青春ブタ野郎はパラレルスプリングの夢を見ない 作:もドえラん
八月二十四日
受験勉強の合間に、少しだけ外の空気を吸おうという名目で決まった「夏の横浜勉強会」。
集合場所は、桜木町駅。
改札を出たところで、ストールを揺らした豊浜が手を振ってくる。
「おー、来た来た。今日はありがと」
「まぁ、たまには息抜きも必要だしな」
「ふふ、そういう真面目なとこが頼りになるからさ」
すぐ後ろから、づっきーが大きな声で駆け寄ってきた。
「ごめん遅れたー!電車で寝落ちしてた!」
「相変わらず自由だな」
「寝るのも脳の回復に必要なんだよ?」
「……言い訳のプロだな」
目的地は、桜木町から少し歩いたところにある神奈川県立図書館。
テラスやラウンジが併設されている新しい建物だ。
館の前に着くと、野毛山の緑がゆるやかに風に揺れていた。
「わぁ〜、ここ綺麗!」
づっきーが思わず声を上げた。
「外観からもうおしゃれ大学っぽい」
「大学じゃなくて図書館な」
「でも、雰囲気がもう“知的!”って感じじゃ
ん?」
「語彙力が小学生だな……」
笑いながら、俺たちは自動ドアをくぐった。
開館とほぼ同時に入った館内は、まだ冷房の香りが新しく、紙の乾いた匂いが混ざっていた。
吹き抜けの天井から光が落ち、広いラウンジにはまだ人がまばら。
そして奥の大きな窓際には、野毛山公園の緑と、遠くに横浜の街並みが見える。
俺たちは三人並んで座れる長机を見つけ、それぞれノートを広げる。
「……うわ、ここ静かすぎる」
豊浜が囁くように言う。
「図書館だからな」
「でも、空気がシャキッとしてていいな」
「なんか“静かなライブ会場”って感じだね!」
「例えが独特すぎる……」
豊浜はもう参考書を開いて、淡々とページをめくっていた。集中モードに入ると、周りの音が消えるタイプだ。
「豊浜、切り替え早いな」
「うん、午前中の三時間は真面目タイムって決めてるから」
「午後は?」
「……お楽しみタイム」
「何するつもりだよ」
づっきーが笑いながら机に突っ伏す。
「午後はカフェでごほうびスイーツ会でしょ?」
「勉強した分だけ甘いのOKっていうルール、卯月と約束したんだ」
「どんな約束なんだか……」
俺は苦笑しつつ、筆箱を開いた。
参考書を広げ、ペンを走らせる音だけが響く。
豊浜は真剣にノートを取り、づっきーは最初の十五分だけ集中している。
「ねぇきっしー、“受動態の作り方”ってこれで合ってる?」
「“be動詞+過去分詞”な」
「そうだよね〜、それ書いたのに間違ってたんだ。」
「……書いた時点で間違ってるなら問題だろ」
「えぇ理不尽!」
「静かに」
前の席の学生が振り向いた。
づっきーが口に指を当てて「ごめん」と小声で謝る。
その仕草が妙に子どもっぽくて、豊浜が吹き出した。
「卯月、ほんと図書館に向いてないね」
「えー?でも楽しいよ、静かなのに声出せないってスリルあるじゃん」
「それをスリルって言う人初めて見た」
俺は苦笑しながらも、ペンを置いて外の景色を見た。ガラス越しに、夏の終わりの光が街を照らしている。
木々の影が机に揺れて、風のリズムが時間を刻んでいた。
ペンを走らせながら、俺はふと、これも“青春の一場面”なんだろうなと思った。
誰かの声が響かない静けさの中で、同じ時間を共有している。
その事実が、妙に心地よかった
昼を少し過ぎた頃、俺たちはノートを閉じて館を出た。
外の光は午前よりも白く強く、野毛山の坂を下る途中で蝉の声がいっそう濃くなる。
「ふぅ〜、勉強した!たぶん今日で二週間分くらいやった気がする!」
「卯月の場合、三分の一はおしゃべりだったでしょ」
「会話も脳トレだよ!」
「脳トレって言いながら脳を休ませてたろ」
「そんことないよ!」
俺が肩をすくめると、豊浜が笑いながら日傘を開いた。
「せっかくだし、このままみなとみらいまで歩こうか」
「いいね〜!海風リフレッシュ!」
「どうせお前、途中で暑いって言い出すぞ」
「そのときはきっしーがアイス奢ってね?」
「なんで俺なんだよ」
「ツッコミ代」
「そんな制度聞いたことない」
笑いながら、三人で野毛坂を下る。
眼下には、みなとみらいの街並みと観覧車が輝いていた。
汽車道を歩くころには、潮の香りが少し強くなってきた。
観覧車のゴンドラがゆっくり回るたび、ガラス越しに太陽の光が反射する。
「観覧車乗る?それともショッピングモールいく?」
「受験生が遊びすぎるとバチ当たりそうだな」
「じゃ、半分勉強ってことにしよ。社会科見学!」
肩を並べて歩く足取りに、無理のない軽さが宿る。
豊浜の“社会見学”の提案で向かったのは、三菱みなとみらい技術館だった。
入館すると、大きな航空機の模型や深海探査艇の展示が出迎えてくれる。
「うわー、こういうのテンション上がる!」
豊浜は目を輝かせながら、未来的なシミュレーターに駆け寄る。
「お前、理系に行きたいのか?」
「私は外国語系だってば。でも、こういうの“知ってる”って言えたらかっこいいでしょ?」
「イメージアップのために社会科見学かよ」
「なに?じゃあきっしーは、“勉強一筋でつまんない奴”って思われたいの?」
「……別に思われたいわけじゃないけど」
「ほらね、だから一緒に来て正解なんだって」
少しだけ勝ち誇った笑顔に、言い返すタイミングを失う。
宇宙ステーションの再現コーナーでは、三人で並んで座席に腰掛けた。
「ここで試験勉強したら、集中できそう!」
「いや、むしろ浮かれて進まないだろ」
「それは、きっしーの集中力が低いだけじゃん」
「……人のこと言えるのか」
「私はやるときはやってるよ!」
頬をふくらませたづっきーは展示物の宇宙服を指差した。
「ねぇこれ撮ろう! “宇宙受験生”って感じで!」
「どういう感じだよ……」
「きっしーがノート持ってポーズして、のどかが答案チェックしてる風!」
「いや撮る前に恥ずかしさで倒れるわ」
「も〜きっしー真面目すぎ〜。ノリだよ、ノリ!」
づっきーの笑い声が、展示室の静けさに弾む。
技術館をあとにして、中華街へ行く途中。づっきーが急に立ち止まり、指さした。
「ねぇねぇ、アイス屋さん! 夏といえばアイスでしょ!」
看板の「自家製ジェラート」の文字に惹かれたらしい。
仕方なく三人で店に入ると、冷気が肌を撫でた。
「うわ〜、全部おいしそう……どうしよっかな〜」
「俺はバニラでいいや」
「あたしはピスタチオ!」
店員に注文を告げると、づっきーが満面の笑みで言った。
「じゃあ私、これ全部ください!」
指差した先には、ショーケースの中に並ぶ六種類のジェラート。
「ぜ、全部って……!?」
数分後、コーンの上にアイスが芸術作品みたいに積み上がっていた。
店員さんも苦笑している。
「見て見て〜!六段アイス!」
「いや、見てるだけで溶けるわ!」
「だって選べなかったんだもん!」
づっきーが一口。
そしてまた一口と食べようとした瞬間、上の段が傾いた。
「わっ、やばっ……!」
「しゃがめ、づっきー!」
「えっ、なに?作戦!?」
「落ちる前に、分ける!」
俺と豊浜がそれぞれスプーンを構え、左右からすくう。
「いくぞ!」
「うんっ!」
結果、三人で二つずつ分け合う形になった。
「……きっしー、なんかこれ青春っぽくない?」
「お前が原因で始まってる時点で違う気がする」
「でも、おいしいでしょ?」
「それは否定しない」
豊浜は笑いながら、づっきーの鼻先についたチョコを拭ってやった。
「ほんと、卯月って天才的に自由だよね」
「えへへ、のどかに褒められちゃった!」
「いや多分褒めてはないぞ……」
潮風が店の外から流れ込み、三人の笑い声がアイスより少しだけ長く溶けていった。
その後、みなとみらい線に乗って、中華街へ向かう。
地上に出ると、香辛料の匂いと客引きの声が入り混じっていた。
「ほら、肉まん! 熱いうちに食べよ!」
豊浜が手を引く先で、湯気の上がる肉まんを買う。
「猫舌だろ」
「大丈夫! ……あっつ!」
頬を真っ赤にしながら慌てて口にした豊浜を見て、思わず笑ってしまった。
づっきーはというと、隣の店でタピオカを三つも抱えて戻ってくる。
「これ! 全部味違うやつ! 飲み比べしよう!」
「いや、一人で三つは多すぎるだろ」
「のどかときっしーの分もちゃんとあるから!」
「……優しいんだか暴走なんだか分からん」
「どっちもだよ!」
天真爛漫そのものの笑顔に、通りの喧騒が少し柔らかくなる。
雑貨屋では、豊浜がカラフルなチャイナドレスを指さし「きっしー、似合うと思う?」と悪戯っぽく聞いてくる。
「いや、俺は着ないぞ」
「着てほしいのはあたしのほうなんだけど」
さらっと言って笑う姿に、冗談の軽さと、ほんの少しの本音が透けて見えた。
山下公園に出ると、潮風が強まり、豊浜の髪がふわりと揺れた。
ベンチに並んで座り、氷の入ったソーダを分け合う。
「あー、夏休み終わっちゃうね」
「始まると長いのに、終わりは早いよな」
豊浜はストローを回しながら、ふっと遠くの水平線を見た。
「でもさ、こうやって外で勉強とかできるの、なんかいいね」
「たまには悪くない」
「でしょ?」
豊浜の笑みが潮風にほどける。
夕方、人であふれるみなとみらいに戻り、遠くにビルの明かりが灯り始める中、俺は二人に「お互い夏休みが終わっても、ちゃんと会うだろ」と返した。
「じゃ、約束」
そう笑った豊浜の目に、ほんの一瞬だけ沈黙が走った。
「よーし、それじゃあ“打ち上げ写真”撮ろ!」
づっきーがスマホを構えて、俺と豊浜をぐいっと引き寄せる。
「ちょ、ちょっと近いって!」
「いいじゃん、三人で勉強がんばった記念だよ!」
カメラのカウントが進む間、潮風がふわりと頬をなでた。
「はい、チーズ!」
シャッターの音が鳴る。
画面の中では、三人の顔が笑っていた。
豊浜の横顔は少し照れていて、づっきーは全力でピースしている。
俺は、そんなふたりの間で肩をすくめていた。
「……ま、こういう夏も悪くないか」
「でしょ!次は秋の勉強会。今度は“甘栗フェス”つき!」
「勝手にイベント化するなよ……」
「じゃあ、次もよろしくね、きっしー!」
づっきーが無邪気に笑う。
その笑顔の向こうで、観覧車の光が少しずつ夜の空に溶けていった。
と、そのとき、豊浜が思い出したように手を打つ。
「あ、そうだ。来月のライブ、横浜でやるんだ」
「ライブ?」
「うん。スイートバレットの公演。新しいホールでやるから、よかったら見にきて」
「もちろん、私も出るよ!」
づっきーが胸を張ってピースサインを作る。
「“勉強会より騒がしい授業”ってやつ!」
「例え方のクセが強いな……」
「きっしー、予定空けといてね。客席で、見つけたいから」
豊浜の言葉に、少しだけ夜風が静まる。
「……了解。予定空けとくよう努力するよ」
「約束だよ!」
づっきーが勢いよく指切りのポーズをしてくる。
「はいはい、約束」
三人で笑いながら指を重ねた。
夏の終わりの風が通り抜け、その指先のぬくもりだけが、夜に残った。
八月二十六日
夕方の藤沢のファミレス。
夏休みも残りわずかとなったその日、久しぶりに咲太と古賀と同じシフトだった。
ディナー前の時間帯、客足も落ち着いて、厨房からはフライヤーの油が静かに鳴る音だけが聞こえていた。
「いや〜、この三人で入るの久々だね〜」
古賀がトレーを片付けながら言う。
「そうだな。六月以来か」
咲太はグラスを拭きながら、少し笑みを浮かべた。
「みんなそれぞれ忙しかったからなぁ、僕なんかほとんど麻衣さんに勉強見てもらってた」
「なるほどな……」
「結構スパルタ寄りでさ。模試B判定以上出るまでデート禁止ってルールがあってな……」
「ちょっと想像つくな……」
咲太が肩をすくめ、少し間をおいてこちらを見た。
「そういう岸和田は?夏休みどうしてたんだ」
「んー……そうだな。豊浜とか、づっきーとか、大津とか浜松さんとかと、よく一緒にいたな」
「え?」
古賀が目を丸くする。
「ちょっと待ってきっしー先輩、それメンツ濃くない?」
「お前、大津と浜松さんと知り合いなのか?」
咲太が軽く眉を上げた。
「ああ。大津とは同じクラスで、浜松さんもその繋がりで紹介されてな。二人ともスポーツ推薦だけど、受験に必要な勉強を見てたんだ」
「なるほどな、お前らしいな」
咲太は納得したように頷く。
「気づけば“勉強会の介添え人”だな、岸和田」
「まぁ、教えてるつもりが、自分の復習になってるだけだよ」
「そういえば!」
古賀がトレーを抱えたまま、ぱっと顔を上げた。
「この前、平塚で会ったよねきっしー先輩。あの時も、大津先輩と浜松さんの試合、見に来てたんでしょ?」
「ああ、そうだったな。偶然だったけど驚いたよ」
「うん!まさか海辺で先輩に会うとは思わなかった〜。あのあと、浜松さんにちょっと話しかけたらめっちゃ丁寧だった」
「だろ。浜松さん、見た目もクールで礼儀正しいからな」
咲太が興味深そうにグラスを置く。
「お前ら、そういう繋がり増やすのうまいよな」
「うまいっていうか、流れでそうなっただけだよ」
「その“流れ”が青春っぽいんだって!」
古賀がにやにや笑う。
「それにきっしー先輩、豊浜さんとかとも一緒なんでしょ?女子に囲まれて勉強会とか、完全に勝ち組じゃん!」
「……古賀が言うとなんかネタに聞こえる」
「えー?実際モテ期なんじゃないの?」
「モテ期っていうか、“質問され期”だな」
「なにそれ!」
三人で笑い合うと、店の外のガラス越しに、夏の夜風が少しだけ流れ込んできた。
そのとき、ドアベルが軽く鳴った。
「……あれ?」
俺が思わず声を漏らすと、咲太も気づいて顔を上げた。
「蓮真さん、こんばんは」
花楓ちゃんがぱっと笑顔になる。
その隣で微笑んでいるのは、鹿野さん、花楓ちゃんの友達だ。
「花楓どうしたんだ?それに鹿野さんも」
咲太が言うと、花楓ちゃんは両手を後ろに回してにこにこしながら言った。
「麻衣さんに“ちゃんとバイトしてるか見てきて”って言われたの」
「おい、なんだそれ……完全に監視任務じゃないか……」
咲太が額を押さえると、鹿野さんが穏やかに笑う。
「こんばんは、岸和田さん。お久しぶりです」
「鹿野さん。……ほんとに久しぶりだね」
「前に藤沢駅でお会いした以来ですよね」
「そうだね。咲太の監視ついでにごはんでもどうぞ」
「岸和田、お前なぁ……」
「じゃあ、お兄さん、おすすめお願いします」
鹿野さんが咲太に穏やかに笑いながら言うと、花楓ちゃんも嬉しそうに頷いた。
「ハンバーグプレートお願い、お兄ちゃん」
注文を終えて席を離れると、古賀が小声でつぶやく。
「なんか……家庭訪問みたいですね」
「ほんとだな」
「……桜島先輩の命令って言われたら、先輩の妹さんも逆らえないよねえ」
咲太が注文を受けてしばらくして、厨房の奥からフライパンの音が響いた。
焼き上がるソースの匂いが店内に広がる。
俺はハンバーグプレートを二人分トレーに載せて席へ運ぶ。
「お待たせしました、ハンバーグプレートです」
「わぁ……すごくいい匂い!」
花楓ちゃんがぱっと目を輝かせる。
「蓮真さんが作ったんですか?」
「厨房は別の担当だよ。俺は運ぶ専門」
「でも運び方、プロっぽいですね!」
「褒め方の方向性が斬新だね……」
「ふふっ」
鹿野さんが小さく笑った。
「岸和田さん」
「鹿野さん、急に改まってどうかした?」
「いえ……少しお話があって」
鹿野さんが花楓ちゃんと顔を見合わせ、微笑んだ。
「来月、横浜でスイートバレットのライブがあるんです」
「うん。豊浜とづっきーのやつだろ?この間二人から聞いたよ」
「私たちも行く予定なんです」
花楓ちゃんが身を乗り出す。
「それでね、蓮真さんも一緒にどうかなって」
「え、俺も?」
「はい!のどかさんきっと喜ぶと思いますし、卯月さんも、“きっしー来てくれたらがんばれる気がする”って言ってました」
「……俺、そんなに影響力あるのか?」
「ありますよ」
鹿野さんが穏やかに頷いた。
「見ていてくれる人がいるって、それだけで違うと思います」
俺は少し考えてから、静かに答えた。
「……じゃあ、行こうかな。二人がどんなステージを見せるのか、ちゃんと見届けたいし」
「やった!」
花楓ちゃんが両手を上げて喜ぶ。
「じゃあ決まりですね!三人で行きましょう!」
「三人?」
「はい!私とこみちゃんと蓮真さん!」
「なんか構図が不思議だな……」
鹿野さんが小さく笑った。その笑顔には、どこか柔らかい余韻があった。
カウンターに戻ると、咲太が軽く声をかけてきた。
「岸和田、お前なんだかんだで忙しいな。バイトに勉強に、ライブ観戦か」
「まぁ、そうだな」
「流石は優等生、余裕あるな」
「別に余裕があるわけじゃねえよ」
グラス越しに夜の街を見やると、ガラスに映る照明が小さく滲んでいた。
八月二十八日
夏の光が少しだけ和らいだ午後。蝉の声もまばらになり、カフェの窓の外では入道雲がゆっくり形を崩していた。
机の上に、色鮮やかな小袋が三つ並んでいる。
「これ、フィリピンのチョコ!、こっちはマンゴークッキー!」
嬉しそうに並べているのは、大津と浜松さんだった。
「お土産、わざわざありがとな」
「いいよいいよ!いつも応援してもらってるお礼だから!」
大津は日焼けした腕を組みながら笑う。
「現地、すっごく暑かったけど、海の色が日本と全然違うんだよ」
「真っ青で、砂も白くて……」
浜松さんも思い出すように目を細めた。
「でも湿気は日本よりひどくて、夜も寝苦しくて……」
「そうそう!あと、現地のコートの砂が重くてさ、足が取られるの」
「でも二人とも、表情が前より明るいな」
「でしょ? 試合は三勝二敗だったけど、いい経験になった!」
「“海外でも通用する感覚”が、少しだけ見えた気がする」
浜松さんの声には、以前より確かな響きがあった。
机の上に広げたノートには、再び「英語長文」「世界史」の文字が並ぶ。
現地での試合を終えたばかりとは思えない集中ぶりだった。
「夏帆、“英単語テスト”いける?」
「うん!」
「大津も復習大丈夫か?」
「余裕!」
二人の息がそろっていた。まるでコート上の掛け声のように。
「……ほんとに、いいチームだな」
俺が呟くと、二人が同時に顔を上げた。
「チームって、私たち三人のことでしょ?」
大津が笑う。
「岸和田くん、勉強では完全にコーチだし」
「いやいや、俺はただの記録係だろ」
「でも、見てくれてるから頑張れるんだよ」
浜松さんの声は柔らかく、それでいて真っすぐだった。
「……ありがとう。そう言ってもらえるなら、もう少しだけ厳しい問題を出すか」
「えぇ〜!」
大津が笑い、浜松さんが肩をすくめる。
そのあと、三人で例のチョコを分け合った。
パッケージには、色鮮やかな海と太陽のイラスト。
「ちょっと南国っぽい味する!」
「うん、甘いけど、なんか明るい」
そんな感想がこぼれるたび、夏の終わりが少し遠のいた気がした。
窓の外では、日がゆっくりと傾いていく。
ページをめくる音と、三人の笑い声が、静かなカフェの午後に小さく溶けていった。
九月一日
夏の名残を残した風が、まだ少しだけ熱を帯びていた。
始業式を終えて校舎を出ると、昇降口のあたりで国見と双葉に出会った。
「お、蓮真。なんか焼けたな」
「そうか? まぁ確かに海に行く機会は多かったけどな」
「なるほどな。俺もこの夏、ほぼ外だったから」
国見はタオルで首筋を拭いながら、いつものように明るく笑った。
「消防士の試験、今月一次なんだ。筆記と体力。で、来月二次」
「忙しそうだな」
「部活もあるしな。バスケ部、引退試合までは手伝ってんだ」
「後輩の育成か?」
「そう。最近だと加西っていう一年のデカいやつが活躍しててさ」
「ああ、190センチぐらいあるやつだろ。一学期の時廊下ですれ違ったけど、存在感すごかった」
「そうそいつ。本当頼もしいよ」
国見は満足そうに笑った。
「俺が卒業しても、あいつらならやっていけるって思えるな」
国見は満足そうに笑った。
「……らしいな」
横で聞いていた双葉が、ふっと笑う。
「結局、国見ってそういうところがいいんだよ」
「褒めてんのか?」
「半分皮肉」
「おい」
国見が苦笑しながら、俺の肩を軽く叩いた。
「ま、俺は俺で頑張るわ。双葉も蓮真も勉強頑張れよ!じゃ、部活行ってくる」
そう言って、タオルを首にかけたまま廊下の向こうに消えていった。
残された静けさの中で、双葉が俺の方を見た。
「……で。岸和田のほうは、どうだったの? 夏」
「まあ、いろいろあったよ」
「“いろいろ”って、夏休み前に話した思春期症候群の話でしょ」
その言葉に、俺は少しだけ笑った。
「鋭いな」
「岸和田が静かになるときって、大体そういうときだから」
「……浜松さんの件、無事に解決した」
双葉の表情がわずかに和らぐ。
「そう。よかった」
「正直、どうなるかわからなかった。でも、あの二人がちゃんと自分たちで歩幅を合わせたから、俺の出番はそれで終わりだった」
「それでいいのよ。岸和田の役目は“介添え”でしょ。解決するのは本人たち」
「……ああ。改めてそう思った」
しばらく、蝉の声だけが風の隙間を埋めた。
「……ありがとうな、双葉」
「ん?」
「お前に話を聞いてもらったから、あの仮説を立てられた。感謝してる」
双葉は少しだけ目を伏せて、手帳を閉じた。
「私はただ、データを整理しただけ」
「それでも、助かった」
「……ほんと、岸和田って“特異点”だね」
「また特異点扱いかよ……俺はただの通りすがりの記録者だよ」
「言うようになったね」
そう言いながら、双葉は肩に掛けたトートバッグを持ち直した。
「また物理実験室か?」
「うん。今日から文化祭で使う実験器具の動作確認を始めるつもり」
「まだ九月になったばかりだろ、もう文化祭の準備に入ってるのか」
「文化祭は十一月だけど、推薦と模試で十月は潰れるからね。九月中にデータを取っておきたいの。今年は“光の干渉”と“音波実験”をテーマにする予定だから、調整に時間がかかるんだよ」
「なるほどな……」
「実験もデータも、受験勉強の一部みたいなものだよ。どっちも“確認と検証”だから」
そう言って、少しだけ白衣の袖を直した。その仕草が、どこか彼女らしかった。
「じゃ、私は顧問に、実験器具の貸し出し申請出してくる」
「了解。……頑張れよ」
「岸和田もね。今度の模試もちゃんとA判定取り続けなよ優等生」
「わかってるって」
肩越しにそう言い残し、双葉は廊下の奥へと歩いていった。
残された廊下には、午後の日差しが傾いていた。
俺はタブレットを開き、短くメモを残す。
> 観察記録:九月一日 思春期症候群・浜松夏帆 寛解確認済
> 協力者:双葉理央(科学部・展示準備前倒し)
季節は変わる。けれど、俺の観察のページは、まだ続いていく。
物語解説
今回のお話では、蓮真たちが、勉強会という名のささやかな日常を通して、それぞれの“次の地図”を描き始める姿を描きました。
みなとみらいでの笑い声も、図書館での静けさも、どこか過ぎゆく季節の匂いがして、それが今の彼らの青春そのものなのだと思います。
明るく自由に見える卯月、努力家ののどか、そして観察者として寄り添う蓮真。三人の関係は、軽やかなようでいて、それぞれが少しずつ“自分の居場所”を確かめていく物語になりました。
一方で次回からは、水面下で、静かに新しい“思春期症候群”が動き始めます。誰が発症者なのか今はまだ明言しませんが、“観察”という行為が、誰かを助けるためだけでなく、自分自身を見つめ直すことにもつながっていく。
そんな蓮真の立ち位置が、より深く揺さぶられることになります。次回もぜひお楽しみください。
蓮真は最終的にどちらを選ぶと思いますか?
-
豊浜のどか
-
広川卯月