青春ブタ野郎はパラレルスプリングの夢を見ない   作:もドえラん

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7.背伸びしない歩幅で、夏を抱きとめる

 

 七月四日

 

 新宿の夜。角筈図書館の二階は、閉館まであと一時間を切っていた。ガラス越しの街明かりが、静かな閲覧室をやわらかく照らしている。

 

 冷房の低い音と、ページをめくる小さな音だけが響く。夏の湿気を忘れさせるような、静かな夜の空気だった。

 

 「ふわぁ〜……」

 

 向かいの席から、控えめなあくびが聞こえた。顔を上げると、づっきーが両手で口を押さえながら目をこすっていた。

 

 「……眠そうだな」

 

 「そりゃそうだよ。だって、朝からリハーサルだったんだもん」

 

 「リハーサル終わってすぐにここって……根性あるな」

 

 「えへへ。ステージより静かで落ち着くし」

 

 そう言いながら、づっきーはペットボトルのアイスコーヒーを一口飲んだ。

 

 細い指先がキャップをぎゅっと閉めたあと、少しだけ力が抜ける。その手の動きに、疲労の色が滲んでいた。

 

 「無理すんなよ。寝不足だろ」

 

 「うん、ちょっとね。でも、きっしーと勉強の約束したし」

 

 「約束はいいけど、倒れたら意味ないだろ」

 

 「だいじょーぶ。私、アイドルの七不思議その五“異常な回復力”持ってるから」

 

 「そんな七不思議聞いたことない」

 

 「ほんとだよ? ステージ上で一回転んでも、次の曲で全回復!」

 

 づっきーは自慢げに両腕を広げてみせた。

 

 その動作の軽さに思わず笑ってしまう。無理してるのは明らかだったが、それを感じさせない明るさが彼女らしかった。

 

 づっきーがノートを開いて問題集をめくる間、俺は一瞬だけ視線を落とした。

 

 「ねぇ、きっしー。今日、顔がちょっとしょっぱいよ?」

 

 気づけば、づっきーが首を傾げてこちらを見ていた。ペンを持ったまま、目だけが真っ直ぐに覗き込んでくる。

 

 「……しょっぱい?」

 

 「うん。おにぎりで言うと、梅干し入りぐらい」

 

 「その例え、毎回独特だな」

 

 「でも分かるでしょ?なんか“もやっ”てしてる感じ」

 

 そう言って、づっきーは机の端を指でとんとんと叩いた。そのテンポの軽さが、なんとなく心の奥に残る重さを和らげる。

 

 ——たしかに、考えごとはしていた。

 

 一昨日の浜松さんのこと。“感覚が置いてかれる”と言って笑った、あの言葉が、まだ頭から離れない。

 

 「ねぇ、恋の悩み?」

 

 「違う」

 

 「じゃあ、胃もたれ?」

 

 「なんでその二択なんだ」

 

 「人の悩みって、だいたい食べすぎか恋愛でできてるから!」

 

 「お前の人生観、すごく極端だな」

 

 づっきーはケラケラと笑った。その無邪気さに、思わず口の端が緩む。

 

 空気が読めないのに、結果的に空気を明るくしてしまう、そういう子だ。

 

 「……そういえばさ」

 

 彼女がペンを回しながら思い出したように言った。

 

 「明日、七夕ライブなんだ。短冊イベントつき!」

 

 「知ってる。花楓ちゃんから聞いた」

 

 「えっ、花楓ちゃん?」

 

 「この前、花楓ちゃんから七夕ライブがあるって聞いた」

 

 「わー、そうなんだ! 来てくれるの?」

 

 「……いや、今回は遠慮しとく」

 

 「えぇー!なんで!」

 

 「予備校の夏期講習もう始まってるだろ……」

 

 「あ、そういえばそうだった!」

 

 「……まぁお前らのライブ、どうせまた映像出るだろ。あとで見るよ」

 

 「んー、それじゃ伝わらないよ。ライブは“現場の空気”がいちばん大事なのに」

 

 そう言いながら、づっきーは手を大きく広げた。「空気読めないくせに、空気の話をするな」と言いかけて、やめた。その明るさが、むしろ救いだったからだ。

 

 悪びれもなく笑うその顔が、妙にあたたかい。

 

 そして気づく。づっきーの何気ない仕草や、問題が解けたときにふっと緩む笑顔を、いつの間にか目で追っている自分に。

 

 「じゃあせめて、きっしーも短冊書いてよ」

 

 「短冊?」

 

 「そう。“勉強がんばれますように”とか、“胃もたれしませんように”とか!」

 

 「お前、まだ胃もたれにこだわるのか」

 

 「だって私、お願いごとは“夏でも寝坊しませんように”だよ?リアルでしょ!」

 

 くだらないやり取りのはずなのに、気づけば少し笑っていた。どんなに考え込んでいても、この子の調子の外れた明るさには敵わない。

 

 「そういえばさ」

 

 俺はノートを閉じながら、ふと思い出して口にした。

 

 「豊浜には、同じ大学に行くって言ってあるのか?」

 

 「えっ……あ、言ってなかった!明日言うね!」

 

 「おいおい、明日ってライブだろ」

 

 「ステージの前に言えばいいよ!」

 

 両手で拳を作って、気合いのポーズを取る。まるで本当に舞台袖で叫びそうな勢いだった。

 

 「……そういえば、学部はどうするんだ?」

 

 「えーとね、統計科学学部!」

 

 「……なんでまた?」

 

 「統計を、科学したくなったから!」

 

 間髪入れずに返ってくる声に、思わず笑いをこらえた。

 

 「……理由が中学生レベルだな」

 

 「だってかっこよくない? “データで世界を救う”みたいな!」

 

 「世界はそんな簡単じゃない」

 

 「えぇ!きっしーつまんない!」

 

 づっきーが舌を出して笑う。その笑顔が本当に楽しそうで、こちらまで和む。

 

 「じゃあきっしーは? どこの学部行きたいの?」

 

 「……国際商学部、かな」

 

 「へぇ、なんか真面目そう」

 

 「社会が得意なんだ。それに、将来、母親がやってた国際NGOの仕事をしたくてさ」

 

 「NGO……?」

 

 「まあ、簡単に言うと支援団体。海外の医療とか教育とかを支える活動をしてるんだ。そういう現場って、想いだけじゃ回らないだろ。仕組みとか、お金の流れも勉強しておきたいなと思って」

 

 「……きっしー、真面目だねぇ」

 

 づっきーはその光に照らされながら、ふっと微笑む。

 

 「ねぇ、七夕の短冊に書くね。“きっしーの夢が叶いますように”って」

 

 「やめろ、恥ずかしいから」

 

 「えへへ、もう書いちゃったもんね」

 

 無邪気に笑う声が、静かな館内に小さく響いた。

 

 その笑い声を聞きながら、俺は思う。

 

 ——きっと、こうやって誰かと笑える時間こそが、俺にとって大切な原点になるのかもしれない。

 

 七月六日

 

 月曜の放課後。

 

 教室の窓から差し込む光が、黒板の端を淡く照らしていた。

 

 片づけをしていると、大津が肩に鞄をかけたままこちらへやってきた。

 

 少し日焼けした顔には、いつもの明るさよりもどこか影が差していた。

 

 「岸和田、ちょっといい?」

 

 「どうした?」

 

 「……昨日と一昨日、夏帆とペアで大会出たんだけどさ」

 

 言葉の調子がいつになく低い。俺は自然と手を止めた。

 

 「なんか、変だったんだよね。夏帆の動き」

 

 「変?」

 

 「うん。レシーブもサーブも、いつもより微妙にズレててさ。ボールが目の前にあるのに、反応が一瞬遅れるっていうか」

 

 「疲れかもしれないだろ」

 

 「最初はそう思った。でも、二日目も同じだった。どんだけ休憩しても感覚が戻らないって、夏帆が言ってて」

 

 その“感覚”という単語が、耳に刺さった。先週、浜松さんが“体が置いてかれるような感じ”とこぼしていたのを思い出す。

 

 「試合後、本人はなんて?」

 

 「“大丈夫”って笑ってた。……でも、笑顔がちょっと引きつってた」

 

 大津は視線を落としたまま、机の縁を指でなぞった。その仕草に、言葉にならない不安が滲んでいた。

 

 「岸和田さ」

 

 「ん?」

 

 「最近勉強見てもらってるじゃん?……なんか気づいたことない?」

 

 胸の奥で、ゆっくりと何かがざわめく。言葉にできない違和感が、じわりと現実の輪郭を揺らす。

 

 「……少し、気になることはある」

 

 そう答えると、大津は短く息をのんだ。

 

 「やっぱり、何かあるのか」

 

 「まだ分からない。けど感覚のズレって言葉、ちょっと気になる」

 

 「うん……」

 

 教室の外では、吹奏楽部の音がかすかに響いていた。日常の音なのに、その瞬間だけ、妙に遠く感じた。

 

 ——感覚のズレ。反応の遅れ。もしそれが単なる疲労ではないとしたら。

 

 俺の頭の片隅で、“あの時”と同じ靄が立ち込め始める。

 

 麻衣先輩が見えなくなった時。

 

 豊浜が麻衣先輩と入れ替わっていた時。

 

 咲太がもう一つの世界に行っていた時。

 

 病院で見知らぬ女性と会った時。

 

 そして、浜松夏帆。

 

 静かに、何かが始まりかけている気がした。

 

 「……大津、しばらく彼女のこと、できるだけ見ててくれ」

 

 「もちろん。夏帆は私のペアだから」

 

 そう言って大津は笑おうとしたが、その笑顔はどこかぎこちなかった。

 

 窓の外では、雲の切れ間から光が差し込んでいた。明るいはずの光が、なぜか冷たく見えた。

 

 放課後、駅へ向かう頃には、空がうっすら茜色に染まり始めていた。

 

 人の流れに混じりながら、胸の奥に残るざらついた不安をどうにか落ち着かせようとする。

 

 ——浜松さんの“感覚のズレ”

 

 考えれば考えるほど、理由が見つからない。頭では整理できても、心の奥の引っかかりだけは消えてくれなかった。

 

 もし、これが単なる疲れや緊張じゃなく、思春期症候群の片鱗だったとしたら。

 

 その考えが浮かんだ瞬間、足が止まりかけた。

 

 あの微かな違和感。手の震え。彼女が言葉にできなかった“置いてかれる感覚”。

 

 どれも、過去に見てきた誰かの“渦中”に似ていた。

 

 麻衣先輩、豊浜、咲太……そしてあの病院で出会った、名前も知らない女性。

 

 彼らと接したときに感じた、あの現実の輪郭がゆらぐような感覚が、また少しだけ胸の奥をかすめていた。

 

 「いや、考えすぎだ……」

 

 そう自分に言い聞かせ、息を整える。

 

 改札を抜け、ホームへ向かう中、ふと頭に浮かんだ。

 

 ——そういえば、昨日あった“七夕ライブ”のこと。豊浜に何も伝えていなかった。

 

 づっきーと一昨日話をしただけに、なんとなく気になった。ポケットからスマホを取り出し、短くLINEを送った。

 

 《昨日のライブ、おつかれ。夏期講習があって行けなかったけど、どうだった?》

 

 送信して数秒も経たないうちに、返信が届いた。

 

 《きっしー!ありがとー!めっちゃ盛り上がったよ!》

 

 画面に浮かぶ絵文字の明るさに、思わず頬が緩む。そのテンションが、少しだけ心の重さを和らげてくれた。

 

 《そっか。づっきーも元気そうだった?》

 

 《うん!実は昨日、卯月がね、“春になったら一緒に大学行こう!”って言ってて!》

 

 「……ああ、ちゃんと言ったんだな」思わず声に出していた。

 

 あの日、づっきーが“明日言うね!”と笑っていた顔が浮かぶ。ちゃんと有言実行するあたりが、彼女らしい。

 

 《それでね、ライブの後、今度卯月と一緒に勉強会やろうって話になって、きっしーもどう?きっしーがいれば心強いし!》

 

 《いいよ。日にち決めてくれたら合わせる》

 

 送信から数秒後、スタンプが返ってきた。

 うさぎが「やったー!」と飛び跳ねている。

 

 《じゃあ、来週の土曜の午後!渋谷とかどう?その日はライブないし、卯月もその日空いてるって!》

 

 《了解。新宿のモーニングのシフトを終えたら行くよ。よろしくな。》

 

 送信を終えてスマホを伏せる。電車の風が頬を撫で、夜の匂いが静かに流れ込んでくる。

 

 豊浜とづっきー。同じステージに立つ二人が、今度は同じ大学を目指している。

 

 その輪の中に自分も加わることになるのかもしれない。そう思うと、ほんの少しだけ胸の奥がざわめいた。

 

 けれど、これはきっと悪い予感じゃない。

 

 むしろ、また新しい何かが始まりそうな、そんな予感だった。

 

 電車が滑り込む音とともに、ホームの風が一瞬だけ冷たく吹き抜けた。

 

 車内に入ると、ちょうど隣の車両から見覚えのある姿がこちらへ歩いてくるのが見えた。

 

 「……あれ、岸和田くん?」

 

 浜松さんだった。スポーツバッグを肩にかけ、制服の袖を軽くまくっている。

 

 練習帰りなのだろう、髪が少し湿っていて、潮風のような匂いがかすかに漂った。

 

 「浜松さん、今日は練習だったのか?」

 

 「ううん、ちょっと自主練してたんだ。たまたま同じ電車だったんだね」

 

 そう言って、彼女は少し笑う。けれど、その笑顔の裏には、ほんのわずかに疲労の影が見えた。

 

 「どうだった自主練?」

 

 「うーん……正直、イマイチ。レシーブもサーブも、なんか全部ズレてる感じで」

 

 その言葉に、胸の奥が小さく反応する。

 

 「……もしかして、前に言ってた“感覚が置いてかれる”ってやつ?」

 

 「うん。なんか、タイミングが全部ワンテンポ遅れるの。頭では分かってるのに、体が思うように動かないんだ……」

 

 電車の揺れが二人の間の空気をわずかに揺らす。その沈黙の中で、俺は自然と息を呑んでいた。

 

 「……木曜日。時間ある?」

 

 「ああ。放課後なら大丈夫」

 

 「じゃあ、また勉強会、お願いしてもいい?」

 

 「……あぁ、もちろん」

 

 口にした瞬間、自分の中でひとつの線が引かれた気がした。

 

 ——今度こそ、確かめよう。

 

 ただの疲れや緊張なのか。それとも、本当に“思春期症候群”の始まりなのか。

 

 電車が揺れるたび、窓の外の灯りがにじんで流れていく。夏の夜の匂いが、少しだけ遠く感じられた。

 

 七月九日

 

 放課後の藤沢駅前は、湿った風に夏の匂いを含んでいた。夕立の名残がアスファルトを濡らし、街路樹の影が水面のように揺れている。

 

 図書館の自動ドアを抜けると、涼しさと紙の匂いが迎えてくれた。待ち合わせのテーブルには、すでに浜松さんが座っていた。

 

 「おつかれ。今日も練習のあと?」

 

 「うん。でも、今日は少し早めに切り上げたんだ。……調子、あんまりよくなくて」

 

 そう言って笑う彼女の頬に、うっすらと疲れの色が浮かんでいた。けれどその目は、なぜか冴えていた。

 

 「この前の模試受けて、復習してみたの。ちょっと見てもらっていい?」

 

 机に出されたノートには、英文が細かく色分けされ、文構造が丁寧に整理されていた。一目見ただけで、以前とはまるで別人のように正確だとわかる。

 

 「……すごいな。前よりずっと速いし、間違いがない」

 

 「ほんと? なんかね、最近、頭の中がクリアで。単語とか文法とか、全部スッとつながるの」

 

 彼女の声が少し弾む。その喜びは本物だった。けれど、俺の胸の奥では、別の音が鳴っていた。

 

 ——あまりに“急すぎる”。

 

 「こうして読むと、文のリズムもわかるようになってきた。でもね……ちょっと、変なんだ」

 

 「変?」

 

 「うん。体が、遅れてる気がして……頭ではもう次を読んでるのに、手が追いつかない。焦ると、もっとズレる」

 

 その瞬間、喉の奥がきゅっと詰まった。

 

 ——やはり、始まっている。

 

 俺は気づかれないようにタブレットを開き、ノートアプリに指先で短く打ち込む。画面の角度をわずかに傾け、光が反射しないように気をつけながら。

 

 > 七月九日 藤沢図書館

 

 > 浜松夏帆:認知・理解力の著しい上昇

 

 > 運動反応との乖離、反比例的

 

 > 知覚・身体の同期崩壊。思春期症候群の兆候の可能性大

 

 指先が自然に慎重になる。文字を打つたびに、心拍がゆっくりと早くなっていく。

 

 顔を上げると、浜松さんは再び問題に目を落としていた。額に汗をにじませながら、ペン先を追っている。その姿が、まるで“何かに突き動かされている”ように見えた。

 

 「……ごめん、また集中しすぎた。なんか時間の感覚が飛んでたかも」

 

 「気にすんな。むしろ、すごい集中力だ」

 

 「うん……最近、自分でも怖いくらい」

 

 笑ってはいるが、手元がかすかに震えていた。その指先を見ながら、俺は記録画面をそっと閉じる。

 

 ——これ以上、偶然とは思えない。

 

 勉強会を終え、図書館を出ると、海風がゆっくりと頬を撫でた。西の空には夕焼けの残りが漂い、ガラス越しに光が反射している。

 

 タブレットを開きかけて、やめた。文字にしてしまえば、何かが決定してしまいそうだった。

 

 “思春期症候群”という言葉が、頭の中でゆっくりと浮かんでは沈む。もしこれが、本当にあの症状の続きなのか。それとも、俺の中にまだ残っている“記憶と記録の乖離”が見せている幻なのか。

 

 駅前の雑踏の中、信号待ちで立ち止まりながら、ふと頭に浮かんだ。

 

 ——もし咲太なら、きっと双葉に相談するだろうな。

 

 (俺も、そうしてみるか)

 

 年末年始の“記憶と記録のズレ”のときは、自分の思春期症候群のことには触れることになるから、双葉に相談はしなかった。

 

 でも、今回はあくまでも観察記録として話せる。それなら、俺の思春期症候群のことも話さなくていいし、受験で忙しい双葉にも余計な心配をかけずに済む。

 

 それに、彼女ならきっと気づくだろう。俺が、ただ記録の報告ではなく“助ける方法”を探していることに。

 

 「……双葉に、相談してみるか」

 

 呟いた声は、夏の風にすぐかき消された。

 

 それでも、不思議と胸の奥は静かだった。夕焼けの残りが窓のガラスに溶け、夜の始まりをやわらかく告げていた。

 

 七月十日

 

 放課後の物理実験室。

 

 窓際のブラインドから漏れる西日の筋が、机の上に細く伸びていた。ガスバーナーやフラスコが並ぶ静かな空間に、エアコンの低い唸りだけが響いている。

 

 「岸和田とこうやって話すの、久しぶりだね」

 

 ノートを閉じながら、双葉が目線を上げた。

 

 「梓川は毎日のように来てるのに」

 

 「咲太が?なんでだ?」

 

 「毎日、私に勉強を教わりに来てるんだよ。……私も受験生なんだけどね」

 

 苦笑しながら、マグカップのコーヒーをひと口。

 

 そういえば、二人は三年から同じクラスになったんだった。

 

 (咲太が俺に勉強を聞きに来なかったのは、双葉のとこに通ってたからか……)

 

 妙に納得して、思わず小さく笑ってしまった。

 

 少しの沈黙が落ちたあと、双葉が視線をこちらに向けた。

 

 「岸和田は、大学どこにするつもりなんだっけ?」

 

 「横浜市大。咲太と同じ」

 

 「なるほど。じゃあ梓川とは同じ大学でまた顔合わせることになるかもね」

 

 「まぁな」

 

 双葉は小さく頷き、自分のノートを閉じた。

 

 「私は東工大を受けるつもり」

 

 「……さすが、理系一直線だな」

 

 「前から研究したい分野があったしね」

 

 その言葉に、ふと祖父の姿が頭をよぎった。

 

 「そういえば、うちの祖父も東工大出身だった」

 

 「へぇ……そうなんだ」

 

 「まぁ、俺自身はその話を親から聞いただけで、実感はあんまりない。小さい頃に何度か会っただけで、思い出も薄いんだ」

 

 一瞬、湯気越しに背広姿の祖父の面影が浮かんだ気がした。

 

 けれどそれは、記憶というより“語られた像”の残像だった。

 

 残っているのは、写真の中の穏やかな笑みと、誰かが言っていた「几帳面な人だった」という言葉だけ。

 

 双葉は少しだけ柔らかい目をして頷いた。

 

 「それでも、そういう“ルーツ”を知ってるのはいいことだと思う。進路を決めるとき、背中を押してくれるかもしれないし」

 

 「……そうかもな」

 

 頷きながら、カップに残ったコーヒーを口に含む。微かに冷めかけた苦味が、喉の奥に静かに広がった。

 

 そのとき、双葉が軽く眉を上げた。

 

 「で、岸和田のことだから……本題があるんでしょ?」

 

 「……やっぱりバレたか」

 

 小さく息を吐く。流石は双葉だ。隠しごとには向かない相手だと、あらためて思う。

 

 「四月から同じクラスになった大津っているんだけどさ」

 

 「知ってる。ビーチバレーのジュニア選手として有名人だからね、彼女」

 

 「そう。その大津のペアで、浜松さんって子がいるんだ。同じビーチバレーの選手で、彼女は別の高校なんだけど、よく一緒に練習してるんだ」

 

 「でさ、その二人の勉強を頼まれててさ。最近、放課後に見てるんだ。推薦で大学を目指してるけど、学力が追いつかないらしくて」

 

 「なるほどね。それで、その彼女に“異変”ってわけ?」

 

 双葉の声が、わずかに低くなる。その反応に、少しだけ息を整えてから、俺は口を開いた。

 

 「そう。最初は普通だった。けど……ここ数日で急に勉強の伸びが異常なくらいになってて。 模試の英語も文法も、まるで別人みたいに理解してる。なのに、プレーの調子は反比例して落ちてるらしいんだ」

 

 「学力と身体能力が反比例、ね……」

 

 「あぁ。ただ、単なる疲労や緊張ってレベルじゃないんだ。反応速度が落ちてるのに、認知だけは明らかに鋭くなってる。この前の図書館でも、『頭では読めるのに、手が追いつかない』って言ってた」

 

 「……なるほど」

 

 少しの沈黙が落ちた。

 

 そして、双葉はしばらく考え込むように目を伏せた。実験台の上の光が、彼女の横顔に細く反射する。

 

 「双葉」

 

 「もしこれが……思春期症候群だったとしたら、どう思う?」

 

 俺の言葉に、双葉はそのまましばらく考えるように視線を宙に泳がせる。

 

 「……断定はできないけど」

 

 静かな声でそう前置きしてから、

 

 「もしそうなら、こういうことかもしれない」と言葉を続けた。

 

 「典型的な“他者依存”型でも“感情分離”型でもない。どちらかというと、“知覚と身体のズレ”。量子同期の破綻に近い現象」

 

 「……つまり?」

 

 「頭の中の処理速度が、現実世界の自分の行動とズレ始めてるってこと。理屈で言えば、脳の時間感覚と外界の“体感秒針”が一致してない状態。そう、まるで、再生速度の違う映像を同時に流してるみたいなもの」

 

 「……」

 

 その説明を聞きながら、浜松さんの言葉が頭の中で反響した。

 

 “頭では次を読んでるのに、手が追いつかない”

 

 まさにそれだ。

 

 「じゃあ、どうすれば……?」

 

 「まだ断定はできないけど、彼女の場合は“原因が外”にあるかもね」

 

 「外?」

 

 「うん。大津さんとの関係とか、競技へのプレッシャーとか。“自分を高めたい”という意識が、能力の片方だけを異常に引き上げて、身体の同期を壊してる可能性がある」

 

 「……なるほど」

 

 双葉は小さく頷いて、少し考え込むように目を伏せた。

 そのまま静かに言葉を続ける。

 

 「それと岸和田。浜松さんだけじゃなくて、パートナーの大津さんも気をつけたほうがいいかも」

 

 「……え?」

 

 思わず顔を上げた。

 

 「どういう意味だ?」

 

 「大津さん、去年の体育祭のときに、テレポーテーションするっていう思春期症候群の症状を見せてたんだよ。」

 

 「……初耳だな」

 

 双葉は静かに頷き、少し言葉を選ぶようにして続けた。

 

 「彼女の症状は、“量子もつれ”型だった」

 

 「量子……もつれ?」

 

 「もつれた粒子同士は、どんなに離れていても、一方の状態が決まった瞬間にもう一方も確定する。それが量子もつれ。大津さんの症状は、それが“自分の存在”に置き換わったケースだった」

 

 「つまり……どういうことだ?」

 

 「観測者がいない状態だと、自分の位置が確定しない。だから、本人の意識が“移動したい”と強く思えば、一瞬で別の場所に“跳ぶ”ように現れる。まるでテレポーテーションみたいにね」

 

 「……そんな現象が実際に?」

 

 「うん。ただ、彼女の存在は“観測されている間”は固定されるから、そのときは動けない。観測者が彼女を“見ている”限り、大津さんはどこにも行けないんだよ。」

 

 息をのんだ。

 

 「……もしかして、それを止めたのが、咲太か?」

 

 「そう」

 

 双葉は、懐かしそうな、それでいて少し呆れたような笑みを浮かべた。

 

 「梓川は、体育祭の二人三脚に大津さんと出た。誰かと常に一緒にいれば、ずっと観測されている状態を保てるからね。要は、彼女の存在を、全校生徒の視線で“確定”させ続けたの」

 

 「……あいつらしいな」

 

 自然と笑みが漏れた。

 

 人の理屈じゃなく、感情で動いて、でも結果的に一番正しい方法を選ぶ。あいつらしい単純で、でも真っ直ぐな解決法だ。

 

 双葉は少し視線を落とした。そしてその指先が机の端を軽くなぞる。

 

 「もし可能なら、大津さん本人にも、相談してみたら?」

 

 「……大津に?」

 

 「そう。大津さんも、思春期症候群に罹ったことがあるから、何かしら感じ取れることがあるかもしれない。自分の症状を通して、浜松さんの変化を“内側”から見ている可能性がある」

 

 「……そんなこと、俺に話してくれるかな」

 

 「案外、話すと思うよ。岸和田なら、自分の話を“聞いてくれる側”でいてくれるから」

 

 その言葉に、胸の奥が少しだけ熱くなった。

 

 聞く側。それは、これまで自分が何度も繰り返してきた立ち位置。

 

 でも、今回はその聞くこと自体が、誰かの救いになるのかもしれない。

 

 双葉は机を軽く撫でながら、微笑んだ。

 

 「でも、どちらかだけを見てもダメ。両方のズレを確かめることが大事」

 

 「岸和田の得意なその観察と記録を、ちゃんと解決に繋げなよ。梓川とはまた別の角度からね」

 

 その言葉に、胸の奥が小さく鳴った。彼女の真っ直ぐな目が、少しだけ痛かった。

 

 「……ああ。わかってる」

 

 実験室の時計が、ちょうど六時を指す。

 

 夕陽がブラインドの隙間を抜け、二人の間に淡い光の筋を落とした。

 

 その光の中で、俺はそっと頷いた。

 

 浜松夏帆という名前と、大津美凪という名前を、心の中で静かに刻みながら。

 

  七月十一日

 

 梅雨明けの蒸し暑さが街を包みはじめた土曜日の午後。待ち合わせ場所の渋谷駅桜丘口は、再開発で新しくなったばかりの広場がきらめいていた。

 

 電車を降りて階段を上る途中、昨日の双葉との会話が頭の中で繰り返されていた。

 

 ——認知と身体の同期の崩壊。

 

 ——そして、去年大津が経験したという“量子もつれ”の症状。

 

 もし双葉の言う通りなら、浜松さんの異変は彼女ひとりの問題じゃない。ペアである大津との関係性に無意識に共鳴している。

 

 「どちらかだけを見てもダメ。両方のズレを確かめることが大事」

 

 双葉の言葉が、まだ耳の奥で残響のように響いていた。

 

 ——観察することは、救うことと同義ではない。

 

 それは咲太や麻衣先輩や豊浜を見てきて分かっていたはずなのに、いつも俺はその線を見誤る。

 

 (どうしたら、いいんだろうな……)

 

 そんなことを考えているうちに、改札を抜けて、午後の陽射しの中へ出た。

 

 「きっしー! こっちこっち!」

 

 手を振る声の方を見ると、豊浜のどかが人混みの中で明るく笑っていた。

 

 その隣で、ピンクのカーディガンを羽織ったづっきーも軽く手を上げて微笑んでいる。

 

 「やっぱ渋谷、人多いね〜!ライブ会場より混んでる気がする!」

 

 「卯月、ライブは整列あるだけで、混雑度は同じだよ」

 

 豊浜があきれたように笑うと、づっきーは「そなの!?」と首を傾げた。

 

 「とりあえず、今日の目的は“勉強会”だろ」

 

 「うん!まじめにやるよ!」

 

 「まじめな卯月は珍しいかも」

 

 豊浜の軽口に、づっきーは「むっ」と頬をふくらませる。その光景を見て、俺は思わず笑った。

 

 目的地は駅から徒歩五分ほどの渋谷区文化総合センター大和田。その中にある「こもれび大和田図書館」の学習席を使う予定だった。

 

 繁華街から離れたこの場所は、渋谷の喧騒から少しだけ切り離された静かな空間だ。

 

 木目調の机が並ぶ閲覧スペースに着くと、窓の外には渋谷の街並みが小さく見下ろせた。

 

 午後の日差しがレース越しに差し込み、まさに“こもれび”という名にふさわしい穏やかさだった。

 

 「うわぁ……静か。渋谷とは思えないね」

 

 「ここ、集中できそう」

 

 のどかが満足そうに頷き、づっきーは早速ペンケースを机に置いた。

 

 「よーし、今日こそ英語長文マスターする!」

 

 「またそれ言ってる」

 

 「でもね、言霊ってあるから!」

 

 「ポジティブの方向性がすごいな」

 

 そんな冗談を交わしつつ、三人でノートを広げる。テーマは英語の長文と数学の復習。

 

 豊浜は受験科目を意識した勉強を始めていて、づっきーも同じ大学を目指すつもりらしい。

 

 「“Theatre as communication”……か。演劇と表現の話だな」

 

 「読んでるだけで、お姉ちゃんの声が聞こえてきそう」

 

 豊浜がペンを止めて苦笑する。俺はノートに文構造を書きながら言った。

 

 「“communication”は“伝えること”って意味だけど、ここでは“共有すること”って訳すと自然だよな」

 

 「そうだね。共有……か。お姉ちゃん、舞台も“お客さんと一緒に作るもの”って言ってたな」

 

 豊浜は小さく呟き、真剣な眼差しで文章を追っていく。

 

 一方、づっきーは隣で単語帳をぱらぱらめくりながら唸っていた。

 

 「“performer”と“performance”って、どっちが人?」

 

 「erがついた方」

 

 「つまり、パフォーマーが人で、パフォーマンスが行為!」

 

 「その調子だ」

 

 「先生みたいだね、きっしー!」

 

 「そうか?」

 

 「だって先生ぽいんだもん!」

 

 づっきーが笑い、豊浜も釣られて吹き出す。

 

 一時間ほど経つと、づっきーが数学のプリントを取り出した。

 

 「ねぇ、これさ……二次関数の最大値と最小値、まだ苦手で」

 

 「式を追うより、図で見た方が早いよ」

 

 先に答えたのは豊浜だった。

 

 「aの符号で上に開くか下に開くかが変わるの。で、軸のx座標はマイナスb÷2a」

 

 「うんうん……あ、やっぱりのどか先生わかりやすい」

 

 「先生はやめてよ卯月!」

 

 豊浜が苦笑しながらも、ホワイトボード代わりのノートに丁寧な放物線を描く。

 

 「ここに点を打つと、最大値・最小値がわかるんだ」 

 

 俺も隣から補足する。

 

 「あと、視覚的にイメージするなら、aの符号を意識すると良い。上に開くなら“おわん”、下に開くなら“山”みたいな感じ」

 

 「なるほどね〜。あっ、じゃあこういうのもあり?」

 

 づっきーがピンクのボールペンを手に取り、放物線の上に丸っこいキャラを描き加えた。

 

 「……カービィ?」

 

 思わず反応してしまう。

 

 「うん! ほら、aがマイナスのときは“落ちるカービィ”って覚えればいいじゃん!」

 

 「いや、それで覚えられる人いないだろ」

 

 「でもかわいいでしょ?」

 

 「……まあ、かわいいけど」

 

 思わず口がゆるむのを、豊浜がすかさず見逃さなかった。

 

 「きっしー、今ちょっと嬉しそうだった」

 

 「気のせいだ」

 

 「もしかしてカービィ好き?」

 

 「だから気のせいだって」

 

 豊浜が肩を揺らして笑い、づっきーも満足げに頷いた。放物線の上には、にっこり笑うピンク色の丸いカービィが、まるで勉強の見守り役みたいに鎮座していた。

 

 図書館の静寂の中、三人の笑い声だけが小さく響く。

 

 それでも注意する人はいなかった。

 

 この空間には、勉強と笑いがちゃんと共存できる余白があるように思えた。

 

 気づけば夕方近く。

 

 机の上には、三人分のノートと消しゴムのかすが散らばっている。

 

 「よし、今日はだいぶ進んだな」

 

 「うん!頑張った気がする!」

 

 「“気がする”じゃなくて、ほんとにしてた」

 

 豊浜が笑いながら腕を伸ばし、づっきーはペンをくるくる回していた。

 

 ふと、俺は豊浜を見ながら口を開いた。

 

 「そういえばさ、豊浜って、国際教養学部志望だったよな?」

 

 「うん。……なんで今その話?」

 

 「いや、ちょっと気になって。どうしてそこに?」

 

 豊浜は一瞬考えてから、少し照れたように笑った。

 

 「いつか、スイートバレットのみんなで海外のステージに立ちたいんだ。その時に、ちゃんと自分の言葉でお客さんに伝えられるようになりたくて」

 

 その瞳はまっすぐだった。ステージの照明じゃなく、未来の光を見つめているような。

 

 「なるほどな……それで国際教養か」

 

 頷く俺の横から、づっきーが勢いよく身を乗り出した。

 

 「その前に!私たち武道館目指してるから!」

 

 「……武道館?」

 

 「そうそう!デビューから三年で行くんだから!」

 

 「ずいぶん具体的だな」

 

 「でしょ?夢はちゃんと期限付きじゃないと!」

 

 づっきーが胸を張ると、豊浜は苦笑しながらペットボトルを手に取った。

 

 「卯月って、たまにリーダーっぽいこと言うよね」

 

 「ええそんなことないよ!」

 

 二人の笑い声が静かな図書館に柔らかく溶けていく。

 

 ——未来の話をしているときの二人は、本当に眩しかった。

 

 努力や不安の影を抱えながらも、ちゃんと夢を“楽しんでいる”顔だった。

 

 「そろそろお腹すいたね」

 

 「俺もだ。」

 

 「私、お肉食べたい気分!」

 

 「……卯月、それ昨日も言ってた」

 

 「ええ!でも今日もお肉日和だもん!」

 

 「じゃあ、渋谷PARCOに行こう。俺がよく行く店がある」

 

 「どんなお店?」

 

 「“極味や”。生のハンバーグを目の前の鉄板で自分で焼くんだ」

 

 「えっ!なにそれ、絶対行く!」

 

 PARCO地下一階のレストランフロアに着くと、香ばしい匂いが迎えてくれた。

 

 目の前の鉄板に乗ったハンバーグを自分で焼くスタイル、“極味や”の名物だ。

 

 「うわ〜!すごい!ほんとに焼くんだ!」

 

 「端を押しつけて、色が変わってきたら裏返す」

 

 「きっしー先生の講義開始だね!」

 

 「だから先生って呼ぶな」

 

 鉄板の上で肉汁が弾け、香りが立ちのぼる。その音と匂いに、三人の笑い声が混ざっていく。

 

 「……うまっ!」

 

 「おいしい〜!これはテンション上がるね!」

 

 「“勉強のあとのお肉は正義”だよ!」

 

 「名言出た!」

 

 づっきーが笑いながら言い、豊浜が拍手した。

 

 店を出ると、渋谷の街は夜のネオンに包まれていた。ガラス越しに見える交差点の光が、まるで昼の延長のようにきらめいている。

 

 「今日、楽しかったね」

 

 「うん。またここで勉強しよ」

 

 「……その前に、ちゃんと復習しとけよ」

 

 「それは、明日の私に任せる!」

 

 「ダメだこりゃ」

 

 三人で笑いながら駅へ向かった。

 

 こもれびのように優しい時間が、まだ胸の中で揺れていた。

 

 豊浜とづっきー。

 

 今日二人と過ごす時間の中には、“観察”じゃなく“共有”があった。

 

 それぞれが自分らしくいられて、誰かのペースに合わせすぎない。

 

 ——お互い、背伸びしないでいられる関係。

 

 もしかしたら、浜松さんと大津に必要なのは、それなのかもしれない。

 

 どちらかが“支える側”でも、“支えられる側”でもなく、ただ同じ歩幅で、同じ景色を見られること。

 

 俺は今日この日、“観察”ではなく“共にいる”ということの意味を、少しだけ理解した気がした。

 

 改札へ向かう通路で、人の流れが緩やかにほどけていく。ガラスに映る三人分の影が、一瞬だけ重なって、それからそれぞれの方向へ薄れていった。

 

 エスカレーターを降りると、地下の空気はひんやりしている。さっきまでの笑い声は、もう耳の奥で小さな残響になっていた。

 

 背伸びをしない歩幅。同じ景色を、同じ速度で見ること。

 

 ——それだけで、救われる瞬間があるのだとしたら。

 

 そう願いながら、俺は乗り場へ歩いた。

 




物語解説

今回は、蓮真が“観察者”から一歩踏み出すきっかけを描いた回でした。卯月との夜の勉強会、浜松夏帆の異変、双葉理央との再会、そして渋谷での“こもれび”の午後。静かに繋がる出来事のすべてが、「観察」と「共有」という対になるテーマの上に積み重ねています。

これまで蓮真は、誰かを支えるとき常に“距離を保つこと”を選んできました。しかし今回、のどかとの笑い合い、卯月の無邪気さ、そして双葉の助言を通して、「ただ隣に立つこと」「同じ歩幅で歩くこと」こそが、支えるという行為の本質なのだと気づいていきます。

一方で、夏帆の“異常な勉強の伸び”と“身体とのズレ”という現象は、いよいよ思春期症候群の兆候として輪郭を帯び始めました。その裏には、ペアである大津美凪との深い結びつき、そしてズレが存在します。

「どちらかだけを見てもダメ。両方のズレを確かめることが大事」双葉のこの言葉が、次回への道筋を示しています。

次回は、いよいよ夏帆の思春期症候群が本格的に姿を現し、その核心にある“感覚と絆の断絶”が明らかになります。

蓮真が見つけるのは、記録でも理屈でもなく、
ただ“二人の歩幅”を取り戻すための、ひとつの答え。その中で、彼の“観察”が“解決”へと変わる瞬間を、ぜひお楽しみください。

蓮真は最終的にどちらを選ぶと思いますか?

  • 豊浜のどか
  • 広川卯月
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