青春ブタ野郎はパラレルスプリングの夢を見ない   作:もドえラん

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7.やさしさは、静かな日常を連れてくる

 

 一月十六日

 

 六時間目の英語の授業。咲太は寝不足らしく、机に突っ伏していた。

 

 「おい梓川、起きろ」

 

 先生の声に、咲太は顔を上げた。

 

 「おはようございます」

 

 寝ぼけ眼のまま口にしたものだから、教室のあちこちで笑いが起こる。

 

 俺は心の中で小さくため息をついた。

 

 (やれやれ、あとでノートぐらいは見せてやるか)

 

 「もういい。次、上里、読んでみろ」

 

 「え!」

 

 不意に当てられた上里沙希は、ちらりと咲太を睨みつける。

 

 その視線には、一瞬だけ「なんで私なのよ」と言いたげな恨みがにじんでいた。

 

 「You went a golf academy in Australia went you are ten… Right? Yes at past……」

 

 たどたどしい発音で英文を読み上げる上里。俺も英語のスピーキングは得意ではないから、その片言ぶりに少し同情した。

 

 チャイムが鳴り、授業が終わる。

 

 咲太はノートもろくに取らず、さっさとカバンを肩にかけて帰ろうとする。

 

 上里が何か言いたげにこちらを見ているのを横目に、俺は席を立ち、咲太の後を追った。

 

 「おい、咲太」

 

 廊下に出たところで声をかけ、自分のノートを差し出す。

 

 「さっきの授業分、写すか?一応まとめてある」

 

 咲太は一瞬驚いた顔をして、それから気の抜けた笑みを浮かべた。

 

 「……助かる。岸和田がいなかったら僕、赤点確定だな」

 

 「まぁ、寝ないことだな」

 

 そう言いながらも、なんだかんだで世話を焼いてしまう自分に、俺は苦笑していた。

 

 「そういえば」

 

 ノートを受け取った咲太に、ふと思い出して訊いた。

 

 「最近お前、麻衣先輩と一緒にいること多いよな?」

 

 咲太は肩をすくめる。

 

 「麻衣さん、もうすぐ卒業だからさ。仕事がない日は、毎日下校デートしたいだけさ」

 

 悪びれもなく、さらっと惚気るその様子に、俺は内心呆れ半分、感心半分だった。

 

 (……おいおい。よくそんなこと、本人の前で堂々とお願いできるなぁ)

 

 咲太は肩にカバンを掛け直すと、手をひらひら振りながら昇降口へと歩いていく。

 

 その背中を見送りながら、俺は少しだけ苦笑した。

 

 ——俺はといえば、今日の復習のために図書室へ向かうことにした。ノートを貸すのは構わないが、自分の勉強までおろそかにするつもりはない。

 

 夕方の静かな図書室でページをめくる時間の方が、俺にはよほど性に合っていた。

 

 一月二十一日

 

 放課後。いつも通り勉強のために図書室に寄ると、窓際の席に見慣れた背中を見つけた。

 

 咲太が珍しく参考書を広げ、真剣な顔で問題集と睨めっこしている。

 

 覗き込むと、それは高校受験用の問題集と、今年のセンター試験の問題だった。

 

 「……咲太が図書室で勉強ってのも珍しいな」

 

 そう声をかけると、咲太は顔を上げて、肩をすくめた。

 

 「ちょっとな。……高校受験用の問題、なんで解いてるんだって顔してるな?」

 

 「いや、正直そう思った。そこまで成績悪いわけじゃないだろ」

 

 すると咲太は苦笑して、答えを返す。

 

 「妹に勉強教えるための予習だよ。基礎からやり直してる」

 

 「ああ……なるほどな」

 

 納得しつつも、咲太の妹想いな優しさに少し感心する。

 

 ページをめくりながら、咲太がふと思い出したように俺に尋ねてきた。

 

 「そういえば岸和田は、大学受験の準備してるのか?」

 

 「ああ。大学は国公立に行くつもりだからな。一応、去年の春からやってる」

 

 「……流石は優等生だな」

 

 咲太は半ば呆れたように笑う。

 

 「じゃあ、センター試験の問題も何回かやったのか?」

 

 「ああ。この間やった時は……模試A判定だったな」

 

 「……はぁ!?」

 

 思わず声が大きくなり、周囲から一斉に視線が集まる。慌てて小声に戻しながら、咲太は目を丸くした。

 

 「ちょ、ちょっと待て。A判定って……高二の今の時期にか!?」

 

 「……ああ」

 

 咲太は呆気に取られたまま、問題集をぱらぱらとめくった。

 

 「……優等生キャラを隠してるタイプが一番タチ悪いな」

 

 そうぼやいた後、咲太は少し口元を緩めて言った。

 

 「……じゃあそのうち、僕も頼りにするかもな」

 

 「冗談はいいけど、真面目にやるならいつでも相談に乗るぞ」

 

 俺がそう返すと、咲太は苦笑しつつ肩をすくめた。

 

 「……頼れるやつが身近にいて助かるよ」

 

 図書室の静けさの中で、咲太の声は妙に素直に響いていた。

 

 少し間を置いて、今度は俺が尋ねる。

 

 「……そういえば、咲太はもう進路決まったのか?」

 

 咲太は視線を窓の外にやり、ぽつりと答えた。

 

 「麻衣さんと同じ大学を目指してるよ。……でも麻衣さん、国公立しか受けないらしくてさ。正直、頭悩ましてるんだ」

 

 「なるほどな……」

 

 俺は小さく頷き、自然に言葉を返した。

 

 「まぁ、いつでも聞きに来てくれよ。麻衣先輩がいない時、手伝うから」

 

 咲太は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに口元を緩めた。

 

 「……ありがとな」

 

 そう言って咲太は問題集を閉じ、カバンにしまい込む。

 

 ふと、立ち上がりかけてから思い出したように口を開いた。

 

 「……そうだ。話が変わるんだが、二十五日のバイト、岸和田変わってくれないか?」

 

 「二十五日?新宿のシフトも入ってないし、別にいいけど。なんかあるのか?」

 

 「いや、ちょっと用事があってな」

 

 それ以上は言わず、いつもの調子で肩をすくめる。俺は深く詮索せずに頷いた。

 

 「了解。じゃあ代わっとくよ」

 

 「助かる」

 

 軽く頭を下げると、咲太は「さてと、そろそろ帰るは。麻衣さんと一緒だから」と言い残し、手を振って図書室を後にした。

 

 俺はその背中を見送り、机の上の問題集に視線を戻す。

 

 「……さて、もう少しやるか」

 

 図書室に再び静けさが戻る。咲太の惚気の余韻を少しだけ引きずりながら、俺は黙々とページをめくり始めた。

 

 一月二十五日

 

 俺は藤沢のファミレスに咲太の代わりにヘルプで出勤した。

 

 シフト表を確認すると、今日は古賀も国見も入っておらず、珍しく一人での勤務だった。

 

 ——とはいえ、忙しい時間帯には変わりない。

 

 フロアに立つと、学生のグループや観光客で席はすぐに埋まっていく。

 

 慣れたオーダー取りと配膳の手際に集中しながら、(たまには一人でこなすのも悪くないか)と、心の中で呟いた。

 

 しかし今年に入ってからは、新宿より藤沢に呼ばれることの方が多い気がする。

 

 もともとは実家に帰る週末に新宿のシフトを入れていたが、気づけば週末も藤沢がホームのようになりつつあった。

 

 そんなことを考えながらふと店内を見回すと、ちょうど席に案内された金髪の編み込みサイドポニーテール、豊浜のどかを見かけた。

 

 「あ、きっしー。お疲れ」

 

 「お疲れ。どうしてここに?」

 

 「お姉ちゃんの家に帰る途中。ライブで疲れたから寄ったんだ。」

 

 俺は注文を取りつつ、少し話をすることにした。

 

 すると、テーブルの上にノートが置いてあるのに気づく。英語の長文問題集が開きっぱなしになっていた。

 

 「……受験用の長文か」

 

 思わず声に出してしまう。

 

 「なんで高校受験の問題集なんだ?」

 

 豊浜は「あ、やっぱり気づくよね」と苦笑して、ペンをくるくる回した。

 

 「……実はさ、花楓ちゃんに勉強教えてるんだ」

 

 「咲太の妹さんにか?」

 

 咲太が妹さんの勉強を教えているのは知っていた。だけど豊浜も直接そこまで関わっているのは意外だった。

 

 「芸能活動しながら勉強の手伝いって、大変だろ」

 

 「まぁね。でもお姉ちゃんもそうだし、それに、花楓ちゃんを支えてあげたいから」

 

 さらっと言うのに、声色は真剣そのものだった。その横顔を見ながら、ふと気づく。

 

 ——派手な見た目や振る舞いとは裏腹に、この子は本当に努力家で、そして人に優しい。

 

 それは前から知っていたはずなのに、改めて強く実感させられた。

 

 「花楓ちゃん、咲太と同じ高校に行きたいんだって。」

 

 「そうなのか」

 

 思わず声に出た。意外というより、どこか納得できる響きだった。

 

 咲太が妹さんと二人っきりで暮らしていることは、以前双葉から聞いたことがあった。

 

 そんな兄に寄り添うように生きてきた妹なら、そう願うのは自然なことだ。

 

 「だから空いてる時間に手伝ってるんだけど……」

 

 少し困ったように笑い、問題集をぱらぱらとめくる。

 

 「なかなかうまく伝わらない時があってさ、どうしたらいいかな?」

 

 俺は少し考えてから答える。

 

 「まずは相手のペースを見ろ。全部詰め込むと、余計に焦らせる」

 

 「うん」

 

 「あと、教える時は“答えを渡す”んじゃなくて、“考えるきっかけ”を渡す」

 

 「きっかけ?」

 

 「そう。最後に解けた時の嬉しさは、本人にしか作れないからな」

 

 豊浜は真剣な表情で頷く。

 

 「……ありがと。なんか、すごく腑に落ちた」

 

 そう言ってノートを閉じ、軽く伸びをすると、「そろそろ行くね」と笑って店を出ていった。

 

 ガラス戸の向こうに消えていく後ろ姿を見送りながら、俺は心の中で小さく呟いた。

 

 ——梓川花楓さん、か。

 

 咲太の妹で、咲太と豊浜に勉強を見てもらっている子。

 

 どんな子なのかまでは知らない。真剣に取り組む姿勢なのか、それとも臆病に構えているのか。

 

 でも二人が支えようとするくらいだから、きっといい子なんだろう。

 

 (……いずれ会うことになるのかもしれないな)

 

 静かな店内に、食器を片付ける音だけが響いていた。

 

 ——同じ頃、咲太は「バイト」と言って家を出たが、実際は新宿の通信制高校の説明会に足を運んでいた。

 

 帰宅後、そのことはすぐに麻衣に見抜かれることになる。

 

 咲太が麻衣に本当のことを話したあと、二人の間に静かな間が流れた。

 

 着替えのために上半身裸だった咲太に、麻衣がそっと視線をあげ、ぽつりと口を開く。

 

 「……胸の傷、なくなってよかった」

 

 「僕としては、あれくらいの野生味は男に必要かなって思うけどな」

 

 「バカ言わないの」

 

 短いやりとりのあと、咲太がふと思い出したように声を落とした。

 

 「そういえば……正月明けに岸和田に、『先月、胸から出血して倒れただろ』って言われたんです」

 

 麻衣の表情がわずかに揺れる。

 

 「……岸和田くん、まさか胸の傷跡のことを知ってるの?」

 

 「そんなことはないはずですけど……でも、岸和田なら、もしかしたら……」

 

 麻衣は腕を組み、考え込むように目を細めた。

 

 「もしかして……岸和田くん、翔子ちゃんと会ったことがあるのかしら?」

 

 「岸和田は牧之原さんとは……面識はない、はずです」

 

 そう言い切ろうとした咲太だったが、最後の言葉はどこか頼りなく濁った。自分でも答えを見つけられずにいる、その曖昧さが空気に残る。

 

 やがて咲太は小さく息を吐き、静かに続けた。

 

 「……でも、僕から岸和田に『牧之原さんに会ったことはないか』なんて聞くのはやめておきます」

 

 「どうして?」

 

 「岸和田は、自分から話すときは話すやつです。だからもし言わないなら、そこには理由があると思うんです」

 

 そして、どこか自分に言い聞かせるように言葉を継ぐ。

 

 「それに……牧之原さんには、幸せになってもらいたいから。確かめることでまた余計なことを思い出させるより、今のままの方がいいんです」

 

 麻衣の表情がわずかに揺れ、やがて静かに頷いた。

 

 「……そう。だったら、それでいいのかもしれないわね」

 

 一月二十九日

 

 五時間目の数学の授業

 

 黒板にびっしりと書かれた数式を、チョークの音だけが刻んでいく。外は雪が降っていた。

 

 俺は、海に降る雪というレアな景色を眺めながら、咲太の方に目をやっていた。数学の授業が始まってから、咲太は、三分おきくらいに時計を確認していた。

 

 そんな中、唐突に咲太が手を挙げた。

 

 「先生」

 

 「なんだ?」

 

 「トイレいいですか?」

 

 「我慢しろ」

 

 「漏れます」

 

 「行ってこい」

 

 「大きい方なので時間かかります」

 

 「その情報は要らん」

 

 ざわついていたクラスに笑いが広がる。肩を震わせるやつ、机を叩くやつ、女子の小さな笑い。先生もあきれ顔でチョークを置いた。

 

 咲太は頭を下げ、何事もなかったように教室を出ていった。

 

 ——けれど俺は、その背中を見ながら首をひねっていた。

 

 (……なんか、わざとらしいな)

 

 笑いを取るためだけなら、咲太にしては少し冗長だ。それにさっきから時計をチラチラと見ていたのも気になる。

 

 黒板に戻る先生の声をぼんやり聞き流しながら、考えが巡る。

 

 ——たぶん、妹さんのことだろう。

 

 咲太の妹、梓川花楓さん。 

 

 この間豊浜から聞いた彼女は、ウチの学校の願書提出日が今日までだから来ているはずだ。

 

 もしかすると咲太は、妹さんがちゃんと学校まで願書を持ってこられたか、確認しに行ったんじゃないか。

 

 (……ほんと妹想いだな、咲太は)

 

 その考えに、なんとなく笑みがこぼれる。

 

 教室の笑い声が消えても、俺の中では“咲太らしさ”がしっかりと刻まれていた。

 

 放課後、人気のなくなった教室でタブレットを開く。画面に今日の日付を書き込むと、咲太が何度も時計を見ていたこと、わざと冗長にトイレを申し出て教室を出たことを簡単にメモした。

 

 推測はしない。ただ、事実だけを残しておく。そうすることで、自分の中で最近揺らいでしまっている記憶を、かろうじて形にしておける気がした。

 

 二月二日

 

 昼休み。購買のパンを手に戻ろうとしたところで、廊下の窓際に立つ麻衣先輩に声をかけられた。

 

 「岸和田くん、ちょっといいかしら」

 

 珍しいこともある、と内心驚きながら近づく。

 

 「来週の金曜日から、京都での撮影が入っちゃったの」

 

 そう切り出した麻衣先輩は、肩をすくめてため息を漏らす。

 

 「のどかのバレンタインライブに行く予定だったのだけど、行けなくなったのよ」

 

 「そうなんですか」

 

 思わず相槌を打つと、麻衣先輩は俺を見て首をかしげる。

 

 「岸和田くん、のどかのライブ、興味ある?」

 

 「ええ、まあ。何回か誘われたこともありますし」

 

 「それならちょうどいいわね」

 

 麻衣先輩はふっと笑みを浮かべ、鞄から封筒を取り出して、こちらに差し出す。

 

 「はいこれ、バレンタインライブのチケット」

 

 「咲太は花楓ちゃんの勉強を見てるから難しいし、私も行けない。だったら、私が持ってるチケットを譲るのが一番いいかなって思って。この間、のどかから“岸和田くんをバレンタインライブに誘った”って聞いたから、ちょうど良かったわ」

 

 受け取った瞬間、一瞬言葉が詰まった。

 

 ——実は、先月自分でもチケットを買おうと公式サイトを開いたのだ。

 

 だが、画面に並んだ「¥6,500」という数字を前に、結局購入ボタンを押せなかった。

 

 学生の身でバイトも限られ、六千五百円の出費はそう軽くはない。

 

 だからこそ、こうして手に入るとは思っていなかった。

 

 「……本当にいいんですか?」

 

 「ええ。無駄にするよりは、のどかも知ってる人に見てもらった方がいいもの」

 

 麻衣先輩はそう言って微笑んだ。

 

 手の中の封筒は、思っていた以上に軽かった。けれど、その軽さの裏に託された想いを思うと、不思議な重みが掌に残っていた。

 

 教室に戻る途中、スマホを取り出して豊浜にLINEを送った。

 

 《バレンタインライブ、行くことにしたよ》

 

 送信ボタンを押して数秒も経たないうちに、既読がつく。

 

 《ほんと!?やった!》

 

 《……お姉ちゃん来れなくなっちゃったんだよね。でも、きっしーが来てくれるなら安心だよ。》

 

 画面に並ぶ文字を見て、自然と口元が緩んだ。

 

 その文字の向こうに、少し寂しそうで、それでも嬉しそうに笑う彼女の顔が浮かんでくるようだった。

 

 二月十三日

 

 来月上旬の期末試験の範囲発表が早めにあり、俺は藤沢駅前の文具店でノートを買っていた。

 

 明日は豊浜のバレンタインライブが都内である。だから今日は、先に東京の実家へ帰っておこうと思っていた。

 

 店を出たところで、背後から聞き覚えのある明るい声が飛んでくる。

 

 「きっしーじゃん!」

 

 振り返ると、白いマフラーにベージュのコートを着た豊浜が、小走りで近づいてきた。

 

 「偶然だな。買い物か?」

 

 「ううん、ちょっと明日のライブに備えて息抜き」

 

 ——明日は豊浜のライブ。

 

 彼女の歌を客席から見るのは初めてだった。楽しみと同時に、少しだけ不思議な緊張が胸の奥に広がる。

 

 「これから鎌倉行くんだけど一緒に行こうよ。暇でしょ?」

 

 誘う声はいつもの調子で明るい。けれど、その奥に少しだけ影が混じっているように見えた。

 

 続けざまに彼女は小声で付け足す。

 

 「お姉ちゃん、今日から京都に撮影行っちゃっててさ。だから、なんかひとりでいるのも退屈だし。」

 

 麻衣先輩が今日から京都へ撮影に行っていることは、俺も知っていた。

 

 明るい調子の奥に、ひとりの寂しさを隠そうとしているのが見えた。だから、豊浜がこうして俺を誘ってきた理由も察せられる。

 

 断る理由はなかった。むしろ、初めてのライブを前に彼女がどんな顔をしているのか、もっと知りたいと思った。

 

 気づけば電車のシートに並んで座っていた。鎌倉方面に行くのは正月の初詣以来だ。あのときは咲太と麻衣先輩と途中まで一緒だったな、と自然に思い出す。

 

 「窓からの海、もう撮る準備万端だろ」

 

 「バレた?」

 

 相模湾が広がると、幼い頃の記憶がよみがえる。

 

 母親に手を引かれて訪れた鎌倉。線路と潮の匂い。祖母の家に寄ってから出発したこともあった。今ではもう、あの頃の景色は少し変わってしまったけれど。

 

 夕方の由比ヶ浜。冬の海は観光写真よりずっと静かだ。

 

 「やっぱり、こういう景色は夏より冬が好きだな」

 

 「人少ないしね。……なんか落ち着く」

 

 潮風に目を細める豊浜の手には、紙袋が提げられていた。

 

 「それ、お菓子か?」

 

 「うん。練習で作ったやつ」

 

 「練習?」

 

 「そ、明日メンバーに渡す友チョコの。……試しに一個食べてみる?」

 

 差し出されたチョコは、意外なほど美味しかった。

 

 「……これ、練習じゃなくて本番でもいけるだろ」

 

 「そう言ってくれるの、きっしーが初めて。お姉ちゃんに昨日教えてもらったんだ」

 

 からかうような声の奥に、真剣さが覗く。

 

 「……これ、花楓ちゃんの応援の意味もあるんだ」

 

 「応援?」

 

 「うん。週明けに試験があるでしょ。必死で頑張ってるから、少しでも力になればって」

 

 紙袋を見下ろす横顔は真剣そのもので、俺も自然と海へ視線をやった。

 

 「妹さん、うまくいくといいな」

 

 「うん。」

 

 夕暮れの色に溶ける声は短く、それ以上の言葉は潮風に流された。

 

 鎌倉駅に戻ると、どちらも横須賀線に乗ることになった。けれど、大船から先は進む方向が違う。俺は都内へ、彼女は藤沢へ。

 

 「じゃあ、大船まで一緒だな」

 

 そう声をかけると、豊浜は安心したように笑った。

 

 電車に揺られながら、互いに大した話はしなかった。けれど、窓の外の灯りが増えるにつれ、胸の奥にほんのりと温かさが残っていく。

 

 「……ねえ、きっしー。明日、ちゃんと来てくれる?」

 

 「もちろん。初めてだからな、俺にとっても」

 

 「そっか……」

 

 彼女は少し肩の力を抜いて、心なしか表情を和らげた。

 

 「なんか今回はちょっと緊張しててさ。いつもなら全然平気なのに」

 

 その横顔は、由比ヶ浜で見せた真剣なものと同じだった。

 

 「大丈夫だろ、ちゃんと歌えてるって。」

 

 言葉を受け止めるように、豊浜は小さく笑う。

 

 「……ありがとう」

 

 窓に映ったその笑顔には、明日への不安を少しだけ和らげる色が宿っていた。

 

 二月十四日

 

 会場に入った瞬間、空気が一変した。照明の熱と観客の声援が渦のように響き、慣れない熱気に思わず肩をすくめる。

 

 ステージに七人のアイドルが並ぶと、一人ずつ自己紹介が始まった。

 

 だが、豊浜以外の名前は正直、歓声にかき消されて頭に残らなかった。

 

 それでも、観客の声援は一人ひとりに応えていて、ライブの熱気の高さを肌で感じる。

 

 やがて曲が始まる。

 

 煌びやかなライトの下で、七人は息の合ったダンスを見せた。リズムに合わせて揃う動き、その一瞬一瞬に会場の声が割れる。

 

 そしてセンターに立つ豊浜。

 

 前日、「緊張してる」と言った彼女が、今は堂々とマイクを握り、まっすぐ前を見据えて歌っていた。

 

 ——不思議だ。昨日の心細さは影も形もなく、光を浴びるたびに彼女の存在感が増していく。

 

 ただ眩しくて、ただ感心するばかりだった。

 

 ライブが終わると、ファンへの手渡しでチョコが配られるコーナーが始まった。

 

 俺の番が来ると、豊浜が笑顔で袋を差し出す。

 

 「はい、ありがとね、きっしー」

 

 受け取った瞬間、ふと違和感に気づく。袋の中のチョコは、どこか手作りの痕跡が残っていた。

 

 包装も、形も、ほんの少し不揃いで、昨日の鎌倉で食べたものと、どこか似ている。

 

 ——なぜだろう。自分に渡された分だけ、手作り感があるように思える。

 

 他のファンに渡されていくものは、もっと整った市販品のように見えるのに。

 

 ただ、理由を考えても答えは出なかった。

 

 きっと気のせいだろう。そう思うしかなく、俺はその袋を鞄にしまった。

 

 そのとき、彼女が声を潜めるように言った。

 

 「きっしー、来週は辻堂でもライブあるからさ。よかったら来てね」

 

 一瞬、返答に迷った。だが、その日はすでに新宿のバイトを入れてしまっていた。

 

 「……ごめん。来週は新宿でバイトなんだ」

 

 そう告げると、豊浜はほんの少しだけ口を尖らせたが、すぐに笑みに戻った。

 

 「そっか。それじゃ仕方ないね」

 

 「でも、今日のライブはすごく良かった。ありがとう。また必ず来るよ」

 

 「……うん!」

 

 彼女はぱっと顔を明るくして頷いた。

 

 会場を出た後も、胸の奥には小さな引っかかりと、約束めいた言葉が温かく残っていた。

 

 帰宅途中、タブレットの電源を入れる。会場の熱気、ステージで堂々と歌う豊浜の姿、そして自分にだけ手作りの痕跡が残っていたチョコ。鮮やかに思い出せる断片を短く打ち込み、保存する。

 

 ——単純に、嬉しかったのかもしれない。あんなに堂々と輝いている彼女を、自分の目で確かに見られたことが。

 

 だから残しておきたい。ただ忘れてしまうのが惜しくて。そんな気持ちに背中を押されるように、俺は今日も指先を動かしていた。

 

 ライブが終わり、観客の熱気が少しずつ冷めていく頃。蓮真が会場を後にしたその裏で、スイートバレットの控室にはまだ笑い声が響いていた。

 

 「どかちゃーん!」

 

 元気いっぱいの声とともに、広川卯月が椅子に座っていたのどかに飛びつくようにやって来た。

 

 「スイートバレット」のメンバーであり、リーダーでもある彼女は、ファンからも仲間からも「づっきー」と呼ばれている。

 

 長い黒髪をストレートに下ろし、明るく人懐っこい笑顔を浮かべていた。

 

 「さっきさ、チョコ渡してたときに見えたんだけど。きっしー?って呼んでた人いたでしょ?あの人だれ?」

 

 唐突な質問に、のどかは一瞬きょとんとした表情を浮かべる。

 

 「え、ああ……お姉ちゃんの学校の後輩、みたいな感じかな」

 

 「へぇー!」卯月の目がぱっと輝く。

 

 次の瞬間、悪びれもなく口にした。

 

 「もしかして、麻衣さんの彼氏?」

 

 「ち、違うし!」のどかが思わず声を上げる。

 

 「お姉ちゃんにはちゃんと彼氏いるから!」

 

 「あ、そうなんだ〜。じゃあ何だろう?どかちゃん、いつもと雰囲気違ったからさぁ」

 

 卯月は無邪気に首をかしげる。空気を読まないどころか、逆に斜め上の方向へ突っ込んでいく調子だ。

 

 「……づっきーはほんと余計なとこだけよく見てるよね」

 

 のどかはため息を混ぜつつも、ふっと笑った。少し考えてから、口にする。

 

 「……まあいいや。きっしーとづっきー会わせたら面白いかも。今度紹介するね」

 

 「やったー!楽しみにしてる!」

 

 卯月は拍手するみたいに両手を叩いて、子どものように喜んでいた。

 

 二月二十八日

 

 夕方。六時から頼まれていた藤沢でのファミレスのヘルプのために、家を出ようとしたその時、スマホに通知が入った。

 

 送り主は豊浜だった。

 

 《花楓ちゃん、峰ヶ原高校に合格したよ!》

 

 続けて、すぐにもう一通。

 

 《花楓ちゃんが選んだのは新宿の通信制高校だったけどね》

 

 そと話を聞いてふと思い出す。

 

 俺が高一の頃、新宿のバイトを始めた時に「近くに通信制高校が新しくできたらしい」と噂で聞いたことがあった。

 

 あのときは他人事のように聞き流していたけど、今こうして妹さんの話を聞くと、不思議な縁のようにも思える。

 

 画面を見つめ、俺は思わず返信を打った。

 

 《豊浜はそれでいいのか?妹さんの勉強、つきっきりで見てただろ》

 

 既読がつき、少し間を置いて返事が返ってきた。

 

 《そうだけど》 

 

 《でも花楓ちゃんが選んだことだもん。あたしは応援するよ!》

 

 その一文に、思わず息が止まった。

 

 ——結果よりも、その子が選んだ道を肯定できる明るさ。そのまっすぐさに、ほんの少しだけ惹かれている自分に気づいた。

 

 《スイートバレットにも通信制高校の子いるし。だから全然珍しくないし、むしろ自分に合った場所を選んだって感じ。》

 

 豊浜の言葉は迷いがなかった。彼女の選択を尊重し、肯定している。

 

 ——本人が決めた道が一番。

 

 そう思った瞬間、ふと自分の中学時代を思い出す。

 

 中学受験をして、東京の進学校に合格したあの春。

 

 周囲のクラスメイトもみんな受験していたし、自分も当然そうするものだと思っていた。

 

 家族や親戚からも期待され、褒められ、誇らしいはずだった。

 

 ——けれど、実際に通ってみるとどうにも肌に合わなかった。

 

 結局は馴染めず、横浜の中学へ転校することになった。

 

 (……あのとき、“自分で選んだ”つもりでいて、実は流されていただけだったんだよな)

 

 だからこそ分かる。妹さんが自分の意思で選んだ通信制高校のほうが、ずっと意味がある。

 

 それに、俺は妹さんが不登校だったことも、双葉から聞いて知っている。

 

 そして、自分自身も一歩手前までそうなりかけたことがある。

 

 だから思う。

 

 通信制という選択肢を“自分の意志で”選べたことは、間違いなく前に進む力になる、と。

 

 俺は短く「なるほどな」とだけ返した。

 

 胸の奥に、不思議と温かさが残っていた。

 

 その直後、再び通知が届いた。

 

 《あ、そういえば今スイートバレット地方遠征中で、明日は新潟でライブなんだ!》

 

 《この間のバレンタインライブ来てくれたお礼に、お土産買ってこれるけど……きっしー何がいい?》

 

 少し考えてから、冗談半分に打った。

 

 《しゃけの塩辛》

 

 すぐに「既読」がつき、笑っているような返事が返ってくる。

 

 《きっしー渋いね〜!》

 

 《まぁ魚好きだからな》

 

 《じゃあ今度渡すね!楽しみにしてて!》

 

 そのテンポのよいやりとりに、自然と口元が緩んだ。

 

 ——と、スマホの時計を見て息をのむ。

 

 思った以上にやりとりに時間を使っていて、シフトに間に合うギリギリの時刻になっていた。

 

 「やべっ……!」

 

 慌てて鞄を手に取り、俺は玄関を飛び出した。

 

 その頃、シフトを一時間ずらしてもらった手前、咲太はいつもより真面目に働いていた。

 

 空席を片付け、レジにも率先して立つ。やがて店長に休憩を促され、店員用ドリンクを注いでいると、国見にチョコレートパフェを押し付けられた。

 

 「六番テーブルに可愛らしいお客さんが来てる」

 

 半信半疑で向かうと、制服姿の牧之原翔子が笑顔で待っていた。

 

 パフェを前に、翔子は幸せそうにスプーンを運んだ。

 

 「体調もよさそうだね」

 

 「はい、手術を受けたのが、もう一年前ですから。麻衣さんのおかげです」

 

 映画や咲太の募金習慣の話に及んだあと、翔子は表情を引き締める。

 

 「少し気になることがありまして……たまに夢を見るんです。先に未来を経験した“何人ものわたし”を外から眺めている夢や、闘病を繰り返す夢。夢だとわかっていても、目が覚めると息苦しくて……でもわたしはどうしてか、それをずっと覚えているんです」

 

 そう言いながら、翔子は、文化祭で一瞬交差した“ある少年”の感覚を思い出す。だが、それを口にはしなかった。咲太が知らない方が幸せだと思ったから。

 

 咲太は胸の奥にざわつきを覚えながらも、あえて軽く返した。

 

 「夢ってやつは変なもんだよな。僕だって時々、妙にリアルなのを見るし」

 

 やがて翔子はスマホを差し出した。霧島透子の名で投稿された動画。花楓の友達が話題にしていた動画だ。

 

 「わたしが見てきた何通りもの未来の記憶の中に、霧島透子さんの音楽は存在していませんでした。」

 

 咲太はしばし黙り込む。

 

 ——もしかしたら僕の胸の傷跡のことを知っていた岸和田も、牧之原さんと同じように“記憶を保持したまま”なのだとしたら。同じ違和感を感じているんじゃないか?

 

 だが、その推測を翔子に伝えることはしなかった。

 

 もし伝えればきっと彼女を余計に縛ってしまう。

 

 今はただ、牧之原さんには幸せになってほしいから、彼女が安心して笑顔で前を向くことができるようにする方が大事だった。

 

 咲太は首を傾げつつも、「どの道、誰かが不幸になったわけでもないなら、放っておけばいいって。ま、未来を変えたことで得をした人間がいるなら、ちょっとは分け前がほしいけどさ」と言った。

 

 翔子は少し笑って、「今日も食べたかったチョコレートパフェを食べました」と小さな幸せを誇らしげに語る。

 

 そして、言いにくそうに視線を落とす。

 

 「……わたし、引っ越すことになりました」

 

 「いつ?どこに?」

 

 「明日、午前十時の便で、沖縄に行きます。」

 

 「そりゃまた急だな」

 

 「あたたかいところの方が体の負担も少ないので」

 

 落ち着いた声で説明する翔子に、咲太はただ頷いた。

 

 「学校は?」

 

 「三月は向こうに慣れるのに使って、春から通います。麻衣さんには手紙で伝えて……咲太さんのこともお願いしました」

 

 翔子は空色の封筒を見せる。麻衣からは「落ち着いたら咲太と一緒に遊びに行く」と返事が来ていた。

 

 「沖縄か……いいな」

 

 「向こうの生活に慣れたら、咲太さんにも手紙を出しますね。悩殺水着写真もつけますね。」

 

 「それは三年後くらいで頼む」

 

 「じゃあ、そうします。麻衣さんと大喧嘩になるようなものを送りつけますから」

 

 「そりゃ、楽しみだな」

 

 冗談を交わしながらも、別れの時は近い。

 

 「牧之原さん」

 

 「はい?」

 

 「いってらっしゃい」

 

 エールを込めて差し出された咲太の手を、翔子はしっかり握り返した。

 

 「いってきます」

 

 その後店を出た翔子は、小さな鞄を持ちながら歩き出した。

 

 ちょうどその頃、ファミレスのシフトに遅れそうで急いで向かっていた俺は、角を曲がったところで彼女と肩が触れ合ってしまった。

 

 「ごめんなさい、急いでて」

 

 思わずそう口にして振り向くと、彼女は一瞬だけ目を見開いた。

 

 けれどすぐに、何かを理解したように柔らかく微笑んだ。

 

 「……いつか、やさしい人になれますね」

 

 そう言葉を残して、彼女は足早に去っていった。

 

 その女の子の顔は、文化祭のときに階段で助けた少女、そして大晦日の夢に現れた少女の顔にそっくりだった。

 

 胸の奥がざわつき、思わず声をかけようと口を開きかけたが、振り返ったときには、もう彼女の姿は人波に溶けていた。

 

 残されたのはただ、その言葉だけ。

 

 俺は立ち止まり、しばらくその余韻に囚われていた。

 




物語解説

今回のお話は、原作の時間軸のすき間を埋めるように、咲太の妹・花楓の受験期を通して、のどかのバレンタインライブ、そして「記録に残らない少女」との邂逅を交えて描いてみました。

英語の授業や図書室の場面のような、ささやかな日常の中に、咲太や麻衣、のどかがそれぞれ大切なものを守ろうとする姿を差し込むことで、彼らの未来へと続く時間がより鮮やかに感じられるでしょう。

一方で今回も蓮真は、咲太や麻衣、のどかといった当事者の物語の中心には立ちません。

彼は“救う人”ではなく、“救いを証言する人”。だからこそ、咲太の妹を思う視線や、麻衣からのチケット譲渡、のどかの手作り感のあるチョコといった、一見すれば些細な場面を拾い上げる。誰かにとっては通り過ぎる出来事を、確かにあったと刻みつけるのです。

しかし、やがて蓮真は、この“証人”としての立場のままではいられない瞬間に直面するでしょう。

その時、彼はどんな役割を果たしていくのか。これからの物語で明らかになっていくその姿を、ぜひ見届けていただければと思います。

蓮真は最終的にどちらを選ぶと思いますか?

  • 豊浜のどか
  • 広川卯月
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