青春ブタ野郎はパラレルスプリングの夢を見ない 作:もドえラん
七月十三日
今週が終われば来週から夏休みに入る。
放課後の校舎は、ゆっくりと夕暮れに溶けていった。
体育館の裏手にあるベンチは、潮風が抜けて涼しい。そこで待っていると、少し遅れて大津が現れた。
「悪いな、呼び出して」
「ううん、大丈夫。……夏帆のこと、気になるんでしょ?」
「まあ、な。先週勉強を教えた時も“感覚がズレる”って言ってた」
「やっぱり……」
大津はペットボトルの水を一口飲み、視線を少し落とした。
「正直、私最近怖いんだよね…… 練習中に夏帆が一瞬、“そこにいない”みたいな感じがして……でも、次の瞬間には普通にボールを拾ってるの」
「……それ、単なる疲れとかじゃ説明つかないな」
「うん。私もそう思う」
俺は少し息を整えてから、口を開いた。
「もしかしたら……浜松さんの異変、思春期症候群かもしれない」
その言葉に、大津の指先が止まる。
「……思春期症候群?」
「まだ仮説だけど。体と認識のズレ、反応の遅れ。理屈じゃ説明できない現象がいくつか重なってる」
「……岸和田も、梓川と同じこと言うんだね」
その名前が出た瞬間、空気が少し変わった。
「咲太が、なんか言ってたのか?」
問いかけると、大津は一瞬だけ視線を伏せた。言葉を探すように、小さく息を吐く。
「……うん」
少し間を置いてから、ゆっくりと顔を上げた。その瞳には、迷いと覚悟が半分ずつ混じっている。
「梓川も、去年の体育祭の時に……私が“瞬間移動”した時、“思春期症候群”って言ってた」
その言葉を口にしたあと、大津は小さく唇を噛んだ。まるで、自分でもまだ信じきれていないことを告白するように。
しばらくの沈黙が落ちたあと、彼女は小さく息を吐いて続けた。
「……私、体育祭の時、夏帆を避けてたんだ」
「避けてた?」
「うん。ちゃんと理由があるの」
そう言って、大津はジャージの袖を握りしめる。夕陽の光がその横顔をかすかに照らし、長い影が校舎の壁に伸びていた。
「夏帆と出会ったのは、中一のときでさ」
淡々とした声だった。けれど、その奥には時間の重みが滲んでいた。
「クラブに夏帆が入ってきて、しばらくしてペアを組んだ。……最初は、お父さん……コーチに言われたから組んだだけ。私は夏帆のこと、よく知らなかったんだよね」
「……知らなかった?」
「うん。練習は誰よりも真面目で、上達も早い。でも、あんまり喋らないし、滅多に笑わない。何を考えているのか、分からなくてさ。試合中もしっくりこなくて、息が合わない感じだった」
少し遠くを見るようにして、彼女は続けた。
「実際、その夏の大会は、一回も勝てなくて。正直、つまんなかった。だから試合が終わった帰り道で、思わず聞いちゃったの。“夏帆はビーチバレー、楽しい?”って」
その瞬間、彼女の声がふっと柔らかくなる。
「そしたら、“楽しいよ”って笑ったの。“美凪ちゃんとビーチバレーするのは楽しい”って。“でも、負けるのは悔しいから、次は美凪ちゃんと勝ちたい”って」
そこまで話すと、大津は言葉を区切るように息をのんだ。その目は潤んでいたが、涙は落ちない。
「そのとき、なんか分かんないけど、涙が出ちゃって……。泣きながら思ったんだ。“次は絶対に勝とう”って。夏帆と一緒に」
思い出を語りながらも、どこか懺悔のような響きがあった。
「次の日からコーチにお願いして、練習メニューを増やしてもらった。夏帆ともいっぱい話をするようになって、バレーのことも、それ以外のことも。そうやって過ごすうちに、二年目の大会は全部優勝した」
小さく笑って、「まだ背が伸びてた頃だったからね」と付け加える。
でもその笑いには、懐かしさよりも、どこか切なさが混ざっていた。
「……気づいたら、私にとって夏帆は特別になってた」
「特別、か」
「寝ても覚めても、夏帆のことばっかり考えてた。……好きなんだ、夏帆のこと」
声が震えていた。けれど、その告白には不思議なほど清らかさがあった。
「だからかな……体育祭の前の日に、夏帆にキスしちゃったの」
俺は息をのんだ。彼女は視線を落としたまま、続ける。
「でも、それがいけないことだと思った。夏帆にも迷惑をかけるし、この関係が壊れちゃうのが怖くて……。そう思ったら、夏帆に会うのが怖くなって、LINEも電話も返事できなくなって」
そこまで言うと、彼女はタオルをぎゅっと握りしめた。
「……それでも、夏帆は私を探してくれたんだ。体育祭の日、わざわざ見に来てくれてさ。
あとで聞いたら、“どうしても美凪ちゃんの走る姿が見たかった”って言ってた。だから私も思った。会いに来てくれた夏帆に、ちゃんと応えたいって」
「……それが、咲太と二人三脚に出た理由か」
「うん。誰かに見られている間は、私はどこにも行けなかった。あの時、梓川がいたおかげかな?でもそのおかげで、私はようやく“今ここにいる”って思えた」
風が、二人の間を静かに通り抜けた。
校舎の影が長く伸び、グラウンドの向こうに夕陽が沈んでいく。
俺は少し間をおいてから、ゆっくりと口を開いた。
「……ありがとな、大津。話してくれて」
彼女は驚いたように顔を上げたが、すぐに微笑んだ。
「ううん。むしろ、話せてよかったよ。……梓川以外、ずっと誰にも言えなかったから」
その笑顔は、少し泣きそうで、でもどこか救われたようでもあった。
「……岸和田」
「ん?」
「やっぱり、私……夏帆のこと、ちゃんと見たい。もう一度」
「……ああ」
「また、同じ歩幅で並べるように」
その言葉が、夕焼けの空気に溶けていく。蝉の声が遠くでかすかに響いていた。
俺はその横顔を見ながら、小さく頷いた。
——この夏、また誰かの歩幅を取り戻すために。
七月十四日
藤沢の図書館は、夏休み前の静けさに包まれていた。
窓の外では蝉が鳴き、冷房の風がページをめくる音をかすかに揺らしている。
約束の時間より少し早めに来て、ノートを広げていた。やがて、控えめな声が聞こえた。
「……岸和田くん」
顔を上げると、浜松さんが立っていた。
白いシャツの袖を軽く折っていて、日焼けした腕が夏の光を反射している。けれどその表情は、どこか曇っていた。
「呼び出して悪いな」
「ううん。大丈夫……」
彼女はそう言って、向かいの席に座った。水筒のキャップを外して、冷たいお茶を一口飲む。
「この前……美凪ちゃんから誕生日プレゼントもらってから、やっぱりなんか変なんだ」
「変って?」
「うまく言えないけど……感覚が合わなくなった感じ。トスを上げても、距離が合わなかったり、手が震えたり。前みたいに、ボールの感触が分からなくなる時があるの」
その声は穏やかだったが、どこか自分を責めているように聞こえた。
「急にビーチバレーができなくなったってことだよな?」
「うん……。練習中にミスするたびに、頭の中が真っ白になる。“どうしてできないの”って、自分でもわからなくなるの」
「……そういえば、いつ頃からそうなったんだ?」
「うーん……、たぶん七月に入ってからかな」
(七月……?)
その言葉に、先月の大津とのやりとりがふと心当たりが浮かんだ。
——来週の一日、夏帆の誕生日なんだけどさ……
「……もしかして、浜松さんの誕生日のあたりから、変になったりしてないか?」
浜松さんの肩が、わずかに震えた。
「……なんで、わかったの?」
「プレゼント、大津と一緒に選んだから。もしかして、あれが何か引き金になったのかと思って」
「うん……そうかも」
彼女は小さく頷いて、手首を見せた。そこには大津が選んだ貝殻のブレスレットが光っている。
「もらったときは、ほんとに嬉しかったの。でも……その瞬間、胸の奥がぎゅってなって。嬉しいのに、なんか、苦しくなったんだ」
そう言って、浜松さんはそっと鞄の中から小さな封筒を取り出した。端が少し折れていて、何度も読み返した跡があった。
「……ブレスレットと一緒に、これが入ってたの」
封筒の中から、丁寧に折り畳まれたメモ用紙がのぞいた。そこには、柔らかい字でこう書かれていた。
{夏帆、いつもありがとう。大好きだよ! ——美凪}
「……見た瞬間、涙が出そうになった」
彼女の声が震えた。
「嬉しくて、あったかくて……でも、同時に胸が苦しくなった。“この子はこんなにまっすぐなのに、私は何を迷ってるんだろう”って。そう思ったら……」
彼女の指先がブレスレットの貝殻を軽くつまむ。その仕草が、まるで壊れやすい思い出を扱うように慎重だった。
「ほんとに、すごく嬉しかったんだよ。でも……なんか、その瞬間、胸の奥がぎゅってなって。嬉しいのに、涙が出そうになった。……多分、申し訳なくなっちゃったんだと思う」
「申し訳なく?」
「うん。美凪ちゃん、すごく頑張ってるから。でも、あの子に比べたら、私は全然努力できてない気がして……。同じペアなのに、私が足を引っ張ってるって、思っちゃって」
「……それに、それだけじゃないんだ」
浜松さんは少し間を置いてから、視線を落とした。
「去年の体育祭の時にね、美凪ちゃんから“好き”って言われたの」
「……」
「びっくりしたけど、嬉しかった。でも、どう答えたらいいかわからなくて……。怖かったの。今の関係が壊れちゃうのが」
彼女は小さく息を吐いた。
「それからしばらく、お互いどうしていいかわからなくて、曖昧なまま時間だけが過ぎて。
でも、練習だけは変わらずしてた。ボールをつなぐたびに、あの子のことをもっと知りたくなって……。気づいたら、私の中でも、美凪ちゃんの存在がどんどん大きくなっていった」
「……それで、この間の誕生日で?」
「うん。ブレスレットをもらったときに気づいたの。“私も、美凪ちゃんのことが好きなんだ”って」
その言葉を口にしたあと、浜松さんは照れくさそうに笑った。けれど、その目の奥には戸惑いと不安が揺れていた。
「でもね……同じ大学に行きたいのに、勉強は美凪ちゃんに全然ついていけなくて。このままだと、きっと離れ離れになっちゃう。そう思うと、焦って、何をしても上手くいかなくなるの」
指先が震えていた。机の上のシャーペンが小さく下に転がる音が、やけに大きく響いた。
俺は静かにそれを拾い、机の上に置いた。その小さな音が、やけに長く残響した気がした。
「……焦る気持ちは分かるよ」
自分でも意外なほど穏やかな声が出た。
「俺も似たような時期があったから」
「岸和田くんも?」
「ああ。……周りの期待に応えようとして、空回りしたことがある」
その瞬間、胸の奥に、遠い記憶のざらつきがよぎった。
教室の白い天井、差し出された答案用紙、静かな帰り道。
“誰かのために頑張る”ことが、いつの間にか“自分をなくすこと”に変わっていた中学受験の頃。
自分も、あの時きっと焦っていた。
誰かを安心させたくて、置いていかれたくなくて、必死に“正しい速度”を探していた。
「追いつこうとしたけど、結果的にまた周りとの距離を広げてしまったことがあった」
ペン先を見つめながら言うと、浜松さんが小さく瞬きをした。
「でも、最近になって気づいたんだ」
「……なにを?」
「歩幅を合わせるって、同じ速さで走ることじゃない。同じ方向を見てるかどうか、なんだって」
その言葉を口にしながら、頭の片隅に浮かんだのは、あの日の渋谷の図書館だった。
豊浜とづっきー。机を囲んで笑い合いながら、それぞれが自分の夢を語っていた。
——豊浜は、いつか海外のステージに立ちたいと言っていた。
——づっきーは、三年以内に武道館へ行くと笑っていた。
“誰かと一緒に夢を叶えたい”という、その想いの方角が、二人とも確かに揃っていた。
そして俺は、あのとき初めて“歩幅”じゃなく“視線の先”に未来があることを理解したのだ。
浜松さんは目を瞬かせ、少しだけ顔を上げた。
「……同じ方向」
「そう。お互いが同じ未来を見ていれば、歩幅はあとから自然と合っていく」
言いながら、自分でもその言葉に救われていた気がした。
——あのとき、結局距離を広げてしまった“自分”にも、ようやく同じことが言えたような気がして。
彼女はしばらく黙っていたが、やがてふっと笑った。
「……やっぱり美凪ちゃんの言ってた通り、岸和田くんって頼りになるね」
「そうか?」
「うん。ちょっと元気出た。ありがとう」
「礼を言うのはまだ早い。これからだよ」
「これから?」
「大津と、浜松さんの歩幅を取り戻す方法を考えてる。……来週、横浜で国際大会があるだろ。見に行かないか?」
「うん、あの大会のこと?」
「そう。ビーチバレーボールの世界最高峰だってやつ。高校生はまだ出られないけど、将来二人が目指すであろう舞台かと思って」
浜松さんの目が驚きで大きく見開かれた。
「……うん……行ってみたい。見たいな、世界の試合」
「じゃあ決まりだ。七月二十日、横浜に見に行こう。三人で。」
彼女はこくりと頷き、小さく笑った。
その笑顔は、ほんの少しだけ昔の光を取り戻していた。
——そしてその日、俺は思った。
彼女の症候群を解く鍵は、“歩幅”じゃなく、“視線の先”にあるのかもしれない。
七月二十日
横浜・みなとみらい。朝の空は、少し霞んでいた。
夏の陽射しはもう本気を出し始めていて、駅前のアスファルトからは熱気が立ちのぼっている。
時計は八時五十五分。待ち合わせの五分前。
俺は手に持ったタブレットを開き、日付と場所を書き込んだ。
> 観察記録:七月二十日 横浜・みなとみらい 国際ビーチバレーボール大会
> 観察対象:浜松夏帆・大津美凪。思春期症候群観察のため同行
少しして、駅の階段を降りてくる二人の姿が見えた。白い帽子に、薄い水色のTシャツ。二人とも、夏らしい装いだった。
けれど、いつもより、微妙に歩幅が合っていなかった。大津は気まずさを隠すように先に歩き、浜松さんは半歩遅れてついてくる。
“ズレ”はまだ残っている。
でも、再び会場へ向かおうとしているという事実だけで、今日は十分な一歩だった。
「ごめん、待った?」
「いや、今来たところだ」
いつもの挨拶の中に、まだわずかな照れの残響があった。
みなとみらいの街並みは、朝から賑わっていた。観覧車の奥に、臨港パークの特設会場が見える。風に旗がはためき、アナウンスが英語と日本語で交互に流れていた。
潮の匂い、砂の焼ける匂い、スポーツドリンクの甘い香り。それらが混ざって、夏の匂いを作っていた。
「世界大会って、ほんとにやるんだな…」
俺がそう言うと、浜松さんが少し緊張気味に笑う。
「うん。すごいね……客席まで砂っぽい」
大津が帽子のつばを直しながら言った。
「今日から二十六日まで、丸一週間やるけど、でも、みんな忙しいし、初日だけ見ることにしようよ。」
浜松さんがまだ少し緊張気味に返す。
「……うん、それでも十分だよ。……一回、生で見てみたかったから」
俺は後ろから二人の背中を見つめ、タブレットを開く。
> 観察メモ:距離感およそ70cm。会話頻度、平均1分に1往復
> 浜松夏帆:表情硬い
>大津美凪:意図的に軽口を避けている様子
スタンド席に着くと、すでに第一試合が始まっていた。
選手たちのサーブが風を切り、砂の上で跳ねたボールが鋭い音を立てる。外国チームの選手たちは、まるで呼吸で会話しているようだった。
アイコンタクトだけで動き、声を出さずとも次のプレーが繋がっていく。歩幅じゃなく、視線の先が揃っている。
「……ねぇ、美凪ちゃん」
浜松さんが少し顔を向けた。
「ん?」
「今の人たち、言葉交わしてないのに分かってる感じがする」
「うん……たぶん、ずっと組んでるんだと思う。相手の癖とか、呼吸とか全部覚えてるんだ」
その返答の仕方に、以前のぎこちなさはなかった。浜松さんも、うっすらと笑って頷く。
小さな変化だけど、それを観測するには十分だった。
昼休憩のアナウンスが流れ、人の波が一斉に動き出した。
俺たちは会場の端のベンチに移動し、軽食を取った。日陰に入ると、潮風が少し涼しく感じる。
観覧車の回転音が遠くから聞こえてきた。
「……ねぇ、夏帆」
不意に、大津が口を開いた。
「今日さ、ここに来てよかった?」
浜松さんはパンを包んでいた紙をいじりながら、ゆっくりと答えた。
「うん……よかった。ちゃんと、“好き”って気持ちがどんな方向にあるのか分かった気がする」
大津の目が驚きに見開かれ、それから柔らかく細まった。
「……そっか」
そのやり取りの後、二人の間の沈黙が静けさに変わっていくのを感じた。
午後の試合が始まる。太陽は真上から少し傾き、風向きが変わっていた。
コート上の砂が舞い上がり、旗が東から西へなびく。風が変わるたびに、二人は自然と同じ方向に顔を向けていた。
以前なら気づかずにズレていた小さな動作が、いまは呼吸のように一致している。
その日の最終カードは、日本チームの試合だった。
実況によれば、国内から男女合わせて三チームが出場しているが、二回戦に進めたのは女子チームの一組だけ。
その日本チームが、外国勢相手に必死で食らいついていた。ブロックの音、砂の飛沫、観客の歓声。すべてがひとつの呼吸のように響いていた。
「……かっこいいね」
浜松さんが呟いた。
「うん。私たちも、あそこに立てたらいいね」
大津の声は穏やかで、けれどその奥には静かな熱があった。
「うん……いつか、私たちで優勝しようね」
「約束」
その短い約束は、砂浜を渡る風のように、淡く、それでいて強く響いた。貝殻のブレスレットが、その誓いを確かめるように光を返す。
スタンドの下から、波のような歓声と足踏みのリズムが響く。俺は二人の横顔を静かに見つめながら、胸の奥で思った。
(もう、俺の出番はないな)
試合の展開は激しく、砂を蹴るたびに空気が震える。だが、大津と浜松さんの目はその動きを追いながら、次第に別の“何か”を見ているようだった。
自分たちの姿を、そこに重ねているのかもしれない。呼吸のリズムが再び揃い始める。
浜松さんの手首に巻かれた貝殻のブレスレットが、夕陽を反射して小さく光った。
試合が終わると、観客は一斉に立ち上がり、拍手が会場を包んだ。砂の上で抱き合う選手たちを見つめながら、浜松さんが小さく呟いた。
「……美凪ちゃん」
「ん?」
「私も、あんな風に並んでいたい。もう一度」
大津は、少し息を詰まらせてから、穏やかに答えた。
「うん。じゃあ、もう一回……“歩幅”合わせよ」
言葉と同時に、二人の肩がほんのわずかに触れた。ほんの数センチの距離が、確かな温度になって伝わる。
俺はタブレットを開き、最後のページに記した。
> 観察結果:浜松夏帆・大津美凪。相互意識の再接続を確認。症候群の兆候、ほぼ消失。視線の方向一致。呼吸同調。歩幅再調整完了
夜。海沿いのデッキからは、観覧車の灯りが波間に映っていた。大津と浜松さんは並んで歩き、少し前を通り過ぎていく。
ふたりの笑い声が風に混じり、夏の夜気に溶けていく。
俺は、深く息を吐いた。
——観察者であるということは、見届けることの延長線にある。誰かの成長を止めず、ただその変化を記す。
それが、俺にできる役割なのだと思った。
背後で波が砕ける音がした。
タブレットを閉じると、貝殻のような淡い香りが残っていた。
観覧車の灯りが波間で揺れていた。
そのとき、二人が同時にこちらを振り向いた。
「岸和田」
「ん?」
大津が手をひらひらと上げた。
「今度の金曜、平塚で練習試合あるんだ。うちのクラブ同士で。……よかったら見に来て」
浜松さんも、少しだけ照れたように続ける。
「…終わったあと、図書館でちょっと勉強しようって話になってて。もし時間あったら、見ててほしいなって」
「金曜か。……わかった、行くよ」
そう言うと、浜松さんはほっとしたように笑った。その笑顔を見ながら、俺は心のどこかで思った。
(今日で終わりじゃない。まだ観察は続く)
その夜。自宅に戻り、カレンダーを開く。
金曜:平塚・練習試合→藤沢・勉強会
土曜:朝・自習→移動→午後・夏期講習→夜・づっきー勉強会
(……ちょっと詰めすぎか)
金曜は観戦と勉強会、翌日は新宿。
この流れで夜に勉強会を詰めるのは、少し負担が大きい。最近暑いし、無理は禁物だ。
俺はスマホを取り出し、づっきーのトーク画面を開いた。
《日曜、空いてるか?ちょっと土曜に用事が入って、勉強会の日だけずらせたら助かる》
《いいよ!ライブもないし日曜にしよー!そのほうがきっしーの頭シャキッとしてそう!》
つづけて、笑って親指を立てるスタンプが飛んでくる。
《助かる。じゃあ日曜の開始時刻、決めよう。夕方の五時でどう? 場所はいつもと同じ図書館で》
《はーい!私も予習してく!たぶん!》
《“たぶん”かよ》と打ちかけて、送らずに消した。
画面を閉じると、心の奥の緊張が少しだけ緩んでいくのがわかった。づっきーの相変わらずな調子に、肩の力が抜けたのかもしれない。
画面を閉じる。金曜は“二人”。土曜は講習に集中、日曜は“づっきー”。
それぞれの予定が、まるで呼吸のように整っていく。
ふと窓の方を見ると、夜風がカーテンをふわりと揺らしていた。小さな笑いの余韻だけが、静かな部屋に残っていた。
七月二十四日
平塚の海風は、藤沢より少しだけ塩気が濃い。午後三時、クラブ同士の練習試合は二面進行。砂の温度はやや高め、旗は南東から一定に揺れている。
俺はコート脇のベンチに腰を下ろし、タブレットを開いた。
> 観察記録:七月二十四日 平塚海岸 クラブ内練習試合
> 観察対象:浜松夏帆・大津美凪。思春期症
候群回復確認のため同行
一本目のサーブ。浜松さんの足運びは軽い。砂に沈む踵が迷わない。レシーブ面が正面に立つまでの軸の通りも戻っている。返球は山なりではなく、しっかり“前に”とぶ。
「ナイス、夏帆!」
大津の声に、浜松さんが短く頷く。そこからの三本は早かった。ショートのフェイク、風下へのロール、最後はブロック横のストレートを切り裂くスパイク。空振りは一度もない。助走の二歩目が、以前の“ため”を取り戻している。
途中、難しい崩れ球が一度だけ来た。風で落ち際が急に鈍るタイプ。
浜松さんは一拍だけ躊躇した、が、次の瞬間には左膝を砂に入れて、指先で持ち上げていた。迷いが“反応”に変わっている。
セットを二つ連取して、練習試合は終了。コーチの短い講評のあと、二人はこちらに駆け寄ってきた。砂の跳ねを払う仕草まで、ほぼ同時。
「どうだった、夏帆の様子?」と大津。
「戻ってるな」と俺。
浜松さんは肩で息をしながら、帽子のひさしを持ち上げた。日焼けの境目が、目じりの笑い皺をやさしく縁取る。
「ほんと?」
「ああ。見てて、安心した」
浜松さんは小さく息を吐き、ブレスレットを一度だけ撫でた。その指が震えていないのを、俺は確認した。
夕方、平塚駅近くの図書館。冷房は弱め、機械の送風音が遠くで一定に鳴っている。
問題集を三人で開き、進度を合わせる。今日のメニューは古文の助動詞と数列。
「ここ、“る・らる”の接続は四段・ナ変・ラ変……」
「未然形に“る”、已然形に“れ”——のやつだよね」
浜松さんの声は落ち着いていた。ペン先は迷わず、余白のメモは読み返しやすい字幅で並ぶ。
計算では、前まで指が止まりがちだった初手の“与えられた条件の整理”を、今日は自然に口に出している。
「初項a、公差d、n項目an=a+(n−1)d、和Sn=n/2(2a+(n−1)d)……だよね?」
「そう。それをこの式にあてはめればいい」
解ける問題は、今まで通りには解ける。飛躍的に学力が伸びたわけじゃない。でも、落ち込んでいた針が、定位置に帰ってきた感触がある。
>観察結果:浜松夏帆 学力レベル変化なし。運動感覚のズレ消失。付随症状見られず。
思春期症候群寛解
休憩に入ったとき、俺はペンを置いた。
「……浜松さん。……思春期症候群、治ったみたいだな」
その言葉に、浜松さんはふっと目を瞬かせた。驚き、安堵、それから照れの順に、表情がゆっくり変わっていく。
「……私、思春期症候群だったんだ……」
「疑わないのか?」
少しだけためらってから、浜松さんは顔を上げた。視線はまっすぐだった。
「横浜の大会、見に行ったあとね、美凪ちゃんが、去年の体育祭のときに“思春期症候群”に罹ってたって、私に打ち明けてくれたの。……だから信じるよ」
貝殻のブレスレットが、机の光を拾って小さく揺れた。
「……ありがとう、岸和田くん。私の思春期症候群、治してくれて」
俺は首を振る。
「俺はなんもしてないよ。二人の歩幅が、また同じ方向を向いたからだ」
言い終えた瞬間、静けさが落ちた。コピー機の駆動音が遠くで一瞬だけ高鳴って、また細い呼吸に戻る。
浜松さんが、ほんの少しだけ身を乗り出した。距離が、机の幅のぶんだけ縮む。
まつ毛の影が揺れて、俺のほうをのぞき込むように目が合った。
「……でも、きっかけは岸和田くんだったよ」
その“くん”の音が、いつもより一拍だけ長い。言い慣れた敬称なのに、そこに触れる熱がある。
頬に、運動の余熱とは別の色がごく薄く差して、彼女は気づいたように視線を落とした。指先は無意識にブレスレットをつまむ。
けれど、すぐに離す。頼らないと言うみたいに。
大津が、空気を読んだのか読んでないのか、タイミングよく咳払いをひとつ。
「ほら、休憩終わり。もう一問いける?」
浜松さんは「うん」と小さく笑い、顔を上げた。笑い皺が、さっきより少しだけ深い。
閉館アナウンスが流れるまでに、予定していた範囲は全部終わった。
帰り際、館を出るドアの前で、三人の影が廊下に細く伸びる。
並んで歩き出した二人の肩が、自然に同じ高さで揺れる。俺は少しだけ後ろを歩いて、その歩幅をもう一度だけ確かめた。
図書館を出て、駅までの並木道を三人で歩く。夜の湿度はまだ高いが、海からの風がときどき路面の熱を撫でていく。
横断歩道の手前で、大津がふと思い出したように振り向いた。
「そうだ岸和田、言ってなかった。来月の六日から九日、女子高生の全国大会があるの。愛媛で」
「愛媛?」とオウム返しすると、隣で浜松さんが続けた。
「うん、インターハイとは別枠のビーチの全国。私たちも出るよ。……ここからが本番、っていうか。今日みたいに噛み合った感じ、ちゃんと本物にしたい」
大津が笑う。
「やっと本腰入れられるね、ってこの間話してた。ここからの二週間、練度上げまくる」
信号が青に変わる。三人で渡りながら、俺は胸の中でカレンダーをめくった。
(八月頭で夏期講習もいったん区切り。……少し息を抜くために、一人旅でもと思ってた)
歩道の端で足を止める。
「……愛媛の大会、観に行ってもいいか?」
二人の視線が同時に上がる。夜道の外灯が、驚きと少しの戸惑いをそれぞれの瞳に点す。
「え、遠いよ?」
大津が目を丸くする。
「宿も高いかもだし……いいの?」
浜松さんが、言いながらもどこか嬉しそうに笑う。
「問題ないよ。二人のビーチバレーを、また見届けたいからさ」
言った瞬間、潮の匂いが少しだけ濃くなる。大津は照れ隠しのようにキャップのつばをいじり、浜松さんはブレスレットに触れて、すぐに手を離した。
「じゃあ、優勝するところ、見てて」
「うん。歩幅、合わせていくから」
ふたりの声が重なって、夜の空気に細く伸びる。俺は心の中で予定表に小さく丸をつけた。
駅のアナウンスが、次の電車の到着を告げる。
みんなで同じホームへ。同じリズムで階段を下る二人を確かめてから、俺も階段を降りた。
——この夏の地図に、新しいピンが一つ刺さった。
旅の目的地は、観光名所でも名物でもなく、砂の上でそろう二人の歩幅だ。
七月二十六日
夕方の新宿は、昼間の喧騒が少し落ち着き、ネオンが街を静かに染めはじめていた。
俺とづっきーはいつもの図書館で勉強会をしていた。
今日は目黒の実家に戻る予定だったから、今日は夜まで詰め込むつもりだった。
「ねぇ、きっしー、なんか元気そうだね」
ペンを止めた瞬間、づっきーがいつもの調子でそう言った。
空気を読むとか、間を計るとか、そういう概念をすり抜けてくる声だ。
けれど、不思議と悪い気はしなかった。
「そう見えるか?」
「うん。なんか、肩の力抜けてる感じ。……」
「……というと?」
「えっとね……ペットボトルの炭酸を開けた後、ちょっと置いといたコーラ?」
「……気が抜けてるじゃねぇか」
「違う違う!落ち着いたって意味!“しゅわしゅわしない安心感”!」
「日本語の使い方が不安だな」
づっきーは両手をぶんぶん振って慌てて弁解する。その必死さが可笑しくて、思わず笑ってしまう。
「今日、夜遅いけど……藤沢に帰れるの?」
「ん、今日は目黒の実家に帰る予定だ」
「へぇ、実家目黒なんだ!おしゃれだね!」
「おしゃれって言うな」
「だって響きがセレブっぽいもん。“目黒の岸和田”って、なんか強そう」
……どう強いのか、まるでわからない。
「そういえばさ、きっしーって普段どこに住んでるの?」
「実家は東京だけど、今は藤沢で一人暮らししてる」
「へぇ〜!まあお兄さんと同じ高校だもんね、そりゃそうか!」
づっきーが、当然のように話を転がしていく。
「ねぇ、なんで藤沢の高校にしたの?」
少しだけ考えてから、答える。
「東京にいるのが、しんどい時期があってさ。人が多いと、言葉の置き場所を間違える気がして。海の近くは静かで、息がしやすかったんだ」
「ふーん……。じゃあ藤沢は、きっしーの心の避難所って感じ?」
「避難所って言うな」
「だって、なんか“避難訓練済み”みたいな安心感あるじゃん!」
「……なんの話だよ」
づっきーはケロッとした顔で笑っている。会話の地図を持たずに歩く天才だ。
「そういうづっきーは、なんで通信制にしたんだ?」
「ん?一回は全日制に行ったんだよ。でもクラスの友達関係にぜんっぜん馴染めなくて、半年くらい学校行けなくなっちゃって。そしたら今の学校見つけて、『ここなら続けられるかも』って思ったの」
まるで夜ごはんのメニューを話すみたいに、いつもの調子でづっきーは笑って言う。
その無邪気さが、妙に胸に沁みた。
「……俺も、不登校になりかけた時期があった」
「えっ、きっしーが? まじめそうなのに!」
「見た目で決めるな」
「うわ〜、意外〜。でも、ちょっと親近感!」
目を丸くしてから、すぐにくすっと笑う。
「ねぇ、もしかして私たち、似たもの同士?」
「いや、多分それは違う」
即座に否定したけれど、心のどこかで、その言葉に少しだけ救われている自分がいた。
……不思議と、づっきーにはこういう話をしても平気だと思えた。
「ねぇ、きっしー」
「ん?」
「もし私、大学行けたらさ……勉強も、サボりも、一緒にできるよね?」
「おいおい、後半」
「え〜、じゃあサボりだけでも」
「余計ダメだ」
「じゃあ、勉強もサボりも両方!」
「結局どっちもじゃねぇか」
づっきーはケラケラと笑いながら、ペンをくるくる回す。
「……じゃあ、俺が落ちたら意味ないな」
「え、落ちないでよ!そしたら私ひとりぼっちじゃん」
「いやいや、そもそもまだお前、受験モードに入ってないだろ」
「大丈夫、だってきっしーがいるし」
苦笑しながら肩をすくめる。
「豊浜も同じところ志望してるし、大丈夫だろ」
「そっか〜。じゃあ三人でキャンパスライフ満喫だね!」
「まだ受かってもいないのに言うな」
づっきーはケロッとした顔でペンをくるくる回している。その無邪気さに、突っ込む気力すら削がれてしまった。
少し間を置いて、口を開く。
「……そういえば、来月のお盆にオープンキャンパスあるらしいけど、一緒に行くか?」
「えっ、ほんとに!? 行く行く!」
椅子から少し身を乗り出すづっきーの声が、店内の静けさに響きそうで、思わず人差し指を立てる。
「しーっ、静かに」
「ごめんごめん……でも、楽しみだな」
悪びれず笑うその顔に、また返事が一瞬遅れた。
「ねぇ、のどかも誘う?」
「まあ、いいんじゃないか」
「よし決まり!三人なら迷子になっても安心だし!」
「大学で迷子になるやついるかよ」
「私たちならあるかも!」
づっきーの能天気な笑顔に、俺は小さくため息をつきながらも、それ以上反対する理由を見つけられなかった。
帰り際、駅までの夜道を並んで歩く。
づっきーがイヤホン片方だけを差し出してきた。
「ねえ、スイートバレットの新曲聞いてよ」
流れてきたのは、スイートバレットの新曲、「超音波のメロディ」
いつもステージで見せる笑顔と、いま隣で見せている笑顔が、少しだけ重なって見えた。
「……きっしー、今、笑ってたよ」
「そうか?」
「うん。」
づっきーは夜風の中で、少しだけ得意げに笑った。
その無邪気さが、今夜の新宿の灯りよりも、ほんの少しあたたかかった。
八月五日
夏期講習を終え、八月最初の模試も受け終えた。
図書館と自習室を往復しながら、藤沢と新宿のバイトをなんとか両立させていたここ数週間。
慌ただしい毎日だったけれど、手を動かしていると、不思議と心は落ち着いていた。
そしていま、俺は横浜駅のホームに立っている。明日から愛媛で開催される、女子高校生のビーチバレーボール全国大会を見に行くためだ。
コンコースには夏休みらしい人の波が広がっている。旅行鞄を転がす家族連れ、リュックを背負った学生、浴衣姿のカップル。
それぞれの夏が交差する中、俺の手には一枚の指定席券があった。
サンライズ瀬戸・出雲
横浜発二十二時十五分。岡山を経て、翌朝には四国へ渡る。
前から一度乗ってみたいと思っていた寝台列車だった。
ホームに流れる放送が静かに響く。列車到着まで、あと十分。ベンチに腰を下ろし、タブレットを開く。
> 観察記録:八月五日 横浜駅出発前
> 目的:全国高校女子ビーチバレーボール大会観戦・愛媛県伊予市
ページの端に、自然と小さく笑みが浮かんだ。観察対象の名前を書く欄に、ペンを置く。
> 観察対象:浜松夏帆・大津美凪
明日、あの二人が立つコートを見届ける。
ただそれだけのことなのに、胸の奥に静かな熱が灯る。
やがて、遠くから列車が近づいてきた。夏の夜気を震わせながら、金色の車体がゆっくりとホームに滑り込んでくる。
「……これが、夜行か」
目の前に現れた車両は、思っていたよりも静かで、重厚だった。ヘッドライトの光が、まるでこれから始まる物語のページを照らしているように見えた。
列車のドアが開く。
金属の階段を上がり、個室のカギを閉める。
コンパクトな空間の中に、小さなベッドとテーブル。窓の外には、まだ見慣れた横浜の夜景。
リュックを足元に置き、カーテンを少しだけ開けたまま腰を下ろす。
発車のベルが鳴り、静かな振動とともに、列車はゆっくりと動き出した。
街の灯が遠ざかるにつれて、心の中のざわめきも少しずつ小さくなっていく。
明日は松山市を少し観光してから、夕方には伊予市の会場へ向かう予定だ。
窓の外では、夏の夜空が流れていく。
街を離れ、線路の音が一定のリズムを刻みはじめた。
——明日から、また新しい“観察”が始まる。
八月六日
朝の六時三十分過ぎ、車掌のアナウンスで目が覚めた。
サンライズ瀬戸は定刻通り岡山に到着し、連結を解かれた車両が静かに分かれていく。
瀬戸大橋を渡る頃、窓の外には白い陽光が広がっていた。橋脚の下を流れる海が、朝の光を反射して細かくきらめく。
風景の奥で、夏の音が遠く重なるように聞こえた。
(今日も暑くなるな……)
高松駅に到着後、乗り換えの時間まで少しあったので、駅の売店で温かいコーヒーを買った。
早朝のホームには、旅人特有の静かな高揚感が漂っている。
目的地は、愛媛・松山。特急に乗り換えれば、松山には昼前には着く。
松山駅に着いたのは、十一時過ぎ。
駅前から路面電車に乗り、市街地に向かった。
まずは松山城。
天守まで続く石段を上りきると、眼下に市街地が広がっていた。
真っ青な空の下、瓦屋根の連なりが白く光っている。
昼過ぎには道後温泉に足を運んだ。
観光客で賑わう商店街を抜けると、木造の本館が静かに佇んでいた。
硝子越しに見える湯気が、まるで時間の層を透かしているようだった。
ひと息ついてから、伊予市へ向かう電車に松山市駅から乗った。
夕方前の車窓には、どこまでも続く水平線。
窓を少しだけ開けると、潮風に混じって甘い匂いがした。
車内でタブレットを開く。
>観察記録:八月六日 愛媛県伊予市開会式観察
>観察対象:浜松夏帆・大津美凪。夕方に合流
郡中港駅に着くと、会場の案内看板が目に入った。
夕陽が傾き始め、砂浜の向こうではテントがいくつも並んでいる。
潮風の中でスタッフたちが準備に追われ、スピーカーから流れる試合の確認放送が遠く響いていた。
その端のコートに、見覚えのある二人の姿があった。
大津がネットの張り具合を確認し、浜松さんがタオルで汗を拭っている。
ユニフォームはまだ袖を通していないが、顔つきはどこか引き締まっていた。
「……おーい、大津、浜松さん」
声をかけると、二人が同時に振り向いた。
浜松さんの表情がぱっと明るくなる。
「岸和田くん!」
「ほんとに来たんだ!」と大津も笑う。
「約束したからな。……明日からの試合、楽しみにしてる」
浜松さんはうれしそうに頷いた。
「ありがとう。美凪ちゃんとも話してたんだ、“絶対来てくれる気がする”って」
「予言者かよ」
「当たったでしょ?」
少し茶化すような声に、会場の空気が一瞬だけ柔らかくなる。
> 観察メモ:二人の呼吸テンポ安定。相互視線、明確な一致
>浜松夏帆:落ち着いた声調
>大津美凪:表情に緊張より高揚感
近くでは他県チームの選手たちが練習を始めていた。白い砂が足もとで細かく跳ねる。
その中で、浜松さんと大津の影がゆっくりと並び、夕陽に重なっていた。
俺は少し離れた場所でその様子を見届けながら、静かに息を吐いた。
——ここまで来てよかった。
明日の試合は、朝から。
また新しい夏の記録が、ページを一つ埋めていく。
八月七日
伊予市・五色姫海浜公園。
朝の海はまだ白く霞んでいて、陽射しはやわらかい。波打ち際のテントの列が風に揺れ、砂をならす音がそこかしこから聞こえてくる。
浜松さんと大津のコートは第二面。観客席の後ろでは、まだ別のチームがアップをしていた。
大津がネットの高さを確認し、浜松さんが砂に足を埋めて感触を確かめている。呼吸が合うまでのわずかな間、ふたりは言葉を交わさなかった。
ホイッスルの音。試合開始。
序盤、大津のサーブが風を切り、浜松さんが拾う。相手のリターンを、大津が軽くロールで返す。
わずかに風が変わるたび、二人の位置取りも変わる。
「ナイス、夏帆!」
「美凪ちゃん、次ストレートで!」
試合は終始リードを保ったまま初戦突破。
次の試合も快勝し、午後にはグループ首位がほぼ確定した。
昼過ぎ、テントの陰でふたりが水を分け合っている。潮風のなかで、浜松さんが小さく言った。
「ねぇ美凪ちゃん……今日、風が優しいね」
「うん。夏帆が落ち着いてるからじゃない?」
浜松さんが一瞬目を丸くして、それから笑う。
> 観察記録:浜松夏帆・大津美凪。情動安定。視線柔軟化
午後四時、すべての予選が終わる頃、五色浜の空は淡い橙色に変わっていた。
風見旗が静かに揺れ、波がゆるやかに砂を洗う。
明日はいよいよ決勝トーナメントだ。
八月八日
翌日。夏の太陽が一段高く昇り、五色姫の砂がまぶしく光っていた。
初戦の相手は福岡代表。堅実な守備型チームだった。
序盤は互角。だが浜松さんの目が鋭くなっていく。相手のトスの癖を読み、ブロックの前でタイミングをずらす。風の向きすら味方につけるような調整。
「ナイスカット!」
「次、逆風ね!」
言葉が少なくなっても、意図は伝わっている。
21−17で1セット、続くセットも21-15でストレート勝ち。
午後の第二戦では、茨城代表を圧倒。
ショートとロングの打ち分けに迷いがなく、二人の動線が交差する瞬間のブレもない。夕方、五色浜の海面に西日が反射していた。
浜松さんがブレスレットを指先でなぞりながらつぶやく。
「……明日、最後だね」
「うん。怖いけど、楽しみ」
空にはカモメが一羽、南西へ流れていった。風が止む気配の中、俺は小さく息を整える。
明日は決勝戦、勝負の日だ。
八月九日
伊予灘の水平線は、まぶしすぎて白かった。
海風が静かに吹き、砂浜に立つ旗がゆっくりと揺れる。
準々決勝の相手は沖縄代表。俊敏でリズムの速いチーム。
最初のラリーは25秒続いた。浜松さんのスライディング、そこから大津のブロック。
砂を蹴るたびに、呼吸と足音が重なる。
21−18、21-14で勝利。
準決勝は地元・愛媛代表。
観客の声援が一段高くなる中、浜松さんは笑っていた。風上を使い、ショットを沈める。
21−16、21−12とストレートで勝ち切る。
> 観察記録:浜松夏帆・大津美凪。呼吸・視線の完全同期確認
午後の決勝戦。開始時刻は十三時。
空に薄雲、海風は一時的に無風状態。静寂が、決勝戦の合図だった。
相手は東京代表。
序盤、浜松さんのスパイクが一球アウト。だが表情に焦りはなかった。
「大丈夫。風がすぐ戻るから」
その言葉通り、次のサーブで潮の流れが変わる。ロールからストレートへ切り替え、立て続けに三得点。
「ナイス、夏帆!」
「行こう、美凪ちゃん!」
リズムが完全に一致した。
第1セット21−18。
最終セット終盤、相手が粘る中、マッチポイント。
大津のトスを浜松さんが跳び込むように叩く。
ボールが白砂を弾き、歓声が弾ける。
21−20。優勝。
ホイッスルの音が海風に溶けていく。浜松さんは砂に手をつき、空を仰いだ。
大津がその肩を抱き、笑いながら涙を流す。
> 観察結果:浜松夏帆・大津美凪 全国大会優勝。思春期症候群、完全寛解確認。精神・肉体・認識の三要素、完全一致
夕暮れ。表彰式が終わったあと、五色浜の波が静かに寄せていた。
貝殻のブレスレットが夕陽を受けて微かに光る。
潮風が頬を撫で、波音が拍手のように響く。
表彰式が終わったあと、五色姫海浜公園の空は、少しだけ金色を帯びていた。
観客がまばらに帰っていく中、砂浜の上に吹く風はどこか柔らかい。
海に沈む太陽が、優勝トロフィーの縁を淡く照らしている。浜松さんはそれを両手で抱えながら、笑っていた。その横で大津が、砂のついた手で額の汗を拭う。
「……終わった、ね」
「うん。でも、ほんとに終わっちゃったんだって感じ」
二人の声が、潮騒にかき消されるように溶けていく。
俺は帰り支度を整え、荷物を肩にかけると、浜松さんが気づいて駆け寄ってきた。
「岸和田くん、もう帰るの?」
「ああ。明日の午前の便で戻るよ。今日は松山に泊まる予定」
「じゃあ、駅まで送るね!」
大津がタオルを肩にかけたまま笑う。
大津の言葉に、浜松さんが続ける。
「私も。ちゃんと見送らせて」
断る理由はなかった。
五色浜から続く道を歩く途中、海の匂いがゆっくり薄れていく。左手に見える防波堤の向こうでは、夕陽が水面を切り裂くように沈んでいた。
「……夕陽、きれいだね」
浜松さんがぽつりとつぶやく。
「うん。試合のときより静かで、変な感じ」
大津の言葉に、浜松さんが笑う。
その笑顔には、もう焦りも迷いもなかった。ただ、充実した疲労と、ほんの少しの寂しさだけが宿っている。
駅に着くと、ホームにちょうど松山行きの列車が入ってきた。車体の窓が、沈む夕陽を映している。
「岸和田くん」
浜松さんが小さく呼んだ。
「ありがとう。ここまで見届けてくれて」
「いや、俺はただ見てただけだよ」
「でも、“見てくれた”ってことが、すごく大きかったんだ」
言葉に詰まる。その隣で、大津が少しだけ笑う。
「また試合見に来てね、岸和田」
「……ああ。できれば、そのときはもう観察なしで」
「ふふ、そうだね」
浜松さんの笑い声が、海風に乗って広がった。
そのあと、ほんの一瞬だけ沈黙があった。彼女は何かを言いかけて、代わりに俺の目を見た。その瞳の奥に、言葉よりも穏やかな熱が宿っているのが分かった。
三人の間に、潮の香りを含んだ風が吹いた。スピーカーから発車ベルが流れ、ホームに柔らかなアナウンスが響く。
「じゃあまた藤沢で」
「うん。またね」
浜松さんが軽く手を振る。その腕に揺れる貝殻のブレスレットが、夕陽を受けてきらりと光った。
列車がゆっくりと動き出す。
窓越しに見えた二人の姿は、砂浜で見たときと同じように並んでいた。
肩の高さも、視線の向きも、完璧にそろっている。
その向こうで、浜松さんがもう一度こちらを見た。
唇がかすかに動いた気がした。
——ありがとう。
声にはならなかったけれど、確かにそう聞こえた。
俺は小さく息を吐き、流れゆく海辺の町並みを眺めた。沈む太陽の中に、五色浜の白い砂と笑顔がぼんやりと重なって見えた。
窓の隙間から、夏風がひとすじ入り込む。
潮の匂いと、まだ残る熱気が混ざって、心の奥を静かに撫でていった。
こうして、俺のこの一夏の観察は終わった。けれど、記憶と風だけは、まだこれからが本番の夏を運んでいる。そんな気がした。
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語れない 眠れない トロイメライ
あなたの見てる正体
誰も読めないカルテ
不可思議 知りたいだけ
今日もひとりごと
なんにも無理をしないで
愛されたい
有耶無耶 さよなら 軽い眩暈
あなたのいない現象界
誰も読めないカルテ
自意識 溢れ出して
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次回
『青春ブタ野郎はピースメーカーの夢を見ない』
大津美凪
『さすが岸和田、ブタ野郎だね』
浜松夏帆
『さすが岸和田くん、ブタ野郎だね』
この章をもって、『青春ブタ野郎はステップノートの夢を見ない』の物語は一区切りを迎えます。
時系列でいえば、高校二年生の春休みから、高校三年生の八月までのお話しです。
今章は、特典小説『青春ブタ野郎はビーチクイーンの夢を見ない』に登場した、大津美凪と浜松夏帆に焦点をあて、原作では描かれていないその後を、蓮真の視点から追ったエピソードとなっています。一部、ドラマCDや特典小説のセリフ・設定を参照しつつも、物語のほとんどはオリジナルです。
今回描くにあたり難しかったのは、蓮真の役割を咲太と重ねないこと。彼は“解決者”ではなく“観察者”。介入より記録、誘導より同伴。他人との距離を測ることで過剰に介入はせず、見る・見届けることでそっと背中を押す。
その距離感を最後まで守ることで、二人のすれ違いは、彼女ら自身の意志と絆によって解消されるようにしました。
貝殻のブレスレット、風向き、呼吸のテンポといったセリフは、二人が同じステップを歩んでいくことを、目に見える形で示す符牒にできたかと思います。
次章も引き続き、オリジナルエピソードが続きます。もし少しでも楽しんでいただけたなら、ぜひ【高評価】や【お気に入り登録】をしていただけると励みになります。
感想もお待ちしています。皆さんの一言が、次の更新への大きなモチベーションになります。これからも、ぜひお付き合いいただければ嬉しいです。
蓮真は最終的にどちらを選ぶと思いますか?
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豊浜のどか
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広川卯月