青春ブタ野郎はパラレルスプリングの夢を見ない 作:もドえラん
三月一日
卒業式の日、校門前は晴れやかな空気に包まれていた。
麻衣先輩は制服姿のままコサージュをつけ、ゆったりとした仕草で周囲に微笑みを返していた。
「麻衣先輩、卒業おめでとうございます」
俺は深く頭を下げる。
「ありがとう、岸和田くん」
麻衣先輩は少し驚いたように目を細め、それから柔らかく笑った。
その笑顔を見ながら、胸の奥に言葉が浮かんだ。
「……麻衣先輩。俺はこれからも“観察者”でいるつもりです。先輩を、咲太を……静かに見届ける役目として」
麻衣先輩は一瞬きょとんとした表情を見せ、それから小さく頷いた。
「……ふふ、心強い“介添え人”ね」
鞄の持ち手を握り直し、校門の外を見やった麻衣先輩が言う。
「このあと七里ヶ浜で、咲太と会う予定なの」
「そうですか」
俺は微笑んで頭を下げる。
麻衣先輩は振り返り、軽く手を振ってから歩き出した。
校門を抜けていく背中を見送りながら、胸の奥に残る余韻を噛みしめた。それは春の風のように、少しだけ温かいものだった。
三月二日
卒業式の翌日。
窓の外に広がるグラウンドからは、野球部の掛け声が聞こえてくる。昨日の卒業式の余韻はもう消え、校内はすっかり平常運転に戻っていた。
三年生がいなくなって閑散とした空気はあっても、そのことに違和感を覚える生徒は少ない。
物理実験室。ビーカーの水が沸騰し、双葉が無言のままキャップをかぶせて火を消す。咲太はその間、アルコールランプの炎を吐息で揺らしながら、ぼんやり眺めていた。
双葉がマグカップのコーヒーをかき混ぜながら切り出す。
「桜島先輩によく似た女の子だけどさ」
「ん?」
「梓川しか見てないんだよね?」
「ああ」
「その場にやってきた桜島先輩には見えてなかった?」
押しの確認をしてくる
「そうだ」
咲太は深く頷いて答えた。
「もしそれが『ふたりは同時に存在できない』、もしくは『ふたりを同時に認識できない」という状態なのだとしたら、桜島先輩と、桜島先輩によく似た女の子との間には、何かしらの因果関係が成立していることにはなると思う」
「それって、ふたりの双葉を同時に観測できなかったときみたいにか?」
「もしくは、翔子ちゃんと翔子さんを同時に観測できなかったようにね」
「………なるほど」
「梓川の腹部にできた新しい傷跡との関係はわからないんだけど」
「……ああ、その件なんだけどさ」
咲太は小さく息をついた。
「実はさ、年明けに岸和田が、“胸から出血して倒れただろ?”って言ってきたんだ。インフルで病院に来てたときに聞いたって言い方をしてたけど……僕が牧之原さんのことを思い出す前に、それを口にしたんだよ」
双葉の眉がぴくりと動いた。
「……岸和田が前の傷跡のことを覚えてたってこと?だとしたら本当に岸和田は“特異点”だね」
「……ああ。でも気になるんだよ。僕や麻衣さんが忘れていたことを、岸和田だけが証人みたいに覚えていたことが。」
それを聞いた双葉は、ふと、文化祭の後日、岸和田が相談してきた「階段の踊り場で中学生くらいの女の子を助けた話」を思い出す。
「……実は、文化祭の後に、岸和田から、階段の踊り場で、中学生ぐらいの女の子を助けた話を聞かされたんだ。」
「そうなのか。」
「うん。それで、もし、その中学生が翔子ちゃんだったとしたら、そのとき量子もつれが起きてたとしても不思議じゃない。」
「……なるほどな」咲太は頷いた。
「文化祭で牧之原さんを案内してたとき、僕と一緒じゃないタイミングもあった。そこで会ってたなら可能性はあるな。」
咲太はそう言いながらも、ふと眉を寄せる。
彼の中である疑問が膨らんでいく。
「でもさ……量子もつれって、牧之原さんが世界をやり直したタイミングで解けるんじゃないか?牧之原さんは岸和田と出会う前からやり直してるから、そもそも量子もつれが成立しない気もするけど。」
双葉は一瞬驚き、それから口元を緩める。
「梓川にしては鋭い考察だね」
「しては、は余計だ。」
「………でも、こういう考え方もできる」
双葉はマグカップを指先で軽く叩きながら続ける。
「過去も未来も含めたあらゆる可能性の世界は、常にすぐそばにあるっていう解釈がある。多世界解釈っていうんだけど」
「……ああ」
「多世界解釈では、並行世界は全部独立して存在し続ける。翔子ちゃんが世界をやり直したとしても、その世界が消えるわけじゃない。量子もつれは“その世界”の時間と空間に作用する。つまり、観測できなくなっただけで、その世界が残ってるなら、量子もつれによる記憶の引き継ぎは起こり得るんだよ」
「……いっちょんわからん」
「簡単に言えば」双葉は苦笑した。
「ゲームをリセットしても、別のセーブデータが残ってれば続けて遊べるでしょ?」
「……ああ、それなら」
咲太はようやく理解して、納得の息を吐いた。
黒板の上の時計はもうすぐ四時。咲太は鞄を手に立ち上がる。
「デートの約束でも?」と双葉が聞く。
「ま、そんな感じだな」
「浮気はほどほどにね」
軽口に見送られ、咲太は物理実験室をあとにした。
同じ日の夕方、俺はまたも藤沢のファミレスにヘルプで入っていた。
今日は咲太はシフトにはおらず、代わりに古賀がホールに出ていた。
——ここまで頻繁に呼ばれると、頼りにされてるのか、それともただの便利屋だと思われているのか、自分でもよくわからない。
新宿が本来の持ち場のはずなのに、気づけば藤沢のほうが「ホーム」に近くなりつつあった。
テーブルの片付けをしていると、入口のベルが鳴る。
古賀がすぐに駆け寄った。
「いらっしゃいませ……なんだ、先輩か」
「今日の僕は客だぞ」
咲太が入ってくる。
「知ってる。シフト表に先輩の名前なかったし……ち、違うから」
「何が?」
「先輩のシフトをチェックしてたんじゃなくて、今日のシフト誰がいるんだろって見ただけだからね」
「それについては何も言ってないだろ」
「絶対変なこと考えてたでしょ!」
咲太は肩をすくめて答える。
「そりゃ、思春期の男子なんて、大体変なこと考えてるしな」
(……何言ってんだこいつは)
思わず心の中で呆れる。
「うわぁ、先輩最低!」
古賀が大げさに後ずさる。
「今日も古賀はかわいいなぁって思ってただけだぞ」
「お、思うのはいいけど……かわいいって言うな!」
「じゃあ、思うのもやめるわ」
「思うのはいいって言ったじゃん!」
(なんだこの漫才は……)
俺は思わずため息をついた。
そこへ、もうひとり新しいお客さんが入ってきた。
落ち着いた雰囲気の女性。
静かに店内を見渡し、今二名になりました、と言う。
俺は視線を咲太に向け、軽く「よ、咲太」とだけ声をかけた。
咲太は一瞬こちらを見て、いつもの気の抜けた表情を浮かべる。
思いがけず再会した“証人”の存在が、先ほどの会話を頭の中で繰り返させる。
(……こいつが覚えてる、ってことがまた厄介なんだよな)
「……岸和田か。今日は働く側じゃなくて座る側だ」
「……了解。じゃあご案内します」
咲太は苦笑しながらも、席に案内される。
俺は女性の方に軽く会釈し、二人を窓際のテーブルへと導いた。
トレーを抱えたまま前を歩きつつ、ちらりと背後を振り返る。
咲太は女性と並んで歩きながら、話しかけている。
その横顔は、さっきまで古賀と軽口を叩いていた顔とは違って、どこか真剣に見えた。
(……やっぱり知り合いか)
二人が席に着くのを確認してから、俺は無言で一礼し、再びホールへ戻っていった。
何かを話し始めた二人に目をやりながらも、店が急に混み合ってきたため、俺は古賀と一緒に再びホールに専念した。
店が混み始め、俺と古賀は慌ただしくホールを回っていた。
皿を下げて戻ってきた古賀が、ちらっと咲太の方を見やる。
「ねぇ……さっきの人誰かな、きっしー先輩?」
「さあな。知り合いっぽかったけど」
俺もトレーを抱えながら返す。
後に知ることになるが、この人は臨床心理士の友部美和子さん、咲太の妹さんのスクールカウンセラーだった。
「先輩、年上の女の人が好きなのかな?」
「……確かに」
思わず納得してしまう。
(まぁ、麻衣先輩も年上だしな……)
「ああいう落ち着いた雰囲気の人とも知り合いとか……先輩、やっぱりただの変態じゃないのかも」
「いや、変態というよりは変人だろ」
「それはそうかも。……でも」
古賀はわざとらしく声を落とし、俺を見上げる。
「きっしー先輩も、負けず劣らずの変人だと思うけど」
「おいおい……」
思わず苦笑しながら肩をすくめる。
古賀は楽しそうに笑い声を漏らし、再びグラスを磨き続けた。
その横顔を見ながら、俺も心の中で「まぁ否定できないか」と小さくため息をついた。
三月八日
新宿のファミレスでモーニングのシフトに入っていた。
日曜日の朝ということもあって、店内には買い物前の親子連れや、部活動に向かう高校生グループ、旅行客らしいキャリーバッグを持った人たちの姿が目立つ。
その中でも、今日はやけに中学生くらいの子どもと、その親らしき客が多かった。
ホットコーヒーとトーストのセットをテーブルに運んだとき、眼鏡をかけた穏やかそうな中年の男性が「ありがとう」と微笑んだ。声をかけやすい雰囲気に、つい気になっていたことを口にする。
「すみません、少し伺いたいんですけど……今日は何かあるんですか?」
男性は少し驚いたように目を瞬かせ、それから頷いた。
「ええ、近くで通信制高校の説明会があるんですよ。うちの娘も参加していましてね」
「そうなんですね。ありがとうございます」
軽く頭を下げ、テーブルを離れた。
(通信制高校の説明会……ああ、そうか)
思い出す。数日前、豊浜から聞かされた「咲太の妹さんが進学する予定の通信制高校」の話。
今日がその説明会だったのか、と合点がいき、どこか胸の奥で納得する。
モーニングの忙しさに追われながらも、そのやり取りが頭の片隅に残り続けた。
シフトを終えて帰りの電車に揺られていると、スマホにLINEの通知が入った。
《明日時間ある? 新潟のお土産渡すね!》
送り主は豊浜だった。
画面を見つめ、自然と頬が緩む。明日会えることに、心の奥が少しだけ弾んだ。
その直後、もう一件メッセージが届いた。
《あ、そうだ。昨日お姉ちゃん、大学合格したんだって》
《そうなのか。おめでとうございますって麻衣先輩に伝えておく》
《うん、お願い!》
電車を降りてから、意を決して麻衣先輩にメッセージを送った。
《豊浜から伺いました。大学合格おめでとうございます》
少し間を置いて、短く返信が返ってくる。
《ありがとう、岸和田くん》
スマホを見つめながら、胸の奥が温かくなる。指先が自然と次の言葉を綴っていた。
《この間、咲太から、麻衣先輩と同じ大学に行くと聞きました。先輩がお忙しい時は、なるべく勉強のサポートをしますね》
既読がつき、数分後にまた一文。
《頼もしいわね。でも……咲太のこと、無理のない範囲でお願いね》
短い言葉に、麻衣先輩の表情が浮かぶようで、自然と息をついた。
(俺にできることは限られている。でも、それでもいい。二人の未来を見届ける役として支え続ければ)
そう思いながらスマホを閉じた。
三月九日
期末試験初日の夕方。
前日に「明日時間ある? 新潟のお土産渡すね!」と連絡をくれていた豊浜と、改札前で待ち合わせをしていた。
駅の雑踏の中、アイドルのレッスン帰りらしい豊浜の姿を見つける。
「きっしー!」
声をかけられて振り返ると、彼女が小さな紙袋を差し出してきた。
「はい、これ。この間の新潟ライブのお土産!」
中を覗くと、瓶詰めの「しゃけの塩辛」が入っていた。思わず笑ってしまう。
「ほんとに買ってきたんだな」
「うん!渋いチョイスするから探すの大変だったんだから」
「悪いな。ありがたくいただくよ」
そう言って受け取ると、豊浜はどこかいたずらっぽい笑顔を浮かべた。
「それとね、十四日にあたしのバースデーライブあるんだ。よかったら来ない?」
「十四日って……豊浜の誕生日だったんだな。おめでとう」
「ありがとう。……あれ、そういえばきっしーっていつなんだっけ?」
「二十日だよ」
「へえ、結構近いね」
唐突なやりとりの中で、互いの誕生日が思った以上に近いことを知る。ほんのささいなことなのに、不思議と距離が縮まった気がした。
豊浜は続けて言った。
「お姉ちゃん、その日、山梨でロケだから来られなくて、だから咲太と花楓ちゃんを誘おうと思ってる。……それに、紹介したい子もいるし。」
彼女の目はまっすぐで、誘う気持ちに迷いはなかった。
だが、俺は少し申し訳なさそうに息をついた。
「悪い。十四日は模試があるんだ。どうしても行けそうにない」
豊浜は一瞬だけ残念そうな顔をしたが、すぐに明るく笑った。
「そっか。しょうがないね」
俺も笑みを返しながら言った。
「代わりに、今度誕生日プレゼント買うよ」
「え、ほんと? 楽しみにしてる!」
そこでふと思い出して、俺は聞いた。
「そういえば、この後どこか行くのか?」
「うん、花楓ちゃんの卒業パーティー。咲太の家でやるんだ」
「なるほどな。賑やかになりそうだ」
彼女のはにかむ笑顔に、不思議と胸が温かくなった。夕方の雑踏の中、そのやりとりだけが妙に鮮やかに残った。
そういえば、豊浜が紹介したい子って、誰なんだろう。
図書館へ向かう足取りの裏で、その言葉だけが小さなひっかかりとして残り続けていた。
三月十三日
期末試験も終わり、放課後。
明日は豊浜の誕生日だ。
模試でライブに行けない分、せめてプレゼントぐらいは……そう思い立って、藤沢駅前の雑貨屋に足を運んだ。
店内には文房具やマグカップ、アクセサリーなど、ちょっとした贈り物にちょうどいい品が並んでいる。
(何がいいだろうな……)と棚を見ていたとき、不意に聞き慣れた声が背後からした。
「……あれ、きっしー?」
振り返ると、手に小さなアクセサリーを持った豊浜が立っていた。
「どうしたんだ、こんなとこで」
「えっと……その……」
豊浜は一瞬、口ごもってから、慌てたように笑った。
「スイートバレットの他のメンバーの誕生日が近くて、プレゼント探してたの」
「……なるほどな」
(……それにしては、なんだか妙に照れてるような……)
「きっしーは?」
「俺は豊浜のだよ」
「……っ!」
豊浜の耳が一気に赤くなる。
「な、なんで先に言うの……ずるい」
「仕方ないだろ、明日なんだから」
それでも、嬉しさを隠しきれないように唇が笑みに緩んでいた。
「じゃあ、あたしは……秘密」
「誰にあげるかくらい言えよ」
「……内緒。でも、きっと喜んでくれると思う」
嘘と本音を混ぜて言う豊浜の横顔は、どこか照れくさそうで、俺はそれ以上追及するのをやめた。
会計を済ませて店を出ると、豊浜がスマホを取り出して言った。
「あ、そうだ。最近この曲、すっごい流行ってるんだ。お姉ちゃんに教えてもらったんだけど。」
画面を覗き込むと、動画サイトのサムネイルに、霧島透子「Social World」という名前が表示されていた。
緑の公園を背景に背中越しに女性の姿が映し出され、透き通るような歌声が小さなスピーカーから流れる。
「この人のMV、めちゃくちゃいいんだ。なんかさ、聴いてると背中を押される感じがして」
豊浜は少し照れくさそうに笑った。
(……霧島透子。妙に耳に残る名前だな)
そんなやりとりの後、駅へ向かう道すがら、豊浜がふとこちらを見て、小さく笑う。
駅前で別れるとき、彼女はぽつりと呟いた。
「きっしー、二十日、楽しみにしてて」
振り返る前に、豊浜は人混みに紛れて歩き出した。
三月十四日
朝一番で、俺はスマホを取り出し、短くメッセージを送った。
《誕生日おめでとう。今日のライブ頑張って。》
数分後、すぐに既読がつき、スタンプと一緒に返事が届く。
《ありがとー!》
画面を眺めながら、ふと昨日の彼女の言葉を思い出した。
——「二十日、楽しみにしてて」
迷った末に、思い切って指を動かす。
《昨日だけど、もしかして……俺のためにプレゼント探してくれてた?》
既読がついて、しばらく間が空いた。やがて返ってきたのは、少し照れくさそうな文字だった。
《……そうだよ。内緒にしたかったのに》
短い一文なのに、彼女の頬が赤くなっているのが目に浮かぶようで、自然と笑みがこぼれる。
《……ありがとな》
そう送ると、画面に返ってきたのは、照れ隠しのように元気いっぱいのスタンプだった。
指が止まらないうちに、さらに一文を添える。
《あと俺からのプレゼント、渡すの明日になっちゃうけど……いいか?》
ほどなくして、明るい絵文字と一緒にメッセージが届いた。
《もちろん!楽しみにしてるから!》
三月十五日
弱い雨がぱらつく、あいにくの天気だった。
傘を差しながら藤沢駅近くのカフェへ向かうと、すでに豊浜が席で待っていた。窓の外では、濡れたアスファルトに街灯の光が淡く反射している。
「お待たせ」
「全然。あたしも今来たとこ」
形ばかりのやりとりをして席に着くと、俺は持ってきた小さな紙袋を机に置いた。
「一日遅れだけど……誕生日プレゼント」
「ありがと!」
驚いたように紙袋を開けた豊浜の目が、ぱっと輝いた。
中には、白磁に淡いブルーの花模様が描かれたマグカップ。
シンプルだけど質がよく、手に馴染む落ち着いた作りだった。
「雑貨屋で見つけたんだ。豊浜に似合うと思って」
「……可愛い! でも大人っぽい感じもする」
両手で包み込むように持ち上げながら、豊浜は小さく笑った。
「ありがとう、すっごく嬉しい」
窓の外を打つ雨音が、不思議と心地よく響く。
「ライブで疲れたときに、これでコーヒーでも紅茶でも飲んでくれ」
「うん。じゃあ、これでお茶飲みながらパフォーマンス考える!」
彼女の声は、雨に濡れた街を照らす光みたいに明るかった。
——昨日のライブに行けなかった分、この瞬間を渡せてよかった。そう思えた。
三月十六日
二年最後の期末試験も先週で終わり、今週はその答案が返ってきた。
授業も午前中だけなので、周りのクラスメイトも、教師も、気持ちが緩んでいる。
消化試合のような、緊張感にかける空気が教室にはあった。学校全体が今はそうなってしまう時期。
俺もその空気に流されるように、ぼんやりと窓の外を眺める。脳裏に浮かぶのは、試験や受験のことや、最近の豊浜や古賀とのやり取り。
……けれど、そこにいるはずの『あるもの』の輪郭だけが、きれいに抜け落ちていることに、俺は気づかなった。
——咲太が違和感に襲われたのは、一時間目の授業がはじまってすぐのことだった。
英語の教師が、出席番号順に期末試験の答案を返していくとき……名字が「梓川」の咲太の出席番号は一番。だから、最初に名前を呼ばれるはずだった。
だけど、「梓川」は呼ばれなかった。
「……?」
二番の生徒から呼ばれて、三番、四番と続いていく。
急ぐ理由もないので、あとで確認すればいい。このときはそう思った。
やがて、クラス全員に答案が返却される。点数に満足しているクラスメイトもいれば、「終わった……」と燃え尽きているクラスメイトもいる。
その中で、咲太は席を立つと、教卓に近づいた。
「先生、僕、返してもらってません」
英語の教師にそう告げる。けれど、その言葉に返事はなかった。
「それじゃあ、一問目から解説していくな」
黒板の方を振り返った英語の教師は、チョークで英文を書き出したのだ。
「先生。僕もテストを返してもらっていいですか?」
チョークの手を止めて、英語の教師が振り返る。
「ここ、間違い多かったから気を付けろよ」
だけど、口に出た言葉は、問題の解説とその注意点についてだった。
咲太のリクエストは完全に無視されている。スルーされている。いや、英語の教師には、咲太の声が聞こえていない様子だった。
肩に手を置いても、ぴくりともしない。反射的にすら動かない。
そして、それは英語の教師にだけ起きた異変ではなかった。二年一組のクラスメイト全員が、咲太の行動に無反応だった。
「誰か、僕のことが見えてるか?」
両手を大きく振って、クラスメイト全員にアピールする。
誰も「見えてる」とは言ってこないし、咲太の行動に顔を響めたり、笑ったりもしない。
何事もなく、教師の解説を真面目に聞いている生徒もいれば、机の下でスマホをいじってにやにやしている生徒もいる。
咲太に対して不満をぶつけてくることに定評がある上里沙希も、このときばかりは答案を睨みつけて、間違えた問題を真面目にノートに書き写していた。
——そのすぐ後ろの席に、岸和田が座っている。
「……岸和田。お前には見えてるよな?」
上里の机の脇を抜けて、後ろの席に近づき、咲太は声をかけた。だが返事はなかった。
岸和田は満点の答案にペンを走らせながら、自分の答案に何かを書き込んでいる。眉間に皺を寄せ、集中しているように見える。
「おい!」
顔の前で大きく手を振ってみせる。さらに、机の端を指で強く叩いた。
それでも岸和田はぴくりとも反応しない。目の前に咲太が立っているというのに、存在そのものが完全に抜け落ちているかのように。
「……嘘だろ」
胸の奥が冷え込んでいく。
麻衣さんのときは違った。あの春、誰からも見えなくなった彼女を自分以外で唯一認識していたのは岸和田だった。彼は“観測者”だった。
だが今、その観測者にすら咲太は見えていない。
観測者に届かない状況
——それはつまり、あの春よりも、麻衣さんの思春期症候群よりも、はるかに深刻な事態だということ。
「どうなってんだよ……」
声を張っても、返ってくるのは英語教師の解説と、ノートを取るペンの音だけだった。
わかっているのは、咲太の姿が周囲から見えなくなっているということ。
声も聞こえていない。存在が認識されていない。
まるで、去年の春に麻衣さんを襲った思春期症候群と同じように……
状況については、そう解釈すればいい。
教卓の前にぽつんと立ち尽くす咲太を放置したまま、期末試験の解説はどんどん進んでいっている。
「………とりあえず、どこまで見えないか確認しとくか」まだ咲太のことが見える人が、どこかにいるかもしれない。
授業中にもかかわらず、咲太は教室のドアを開けて廊下に出た。
その瞬間だった。
——蓮真は、奇妙な感覚に襲われた。
視界の端を何かがすり抜けた気配。けれどそこには誰もいない。
耳に届いていた教師の声も、クラスメイトのざわめきも、一瞬だけ水の底に沈んだように遠ざかっていく。
空気の流れさえ止まったかのように、周囲から切り離される。まるで自分だけが「時間の外側」に押し出されたみたいに。
「……?」
思わずペンを止め、顔を上げる。だが、目の前に広がるのは、いつも通り答案に向かう生徒たちと、黒板にチョークを走らせる教師の姿だけだった。
違和感はほんの刹那で過ぎ去り、再び世界は元の音と色を取り戻す。
(……今のは、なんだったんだ)
自分でも理由のわからないまま、胸の奥にざらついた感覚だけが残った。
教室を出た後、咲太は自分が「見えなくなっている」ことを確信しつつあった。
双葉のクラスを訪ねても、国見のクラスを覗いても、誰ひとりとして反応しない。最後の頼みの綱とばかりに古賀のクラスに足を踏み入れたが、彼女も例外ではなかった。
「古賀もダメってことは、結構やばいよな、これ……」
口に出しても、声は誰にも届かない。自分で言いながらも、実感が伴わなかった。
試しに公衆電話へ駆け込み、麻衣さんや豊浜に電話をかけてみた。だが受話器の向こうからは、発信音すら聞こえてこない。
学校の外に出れば、自分のことを認識してくれる人がいるかもしれない。だが、そこまで楽観的に考えられる状況でもなかった。
「問題は、こうなった理由だよな……」
頭を巡る思考の果てに、昨日母親と再会したことが浮かんでくる。あの再会こそが引き金だったのではないか。
咲太は小机駅に降り立ち、父親が借りている社宅のマンションに足を運んだ。母親と花楓がいる、あの場所へ。
玄関を抜け、和室に入ると、机の上に母親の手記が置かれていた。そこには花楓への想いと後悔が綴られていた。
しかし、母親の手記には『あるもの』がなかった。完全に抜け落ちていた。そして、三月十五日に綴られた手記を見て、咲太の疑念は確信に変わった。
———— 花楓は本当に立派な女の子になっていた。とてもいい子に成長していた。
うれしい。
今度こそ、花楓の母親になりたいと思う。
一緒にがんばろうって花楓が言ってくれた。
また“家族三人”で暮らせるようになりたい。
そのためにがんばりたい。————
昨日の日付で書かれた文章を読み、咲太の疑念は確信に変わった。
自分の藤沢での生活は、母親を犠牲にして成り立っていた“合格点”だったのだ。
咲太は今日までの自分に後悔はない。やれるだけのことはやってきた。苦しくて、悔しくて、どうにもならないことに涙したこともあった。だが、それらを受け入れて、乗り越えて、今の自分になれた。
小さな幸せを幸せだと思えるようになったし、“やさしさにたどり着きたい”とも思えた。大切なことを知り、大切な人ができた。
——でも、それが間違いだったのかもしれない。
胸の奥に、そんな影が差す。
何も言わずに咲太は社宅を出た。父親と母親と花楓。三人だけで家族は成り立っているという現実から、逃げるように藤沢へ戻ってきた。
たどり着いた七里ヶ浜の海。潮風にさらされながら、頭の中にはひとつの思いだけが残っていた。
「麻衣さんに会いたいな」
その直後だった。
三月一日にも見かけた、麻衣さんによく似たランドセル姿の少女が、波打ち際に立っていた。
「おじさん、見えないの?」
「なんかそうみたい」
「やっぱり迷子なんだ」
「人生の迷子かもな」
「じゃあ、私が一緒に帰ってあげるね」
にこりと笑った少女が差し出した手を取り、江ノ電で終点の藤沢まで向かう。
そして、咲太は現実から外れ、ある可能性の世界へと連れて行かれた。
三月十七日
目を覚ました瞬間、咲太は違和感に気づいた。
ここは藤沢のマンションではない。窓の外は横浜の住宅地。
それ以上に大きな違い。
リビングに父親と母親、そして花楓が揃っていることだった。父親はタブレットで新聞をめくり、母親はコーヒーを温め、花楓は制服で朝食を取っている。
崩れてしまったはずの「家族四人の暮らし」が、ここでは当たり前のように続いていた。原因は同じでも、この世界では自分が放送室を占拠していじめを解決したらしい。母は倒れず、家族は壊れていない。
——そんな世界だった。
登校のために改札へ向かうと、豊浜と鉢合わせた。
「あ、咲太」
その笑顔も声も元の世界と同じ。麻衣さんとも接点があると知れて、胸の奥に安堵が広がる。
「あ、やば!電車の時間。じゃあね!」
手を振って改札へ消えていった。
すぐ後に古賀とも鉢合わせた。
元いた世界と同じく、今日も古賀はかわいいな〜と、からかうように口にすると、古賀はむっとした表情で即座に言い返してきた。
「てか、彼女いる人が、他の女の子のこと『かわいい』とか言ったらダメなんだからね。しかも、絶対に桜島先輩の方がかわいいから、絶対に嘘じゃん」
その後も、ぶつくさと咲太への不満を呟き続ける。わざと聞こえるように。
「まー、僕の麻衣さんだからなぁ」
軽口を返すと、古賀はさらに顔を赤くして睨みつけてきた。麻衣ときちんと付き合っているらしい——それは心底ほっとした。
「先輩、また夕方ね」
「夕方?」思わず聞き返す。
「バイト。きっしー先輩も来るらしいよ」
この世界でも岸和田と接点があるらしい。
「あー、そうだったな」白々しく返すと、
「今日は春休みに行くっていう短期留学の手続きで、学校は休みだもんね」
「……なんで古賀がそんなこと知ってるんだ?」
「え? 先輩が話してたじゃん。きっしー先輩と仲良いじゃん。」
(……僕と岸和田、そんなに仲良かったか?)
「四時からだよ。忘れると店長に怒られるんだから」
古賀は手をひらひらさせて改札を抜けた。
胸の奥には「違う世界に来てしまった」という確信だけが重く残る。しかも、都合が良すぎる世界。
そのあと、咲太は知っている峰ヶ原高校にはいなかったはずの存在と出会った。
——赤城郁実
中学の同級生。男子を避けるような神経質な雰囲気——目立たないが逆に印象に残る女子。
咲太は詳しく知らない。ただ、彼女が中二の頃、生徒会を手伝っていた岸和田に「好意」を抱き、三年で接点を失って小さな失望を抱え、異性に壁を作るようになったことなど、知る由もなかった。
二年一組の顔ぶれは基本同じ。違うのは赤城がいることだけ。立ち位置も変わらない。
上里には嫌われ、上里の後ろの席には今日は欠席の岸和田の机。クラスメイトからは距離を置かれている。国見も双葉も関係はそのまま。
放課後、理科室で双葉に相談する。
「とりあえず、病院に行けば」
「僕はどこも悪くないぞ」
「今の話を総合的に判断すると、梓川の頭はどこか悪いよ」
「本当なんだって」
「仮に話が全部本当なのなら………梓川の言う通りなんじゃない?」
「それは、つまり?」
「昨日までは『A』という可能性の世界にいて、今はこっちの『B』という可能性の世界にやってきた」
黒のマジックで「A」「B」と書いたビーカーを並べ、攪拌棒をAからBへ移す双葉。世界がビーカー、攪拌棒が咲太だ。
「相談に来ておいてあれなんだが、双葉の方こそ大丈夫か?」
「これは、梓川の世迷言を信じた場合における考察だから、私は大丈夫」
「そうでなくても、過去や未来を含めたあらゆる可能性の世界は、いつもすぐ側にあるという量子力学的な解釈もあるからね」
「でも、普通は認識できないんだろ?」
「重なって存在しているから認識できない。できたとしても、人間の常識はきちんとそんなものを無自覚に否定できる。普通はそういうふうにできている」
——普通はね。
咲太は自分が特別だとは思っていない。ただ翔子と出会い、身をもって知っただけだ。命を落とす世界、麻衣が事故に遭う世界——可能性を知っているだけ。
「そういうわけだから、梓川もどっちにするか、さっさと決めたら」
「どっちって?」
「梓川らしく、向こうの世界に帰ってがんばるか………」
「それ、僕らしいか?」
「それとも、負け犬として、こっちにいるか」
「酷い言われようだな」
「状況から判断するに、梓川は逃げ出してきたんでしょ? 居心地のいい可能性の世界に」
そのとき、ポケットのスマホが震えた。表示は——麻衣さん。
「出るのが遅い」
「来年に備えて私の家で勉強を見てあげる。」
会えば、この世界で生きるのも悪くないと思ってしまう。だから、
「ごめん、今日は双葉と話すことあるんで……やめておきます」
「謝ることじゃないわよ」
通話が切れ、すぐにLINEの通知がきた。
《今日のバイトよろしくな咲太。》
岸和田だ。履歴は麻衣さんと並ぶ頻度でびっしり。くだらない冗談、課題、シフト、長年の友人のようなやり取り。
本当に、この世界では岸和田と仲がいいんだな……。
スクロールして過去のやり取りを見返していると、不意に声をかけられた。
「梓川、何スマホと睨めっこしてんの?」
顔を上げると、双葉が冷ややかな目を向けていた。
「岸和田からLINEが来てたんだよ」
「……ふうん」
咲太はしばらく画面を見つめたまま、ふと尋ねた。
「なあ双葉。この世界だと、僕と岸和田ってどんな関係なんだ?」
「側から見れば、親友にしか見えないね」
即答だった。双葉は腕を組み、当たり前のように続ける。
「それに、桜島先輩や私の思春期症候群も、一緒になって解決してくれたよ?」
「……は?」
思わず唖然とする。口を開けたまま固まる咲太に、双葉はあくまで淡々と頷いた。
「梓川と岸和田は、いつも“二人で”動いてた。少なくとも、私から見たらそうだったよ」
信じられない気持ちでスマホを見返す。そこには確かに、思春期症候群を共に乗り越えたやり取りが残っていた。
——それでも、これは“なりたかった咲太”の世界であって、“今の自分”の世界ではない。麻衣さんに会いたい。帰らないといけない。世界で一番大切な麻衣さんのもとへ。
「でも、どうやって帰るつもり?」
「どうすればいいと思う?」
「来たときの逆をやるのなら、桜島先輩によく似た小さな女の子を捜すしかないんじゃないの? 迷子だった梓川をこの世界に連れてきたのが、その女の子なんだとしたらね」
「ま、そうなるよな」
「捜す当てはあるわけ?」
「なくはない」
女の子に会ったのは三度。夢の中、そして七里ヶ浜で二度。あそこに行けば会える気がした。
「明日からは、元の僕をよろしくな」
「そんなこと言って、明日も相談に来ないでよ」
「そのときは、今以上に笑ってくれ」
「じゃ、行くわ」と軽く手を振って理科室を出る。
——明日会うのは元の世界の双葉だ。そうでなければならない。
七里ヶ浜へ向かう途中、昇降口で赤城とすれ違う。
「日誌、職員室に持って行っておいたから」
「え?」
「教卓の上に置きっぱなしだった」
「あれって、あそこに置いとけばいいんじゃないのか?」
「担任に提出するように、春のホームルームで言ってたでしょ」
「そうか。悪い。ありがと」
「いいけど……」
外へ出る。
「赤城は、平気なんだな」
「平気って何が?」
「僕に話しかけるのが」
「私は、あの噂がでたらめだって知ってるから。そう、岸和田くんからも聞いてるし」
「……岸和田から?赤城、面識あるのか?」
「………中二の時、同じクラスだったから」
「……あの事件の時から、梓川くんは岸和田くんとよく一緒にいるよね」
「……え?」
「だから、噂なんて気にしてない……」
前を向き、足元を確かめるように歩く赤城。男子と並んで歩くことに慣れていない自意識が伝わる。
「でも、なんで峰ヶ原高校にしたんだ?」
校門を出ると踏切の警報。遮断機が下り、赤城は黙ったまま。
「梓川くん………」
電車が通過しても、結ばれた唇はほどけない。
やがて警告音が止まり、遮断機が上がる。
「………なんでもない。忘れて」
「私、あの電車乗るから」と告げ、赤城はひとり走り出した。綺麗なフォームで駅へ消えていく。
この世界の咲太は、本当に出来がいい。花楓を救い、家族を守り、遠距離通学、麻衣さんとの関係、岸和田との親友みたいな距離、赤城の今の反応
——揃いすぎている。妄想と言われた方が納得できる。こんな可能性を受け入れがたい。
——でも、これでは今の咲太が失敗作みたいじゃないか。
ひとり、踏切を渡る。
失敗作なら失敗作でも構わない。失敗作なりに精一杯生きればいい。
母親に電話したあと、七里ヶ浜へ。波の音に身を委ねていると、その女の子はいた。
「おじさん、また迷子なの?」
右隣に、ランドセルの女の子。
「もう迷子じゃないっての」
「どうして?」
「帰る場所はわかっているから」
「おじさん帰るの?」
「そうだよ」
「どうして?」
「ずっとここにいればいいのに」
「そうだなあ。ここは居心地がいいもんな。でも、ちょっと居心地がよすぎるんだよ」
「いいのに、だめなの?」
「だめってことはないけどさ」
女の子は首を傾げる。
「みんな、自分でなんとかしたんだよ」
「みんなって?」
「麻衣さんも、古賀も、双葉も、豊浜も、かえでと花楓も、牧之原さんも翔子さんも……みんな、自分で乗り越えたんだ」
歩きやすい道ではなかったはずなのに。——それでも逃げずに、自分の心と向き合って乗り越えた。だから——
「母さんのことは、自分でなんとかするよ」
「おじさん、本当に帰りたいんだ」
「そうだよ。そう言ったろ?」
「……あっちに帰っても、みんなおじさんのこと忘れてるよ」
女の子の綺麗な瞳が、咲太を見透かす。
「それでも帰りたいんだよ」
「どうしても?」
「どうしても」
「絶対に?」
「絶対の絶対に」
咲太は逃げずに、その瞳を見返した。
「……わかった。じゃあ、手伝ってあげる」
小さな手がぎゅっと握る。
次の瞬間、意識は急速に失われ、テレビの電源がぶつっと切れるみたいに、世界は闇へ落ちた。
三月十八日
授業は午前中で終わり、俺は自習のために図書室へ向かった。
春の光が差し込む静かな空間。平日の昼下がりのせいか、誰もいないはずだった。
——なのに、誰かがいる。
ページをめくる音のようなものがかすかに聞こえた気がする。
本棚の影に視線を向けても、誰の姿もない。
気のせいだろうか、と自分に言い聞かせながら、ノートに視線を戻した。
夕方、「図書室、閉めますよ」と司書の声が響いた。
荷物をまとめて立ち上がる。
その瞬間、背中にひやりとした感覚が走った。
——やっぱり、誰かがいた。
振り返っても、そこには誰もいない。
でも確かに、もう一人分の気配が自分のすぐそばに残っていた。
図書室を出て、昇降口を抜けたころ、ポケットのスマホが震えた。
画面には「豊浜」の名前。
《二十日なんだけど、レッスンがあるからその後にプレゼント渡すね!》
《藤沢駅に夕方十七時ぐらいに来て!》
思わず笑みがこぼれる。
彼女らしい、勢いのある誘い方だった。
その温かいやりとりの裏で、さっきの図書室の感覚が胸の奥に残っていた。
——誰もいないはずなのに、確かに“誰か”がいた。
三月二十日
春分の日であり、俺の誕生日。
朝、スマホを開くと、通知がいつもより多く並んでいた。
《誕生日おめでとう、岸和田くん。》
麻衣先輩からの短いメッセージに、一瞬目を瞬かせる。
——たぶん、豊浜経由で知られたのだろう。
双葉からは淡々と、《まあ、一年生き延びたわけね。おめでとう》
国見からは軽いノリで、《おめでと!》
古賀からは絵文字まじりで、《おめでとー!きっしー先輩、これからもよろしくです☆》
……思い返せば、以前の雑談で誕生日を口にしたことがあった。だから彼らから届いたのも不思議じゃない。
そうやって画面を眺めながら歩いていたら、待ち合わせ場所の藤沢駅前が見えてきた。
「誕生日おめでとう、きっしー!はい、これ!」
藤沢駅前で待っていた豊浜が、白いリボンのついた小包を差し出してくる。
「……誕生日プレゼント?」
「そう! タブレット用のポーチ。きっしー、いつもタブレットに記録とかまとめてるでしょ? 絶対使うと思って」
「……ありがとな」
気取らない笑顔に、素直にそう言えた。
しばらく沈黙が続いたあと、気づけば口が勝手に動いていた。
「……なぁ、今度一緒に出かけないか」
「え?」豊浜が目を瞬かせる。
「行き先は任せる。豊浜のチョイスで」
らしくもなく、そんな誘い方をしていた。
自分でもよくわからない。ただ、バレンタインライブと、咲太の妹さんの進路の件で、豊浜が見せたあの表情が頭に残っていた。
結果よりも、相手の選んだ道を肯定できる明るさ。
そのまっすぐさに、少しだけ惹かれていたのかもしれない。
中学一年の誕生日。ループの中で誰にも祝われないのが当たり前だと諦めていた自分にとって、こうして真正面からプレゼントを渡されることが、心を揺さぶったのかもしれない。
豊浜は一瞬きょとんとしたあと、にやっと笑った。
「へぇ〜、きっしーから誘ってくれるなんて。いいよ!楽しみにしとく」
胸の奥が妙にざわついた。それは誕生日の高揚感とは少し違っていた。
夜、自宅に帰ると、宅配ボックスにもうひとつの包みが置かれていた。
父からのプレゼントは、新しいタブレット。
「そろそろ新しいのに変えたいだろう、大学進学に備えてな」という短いメモと一緒に。
充電を済ませ、これまでの記録を移行する。
——観察ノート代わりに続けてきた日記とメモ。
画面に並ぶデータを確認していると、ふと違和感に気づいた。
(……あれ?)
三月十六日から十九日の間だけ、ぽっかりと咲太の記録が抜け落ちていた。
その期間、俺が咲太と一度も顔を合わせず、一行も書き残していないなんてあり得ない。
いつもなら、短文でも必ず記してきたのに。
「……なんでだ?」
過去ログを何度も確認しても、空白は埋まらない。思い返しても、咲太の様子だけが霞がかっていた。
まるで、俺の中から咲太だけが薄く消しゴムをかけられたみたいに。
(そういえば……教室と図書室でもおかしな感覚があった)
誰もいないはずなのに、“誰か”がいた。
あの気配は、きっと咲太だった。
胸の奥に冷たい違和感が広がる。これはただの記録漏れじゃない。
——咲太の周囲に“何か”が起きていた証拠だ。
「咲太……お前もか……」
思わず呟いた言葉は、部屋の静けさに吸い込まれていった。
机に置いた新しいタブレットを開き、空白のページに打ち込む。
——三月十六日から十九日までの間、咲太に関する記憶が曖昧。顔を合わせていたはずなのに、記録が抜け落ちている。
——状況は、かつて麻衣先輩が“誰にも認識されなくなった”時に似ている。
「……まさかな」
指を止め、深く息を吐く。けれど否定しきれない。
俺が記録を取り損ねるなんて、これまで一度もなかったのだから。
たとえ二人を見届ける役割を担っていても
——それでも、咲太と麻衣先輩だけの物語には、俺が関与してはいけない。
だからこそ、俺は“観察者”として、ただこの事実を書き留める。
刻まれたその文字だけが、俺に許された“証人”としての役割なのだから。
三月二十三日
週明け。終業式を終えた体育館を出ると、クラスメイトたちは新しい春休みの予定を口にしながら騒がしく廊下を進んでいった。
その流れの中で、ふと隣に並んだ咲太と軽口を交わす。
「今日も退屈な式だったな」
「まあな。校長の話、半分以上聞いてなかったろ」
(……気づけば、こうして肩を並べるのも当たり前になったんだな)
けれど、心の奥では昨日からの違和感が消えない。
空白の四日間。記録の抜け落ち。
そこから霞のように薄れていく咲太の記憶。
(……今なら)
タイミングを逃せば、もう二度と聞けなくなる気がした。
だが、口を開こうとした瞬間、足が止まる。
(……聞いていいのか?)
本来なら俺は“観察者”であって、こいつの物語に踏み込むべきじゃない。
知らないふりをして、ただ記録だけ残す。それが俺にできることのはずだ。
視線を横に向ければ、咲太はいつもの調子で顎をかしげ、くだらない冗談を言おうとしていた。
(……でも)
気づけば、同じ時間を過ごすうちに肩の力の抜けた会話が増えていた。
笑って軽口を叩き合えるくらいの関係。だからこそ、黙っていられなかった。
俺は意を決して、咲太に問いかけた。
「なぁ、咲太」
「ん?」
「三月十六日から……十九日までのあいだ。お前、何かあったか?」
一瞬だけ、咲太の足が止まった。
すぐに歩みを戻しながら、軽く肩をすくめる。
麻衣さんがいるだけで、幸せを感じられる。
双葉や国見がいてくれると、心強く感じられる。
古賀や豊浜といれば、笑いが絶えない。
花楓がいてくれると、がんばれる。
そして、岸和田がいてくれれば——僕は僕でいられるのかもしれない。
そんな思いが胸の奥に浮かび、咲太はふっと力を抜いた。
「……さあな。特に何もなかったよ」
わざとらしいくらい軽口の響き。けれど、ほんのわずかに言葉の端が固かった。
俺は深追いせず、曖昧に頷いてみせた。
(……やっぱり、何かあったんだろうな)
すると咲太が、ふっと穏やかな顔で俺を見た。
「お前、気づいたんだろ?」
少し胸が跳ねたが、平静を装う。
「まあな。……記録に穴ができていたから。それで、何があったんだ?」
咲太は足を止めず、正面を見たまま答えた。
「可能性の世界に行ってた」
「は?」思わず素っ頓狂な声が漏れる。
「信じなくてもいいよ。でも、そこでのお前は……僕と結構仲が良かったらしい」
わずかに笑うその横顔は、冗談めかしているようで、どこか本気だった。
(……何を言ってるんだ、こいつは)
そう思う一方で、不思議と納得もしていた。
咲太なら、そういうことがあってもおかしくない。そうやっていつも走ってきた奴だから。
「……なるほどな」
曖昧に返すと、咲太は少し肩をすくめた。
昇降口を抜けるとき、彼は俺の背中を軽く叩いた。
「三年になってもよろしくな。“証人”」
その言葉に、否応なく胸の奥が熱を帯びた。
観察者であり、証人であり、そして、友人。
そんな関係を受け入れることに、俺は少しも迷いを感じなかった。
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語れない 眠れない トロイメライ
あなたの見てる正体
誰も読めないカルテ
不可思議 知りたいだけ
今日もひとりごと
なんにも無理をしないで
愛されたい
有耶無耶 さよなら 軽い眩暈
あなたのいない現象界
誰も読めないカルテ
自意識 溢れ出して
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次回
『青春ブタ野郎はステップノートの夢を見ない』
豊浜のどか
『さすがきっしー、ブタ野郎だね』
この章をもって、『青春ブタ野郎は寄り添いキャンパスの夢を見ない』の物語は一区切りを迎えます。
時系列でいえば、『青春ブタ野郎はおるすばん妹の夢を見ない』から、『青春ブタ野郎はランドセルガールの夢を見ない』までのお話です。
今章では、前章以上に今後の展開につながる伏線を散りばめています。これらは次章以降で異なる角度から回収され、別の意味を帯びていくことになります。
次章からはいよいよ、原作ではほとんど描かれていない「高校三年生編」へと入ります。進路、距離、選択。二年生までに積み上げられた関係が、三年生という時間軸でどう揺れ、どう試されるのかを描いていきます。
物語を進めるにあたっては、原作の雰囲気に寄り添いつつもオリジナル展開を多く含む予定です。
ドラマCDや短編SSで語られた出来事や台詞も拾い上げ、既存の時間軸に矛盾なく溶け込むように配置していきます。そうすることで、ファンの方ほど「あの場面の裏側はこうなっていたのか」と楽しんでいただきたいと思います。
さらに次章からは、これまで少ししか登場してこなかったもう一人のメインヒロインも本格的に物語に関わってきます。
原作の高校生編はここでひと区切りですが、この物語の歩みは止まりません。
感想や考察など、一言でもいただけたら、次章を書くうえで大きな励みになります。
これからも、岸和田蓮真の視点が照らす青春に、どうぞお付き合いいただければ幸いです。
蓮真は最終的にどちらを選ぶと思いますか?
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豊浜のどか
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広川卯月