青春ブタ野郎はパラレルスプリングの夢を見ない 作:もドえラん
十月六日
夜の八時。羽田空港のターミナルは、出発を待つ人々のざわめきで静かに満たされていた。
大きなガラス窓の向こうに、滑走路のライトが一直線に並び、夜気を淡く照らしている。
俺は、カタールへ向かう大津と浜松さんを見送りに来ていた。二人はすでにチームの集合場所で、代表ジャージ姿のまま荷物をまとめている。
淡いグレーと水色のウェアが、夜の照明の下で少しだけ光って見えた。
「岸和田、来てくれたんだ!」
大津がスーツケースを押しながら手を振る。
その隣では、浜松さんが落ち着いた笑みを浮かべていた。
「二人とも、もうすぐ出発か」
「うん。いよいよ明日からカタールだよ」
「時差六時間、気温は四十度もあるんだって」
「それ、聞くだけでこっちが汗出るな」
大津が笑い、浜松さんが小さく肩をすくめる。
「でも、ここまで来たらもうやるしかないからね」
「浜松さん、緊張してる?」
「ちょっとだけ。……でも、美凪ちゃんが隣にいるから」
「え、私がリラックス要員!?」
「うん。いい意味で、ね」
浜松さんの冗談めいた声に、大津が照れくさそうに笑う。その自然な空気を見て、俺は少しだけ安心した。
「……そういえば、大津。世界選手権終わったらいつ帰るんだ?」
「十三日!そのまま羽田に着いて、直で学校行く予定」
「タフだな」
「うん、そう言われるの慣れた!」
「……ほんと、どこまでも大津らしいな」
その時、浜松さんが思い出したように口を開いた。
「そういえば、十日は美凪ちゃんの誕生日なんだよ」
「……そうなのか。知らなかった」
「うん。美凪ちゃんあえて言わないんだよね。“試合で勝つ方が記念になるから”って」
「なるほど。らしいな」
「でしょ?優勝できたら、それが最高のプレゼントになるって言ってた」
浜松さんの言葉に、大津が照れくさそうに笑って手を振る。
「ちょっと!そういうの言わないでよ!」
「え、もう言っちゃった」
「もう〜……でもまあ、間違ってないけどさ」
「……なら、余計に応援のしがいがあるな」
俺がそう言うと、大津は少し照れたように笑って、拳を軽く上げた。
その時、アナウンスが流れた。
“ドーハ行きQR813便にご搭乗のお客様は、まもなく搭乗口へお越しください。”
「じゃ、そろそろ行くね」
大津が手を差し出し、軽く拳を合わせてくる。
「岸和田も受験勉強、がんばりなよ」
「おう。優勝報告、期待してる」
「任せて!」
その隣で、浜松さんが軽く会釈した。
「見送りに来てくれて、ありがとう。……頑張ってくるね」
「こっちも応援してる。気をつけて行ってきて」
「うん、行ってきます」
二人はスタッフと合流し、ゲートへ向かう。
背中に背負った代表バッグのロゴが、ライトを反射して光った。
大津が最後にこちらを振り返って、手を高く振る。浜松さんも隣で、静かに微笑んで手を上げた。
見送りデッキ越しに、二人の姿がゆっくりと遠ざかる。滑走路の向こうでは、夜風に混じってジェットの低い唸りが響いていた。
俺は自販機で缶コーヒーを買い、ロビーのベンチに腰を下ろす。
ブラックの苦味が、少し冷えた胸の奥を温めるように広がった。
「……頑張れよ、二人とも」
ふと視線を上げると、夜の空港にはどこか特有の静けさがあった。離陸を待つ飛行機のライトが、遠くで瞬いている。
窓の向こう、二人を乗せた便の搭乗ゲートが閉じる。その光景を見届けながら、俺は小さく息を吐いた。
熱を追う者と、静けさを残す者。その境界に立っている気がした。
俺は缶コーヒーを飲み干し、ゴミ箱に入れたあと、ロビーをゆっくりと歩いた。
ふと、出発ロビーの柱の影に、見覚えのあるユニフォーム姿が目に入った。
「……あれ?」
代表ジャージの袖を軽く握りながら、出発ゲートの方をじっと見つめている少女がいた。
ショートボブに、背筋の伸びた立ち姿。年はまだ若そうだ。
胸のチームロゴには小さく“Hiratsuka BVC”とある。大津や浜松さんが所属しているクラブ名だ。
「大津と浜松さんのチームの子?」
思わず口に出した声に、少女がゆっくり振り向いた。切れ長の瞳がこちらを見て、わずかに警戒の色を見せる。
「……どなたですか?」
「岸和田蓮真。大津と浜松さんの友達だよ」
少女は一瞬だけまばたきをして、もう一度こちらを見た。
「……あの、大津先輩と浜松先輩の?」
「そう。さっきまで見送りに来てた。二人とも、もうゲートの向こうだな」
「そうだったんですね。……私、吉和樹里です。大津先輩と浜松先輩と同じチームでバレーやってます」
「HiratsukaBVC、だろ?ユニフォームで分かった」
「えっ、分かるんですか?」
「何度か試合、見に行ったことあるから」
そう言うと、彼女の表情が少し和らいだ。緊張が解けたのか、ジャージの袖を軽く整えながら、小さな声で言葉を続ける。
「お二人が海外に行くの、ちょっと実感わかなくて。だから、顔だけでも見ようと思って来ました」
「えらいな。こういうの、意外とできる人少ないのに」
「……そうですかね」
短く返して、また滑走路の方を見つめ直す。その横顔には、年齢以上の落ち着きがあった。
「お二人とは、どういう関係なんですか?」
吉和さんが小さく首をかしげる。声は落ち着いているけれど、どこか興味を隠せていない様子だった。
「大津とは同じクラスで、勉強を教えることが多くてな。浜松さんは、その流れで知り合った感じ。一緒に受験勉強の対策をしてる」
「……なるほど。じゃあ、けっこう仲良しなんですね」
「まあ、そういうことにしておくか」
冗談めかして言うと、彼女はわずかに口元を緩めた。少し警戒がほどけたみたいだった。
「じゃあ、岸和田さんも峰ヶ原の生徒なんですか?」
「ああ。三年だから、もうすぐ卒業だけどな」
「そうなんですね……。実は私、今度峰ヶ原を受ける予定なんです」
「そうなのか。じゃあ、後輩になるかもしれないな。……入れ違いになっちゃうけど」
「はい。でも、そう聞くとちょっと頑張らなきゃって思えますね」
「大津と浜松さんの影響?」
「それもありますけど……なんか、みんな同じ空の下で繋がってる感じがして」
「いい考え方だな」
彼女は小さく笑った。その笑顔は控えめだけど、真っすぐな光を持っていた。
「受験、応援してます」
「ありがとう。吉和さんも頑張れ。春の坂道、きっと気持ちいいぞ」
「はい。そうなれるように、ちゃんと練習も勉強も頑張ります」
照明の明かりが、彼女のショートボブの髪をやわらかく照らす。
そのあと、彼女はもう一度滑走路を見つめ、ゆっくりと頭を下げた。夜のライトが、彼女の横顔に柔らかく反射している。
俺はその背中を目で追いながら、心のどこかで確信していた。
——たぶん、今日この出会いは、偶然じゃない。
十月十日
昼の光がカーテン越しに柔らかく差し込み、机の上の参考書を照らしていた。
午前中は模試対策をしていたが、問題集を閉じたとき、ふとスマホの画面が目に入った。
画面の時計は、午後一時を少し回ったところ。時差を考えれば、カタールはまだ朝の七時前。ちょうど彼女が起きる頃だろう。
俺はペンを置き、LINEを開いた。
《大津、誕生日おめでとう》
送信してから数分も経たないうちに、既読がついた。すぐに返信が届く。
《ありがと岸和田!今ちょうど朝ごはん中》
《今日が準決勝なんだ。もうドキドキしてる》
《そっちはまだ朝だよな?寝れた?》
《そうそう。緊張して目が覚めちゃって。でも大丈夫、試合始まれば集中できるから》
《そういうところ、ほんと大津らしいな》
《浜松さんと一緒に頑張ってな》
少し間を置いて、スタンプが返ってきた。
「りょーかい!」と書かれた、笑顔のキャラクター。
続いてメッセージ。
《ありがとう岸和田。……なんか落ち着いた。終わったらまた報告するね!》
《楽しみにしてる。優勝したら誕生日プレゼント二重取りだな》
《うん、絶対勝つ! こっちは快晴だしね》
返信を見て、思わず小さく笑った。
窓の外では、秋の風が街路樹の葉を揺らしている。見慣れた午後の空は穏やかで、遠い砂漠の熱とはまるで対照的だった。
「……頑張れよ」
そう呟いて、俺は再びノートを開いた。ページの余白に浮かんだ小さな影が、どこか心地よく感じられた。
夕方。日が傾き始めた藤沢の街を抜け、俺はバイト先のファミレスへ向かっていた。
西の空がオレンジ色に染まり、看板のロゴが柔らかい光を反射している。
店に入ると、ちょうど更衣室から古賀が出てきたところだった。
「あ、きっしー先輩。今日一緒のシフトだね」
「おう。久しぶりに同じ時間帯だな」
「うん。来週も同じシフトだし、よろしくね」
「そうなのか。よろしくな」
「てかさ、やっと決まったよ。文化祭の出し物」
「お、決まったのか」
「うん、揉めに揉めたけどね。結局“謎解きゲームカフェ”になったの」
「折衷案ってやつか」
「そうそう。カフェ派と謎解き派でずっと平行線だったんだけど、“どっちも少し入れよう”ってことで」
古賀が嬉しそうに笑う。その横顔に、以前よりどこか柔らかい表情が浮かんでいた。
「それにね、折衷案になってから、玲奈ちゃんとも仲良くなってきたんだ」
「……香芝さんと?」
「うん。久しぶりに話してみたら意外と気が合って。最初は構えちゃってたけど、最近は普通に話せるようになった」
「そっか。それはよかったな」
言葉ではそう返しながらも、胸の奥に小さなざらつきが残った。
文化祭の話題を聞いた瞬間、なぜか脳裏に体育祭の日の米山さんの言葉が浮かんだ。
「文化祭も楽しめたらいいんですけどね……」
あの時感じた、ほんの一瞬の“ずれ”。空気がかすかに揺れたような、現実から半歩外れた感覚。
……気のせい、か。
自分にそう言い聞かせるように、エプロンの紐を結び直した。
「そういえば、きっしー先輩のクラスは何やるの?」
「写真展だよ。……俺が旅行先で撮った写真も何枚か展示されるんだ」
「え、きっしー先輩の写真? 見てみたい!」
「いや、そんな大したもんじゃない。こっそり撮った景色とか、偶然の瞬間とか、そんなのばっかりだよ」
「そういうの、好きかも。きっしー先輩らしい感じする」
「らしいってなんだよ」
「なんか、“静かなとこにも物語がある”みたいな」
「……詩人かお前は」
古賀がくすっと笑い、手にしたトレーを軽く掲げる。
「じゃ、きっしー先輩。ホールお願い!」
「了解」
店内に立ち込めるコーヒーの香りと、厨房の油の音。いつもと変わらない夜の始まり。
それでも心のどこかで、何かがゆっくりと動き出しているような気がした。
十月十一日
日曜の夕方、藤沢駅南口。
週末の人混みの中で、秋の風がやわらかく吹き抜けていく。日が沈みかけた街はオレンジ色に染まり、行き交う人々の影が長く伸びていた。
「……あ、きっしー」
小さな声に顔を上げると、改札の向こうで豊浜が手を振っていた。黄色のカーディガンにデニムスカートというラフな服装。
けれど、いつものような弾ける笑顔は、どこか少しだけ力が抜けているように見えた。
「待たせた?」
「いや、今来たとこ」
「出た、そのテンプレ……」
言葉の途中で小さく笑ったが、声がほんの少し掠れていた。
「事実だよ」
「ふふ、まぁいっか」
彼女がいたずらっぽく笑い、肩のバッグを持ち直す。その仕草もどこかぎこちない。
「……疲れてる?」
俺がそう訊くと、豊浜は一瞬だけ目を泳がせた。
「さっきまでライブだったから、ちょっと寝不足なだけ」
「そうか」
「でも、見に来てくれた人がすごく多くてね。楽しかったよ」
言葉ではそう言いながら、笑顔の奥にほんのり影が差す。それでも無理に明るく振る舞おうとしているのが伝わってくる。
ふっと話題を切り替えるように視線を豊浜は横へやった。
「……スイートバレット、二人辞めちゃうんだよ」
「そうなのか?」
「うん。二人、来年の三月に辞めるらしくて」
あえて軽い口調を装っているのが分かった。
「ケンカ、とか?」
「ううん、そうじゃない。片方は学業専念、もう片方は家庭の事情。どっちも納得できる理由だった」
「じゃあ……」
「……じゃあ、って言うなら、残ったあたしたちの方が納得できてないんだと思う」
笑っているのに、目だけが少し沈んで見えた。
「デビューから三年で武道館に行くって目標だったの。でも、メンバーが二人抜けるとなると、ファンも減るし、前みたいに盛り上がらないステージも出てくるかもしれない。なのに、あたしは『桜島麻衣の妹』ってだけで、他の子よりも注目されちゃう」
笑ってはいるけれど、声の奥に沈んだ響きが残っていた。
俺が言葉を探すより早く、豊浜はふっと息を吐き、無理にでも明るさを取り戻そうとするように顔を上げた。
「ま、でも落ち込んでても仕方ないんだけどさ」
わざと軽口めいたトーン。そして、思い出したように声を弾ませる。
「そういえばね」
豊浜が思い出したように口を開いた。
「来月の二日。大船駅の広場で、夕方スイートバレットのライブやるんだ」
「来月の二日か……ああ、その日、俺の学校の文化祭だな」
頭の中でカレンダーを思い浮かべながら答える。
「へえ、そうなんだ」
豊浜が軽く相づちを打つ。
「この間のスイートバレットのライブも良かったし……いい機会だな。行ってみたい」
「ほんと? じゃあ、ぜひ」
声は明るい。けれど、その奥に小さなざらつきが残っているのを、俺は見逃さなかった。
そして彼女は唐突に話題を変える。
「それときっしー、来月ヒマな日ある?」
「……どうした」
「ちょっと行きたいとこがあるの。一人じゃつまんないから」
そう言って笑う豊浜の顔は、いつも通りに明るい。けれど、その直前にふと視線を落とした仕草が、妙に心に残っていた。
俺は少しだけ間を置き、唇を尖らせてから言葉を足す。
「……お互い受験勉強で忙しいからな。でも、遊びすぎない程度ならいいぞ」
「ありがとう!じゃあちゃんと予定合わせてね」
「……了解」
笑顔に戻った豊浜。だけど、ほんの一瞬見えたためらいの影が、俺の胸に引っかかっていた。
その夜、帰り道を歩きながら考える。
——あの表情の理由はなんだろう。
ただの気のせいならいい。けれど、もしそうじゃないなら。
答えを知っているとしたら、やっぱり麻衣先輩だ。
先月会った時、麻衣先輩の「のどかのこと、ありがとう」という何気ない一言は、妙に心に残っていた。
あれは感謝だけじゃない。もっと奥に、豊浜にしか分からない過去を知っている人の響きがあった。
だからこそ、その後に渡された小箱のお菓子も、ただの労い以上に思えてしまった。
——麻衣先輩は、俺が知らない豊浜を知っている。
あの人なら、豊浜の過去も、俺の知らない部分も分かっているかもしれない。
俺はすぐに心の中で決めていた。
「……麻衣先輩に聞いてみるか」
《麻衣先輩、こんばんは》
少し間を置いてから、続けて送る。
《豊浜のことなんですが……少し気になることがあって》
既読がついた直後、返信が返ってきた。
《どうしたの?》
俺は迷いながらも打ち込む。
《今日、豊浜と会ったときに……一瞬だけ、すごく沈んだ顔をしていたんです。理由を聞く勇気はなくて。でも、ずっと気になってしまって》
しばしの沈黙。画面の上に「入力中」のマークが浮かんでは消える。
それが何度か繰り返されたあと、短い返事が届いた。
《岸和田君が気にするくらいなら、きっと放っておけないことなんでしょうね》
《……今度、会えない?直接話したほうがいいと思うの》
数秒後、続けてLINEが届く。
《ただ、今月は映画の撮影が少し立て込んでるの。それに、あなたも受験勉強があるでしょう?》
《だから、来月になっちゃうかもしれないけど……いいかしら?》
画面を見つめながら、俺は小さく息を吐いた。麻衣先輩らしい相手の時間までちゃんと考える言葉だ。
《もちろんです。麻衣先輩の都合に合わせます》
《ありがとう。詳しい日程が決まったら、また連絡するわ》
《はい。よろしくお願いします》
会話が途切れたあと、スマホを伏せた。窓の外では秋の夜風がカーテンを揺らしていた。
遠くで電車の音が響く中、胸の奥に静かな余韻が残る。
来月。その言葉が、少しだけ救いのように感じられた。今はまだ、焦らずに考える時間がある。
スマホを伏せて数分後、画面がふっと光った。大津、浜松さんとのLINEグループ。
《岸和田くん! やったよ!》
最初に送ってきたのは浜松さんだ。
続いて写真が一枚。コートの中央でトロフィーを掲げる大津。隣では浜松さんも満面の笑みを浮かべていた。
《決勝、フルセットまでもつれたけど、最後は気迫で押し切った!》
《誕生日の次の日に優勝とか、持ってるよね!》
数秒後、大津からもすぐにメッセージが届く。
《岸和田ー!優勝したぞー!》
《最高の誕生日の延長戦って感じ!》
思わず笑いながら返信を打つ。
《すごいな。まさにバースデーウィンだな。二人ともお疲れ様!》
すぐに既読がつき、絵文字つきの返事が返ってくる。
《ありがと!これで最高の誕生日になったよ!》
《こっちこそ、見送り行ってよかった》
《あの時の“頑張れよ”が効いたかもね》
《なら何よりだな》
短いやりとりなのに、画面の向こうから二人の声が聞こえるようだった。
「……ほんと、すごいな」
独り言のように呟きながら、俺はカーテンの隙間から夜空を見上げた。カタールの熱も、藤沢の秋風も、同じ空の下にある。
遠く離れた場所で、それぞれが自分の場所を掴んでいる。そのことが、なぜか胸の奥をじんわりと温めた。
机の上の参考書をもう一度開く。ページの白さが、少しだけ新しい光に見えた。
十月十三日
昼休みの教室。窓を少し開けていたせいで、金木犀の香りが風と一緒に入り込んでくる。
昼の光が机に差し込み、弁当箱の影を柔らかく落としていた。
「岸和田!」
顔を上げると、大津が教室のドアを開けて入ってきた。代表ジャージの上に学校のカーディガン、目の下にほんのりクマ。それでも目だけはやたら澄んでいた。
「おかえり、優勝おめでとう。お疲れさま」
「ただいま。ありがと!」
「今朝、羽田に着いた。シャワー浴びてそのまま来た」
「タフすぎるだろ」
「時差ボケなんて、体育座りしてれば直るでしょ!」
「そんな理屈は聞いたことない」
二人で笑う。笑い終わると、大津はペットボトルの水をひと口飲んで、少し真面目な顔に戻った。
「ねえ、岸和田。頼みがあるんだけど」
「なんだ」
「スポーツ推薦の学力試験、今月末にあるんだ。英語と国語、あと小論の勉強会またやってほしい。夏帆も一緒に」
「いいぞ。どの教科からやる?」
「英語を厚め。文法の穴つぶしと長文の時間配分。国語は現代文の記述、ちょっとバランス崩れてるから見てほしい。小論は構成のテンプレ作り直し」
「了解。じゃあいつもの図書館で土曜の午前に一発。次の週は木曜の放課後と、日曜の午後。三回で仕上げよう」
「三回で行ける?」
「行けるよ。宿題は重いけどな」
「ありがとう岸和田。助かるよ!」
チャイムが鳴る。大津は立ち上がり、くるりと背中を向けてから振り返った。
「午後、保健室行って仮眠してくる。やっぱりまだ疲れが残ってるから」
「今は休んどけ。無理は禁物だから」
短い言葉に、カタールの砂の熱がまだ少し混じっていた。彼女が校舎に消えるのを見送って、弁当のふたを閉める。
月末まで、あと二週間ちょっと。勝つための勉強会、再開だ。
十月十五日
放課後の教室は、夕陽に染まった空気で満たされていた。机の上には折り紙の切れ端やマーカーが散らばり、来月の文化祭の準備を終えた生徒たちが次々と帰っていく。
俺は資料を返しに職員室へ向かう途中、廊下の端で足を止めた。視線の先、窓際に立っていたのは米山さんだった。
手にはノート、もう片方の手でメガネのレンズをハンカチで拭いている。何度も、何度も。
「……米山さん、レンズ、曇ってるのか?」
声をかけると、米山さんは小さく肩を震わせて振り返った。
「あっ、岸和田先輩……」
緊張が混じった声。彼女は少し迷ったように唇を動かし、それから意を決したように言葉を絞り出した。
「……少し、お話してもいいですか」
「いいけど。どこで話す?」
「図書室でもいいですか?」
うなずいて、二人で図書室に向かった。
「座る?」
「……はい」
彼女はおそるおそる椅子を引いて腰を下ろす。沈黙が少し続いたあと、ようやく口を開いた。
「最近、教室の空気が……ちょっと変なんです」
「変?」
「みんなすごく仲良くて、トラブルもないし、平和なんです。……なのに、なんか“静かすぎる”というか」
彼女は言葉を探しながら、メガネのレンズを指先で拭いた。夕陽が反射して、一瞬レンズが白く曇る。
「今日も、朋絵ちゃんと香芝さんが文化祭の装飾で少し意見が合わなかったんですけど、二人ともすぐ“いいよ、それで”って言って。笑って終わったんです」
「それの、どこか気になった?」
「はい。……笑ってるのに、ちっとも楽しそうじゃなくて」
そう言って、米山さんは小さく息を吐いた。その横顔には、言葉にできない居心地の悪さが滲んでいた。
「……でも、こうして話すのも変ですよね。私の考えすぎかもしれません」
「いや。考えすぎってほどでもないんじゃないか」
口にした瞬間、自分でも少し違和感を覚えた。
空気がやけに静かだ。外の風の音まで、どこか遠く感じる。
「……米山さん」
「はい?」
「もしかして、ここ数日、体調悪くないか?」
「え……?どうしてですか?」
「顔色、少し悪い。あと……」
言葉を探して、そこで止まった。メガネのレンズが、またうっすら曇っていた。
「……あれ、すぐ曇っちゃうんです。拭いてもすぐに」
そう言って笑おうとするけれど、その笑顔はどこか張りついたようだった。
「……そうか。無理すんなよ」
それしか言えなかった。
彼女は「ありがとうございます」と小さく頭を下げて、プリントを抱えたまま立ち上がる。
「朋絵ちゃんたち、まだ残ってるので手伝ってきます」
そう言って、足早に図書室を出ていった。
扉が閉まると、再び図書室に静けさが戻る。
さっきまでのざわめきが嘘みたいに、空気が止まっていた。
静かすぎるこの感じ。体育祭の帰りに感じた、あの現実が少しだけずれるような感覚に似ている。
夕陽が沈みかけ、教室の影が長く伸びていく。俺は無意識に、机の上のタブレットを開いた。
> 観察記録:十月十五日 峰ヶ原高校図書室 放課後
> 観察対象:米山奈々。曇りガラスのような視線
指先で文字を書きながら、ふと顔を上げる。窓の外で、風がざわりと木々を揺らした。
その瞬間、ほんの一秒だけ、誰もいない教室に、耳鳴りのような静寂が走った。
十月十七日
午前中は、大津と浜松さんとの勉強会だった。
カタールから戻ってきたばかりの二人はさすがに少し眠そうだったけれど、集中力は相変わらずだった。
英語の長文を解き終えたあと、浜松さんが「もう一問いける?」と笑い、大津が「任せて、勝負はここからだから」と答える。
そのやり取りに、図書館の空気がわずかに明るくなっていた。
久しぶりに穏やかな静けさのある時間だった。
——けれどその静けさが、夕方にはまるで別のものに変わるとは思わなかった。
夕方のシフト。土曜ということもあり、店内は江ノ島帰りの観光客や。学生グループでそこそこ賑わっていた。
厨房から油の音が響き、ホールではオーダーの呼び出しが飛び交っている。
「三番テーブル、ドリンクお願いしまーす!」
咲太の声が店内に響く。トレーを持ちながら、彼は隣で皿を拭いていた古賀に、いつもの軽口を飛ばした。
「古賀、最近ちょっと丸くなった?」
「……は?」
「いや、体重でも増えたとか?なんか膨らんでるし」
「……っ」
古賀の動きが止まった。手にしていたグラスが、かすかに震える。
「……先輩、そういうのマジでやめて」
咲太がぽかんと目を瞬かせる。普段ならここで「先輩ばりむかぁ!」などと言い返すところなのに、声のトーンがまるで違った。
「お、おう……悪かった」
咲太が気まずそうに頭をかく。古賀は無言のまま、グラスを拭いてバックヤードに戻っていった。
俺はその光景を、カウンター越しに見ていた。ほんの一瞬のことだったけど空気の温度が変わった。
笑い声の多い店内なのに、その周囲だけ、音が少し遠のいたように感じた。照明の光まで、どこか薄膜を通して見ているように鈍くなる。
「……咲太、お前何した?」
「……いや何も。いつも通り軽くいじっただけなんだけどな。あれ、完全に地雷踏んだ感じだったな」
「いつも通り、か」
自分で言いながら、違和感が喉に引っかかった。
咲太の言ういつも通りが、いつもと違って見えた。
この空気。この間、放課後の図書室で、米山さんが「空気がちょっと変」と言ったときの、あの感覚に似ている。
もしかしたら、誰かが感情を抑えている。その抑圧が、少しずつ別の場所へと伝染していっているような。そんな妙な圧力。
「なぁ、岸和田」
咲太が小声で寄ってくる。
「古賀、なんかあったのか?」
「……多分、単に疲れてるって感じなんじゃないか。文化祭の準備もあるしな」
「そうだよな」
咲太はそう言い残して、厨房でオーダー表をまとめに行った。
同じ時、バックヤードの扉が静かに開いた。古賀の姿が見えたその瞬間。また、ほんの一瞬だけ、空気の流れが止まった気がした。
“静かすぎる”という言葉が、ふと頭に浮かぶ。
そして周囲の空気だけ、まるで音を吸い取るように沈んでいた。
カウンターに戻りながら、俺は無意識にタブレットを取り出していた。
> 観察記録:十月十七日 藤沢ファミレス勤務中
> 観察対象:古賀朋絵。感情の反応鈍化? 一時的怒り
指先が止まる。
頭の中で調和の空気少しずつ形を取り始めていた。そして、周囲の空気は、まるで音を吸い取るように沈んでいた。
十月十九日
夕暮れの光が、廊下の窓から長く伸びていた。下駄箱の方から運動部の掛け声が遠くに響き、教室の方では机を動かす音が交じる。
文化祭の準備もいよいよ大詰め。どのクラスも放課後の教室には、それぞれの熱気がある。はずだった。
けれど、古賀のクラスの扉を通り過ぎた瞬間、俺は思わず足を止めた。
「……だから、もう少し暗めの色の方がいいと思う」
聞き慣れた声。古賀の声だ。
中をのぞくと、黒板前の机を囲んで三人が立っていた。古賀、米山さん、香芝さん。
文化祭の装飾案を巡って話し合っているようだった。
「うん……でも、文化祭感を出すなら今のままでもいいんじゃないかな」
香芝さんが、わざと穏やかに言う。
古賀が軽く笑って返す。
「そう?あたしはもうちょい幻想的でも。黒とか紫とか」
その途中で、古賀の声が途切れた。教室の空気が、ふっと静まり返る。
誰も怒鳴っていない。なのに、張りついたような“静けさ”が広がっていく。
「……二人とも、落ち着いて」
米山さんが間に割って入るように言った。
けれど、その声も、どこか遠く感じた。
机の上には、カラーペーパーとスプレーの見本、それから黒地に金文字で「謎解きゲーム」と書かれたポスター案。
古賀はそれを指で軽く叩きながら言う。
「うちは“脱出ゲーム”でしょ?だったらちょっとミステリアスな雰囲気の方が合うと思う」
「でも、せっかく文化祭なんだし、もっと目立たせた方がいいよ。通る人が一瞬で興味持つような」
香芝さんがポスター案を手に取り、明るい黄色のマーカーを走らせる。
古賀の視線がその動きを追い、わずかに眉が動いた。
「……ごめん、それは、ちょっと違うかも」
声のトーンが一段低くなる。
香芝さんが顔を上げ、少しだけ笑った。
「え、そんなにこだわる?」
「うん。せっかくみんなで考えたテーマだから」
ほんの一瞬だけ、空気が止まった。
米山さんが慌てて明るく笑う。
「じゃあ、いったん両方の案を混ぜてみようよ。暗い背景に、明るい差し色を入れるとか」
「……そうだね。それがいいかも」
古賀が短く息を吐き、微笑んだ。
でもその笑顔は、どこか“作りもの”のように見えた。
米山さんのメガネのレンズが、わずかに白く曇っている。
「私、こっちのバランス見てみるね」
「いいよ、奈々ちゃん。無理しなくて」
古賀が手を伸ばすが、米山さんは小さく首を振った。
「平気。……みんながうまくいくなら、それでいいから」
その言葉と同時に、空気の温度がまた一段階下がる。
まるで教室全体が“誰かの感情”に包まれていくようだった。静かで、穏やかで、でも息苦しい。
俺は扉の陰に立ったまま、喉の奥がひりつくのを感じた。
米山さんの笑顔が、不自然に硬い。
古賀も香芝さんも何か言いたげなのに、言葉が出ない。
まるで本音そのものが奪われているみたいだった。
俺はその光景を見つめながら、タブレットを取り出した。
> 観察記録:十月十九日 峰ヶ原高校古賀クラス前
> 観察対象:米山奈々・古賀朋絵・香芝玲奈。米山奈々を中心に、会話が不自然に穏やか化。レンズ曇り現象確認。空気の圧力上昇
指を止める。
この違和感、先週の放課後、それに一昨日ファミレスで感じた静けさと、まるで同じだ。いや、それよりも、範囲が広がっている。
力場の中心は、おそらく米山奈々。
彼女が調和を願うほど、周囲の人間の感情が押し込められていく。優しさが、空気を締めつけている。
「……これは、もう偶然じゃない」
思わず小さく声に出た。その瞬間、米山さんがふいにこちらを振り向いた。
ドア越しのガラス越しに、曇ったレンズ越しの瞳が、まっすぐに俺を見た気がした。
数秒の沈黙。だが、彼女は何も言わず、再び黒板へ向き直る。
俺は息を詰めたまま、その場を静かに離れた。
確実に何かが起きている。そう思うには、十分すぎるほどだった。
物語解説
今回のお話しでは、「優しさ」と「静けさ」が裏返る瞬間を描きました。カタール遠征での美凪と夏帆の“熱”から始まり、藤沢に残る蓮真の“静”へと緩やかに移っていきます。
二人の努力と達成感が世界のどこかで輝く一方、その光からこぼれたような静寂が、次第に物語の中心へと浮かび上がります。
鍵となるのは、米山奈々という少女。彼女の「平和を保ちたい」という純粋な願いが、知らず知らずのうちに“本音を封じる力”として働き始めます。
曇ったレンズ、張りついた笑顔、争いのない教室。その全てが、優しさの形をした抑圧です。
蓮真は「観察者としての立場に戻りつつも、その静けさの異常さに気づき始めます。誰も傷つかない世界は、本当に正しいのか。
その問いが、「米山奈々の思春期症候群」へと繋がっていく重要な伏線になります。
静けさは優しさの仮面を被る。その裏で、削り取られていくものがある。
蓮真が次に直面するのは、そんな“穏やかすぎる異常”。次回もぜひお楽しみください。
蓮真は最終的にどちらを選ぶと思いますか?
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豊浜のどか
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広川卯月