青春ブタ野郎はパラレルスプリングの夢を見ない 作:もドえラん
十二月五日
昨日、咲太が学校を休んだ。先月から元気がなさそうだったのを見ていたせいか、やっぱり無理がたたったんだろうかと心配になる。
昼休み、廊下を歩いていると、ちょうど向こうから麻衣先輩がやってくるのが見えた。制服姿で、手には参考書のようなものを抱えている。思わず足を止めて、声をかけた。
「お久しぶりですね、麻衣先輩」
麻衣先輩は軽く目を丸くしてから、ふっと笑みを浮かべる。
「あら岸和田くん、久しぶりね」
少し間を置いて、俺は口を開いた。
「昨日、咲太学校休んでましたけど……大丈夫ですか?」
麻衣先輩は、落ち着いた声で答える。
「咲太なら大丈夫よ。風邪ひいただけだから」
その言葉にようやく胸を撫で下ろす。
少し間を置いて、麻衣先輩は表情をやわらげた。
「のどかから聞いたわ。咲太を支えてくれてありがとう」
「いえ、豊浜からの頼みでしたから」
そう答えながら、内心では(……俺も風邪には気を付けないとなあ)と気が緩む。
「今からどこか行かれるんですか?」
「咲太に勉強を教えに行くのよ。来週から期末試験でしょ」
「ああ、なるほど」
俺が頷くと、麻衣先輩は小さく笑い、軽口を添える。
「岸和田くんは優等生だから余裕そうね」
「……いえ、そうでもないです」
苦笑いを返す。本当は物理が不安で、週明けには双葉に聞きに行こうと決めていたのだ。
麻衣先輩は手にしていた参考書を持ち直しながら、軽く会釈をした。
「じゃあ、そろそろ行くわね。岸和田くんも風邪には気を付けて。」
そう言って、麻衣先輩は歩き出した。背筋の伸びた姿が廊下の人混みに紛れていくのを、俺はしばらく目で追っていた。
(……やっぱり麻衣先輩は絵になるな)
小さく息をついてから、俺も自分の教室へと戻った。
十二月八日
放課後、今日から始まった期末試験の問題で双葉に相談があり物理実験室に顔を出すと、咲太と双葉の姿があった。
「岸和田、どうしたの」
双葉がちらりと顔を上げる。
「ちょっと期末試験最終日の物理の範囲について相談があってな」
その隣で咲太は机に突っ伏していたが口元が緩んでいた。
(……なんでニヤついてんだこいつ)
呆れ半分で眺めながらも、不思議と胸の奥が軽くなる。
数日前まで心ここにあらずで、風邪までひいていた咲太が、こうして笑っていられる。
それだけで、妹さんのことを一つ乗り越えたのだとわかる気がした。
「なに見てんだよ」
顔を上げた咲太が、気恥ずかしそうに眉をひそめる。
「別に。ただ……元気そうで良かったなって」
「はあ?」
言葉とは裏腹に、咲太の口元はまだ緩んだままだった。それを見て、俺は小さく安堵の息をついた。
その時、窓がガラリと開き、国見が顔を出した。
「どうした咲太、顔がニヤけてるぞ。……お、蓮真も一緒か」
双葉が無表情のまま口を開く。
「桜島先輩に足でも踏んでもらったんでしょ」
「なんなら俺も踏んでやろうか」
国見が軽口を叩く。
咲太は左手でお断りの合図をしながら、むすっと答えた。
「てか別に、麻衣さんに踏まれたからニヤけてる んじゃないぞ」
「いや踏まれはしたのかよ」
俺が思わず突っ込むと、国見はふっと笑みを漏らした。
双葉が冷ややかに言い放つ。
「梓川は本当に青春ブタ野郎だね」
国見はその言葉を聞いて、「そうだな」と言いたげにニヤける。
(……青春ブタ野郎か。咲太にはお似合いなワードだな)
俺はそう記録に残すことにした。
十二月十日
期末試験三日目の夕方、駅は下校する生徒で賑わっていた。
改札を抜けようとしたとき、見覚えのある二人組が目に入った。
「国見、双葉!」
声をかけると、振り返った国見がいつもの人懐っこい笑みを浮かべる。隣には双葉が立っていて、鞄を肩に掛け直していた。
「お疲れ、蓮真。今日も勉強か?」
「まあな。このあと図書館寄って、残りの範囲を少しやるつもりだ」
国見は苦笑しながら肩をすくめる。
「蓮真真面目だな、流石優等生ってやつだ」
「やることやっとかないと落ち着かないんだよ」
そう答えたあと、ふと思い出して双葉に視線を向けた。
「そうだ、双葉。一昨日物理の範囲、重要なとこ教えてくれて助かった。ありがとう」
双葉は一瞬だけ驚いたように目を瞬かせたが、すぐに小さく笑った。
「……役に立ったならよかった」
その柔らかな表情が、少し新鮮に映った。
「どこか行くのか?」
そう聞くと、双葉が小さく頷いた。
「知り合いのお見舞い。中学生くらいの女の子なんだけど、ちょっと体調を崩してて」
国見が補足するように言葉を継ぐ。
「牧之原翔子さんって子なんだ。俺たちの共通の知り合いで……今日は顔を見に行こうって」
「なるほど」
駅のざわめきの中で、その名前がやけに印象に残った。
双葉は少し沈んだ表情のままで、普段の理屈っぽい口ぶりとは違う雰囲気が滲んでいた。国見もそれを自然に受け止めている。
「……じゃ、またな」
そう手を振って、二人は改札の外へ歩いて行った。
俺はしばらくその背中を見送りながら、知らない誰かの存在が、国見や双葉の日常に確かに繋がっていることを実感していた。
十二月十二日
期末試験最終日。最後の科目は物理だった。
チャイムが鳴り終わると同時に、二年一組の教室は一気に沸き立った。
「終わった~!」
「遊ぶぜ~!」
「ある意味終わった……」
「海行こうぜ、海!」
「外寒いっての馬鹿!」
様々な声が飛び交い、机を叩く音や椅子を引く音が重なって、教室はちょっとしたお祭り騒ぎのようだった。
そのざわついた空気は、帰りのHRが始まっても収まる気配がない。担任が声を張り上げても、浮き立った空気に押し流されていく。試験終わり特有の、打ち上げ気分というやつだ。
ふと視線をやると、咲太が机に頬杖をつきながら機嫌の悪そうな顔をしていた。周囲の騒ぎにうんざりしているのか、それとも別の理由か。
俺は小さくため息をついて、カバンの中に教科書とノートを収めた。
今日で試験は終わり。けれど、終わった試験の復習と、次の科目の予習は待ってくれない。
そんな自分の律儀さに少し呆れながらも、俺は席を立った。
(……やっぱり図書館に行こう)
ざわつく教室を背に、俺は一人、図書館へ向かうことにした。
ほとんどの生徒が下校し、残っているのは咲太と、咲太に用事があり教室に来ていた双葉だけだった。
「梓川は、翔子さんのことどう思ってる?」
双葉が問いかけてきた。
「どうって……ま、初恋の人」
それは、麻衣と付き合っていようが、今さら変わらない事実だ。
「そういうことじゃなくてさ」
言葉を変えた双葉の議論は、やがて「翔子さんとは何者なのか?」という方向へと移っていった。
翔子の存在を「未来にたどり着いた姿」として考える双葉。
そして、相対性理論の“ウラシマ効果”を持ち出し、「大人になることを拒んだ翔子ちゃんは、自分の時間を遅らせた結果、私たちより先に未来へたどり着いたのかもしれない」と語る。
咲太は半信半疑のまま、双葉の仮説を聞いていた。
そして話は、翔子の胸元の移植手術の痕にまで及んだ。未来にたどり着いた証拠がそこにある、と。
「いや、その理屈はそうだとしても、胸元は双葉が確認してくれよ」
「どうして?」
「女子だし」
「梓川は自分の目で見た方がいいと思う」
真顔でそう言い切る双葉に、咲太は苦笑するしかなかった。
やがて議論は時間切れを迎える。翔子に会う約束の時間が迫っていたからだ。
「ちなみにさ」
咲太は立ち上がりながら言った。
「牧之原さんの話も、豊浜のときみたいに岸和田にも共有するのか?」
双葉は首を横に振る。
「しないよ。岸和田は翔子さんに会ってない。いくら“特異点”でも、関係ない人を巻き込んだって解決する話じゃない」
「……だろうな」
「そういうこと」
議論はここで時間切れとなった。時計を見ると約束の七分前になっている。
咲太は鞄を持って席を立った。
十二月十四日
またヘルプに呼ばれて、俺は咲太、古賀と藤沢のファミレスでシフトが同じになった。
「あれ、なんで先輩がいるの?」
「先輩シフト入ってたっけ?」
古賀は不審者を見る目つきで咲太を見上げている。
「国見の代役だ」
「先輩に国見先輩の代わりとか絶対無理」
真顔でそんなことを言ってくる。
「さっきパートのおばちゃんに、『あら、今日は佑真君じゃないんだ……』ってがっかりされたばかりだからほっとけ」
まさか、国見がパートのおばちゃんまで攻略していたとは驚きだった。
「……それに今日、きっしー先輩もいるし」
「岸和田も来るのか?」
咲太が目を瞬かせた直後、スタッフルームの扉が開いて俺が顔を出す。
「悪いな、ちょっと遅れた」
「岸和田もシフトだったっけ?」と咲太。
「いや、インフルで休んだパートさんの代わりに呼ばれたんだ。……まあ俺も、朝からちょっと調子悪いんだけど」
苦笑しながら答えると、古賀が呆れたように、「それ大丈夫なんですか」と突っ込む。
「パートのおばちゃんには、“はっすーくん”って呼ばれてるらしいぞ。孫扱いされてるって噂」
咲太が茶化すと、俺は肩をすくめた。
「背が低いからそう見えるんだろ」
「きっしー先輩って意外と“可愛がられ枠”だよね」
「意外ってなんだよ…」
古賀がにやっと笑いながら相槌を打つ。
「そういえば最近、インフル流行ってるらしいですね」
古賀が話題を振ると、咲太も「クラスでもちらほら休んでるやついるしな」と応じる。
「だから国見先輩も休んだのかと思ったんですけど」
「国見はただの部活の練習試合だ」
「ふーん。でも先輩のことだから、桜島先輩へのクリスマスプレゼント買うお金がなくて、今さらバイト増やしたのかと思った」
「今月バイト増やしても、クリスマスに間に合わないだろ」
「だから、今さらって言ったじゃん」
「お前、僕をなんだと思ってる」
「じゃあ、プレゼントは決まったの?」
「買う金がないな」
そんな二人のやりとりを横目に、俺は咲太に視線を戻した。
「お前。麻衣先輩にクリスマスプレゼントなんでもいいから買ってやれよ」
「だから買う金がないんだって」
「うわっ、最低」
古賀が即座に突っ込んで、俺も小さく笑った。
三人そろってフロアに出ると、昼時で店内はすでに活気に満ちていた。
メニューを抱えて客席を回る咲太は、どこか上機嫌で、口元がにやけっぱなしだ。
「はは」
「先輩、なんかいいことあった?、ちょっとニヤついてるし」
「……確かに、この間と同じニヤつき方してんな」
俺がそう言うと、咲太は横目でちらりとこっちを見て。
「でもさ、岸和田。お前はなんかさっきから表情が固いぞ」
「……え?」
咲太の言葉に戸惑っていると、古賀が俺を覗き込みながら言った。
「ほんとだ。先輩はニヤニヤしてるのに、きっしー先輩は逆に元気なさそう。やっぱり体調悪いの?」
「いや……別に」
苦笑でごまかしながらも、内心では(……確かに、さっきから体が重いし、熱っぽい。気のせいだと思ってたけど……風邪かインフルでもひいたか?)と納得してしまう。
「……この間の先輩みたいに無理しないでね……」
古賀の小さな気遣いが、じんわり胸に沁みた。
そんなやりとりの中、咲太は古賀を見ながら。
「てか、古賀の方こそなんかあったか?」
「え、なんで?」
「二の腕が太くなってるから」
「先輩、超酷い!バリむかったい!」
咲太はニヤついたまま、「へ」と相槌を打つ。
(……こいつら、どんな漫才繰り広げてんだよ)
俺は内心で呆れるしかなかった。
咲太と古賀の掛け合いが続く中、俺は自分の呼吸の浅さに気づき、心の奥に小さなざらつきを抱えた。
それが、このあと病院へ足を向けさせるきっかけになるとは思いもしなかった……
古賀と咲太の気遣いもあり、俺は念のためバイトを早めに終えて帰宅したあと、なんとなく体温計を脇に挟んでみた。
ピピッ、と鳴った数字は、三十八度を超えていた。
「……マジかよ」
どうりで体が重いはずだ。
もう日も暮れていて、近所のクリニックはとっくに閉まっている。
この時間に内科をやっているのは、市民病院くらいしか思いつかなかった。
仕方なくコートを羽織り、再び外へ出る。冷えた空気が頬に触れるたび、熱に浮かされた頭がじんわり痛んだ。
診察室に呼ばれ、椅子に腰かける。
医師は検査結果を見ながら、淡々と告げた。
「インフルエンザですね。今日から六日間は学校や外出は控えてください。次に登校できるのは……そうですね、週明けの二十二日以降になります」
「……そうですか」
学期末のこの時期に明日から五日間の欠席。
(期末試験後の課題提出、どうするかな……)
眉をひそめながらも、すぐに頭の中で整理を始める。
(熱が下がったら課題を郵送だな。成績は期末試験でほぼ決まっているし、双葉のおかげで、苦手な物理も手応えはあるから心配はいらない)
(二十四日が終業式だけど……体調が戻りそうにないなら、いっそ東京の実家に戻るのもありか)
体の節々の重さに加えて現実的な悩みまでのしかかってきたが、不思議と焦燥感は薄かった。
淡々と「どうすべきか」を考える自分が、らしいといえばらしかった。
………だがその直後に耳にした名前が、そんな冷静さを一瞬で吹き飛ばすことになる。
処方箋を受け取りに向かっていた、そのとき。廊下の奥から、看護師たちの慌ただしい声が耳に飛び込んできた。
「……胸から出血して……急に倒れたの……梓川くんって子よ」
耳が勝手に反応した。
『梓川』という名前だけが胸に焼きつき、全身の血の気が引いていく。
さっきまで一緒にバイトして、あんなに元気そうに笑っていたのに。
古賀と掛け合いまでしていた咲太が、突然そ んなことになるなんて。
頭が追いつかず、呼吸だけが浅くなる。
気がつけば、俺は処方箋を握りしめたまま廊下を歩いていた。
どこに行くのか自分でもわからない。ただ導かれるように足が向かっていた。
『梓川咲太』
プレートを見つめ続けること、何分経っただろう。
そのときだった。
コツ、コツ、と柔らかい足音が近づいてくる。
視線を上げた蓮真の目に映ったのは、帽子を被り、メガネをつけた黒髪の女性だった。
彼女はそこで一瞬、目を見開いた。
(……まさか自分よりも先に、この少年が咲太くんのところに来ていたとは)
けれど次の瞬間には表情を整え、落ち着いた微笑みに変わっていた。だが蓮真には、その一瞬の揺れなど届かない。
「……あなたは、岸和田くん、ですね」
初対面のはずなのに、その声はどこか懐かしさすら感じさせた。
蓮真は、驚きと動揺を押し隠すように返した。
「……知り合いでしたっけ?」
「………いいえ。でも……咲太くんを、見に来たんですね」
「……いや、帰ります」
喉の奥に何かが詰まっていた。
どうしても、このドアの先にいる咲太には会えなかった。
「俺みたいなやつが、“無事でよかった”なんて言ったら……こっちが壊れそうだったんで」
それに、と小さく息を吐く。
「……インフルうつすのも悪いですし」
彼女は、ふわりと微笑んだ。
——この少年は「自分の力だけで立つ」を選んだ人間だ。誰にも救われないまま、それでも歩いている。まるで、咲太くんに出会う前の自分みたいに。
だからこそ、そっと囁いた。
そして、すれ違いざま、耳元にだけ聞こえる声でそっと囁いた。
「大丈夫ですよ。岸和田くんも、咲太くんにとっての“灯り”でしたから」
その瞬間だった。
視界の輪郭がにじみ、廊下の光景が色を失う。消毒液の匂いも靴音も遠ざかり、世界が一枚膜を隔てたように遠のいた。
自分だけが、現実から切り離された別の層に沈み込む。
頭の奥で、誰のものとも言えない声が囁く。
——もし、あの春に別の選択をしてい
たら。
——もし、別の時間を歩んでいたら。
抑え込んできたはずの“選ばなかった可能性”が、記憶に干渉してくる。
見たはずのない光景が、断片のように脳裏を掠める。
けれど触れようとした途端、砂のように崩れて消えていく。
「……っ」
思わず壁に手をついた。熱が一気にぶり返したようで、視界がぐらぐら揺れる。
額を汗がつたい落ち、呼吸は荒く、喉は焼けるように痛んだ。
(……インフルが悪化したのか?)
一瞬、本気でそう思った。だがこれは発熱や倦怠感とは違う。
これは……ずっと奥に沈めていたはずの“あの感覚”だ。
呼吸が乱れ、喉がひりついた。
これは……あの時と同じ。いや、それ以上に強烈だ。
抑え込んできた断片が、彼女の言葉をきっかけに揺さぶられている。
彼女は一瞬だけその様子を見つめ、瞳の奥にわずかな揺れを浮かべた。
呼吸の乱れや熱のせいだけではない。彼の輪郭が、まるで現実の線から半歩だけ外れているように見えたのだ。
視界の端で、彼女は立ち止まった。
わずかに目を細めたその表情は、驚きとも、憂いともつかない。けれど次の瞬間には、何事もなかったかのように柔らかな微笑みに戻っていた。
「……お大事にしてください」
小さくそう告げ、彼女は歩き出す。
すれ違いざまに残った声色は、不思議な温もりと確信を帯びていた。
まるで、俺が抱えているものを最初から知っていたかのように。
蓮真は振り返れなかった。ただ、その声だけが、確かに胸の奥に残った。
ゆっくりと背を向け、廊下を歩き出す。
消毒液の匂いと、遠くで響く靴音が次第に薄れていき、自動ドアを抜けた瞬間、夜の冷気が頬を刺した。
白い吐息が闇に溶けていく。熱に浮かされた身体には堪える寒さだったが、それでも頭の奥に渦巻いていた熱だけは冷めてくれなかった。
(……咲太)
心の中で名前を呼ぶだけで、胸が締め付けられる。
それでも足は止まらなかった。振り返ることなく、俺はそのまま家へと帰った。
——このときは、まだ気づいていなかった。
あの病室前で言葉を交わした女性こそ、咲太が中学の時、七里ヶ浜であったという女の子、“牧之原翔子さん”だということに。
その日以降、インフルエンザの療養のため、目黒の実家に戻った俺は、咲太や麻衣先輩と顔を合わせなくなった。
十二月二十一日
先週かかったインフルエンザもようやく快復し、今日は毎年恒例となっている親戚の集まりに顔を出した。
場所は祖母の住む田園調布の家。久しぶりに会う親戚と談笑しつつも、明日から学校に復帰することを思えば、心は半分ほど藤沢に戻っていた。
夜になり、東横線に乗って横浜へ向かう。大きな荷物を抱えているわけでもないのに、電車の揺れに身を預けていると、なんだか一人旅にでも出ているような気分になる。
横浜駅で乗り換える途中、ふと掲示板に目をやると「サンライズ瀬戸・出雲」の時刻表が目に入った。
(……一人旅、してみたいなあ)
そんな衝動が胸の奥に浮かぶ。
少しだけ駅構内のベンチで休憩してから、藤沢駅に着いたのは二十三時ごろだった。
改札を抜けたとき、不意に見覚えのある二人の姿が目に入った。咲太と麻衣先輩だ。
けれど、いつもと様子が違っていた。
麻衣先輩は泣きはらしたような目をしていて、咲太はうつむきがちに歩いている。ひどく落ち込んでいるように見えた。
声をかけかけて、俺は思わず立ち止まった。
この雰囲気に割り込むべきではない、と直感が告げていた。
同時に、胸の奥にひっかかるものがあった。
——先週、咲太が胸から出血して倒れたことを思い出す
あの出来事と関係しているのだろうか。そしてさらに脳裏をよぎる。
病室前で、ふいに言葉を交わした見知らぬ女性の姿。彼女の穏やかな笑みと、どこか達観したような口ぶりが、記憶の中で浮かび上がる。
(……あの人も、咲太のことに関わっているんじゃないか?)
インフルで寝込んでいた間に、何か取り返しのつかないことが進んでしまったのではないか。
二人が改札を抜け、夜の街へと消えていく。俺はただ、見送るようにその背を眺めていた。
十二月二十四日
終業式の日、体育館は、冬の冷気と生徒たちのざわめきで満ちていた。
久しぶりに顔を出した俺は、壇上の校長の話をぼんやり聞きながら、ふと人混みの向こうに咲太の姿を見つけた。
だが、どこか元気がなさそうに見える。
影を潜ませながら、ただ前を向いている姿に、声をかけようとしたが、足が止まった。
終了後、国見と双葉に声をかけられる。
「蓮真、インフルエンザに罹ってたんだって?もう大丈夫なのか?」
「ああ、もう大丈夫だよ」
双葉も小さく頷いてから、少し首を傾げる。
「そのまま休んでてもよかったんじゃないの」
「流石に終業式までには復帰したかったからな。冬休みの課題も成績表も取りに行かなきゃならないし」
「……岸和田は真面目だね」
双葉はそう言って微笑んだが、その表情もどこか元気がなさそうだった。
双葉は横目に岸和田を見やり、ほんの一瞬だけ心の内をよぎらせた。
(……岸和田には話さない方がいい。翔子さんのことは、きっと説明できない領域だから)
(岸和田は観察者で、記録を与えてくれる人。だからこそ、余計な情報を開示する必要はない。岸和田は“特異点”かもしれない、けど、“当事者”じゃない。)
その確信が、彼女を沈黙へと縛りつけていた。
一方俺は、咲太のときと同じ影を見た気がして、胸の奥がざらりとした。
(……咲太の周りで、何かあったのか)
そんな予感が頭を離れなかった。
思い返すのは、十四日の夜、市民病院で耳にした言葉だった。
——「胸から出血して……急に倒れたの……梓川くんって子よ」
俺は結局、会わずに帰ったが……やはり、あれは気のせいではなかった。
(今の咲太の様子……双葉の表情……。やっぱり、あの出来事と繋がっているんじゃないか)
けれど、それ以上踏み込むことはできなかった。
俺にできるのは、観察し、記録に留めておくことだけだ。
終業式を終え、俺は東京の実家に帰っていった。
その日はとても寒く、雪も降り始めていた。
帰りの電車は冷え込む外気のせいで窓ガラスが白く曇り、景色もよく見えなかった。
揺れる座席に体を預けながら、俺はタブレットを取り出す。
——胸から出血して倒れた咲太
——双葉の影のある笑顔
——病院の前で声をかけてきた、あの黒髪の女性
あの人は確かに、俺の名前を知っていた。
初対面のはずなのに、不思議な懐かしさを伴う声だった。
なぜ知っていたのかも、なぜあの場にいたのかも分からない。
指先で文字を打ち込みながら、さっきまでの違和感を断片的に記録していった。
これまでもそうしてきたように、目の前で起きたことを事実として残しておく。
誰かを救えるわけではない。けれど、少なくとも「なかったこと」にはしないために。
電車が駅に着くたび、人の乗り降りで冷たい風が吹き込んでくる。
俺は襟を立て直しながら、さらに数行だけ書き加えた。
——観察者として、ただ記録しておく。
保存を押した画面を閉じると、瞼は自然と重くなり、残りの時間は小さな眠気に身を委ねるしかなかった。
実家にたどり着いたのは予定より一〜二時間遅れてのことだった。
雪のせいでダイヤが乱れ、乗り換えも思った以上に手間取った。
心身ともにすっかり消耗したわけではないが、それでも移動の疲れは確かに残っていた。
父の帰宅も仕事と雪の影響で遅いとのことで、夜ご飯は簡単に済ませ、風呂を上がると早めに布団へ潜り込む。
寝落ちしかけたとき、スマホが震えた気がした。
ぼんやりと“豊浜”の名前が画面に浮かんでいたように思う。
「お姉ちゃんが事故に……」
そんな文字が、LINEの吹き出しに並んでいた気がした。
ぼんやりとした記憶が頭をよぎる。だが次の瞬間には意識が沈み、すべてが闇に溶けた。
——その夜、俺は立て続けに夢を見た。
咲太が交通事故に遭い、命を落とす夢。
麻衣先輩が同じように事故に巻き込まれ、帰らぬ人となる夢。
咲太が交通事故に巻き込まれかける夢。
——そう、まるで「正夢」みたいな。
どれも胸が締め付けられるように生々しくて、目が覚めたときは汗でシャツがぐっしょり濡れていた。
起きてスマホを確認すると、豊浜からのLINEの履歴はなかった。
(……あのLINEも夢だったのか?)
布団の中で、しばらく答えの出ない疑問と冷えた息を吐き続けていた。
その疑問を解消するために、俺は豊浜に連絡を入れることにした。
《おはよう。なぁ、豊浜。昨日の夜、俺に“お姉ちゃんが事故に…”ってLINEしてこなかったか?》
豊浜はすぐに返信を返してきた。
《おはようきっしー。そんなの送ってないよ?》
画面を見つめながら、俺の胸の奥にひやりとしたざわめきが広がっていった。
……やっぱり俺の記憶の方が歪んでるのか?スマホの画面を見つめながら、胸の奥が冷たくざわついた。
本当に現実にあったことなのかはわからない。でも俺は、タブレットに“クリスマスのやりとり”を記録した。
十二月三十日
豊浜からLINEが届いた。
《今日、お姉ちゃんが事故にあう夢を見てさ、すごい怖かった》
その文面を見た瞬間、胸がざわついた。
クリスマスの夜に、俺も似たような夢を見ていたからだ。
《俺も同じような夢をクリスマスに見た》
そう返すと、すぐに既読がつき、返信が飛んでくる。
《……きっしーも同じ夢を見たの?》
《なんか、正夢になったら嫌だな……》
少し間を置いて、新しい吹き出しが現れる。
《あ、そういえば。クリスマスのとき、きっしーあたしが、“お姉ちゃんが事故に…”ってLINE送ったって言ってたよね?》
《……ああ。でもそのとき“送ってない”って言っただろ?》
《うん。送ってないよ。本当に。だから、正 夢になったら嫌だ………》
俺はスマホを握り直し、指を動かした。
《大丈夫だよ》
そしてすぐに続けて送る。
《今日は麻衣先輩のそばにずっといればいいんじゃないか?咲太が嫉妬しそうなくらい》
既読がついて、数秒後。
《それいいかも。ありがと、きっしー》
返ってきた文字は、心配を滲ませつつも、それなりに明るい豊浜らしさがあった。
それを見て、ようやく俺の胸の奥のざわめきも少しだけ和らいだ。
十二月三十一日
翌日の大晦日。
タブレットに今月の出来事を記録しながら、今年のお礼のLINEを家族や親戚、友人、古賀に、国見や豊浜、そして麻衣先輩と双葉にも送った。
数分もしないうちに、あちこちから返事が届く。
「よいお年を」とか、「来年もよろしく」とか。
誰もが同じように新しい年を迎える準備をしているのが伝わってきて、画面越しなのに胸が温かくなった。
けれど。二人だけ、返事が返ってこない人がいた。
麻衣先輩と双葉。
既読すらつかないトーク画面を眺めながら、胸の奥に小さな棘のような不安が刺さる。
(……年末で忙しいだけだろ)
そう自分に言い聞かせながら、俺はスマホを伏せた。
その夜、俺はまた夢を見た。
——咲太の通夜で気丈に振る舞おうとする麻衣先輩を慰めている夢。中学生ぐらいの女の子に、咲太の心臓がその子に移植されたことを伝えに行く麻衣先輩を、病室の前まで見送り、その何ヶ月かあと、横浜の街で麻衣先輩を「麻衣さん」と呼びながら、俺が告白する夢。
——麻衣先輩の告別式に、双葉や国見や古賀と出席している夢。麻衣先輩が亡くなり、抜け殻のようになった咲太を、中学生ぐらいの女の子が支え、少しずつ咲太が元気を取り戻していき、その何年かあと、その子と咲太の結婚式に出席している夢。
——咲太と麻衣先輩が、別の大学の医学部医学科に進学し、別のキャンパスで学んでいる夢。豊浜と、中学のとき同級生だった女子らしき子と一緒にいて、白衣に袖を通している咲太や麻衣先輩の姿を思い浮かべながら、ただ別の大学にいるのだと静かに意識している夢。
目覚める直前、俺ははっきりと気づいた。
夢の中で見たその子の顔は、文化祭のときに俺が階段で助けた少女と、病室の前で出会った女性にそっくりだったことに。
——まるで、未来の断片を覗き見てしまったかのように。あるいは、選ばれなかった可能性が夢という形で流れ込んできたかのように。
物語解説
今回は、蓮真が“観測者であり証人である”という立場を、よりはっきり浮かび上がらせる回でした。
蓮真は咲太のように、誰かを救うヒーローでも、当事者の中心に立つ存在でもありません。けれど「なかったことにしないために記録・記憶する」という役割を通して、物語の外縁を確かに支えています。
そして今回は、原作最大の山場『ゆめみる少女の夢を見ない』『ハツコイ少女の夢を見ない』と重なります。
咲太が胸の出血で倒れ、麻衣は咲太の自己犠牲に涙を流し、翔子が姿を現す。誰にとっても避けられない大事件のさなかで、蓮真は“渦中には踏み込めない観測者”として立ち会っています。
そして大晦日の夢として描いた“未来の断片”と“選ばれなかった可能性”は、ただの夢ではなく、記録と記憶の齟齬を通して流れ込んでくるものです。
文化祭で助けた少女と病室前で出会った女性、“牧之原翔子”が重なり合う違和感は、彼自身の特異点性を示しながら、今後のこの小説における山場に直結する伏線となっています。
世界が激しく揺れ動く中で、蓮真は“証人”として一行を記録・記憶し続ける。救うことはできなくても、なかったことにしないために。
ここから蓮真が「観察するだけ」で終わらず、どう寄り添い、どう残していくのか。そして咲太のように踏み込むようになるのか。
この物語の行方を、ぜひ楽しみにしていただければと思います。
蓮真は最終的にどちらを選ぶと思いますか?
-
豊浜のどか
-
広川卯月