青春ブタ野郎はパラレルスプリングの夢を見ない 作:もドえラん
五月三十日
中間試験が終わり、ようやくひと息ついた土曜日。
机に向かいながら、久しぶりに模試対策用の問題集を開いていた。
六月の第二週にある模試は、志望校判定にも関わる。気を抜くわけにはいかない。
ページをめくったところで、スマホが小さく震えた。画面を見ると、差出人は豊浜だった。
《きっしー、今勉強してる?》
唐突なメッセージに、思わず口元が緩む。
最近は、大津や浜松さんと図書館で会うことが多く、豊浜とはしばらく顔を合わせていなかった。
ライブやレッスンの合間にLINEをくれることはあったけど、最後に会ったのはもう半月前だ。
《まぁ、試験終わったし模試の勉強中》
そう返すと、数秒も経たずに既読がつき、すぐ返信が届く。
《やっぱり!まじめだよねきっしー!》
絵文字付きの軽いテンションに、苦笑が漏れる。
《そっちは?最近忙しそうだけど》
と打ち込むと、今度は少し間が空いて返ってきた。
《うん、ライブリハが続いててバタバタ。卯月も一緒に頑張ってるよ!》
《この前も、二人で自主練してたんだ。久しぶりにあんなに笑ったかも》
画面の文字越しに、彼女の声が聞こえるような気がした。
忙しい時期だというのに、どこか楽しそうな雰囲気が伝わってくる。
《きっしーは最近どう?》
《まぁ普通だよ。学校とバイトと図書館の往復ばっかりの》
《まじめだな〜。同じ大学目指してるんだし、今度勉強会しよ!》
「……同じ大学、ね」
思わずつぶやいていた。
その言葉の響きが、静かな部屋にやけに大きく響いた気がした。
《考えておくよ》
そう送信すると、うさぎが「やったー!」と飛び跳ねているスタンプが返ってきた。
スマホを伏せると、静かな部屋に小さな電子音が消えていく。窓の外では、夕焼けがゆっくりと沈みかけていた。
豊浜とづっきー。
同じステージに立ち、同じ時間を過ごす二人。そして今度は、同じ未来を目指そうとしているのかもしれない。
その輪の外にいる自分が、少しだけ遠くに感じた。けれど、その距離が嫌ではなかった。
むしろ、彼女たちが笑っていられる場所があることに、ほっとしていた。
六月二日
平日の夕方、藤沢のバイトに入ると、久しぶりに咲太とシフトが一緒だった。古賀もいる。
今月からは、新宿からのヘルプではなく「掛け持ち」という形にしている。
大学進学で横市に通うことを見越して、いまのうちに藤沢でのシフトを増やしておくためだ。
休憩中、咲太が物理の問題集を開いている横で、古賀がテーブルに突っ伏しながら。「う〜ん……どうしよっかなぁ〜……うぅ〜ん、どうしようかなぁ〜……」と盛大にうなっていた。
「なぁ、古賀」
「ん? なぁに、先輩」
「さっきから受験生の僕より何をうんうん悩んでるんだ?スマホばっかり見て。」
「せ、先輩には関係ないでしょ!」
「関係ないっていうなら、こっそり悩んでくれ」
「先輩が気にしなければいいじゃん。きっしー先輩みたいに」
(いや、俺もそこそこ気にしてるけどな……)
二人のやり取りを聞いていると、どうやら古賀は「今年の水着」をどうするかで悩んでいたらしい。
「受験勉強中の僕の前で、よくそんな楽しそうな話できるな」
「来年はあたしたちも受験だから『今年は海行きたいね〜』って!奈々ちゃんに言われたんだから、仕方ないじゃん!」
「なるほど、米山さん大学行くのか?」
「うん。先輩と同じとこ目指してるって」
「へえ、そうなのか」
思わず俺が口を挟むと、咲太が不思議そうにこちらを見る。
「なんで岸和田が反応するんだ?」
「まあ、俺も咲太と同じ大学目指してるからな。豊浜や麻衣先輩もいるし」
「そうだったのか。お前、もっと上の大学狙ってるもんだと思ってた」
「藤沢から通うなら横市が一番いいんだよ。学費も安いしな」
(まぁ将来的には別の国公立の大学院に進むつもりだけど、それは今はまだ言わないでおこう)
「古賀は進路決めたのか?」
「できれば指定校推薦取りたいなって思ってる」
「古賀、意外と勉強できるんだな」
「もちろん。あたしの成績でも狙えるとこだけど。先輩が前に言ってたじゃん、“指定校推薦とれると楽”だって」
「ああ……そういえば言ったかも。古賀ちゃんと僕の話聞いてたんだな。」
「先輩じゃないんだから、そりゃあ聞いてるよ。」
(推薦か……そういえば、大津と浜松さんとの勉強会、また日を決めないとな)
——そのあと、話題は自然と“夏”の方へずれていった。
古賀と咲太が、水着や海の話で盛り上がるうちに、いつの間にかあの“ループ”の話になっていた。
「もうすぐ、あれから一年経つんだな」
咲太がぼそりと呟いた。
(“あれ”か。俺は、知らないふりをしておく)
古賀が一瞬だけ目を伏せたが、何も言わなかった。あの“ループ”のことは、咲太からも古賀からも聞いたことがある。
けれど、それは二人の時間であって、俺が口を挟むことではない。
そんな空気を破ったのは、いつもの明るい声だった。
代わりに、国見の明るい声が、休憩室の空気を破るように響いた。
「おはようございまーす!」
「あ、国見先輩。おはようございます」
「うぃっす。何から一年経つって?」
「あ、いえ、それは……」
古賀が慌てて口ごもる。
「古賀がバイト始めてからだよ」
咲太がさらりと答える。
「ああ、そういえばそうだったな。なんかすっかり慣れたよな、このメンツでのバイト」
「蓮真も、ヘルプ入るようになって、それぐらい経つよな」
「ああ、まあな。でも今月からはヘルプじゃなくて正式に掛け持ちにしてもらった。大学進学も見越してな」
「へぇ、そうなのか。流石は蓮真だな」
「あ、先輩、きっしー先輩も、もう休憩時間終わるよ!」
古賀が笑いながらスマホをしまう。
「さて、時給を稼ぎに戻るとするか」
咲太が腰を上げた。
「国見も着替えて早く来いよ」
「すぐ行くって」
そのあと、四人でフロアを回した。週末前のファミレスはそこそこ混み合っていて、食器を下げ、注文を通し、笑い声や「すみませーん」が絶えなかった。
閉店後、時計の針は九時を少し回っている。長い一日の終わりに、初夏の夜の空気が心地よかった。
「はあ、疲れた〜。今日客多かったな」
国見は腕を大きく伸びをした。
「そうですね。オーダー全然途切れなかった」
「五番テーブル、完全に居酒屋状態だったし」
国見が苦笑する。
そんな他愛ない会話を聞きながら、俺はスマホを取り出して、大津と浜松さんに《次の勉強会どうする?》とLINEを送った。既読はまだつかない。
「そういや古賀、バイト中に決めたのか?」
「決めたって何を?」
「もちろん、どんな水着を買うかだよ」
「バイト中にそんなこと考えるわけないじゃん!」
「まあ、今日忙しかったしな」
「忙しくなくても考えない!」
(まあ、それはそうだよなぁ……)
国見が、タオルで髪を拭きながら言った。
「いいなあ、古賀さん。海行くんだ」
「国見も、凶暴な彼女と一緒に好きなだけ行けばいいだろ」
「上里も受験生なんだよ。この夏は勉強に集中するんだってさ。……まあ俺も消防士の試験準備あって、あんま余裕ないからちょうどいいんだけど」
「そういえば国見、消防士になるんだったな」
「ああ、まあな。お互い、この夏は勉強大変だけど頑張ろうぜ、蓮真。じゃ、俺は先に着替えるな」
更衣室の扉が閉まる音がして、少し静かになった。
「先輩ときっしー先輩の夏の予定は?」
古賀が問いかけてくる。
「勉強と勉強と勉強とバイトだな」
「俺も同じだな。……まあ、気分転換に一人旅行ぐらいはしたいかな」
「優等生は余裕だなぁ」
「別に余裕ではねぇよ」
「三年生って、なんか悲惨だね……」
「安心しろ、来年は古賀も三年だ」
(いや安心ではないだろ……)
「ずっと二年生のままがいいなぁ」
「な、古賀が言うと洒落になんないな……今度は僕を巻き込むなよ……」
「べ、別に本気で言ったわけじゃないし!」
(……そりゃあループなんて洒落になんないもんな)
中学一年の春の記憶が、一瞬だけ胸をかすめた。けれど、それもすぐに更衣室の蛍光灯の光に溶けていく。
「じゃあ、三人ともお疲れ。お先!」
「お疲れ様でした!」
「古賀も早く着替えて早く帰れよ」
「先輩もね」
ドアが閉まる直前、古賀の笑い声が小さく響いた。その音が、止まっていた時間を少しだけ前に進めてくれるような気がした。
更衣室を出て裏口から外に出ると、夜風が思ったより涼しかった。スマホの画面をのぞくと、大津と浜松さんからグループLINEの通知が来ていた。
《ごめん、最近練習ぎっしりでちょっと余裕ないかも。六月の中旬くらいでどう?》
《夏の大会前で朝練も増えてて……十四日なら空けられると思う》
《じゃあ十四日でいいか。前の日に模試があるし、復習も兼ねたいからさ》
送信して画面を閉じると、遠くで踏切の警報が鳴り始めた。いつも通りの藤沢の夜。だけど、何かが少しずつ進んでいく音がした。
(……夏、か)
誰かの笑い声が脳裏に残る。“止まっていた時間”が、ゆっくりと動き出す季節の音に重なっていった。
六月十四日
いつもの藤沢の図書館の二階にある学習スペースは、静かにページをめくる音とシャープペンの擦れる音だけが響いていた。
「よし、ここの問題もいける!」
大津が勢いよく顔を上げ、得意げにノートを掲げる。この数週間、練習の合間を縫って少しずつ進めていた成果が出てきたのだろう。解答欄に自信ありげな文字が並んでいる。
「おお、だいぶ慣れてきたじゃないか。ミスも減ってるし」
一方、隣の席でペンを握る浜松さんは、少し拗ねたように顔をしかめていた。机の上には、途中で止まった計算式と、折れかけた鉛筆の芯。
「浜松さん……どうした?途中で止まってるけど……」
「……なんか、最近勉強がうまくいかなくて。前より集中できないんだよね」
そう言って、少しだけ視線を落とす。指先のかすかな震えが、迷いよりも“焦り”を表していた。
「夏の大会も近いらしい、練習が詰まってるからじゃないか?」
「うん。でもさ……それでも……勉強だけは頑張らなきゃって思ってるのに、頭が全然動かないの。美凪ちゃんはどんどん進んでるのに、私だけ置いてかれてる気がして」
大津が「そんなことないって!」と口を開きかけたが、俺が静かに手を上げて制した。
「浜松さん。焦るときって、だいたい“できない”んじゃなくて、“休めてない”だけなんだ。身体も頭も、同じように疲れるからさ」
「……休めてない、か」
「無理しても吸収できないから、一回ゆっくり呼吸しよう。それで何もしない時間をつくってみる。そしたらまた再開しよう」
俺がそう言うと、浜松さんは少し驚いたようにこちらを見て、やがて小さく笑った。
「……なんか、先生みたいだね」
「俺は単に観察してただけだよ。」
浜松さんは、視線をノートに戻した。
鉛筆を取り直す手つきは、さっきよりも少しだけ軽い。
「ほら。焦らなくても、ちゃんと前に進める。それに、大津だって大会終わったらまた停滞するかもしれないしな」
「岸和田、縁起でもないこと言わないでよ!」
「まぁ人間波があるのが普通だぞ?」
三人で笑い合ったその瞬間、窓の外から夏の光が差し込んだ。
その明るさが、浜松さんの頬に小さな陰影をつくり、ほんの少しだけ彼女の顔をやわらかく見せていた。
図書館を出ると、街は少しだけゆるやかなオレンジ色に包まれていた。これからまた練習へ向かうという大津と浜松さんを見送り、俺は鞄を肩にかけて藤沢駅までの道を歩き出す。
スマホを取り出した瞬間、通知音が鳴った。豊浜からだった。
《ねえ、来週の土曜、花楓ちゃんも一緒に勉強会しない?》
《花楓ちゃん、きっしーに教えてほしいって言ってたからさ》
画面の文字を読みながら、思わず息をついた。花楓さんから勉強を教わりたいと言われるなんて。
《いいよ。土曜なら空いてる。場所はどこ?》
《藤沢の図書館!お昼からでも大丈夫?》
《了解。よろしく頼むよ》
《OK!じゃあ花楓ちゃんにも伝えておくね!》
画面の向こうで、いつもの明るい声が聞こえる気がした。豊浜、それに花楓さん。それぞれ違う色を持った二人が会するのを見るのは初めてだ。
(にぎやかになりそうだな……)
駅へ向かう人の流れの中で、次の週末の光景が静かに思い浮かんだ。
六月二十日
藤沢の図書館。
机を並べて、豊浜、花楓さん、そして俺の三人で勉強していた。
それぞれがノートを広げ、参考書に向かう静かな時間。
そのときだった。
「やっぱりここにいた」
声の方を見ると、麻衣先輩が立っていた。隣には参考書を抱えた咲太もいる。
花楓さんは二人を見るといの一番に反応した。
「お兄ちゃん!麻衣さんも、どうしてここに?」
「麻衣先輩……」
俺は思わず立ち上がると、麻衣先輩は軽く微笑んだ。
「久しぶりね、岸和田くん」
「はい。……お元気そうで」
「ええ。あなたも変わりなさそうで安心したわ」
落ち着いた声音。けれど、その目は少しだけ柔らかかった。
「……でも、どうしてここに?」
つい気になって尋ねる。
「のどかから聞いたのよ。岸和田くんと一緒に、花楓ちゃんの勉強を見てくれてるって」
麻衣先輩はカバンを持ち直しながら続ける。
「気になってきてみたの。咲太の勉強も、たまには家以外でやるのもいいだろうし」
「なるほど……そういうことですか」
返すと、麻衣先輩は小さく頷いた。
「で、咲太。お前も勉強か」
俺が声をかけると、咲太は肩をすくめた。
「まあな。こういうときは机に向かうのが一番だろ」
「お前がそんな殊勝なこと言うと、逆に不安になるんだが」
「僕だって受験生だぞ」
「肩書きにすがるなよ」
くだらないやりとりに、麻衣先輩が横で小さく笑った。
すると、隣でペンを走らせていた豊浜が、咲太をちらりと見た。
「へぇ、咲太でもちゃんと勉強するんだ」
「おいおい」
「だって咲太なら、“奇跡的に受かりましたー麻衣さん!”とか言いそうだから」
「ひっでぇな、豊浜」
「事実でしょ?」
わざとらしくそっけなく返す豊浜。けれど、口元は少し緩んでいた。
「なあ岸和田、僕そんなに信用ないか?」
「……まあ、麻衣先輩が横にいるなら大丈夫だろ」
横で麻衣先輩はさらりと「そうね」と言い、咲太の背中を軽くつついた。それを見て、豊浜は小さく「ふふっ」と笑った。
図書館の一角だけが、ほんの少しだけ賑やかになっていた。
けれど、またすぐに静けさが戻る。みんながそれぞれのノートに視線を落とし、ペンの音だけが机の上に積み重なっていった。
豊浜は英文解釈の問題に唸り、咲太は参考書をぱらぱらとめくっている。麻衣先輩は隣で控えめに彼を覗き込み、何か指摘をしているようだった。
俺の目の前では、花楓さんが真剣な表情で数式と格闘している。小さな唇が、無意識に「えっと……」と形を作る。
“花楓ちゃん”
豊浜や麻衣先輩が口にするその呼び方は、妙にしっくりきて、俺も自然と口にしていた。
「……そうだな、花楓ちゃん、次の問題やってみようか」
「……はい!」
彼女の声が、少し弾んだ気がした。
しばらく解き方を説明していると、横から豊浜が顔を上げる。
「……きっしーって、意外と教えるの上手いね」
「意外とってなんだよ」
「だって、この間卯月と勉強会するまで、教えてるとこなんて、ほとんど見たことなかったし」
「……まあな」
(まぁ、大津や浜松さんにも勉強教えてるしなぁ。そのあたりは、豊浜にはまだ言ってないけど)
肩をすくめて笑う豊浜。けれど、その目には感心の色が浮かんでいた。
咲太がそれを横目に「僕にも教えてくれ」とぼやき、麻衣先輩が「咲太はまず予習しなさい」とぴしゃり。
そのやり取りに、豊浜と花楓ちゃんがそっと笑った。
少しずつだけど確かに。誰かの時間が、穏やかに前へ進んでいるのを感じた。
その会話に背中を押されるように、花楓ちゃんがためらいながら口を開く。
「あの……蓮真さん、この問題……」
その一言で、呼び方が変わったことに気づく。たぶん本人も、気づかないうちに距離を縮めていたのだろう。
その後もしばらく、それぞれのノートに向かう静かな時間が続いた。時計の針が五時を回るころ、麻衣先輩がペンを置く。
「そろそろ終わりにしましょうか。図書館も閉まる時間だし」
「そうですね。……思ったより集中できました」
「きっしー先生のおかげだね」
豊浜が笑うと、花楓ちゃんもこくりと頷いた。
「ありがとうございました。すごく分かりやすかったです」
「どういたしまして。またよかったら一緒にやろうか」
「……はい」
その返事が少し照れくさそうで、どこか嬉しそうでもあった。
片付けを終えると、五人で図書館を出た。外は夕暮れの光が残り、駅の方向へ伸びる通りが淡く染まっていた。
「この時間の風、気持ちいいね」
豊浜が髪を押さえながら言う。
「夏の香りがするな」
咲太が伸びをし、麻衣先輩が横目で苦笑する。
「咲太の汗の香りじゃないの?」
「ひどいなあ麻衣さん」
「冗談よ」
そんな夫婦漫才みたいなやり取りに、花楓ちゃんがくすりと笑う。その笑顔が、以前よりも自然に見えた。
「花楓ちゃん、帰り道大丈夫?」
「はい。お兄ちゃんたちと一緒に帰ります」
「そっか。じゃあ、俺も駅まで一緒に行くよ。」
俺はそう言ってみんなと歩き出す。
五人の影が、夕陽の中で長く伸びていく。街のざわめきに混じって、笑い声がいくつも重なった。
交差点の信号が青に変わる。麻衣先輩と咲太が並び、少し後ろを花楓ちゃんが歩き、その横で豊浜が何かを話しかけている。
俺は後ろに少し離れて、その光景を見ていた。
誰かが前を歩き、誰かがそれを追いかける。それぞれの歩幅で、同じ方向へ進んでいく。そんな当たり前の時間が、やけに尊く感じられた。
「ねぇ、きっしー」
前から豊浜の声がする。
「今日の勉強会、なんかいい空気だったね」
「そうだな。……それぞれが、少しずつ前に進んでる気がした」
「うん。そういうの、あたし好きかも」
照れくさそうに笑う豊浜の横顔を見ながら、街の明かりがひとつ、またひとつと灯り始めるのを眺めた。
夏の始まりを告げるような風が吹き抜けていった。
物語解説
今回は、三年の春から初夏にかけての勉強会シリーズでした。美凪、夏帆、のどか、そして蓮真。それぞれが進路という現実に向かいながらも、まだ青春の余白を残している時期です。
特に終盤の藤沢での場面では、舞台が少し広がり、麻衣先輩と咲太、そして花楓が加わります。止まっていた時間が少しずつ動き出し、それぞれの前進が静かに描かれた話でもあります。
蓮真が支えようとする立場から、“一緒に歩く”立場へと移りつつある、その変化を感じ取ってもらえたら嬉しいです。
そして最後の夕風の場面。これは、みんなの一年がゆっくりと夏へ向かい始めた“合図”のようなものでした。
受験、進路、夢。これから訪れる季節が、それぞれの関係を少しずつ変えていく姿を、ぜひお楽しみください。
蓮真は最終的にどちらを選ぶと思いますか?
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豊浜のどか
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広川卯月