青春ブタ野郎はパラレルスプリングの夢を見ない   作:もドえラん

22 / 84
6.波と文字の狭間で、感覚は半歩ずれる

 

 六月二十四日

 

 昼休みの教室。プリントをまとめていると、大津が隣の席に椅子を引き寄せてきた。

 

 「岸和田。ちょっといい?」

 

 「どうした」

 

 「来週の一日、夏帆の誕生日なんだけどさ……プレゼント選びに付き合ってくれない?」

 

 「浜松さんの?」

 

 「そう。……一緒に練習してるとさ、毎日顔合わせてるのに、いざプレゼントってなると悩むんだよね」

 

 「まあ、相手の好み知ってる分、余計に難しいかもな」

 

 「でしょ?だから、第三者の冷静な目が必要かなって思って!」

 

 「……俺でいいのか?」

 

 「いいの。むしろいつも観察ばっかしてる岸和田が一番信用できそうだし」

 

 「観察ばっかは余計だ」

 

 大津はそう言って笑った。

 

 ——信用できるという言葉に、少しだけ照れくささが残った。

 

 「で、いつ行く?」

 

 「そうだなぁ、土曜の昼とかどう?」

 

 「了解」

 

 「ありがと、岸和田。夏帆、絶対喜ぶと思う」

 

 その笑顔はいつも通り明るいのに、どこかほんのり温かいものがあった。

 

  放課後、その日は藤沢のファミレスに入っていた。

 

 たまたま古賀と同じシフトで、厨房とホールを行き来しながら忙しく立ち回る。

 

 注文を終えて戻る途中、古賀と軽く雑談をしていたときだった。

 

 「あれ……」

 

 視線の先に、花楓ちゃんと一緒に入店してきた女性の姿があった。

 

 落ち着いた雰囲気で、周囲に柔らかな空気をまとっている。

 

 「こんにちは、蓮真さん」

 

 花楓ちゃんが笑顔で手を振る。

 

 「この人は、友部美和子先生。いつも私の相談に乗ってくれてるんです」

 

 「初めまして。あなたが岸和田くんね。花楓さんからよく聞いてますよ」

 

 友部さんは軽く会釈し、穏やかな声でそう言った。

 

 「……あのときの人、やっぱり」

 

 落ち着いた雰囲気と柔らかな声。間違いない。以前、咲太と一緒にこの店に来ていたあの女性だった。

 

 柔らかな声に、不思議と肩の力が抜ける。

 

 ——この人もまた、花楓ちゃんのことを真剣に案じてくれている。

 

 初対面のはずなのに、その想いが手に取るようにわかって、妙に心が安らいだ。

 

 そのとき隣で古賀が「?」という顔をしていた。

 

 「どうしたんですか、きっしー先輩」

 

 「いや……前に咲太と来てた人と、今改めて会ったんだよ」

 

 「へぇ。あの落ち着いた雰囲気の人?」

 

 「ああ。花楓ちゃんの相談に乗ってる人だった」

 

 「……あ、思い出した。あたしも三月ぐらいに一緒に見かけたときの人ですよね?」

 

 「そうそう、そのときの」

 

 花楓ちゃんたちを案内し、軽く挨拶を交わしたあと、店内の忙しさに追われて、その場はいったん終わった。

 

 休憩時間。客足が落ち着いた頃、厨房裏の休憩室で水を飲んでいると、控えめにノックの音がした。

 

 「少し、お話、いいですか?」

 

 ドアを開けると、友部さんが立っていた。

 

 「はいもちろん。……花楓ちゃんのことですか?」

 

 「はい。最近、学校の課題も少しずつ自分で進められるようになってきてるんです」

 

 「そうですか。それはよかった」

 

 「でも、花楓ちゃん自身は“まだ怖い”って思っている部分もあるようで。だから、焦らず、少しずつ環境を慣らしていきたいんです」

 

 話すときの声は終始穏やかで、どの言葉にも体温があった。俺は自然と姿勢を正して聞いていた。

 

 「岸和田くんは、よく周りを見ている人ですね」

 

 「……そう見えますか?」

 

 「ええ。花楓さんが、“蓮真さんは安心できる人”って言ってましたよ」

 

 「……そうですか」

 

 思わず、少しだけ笑みがこぼれた。

 

 「咲太くんも、あなたのことを頼りにしているようでした」

 

 「咲太が?」

 

 「はい。“自分とは違う角度から物事を見るやつだから助かってる”って」

 

 思わぬ言葉に、胸の奥で何かが温かく広がった。

 

 「……俺はただ、観察してるだけなんですけどね」

 

 「観察っていうのは、“やさしさ”のひとつの形だと思いますよ」

 

 友部さんはそう言って、穏やかに微笑んだ。その言葉は、心の奥に静かに染み込んでいく。

 

 「また今度、花楓さんの件で少しご相談してもいいですか?」

 

 「もちろん。俺でよければ」

 

 「ありがとう、岸和田くん」

 

 そう言って軽く頭を下げた友部さんの表情は、まるで春の光のようにやわらかかった。

 

 休憩室を出たあとも、その余韻はしばらく胸に残っていた。

 

 ——“観察は、優しさの形”。

 

 思わず、その言葉を心の中で繰り返した。

 

 六月二十六日

 

 金曜の夕方。

 

 学校帰りのホームルームを終え、いつものように藤沢駅へ向かっていた。

 

 週末は東京の実家に戻り、翌日は新宿のシフトに入る。そんな流れがもう習慣になっている。

 

 藤沢駅で、人の流れに混じって歩いていると、前方に見慣れた後ろ姿があった。

 

  ボブカットに、少し小柄な背中。隣には、気の抜けた歩き方をする咲太。

 

 軽く息を整えて歩みを速め、二人の後ろに追いついた。

 

 「蓮真さん。こんばんは。」

 

 気づいた花楓ちゃんが、ぱっと笑顔を見せる。

 

 「奇遇だな、岸和田。お前も帰りか?」

 

 咲太が手をポケットに突っ込みながら言う。

 

 「ああ。明日、新宿でシフト入ってるからな」

 

 その時、前方から小走りで近づいてくる人影があった。

 

 「かえちゃん!」

 

 弾んだ声に、花楓ちゃんが顔を上げて振り向く。

 

 「こみちゃん!」

 

 息を弾ませながら駆け寄ってきたのは、眼鏡をかけた穏やかな雰囲気の女の子だった。

 

 「ごめんね、少し遅れちゃって」

 

 花楓ちゃんが嬉しそうに笑いながら言う。

 「あ、紹介します。鹿野琴美ちゃん。幼稚園のころからの友達で、今は横浜に住んでるんです」

 

 「はじめまして」

 

 鹿野さんは丁寧に会釈した。

 

 その所作には落ち着きがあった。

 

 「この人は、岸和田蓮真さん。新宿のファミレスで卯月さんに紹介されて……今、私の勉強を手伝ってくれてるんだ」

 

 「へぇ、そうなんだ」

 

 鹿野さんが少し驚いたように目を丸くする。

 すると隣の咲太が口を開いた。

 

 「こいつ、僕と同じ高校の同級生なんだ」

 

 「そうなんですね」

 

 鹿野さんは納得したように頷き、今度は俺の方を向いて柔らかく微笑んだ。

 

 「じゃあ、かえちゃんと同じように、お兄さんも知ってる人なんですね。……なんだか安心しました」

 

 その穏やかな声に、場の空気が一段と和らいだ。

 

 「岸和田さん、かえちゃんをよろしくお願いします」

 

 軽く会釈しながら言う鹿野さんの口調は、丁寧なのにどこか親しみがある。

 

 その手が花楓ちゃんの肩にそっと触れる動作にも、自然な優しさが滲んでいた。

 

 ——ああ、この人もまた、花楓ちゃんのことを本気で案じている。

 

 初対面なのに、それがすぐに伝わってきた。胸の奥に、静かで懐かしい温度が灯る。

 

 咲太がその様子を見て、少し照れたように言った。

 

 「……なんか、妹がちゃんと友達と笑ってると安心するな」

 

 「お兄ちゃん!いちいち照れくさいこと言わないでよ!」

 

 花楓ちゃんがむくれて、鹿野さんがくすっと笑う。

 

 俺はその光景を見ながら、ふと感じた。

 

 ——この瞬間の中には、いくつもの“支え合う形”がある。

 

 この日を境に、鹿野琴美という名前は俺にとっても身近な存在になった。後にスイートバレットのライブで、何度か会うことになるのだが、それはもう少し先の話だ。

 

 鹿野さんの紹介を終えたあと、花楓ちゃんがふと思い出したように言った。

 

 「そうだ、来月の五日、こみちゃんと一緒に七夕ライブ行くんですよ」

 

 「七夕ライブ?」

 

 「はい。スイートバレットの。今年は都内のホールでやるみたいで。……卯月さんからチケットもらっちゃって」

 

 照れくさそうに笑う花楓ちゃんの横で、鹿野さんも頷いた。

 

 「かえちゃんも、すごく楽しみにしてるんですよ。」

 

 「そうなんだ」

 

 そう答えながら、俺の頭の片隅に、朝方、スイートバレットのインスタで見たライブ告知が浮かんだ。

 

 七夕の日、午前と夕方の二部構成で行われるスイートバレットの公演。

 

 ——正直、行ってみたい気持ちはあった。

 

 豊浜やづっきーのステージを、客席からまた見てみたいと思った。

 

 けれど、七月の土日は夏期講習にあてるつもりだ。受験勉強に専念すると決めた以上、今はそちらを優先すべきだろう。

 

 「……じゃあ、楽しんできてな」

 

 「はいっ!」

 

 花楓ちゃんは嬉しそうに頷いた。

 

 その笑顔を見ながら、俺は小さく息を吐いた。

 

 六月二十七日

 

 土曜の昼前、辻堂駅の改札前。

 

 待ち合わせの時間ぴったりに、大津が軽やかに手を振りながらやってきた。

 

 「おまたせ岸和田!」

 

 「時間ちょうど。さすが体育会系だな。」

 

 「でしょ?でも今日は試合でも練習でもなく、“ショッピング”だから!」

 

 いつもと違うラフな私服姿の大津は、どこか新鮮に見えた。スポーツバッグではなく、小さなトートを肩にかけているだけで、雰囲気が柔らかくなる。

 

 「で、プレゼントはどんな方向で考えてるんだ?」

 

 「うーん、最初はアクセサリーとか考えたんだけど……夏帆、あんまりそういうの着けないんだよね」

 

 「たしかに、ビーチバレーだとな」

 

 「でしょ? だから“日常で使えて、さりげなくおそろっぽい”のがいいかなって思って」

 

 「おそろっぽい?」

 

 「あー、今のナシ。聞かなかったことにして!」

 

 大津が慌てて手を振る。照れたように笑うその顔に、ほんの少し赤みが差していた。

 

 二人で駅ビルを抜け、テラスモール湘南へ向かう。潮風を含んだ夏の空気が、少しだけ汗ばむ肌を撫でていく。

 

 「こういう買い物、久しぶりかも」

 

 「大津が?」

 

 「基本、ジャージで過ごしてるからさ。街歩くと、なんか“人間”って感じする」

 

 「おい、普段は動物扱いなのか」

 

 「ビーチの生き物だよ!」

 

 「それはそれで納得しかけるのが悔しいな」

 

 二人で笑いながら、雑貨店をいくつか回った。最初の店ではアロマキャンドル、次の店ではタンブラー。どれも悪くはないが、いまいち「これだ」という決め手に欠けた。

 

 「……やっぱり、夏帆が一番喜ぶのって、単純に“誰かが自分を見てくれた”ってことなんだよね」

 

 ふと、大津がつぶやくように言った。

 

 「だからさ、モノより気持ちが伝わるのがいい」

 

 「それなら、手紙でも添えればいいんじゃないか?」

 

 「確かに……くさいけど……アリかも」

 

 「意外とまじめに受け止めるんだな」

 

 「そりゃそうだよ。夏帆には何回も支えてもらってるし」

 

 言葉にした途端、大津の表情がふっと柔らかくなった。まるで、日焼けした肌の奥に一瞬だけ影が落ちたようだった。

 

 その後、ふと立ち寄った雑貨店で、彼女が足を止めた。

 「ねぇ、これ見て」

 

 棚に並んでいたのは、海の貝殻をモチーフにした小さなブレスレット。ターコイズと白の組み合わせが夏らしくて、シンプルながら爽やかな印象を与える。

 

 「これ……いいかも。夏帆、こういうの絶対好き」

 

 「確かに。派手すぎず、海っぽい」

 

 「でしょ?」

 

 大津は手に取って、光にかざすように見つめた。その横顔は、普段の明るさとは違って、どこか穏やかだった。

 

 「じゃあこれにする」

 

 「決まりだな」

 

 「ありがと、岸和田。……なんか、一緒に選んでもらえてよかった」

 

 「いや、俺は付き添いしただけだ」

 

 「付き添いでも、気持ちってのは違うんだよ」

 

 そう言って笑う大津の声は、まるで浜風のように軽やかだった。

 

 会計を済ませ、外に出ると夕方の光がオレンジ色に染まり始めていた。

 

 「ねぇ、岸和田」

 

 「ん?」

 

 「……いざ渡すってなると、ちょっと緊張するな」

 

 「大丈夫だろ。お前が選んだんだから」

 

 「そうだよね」

 

 深呼吸をして、大津は空を見上げた。

 

 「……ほんと、昔はただのペアだったのに、今はそれ以上のこと考えてる気がする」

 

 「それ、浜松さん本人に言ってやれよ」

 

 「それは……もうちょっと先かな」

 

 大津は照れくさそうに笑い、ポケットの中でブレスレットの箱を軽く握った。

 

 風に揺れる髪越しに見えたその横顔は、どこか少しだけ大人びて見えた。

 

 六月二十八日

 

 日曜の午後

 

 夏期講習の説明会を終えた新宿のビル街は、どこか週末特有のけだるい熱気に包まれていた。駅から少し離れた通りを歩く人々の声が、ガラス窓に反射して淡く響く。

 

 「ようやく、終わったか」

 

 重たい資料の束を鞄にしまいながら、深く息を吐く。

 

 七月からは、モーニングバイトに合わせて土日の午後を使って新宿の予備校にも通う予定だ。受験本番まであと半年。のんびりしている暇はない。

 

 少し時間があった俺は、気分を切り替えるように図書館へ向かった。

 

 向かったのは、新宿副都心の高層ビルが林立する地域にある角筈図書館。休日でも勉強や読書に集中する人が多い場所だ。

 

 エレベーターを降りて閲覧フロアに入った瞬間、見覚えのある髪色が目に入った。

 

 窓際のテーブルに、ペンを指でくるくる回しながら外をぼんやり眺める少女の姿。

 

 「……づっきー?」

 

 声をかけると、彼女はぱっと振り向いた。 

 

 「きっしー! 偶然だね!」

 

 机の上にはノートと参考書。その姿に、どこか違和感を覚える。いつもの明るいステージ衣装の彼女とは違って、今日のづっきーは淡い色のTシャツにデニム。

 

 少しだけ年相応の“高校生”に見えた。

 

 「きっしーも今から勉強?」

 

 「まあな。来月から夏期講習が始まるから、今日はその説明会に行ってきた帰り」

 

 「へぇー、説明会!なんか、めっちゃ真面目な響きだね」

 

 「まあ、眠気との戦いみたいなもんだ」

 

 「わかる!私もこの前、別の予備校で説明会あったんだけどさ、『このペースだと90分でお菓子3回必要だな』とか考えてた」

 

 「……お菓子の回数で時間測るなよ」

 

 「だって本当に眠かったんだもん!」

 

 づっきーは笑いながら頬をかく。

 

 ふざけているようで、どこか言葉の端に焦りがにじんでいた。

 

 「のどかにさ、『大学行くと世界広がるよ』って言われて」

 

 「うん?」

 

 「だから、のどかと同じ大学目指したいなぁって!」

 

 「でも、正直言うと、受験勉強なんて全然やってこなかったし」

 

 「まあ……芸能活動してると、そうなるだろうな」

 

 「うん。でもね、のどか見てたら、私も“今のままじゃ嫌だな”って思っちゃってさ。ステージでも、撮影でも、なんでも。“ちゃんと自分で選びたい”って」

 

 そう言ってづっきーは、ノートに並んだ数式を見つめる。ペンを持つ指が少し震えていた。

 

 その姿に、彼女なりの不安と覚悟が滲んでいるのが分かる。

 

 「まだ間に合うよ」

 

 気づけば、自然に言葉が口から出ていた。

 

 「同じ学年だし。一緒にやればいい」

 

 づっきーは少し驚いたようにこちらを見たあと、すぐに笑った。

 

 「じゃあ、きっしーが教えて!」

 

 「教えるって言っても、俺も完璧じゃないけど…」

 

 「全然大丈夫!私、今月のライブは全部都内だから、新宿ならすぐ来られるし」

 

 「いいけど、教えられるのは土日ぐらいだぞ?」

 

 「十分十分!」

 

 即答して、机を軽く叩く。

 

 「じゃあ、次の土曜日。またここで! 勉強したらそのあとごはん行こ!」

 

 「……どっちがメインだよ」

 

 「半々!」

 

 づっきーは笑いながら立ち上がり、リュックを背負った。その笑顔の奥に、確かな“前へ進む意志”が見えた。

 

 ビルの隙間の光が窓から差し込み、づっきーの横顔を淡く照らす。その瞳の奥に映るのは、少しずつ“アイドル”から“ひとりの受験生”へ変わっていく、等身大の彼女の姿だった。

 

 「じゃ、また来週。約束だよ!」

 

 「分かった分かった」

 

 づっきーはひらひらと手を振って去っていく。

 

 今日の“偶然”が、またひとつ新しい始まりを作ったのだと感じた。

 

 ただ、その一方で、ふと現実的な問題が頭をよぎる。

 

 最近の大津と浜松さんとの勉強会に、予備校、バイト、そしてづっきーとの勉強。

 

 もしそれらを全部こなすとなると、どう考えても時間が足りない。

 

 かといってどれかを疎かにするのも気が引けるし、何より三人とも本気で努力している。

 

 ——どうするべきか。

 

 ノートを閉じたまま、机の上で指を組む。

 

 づっきーに大津に浜松さん。気づけば、誰かと一緒に何かを“支える時間”が増えていた。

 

 「観察するだけ」だったはずの俺が、いつの間にか、他人の努力や迷いの中に立っている。

 

 ——全部を抱えきれるわけじゃない。

 

 そう分かっているのに、どれも手放したくはなかった。

 

 図書館を出る頃には、午後の日差しが新宿のビルを染めていた。

 

 鞄の重みが、少しだけ現実の重みと重なって感じられた。

 

 六月二十九日 

 

 月曜の朝。週明けの教室には、梅雨特有の湿った空気が漂っていた。

 

 窓の外では、雨の合間の晴れ間が眩しく光っている。

 

 席に着いてノートを整理していると、大津が話しかけてきた。

 

 「岸和田、ちょっといい?」

 

 「ん、どうした?」

 

 「七月から、ビーチの大会とか遠征が多くなるんだ。だから、土日の勉強会はしばらく無理そうでさ」

 

 「そっか。忙しくなるんだな」

 

 「うん。でもね、できれば平日の放課後とか、真ん中の水曜日あたりとかにちょっとだけ見てもらえたら助かるんだけど……いい?」

 

 「もちろん。予定が合う日ならいつでも」

 

 即答すると、大津はぱっと笑顔を浮かべた。

 

 「助かる!夏帆も最近けっこう気合入ってるから、なるべく維持したいって言っててさ」

 

 「浜松さんも?」

 

 「うん。私が見てても、ちょっと心配になるくらい」

 

 その言葉に、俺は少し首をかしげた。

 

 「心配、って?」

 

 「なんかね……“もっとできるようになりたい”って言葉が、ビーチバレーのこととはちょっと違う意味に聞こえるんだ」

 

 冗談めかした口調だったが、ほんの一瞬だけ、大津の笑顔が曇った。

 

 その変化を見て、何かを言いかけたが、チャイムの音がそれを遮った。

 

 「とりあえず、平日でまた連絡するね!」

 

 明るい声を残して、大津は席を立つ。

 

 その背中を見送りながら、俺は小さく息を吐いた。

 

 ——これで、づっきーとの勉強会とも両立できそうだな。

 

 心のどこかで安堵が広がる。予備校、バイト、勉強会。どれも大変だが、少なくともバランスは取れそうだ。

 

 けれど今思えば、それはほんの束の間の静けさに過ぎなかった。七月に入って、大津と浜松さんを巡る状況は、思いもしない方向へと変わっていく。

 

 ——勉強は驚くほど上達するのに、なぜか、ビーチでの動きが鈍くなっていく浜松さん。

 

 その変化が“思春期症候群”によるものだと知るのは、もう少し先のことだった。

 

 七月一日

 

 昼休み、教室の窓から射す光は夏めいてきていた。 

 

 大津が弁当をつまみながらふと呟いた。

 

 「今日、夏帆の誕生日当日だよね。」

 

 彼女のスマホの画面には「夏帆(誕生日)」と小さく予定が入っている。

 

 「放課後、練習のあとにプレゼント渡しに行くんだ」

 

 「この前買ったブレスレットか」

 

 「そう。それと……手紙も書いた」

 

 少し照れくさそうに言いながら、スマホをポケットにしまう。

 

 彼女の手には、丁寧に包まれた小箱。

 

 選ぶときに見せたあの照れくさそうな笑顔を思い出し、俺もつられて頬を緩めた。

 

 「きっと喜ぶと思うぞ。選んでたときの顔、けっこう真剣だったし」

 

 「うっ、やめてよ、そういうの思い出させるの!」

 

 大津は顔を赤くして笑い、昼食を片づけ始めた。

 

 (……うまく渡せるといいな)

 

 心の中でそう願いながら、俺は放課後のバイトを終えたあと、スマホを取り出した。画面を開き、短くメッセージを打つ。

 

 《浜松さん、誕生日おめでとう。大会前で忙しいと思うけど、無理しすぎないようにな》

 

 送信して数分後、すぐに既読がついた。

 

 《ありがとう。……あと、実は岸和田くんにひとつお願いがあって》

 

 続いてもう一通。

 

 《明日、勉強見てもらってもいい?二人で。模試の対策、ちょっと自信なくて……》

 

 普段なら、大津と一緒に、というパターンが多い。けれど今回は「二人で」という言葉が、少しだけ意外だった。

 

 何か思い詰めているような気配を感じながらも、すぐに返信を打った。

 

 《いいよ。時間はどうする?》

 

 《練習が終わったあとだから、19時くらいに、藤沢駅前のカフェで》

 

 《了解。また明日》

 

 送信を終えてスマホを伏せる。窓の外には、夏の気配を含んだ夜風が流れ込んできていた。

 

 模試の対策。それだけなら、いつも通りの頼まれごとだ。

 

 けれど、メッセージの向こうに隠れた“何か”を、このときの俺はまだ読み取れていなかった。

 

 明日、その意味を少しずつ知ることになるとも知らずに。

 

 七月二日

 

 昼休みのチャイムが鳴って、教室のざわめきがゆるやかにほどけていく頃だった。

 

 弁当を食べ終えトイレに行こうと廊下を歩いていたとき、咲太が声をかけてきた。

 

 「なあ岸和田、お前が受験するの、僕と同じ大学だよな?」

 

 「そうだけど。この間も言っただろ?」

 

 「いや、そうなんだけどさ。ちょっと確認というか……学部、どこ受けるんだ?」

 

 「国際商学部、かな。」

 

 そう答えると、咲太は少し考え込むように足をとめた。

 

 咲太が足をとめた瞬間、ふと疑問が浮かぶ。

 

 「……もしかして、今さら学部決めてるわけじゃないよな?」

 

 咲太は苦笑して肩をすくめた。

 

 「お前も、双葉と同じで察しがいいなぁ……。まぁ、統計科学部にしようかと思ってるけど、倍率、五倍なんだよ。」

 

 「思ったより倍率高いな……まぁでも、いいんじゃないか?」

 

 俺は机に肘をつきながら、窓の外のグラウンドを見やった。

 

 「咲太は、人の意見を拾って動けるタイプだろ。統計って、そういう“人の声を走らせる学問”だと思うし。」

 

 「……人の声を走らせる、ね。」

 

 咲太は、少しだけ驚いたように笑った。

 

 「……岸和田らしいな、そういう言い方。」

 

 「そうか?」

 

 「そうだよ、“証人”」

 

 そう言って咲太は、窓際に歩いていった。

 

 ——行動で切り拓く咲太と、観察で支える俺。たぶんそれが、いつも俺たちの立ち位置なんだろう。

 

 その日の夜、藤沢駅前の街が、オレンジから群青に変わる頃。通りには帰宅ラッシュの人波が流れ、どこか潮の匂いを含んだ風がカフェのドアを揺らしていた。

 

 時刻は七時を少し過ぎたところ。

 

 窓際の席に座っていた浜松さんが、気づいたように手を振った。

 

 「……こっち」

 

 「悪い、少し待たせたか」

 

 「ううん。ちょっと早く来ちゃって、単語帳めくってただけ」

 

 白いTシャツにグレーのパーカー。髪を後ろで軽くまとめた姿は、ビーチバレーの主将というよりも、すっかり“受験生”の顔をしていた。

 

 「今日はここで勉強ってことでいいのか?」

 

 「うん。図書館の閉館時間すぐだったから。……静かだし、落ち着く」

 

 アイスコーヒーをストローでかき混ぜながら、

 

 浜松さんは机の上にノートを広げた。その仕草ひとつひとつが、いつも以上に丁寧に見えた。

 

 「今日は英語の長文、お願いしたい」

 

 「お、気合入ってるな」

 

 「昨日美凪ちゃんに“夏帆、本気モード入ったね”って言われたんだよ」

 

 冗談めかした口調とは裏腹に、その瞳の奥には焦りが滲んでいた。

 

 勝ち負けより、自分に負けたくない。そんな意地のような光が、テーブル越しに見えた。

 

 俺はノートを開き、文章構造を説明する。

 

 「まず主語と動詞を見つけて、関係代名詞で一度区切る。“which”の後ろは前の文を受けてるから、意味をつなげてみな」

 

 「こう……かな?」

 

 「そう。で、“that”の方は……」

 

 「なるほど、そっか……!」

 

 彼女の手が止まらない。

 

 最初は時間のかかった構文も、次第に正答へたどり着くスピードが上がっていく。理解するたびに、表情がぱっと明るくなるのが分かった。

 

 「……なんか、頭の中がすっきりする」

 

 「調子いいな」

 

 「うん。でも、ちょっと不思議なんだよね」

 

 「何が?」

 

 「こうやって問題解いてると、体が軽いような、でも、手足が少し違う感じがするの」

 

 「違う感じ?」

 

 「なんか……感覚が“置いてかれる”っていうか。うまく説明できないけど」

 

 彼女は右手を見つめる。ペンを持つ指が、かすかに震えていた。その微細な動きを見逃すまいとした瞬間、浜松さんは小さく笑って隠した。

 

 「ま、気のせいかな。疲れてるだけかも」

 

 「無理してんだろ、やっぱり」

 

 「ううん、楽しいの。勉強してると、なんか落ち着くんだよ。波の音じゃなくて、文字の音に集中してる感じ」

 

 その言葉に、思わず息を止めた。 

 

 ——文字の音。

 

 いつも砂浜の上で聞こえていた“波のリズム”の代わりに、今はノートをめくる音に救われようとしている。

 

 外の通りでは、バスのブレーキ音と夕立ちの名残の匂いが交じる。ガラス越しに見える街灯が、ゆっくりと彼女の横顔を照らした。

 

 それが、異変の始まりだったのかもしれない。

 

 その夜、帰宅して机に向かったとき、メッセージが届いた。

 

 《今日はありがとう岸和田くん。英語、すごく分かりやすかった。またお願いしてもいい?》

 

 続いて、少し間を置いてもう一通。

 

 《……あと勉強の話じゃないんだけど。帰りに少し練習したら、全然ボールにうまく当たらなかったの。焦るほど、体が反応しなくて。》

 

 画面の光が、部屋の暗闇の中でじっとりと滲んだ。ペンを握る指が自然と止まる。

 

 ——何かが始まっているのかもしれない。

 

 浜松夏帆に“異変”が。

 

 その瞬間、体の奥でざわりとした波が立った。

 

 視界の焦点が、ほんの一瞬だけずれた。

 

 手元にあるはずのノートの文字が滲み、時間がわずかに遅れて流れ始めるような、そんな錯覚。

 

 この感覚を、俺は知っている。

 

 麻衣先輩の姿が見えなかった時。

 

 豊浜が麻衣先輩と入れ替わっていた時。

 

 咲太が可能性の世界に行っていた時。

 

 そして、病院の廊下で、名前の知らないあの女性と出会った時。

 

 ——あの時と同じ“気配”だ。

 

 胸の奥に残る“思春期症候群の名残”が、静かに疼いていた。それは観察でも理解でもなく、もっと根源的な反応だ。

 

 机の上のスマホの光が、まるで警告のように点滅していた。

 

 俺は深く息を吐き、画面を伏せた。




物語解説

今回は、六月二十四日から七月二日までのささやかな日々を、のちに大きな波へと変わっていく前兆として描きました。

夏帆の英語長文の理解が驚くほど伸びる一方で、ボールに“うまく当たらない”。成果と代償が逆向きに進むそのズレを、彼女自身の言葉として、「感覚が置いてかれる」「文字の音に救われる」と言った形で置きました。ここが夏帆の思春期症候群の核心への入口です。

同時に、物語の裏側では支える時間が多層化しています。美凪と夏帆の練習、卯月の受験モード、新宿の予備校、そしてバイト。全部を抱えたい蓮真が、夏帆のケースで「優先順位」を迫られる伏線となりました。

“誰のどの時間を守るのか”。この問いが、ここからの物語の重心になります。

次回は、夏帆の学習の伸長と、運動の不調が、偶然ではなく現象だと確定していく話に入ります。

夏帆が頼った“文字の音”は歩みなのか、それとも忌避なのか。次回もぜひお楽しみいただきたく思います。

蓮真は最終的にどちらを選ぶと思いますか?

  • 豊浜のどか
  • 広川卯月
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。