青春ブタ野郎はパラレルスプリングの夢を見ない 作:もドえラん
四月六日
新学期が始まり、校舎の掲示板には新しいクラス分けの紙が貼り出されていた。
人だかりの隙間から紙面を覗き込み、自分の名前を探す。
指先でなぞるように視線を滑らせ、「三年一組」に自分の名前を見つけたとき、胸の奥に小さな安堵と、ほんのわずかな寂しさが同時に広がった。
咲太とは別のクラスになってしまった。双葉も国見も同じクラスにはいない。肩を落としかけたそのとき、ふと自分の名前の二つ上に記された文字が目に留まる。
——大津美凪
一年のとき同じクラスだったが、直接の接点はほとんどない。だが、彼女の名は校内でよく知られていた。
ビーチバレーでユースオリンピックの代表に選ばれ、麻衣先輩に次いで有名な存在。去年の体育祭では、なぜか咲太と二人三脚をしていた姿を、今でも鮮明に思い出す。
運動が苦手な自分にとって、彼女はまるで遠い舞台に立つ人間のように見える。
名前を目にしただけで距離感を覚えるのに、同じ教室で過ごすこれからの日々は、いったいどんな風に流れていくのだろう。
そう思いながら紙から視線を外すと、背後から声をかけられた。
「きっしー先輩!」
振り返ると古賀がいて、その隣には見慣れない女の子が立っていた。
メガネをかけて、少し身を縮めるような仕草。軽く会釈を返してくれる。
「古賀か。クラス分け、どうなった?」
問いかけると、古賀は笑顔で返した。
「奈々ちゃんと一緒だったから安心してる。」
奈々ちゃん、と紹介された子は米山奈々。
古賀から前に聞いたことがある。小さなクラゲの人形のストラップを探してあげたのがきっかけで、一番の友達になったらしい。
「でもね、玲奈ちゃんも一緒なんだよね」
古賀は少し困ったように笑う。
玲奈ちゃん――香芝玲奈。
古賀が元々いたイマドキオーラ全開のグループの友達だと、春休みに聞いた名前だ。
「まぁ古賀なら大丈夫だろ。米山さんも、古賀をよろしくな」
「……あ、はい。ありがとうございます」
小さな声でそう答える米山さんに、古賀が吹き出す。
「なに、きっしー先輩、兄貴感出してるの? でも……ありがとう」
古賀と米山さんとしばらく話したあと、校舎に響くチャイムが始業を告げた。
「じゃ、そろそろ教室行こっか」
古賀と米山さんが言う。
「そうだな。」
そう答えながら一緒に昇降口を抜け、廊下を歩く。
二年の教室の前に着くと、古賀が軽く手を振った。
「きっしー先輩、また後で!」
そのまま二人は中へ入っていき、少し間を置いて俺も三年の教室に向かった。
ざわつく教室の中で空席を探そうとしたとき、不意に視線を感じた。
顔を上げると、前方の席からこちらを見ている大津と目が合った。
彼女はすぐに視線を逸らし、隣の子と話し始める。
ただ、その一瞬の強さが妙に胸に残った。
その後始業式を終え、昇降口に向かう途中、咲太と鉢合わせた。
「お疲れ。クラス、別々になっちまったな。」
声をかけると、咲太は気の抜けたように肩をすくめる。
「ああ。でもまあ、話すことぐらいはあるだろ」
「そうだな。勉強のこととかあれば、いつでも手伝いに行くよ」
「余計なお世話だよ、“介添え人”」
からかうように笑った咲太の言葉に、思わず苦笑いが漏れる。
その響きは冗談めいていたのに、どこかで胸の奥に残って離れなかった。
四月九日
新学期が始まって数日、ようやく新しい時間割に慣れかけた放課後。
藤沢駅前の商店街で偶然、麻衣先輩と鉢合わせした。
隣には紙袋を提げた豊浜ものんびり歩いていて、二人ともどこか楽しげな雰囲気だ。
「あら岸和田くん、奇遇ね」
「きっしー、買い物中?」
声をかけられ、軽く会釈を返す。
「麻衣先輩、お久しぶりです。卒業式以来ですね」
「豊浜も、目黒川で会った以来だな」
そう挨拶すると、二人とも微笑みを返してきた。
麻衣先輩がふと口元に指を当てて、からかうように言う。
「あら岸和田くん、のどかとデートしてたの?」
「お姉ちゃん、違うよ!」と豊浜が慌てて否定する。
俺も「ただの花見ですよ、麻衣先輩」と添える。
麻衣先輩は「ふふ、冗談よ」と楽しそうに笑い、豊浜は頬をふくらませて抗議の視線を送っていた。
咲太とは始業式の日に顔を合わせたきり。
三年に進級してクラスが別々になったこともあり、それ以来まともに話していなかった。
「明日、咲太の誕生日だから」
豊浜が紙袋を掲げて笑う。
麻衣先輩も「お祝いの買い出しなの」と続ける。
——咲太の誕生日が四月十日
その事実を、このとき初めて知った。
話がひと段落したところで、豊浜が思い出したように言った。
「そうだ、あと卯月と会うの。土曜日、新宿で三時くらいでもいい?」
「ああ、わかった。新宿でのバイトが終わったら、まっすぐ向かうよ」
「そっか。そういえば、きっしー新宿でもバイトしてるんだもんね」
豊浜が妙に納得したように頷く。
麻衣先輩は「働き者ね」と微笑んで、のどかは「ちょっとカッコつけてるだけだよ」と小さく笑っていた。
四月十日
朝から少しそわそわしていた。
昨日、麻衣先輩と豊浜から聞いた「咲太の誕生日」のことが頭に残っていたからだ。
三年に進級してクラスが別々になったこともあり、俺も咲太も顔を合わせる機会は減ったが、中庭や渡り廊下で鉢合わせることはある。
俺は一言だけでも祝おうと咲太のクラスの教室に向かった
「おっす咲太ー!双葉!」
先に来ていた国見が片手を上げて二人のもとに歩く。
「国見もおはよう」双葉が応じる。
「朝から国見は毒だな。眩し過ぎる」
咲太がぼそりと返す。
「なんだよそれ?」国見が笑った。
俺はそのやり取りを聞きながら、咲太の教室に入り咲太の方へ一歩近づいた。
「お、蓮真おはよう!」
国見が軽く拳をぶつけてくる。
「岸和田、おはよう」双葉も静かに挨拶を寄こした
「……おはよう。咲太、誕生日、おめでとう」
「……なんで僕の誕生日知ってるんだ?」
咲太がじろりとこちらを見てくる。
「昨日、麻衣先輩と豊浜に偶然会ってな。そのとき聞いた」
「なるほどな……」
国見が思い出したように声を上げる。
「ああ、そうだ。咲太、誕生日おめでとう」
「お祝いするならなんかくれ」
「……あ?」
「おいおい」俺は呆れてツッコむ。
国見は制服のポケットを探り、「じゃあこれ」と小さな束を差し出した。
「なんだよ? このポケットティッシュは」
「昨日駅前でもらった塾の宣伝のやつ」
「国見まで僕に“もっと勉強しろ”って言いたいのか?」
「しかも誕生日にわざわざ…」
咲太が不満げに言うのを聞きながら、俺は鞄から小物を取り出した。
「……じゃあ俺からも。自分用に買っておいたんだけど、二つ入りだったから」
咲太の手に押し込んだのは、水に濡れても使える単語カード。
「おい岸和田までかよ……」
咲太が頭を抱えると、国見と双葉がくすっと笑った。
「咲太、受験失敗するわけにいかないだろ?」
国見が肩を叩く。
「先に合格してる桜島先輩は一年休学して、梓川が入学してくるのを待ってくれているんだしね」
双葉も淡々と続ける。
「麻衣さんが休学してるのは、朝ドラの撮影が忙しいからっていうのが本当の理由だよ……」
「とはいえ、麻衣先輩が待っていることに変わりはないだろ?」俺が口を挟む。
「ま、咲太を待ってるのはそのついでだとしても、やっぱり受験に失敗するわけにはいかないだろ?」国見が笑う。
「なぁ……誕生日ってもっと楽しい日じゃなかったか?」
咲太がぼやく。
「私は今それなりに楽しいよ」双葉が小さく笑った。
「俺も」国見がすぐに乗る。
「まあ俺もかな」俺も肩をすくめる。
「だったら、僕にも少し楽しい気持ちを分けてくれ。さっきから国見の彼女にも睨まれてるしな。どうなってるんだよ本当」
双葉が冷静に忠告する。
「国見はそろそろあっちに行ったほうがいいんじゃない?また梓川を原因に喧嘩になっても知らないよ」
「咲太と仲良くなってくれたらいいんだけどな。上里、おはよう!」
国見が明るく声をかけて教室を出ていった。
だがその後すぐに、俺も上里から若干睨まれたため、気まずさを抱えながら教室を立ち去った。
放課後。
藤沢駅から電車に揺られ、東京の実家へ帰る途中、窓の外に沈みかけた夕陽が流れていく。
ふと、今日の出来事を思い返した。
咲太の誕生日を祝ったあと、国見や双葉とわいわい話して、最後は上里に睨まれて退散。賑やかで、少し気まずくて、それでもどこか心地よい時間だった。
そういえば、明日。豊浜が言っていた「広川さん」って子と初めて会うんだったな。
どんな子なんだろう。
咲太に聞いておけばよかったかもしれない。
まあ、咲太のことだから、どうせ「面白いぞ」とか適当なことしか言わなかったかもしれないけど。
小さくため息をつきながら、流れる街並みをぼんやりと眺めた。
明日の日常が、また少し変わる気がしていた
四月十一日
新宿のビル街は、昼間でも人が多い。
休日の午後、俺はバイトを終えたその足で、豊浜との約束通り、路地裏のカフェへ向かった。
「きっしー! こっちこっち!」
奥のソファ席から手を振る豊浜。
その隣には、長い黒髪をストレートに下ろした女子が、メニューを開いたまま笑っていた。
豊浜から聞いていた広川卯月だ。
「紹介するね、あたしの友達で、同じスイートバレットの、広川卯月」
「おー!のどかの話によく出てくるきっしーか!」
第一声から、あだ名呼びが既成事実になった。
普通なら「はじめまして」くらいはあるだろうに、この子は距離感という概念を知らないらしい。
「……いきなりきっしーかよ?」
「え?呼びやすいし、顔も呼びやすそうだし、あ、私のことはづっきーって呼んでいいよ!」
「顔が呼びやすいってどういう意味だよ」
「ん? 普通にそう思っただけだよ?」
どうやら本人は完全に真剣で言っているらしい。悪意も下心もなく、ただの“事実”として口から出てくる言葉なのだろう。
「卯月はライブの時すごいよ。見に来た人、だいたい笑って帰るもん」
「ええ!私、全力でやってるのに!」
「その全力が天然なんだって」
「え、そうなの?普通に歌って踊ってるだけだよ?」
づっきーは本気で首をかしげる。
たぶん彼女は、自分の天然っぷりを一ミリも自覚していない。
スイートバレットは七人組だが、その中でもこの子は別格だろう。
メニューを頼み終えたところで、豊浜が思い出したように言った。
「きっしーって新宿でバイトしてるんだよね〜」
「へえ、どこで?」と、づっきーが興味津々で身を乗り出す。
「……づっきーの通ってる高校の近くにあるファミレス」
言ってから、自分の口から“づっきー”と自然に呼んでしまったことに気づく。初対面なのに、もうあだ名を口にしている。
「あ! あそこなんだ! じゃあ今度遊びに行くね!」
思わず口の中のアイスコーヒーを噴きそうになった。
「いやいや、遊びに行くとこじゃなくて……」
「え、ダメなの?」
「ダメじゃないけど、バイト中だぞ?」
「そっか。じゃあバイトしてるきっしーを応援しに行くね!」
「応援はいらん!」
テーブルの上で豊浜が小さく吹き出す。
「卯月、そういうとこ空気読めないよね」
「え?空気?空気は吸うものだよ?それに行ったら面白そうだし!」
完全に悪気ゼロ。このテンポに慣れるには、まだ時間がかかりそうだ。
豊浜は肩を震わせて笑いをこらえきれず、アイスティーのストローを噛んでいた。
「ほんと、卯月といると退屈しないでしょ?」
「退屈どころか心拍数上がりっぱなしなんだが」
「いいじゃん、健康的で!」
「いや、心臓に悪いわ」
「え、きっしー心臓悪いの?!」
「比喩だ!」
——このペースに合わせていたら、いずれ慣れるどころか感覚が麻痺しそうだ。
「じゃあさ!」と、づっきーが突然手を打つ。
「バイト応援するだけじゃつまんないから、ライブも来なよ!」
「え、急だな」
「急じゃないよ! 今ちょうど誘おうと思っただけ!」
「それを急って言うんだ」
「そうなの? ふーん」
づっきーは本気で首をかしげる。
たぶん彼女は、自分がどれだけ人を巻き込むかをまったく自覚していない。
それでも、その無邪気さに押し切られそうになる自分がいるのも事実だった。
カフェを出たあとも、づっきーは人混みをするりと抜け、時々振り返っては手を振る。
——この先、この子の“普通”に巻き込まれる未来が、なんとなく想像できた。
なのに、胸の奥にわずかな違和感が残る。
初対面のはずなのに、踏み込む距離を探っている自分がいる。
警戒しているわけじゃない。ただ、妙に測ってしまう。
その理由が、まるで霧の向こうに隠れているみたいで、掴めない。
……気のせいだろうか
登場人物紹介
名前 広川卯月『ひろかわうづき』
身長 163cm
誕生日 4月30日
豊浜のどかが所属するアイドルグループ「スイートバレット」のリーダーであり、愛称は「づっきー」天真爛漫な明るさと天然ボケな言動で周囲を振り回すこともありますが、その独特の空気感はグループ全体を和ませるムードメーカーとなっています。
しかしその裏では、アイドル活動の多忙さから人間関係が崩れ、不登校に陥った過去を抱えています。マネージャーでもある母親の勧めで通信制高校へ転校し、そこで新たな生活を始めることとなりました。
咲太と知り合ったのは、その通信制高校の説明会で動画に映る彼女をきっかけに、のどかを通じて紹介されたことから。咲太の妹花楓には自身の体験談を語り、同じ“不登校経験者”として共感を与える存在にもなりました。花楓との関係性を意識してか、咲太のことを「お兄さん」と親しみを込めて呼んでいます。
蓮真にとって卯月は、のどかを介して出会った存在でありながら、次第にその“無邪気さの奥にある寂しさ”に気づかされる相手となります。
距離感を意識せずに踏み込んでくる卯月は、観察者として一歩引いていた蓮真に“前へ進むきっかけ”を与える存在となり、同じ不登校を経験した者同士として、どこか波長が合う部分もあります。
けれどその一方で、互いの弱さを知ってしまうがゆえの危うさも孕んでいます。
この物語において、卯月はのどかと並ぶもう一人のメインヒロインです。
卯月と蓮真の関わりは、彼を“観察者”のまま留めるか、それとも“支える者として挫折するか”という岐路を示し、作品全体の大きな軸を形作ることになります。
蓮真は最終的にどちらを選ぶと思いますか?
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豊浜のどか
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広川卯月