青春ブタ野郎はパラレルスプリングの夢を見ない 作:もドえラん
1.春風と共に、新たな縁は確かに芽吹く
三月三十日
まだ春休みの半ば。
川沿いを吹き抜ける風が、予想よりずっとやわらかかった。
「お待たせ、きっしー」
振り向くと、マスクとキャップに春色のストールを巻いた豊浜が小走りで近づいてくる。
アイドルの外出らしい配慮なのに、全体からは隠しきれない明るさが滲み出ていた。
「よく見つけたな」
「だって、きっしーは立ってるだけで“きっしー感”あるし」
「……それ褒めてるのか?」
「もちろん」
彼女はマスクの端を指で押さえながら、少しだけ声を落とした。
「……この前、お姉ちゃん風邪ひいちゃってさ。だから今日は予防でマスクしてきたの」
「えっ、麻衣先輩が?」
初耳の事実に思わず聞き返す。
「もう治ったから大丈夫。でも、ちょっと反省したんだ。私ももっと気をつけなきゃって」
そう言って、豊浜は肩をすくめる。
「意外と気遣いするんだな」
「失礼な。あたしだってちゃんと気遣いできるんだから」
今日のきっかけは、俺からの誘いだった。
——どこか行こう、チョイスは任せる…と。
「で、なんで目黒川なんだ?」
「ニュースで見たの。ここ、もう満開なんだって。普通は四月に入ってかららしいけど」
桜並木はすでに見頃を迎え、川面に花びらが点々と浮かんでいた。
平日の昼間だというのに、歩道はスマホやカメラを手にした人たちで埋まっている。
「そういえばきっしーって、ここ詳しそうな顔してるね」
「そりゃまあ……実家、この辺なんだ」
「えっ、そうなの? 初耳!」
「言う機会がなかっただけだ」
「えー、そういうのは早めに言ってよ。じゃあ今日は案内お願い」
人混みを避けて裏通りに入り、地元で人気の古い喫茶店をいくつか紹介すると、豊浜は目を輝かせて頷いた。
「なんか、こういうのいいね。観光じゃなくて、生活の匂いがする場所」
「俺もこういう場所は気に入ってる」
川沿いから少し離れると、目黒雅叙園の重厚な建物が姿を現した。
「せっかくだし、ここ寄ってみるか」
「あ、テレビで見たことある! “百段階段”ってやつでしょ?」
「そうそう。昔の文化財の建物で、季節ごとに展示もやってるんだ」
木の香りが残る長い階段を上りながら、豊浜は「すごーい!」と何度も声をあげる。
天井や欄間に描かれた絵に足を止めては、スマホを構え、またはしゃいでいた。
「こういうの、舞台のセットとか参考にしたくなるなあ」
「アイドル視点だな」
「えへへ、つい職業病」
見学を終えると、すぐ近くの神社にも立ち寄った。
境内の桜はまだ七分咲きで、参道には散り始めの花びらが舞っていた。
「ここ、子どものころ初詣で来たな」
そう言うと、豊浜が興味深そうに振り向く。
「へえ、どんな思い出あるの?」
「……大凶が出てな。しかも二年連続」
「え、二年も!?」
「子ども心にショックすぎて、大泣きした」
「へえ、きっしーでも泣くんだ」
「そりゃ小学生だからな」
「なんか想像できちゃった。かわいい」
豊浜はくすくす笑いながら、手水舎で指先を濡らし、空を仰いだ。
俺もつられて笑ったけれど、胸の奥には別の春の記憶が疼いていた。
——あの年の春。
大凶の文字どおり、本当に“大凶”みたいな出来事が家族を襲った。
母を失った現実は、子どもだった自分にとって、涙でごまかせるものじゃなかった。
けれど、それは胸にしまっておく。
彼女に打ち明けることじゃない。
ただ「子どものころ大泣きした」という軽い思い出だけを渡しておく
「でもさ、大凶を経験してるなら、今はそれ以上落ちないってことじゃない?」
「……まぁそういう解釈もあるな」
「よし、じゃあ今日は大吉分、楽しもう!」
その笑顔は、満開の桜にも負けないくらい、鮮やかに映えていた
桜の枝が川面に垂れ下がり、風が吹くたびに花びらがさらさらと流れていった。
豊浜が何気なく口にする。
「きっしーはさ、ここで家族と来た思い出とかある?」
一瞬、喉が詰まった。言葉を探す間に、彼女は首を傾げる。
「……あ、なんか変なこと聞いちゃった?」
「いや……」
笑ってごまかす。けれど胸の奥には、消えない春の記憶が沈んでいる。
——母を失ったあの年。
忙しい父に代わって、俺は田園調布の祖母に預けられた。
せっかく周囲の期待に応えて入学した私立中学も、足が遠のき、気づけば教室の机は空席のまま。
そして、あの不可解な現象……選ばなかった可能性が現実に干渉し時をループする、思春期症候群が始まった。
結局、横浜の中学に転校することで、どうにか生活をやり直すしかなかった。
——それを、いま隣を歩く彼女に話すことはできない。
この春の桜を「ただ綺麗だね」と笑い合う方が、きっと今は正しいから。
「……来年も一緒に見に来ようね」
豊浜がそう言って、マスクの下で微笑む。
俺は「そうだな」とだけ返し、胸にしまった過去をそっと桜吹雪に紛れさせた。
帰り際、駅までの道すがら、豊浜がぽつりと呟く。
「次は……東京じゃなくて、きっしーの神奈川案内もしてほしいな」
「考えとくよ」
たぶん、このやり取りも、桜と同じように記憶に咲き続ける。そんな気がした。
改札前まで来たとき、豊浜が思い出したように言った。
「あ、そうだ。今度、卯月紹介するね」
「卯月?」
「そ。広川卯月って子、スイートバレットのメンバーで、あたしの友だち。……っていうか戦友かな」
そう言って、少しだけ誇らしげに笑う。
ふと、前に彼女が口にした言葉を思い出す。
「……もしかして、前に“紹介したい子がいる”って言ってたの、その広川さんのことか?」
「あ、覚えてたんだ。そう!」
豊浜は目を丸くして、それから嬉しそうに笑った。
「きっときっしーと気が合うと思うんだよね。卯月、人見知りしないし」
「……なんか賑やかになりそうだな」
「でしょ?」
豊浜は軽く鞄を揺らしながら続けた。
「来週も卯月と一緒に、江ノ島の海岸清掃に行くんだ。咲太、それに花楓ちゃんも一緒に」
「お姉ちゃんも、ビーチクリーンサポーターやるからさ」
「へえ、そうなのか」
ふと思いついて口にする。
「でも麻衣先輩はともかく、咲太と……咲太の妹さんも、その広川さんと知り合いなんだな」
「うん。花楓ちゃんが通信制高校を選んだのは、卯月のおかげだから」
「なるほどな。てことは、前に言ってた”スイートバレットにも通信制高校の子がいる”って、その広川さんのことか?」
「そうそう!」
豊浜は楽しげにうなずいた。
「……なんか、どんどん人間関係が広がっていくな」
「ふふ、いいことでしょ?」
そう言って、豊浜は軽く手を振りながら、改札の向こうへと消えていった。
春の空気と桜の残り香の中で、俺はその名前を反芻した。
——広川卯月
次の出会いが、また日常を少し変える予感がした。
四月二日
春休みのヘルプで呼ばれた藤沢のファミレスで、偶然にも咲太と古賀と同じシフトになった。
休憩中、制服の袖を揺らしながら古賀がぽつりと口を開いた。
「……来週のクラス替え、不安なんだよね」
咲太はすかさず茶化す。
「古賀はまた進級ごときにビビってんのか?」
「真面目に考えてよ!」と古賀は頬を膨らませる。
俺は笑いをこらえつつ、素直に疑問を口にした。
「なんでそんなに心配なんだ?」
しばし迷ったあと、古賀は小さな声で答えた。
「一番の友達の奈々ちゃんと離れたくないのと……玲奈ちゃんと一緒になったら、ちょっと気まずいから」
「気まずい?」
問い返すと、古賀はわずかに視線を落とし、ためらいがちに言った。
「……前にきっしー先輩に、ループのこと話したでしょ?」
その言葉に、胸の奥がざわついた。
咲太が眉をひそめる。
「お前……古賀のループのこと、知ってたのか?」
「……まあ、詳しいことまでは知らないけどな」
古賀は意を決したように語り出した。
「玲奈ちゃんが好きだった前沢先輩に告白されそうになって……それを断るために、先輩に嘘の恋人を頼んだの。どう回避すればいいか悩んで。気づいたら同じ日を何度も繰り返してたんだ……」
彼女の言葉に咲太が軽く肩をすくめる。
「そのせいで古賀は、香芝さんのいるクラスのメイングループから外れて、米山さんの方に行くことになったんだよ」
ひと息ついてから、咲太は付け足す。
「でもその時のループじゃ、お前と僕の関わりも、麻衣さんが介添え人を頼むこともなかったんだ。双葉に相談したらさ……お前は“特異点”だって言われた」
「……そういうことか」
胸の奥で、ようやくひとつの線がつながった気がした。
双葉が初めて俺に会ったとき、未来シミュレーションの話を持ち出し、特異点と呼んだ理由。それは俺が、古賀のループの可能性の外にいたからだ。
「……多分、古賀がループしていた時は……麻衣先輩と咲太はまだ正式な恋人じゃなかったんだろ?だから俺は介添え人にならなかったんじゃないか?」
「……確かに」
咲太はうなずく。
だが、その瞬間ふと脳裏をかすめる。
——いや、もしかしたら。
俺自身も、形は違えど過去にループを経験していた。
その記憶と選ばなかった可能性のせいで、古賀の“思春期症候群”から外れた存在になっていたんじゃないか……
胸の内に、答えの出ないざわめきだけが残った。
四月五日
江ノ島の海岸清掃を終え、咲太は麻衣と二人っきりになっていた。
「いいことした後は、気分がいいなぁ……」
咲太が伸びをする。
「咲太!」
声に振り返れば、麻衣が近づいてくる。
「麻衣さん……仕事はもういいの?」
「ええ。のどかたちは?」
「づっきーの足を洗いに行ってる」
「海に入ったの?」
「ダビデくんを助けるためだったんです」
「何それ……」
麻衣は呆れ顔を見せる。
「それより麻衣さん」
「ん?」
「イースターといえばウサギですよね?」
「卵もあるでしょ?」
「イースターといえばウサギですよ」
「卵もある」
「イースターといえば、バニーなんですよ」
「バニーガールの衣装なら着ないわよ」
「ええ〜? もうすぐ僕の誕生日もくるのに」
「いつまであの衣装とっておくつもりよ?」
「一生かな……」
麻衣はため息をつきながらも言った。
「だったら、今日は咲太の部屋も掃除しましょうか? 受験勉強に集中できるように、必要ないものは捨てちゃったほうがいいわよね」
「僕が大学に合格したらご褒美に着てくれる約束なのに?!」
「そんな約束してないでしょ。話を勝手に作るな」
「でもそうね……咲太が大学に合格したら、今年は行けなかった卒業旅行にでも行きましょう」
「二人で?」
「何よ? 嫌なの?」
「今から行きたいくらいだけど」
「合格したらって言ったでしょ」
咲太は小さく息をつきながら笑った。
「それまでに、豊浜は姉離れさせないとな」
麻衣は少しだけ目を細めて、穏やかに口を開く。
「それなら大丈夫よ」
「……なんで大丈夫なの? 麻衣さん」
問いかける咲太に、麻衣は一瞬だけ視線を逸らし、すぐにいつもの落ち着いた笑みを戻した。
「なんでもないわよ」
麻衣は少し真顔になって言う。
「咲太は落ちたら許さないから」
「……麻衣さんも楽しみにしてるから?」
「咲太より楽しみにしてるわよ。どう、やる気は出たかしら?」
咲太は大げさに両手を上げた。
「ああ、あああ、早く帰って勉強がしたいな!」
麻衣はくすっと笑って、浜辺の方を振り返る。
「あ、のどかたち、戻ってきたわよ。それじゃあ帰りましょう。咲太がやる気になっているうちに、一杯勉強しないとね」
潮風がふたりの間を抜け、江ノ島の空はすっかり夕暮れに染まっていた。
豊浜たちが砂浜の方から戻ってくるのが見えた。卯月はまだ足を拭いていて、花楓はタオルを抱えて待っている。
「ただいまー!」
濡れた髪を揺らしながら、卯月が駆け寄ってくる。
「そういえばさ」息を整えつつ、豊浜が思い出したように言った。
「来週、卯月をきっしーに紹介するんだ」
「へえ、そうなの」と麻衣先輩が微笑む。
咲太は腕を組みながら、「づっきーと岸和田、会わせたら面白そうだな」と言う。
「岸和田さんって誰、お兄ちゃん?」
花楓が首をかしげて咲太を見上げる。
「僕のクラスメイトで、中学も同じなんだ」
「へえ……そんな人いたんだ」
花楓が素直に驚いたように呟く。
麻衣がやさしく言葉を添える。
「静かだけど頼りになる子よ。そうよね?
のどか?」
「べ、別に!あたしは頼ってないよ!」
のどかが慌てて否定する姿に、みんなの口元が緩む。
そこに卯月が足をぱたぱたさせながら駆け寄り、にやっと笑った。
「へえ! そのきっしー、なんかキビキビしてそうだね!」
一瞬の間を置いて、みんなが笑いに包まれる。
江ノ島の潮風に、その笑い声が溶けていった。
登場人物紹介
名前 豊浜のどか『とよはまのどか』
身長 158cm
誕生日 3月14日
桜島麻衣の異母妹であり、アイドルグループ「スイートバレット」のメンバー。金髪をサイドポニーテールに結び、舞台上では堂々と観客を惹きつける一方で、その原動力は「お姉ちゃんへの憧れ」にあります。
幼い頃から麻衣を理想とし続け、芸能事務所のプロフィールに「好きなもの:桜島麻衣」と記すほどの自他共に認めるシスコンでもあります。
勝気で気が強く、咲太に対しては刺々しい態度を見せがちなものの、本質的には真っ直ぐで優しい少女と言えます。
思春期症候群の経験を通じて、誰かに支えられることの大切さを知り、咲太と麻衣の幸せを願いながらも「独り占めしたい」という感情に揺れ続けます。
蓮真にとっては、のどかは麻衣を介して出会った存在でありながら、やがて“観察者”としての彼が最も近くで寄り添う相手となっていきます。強気な笑顔の裏に隠した孤独や不安を敏感に感じ取り、受け止めてくれる蓮真の存在は、のどかにとってもかけがえのない支えとなり、やがてその信頼は深まっていきます。
この物語において、のどかは蓮真と並び立つメインヒロインの一人です。
麻衣が「視線を背負い隣に立つ強さ」を体現する存在であるなら、のどかは「弱さを認めながら前へ進む勇気」を象徴する存在として描く予定です。彼女と蓮真の関係は、作品全体の大きな軸を成す要素の一つとなるでしょう。
蓮真は最終的にどちらを選ぶと思いますか?
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豊浜のどか
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広川卯月