青春ブタ野郎はパラレルスプリングの夢を見ない   作:もドえラん

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8.夏風と共に、同じステップは確かに続く

 

 七月十三日

 

 今週が終われば来週から夏休みに入る。

 

 放課後の校舎は、ゆっくりと夕暮れに溶けていった。

 

 体育館の裏手にあるベンチは、潮風が抜けて涼しい。そこで待っていると、少し遅れて大津が現れた。

 

 「悪いな、呼び出して」

 

 「ううん、大丈夫。……夏帆のこと、気になるんでしょ?」

 

 「まあ、な。先週勉強を教えた時も“感覚がズレる”って言ってた」

 

 「やっぱり……」

 

 大津はペットボトルの水を一口飲み、視線を少し落とした。

 

 「正直、私最近怖いんだよね…… 練習中に夏帆が一瞬、“そこにいない”みたいな感じがして……でも、次の瞬間には普通にボールを拾ってるの」

 

 「……それ、単なる疲れとかじゃ説明つかないな」

 

 「うん。私もそう思う」

 

 俺は少し息を整えてから、口を開いた。

 

 「もしかしたら……浜松さんの異変、思春期症候群かもしれない」

 

 その言葉に、大津の指先が止まる。

 

 「……思春期症候群?」

 

 「まだ仮説だけど。体と認識のズレ、反応の遅れ。理屈じゃ説明できない現象がいくつか重なってる」

 

 「……岸和田も、梓川と同じこと言うんだね」

 

 その名前が出た瞬間、空気が少し変わった。

 

 「咲太が、なんか言ってたのか?」

 

 問いかけると、大津は一瞬だけ視線を伏せた。言葉を探すように、小さく息を吐く。

 

 「……うん」

 

 少し間を置いてから、ゆっくりと顔を上げた。その瞳には、迷いと覚悟が半分ずつ混じっている。

 

 「梓川も、去年の体育祭の時に……私が“瞬間移動”した時、“思春期症候群”って言ってた」

 

 その言葉を口にしたあと、大津は小さく唇を噛んだ。まるで、自分でもまだ信じきれていないことを告白するように。

 

 しばらくの沈黙が落ちたあと、彼女は小さく息を吐いて続けた。

 

 「……私、体育祭の時、夏帆を避けてたんだ」

 

 「避けてた?」

 

 「うん。ちゃんと理由があるの」

 

 そう言って、大津はジャージの袖を握りしめる。夕陽の光がその横顔をかすかに照らし、長い影が校舎の壁に伸びていた。

 

 「夏帆と出会ったのは、中一のときでさ」

 

 淡々とした声だった。けれど、その奥には時間の重みが滲んでいた。

 

 「クラブに夏帆が入ってきて、しばらくしてペアを組んだ。……最初は、お父さん……コーチに言われたから組んだだけ。私は夏帆のこと、よく知らなかったんだよね」

 

 「……知らなかった?」

 

 「うん。練習は誰よりも真面目で、上達も早い。でも、あんまり喋らないし、滅多に笑わない。何を考えているのか、分からなくてさ。試合中もしっくりこなくて、息が合わない感じだった」

 

 少し遠くを見るようにして、彼女は続けた。

 

 「実際、その夏の大会は、一回も勝てなくて。正直、つまんなかった。だから試合が終わった帰り道で、思わず聞いちゃったの。“夏帆はビーチバレー、楽しい?”って」

 

 その瞬間、彼女の声がふっと柔らかくなる。

 

 「そしたら、“楽しいよ”って笑ったの。“美凪ちゃんとビーチバレーするのは楽しい”って。“でも、負けるのは悔しいから、次は美凪ちゃんと勝ちたい”って」

 

 そこまで話すと、大津は言葉を区切るように息をのんだ。その目は潤んでいたが、涙は落ちない。

 

 「そのとき、なんか分かんないけど、涙が出ちゃって……。泣きながら思ったんだ。“次は絶対に勝とう”って。夏帆と一緒に」

 

 思い出を語りながらも、どこか懺悔のような響きがあった。

 

 「次の日からコーチにお願いして、練習メニューを増やしてもらった。夏帆ともいっぱい話をするようになって、バレーのことも、それ以外のことも。そうやって過ごすうちに、二年目の大会は全部優勝した」

 

 小さく笑って、「まだ背が伸びてた頃だったからね」と付け加える。

 

 でもその笑いには、懐かしさよりも、どこか切なさが混ざっていた。

 

 「……気づいたら、私にとって夏帆は特別になってた」

 

 「特別、か」

 

 「寝ても覚めても、夏帆のことばっかり考えてた。……好きなんだ、夏帆のこと」

 

 声が震えていた。けれど、その告白には不思議なほど清らかさがあった。

 

 「だからかな……体育祭の前の日に、夏帆にキスしちゃったの」

 

 俺は息をのんだ。彼女は視線を落としたまま、続ける。

 

 「でも、それがいけないことだと思った。夏帆にも迷惑をかけるし、この関係が壊れちゃうのが怖くて……。そう思ったら、夏帆に会うのが怖くなって、LINEも電話も返事できなくなって」

 

 そこまで言うと、彼女はタオルをぎゅっと握りしめた。

 

 「……それでも、夏帆は私を探してくれたんだ。体育祭の日、わざわざ見に来てくれてさ。

あとで聞いたら、“どうしても美凪ちゃんの走る姿が見たかった”って言ってた。だから私も思った。会いに来てくれた夏帆に、ちゃんと応えたいって」

 

 「……それが、咲太と二人三脚に出た理由か」

 

 「うん。誰かに見られている間は、私はどこにも行けなかった。あの時、梓川がいたおかげかな?でもそのおかげで、私はようやく“今ここにいる”って思えた」

 

 風が、二人の間を静かに通り抜けた。

 

 校舎の影が長く伸び、グラウンドの向こうに夕陽が沈んでいく。

 

 俺は少し間をおいてから、ゆっくりと口を開いた。

 

 「……ありがとな、大津。話してくれて」

 

 彼女は驚いたように顔を上げたが、すぐに微笑んだ。

 

 「ううん。むしろ、話せてよかったよ。……梓川以外、ずっと誰にも言えなかったから」

 

 その笑顔は、少し泣きそうで、でもどこか救われたようでもあった。

 

 「……岸和田」

 

 「ん?」

 

 「やっぱり、私……夏帆のこと、ちゃんと見たい。もう一度」

 

 「……ああ」

 

 「また、同じ歩幅で並べるように」

 

 その言葉が、夕焼けの空気に溶けていく。蝉の声が遠くでかすかに響いていた。

 

 俺はその横顔を見ながら、小さく頷いた。

 

 ——この夏、また誰かの歩幅を取り戻すために。

 

 七月十四日

 

 藤沢の図書館は、夏休み前の静けさに包まれていた。

 

 窓の外では蝉が鳴き、冷房の風がページをめくる音をかすかに揺らしている。

 

 約束の時間より少し早めに来て、ノートを広げていた。やがて、控えめな声が聞こえた。

 

 「……岸和田くん」

 

 顔を上げると、浜松さんが立っていた。

 

 白いシャツの袖を軽く折っていて、日焼けした腕が夏の光を反射している。けれどその表情は、どこか曇っていた。

 

 「呼び出して悪いな」

 

 「ううん。大丈夫……」

 

 彼女はそう言って、向かいの席に座った。水筒のキャップを外して、冷たいお茶を一口飲む。

 

 「この前……美凪ちゃんから誕生日プレゼントもらってから、やっぱりなんか変なんだ」

 

 「変って?」

 

 「うまく言えないけど……感覚が合わなくなった感じ。トスを上げても、距離が合わなかったり、手が震えたり。前みたいに、ボールの感触が分からなくなる時があるの」

 

 その声は穏やかだったが、どこか自分を責めているように聞こえた。

 

 「急にビーチバレーができなくなったってことだよな?」

 

 「うん……。練習中にミスするたびに、頭の中が真っ白になる。“どうしてできないの”って、自分でもわからなくなるの」

 

 「……そういえば、いつ頃からそうなったんだ?」

 

 「うーん……、たぶん七月に入ってからかな」

 

 (七月……?)

 

 その言葉に、先月の大津とのやりとりがふと心当たりが浮かんだ。

 

 ——来週の一日、夏帆の誕生日なんだけどさ……

 

 「……もしかして、浜松さんの誕生日のあたりから、変になったりしてないか?」

 

 浜松さんの肩が、わずかに震えた。

 

 「……なんで、わかったの?」

 

 「プレゼント、大津と一緒に選んだから。もしかして、あれが何か引き金になったのかと思って」

 

 「うん……そうかも」

 

 彼女は小さく頷いて、手首を見せた。そこには大津が選んだ貝殻のブレスレットが光っている。

 

 「もらったときは、ほんとに嬉しかったの。でも……その瞬間、胸の奥がぎゅってなって。嬉しいのに、なんか、苦しくなったんだ」

 

 そう言って、浜松さんはそっと鞄の中から小さな封筒を取り出した。端が少し折れていて、何度も読み返した跡があった。

 

 「……ブレスレットと一緒に、これが入ってたの」

 

 封筒の中から、丁寧に折り畳まれたメモ用紙がのぞいた。そこには、柔らかい字でこう書かれていた。

 

  {夏帆、いつもありがとう。大好きだよ! ——美凪}

 

 「……見た瞬間、涙が出そうになった」

 

 彼女の声が震えた。

 

 「嬉しくて、あったかくて……でも、同時に胸が苦しくなった。“この子はこんなにまっすぐなのに、私は何を迷ってるんだろう”って。そう思ったら……」

 

 彼女の指先がブレスレットの貝殻を軽くつまむ。その仕草が、まるで壊れやすい思い出を扱うように慎重だった。

 

 「ほんとに、すごく嬉しかったんだよ。でも……なんか、その瞬間、胸の奥がぎゅってなって。嬉しいのに、涙が出そうになった。……多分、申し訳なくなっちゃったんだと思う」

 

 「申し訳なく?」

 

 「うん。美凪ちゃん、すごく頑張ってるから。でも、あの子に比べたら、私は全然努力できてない気がして……。同じペアなのに、私が足を引っ張ってるって、思っちゃって」

 

 「……それに、それだけじゃないんだ」

 

 浜松さんは少し間を置いてから、視線を落とした。

 

 「去年の体育祭の時にね、美凪ちゃんから“好き”って言われたの」

 

 「……」

 

 「びっくりしたけど、嬉しかった。でも、どう答えたらいいかわからなくて……。怖かったの。今の関係が壊れちゃうのが」

 

 彼女は小さく息を吐いた。

 

 「それからしばらく、お互いどうしていいかわからなくて、曖昧なまま時間だけが過ぎて。

でも、練習だけは変わらずしてた。ボールをつなぐたびに、あの子のことをもっと知りたくなって……。気づいたら、私の中でも、美凪ちゃんの存在がどんどん大きくなっていった」

 

 「……それで、この間の誕生日で?」

 

 「うん。ブレスレットをもらったときに気づいたの。“私も、美凪ちゃんのことが好きなんだ”って」

 

 その言葉を口にしたあと、浜松さんは照れくさそうに笑った。けれど、その目の奥には戸惑いと不安が揺れていた。

 

 「でもね……同じ大学に行きたいのに、勉強は美凪ちゃんに全然ついていけなくて。このままだと、きっと離れ離れになっちゃう。そう思うと、焦って、何をしても上手くいかなくなるの」

 

 指先が震えていた。机の上のシャーペンが小さく下に転がる音が、やけに大きく響いた。

 

 俺は静かにそれを拾い、机の上に置いた。その小さな音が、やけに長く残響した気がした。

 

 「……焦る気持ちは分かるよ」

 

 自分でも意外なほど穏やかな声が出た。

 

 「俺も似たような時期があったから」

 

 「岸和田くんも?」

 

 「ああ。……周りの期待に応えようとして、空回りしたことがある」

 

 その瞬間、胸の奥に、遠い記憶のざらつきがよぎった。

 

 教室の白い天井、差し出された答案用紙、静かな帰り道。

 

 “誰かのために頑張る”ことが、いつの間にか“自分をなくすこと”に変わっていた中学受験の頃。

 

 自分も、あの時きっと焦っていた。

 

 誰かを安心させたくて、置いていかれたくなくて、必死に“正しい速度”を探していた。

 

 「追いつこうとしたけど、結果的にまた周りとの距離を広げてしまったことがあった」

 

 ペン先を見つめながら言うと、浜松さんが小さく瞬きをした。

 

 「でも、最近になって気づいたんだ」

 

 「……なにを?」

 

 「歩幅を合わせるって、同じ速さで走ることじゃない。同じ方向を見てるかどうか、なんだって」

 

 その言葉を口にしながら、頭の片隅に浮かんだのは、あの日の渋谷の図書館だった。

 

 豊浜とづっきー。机を囲んで笑い合いながら、それぞれが自分の夢を語っていた。

 

 ——豊浜は、いつか海外のステージに立ちたいと言っていた。

 

 ——づっきーは、三年以内に武道館へ行くと笑っていた。

 

 “誰かと一緒に夢を叶えたい”という、その想いの方角が、二人とも確かに揃っていた。

 

 そして俺は、あのとき初めて“歩幅”じゃなく“視線の先”に未来があることを理解したのだ。

 

 浜松さんは目を瞬かせ、少しだけ顔を上げた。

 

 「……同じ方向」

 

 「そう。お互いが同じ未来を見ていれば、歩幅はあとから自然と合っていく」

 

 言いながら、自分でもその言葉に救われていた気がした。

 

 ——あのとき、結局距離を広げてしまった“自分”にも、ようやく同じことが言えたような気がして。

 

 彼女はしばらく黙っていたが、やがてふっと笑った。

 

 「……やっぱり美凪ちゃんの言ってた通り、岸和田くんって頼りになるね」

 

 「そうか?」

 

 「うん。ちょっと元気出た。ありがとう」

 

 「礼を言うのはまだ早い。これからだよ」

 

 「これから?」

 

 「大津と、浜松さんの歩幅を取り戻す方法を考えてる。……来週、横浜で国際大会があるだろ。見に行かないか?」

 

 「うん、あの大会のこと?」

 

 「そう。ビーチバレーボールの世界最高峰だってやつ。高校生はまだ出られないけど、将来二人が目指すであろう舞台かと思って」

 

 浜松さんの目が驚きで大きく見開かれた。

 

 「……うん……行ってみたい。見たいな、世界の試合」

 

 「じゃあ決まりだ。七月二十日、横浜に見に行こう。三人で。」

 

 彼女はこくりと頷き、小さく笑った。

 

 その笑顔は、ほんの少しだけ昔の光を取り戻していた。

 

 ——そしてその日、俺は思った。

 

 彼女の症候群を解く鍵は、“歩幅”じゃなく、“視線の先”にあるのかもしれない。

 

 七月二十日 

 

 横浜・みなとみらい。朝の空は、少し霞んでいた。

 

 夏の陽射しはもう本気を出し始めていて、駅前のアスファルトからは熱気が立ちのぼっている。

  

 時計は八時五十五分。待ち合わせの五分前。

 

 俺は手に持ったタブレットを開き、日付と場所を書き込んだ。

 

 > 観察記録:七月二十日 横浜・みなとみらい 国際ビーチバレーボール大会

 

 > 観察対象:浜松夏帆・大津美凪。思春期症候群観察のため同行

 

 少しして、駅の階段を降りてくる二人の姿が見えた。白い帽子に、薄い水色のTシャツ。二人とも、夏らしい装いだった。

 

 けれど、いつもより、微妙に歩幅が合っていなかった。大津は気まずさを隠すように先に歩き、浜松さんは半歩遅れてついてくる。

 

 “ズレ”はまだ残っている。

 

 でも、再び会場へ向かおうとしているという事実だけで、今日は十分な一歩だった。

 

 「ごめん、待った?」

 

 「いや、今来たところだ」

 

 いつもの挨拶の中に、まだわずかな照れの残響があった。

 

 みなとみらいの街並みは、朝から賑わっていた。観覧車の奥に、臨港パークの特設会場が見える。風に旗がはためき、アナウンスが英語と日本語で交互に流れていた。

 

 潮の匂い、砂の焼ける匂い、スポーツドリンクの甘い香り。それらが混ざって、夏の匂いを作っていた。

 

 「世界大会って、ほんとにやるんだな…」

 

 俺がそう言うと、浜松さんが少し緊張気味に笑う。

 

 「うん。すごいね……客席まで砂っぽい」

 

 大津が帽子のつばを直しながら言った。

 

 「今日から二十六日まで、丸一週間やるけど、でも、みんな忙しいし、初日だけ見ることにしようよ。」

 

 浜松さんがまだ少し緊張気味に返す。

 

 「……うん、それでも十分だよ。……一回、生で見てみたかったから」

 

 俺は後ろから二人の背中を見つめ、タブレットを開く。

 

 > 観察メモ:距離感およそ70cm。会話頻度、平均1分に1往復

 

 > 浜松夏帆:表情硬い

 

 >大津美凪:意図的に軽口を避けている様子

 

 スタンド席に着くと、すでに第一試合が始まっていた。

 

 選手たちのサーブが風を切り、砂の上で跳ねたボールが鋭い音を立てる。外国チームの選手たちは、まるで呼吸で会話しているようだった。

 

 アイコンタクトだけで動き、声を出さずとも次のプレーが繋がっていく。歩幅じゃなく、視線の先が揃っている。

 

 「……ねぇ、美凪ちゃん」

 

 浜松さんが少し顔を向けた。

 

 「ん?」

 

 「今の人たち、言葉交わしてないのに分かってる感じがする」

 

 「うん……たぶん、ずっと組んでるんだと思う。相手の癖とか、呼吸とか全部覚えてるんだ」

 

 その返答の仕方に、以前のぎこちなさはなかった。浜松さんも、うっすらと笑って頷く。

 

 小さな変化だけど、それを観測するには十分だった。

 

 昼休憩のアナウンスが流れ、人の波が一斉に動き出した。

 

 俺たちは会場の端のベンチに移動し、軽食を取った。日陰に入ると、潮風が少し涼しく感じる。

 

 観覧車の回転音が遠くから聞こえてきた。

 

 「……ねぇ、夏帆」

 

 不意に、大津が口を開いた。

 

 「今日さ、ここに来てよかった?」

 

 浜松さんはパンを包んでいた紙をいじりながら、ゆっくりと答えた。

 

 「うん……よかった。ちゃんと、“好き”って気持ちがどんな方向にあるのか分かった気がする」

 

 大津の目が驚きに見開かれ、それから柔らかく細まった。

 

 「……そっか」

 

 そのやり取りの後、二人の間の沈黙が静けさに変わっていくのを感じた。

 

 午後の試合が始まる。太陽は真上から少し傾き、風向きが変わっていた。

 

 コート上の砂が舞い上がり、旗が東から西へなびく。風が変わるたびに、二人は自然と同じ方向に顔を向けていた。

 

 以前なら気づかずにズレていた小さな動作が、いまは呼吸のように一致している。

 

 その日の最終カードは、日本チームの試合だった。

 

 実況によれば、国内から男女合わせて三チームが出場しているが、二回戦に進めたのは女子チームの一組だけ。

 

 その日本チームが、外国勢相手に必死で食らいついていた。ブロックの音、砂の飛沫、観客の歓声。すべてがひとつの呼吸のように響いていた。

 

 「……かっこいいね」

 

 浜松さんが呟いた。

 

 「うん。私たちも、あそこに立てたらいいね」

 

 大津の声は穏やかで、けれどその奥には静かな熱があった。

 

 「うん……いつか、私たちで優勝しようね」

 

 「約束」

 

 その短い約束は、砂浜を渡る風のように、淡く、それでいて強く響いた。貝殻のブレスレットが、その誓いを確かめるように光を返す。

 

 スタンドの下から、波のような歓声と足踏みのリズムが響く。俺は二人の横顔を静かに見つめながら、胸の奥で思った。

 

 (もう、俺の出番はないな)

 

 試合の展開は激しく、砂を蹴るたびに空気が震える。だが、大津と浜松さんの目はその動きを追いながら、次第に別の“何か”を見ているようだった。

 

 自分たちの姿を、そこに重ねているのかもしれない。呼吸のリズムが再び揃い始める。

 

 浜松さんの手首に巻かれた貝殻のブレスレットが、夕陽を反射して小さく光った。

 

 試合が終わると、観客は一斉に立ち上がり、拍手が会場を包んだ。砂の上で抱き合う選手たちを見つめながら、浜松さんが小さく呟いた。

 

 「……美凪ちゃん」

 

 「ん?」

 

 「私も、あんな風に並んでいたい。もう一度」

 

 大津は、少し息を詰まらせてから、穏やかに答えた。

 

 「うん。じゃあ、もう一回……“歩幅”合わせよ」

 

 言葉と同時に、二人の肩がほんのわずかに触れた。ほんの数センチの距離が、確かな温度になって伝わる。

 

 俺はタブレットを開き、最後のページに記した。

 

 > 観察結果:浜松夏帆・大津美凪。相互意識の再接続を確認。症候群の兆候、ほぼ消失。視線の方向一致。呼吸同調。歩幅再調整完了

 

 夜。海沿いのデッキからは、観覧車の灯りが波間に映っていた。大津と浜松さんは並んで歩き、少し前を通り過ぎていく。

 

 ふたりの笑い声が風に混じり、夏の夜気に溶けていく。

 

 俺は、深く息を吐いた。

 

 ——観察者であるということは、見届けることの延長線にある。誰かの成長を止めず、ただその変化を記す。

 

 それが、俺にできる役割なのだと思った。

 

 背後で波が砕ける音がした。

 

 タブレットを閉じると、貝殻のような淡い香りが残っていた。

 

 観覧車の灯りが波間で揺れていた。

 

 そのとき、二人が同時にこちらを振り向いた。

 

 「岸和田」

 

 「ん?」

 

 大津が手をひらひらと上げた。

 

 「今度の金曜、平塚で練習試合あるんだ。うちのクラブ同士で。……よかったら見に来て」

 

 浜松さんも、少しだけ照れたように続ける。

 

 「…終わったあと、図書館でちょっと勉強しようって話になってて。もし時間あったら、見ててほしいなって」

 

 「金曜か。……わかった、行くよ」

 

 そう言うと、浜松さんはほっとしたように笑った。その笑顔を見ながら、俺は心のどこかで思った。

 

 (今日で終わりじゃない。まだ観察は続く)

 

 その夜。自宅に戻り、カレンダーを開く。

 

 金曜:平塚・練習試合→藤沢・勉強会

 

 土曜:朝・自習→移動→午後・夏期講習→夜・づっきー勉強会

 

 (……ちょっと詰めすぎか)

 

 金曜は観戦と勉強会、翌日は新宿。

 

 この流れで夜に勉強会を詰めるのは、少し負担が大きい。最近暑いし、無理は禁物だ。

 

 俺はスマホを取り出し、づっきーのトーク画面を開いた。

 

 《日曜、空いてるか?ちょっと土曜に用事が入って、勉強会の日だけずらせたら助かる》 

 

 《いいよ!ライブもないし日曜にしよー!そのほうがきっしーの頭シャキッとしてそう!》

 

 つづけて、笑って親指を立てるスタンプが飛んでくる。

 

 《助かる。じゃあ日曜の開始時刻、決めよう。夕方の五時でどう? 場所はいつもと同じ図書館で》

 

 《はーい!私も予習してく!たぶん!》

 

 《“たぶん”かよ》と打ちかけて、送らずに消した。

 

 画面を閉じると、心の奥の緊張が少しだけ緩んでいくのがわかった。づっきーの相変わらずな調子に、肩の力が抜けたのかもしれない。

 

 画面を閉じる。金曜は“二人”。土曜は講習に集中、日曜は“づっきー”。

 

 それぞれの予定が、まるで呼吸のように整っていく。

 

 ふと窓の方を見ると、夜風がカーテンをふわりと揺らしていた。小さな笑いの余韻だけが、静かな部屋に残っていた。

 

 七月二十四日

 

 平塚の海風は、藤沢より少しだけ塩気が濃い。午後三時、クラブ同士の練習試合は二面進行。砂の温度はやや高め、旗は南東から一定に揺れている。

 

 俺はコート脇のベンチに腰を下ろし、タブレットを開いた。

 

 > 観察記録:七月二十四日 平塚海岸 クラブ内練習試合

 

 > 観察対象:浜松夏帆・大津美凪。思春期症

候群回復確認のため同行

 

 一本目のサーブ。浜松さんの足運びは軽い。砂に沈む踵が迷わない。レシーブ面が正面に立つまでの軸の通りも戻っている。返球は山なりではなく、しっかり“前に”とぶ。

 

 「ナイス、夏帆!」

 

 大津の声に、浜松さんが短く頷く。そこからの三本は早かった。ショートのフェイク、風下へのロール、最後はブロック横のストレートを切り裂くスパイク。空振りは一度もない。助走の二歩目が、以前の“ため”を取り戻している。

 

 途中、難しい崩れ球が一度だけ来た。風で落ち際が急に鈍るタイプ。

 

 浜松さんは一拍だけ躊躇した、が、次の瞬間には左膝を砂に入れて、指先で持ち上げていた。迷いが“反応”に変わっている。

 

 セットを二つ連取して、練習試合は終了。コーチの短い講評のあと、二人はこちらに駆け寄ってきた。砂の跳ねを払う仕草まで、ほぼ同時。

 

 「どうだった、夏帆の様子?」と大津。

 

 「戻ってるな」と俺。

 

 浜松さんは肩で息をしながら、帽子のひさしを持ち上げた。日焼けの境目が、目じりの笑い皺をやさしく縁取る。

 

 「ほんと?」

 

 「ああ。見てて、安心した」

 

 浜松さんは小さく息を吐き、ブレスレットを一度だけ撫でた。その指が震えていないのを、俺は確認した。

 

 夕方、平塚駅近くの図書館。冷房は弱め、機械の送風音が遠くで一定に鳴っている。

 

 問題集を三人で開き、進度を合わせる。今日のメニューは古文の助動詞と数列。

 

 「ここ、“る・らる”の接続は四段・ナ変・ラ変……」

 

 「未然形に“る”、已然形に“れ”——のやつだよね」

 

 浜松さんの声は落ち着いていた。ペン先は迷わず、余白のメモは読み返しやすい字幅で並ぶ。

 

 計算では、前まで指が止まりがちだった初手の“与えられた条件の整理”を、今日は自然に口に出している。

 

 「初項a、公差d、n項目an=a+(n−1)d、和Sn=n/2(2a+(n−1)d)……だよね?」

 

 「そう。それをこの式にあてはめればいい」

 

 解ける問題は、今まで通りには解ける。飛躍的に学力が伸びたわけじゃない。でも、落ち込んでいた針が、定位置に帰ってきた感触がある。

 

 >観察結果:浜松夏帆 学力レベル変化なし。運動感覚のズレ消失。付随症状見られず。

思春期症候群寛解

 

 休憩に入ったとき、俺はペンを置いた。

 

 「……浜松さん。……思春期症候群、治ったみたいだな」

 

 その言葉に、浜松さんはふっと目を瞬かせた。驚き、安堵、それから照れの順に、表情がゆっくり変わっていく。

 

 「……私、思春期症候群だったんだ……」

 

 「疑わないのか?」

 

 少しだけためらってから、浜松さんは顔を上げた。視線はまっすぐだった。

 

 「横浜の大会、見に行ったあとね、美凪ちゃんが、去年の体育祭のときに“思春期症候群”に罹ってたって、私に打ち明けてくれたの。……だから信じるよ」

 

 貝殻のブレスレットが、机の光を拾って小さく揺れた。

 

 「……ありがとう、岸和田くん。私の思春期症候群、治してくれて」

 

 俺は首を振る。

 

 「俺はなんもしてないよ。二人の歩幅が、また同じ方向を向いたからだ」

 

 言い終えた瞬間、静けさが落ちた。コピー機の駆動音が遠くで一瞬だけ高鳴って、また細い呼吸に戻る。

 

 浜松さんが、ほんの少しだけ身を乗り出した。距離が、机の幅のぶんだけ縮む。

 

 まつ毛の影が揺れて、俺のほうをのぞき込むように目が合った。

 

 「……でも、きっかけは岸和田くんだったよ」

 

 その“くん”の音が、いつもより一拍だけ長い。言い慣れた敬称なのに、そこに触れる熱がある。

 

 頬に、運動の余熱とは別の色がごく薄く差して、彼女は気づいたように視線を落とした。指先は無意識にブレスレットをつまむ。

 

 けれど、すぐに離す。頼らないと言うみたいに。

 

 大津が、空気を読んだのか読んでないのか、タイミングよく咳払いをひとつ。

 

 「ほら、休憩終わり。もう一問いける?」

 

 浜松さんは「うん」と小さく笑い、顔を上げた。笑い皺が、さっきより少しだけ深い。

 

 閉館アナウンスが流れるまでに、予定していた範囲は全部終わった。

 

 帰り際、館を出るドアの前で、三人の影が廊下に細く伸びる。

 

 並んで歩き出した二人の肩が、自然に同じ高さで揺れる。俺は少しだけ後ろを歩いて、その歩幅をもう一度だけ確かめた。

 

 図書館を出て、駅までの並木道を三人で歩く。夜の湿度はまだ高いが、海からの風がときどき路面の熱を撫でていく。

 

 横断歩道の手前で、大津がふと思い出したように振り向いた。

 

 「そうだ岸和田、言ってなかった。来月の六日から九日、女子高生の全国大会があるの。愛媛で」

 

 「愛媛?」とオウム返しすると、隣で浜松さんが続けた。

 

 「うん、インターハイとは別枠のビーチの全国。私たちも出るよ。……ここからが本番、っていうか。今日みたいに噛み合った感じ、ちゃんと本物にしたい」

 

 大津が笑う。

 

 「やっと本腰入れられるね、ってこの間話してた。ここからの二週間、練度上げまくる」

 

 信号が青に変わる。三人で渡りながら、俺は胸の中でカレンダーをめくった。

 

 (八月頭で夏期講習もいったん区切り。……少し息を抜くために、一人旅でもと思ってた)

 

 歩道の端で足を止める。

 

 「……愛媛の大会、観に行ってもいいか?」

 

 二人の視線が同時に上がる。夜道の外灯が、驚きと少しの戸惑いをそれぞれの瞳に点す。

 

 「え、遠いよ?」

 

 大津が目を丸くする。

 

 「宿も高いかもだし……いいの?」

 

 浜松さんが、言いながらもどこか嬉しそうに笑う。

 

 「問題ないよ。二人のビーチバレーを、また見届けたいからさ」

 

 言った瞬間、潮の匂いが少しだけ濃くなる。大津は照れ隠しのようにキャップのつばをいじり、浜松さんはブレスレットに触れて、すぐに手を離した。

 

 「じゃあ、優勝するところ、見てて」

 

 「うん。歩幅、合わせていくから」

 

 ふたりの声が重なって、夜の空気に細く伸びる。俺は心の中で予定表に小さく丸をつけた。

 

 駅のアナウンスが、次の電車の到着を告げる。

 

 みんなで同じホームへ。同じリズムで階段を下る二人を確かめてから、俺も階段を降りた。

 

 ——この夏の地図に、新しいピンが一つ刺さった。

 

 旅の目的地は、観光名所でも名物でもなく、砂の上でそろう二人の歩幅だ。

 

 七月二十六日

 

 夕方の新宿は、昼間の喧騒が少し落ち着き、ネオンが街を静かに染めはじめていた。

 

 俺とづっきーはいつもの図書館で勉強会をしていた。

 

 今日は目黒の実家に戻る予定だったから、今日は夜まで詰め込むつもりだった。

 

 「ねぇ、きっしー、なんか元気そうだね」

 

 ペンを止めた瞬間、づっきーがいつもの調子でそう言った。

 

 空気を読むとか、間を計るとか、そういう概念をすり抜けてくる声だ。

 

 けれど、不思議と悪い気はしなかった。

 

 「そう見えるか?」

 

 「うん。なんか、肩の力抜けてる感じ。……」

 

 「……というと?」

 

 「えっとね……ペットボトルの炭酸を開けた後、ちょっと置いといたコーラ?」

 

 「……気が抜けてるじゃねぇか」

 

 「違う違う!落ち着いたって意味!“しゅわしゅわしない安心感”!」

 

 「日本語の使い方が不安だな」

 

 づっきーは両手をぶんぶん振って慌てて弁解する。その必死さが可笑しくて、思わず笑ってしまう。

 

 「今日、夜遅いけど……藤沢に帰れるの?」

 

 「ん、今日は目黒の実家に帰る予定だ」

 

 「へぇ、実家目黒なんだ!おしゃれだね!」

 

 「おしゃれって言うな」

 

 「だって響きがセレブっぽいもん。“目黒の岸和田”って、なんか強そう」

 

 ……どう強いのか、まるでわからない。

 

 「そういえばさ、きっしーって普段どこに住んでるの?」

 

 「実家は東京だけど、今は藤沢で一人暮らししてる」

 

 「へぇ〜!まあお兄さんと同じ高校だもんね、そりゃそうか!」

 

 づっきーが、当然のように話を転がしていく。

 

 「ねぇ、なんで藤沢の高校にしたの?」

 

 少しだけ考えてから、答える。

 

 「東京にいるのが、しんどい時期があってさ。人が多いと、言葉の置き場所を間違える気がして。海の近くは静かで、息がしやすかったんだ」

 

 「ふーん……。じゃあ藤沢は、きっしーの心の避難所って感じ?」

 

 「避難所って言うな」

 

 「だって、なんか“避難訓練済み”みたいな安心感あるじゃん!」

 

 「……なんの話だよ」

 

 づっきーはケロッとした顔で笑っている。会話の地図を持たずに歩く天才だ。

 

 「そういうづっきーは、なんで通信制にしたんだ?」

 

 「ん?一回は全日制に行ったんだよ。でもクラスの友達関係にぜんっぜん馴染めなくて、半年くらい学校行けなくなっちゃって。そしたら今の学校見つけて、『ここなら続けられるかも』って思ったの」

 

 まるで夜ごはんのメニューを話すみたいに、いつもの調子でづっきーは笑って言う。

 

 その無邪気さが、妙に胸に沁みた。

 

 「……俺も、不登校になりかけた時期があった」

 

 「えっ、きっしーが? まじめそうなのに!」

 

 「見た目で決めるな」

 

 「うわ〜、意外〜。でも、ちょっと親近感!」

 

 目を丸くしてから、すぐにくすっと笑う。

 

 「ねぇ、もしかして私たち、似たもの同士?」

 

 「いや、多分それは違う」

 

 即座に否定したけれど、心のどこかで、その言葉に少しだけ救われている自分がいた。

 

 ……不思議と、づっきーにはこういう話をしても平気だと思えた。

 

 「ねぇ、きっしー」

 

 「ん?」

 

 「もし私、大学行けたらさ……勉強も、サボりも、一緒にできるよね?」

 

 「おいおい、後半」

 

 「え〜、じゃあサボりだけでも」

 

 「余計ダメだ」

 

 「じゃあ、勉強もサボりも両方!」

 

 「結局どっちもじゃねぇか」

 

 づっきーはケラケラと笑いながら、ペンをくるくる回す。

 

 「……じゃあ、俺が落ちたら意味ないな」

 

 「え、落ちないでよ!そしたら私ひとりぼっちじゃん」

 

 「いやいや、そもそもまだお前、受験モードに入ってないだろ」

 

 「大丈夫、だってきっしーがいるし」

 

 苦笑しながら肩をすくめる。

 

 「豊浜も同じところ志望してるし、大丈夫だろ」

 

 「そっか〜。じゃあ三人でキャンパスライフ満喫だね!」

 

 「まだ受かってもいないのに言うな」

 

 づっきーはケロッとした顔でペンをくるくる回している。その無邪気さに、突っ込む気力すら削がれてしまった。

 

 少し間を置いて、口を開く。

 

 「……そういえば、来月のお盆にオープンキャンパスあるらしいけど、一緒に行くか?」

 

 「えっ、ほんとに!? 行く行く!」

 

 椅子から少し身を乗り出すづっきーの声が、店内の静けさに響きそうで、思わず人差し指を立てる。

 

 「しーっ、静かに」

 

 「ごめんごめん……でも、楽しみだな」

 

 悪びれず笑うその顔に、また返事が一瞬遅れた。

 

 「ねぇ、のどかも誘う?」

 

 「まあ、いいんじゃないか」

 

 「よし決まり!三人なら迷子になっても安心だし!」

 

 「大学で迷子になるやついるかよ」

 

 「私たちならあるかも!」

 

 づっきーの能天気な笑顔に、俺は小さくため息をつきながらも、それ以上反対する理由を見つけられなかった。

 

 帰り際、駅までの夜道を並んで歩く。

 

 づっきーがイヤホン片方だけを差し出してきた。

 

 「ねえ、スイートバレットの新曲聞いてよ」

 

 流れてきたのは、スイートバレットの新曲、「超音波のメロディ」

 

 いつもステージで見せる笑顔と、いま隣で見せている笑顔が、少しだけ重なって見えた。

 

 「……きっしー、今、笑ってたよ」

 

 「そうか?」

 

 「うん。」

 

 づっきーは夜風の中で、少しだけ得意げに笑った。

 

 その無邪気さが、今夜の新宿の灯りよりも、ほんの少しあたたかかった。

 

 八月五日

 

 夏期講習を終え、八月最初の模試も受け終えた。

 

 図書館と自習室を往復しながら、藤沢と新宿のバイトをなんとか両立させていたここ数週間。

 

 慌ただしい毎日だったけれど、手を動かしていると、不思議と心は落ち着いていた。

 

 そしていま、俺は横浜駅のホームに立っている。明日から愛媛で開催される、女子高校生のビーチバレーボール全国大会を見に行くためだ。

 

 コンコースには夏休みらしい人の波が広がっている。旅行鞄を転がす家族連れ、リュックを背負った学生、浴衣姿のカップル。

 

 それぞれの夏が交差する中、俺の手には一枚の指定席券があった。

 

 サンライズ瀬戸・出雲

 

 横浜発二十二時十五分。岡山を経て、翌朝には四国へ渡る。

 

 前から一度乗ってみたいと思っていた寝台列車だった。

 

 ホームに流れる放送が静かに響く。列車到着まで、あと十分。ベンチに腰を下ろし、タブレットを開く。

 

 > 観察記録:八月五日 横浜駅出発前

 

 > 目的:全国高校女子ビーチバレーボール大会観戦・愛媛県伊予市

 

 ページの端に、自然と小さく笑みが浮かんだ。観察対象の名前を書く欄に、ペンを置く。

 

 > 観察対象:浜松夏帆・大津美凪

 

 明日、あの二人が立つコートを見届ける。

 

 ただそれだけのことなのに、胸の奥に静かな熱が灯る。

 

 やがて、遠くから列車が近づいてきた。夏の夜気を震わせながら、金色の車体がゆっくりとホームに滑り込んでくる。

 

 「……これが、夜行か」

 

 目の前に現れた車両は、思っていたよりも静かで、重厚だった。ヘッドライトの光が、まるでこれから始まる物語のページを照らしているように見えた。

 

 列車のドアが開く。

 

 金属の階段を上がり、個室のカギを閉める。

 

 コンパクトな空間の中に、小さなベッドとテーブル。窓の外には、まだ見慣れた横浜の夜景。

 

 リュックを足元に置き、カーテンを少しだけ開けたまま腰を下ろす。

 

 発車のベルが鳴り、静かな振動とともに、列車はゆっくりと動き出した。

 

 街の灯が遠ざかるにつれて、心の中のざわめきも少しずつ小さくなっていく。

 

 明日は松山市を少し観光してから、夕方には伊予市の会場へ向かう予定だ。

 

 窓の外では、夏の夜空が流れていく。

 

 街を離れ、線路の音が一定のリズムを刻みはじめた。

 

 ——明日から、また新しい“観察”が始まる。

 

 八月六日

 

 朝の六時三十分過ぎ、車掌のアナウンスで目が覚めた。 

 

 サンライズ瀬戸は定刻通り岡山に到着し、連結を解かれた車両が静かに分かれていく。

 

 瀬戸大橋を渡る頃、窓の外には白い陽光が広がっていた。橋脚の下を流れる海が、朝の光を反射して細かくきらめく。

 

 風景の奥で、夏の音が遠く重なるように聞こえた。

 

 (今日も暑くなるな……)

 

 高松駅に到着後、乗り換えの時間まで少しあったので、駅の売店で温かいコーヒーを買った。

 

 早朝のホームには、旅人特有の静かな高揚感が漂っている。

 

 目的地は、愛媛・松山。特急に乗り換えれば、松山には昼前には着く。

 

 松山駅に着いたのは、十一時過ぎ。

 

 駅前から路面電車に乗り、市街地に向かった。

 

 まずは松山城。

 

 天守まで続く石段を上りきると、眼下に市街地が広がっていた。

 

 真っ青な空の下、瓦屋根の連なりが白く光っている。

 

 昼過ぎには道後温泉に足を運んだ。

 

 観光客で賑わう商店街を抜けると、木造の本館が静かに佇んでいた。

 

 硝子越しに見える湯気が、まるで時間の層を透かしているようだった。

 

 ひと息ついてから、伊予市へ向かう電車に松山市駅から乗った。

 

 夕方前の車窓には、どこまでも続く水平線。

 

 窓を少しだけ開けると、潮風に混じって甘い匂いがした。

 

 車内でタブレットを開く。

 

 >観察記録:八月六日 愛媛県伊予市開会式観察

 

 >観察対象:浜松夏帆・大津美凪。夕方に合流

 

 郡中港駅に着くと、会場の案内看板が目に入った。

 

 夕陽が傾き始め、砂浜の向こうではテントがいくつも並んでいる。

 

 潮風の中でスタッフたちが準備に追われ、スピーカーから流れる試合の確認放送が遠く響いていた。

 

 その端のコートに、見覚えのある二人の姿があった。

 

 大津がネットの張り具合を確認し、浜松さんがタオルで汗を拭っている。

 

 ユニフォームはまだ袖を通していないが、顔つきはどこか引き締まっていた。

 

 「……おーい、大津、浜松さん」

 

 声をかけると、二人が同時に振り向いた。

 

 浜松さんの表情がぱっと明るくなる。

 

 「岸和田くん!」

 

 「ほんとに来たんだ!」と大津も笑う。

 

 「約束したからな。……明日からの試合、楽しみにしてる」

 

 浜松さんはうれしそうに頷いた。

 

 「ありがとう。美凪ちゃんとも話してたんだ、“絶対来てくれる気がする”って」

 

 「予言者かよ」

 

 「当たったでしょ?」

 

 少し茶化すような声に、会場の空気が一瞬だけ柔らかくなる。

 

 > 観察メモ:二人の呼吸テンポ安定。相互視線、明確な一致

 

 >浜松夏帆:落ち着いた声調 

 

 >大津美凪:表情に緊張より高揚感

 

 近くでは他県チームの選手たちが練習を始めていた。白い砂が足もとで細かく跳ねる。

 

 その中で、浜松さんと大津の影がゆっくりと並び、夕陽に重なっていた。

 

 俺は少し離れた場所でその様子を見届けながら、静かに息を吐いた。

 

 ——ここまで来てよかった。

 

 明日の試合は、朝から。

 

 また新しい夏の記録が、ページを一つ埋めていく。

 

 八月七日 

 

 伊予市・五色姫海浜公園。

 

 朝の海はまだ白く霞んでいて、陽射しはやわらかい。波打ち際のテントの列が風に揺れ、砂をならす音がそこかしこから聞こえてくる。

 

 浜松さんと大津のコートは第二面。観客席の後ろでは、まだ別のチームがアップをしていた。

 

 大津がネットの高さを確認し、浜松さんが砂に足を埋めて感触を確かめている。呼吸が合うまでのわずかな間、ふたりは言葉を交わさなかった。

 

 ホイッスルの音。試合開始。

 

 序盤、大津のサーブが風を切り、浜松さんが拾う。相手のリターンを、大津が軽くロールで返す。

 

 わずかに風が変わるたび、二人の位置取りも変わる。

 

 「ナイス、夏帆!」

 

 「美凪ちゃん、次ストレートで!」

 

 試合は終始リードを保ったまま初戦突破。

 

 次の試合も快勝し、午後にはグループ首位がほぼ確定した。

 

 昼過ぎ、テントの陰でふたりが水を分け合っている。潮風のなかで、浜松さんが小さく言った。

 

 「ねぇ美凪ちゃん……今日、風が優しいね」

 

 「うん。夏帆が落ち着いてるからじゃない?」

 

 浜松さんが一瞬目を丸くして、それから笑う。

 

 > 観察記録:浜松夏帆・大津美凪。情動安定。視線柔軟化

 

 午後四時、すべての予選が終わる頃、五色浜の空は淡い橙色に変わっていた。

 

 風見旗が静かに揺れ、波がゆるやかに砂を洗う。

 

 明日はいよいよ決勝トーナメントだ。

 

 八月八日 

 

 翌日。夏の太陽が一段高く昇り、五色姫の砂がまぶしく光っていた。

 

 初戦の相手は福岡代表。堅実な守備型チームだった。

 

 序盤は互角。だが浜松さんの目が鋭くなっていく。相手のトスの癖を読み、ブロックの前でタイミングをずらす。風の向きすら味方につけるような調整。

 

 「ナイスカット!」

 

 「次、逆風ね!」

 

 言葉が少なくなっても、意図は伝わっている。

 

 21−17で1セット、続くセットも21-15でストレート勝ち。

 

 午後の第二戦では、茨城代表を圧倒。

 

 ショートとロングの打ち分けに迷いがなく、二人の動線が交差する瞬間のブレもない。夕方、五色浜の海面に西日が反射していた。

 

 浜松さんがブレスレットを指先でなぞりながらつぶやく。

 

 「……明日、最後だね」

 

 「うん。怖いけど、楽しみ」

 

 空にはカモメが一羽、南西へ流れていった。風が止む気配の中、俺は小さく息を整える。

 

 明日は決勝戦、勝負の日だ。

 

 八月九日 

 

 伊予灘の水平線は、まぶしすぎて白かった。

 

 海風が静かに吹き、砂浜に立つ旗がゆっくりと揺れる。

 

 準々決勝の相手は沖縄代表。俊敏でリズムの速いチーム。

 

 最初のラリーは25秒続いた。浜松さんのスライディング、そこから大津のブロック。

 

 砂を蹴るたびに、呼吸と足音が重なる。

 

 21−18、21-14で勝利。

 

 準決勝は地元・愛媛代表。

 

 観客の声援が一段高くなる中、浜松さんは笑っていた。風上を使い、ショットを沈める。

 

 21−16、21−12とストレートで勝ち切る。

 

 > 観察記録:浜松夏帆・大津美凪。呼吸・視線の完全同期確認

 

 午後の決勝戦。開始時刻は十三時。

 

 空に薄雲、海風は一時的に無風状態。静寂が、決勝戦の合図だった。

 

 相手は東京代表。

 

 序盤、浜松さんのスパイクが一球アウト。だが表情に焦りはなかった。

 

 「大丈夫。風がすぐ戻るから」

 

 その言葉通り、次のサーブで潮の流れが変わる。ロールからストレートへ切り替え、立て続けに三得点。

 

 「ナイス、夏帆!」

 

 「行こう、美凪ちゃん!」

 

 リズムが完全に一致した。

 

 第1セット21−18。

 

 最終セット終盤、相手が粘る中、マッチポイント。

 

 大津のトスを浜松さんが跳び込むように叩く。

 

 ボールが白砂を弾き、歓声が弾ける。

 

 21−20。優勝。

 

 ホイッスルの音が海風に溶けていく。浜松さんは砂に手をつき、空を仰いだ。

 

 大津がその肩を抱き、笑いながら涙を流す。

 

 > 観察結果:浜松夏帆・大津美凪 全国大会優勝。思春期症候群、完全寛解確認。精神・肉体・認識の三要素、完全一致

 

 夕暮れ。表彰式が終わったあと、五色浜の波が静かに寄せていた。

 

 貝殻のブレスレットが夕陽を受けて微かに光る。

 

 潮風が頬を撫で、波音が拍手のように響く。

 

 表彰式が終わったあと、五色姫海浜公園の空は、少しだけ金色を帯びていた。

 

 観客がまばらに帰っていく中、砂浜の上に吹く風はどこか柔らかい。

 

 海に沈む太陽が、優勝トロフィーの縁を淡く照らしている。浜松さんはそれを両手で抱えながら、笑っていた。その横で大津が、砂のついた手で額の汗を拭う。

 

 「……終わった、ね」

 

 「うん。でも、ほんとに終わっちゃったんだって感じ」

 

 二人の声が、潮騒にかき消されるように溶けていく。

 

 俺は帰り支度を整え、荷物を肩にかけると、浜松さんが気づいて駆け寄ってきた。

 

 「岸和田くん、もう帰るの?」

 

 「ああ。明日の午前の便で戻るよ。今日は松山に泊まる予定」

 

 「じゃあ、駅まで送るね!」

 

 大津がタオルを肩にかけたまま笑う。

 

 大津の言葉に、浜松さんが続ける。

 

 「私も。ちゃんと見送らせて」

 

 断る理由はなかった。

 

 五色浜から続く道を歩く途中、海の匂いがゆっくり薄れていく。左手に見える防波堤の向こうでは、夕陽が水面を切り裂くように沈んでいた。

 

 「……夕陽、きれいだね」

 

 浜松さんがぽつりとつぶやく。

 

 「うん。試合のときより静かで、変な感じ」

 

 大津の言葉に、浜松さんが笑う。

 

 その笑顔には、もう焦りも迷いもなかった。ただ、充実した疲労と、ほんの少しの寂しさだけが宿っている。

 

 駅に着くと、ホームにちょうど松山行きの列車が入ってきた。車体の窓が、沈む夕陽を映している。

 

 「岸和田くん」

 

 浜松さんが小さく呼んだ。

 

 「ありがとう。ここまで見届けてくれて」

 

 「いや、俺はただ見てただけだよ」

 

 「でも、“見てくれた”ってことが、すごく大きかったんだ」

 

 言葉に詰まる。その隣で、大津が少しだけ笑う。

 

 「また試合見に来てね、岸和田」

 

 「……ああ。できれば、そのときはもう観察なしで」

 

 「ふふ、そうだね」

 

 浜松さんの笑い声が、海風に乗って広がった。

 

 そのあと、ほんの一瞬だけ沈黙があった。彼女は何かを言いかけて、代わりに俺の目を見た。その瞳の奥に、言葉よりも穏やかな熱が宿っているのが分かった。

 

 三人の間に、潮の香りを含んだ風が吹いた。スピーカーから発車ベルが流れ、ホームに柔らかなアナウンスが響く。

 

 「じゃあまた藤沢で」

 

 「うん。またね」

 

 浜松さんが軽く手を振る。その腕に揺れる貝殻のブレスレットが、夕陽を受けてきらりと光った。

 

 列車がゆっくりと動き出す。

 

 窓越しに見えた二人の姿は、砂浜で見たときと同じように並んでいた。

 

 肩の高さも、視線の向きも、完璧にそろっている。

 

 その向こうで、浜松さんがもう一度こちらを見た。

 

 唇がかすかに動いた気がした。

 

 ——ありがとう。

 

 声にはならなかったけれど、確かにそう聞こえた。

 

 俺は小さく息を吐き、流れゆく海辺の町並みを眺めた。沈む太陽の中に、五色浜の白い砂と笑顔がぼんやりと重なって見えた。

 

 窓の隙間から、夏風がひとすじ入り込む。

 

 潮の匂いと、まだ残る熱気が混ざって、心の奥を静かに撫でていった。

 

 こうして、俺のこの一夏の観察は終わった。けれど、記憶と風だけは、まだこれからが本番の夏を運んでいる。そんな気がした。

 

 

————————

 

 

語れない 眠れない トロイメライ

 

あなたの見てる正体

 

誰も読めないカルテ

 

不可思議 知りたいだけ

 

今日もひとりごと

 

なんにも無理をしないで

 

愛されたい

 

有耶無耶 さよなら 軽い眩暈

 

あなたのいない現象界

 

誰も読めないカルテ

 

自意識 溢れ出して

 

 

————————

 

 

次回

『青春ブタ野郎はピースメーカーの夢を見ない』

 

大津美凪

『さすが岸和田、ブタ野郎だね』

浜松夏帆

『さすが岸和田くん、ブタ野郎だね』

 




この章をもって、『青春ブタ野郎はステップノートの夢を見ない』の物語は一区切りを迎えます。

時系列でいえば、高校二年生の春休みから、高校三年生の八月までのお話しです。

今章は、特典小説『青春ブタ野郎はビーチクイーンの夢を見ない』に登場した、大津美凪と浜松夏帆に焦点をあて、原作では描かれていないその後を、蓮真の視点から追ったエピソードとなっています。一部、ドラマCDや特典小説のセリフ・設定を参照しつつも、物語のほとんどはオリジナルです。

今回描くにあたり難しかったのは、蓮真の役割を咲太と重ねないこと。彼は“解決者”ではなく“観察者”。介入より記録、誘導より同伴。他人との距離を測ることで過剰に介入はせず、見る・見届けることでそっと背中を押す。

その距離感を最後まで守ることで、二人のすれ違いは、彼女ら自身の意志と絆によって解消されるようにしました。

貝殻のブレスレット、風向き、呼吸のテンポといったセリフは、二人が同じステップを歩んでいくことを、目に見える形で示す符牒にできたかと思います。

次章も引き続き、オリジナルエピソードが続きます。もし少しでも楽しんでいただけたなら、ぜひ【高評価】や【お気に入り登録】をしていただけると励みになります。

感想もお待ちしています。皆さんの一言が、次の更新への大きなモチベーションになります。これからも、ぜひお付き合いいただければ嬉しいです。

蓮真は最終的にどちらを選ぶと思いますか?

  • 豊浜のどか
  • 広川卯月
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