

 

 それだけで、少しだけ肩の力が抜けた。それでもなお、胸の奥の重さは消えなかった。

 

 十二月一日

 

 夜、机にタブレットを置き、先月の出来事をまとめていた。

 

 文化祭で見かけた女の子のことや、咲太の妹さんのこと、気づけばメモは散らかるように増えていて、整理するだけでも時間を食う。

 

 あの女の子の件は、相変わらず記録として残らない部分が多かった。

 

 けれど、自分の記憶から薄れてしまわないよう、髪の長さや身長、踊り場で見た立ち位置や、支えたときに触れた腕の細さ……そういった“客観的に測れる部分”だけでも文字にして残していた。

 

 ——主観が消えても、せめて輪郭だけでも記録に留めておくため

 

 画面に指を滑らせていると、ポン、と着信音。LINEの通知が画面端に浮かんだ。

 

 《こんばんはきっしー。明日、咲太とバイト同じなんだよね?》

 

 豊浜からだった。

 

 《そうだけど》

 

 短く返すと、すぐにまた通知が鳴った。

 

 《お姉ちゃんね、さっき金沢から帰ってきたの》

 

 《明日もまだ撮影あるのに、咲太のことが心配で……》

 

 その文字を見て、思わず息をついた。

 

 麻衣先輩らしい。そう思ったのと同時に、豊浜の続きが飛んでくる。

 

 《でもさ……明日、お姉ちゃんの誕生日なんだよ?》

 

 《いくら大変な時期だからって、咲太はそれすら気づいてないっぽい》

 

 最後の一文には、スタンプも絵文字もなかった。

 

 愚痴というより、姉を思う妹としての複雑な気持ちが滲んでいた。

 

 《……まあ、咲太も今は余裕ないだろ》

 俺はそう返しながら、豊浜が最初に「明日バイト同じだよね?」と切り出してきた意図を推測する。

 

 咲太のことを気にしつつも、姉の気持ちもちゃんとわかってほしい——そんな願いだろう。

 

 《もし俺にできることがあるなら、手伝うよ》

 

 俺が返事を送ると、さらにメッセージが送られてきた。

 

 《ほんと?ありがとう……》

 

 《あたしは咲太の様子見に行く》

 

 《お姉ちゃんが無理して金沢から帰ってきたんだから、今はお姉ちゃんのこと考えてろ!お姉ちゃんの誕生日今日なんだよって、カツ入れに行くから》

 

 文字から、豊浜の強い意志が伝わってきた。

 

 自分だって咲太の妹さんのこともあって辛いはずなのに、麻衣先輩を思い、咲太を思っている。

 

 (……豊浜は、優しくて、強いな)

 

 表では明るく振る舞いながら、胸の奥ではこんなにも他人のことを考えている。

 

 愚痴をこぼすのではなく、行動で示そうとしている。俺にはとても真似できないと、少しだけ圧倒される。

 

 だからこそ、その思いを無駄にしないように、俺も動かなきゃならない。

 

 観察して記録するだけじゃなくて、今回は、

咲太のそばにいて、少しでも負担を軽くしてやること。

 

 そして、豊浜が安心できるように見守ること。

 

 それが、今の俺にできる精一杯だと、自然に思えた。

 

 《……わかった。じゃあ俺は、バイト中に咲太をフォローしてみるよ》

 

 《咲太が気づけるきっかけくらいは、作れるかもしれない》

 

 そう打ち込んで送信すると、数秒後に既読がつき、

 

 《ありがとう。頼んだよ、きっしー》

とだけ返ってきた。

 

 画面を閉じると同時に、胸の奥に責任感が芽生えた。

 

 十二月二日

 

 次の日、夕方の店内。客入りはそこそこだが、咲太の足取りはやけに重く見えた。

 

 オーダーを取りに出ていく背中を、国見と古賀が揃って眺める。

 

 「どうした咲太、目が死んでるぞ?」

 

 「いつもと同じじゃないですか?」

 

 古賀が肩をすくめる。

 

 国見は首を横に振った。

 

 「いやぁ今日は特に死んでるな」

 

 (……昨日、豊浜から聞いた限りじゃ無理もないか)

 

 妹さんのこと、麻衣先輩の不在と帰還。咲太の頭の中は休まる暇がないはずだ。

 

 そんなときだった。

 

 「先輩、体調が悪いんなら帰ったほうがいいんじゃない?」

 

 古賀が心配そうに声をかける。

 

 「いや、大丈夫、いらっしゃいませ……」

 

 咲太は笑ってごまかそうとしたその直後、ガシャーン、と派手な音を立てて食器を落とした。

 

 「うわぁ先輩、何しよっと!」

 

 古賀が慌てて駆け寄る。

 

 俺は思わず動いていた。

 

 「咲太、今日は休め。……豊浜を呼ぶから」

 

 咲太は目を丸くし、苦笑混じりに「なんだよそれ……」と返す。

 

 それでも反論は最後まで言わず、肩を落として休憩室へ向かった。

 

 結局、店長に早退を願い出ることになり、俺は咲太の鞄を持って裏口で待った。

 

 制服の上にコートを羽織って出てきた彼は、普段よりもずっと小さく見えた。

 

 「……悪いな」

 

 「気にすんな。豊浜にも連絡してある」

 

 俺は咲太の隣に腰を下ろした。沈黙が数分続いたが、それでも、一人で座らせるよりは、きっといい。

 

 スマホが震え、《もうすぐ行く》と豊浜からの通知が入る。

 

 (……来るまでの間くらいは、俺がそばにいてやるか)

 

 そう思い、曖昧な笑みを浮かべながら、俺は黙って夜風を吸い込んだ。

 

 ——気づけば俺は、踏み込まない観察者でいるつもりが、咲太の前ではそばで支える“介添え人”になっていた。

 

 やがて、裏口のドアが開いて豊浜が駆け込んできた。

 

 俺は豊浜に視線を向けて、短く言った。

 

 「……あとは、咲太のこと頼むぞ」

 

 豊浜は小さく頷き、真剣な眼差しで咲太のもとに駆け寄る。

 

 すれ違いざま、俺にだけ聞こえる声で「ありがと、きっしー」と囁いた。

 

 その一言を背に受けながら、俺はエプロンの裾を直し、シフトへ戻っていった。

 

 その夜、スマホに通知が入った。

 

 《咲太、さっき金沢に行ったよ。お姉ちゃんに会いに》

 

 豊浜からのメッセージだった。

 

 画面を見つめたまま、思わず小さく息を吐く。

 

 (……そうか。やっぱりあいつはそういうやつだ)

 

 誰よりも無茶で、誰よりも真っ直ぐで。

 

 だからこそ、俺とは正反対に“踏み込める”。

 

 金沢まで麻衣先輩に会いに行ったと聞いて、ようやく咲太らしさが戻った気がして、胸の奥が少し軽くなった。

 

 (だったら大丈夫だな。あとは、あの二人の物語だ)

 

 スマホをポケットにしまい、俺は外の夜風を吸い込んだ。

 




物語解説

今回は文化祭の余韻から始まり、
階段で出会った“記録に残らない少女”をきっかけに、蓮真が観察者としての限界を意識し、少しずつ“介添え人”として踏み込んでいく姿を書きました。

麻衣の不在、咲太の疲弊、かえでのリハビリ。
原作の大きな波を横目に、蓮真の視点では「支える人を支える」という別のドラマが立ち上がっていきます。

そして“記録と記憶の齟齬”という要素は、今後の物語に繋がる伏線でもあります。

あわせて、のどかと蓮真の距離が静かに縮んでいく過程も置きました。

呼び方が「豊浜さん」から「豊浜」へ、自然に「きっしー」が定着していく場面。

商店街での何気ない会話で、得意科目や思考の組み立て方が“似ている”と気づく小さな共鳴。
LINE交換のあとに、「普通でいてくれる相手」への安心が芽生えていくこと。

さらに、のどかが「咲太を見てあげて」と頼み、蓮真が現場で支える役を引き受ける連携は、二人の信頼の土台になっていきます。

この物語のメインヒロインの一人は、まぎれもなく豊浜のどかです。

ここから、観察するだけでなく寄り添う蓮真の物語がどう進んでいくのか。ぜひ楽しみにしていただければと思います。

次回はいよいよ原作最大の山場である『ゆめみる少女の夢を見ない』と『ハツコイ少女の夢を見ない』に重なるストーリー。

ぜひ続きもお読みいただければ嬉しいです。

蓮真は最終的にどちらを選ぶと思いますか?

  • 豊浜のどか
  • 広川卯月
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