青春ブタ野郎はパラレルスプリングの夢を見ない 作:もドえラん
九月八日
放課後の藤沢の図書館。
夏の名残をほんのり残した風が窓から入り込んでいた。
「岸和田、こっち空いてるよ!」
声の方を見ると、大津が手を振っていた。
その隣には浜松さん。白いカーディガンを羽織り、髪が光を受けて揺れている。
「二人とも、早かったな」
「今日はビーチバレーの練習休みだったから」
大津が笑う。
「私も授業終わりにまっすぐ来ちゃったから」
浜松さんもペンケースを出しながら言う。
「フィリピンから帰ってもう二週間か」
「うん。時差ボケもだいぶ取れたよ」
「私はまだ宿題の時差ボケ残ってる」
「それはただの怠け癖だよ美凪ちゃん」
浜松さんが即答する。
「岸和田くんも何か言ってよ」
「いや、俺も同意見だな」
「ひどっ」
三人の笑い声が小さく響く。机の上には、英語、現代文、数学の参考書が並んでいた。
「じゃ、今日も模試対策ってことで」
「了解!」
大津が鉛筆をくるくる回す。
しばらくして、浜松さんがノートを見せてきた。
「ここの英文、“since”の使い方がいまいち分からなくて」
「“〜以来”と“〜だから”の両方ある。ここは後者。文脈で理由になってる」
「なるほど……そう読むんだ」
「そう。あと、接続詞の“because”に置き換えられるか試すと分かりやすい」
「へぇ……覚え方が合理的だね」
大津が横からのぞき込み、「勉強法が理系っぽい」と笑う。
「どっちかって言うと“観察者系”だね」
浜松さんが冗談めかして言う。
「やめてくれ、その呼び方定着しそうで怖い」
「岸和田くん、いつも冷静に見てる感じするから」
笑いながらも、手元のペンは止まらない。
大津は数学のプリントを広げ、浜松さんは社会のグラフ問題に取りかかっている。それぞれ違う科目を進めながら、合間に質問が飛び交った。
「浜松さん、そのグラフ、平均値と中央値逆になってる」
「あ、ほんとだ。気づかなかった」
「すぐ修正できるのすごいな」
「試合でもトスずれると、すぐ感覚で直すから」
「勉強とスポーツ、やっぱ通じてるんだな」
「ねえ岸和田、“努力が形になる瞬間”ってどんな時だと思う?」
大津が急にそんなことを言い出した。
「……結果を見て納得できた時、かな」
「うわ、真面目〜」
「でも分かる」浜松さんが頷く。
「努力しても、すぐに成果が出るわけじゃないけど、続けてると“変わった”って思える瞬間がある」
「それ今の浜松さんが言うと説得力あるな」
「そう?」
「遠征でも、試験でも、ちゃんと形にしてるじゃん」
「……ありがとう、岸和田くん」
照れくさそうに笑うその表情は、前より少し柔らかかった。
気づけば夕陽が差し込み、ページの端が橙色に染まっていた。時計を見ると、閉館まであと十五分。
「じゃ、今日はこのへんで切り上げるか」
「うん、十分やったし!」
「二人ともありがとう。今日でまたペース戻せそう」
浜松さんがペンをしまいながら言う。
「そうだな。秋の模試に向けてもう一段ギア上げよう」
「了解、コーチ!」
大津が敬礼して見せる。
「ビーチバレーじゃねぇんだから」
三人で笑いながら、図書館をあとにした。
外の空はすっかり群青に染まり、街灯の灯りがぽつぽつと並んでいた。
「じゃあ、また今度ね」
「うん。また!」
「お疲れ二人とも」
秋の風が頬を撫でた。
それぞれの背中が、少しずつ違う方向へ歩いていく。けれど、三人をつなぐ歩幅はまだ同じだった。
九月二十日
——秋の入り口を思わせるような風が、海沿いの街をゆっくり通り抜けていく。
前日、模試を終えたばかりの俺は、少しだけ疲労を残した頭を抱えながら、横浜駅の構内を歩いていた。
行き先は、スイートバレットのライブ会場。
今日は、豊浜とづっきーがステージに立つ日だ。
会場の前には、開演を待つファンの列ができていた。スタッフの掛け声、ライトの調整音、そして潮風の中に混じる香水の匂い。
いつもの静かな勉強会とはまるで違う空気だった。
チケットを確認して客席に入ると、照明が青く揺れていた。俺は中段の席に腰を下ろし、深く息を吸った。
昨日の模試で使い切った集中力を、もう一度取り戻すように。
やがて客電が落ち、暗闇の中に電子音が流れた。歓声が一斉に上がり、ライトがステージを照らす。
センターにはづっきー。
イントロが流れた瞬間、俺はその曲に聞き覚えがあることに気づいた。
夏休みのある日、図書館帰りに彼女がイヤホンを片方だけ貸してくれたとき聴かせてくれた、あの曲。
タイトルは「超音波のメロディ」
づっきーの声が響く。
> 聴こえないメロディ響かせて
> 私たちは巡り合ってきた
その歌い出しが、会場全体を包み込んだ。
透き通るような高音が、まるで空気の粒に触れるみたいに広がっていく。音響の波が胸の奥に届くたび、心臓の鼓動がリズムを刻む。
スクリーンに映る光の演出が、まるで水面の反射のように揺れていた。
五人のメンバーが立ち位置を入れ替えながら、手を伸ばす。
だが、気づいた。本来七人のはずのステージに、二人の姿がない。
最初は演出かと思った。だが曲が進んでも、その“空白”は埋まらなかった。
編曲もダンスも違和感なく完成されているのに、どこかでバランスが欠けている。その不自然な静けさが、逆に強く印象を残した。
づっきーはセンターで笑顔を絶やさない。その隣で、豊浜ものびやかに手を伸ばす。
けれど、その笑顔の奥に、一瞬だけ緊張の影が走った気がした。
「……あれ、メンバー少なくない?」
隣の席の鹿野さんが、小声でつぶやく。
花楓ちゃんが答える。
「うん。たぶん、何か事情があるんだと思う」
ステージの照明が赤から白へ変わる。
づっきーのソロパートが始まる。
> 透き通ってゆけば大人になるの
> たぶん違うと答えてくれた君へ
その言葉が、不意に胸の奥でひっかかった。
まるで何かを予告するような、透明な痛み。
最後のサビで、五人の声が重なった。観客の手が揺れ、ステージの光がひとつになる。そしてアンコールの前、豊浜がマイクを握った。
「今日も、こうしてここに立てることが、当たり前じゃないんです」
その声は少しだけ震えていた。
眩しいライトの中で、欠けた二人の位置だけが、まるで記憶の空白みたいに残っていた。
拍手が止んでも、俺の耳の奥ではまだあの歌声が響いていた。
——聴こえないメロディ
それは、もしかしたら“これから聴こえなくなる”何かの前触れなのかもしれない。
ライブが終わると、会場内はまだ熱気の余韻に包まれていた。スタッフの案内で客席がゆっくりと動き出し、ロビーでは恒例の握手会の列が形成されていく。
「すごかったね……!」
鹿野さんが頬を紅潮させながら言う。
「うん。卯月さん、ほんとキラキラしてた」
花楓ちゃんも微笑んだ。
二人はそのまま、づっきーの列へ向かっていった。俺は少し迷った末に、豊浜の列に並んだ。
周囲のざわめきの中、舞台裏からメンバーが次々と姿を見せる。汗を拭いながらも、ファン一人ひとりに笑顔で言葉を交わす姿が印象的だった。
俺の順番が近づくと、豊浜がこちらに気づいた。
「あれ、きっしー!」
思わず笑顔がこぼれる。
「来てくれてたんだ、ありがと」
「模試明けだったけど、ちゃんと観に来たよ」
「真面目だね。……でも、嬉しかった」
彼女の声はステージ上よりもずっと穏やかで、少しだけ息を残したままの余韻があった。
「今日はすごかったな。完成度もいつもより高かった」
「ありがと。でもね……いろいろあって、ちょっとバタバタだったんだ」
「……二人、いなかったもんな」
豊浜は一瞬だけ視線を落とした。
「うん。あの二人、今ちょっと休養中。詳しくは言えないけど」
「……そっか」
短い沈黙のあと、彼女は少し笑って言った。
「そうだ、水曜日、ライブもリハもお休みなんだ」
「そうなのか?」
「うん。ちょうどシルバーウィークだし、もしよかったらまた勉強会しない?」
「勉強会?」
「前みたいに、卯月ときっしーで。……ほら、受験生だし、次に向けて気合い入れ直そうかなって」
その言葉に、自然と頷いていた。
「いいな、それ。じゃあ、また横浜でやるか」
「うん、場所はきっしーに任せる」
「了解。じゃあ、今度は俺が“勉強会の幹事”ってことで」
豊浜が小さく笑う。
「……うん、頼りにしてる」
スタッフが次のファンを案内し始める。短い握手の時間の中で、豊浜は少しだけ声を落とした。
「ねぇ、きっしー」
「ん?」
「今日の『超音波のメロディ』、どうだった?」
「……すごく良かった。けど、どこか切なかった」
「そう言ってくれると思った」
その言葉の意味を問い返す前に、彼女は笑って次のファンへと向かった。
会場を出ると、夜風が少し冷たかった。鹿野さんと花楓ちゃんが合流して、づっきーのサイン入りカードを嬉しそうに見せてくる。
「蓮真さん、のどかさんに会えました?」
「ああ。少しだけ話したよ」
「いいな〜。……でも、なんか今日は“特別な空気”がありましたね」
「……そうだな」
その“特別”が何を意味するのか、まだ誰も分かっていなかった。
九月二十三日
シルバーウィーク最終日。
神奈川県立図書館の窓から吹き込む風は、まだ夏の熱を残しつつも、どこか乾いていて、カーテンを柔らかく揺らしていた。
英語長文に赤ペンを走らせていると、正面の席に影が落ちる。
「やっほー、きっしー」
顔を上げれば、豊浜が椅子を引くところだった。
「もう来てたのか」
「うん、早めに来ちゃった。せっかくだし一番乗り」
「時間きっちり守るタイプだと思ってたけど」
「今日は“やる気先行型”」
にやりと笑って、豊浜は参考書を机に広げた。
その直後、隣にさらに椅子が引かれる音。
「はいはい、私も参加〜」
づっきーが現れて、問題集をドサッと置いた。
「お、づっきーも来てたんだな」
「もちろん! “秋の勉強会”でしょ?」
「勝手にシリーズ化してるな」
「だって楽しかったもん、前の横浜回!」
「……まぁ、確かに悪くはなかったな」
「でしょ!しかも今日、図書館の隣でパンフェスやってたんだよ。誘惑のダブルブッキング!」
「お前、それ完全に目的逆だろ」
「え、どっちも真面目な活動だよ?」
「……どういう理屈だよ」
三人で顔を見合わせて笑い、自然と同じ席に腰を下ろす。
館内は祝日らしく人の出入りが多く、それでも窓際の席は穏やかな静けさを保っていた。
高い天井から光が落ち、野毛山の緑が窓越しにのぞいている。
「さて……午前の部、スタートしますか」
豊浜がペンを構え、づっきーが小さく気合を入れる。
数分も経たないうちに、ページの向こうから声が飛んでくる。
「これ合ってる?」豊浜がノートを差し出す。
「英語はお前の方が得意だろ。俺より見れるはず」
「ふふん、じゃあ先生役やるね。……ここ、過去形じゃなくて現在完了だよ」
「あ〜やっぱり!」
横からづっきーがノートを差し出す。
「じゃあ私は? この並べ替え問題、どっち?」
「ちょっと見せて」
豊浜がのぞき込み、「that節が主語だから、二番目が先だね」と教える。
「うん……まだ英語は苦手〜」
「じゃあ俺の出番だな」
俺は社会の問題集を広げる。
「づっきー。このグラフの読み取り、何を聞いてると思う?」
「えっと……人口の推移?」
「そうそう。で、問題は“なぜ”って聞いてる。理由まで書かないと減点だ」
「なるほど、じゃあ“日本語で答える”って書いてある問題は、“魂で答える”って意味?」
「違う。そう書いてあったら危ないやつだ」
「そっか〜、魂の提出はまだ早かったか〜」
「……ほんと、お前の発想どこから来てんだよ」
豊浜も便乗して、「数学は? この二次関数、グラフ描ける?」とづっきーに問いかける。
「え、ちょっと待って、y=ax²+bx+cの……」
「あー、ここは平方完成した方が早いぞ」俺が横から口を挟む。
三人で問題を回し合うようにして進めると、時間が経つのも早かった。
づっきーは頭を抱えつつも、ちょっと楽しそうに「やっぱり二人先生いると助かる〜」と笑っていた。
勉強仲間、そんなやり取りが続く。
それでも、不思議と集中は途切れなかった。
ときどき二人が机の下で足を組み替える音や、シャーペンの芯を替える小さな動作が耳に入って、逆に静かな時間を刻んでいく。
ただ……今日はどこか違った。
豊浜もづっきーも、声は明るいのに、ふとした沈黙が長い。笑っていても、その奥に小さな空白があるように見える。
やがて外が夕焼けに染まり始めた頃、豊浜が両腕を伸ばした。
「ふぅ〜……けっこう進んだ」
「私もー。……でも、眠くなるね」
づっきーが肩を回す。
「俺も。予定より早く終わったな」
「ほら、勉強仲間効果でしょ」
「それとパンフェスのご利益だね!」
「勉強の神様に謝れ」
嬉しそうに言う豊浜の声も、どこか張り詰めているように感じた。
図書館を出ると、夕風が少し冷たかった。
豊浜が近くの自販機でホットコーヒーを三本買って戻ってくる。
「はい、きっしーの分。卯月のも」
「ありがと。……でも、まだ暑いのにホット?」
「こういうのって、受験っぽくていいじゃん」
「ふふっ、確かに」づっきーも受け取り、指先を缶に添える。
笑顔で缶を差し出す仕草。けれどその笑顔の奥には、ほんの少しだけ“頑張りすぎ”の色が混じっていた。
「ライブの時も思ったけどさ」
俺が言うと、二人が同時に振り向く。
「最近、忙しいんじゃないか?」
「……まぁね。でも、ちゃんとやれてるよ」
豊浜が言い、づっきーが頷く。
「うん。だって、あのステージで歌えるの、やっぱり楽しいから」
“楽しい”という言葉の響きに、わずかに影が差す。
「私も、きっしーに“お疲れさま”って言われるの、地味に好きだし」
「……どんな理由だよ」
「だって、“がんばり見てくれてる人”って貴重なんだもん」
「お前……そういうこと素で言うなって」
「?なんで?」
豊浜が小さく咳払いして、空を見上げた。
「卯月、もう少しデリカシーって言葉を覚えようか」
「デリカシー?なんかおいしそう!」
「それ“デリカッセン”だ」
「えっ、親戚!?」
「違う!」
俺は思わず笑ってしまった。
空気がゆるみ、ほんの一瞬だけ、あの“空白”が薄れる。何も言わず、缶コーヒーを口に運んだ。苦味の奥に、焦げたような熱が広がる。
「……また、今度勉強会やるか」
俺が言うと、豊浜が少し驚いたように目を丸くした。
「え、いいの?じゃあ、秋っぽいとこがいいな」
「私、紅葉始まってるとこがいい!」
づっきーが嬉しそうに言う。
「秋といえば……」
ふと俺が言葉をつないだ。
「今度、うちの高校で体育祭あるんだよ」
「へぇ、そうなんだ。いつやるの?」
豊浜が興味深そうに首をかしげる。
「来月の四日」
「体育祭かぁ……あたし、去年行ったなぁ。咲太に借り物競争で連れ出されてさ」
「ああ、あれか。目立ってたよなぁ、豊浜」
「えっ、きっしーも見てたの?」
「まあそりゃあ、金髪にメイクもしてるのに、着てたのは制服だったからな。そりゃ目立つよ」
「うわー、恥ずかしいそれ」
豊浜が頬を赤らめて笑う。
その横で、づっきーが勢いよく身を乗り出した。
「体育祭!私も見たい!」
「四日はライブあるでしょ?」
豊浜が苦笑しながら突っ込む。
「あっ、そうだった! 完全に忘れてた!」
「ほんと、スケジュール管理どうなってるのよ」
「だって体育祭って聞いたらテンション上がるじゃん!」
三人の笑い声が、みなとみらいの風に溶けていく。
街灯が少しずつ灯り、夏の終わりと秋の始まりが静かに重なっていた。
手の中の缶コーヒーの温もりだけが、静かに残っていた。
九月二十七日
新宿でのバイトを終え、藤沢に戻ったのは夕方六時を少し過ぎた頃だった。
空は茜色から群青に変わる途中で、潮の匂いを含んだ風が駅前を抜けていく。
改札を出て歩き出したそのとき、背後から声がした。
「岸和田くん?」
振り向くと、買い物袋を提げた麻衣先輩と、その隣に花楓ちゃんがいた。
「どうも麻衣先輩、お久しぶりです。今日はどちらに?」
「咲太の夕飯を作るために、花楓ちゃんと買い出しよ」
花楓ちゃんは軽く会釈して、「こんにちは、蓮真さん」と笑った。
「咲太、最近どうです?」
「相変わらずよ」
「お兄ちゃんも頑張ってます」と花楓ちゃんが少し誇らしげに言う。
麻衣先輩がふと微笑みを浮かべた。
「そういえば、のどかから聞いたわ。先週、ライブを見に行ってくれたそうね」
「ああ、はい。花楓ちゃんと一緒に」
「とっても嬉しそうに話してたのよ。“きっしーが来てくれて、安心した”って」
「……あいつ、そんなこと言ってたんですか」
「ふふ、言ってたわ。あの子、あなたのことになると素直だから」
花楓ちゃんが小さく頷く。
「卯月さんものどかさんも、すごくかっこよかったです」
「ありがとう。のどかたち、いつも本当に頑張ってるから」
麻衣先輩の声には、どこか誇らしげな響きがあった。
そして少し間を置いて、麻衣先輩は俺に問いかけた。
「岸和田くんの受験勉強は順調そう?」
「ええ。豊浜のおかげでだいぶ進んでます」
「のどかが?それは珍しいわね」
「本人も真剣ですから」
「……そう。のどかのこと、ありがとう」
それは、ふと零れ落ちたような言葉だった。
正面からではなく、横顔のまま。
夕暮れの街のざわめきに紛れてしまいそうなほど小さく。
けれど、その一言の重みだけは確かに胸に残った。俺は何も返さず、そのまま受け止めた。
麻衣先輩は、ふと思い出したように口を開いた。
「そうだ、ちょうどよかったわ。撮影先でいただいたお菓子があってね」
そう言って、紙袋の中から小箱を取り出し、俺に差し出す。
「受験勉強、大変でしょう? ちょっとした労いよ。甘いものでも食べて、気分転換しなさい」
「……ありがとうございます。いただきます」
箱を受け取りながら答えると、麻衣先輩は小さく頷いた。
「そういえばね」
と、麻衣先輩が柔らかく続ける。
「来月から、私が主演の朝ドラが始まるの。息抜きに見てみて」
「『おかえり』っていうタイトルのやつですか?」
「ええ。撮影が地元の神奈川ロケなの。だから、もしかしたらどこかで岸和田くんも映り込むかも」
「いや、それはないですよ」
「分からないわよ?」と、麻衣先輩は意味ありげに笑った。
花楓ちゃんもくすっと笑い、「私、ちゃんと見ます」と言う。
その穏やかな空気の中で、麻衣先輩が買い物袋を持ち直す。
「そろそろ行きましょうか、花楓ちゃん」
「はい」
「じゃあ、岸和田くん。風邪ひかないように」
「ありがとうございます」
二人と別れ、俺は商店街を抜けて家へ向かう。
背後からは、花楓ちゃんの明るい声と、麻衣先輩の笑い声が微かに聞こえた。
秋の風は、夏よりも少し冷たくなっていた。けれど、手の中に残る紙箱のぬくもりだけが、確かな温度を持っていた。
九月三十日
放課後、バイト始めの休憩室。今日は古賀と国見とシフトが同じだ。
制服に着替えていると、国見が声をかけてきた。
「おはよう蓮真、受験勉強は進んでるか?」
「まぁ順調だよ。国見は?消防士の試験どうだった?」
「この前一次試験突破したよ。来月には二次試験で自己PRと面接と体力測定があってさ。やれることは全部やってる」
「そうなのか、良かったな。お互い頑張らないとなあ」
真剣な目つきに、思わずうなずく。
そのやり取りを、古賀がちょうど横で聞いていた。制服のポケットを直しながら、ぽつりとつぶやく。
「あぁ先輩たちみたいに、あたしも進路のこと本格的に考えなくっちゃなぁ」
「大丈夫だよ。古賀ならなんとかするだろ? むしろ今からちゃんと進路のこと考えてて偉いと思うぞ」
「きっしー先輩、そういう時、優しいよね」
「なんだ急に」
「だって……先輩と違って、揶揄ってこないし、随分前だけど、誕生日にシュークリーム買ってくれたりするし」
言いながら、古賀は慌てて手を振った。
「べ、別に変な意味じゃないから! 先輩として、ね!」
俺は思わず苦笑する。
「まぁ、古賀と咲太のやりとりも面白いけどな。咲太のからかいに古賀がムキになって返すの、見てて飽きないし」
「確かに」
国見も横から同意する。
「ちょ、国見先輩まで!」
古賀がぷくっと頬を膨らませる。その姿が妙に可愛らしくて、俺は視線を外した。
更衣室を出る直前、古賀がふと思い出したように言った。
「そういえばさ、文化祭の出し物、まだ決まってなくて揉めてるんだよね」
「へぇ、何やる予定なんだ?」
「カフェか謎解きゲームかで分かれててさ。カフェ派が玲奈ちゃん。で、謎解きゲーム派があたしの班」
「古賀はどっちなんだ?」
「もちろん謎解きゲーム!でね、その企画出したのが奈々ちゃんなんだよ」
「……米山さんか」
「うん!ゲームとか謎解きすごい得意でさ、“プレイヤーの感情を動かす謎がいい”って言うの」
「へぇ、米山さんゲーム得意なんだな」
「そうなの!しかも謎を解くたびに小さなストーリーが進む形式にしたくて、めっちゃ熱く語ってた。あたし、それ聞いて“やっぱこれやりたい!”って思っちゃったんだよね」
「でも香芝さんは“カフェの方が映える”派なんだろ?」
「そうそう。“インスタ映えしない文化祭なんて文化祭じゃない!”って言ってた」
「……イマドキ女子って感じだな」
「でしょ?だからどっちも一理あってさ。クラス会議が毎回カオスなんだよ」
古賀は苦笑いを浮かべながらも、どこか楽しそうだった。
その顔を見て、俺は少し安心する。
「まぁ、どっちになっても、古賀は中心で動いてそうだけどな」
「うっ……それは否定できないかも」
「だろ?」
「……きっしー先輩、そういう時空気読むのうまいよね」
「観察ばっかしてるから勘だよ。別に空気読むのが得意なわけじゃない」
「そういえばさ」古賀が話題を切り替える。
「来月の体育祭、奈々ちゃんと別の組になっちゃってさ」
「そうなのか。それは残念だな」
(うちの高校では、必ずしも同じクラス=同じ組とは限らない。競技バランスの都合で、去年の俺みたいに別組になることもある)
「せっかくだから一緒に出たかったな〜まぁ応援席では隣同士だからいいけど」
「ほんと仲いいな二人とも」
「うん。奈々ちゃんと一緒に、文化祭も体育祭も、全力で楽しまないと!」
そんな和やかな雰囲気のまま、俺たちはホールへ向かった。
ピークタイム前の慌ただしさの中、古賀が珍しくオーダーを取り違えた。テーブルに料理を置いた瞬間、客の表情が曇る。
「あの、これ頼んだやつじゃ……」
古賀の顔が真っ青になるより早く、俺が一歩前に出た。
「申し訳ございません。ただいま正しい商品をすぐにお持ちいたします」
即座に皿を下げ、厨房に戻ると同時に正しいオーダーを確認。すぐに差し替えを伝えて準備させる。
客のテーブルに戻った時には、古賀がまだ頭を下げていた。俺は代わりに料理を置きながら笑顔を作る。
「お待たせしてすみません。こちらでお間違いございませんか?」
客がうなずき、場が収まったところで、古賀はようやく安堵の息をついた。
「……助かった、ありがとうきっしー先輩」
裏に戻った瞬間、彼女が小声で言う。
「たまたまだよ」
そう返すと、古賀は首を振った。
「…やっぱり先輩、優しいね」
言葉と一緒に、ほんのり頬を赤くしている。その表情を見た瞬間、俺も少しだけ気恥ずかしくなって視線を逸らした。
バイトを終え、みんなで休憩室を出る。
「じゃあ俺、明日もバスケの部活あるから早めに帰るわ。お疲れ!」
国見がそう言って軽く手を振り、駅の方へと歩いていった。
残ったのは、俺と古賀。夜風に少し汗が冷やされる。
「……国見先輩、忙しそうだね」
古賀がぽつりとつぶやく。
「ああ。でもあいつなら大丈夫だろ。ちゃんと努力してるし」
「うん」
そう言ったきり、古賀はしばらく黙って歩く。街灯に照らされた横顔は、昼間よりも大人びて見えた。
やがて、古賀が小さく笑って俺の方を見上げる。
「……きっしー先輩、やっぱり頼りになるなぁ」
「そうか?」
「だって、今日も助けてもらったし。先輩みたいに冗談でからかわないで、ちゃんとフォローしてくれるから」
そう言った古賀は、すぐに「もちろん先輩もいざって時頼りになるけど!」と慌てて付け加える。
俺は思わず笑って肩をすくめる。
「まあ、古賀と咲太のやり取りは見ててほんと飽きないしな」
「……そう?」
古賀は少し照れながらも笑い、歩調を合わせてきた。
その横顔を見ながら、俺は視線をそらす。ほんのり赤くなった頬に、からかう言葉は浮かばなかった。
登場人物紹介
名前 梓川花楓『あずさがわかえで』
身長 163cm
誕生日 11月25日
梓川咲太の妹で、中学時代にクラスメイトからSNSでいじめを受け、“心の痛みが体に痣として現れる”という思春期症候群を発症しました。
強いストレスによって解離性障害を起こし、家族や過去の記憶を失ってしまった彼女は、別人格の「かえで」として生きるようになります。
その後、咲太の支えを受けながら少しずつ日常を取り戻していきますが、咲太が高校二年の十一月二十六日、本来の人格「花楓」に戻っており、「かえで」の存在は静かに消えてしまいます。現在の花楓は、ややおとなしく穏やかな性格をしており、かえでほどではありませんが、今でもお兄ちゃん想いな一面を持っています。
かえでの願いを叶えるため、咲太と同じ峰ヶ原高校を目指して受験勉強をし、体調を崩してしまったものの定員割れにより合格となりますが、咲太の紹介で卯月と出会い、卯月が通う通信制高校に進学することを決意し、通信制高校に進学します。
蓮真とは、卯月を通じて知り合い、初めは少し人見知りしていたものの、蓮真の穏やかで丁寧な性格に安心感を覚え、次第に自然に話せるようになっていきます。卯月やのどかのライブに一緒に出かけることもあり、音楽や日常の小さな出来事を通して、少しずつ距離を縮めていきます。
蓮真はかえでだった頃の彼女を知りませんが、花楓の笑顔の奥に、どこか懐かしさのようなものを感じています。
二人の関係は、“失われた時間を知らぬまま、優しさでつながる”という静かな絆として描いています。
蓮真は最終的にどちらを選ぶと思いますか?
-
豊浜のどか
-
広川卯月