青春ブタ野郎はパラレルスプリングの夢を見ない   作:もドえラん

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6.秋の約束は、欠けたピースを取り戻す

 

 十月二十二日

 

 藤沢の図書館。放課後の時間帯に入ると、学生たちのノートの音とページをめくる音が重なり合う。

 

 窓の外では夜の街の光が街路樹を染め、カーテン越しに柔らかい橙が差し込んでいた。

 

 俺たちはいつもの席に並び、大津は参考書を広げたままペンを回し、浜松さんはノートに問題を書き写している。

 

 二人の呼吸は不思議なほど静かに揃っていた。

 

 「よし、ひと区切りだな」

 俺が声をかけると、大津がぐっと伸びをした。

 

 「もう七時半かぁ。早っ」

 

 「集中してたからね」

 

 浜松さんが笑って、髪を耳にかける。

 

 机の上には三人分のマーカーと消しゴム、そして途中で買ってきた缶コーヒーが並んでいた。

 

 少し間を置いて、俺はふと口を開く。

 

 「なぁ、大津と浜松さんって、喧嘩したことあるのか?」

 

 二人はほぼ同時に顔を上げた。

 

 「え、なんで急に?」

 

 大津が笑いを含んだ声で言う。

 

 「なんとなく。ずっと息合ってるし」

 

 「喧嘩ってほどじゃないけど、意見がぶつかることはあるよ」

 

 浜松さんが少し考えてから言葉を選んだ。

 

 「試合の戦略とか、練習メニューとかね」

 

 「そうそう。でも大体私がムッとして、夏帆が“落ち着こう”って言ってくれて……で、あとから謝るパターン」

 

 大津が苦笑する。

 

 「ちゃんと戻れるのがすごいな」

 

 「うーん、戻るっていうより“出す“のが大事なんだと思う」

 

 浜松さんが穏やかに言う。

 

 「我慢してたら、どっかに澱みが溜まっちゃうでしょ。ぶつかってもいいから、ちゃんと出すようにしてる」

 

 「分かる。私も黙ってると爆発するタイプだし」

 

 大津が頷く。

 

 「無理して穏やかにしてる方が、あとで変にすれ違うんだよ」

 

 「……なるほどな」

 

 俺はノートを閉じ、静かに頷いた。

 

 ——本音を出すこと。衝突しても、それが本当の調和を作る。

 

 月曜日、古賀のクラスで見た、不自然な静けさが頭をよぎる。

 

 あの時の米山さんの笑顔。あれは優しさじゃなく、“誰も傷つけたくない”という恐れから生まれたものだったのかもしれない。

 

 「どうしたの、岸和田?」

 

 大津の声で我に返る。

 

 「いや、ちょっと考え事だ」

 

 「難しい顔してたよ」

 

 「……大丈夫。むしろ整理できた」

 

 「答え合わせの感想みたいだね」

 

 浜松さんがくすっと笑う。

 

 俺も軽く笑って、ペンを取った。

 

 二人には話さない。この違和感の根は、まだ俺の中で観察の途中だ。

 

 図書館のスピーカーから、閉館三十分前のアナウンスが流れる。

 

 俺はタブレットを取り出して、そっと書き込む。

 

 > 観察補記:調和は本音の上に立つ。抑えられた静けさは、いずれ歪む

 

 深く息をつく。その静けさの中で、頭の奥に一つの輪郭が浮かび始めていた。

 

 ——守るための優しさが、人を苦しめることもある。

 

 それを解く鍵は、おそらく“衝突”の中にある。

 

 タブレットを閉じながら、ふと思う。

 

 こういう時、咲太ならどう考えるだろう。

 

 いや、違う。自分で考えたい。でも、この感覚を整理するには、少し誰かの視点が欲しい。

 

 頭に浮かんだのは、双葉の顔だった。

 

 浜松さんの時にも、彼女に助言をもらったことがある。

 

 もしこの現象を“思春期症候群”として捉えるなら、今回もきっと、双葉の方が冷静に見てくれる。

 

 ——明日、双葉に相談してみるか。

 

 窓の外では、街の明かりがゆっくりと滲んでいく。その光を見つめながら、俺は次にやるべきことを、静かに決めていた。

 

 十月二十三日

 

 放課後の物理実験室には、薬品の匂いと静けさが漂っていた。

 

 だがその日は、いつもの空気とは少し違っていた。

 

 机の上にはコンビニのショートケーキが三つ。ローソクの代わりにガスバーナーの炎を小さく灯して、国見が「ほら、雰囲気出るだろ?」と笑っている。

 

 「いや、それは危ないだろ……」

 

 咲太がすかさず突っ込みを入れ、火を止める。

 

 俺は扉のところで軽くノックをして入った。

 

 「……お邪魔します」

 

 「お、蓮真」

 

 国見がフォークを手にしたまま顔を上げた。

 

 「ちょうどいいところだ。今、双葉の誕生日会やってんだよ」

 

 「……誕生日?」

 

 思わず聞き返してしまう。

 

 双葉は少し照れたように、ケーキの箱を見下ろした。

 

 「そう、今日。別に隠してたわけじゃないけど……実験室で祝われるとは思わなかった」

 

 「ガスバーナーでローソク代用するやついるか?」

 

 咲太の言葉に、国見が肩をすくめて笑う。

 

 「だって、火って大事だろ。象徴的に」

 

 そんなやり取りに、思わず苦笑が漏れた。

 

 いつもは冷静な双葉が、ほんの少し頬を染めている。

 

 ケーキの甘い匂いと薬品の匂いが混ざって、不思議な空気が広がっていた。

 

 「……おめでとう、双葉」

 

 俺は小さく声をかけた。

 

 「ありがとう。岸和田が言うと、なんか研究発表の締めみたいだね」

 

 双葉が苦笑しながらフォークを取る。

 

 「まぁ、研究結果としては“誕生日ケーキに実験器具は不適切”ってとこだな」

 

 「確かに。安全基準的にね」

 

 互いに小さく笑い合う。その笑いは、どこか柔らかくて、あたたかかった。

 

 咲太がジュースの缶を開けながら言う。

 

 「そういや国見、この前なんか受けてきたって言ってたよな」

 

 「ああ、消防士の二次試験な」

 

 国見はフォークを止め、少し照れくさそうに笑った。

 

 「作文と体力測定と面接、まとめて二日間。地獄だったよ」

 

 「へぇ、もうそんな時期なんだな」

 

 「作文なんて全然自信なかったけど、“誰かを守りたいと思ったきっかけ”とか聞かれてさ」

 

 国見は少し遠くを見るようにして、言葉を続ける。

 

 「答えながら、自分でも不思議だった。誰かのために動くことって、理由より先に体が動いてる感じなんだよ」

 

 「国見も咲太と同じで、“考える前に助けるタイプ”だしな」

 

 「おい、バカにしてんのか?」

 

 「褒めてるよ」

 

 双葉が小さく笑った。

 

 「でも、そういうの、嫌いじゃないよ」

 

 国見はその言葉に少しだけ耳を赤くして、ケーキの残りを口に運んだ。

 

 ガラス越しに見える夕焼けが、実験器具を赤く染めている。その光の中で食べるショートケーキは、妙に特別な味がした。

 

 咲太と国見が軽口を交わす横で、双葉は穏やかな表情を浮かべていた。

 

 その姿を見て、俺はふと、昨日のことを思い出す。

 

 ——本当は今日、相談しに来たんだ。

 

 米山さんのこと。あの静けさの理由を、確かめたくて。

 

 けれど、今は違う。この穏やかな空気の中で、そんな話を持ち出すのは野暮だと思った。

 

 ——今日はこのままでいい。

 

 ガスバーナーの金属が冷めていく音が、静かに響く。

 

 俺は観察者としても、友人としても、この輪の中にいた。

 

 その事実が、不思議と心地よかった。

 

 「双葉、また今度、ちゃんと祝うよ」

 

 そう言うと、双葉は少し目を丸くして笑った。

 

 「期待してる」

 

 その笑顔を見ながら、胸の奥でひとつの思考が形を取る。

 

 ——自分でやってみるか。

 

 彼女に頼らず、まずは自分の観察で。

 

 窓の外では、群青の空に夜の気配が溶けていく。静けさの中で、次に進む覚悟だけが静かに灯っていた。

 

 十月二十五日

 

 日曜の午後。藤沢の図書館は、窓際の席から秋の日差しが斜めに差し込み、ページをめくる音が穏やかに響いていた。

 

 「よし、これで今日の範囲は終わりだな」

 

 プリントを閉じながら言うと、大津が両腕を上に伸ばして大きく息を吐いた。

 

 「はぁーっ、やっと終わったぁ……!」

 

 「お疲れ様。時間、けっこうかかったね」

 

 浜松さんが笑ってペンを置く。

 

 机の上には、赤ペンで書き込みの入ったプリントの山と、飲みかけのコーヒー。

 

 三人分のノートが並んでいる光景にも、少しずつ終盤戦の気配が漂っていた。

 

 「これ、もう何回目の勉強会だっけ?」

 

 大津が首をかしげながら言う。

 

 「さぁ……もう数えてないな」

 

 俺は少し笑って答えた。

 

 「気づいたら、ここが定位置になってる」

 

 「確かに。最近はこの図書館がホームみたいになってるもんね」

 

 浜松さんが、柔らかく笑う。

 

 「でも、おかげで過去問の解き方とか、ほんとに分かってきた。ありがとう、岸和田くん」

 

 「私も。英語の長文、最初は制限時間に間に合わなかったのに、今はギリギリいける」

 

 大津が自信ありげに言う。

 

 「“ギリギリ”って言うなよ」

 

 俺が呆れ気味に返すと、浜松さんがくすっと笑った。

 

 「でも本当に助かってるよ。岸和田くんがいなかったら、こんなに続かなかったと思う」

 

 「いや、俺はちょっと手伝っただけだよ」

 

 「ちょっとじゃないって」

 

 大津がペンをくるくる回しながら笑う。

 

 「岸和田、教えるの上手いし。しかも説明が落ち着いてる。コーチっていうより、なんか……カウンセラー?」

 

 「褒めてるのかそれ」

 

 「もちろん」

 

 そう言って、彼女は少し真面目な顔になった。

 

 「ほんとに、ありがとう。ここまで付き合ってくれて」

 

 浜松さんも頷く。

 

 「うん。来月の試験、絶対受かるよ。ね、美凪ちゃん」

 

 「もちろん。むしろ受からなきゃ岸和田に申し訳ない」

 

 「それは違うだろ」

 

 俺は小さく笑って首を振る。

 

 「受かるのは、二人の努力の結果だろ」

 

 「でも、それを続けられたのは、岸和田くんがいてくれたから」

 

 浜松さんの声は静かで、どこかあたたかかった。

 

 大津もそれに続くように笑う。

 

 「うん、岸和田コーチのおかげで、いい流れ作れてる。……試験、勝ち取ってみせるよ」

 

 その言葉に、俺は自然と笑みがこぼれた。

 

 窓の外では、夕陽が街路樹の葉をオレンジ色に染めている。風に揺れる枝の影が、机の上に静かに映っていた。

 

 ——この二人がここまで来たのは、偶然じゃない。

 

 支え合い、ぶつかって、また前を向いてきた結果だ。

 

 ページを閉じる音が、勉強会の終わりを告げる。俺は小さく息を吐いて、二人に言った。

 

 「じゃあ、次は本番の前日。最後の仕上げをやろう」

 

 「了解、コーチ!」

 

 「楽しみにしてる」

 

 笑い声が重なり、図書館の静けさに溶けていった。その中で俺は、ふとペンを止める。

 

 ——彼女たちみたいに、本音を出せる関係。

 

 それが、米山さんを救う鍵になる気がした。

 

 観察者のノートに、小さく一行を書き足す。

 

 > 観察補記:静けさは理解から生まれる。本音は衝突の先に芽吹く

 

 ボールペンのインクの線が乾くのを待ちながら、俺は次の行動を心の中で決めていた。

 

 今度は、米山さんの番だ。

 

 窓の外では、街の灯がゆっくりと点き始めていた。

 

 二人の試験日は、十一月八日。

 

 ——その日までに、まだやることがある。

 

 十月二十六日

 

 朝の空は、うっすらと白い雲がかかっていた。文化祭まで、あと一週間。

 

 昇降口を抜けると、廊下には装飾のパネルやペンキの匂いが漂っている。

 

 どのクラスも最終準備に追われ、慌ただしい声が響いていた。

 

 けれど、古賀のクラスだけは静かだった。

 

 扉の向こうでは、色紙を切る音だけが淡々と続いている。

 

 声も笑いもない。まるで音を避けるように、みんなが息を潜めて作業していた。

 

 俺はその光景を数秒見つめたあと、ゆっくりと歩き出した。もう、待っている時間はない。

 

 昼休み、校舎裏のベンチでタブレットを開く。画面の上には、これまでの観察記録が細かい文字で並んでいた。

 

 > 十月十五日:米山奈々。曇りガラスのような視線

 

 > 十月十七日:古賀朋絵。感情の反応鈍化? 一時的怒り

 

 > 十月十九日:米山奈々・古賀朋絵・香芝玲奈。米山奈々を中心に、会話が不自然に穏やか化。レンズ曇り現象確認。空気の圧力上昇

 

 > 十月二十日〜二十三日 圧力変化、停滞期。放置すれば臨界。

 

 指先が止まる。

 

 このままだと、文化祭当日、全員の感情が均一化される。

 

 喜びも、怒りも、何もかも。

 

 そうなれば、米山さん自身が一番苦しむはずだ。

 

 俺はタブレットを閉じて、息を整えた。

 

 先週、古賀のクラスを通りかかったあの日。

 

 あの時、彼女は言っていた。

 

 “みんながうまくいくなら、それでいいから”

 

 でも、それじゃ誰も救われない。

 

 昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。その音が、決意を押し出すように胸に響いた。

 

 「……行くか」

 

 俺は立ち上がり、校舎へ戻る。狙いは放課後。米山さんと直接話す。

 

 彼女の盾であるメガネの奥に隠された本音を、ちゃんと聞き出すために。

 

 文化祭まで、あとわずか。このまま“調和の静けさ”に飲まれる前に……

 

 放課後。西日の差し込む廊下を歩くと、窓の外ではグラウンドの影が長く伸びていた。

 

 古賀のクラスの前で足を止める。中には誰の姿もなかった。

 

 机は端に寄せられ、紙くずと絵の具の跡だけが残っている。

 

 夕方の光が黒板を斜めに照らし、そこに描かれた「脱出ゲーム」の文字を金色に染めていた。

 

 その静寂の中で、窓際に一人だけ座っている影があった。

 

 肩までの髪を落とし、ぼんやりと窓の外を見つめていた。

 

 「……米山さん」

 

 呼びかけると、彼女の肩がわずかに震えた。

 

 「あ、岸和田先輩。どうしたんですか?」

 

 「少し、話がしたくて」

 

 そう言うと、彼女は静かにメガネをかけ直した。透明なレンズの奥で、瞳が光を拒むように曇って見えた。

 

 「文化祭の準備、大変そうだな」

 

 「ええ……でも、みんな頑張ってますよ」

 

 その“みんな”という言葉に、僅かな違和感を覚える。

 

 まるで、彼女が“自分”をその中に入れていないような響きだった。

 

 「この前、クラスを通りかかった時、空気が止まってた。あれは……米山さんのせいじゃないか?」

 

 彼女の指が、机の端を掴む。紅茶の表面に、小さな波紋が広がった。

 

 「……なんで、そう思うんですか?」

 

 「俺、見てたんだ。あの日、米山さんの周りだけ空気が変わった。音が遠ざかって、誰も強く言い返せなくなった。まるで調和を強制されたみたいに」

 

 長い沈黙のあと、彼女が小さく息を吐いた。

 

 「……やっぱり、気づいてたんですね」

 

 その声は、笑っているようで、泣き出しそうでもあった。

 

 「最近、少しでも誰かが言い争いそうになると、周りの空気が勝手に静かになるんです。みんな穏やかになるけど……何も本当じゃなくなってしまって」

 

 米山さんは両手を膝の上に置き、目を伏せた。

 

 「最初は、よかったんですよ。みんな優しくなったみたいで。でも今は……“優しくされてる”みたいで」

 

 「怖いんです。私が空気を壊したら、また誰かが傷つくかもしれないから」

 

 「だから、米山さんが代わりに“空気”になったんだな」

 

 米山さんは、驚いたように目を上げた。

 

 「……空気、ですか?」

 

 「争いも、感情も、摩擦もない場所。米山さんがそういう調和を作ってる。でも、それは呼吸できない静けさになってるんじゃないか?」

 

 米山さんの瞳がわずかに揺れる。

 

 その中で、窓の外の夕日が割れたように反射していた。

 

 「岸和田先輩。私どうすれば……みんな、普通に笑えるようになるんでしょうか」

 

 俺は少しだけ考え、静かに言った。

 

 「普通に笑うには、“本音”でぶつかるしかない。静けさの中じゃ、本音は生まれないと思う」

 

 米山さんの肩が、小さく震えた。そして、空気がほんの少しだけ動いた気がした。

 

 彼女が顔を上げる前に、俺は立ち上がった。

 

 いつもなら、ここで終わりにしていた。記録に残して、あとは自然に収束するのを待つ。

 

 それが俺のやり方だ。

 

 でも、今回だけは違う気がした。

 

 このまま放っておいたら、彼女はきっと、自分の中の静けさごと消えてしまう。

 

 だから、俺は小さく息を吐いた。その息が、胸の奥の迷いを押し出すように溶けていく。

 

 ——あえて、咲太っぽいことでもしてみるか。

 

 心の中でそうつぶやく。

 

 自分でも似合わないと思いながら、それでも、その方が少しだけ人間らしい気がした。

 

 窓の外では、夕陽がもう半分沈んでいた。

 

 翌日、あの扉を開けるときの自分の姿が、ぼんやりと頭の中に浮かんだ。

 

 十月二十七日

 

 放課後、夕焼けの光が、廊下を斜めに伸びていた。

 

 窓ガラスに反射した光が床をかすめ、壁のポスターを透かすように照らす。

 

 文化祭まで、あと六日。あちこちのクラスで笑い声や指示の声が響いていた。

 

 ただ、一か所だけ、息を潜めたような静けさがあった。古賀のクラスだ。

 

 扉の前を通り過ぎようとしたとき、中から押し殺した声が聞こえた。

 

 「……もういいよ。好きにして」

 

 古賀の声だった。その調子の平坦さに、思わず足が止まる。

 

 中をのぞくと、黒板の前で古賀と香芝さんが向かい合っていた。

 

 床には紙くず、半分剥がれたポスター、切れかけのガムテープ。

 

 奥の窓際で、米山さんが両手を胸の前で握り、動けずにいた。

 

 「だから、もっと明るい方がいいって言ってるの!」

 

 香芝さんが前のめりに言う。

 

 「……そうやって派手にするから、落ち着かないんだよ」

 

 古賀の声は抑えられていた。その音が空気を削るように小さくなっていく。

 

 ほんの一瞬で、音がすべて遠のいた。椅子のきしみも、廊下のざわめきも、息づかいすら。

 

 空気が止まる。米山さんの肩が小さく震える。

 

 俺は、静かに扉を開けた。

 

 「悪い、これ落ちてたぞ」

 

 床に転がっていた色紙の切れ端を拾って、机の上に置く。教室中の視線がこちらを向いた。

 

 誰も言葉を発しない。“静けさ”が少しだけざらついた。

 

 「……きっしー先輩?」

 

 古賀がかすかに声を出す。

 

 「二年の教室に入ってくるとか、何してるんですか」

 

 香芝さんが眉をひそめた。

 

 「通りかかっただけ。空気、ちょっと固まってたから。それに廊下まで声が聞こえてたから。喧嘩でもしてんのかと思って」

 

 「喧嘩じゃ……」

 

 古賀が言いかけて言葉を止める。

 

 香芝さんも視線を逸らし、空気が再び固まりかけた。

 

 「にしても、いい雰囲気だな」

 

 俺は何気なく、剥がれかけのポスターを押さえる。

 

 「脱出ゲームだろ。……このバランスの悪さ、逆にリアルでいいと思うけどな」

 

 香芝さんが一瞬、ぽかんとする。

 

 古賀が息を吐き、机の端に手を置いた。

 

 少しずつ、音が戻っていく。

 

 「きっしー先輩には関係ないじゃん」

 

 「そうだな。でも、空気悪いよりはマシだろ。静かすぎる教室って、見てる方が息苦しくなる」

 

 その言葉に、米山さんの肩が小さく震えた。

 

 彼女のメガネの奥で、曇っていた瞳がわずかに光を取り戻す。

 

 「文化祭って、こんな感じだよな。喧嘩もして、騒いで、落書き増えて。静かな方が珍しいだろ」

 

 その一言で、教室の奥に小さな動きが生まれる。

 

 誰かが椅子を引き、机の上の紙がこすれる音が戻る。ほんの少しだけ、空気が息を吹き返した。

 

 「……玲奈ちゃんごめん。ちょっと言い方きつかった」

 

 古賀が視線を落として言う。

 

 香芝さんは息を吸って、何かを飲み込むように答える。

 

 「私こそ。言いすぎた」

 

 米山さんが小さく息を吐いた。メガネの奥の曇りが薄くなっていく。

 

 彼女の指先が、机の上で小さく動いた。

 

 「……ちゃんと、聞こえます」

 

 誰にも届かないくらいの声で、そう言った。 けれどその瞬間、止まっていた空気が確かに動いた。

 

 「じゃ、俺はもう行くわ」

 

 手を軽く上げて扉に向かう。

 

 「きっしー先輩」

 

 古賀が呼び止めた。

 

 「……ありがと」

 

 「俺は何もしてないよ。ちょっと音を戻しただけ」

 

 香芝さんが不思議そうに眉を寄せる。

 

 「音って?」

 

 「静かすぎると、誰もしゃべらなくなるからな。その前に、少しだけ雑音入れといた方がいいからな」

 

 軽くそう言って出て行く。

 

 背後で机が動く音、紙を切る音、誰かがため息まじりに笑う声。

 

 それらがゆっくりと混ざって、教室がふたたび生き返っていった。

 

 廊下の端に出たところで、窓の外に沈みかけた夕陽が見えた。

 

 オレンジ色の光が差し込み、床を淡く染める。

 

 缶コーヒーを開けて一口飲む。苦みが舌の上に広がるころ、背後からまた笑い声が聞こえた。

 

 ——静けさの底に、やっと音が戻った。

 

 俺は手にした缶を軽く振って、苦笑する。

 

 「……ほんと咲太っぽいこと、しちまったな」

 

 観察して、黙って見ていればそれでいいと思っていたのに、気づけば、誰かの中に手を突っ込んでいた。

 

 窓の外で風が鳴った。夕焼けに染まった校舎の影が、少しだけ柔らかく見えた。

 

 十月三十日

 

 週末の午後。文化祭まで、あと三日。

 

 昇降口を抜けると、廊下には絵の具と木材の匂いが混じっていた。

 

 どの教室からも、テープの貼り直しや笑い声が聞こえてくる。

 

 みんな少し疲れていて、でもどこか浮き足立っている。それが文化祭前の空気だ。

 

 自分のクラスの展示も、ようやく形になった。

 

 机の配置を直して、最後の備品を片づける。

 

 手についたノリの跡を制服で拭いながら廊下に出ると、ふと、古賀のクラスの扉が目に入った。

 

 中をのぞくと、三人の姿があった。

 

 古賀が段ボールを押さえ、香芝さんが上からテープを貼り、米山さんが隣でポスターの端を整えている。

 

 「もうちょい右……そう、それ」

 

 「うん!」

 

 笑い混じりの声が交わる。

 

 かつて音が消えたあの教室とは思えないほど、賑やかだった。

 

 香芝さんが誰かに指示を出し、古賀が軽口を返す。

 

 米山さんはそのやり取りを見て、ほんの少し照れたように笑っていた。

 

 その笑顔が、自然で、何より穏やかだった。

 

 ——もう、大丈夫そうだな。

 

 そう思って、静かに踵を返す。でも、その背中に小さな声が届いた。

 

 「岸和田先輩!」

 

 振り向くと、米山さんが手を拭きながらこちらへ駆けてきた。

 

 メガネの奥の瞳は、あの時よりずっと澄んでいる。

 

 「この前は……ありがとうございました」

 

 「いや、俺は何もしてないよ」

 

 「してましたよ」

 

 少し強く言い返すその声に、もう迷いはなかった。

 

 「先輩が来てくれて、なんか……みんなの音が戻った気がしたんです。ちゃんと、うるさくて、楽しい音です」

 

 俺はほんの一瞬だけ目を細めた。

 

 「それなら、よかった」

 

 米山さんは小さく笑った。

 

 「今は、うるさい方が好きになりました」

 

 そう言って、両手を後ろで組む。光の差し込む教室の方へ振り返るその姿が、どこか新しい世界を見ているように見えた。

 

 「文化祭、がんばれよ」

 

 「はいっ。岸和田先輩も、展示楽しみにしてます」

 

 その言葉を最後に、彼女はまた教室へ戻っていった。扉の向こうから、紙を切る音と笑い声が重なり合って聞こえてくる。

 

 廊下の窓の外では、風がゆるやかに旗を揺らしていた。遠くで誰かがハサミを落とし、それを笑い合う声が響く。

 

 ——静けさの底に、ちゃんと音が残った。

 

 俺はそのまま、何も言わずに歩き出した。光の粒が、足元で跳ねていた。

 

 廊下の角を曲がったところで、ポケットの中が震えた。スマホを取り出すと、画面に新着通知が点いていた。

 

 麻衣先輩からだった。

 

 《こんばんは、岸和田くん。連絡遅くなってごめんなさいね》

 

 《のどかのことだけど、明後日一日に、場所は藤沢駅近くのカフェでどうかしら?》

 

 画面の文字を目で追いながら、心の奥に小さなざわめきが生まれる。

 

 ——そういえば。

 

 豊浜のあの時の影が、まだ釈然としていなかった。笑顔の奥に残っていた、言葉にならない沈黙。

 

 見なかったことにしていた何かが、再び脳裏に浮かぶ。

 

 俺は短く息を吐いて、返信を打ち込んだ。

 

 《分かりました。昼間藤沢のファミレスでバイトがあるので、終わり次第向かいます》

 

 送信ボタンを押して数秒後、すぐに既読がついた。画面に、もう一つメッセージが表示される。

 

 《わかったわ。じゃあ、十八時でいいかしら?》

 

 麻衣先輩らしい、きちんとした文面。どこか事務的なのに、言葉の端に温かさがある。

 

 俺は小さく頷いて、短く返信を返した。

 

 《はい、大丈夫です》

 

 画面を閉じると、ガラス越しの夕焼けがすっかり夜色に変わっていた。校舎の外では、風が新しい季節の匂いを運んでくる。

 

 文化祭の喧噪の向こうで、また一つ、静かな“始まり”の音がした気がした。

 

 十一月一日

 

 昼のファミレスは、連休ということもあってか、観光客がいつもより多かった。

 

 観光客のグループが笑いながらトレイを並べ、厨房ではいつもよりも多くの注文票がぶら下がっている。

 

 「きっしー先輩、こっちドリンク二つお願いしまーす!」

 

 ホールの奥から古賀が手を振る。トレーを持ちながら、軽く頷いた。

 

 ピークを越えて一段落したころ。ふたりで裏の休憩室に戻ると、古賀はペットボトルのお茶を開けながら言った。

 

 「明日、文化祭ですよね」

 

 「そうだな」

 

 「うちのクラス、一応出し物終わったら自由行動できるんだ」

 

 「へぇ、そうなのか」

 

 古賀はキャップを指でくるくる回しながら、少し笑う。

 

 「それで、奈々ちゃんと一緒に回ろうって話になってて」

 

 「米山さんと?」

 

 「はい。でも人数多い方が楽しいし、きっしー先輩も来ない?」

 

 「俺も?」

 

 「うん。きっしー先輩今年で卒業だし。明日くらい、普通の高校生っぽく楽しんでもいいと思って」

 

 古賀の言葉に、一瞬だけ返事が遅れた。

 

 “普通の高校生っぽく”という言葉が、受験を控えた今、どこか遠い響きに聞こえた。

 

 それでも、米山さんの笑顔を思い出して頷く。

 

 「……いいぞ。自分のクラスの展示を手伝ったら行く。午後からになるけどいいか?」

 

 「うん!奈々ちゃんにも伝えとくね」

 

 古賀は嬉しそうにスマホを取り出して、すぐにメッセージを打ち始めた。指先が迷いなく動いている。たぶん、米山さんに連絡しているのだろう。

 

 少し間を置いて、俺はふと思い出したように尋ねた。

 

 「そういえば、咲太は誘わなかったのか?」

 

 「先輩もこの間誘ったんだけど、その日は妹さんと、その友だちを案内するって言ってた」

 

 「……ああ、なるほどな」

 

 (花楓ちゃんと鹿野さんかな……)

 

 「咲太らしいな」

 

 「うん。なんかんだで妹さんへの面倒見いいもんね」

 

 古賀はそう言って微笑む。その笑顔に、ほんの少しだけ安心を覚えた。

 

 文化祭を前にして、それぞれの場所で、それぞれが誰かを支えている。そう思うと、不思議と胸の中のざわめきが落ち着いていった。

 

 十八時。夕方の藤沢駅は、通勤客と学生とでいつになく賑わっていた。

 

 その一角、駅前通りのカフェ。

 

 俺はドアを開けると、店内の奥に見覚えのある姿を見つけた。

 

 桜島麻衣。けれど、今日の彼女はどこか“桜島麻衣”らしくなかった。

 

 淡いグレーのニットに白のコート、その上に目立たないベージュの帽子。

 

 そして、ふだんはかけないであろうだて眼鏡。

 

 「こんばんは、岸和田くん」

 

 小さな声。それでも独特の響きがあって、隠しても隠しきれない。

 

 俺は席に向かいながら、思わず笑ってしまった。

 

 「……麻衣先輩、それ、けっこう似合ってますね」

 

 「そう?これでも一応、変装のつもりよ。駅前なんて歩いたらすぐバレちゃうから」

 

 帽子のつばを軽く押さえながら、麻衣先輩は微笑んだ。その仕草が、スクリーンの中で見る彼女よりずっと柔らかかった。

 

 「遅くなってごめんなさい。バイト、終わったばかりだったでしょう?」

 

 「いえ、大丈夫です。少し早めに上がれたので」

 

 向かいの席に座ると、テーブルの上にはすでに温かい紅茶が置かれていた。香りが、夜の冷たい空気にやわらかく溶けていく。

 

 「今日は、のどかのことを話しておこうと思って」

 

 「……はい」

 

 麻衣先輩は、カップを手ですする。その仕草がぴたりと止まる。

 

 しばらく黙りながら、彼女は窓の外の街灯を見つめていた。

 

 やがて、ふぅ、と小さく息を吐く。言葉を探すように、静かな声で続けた。

 

 「……のどか、幼い頃ね……」

 

 その続きを聞く前に、カップの中の紅茶が、ひときわ静かに揺れた。

 

 ——夜の街が、少しだけ沈黙を深めていく。

 

 

————————

 

 

語れない 眠れない トロイメライ

 

あなたの見てる正体

 

誰も読めないカルテ

 

不可思議 知りたいだけ

 

今日もひとりごと

 

なんにも無理をしないで

 

愛されたい

 

有耶無耶 さよなら 軽い眩暈

 

あなたのいない現象界

 

誰も読めないカルテ

 

自意識 溢れ出して

 

 

————————

 

 

次回

『青春ブタ野郎は月明りライブの夢を見ない』

 

米山奈々

『さすが岸和田先輩、ブタ野郎ですね』

古賀朋絵

『さすがきっしー先輩、ブタ野郎だね』

 




この章をもって、『青春ブタ野郎はピースメーカーの夢を見ない』の物語は一区切りを迎えます。

時系列でいえば、高校三年生の夏休みから、高校三年生の十一月までのお話しです。

今章は、原作では脇役として描かれている米山奈々に焦点をあて、彼女の思春期症候群を中心に据えたオリジナルエピソードとなっています。

また、原作では大学生編から登場する人物を、高校生編のタイミングで先行登場させることで、蓮真を取り巻く人間関係を掘り下げることも試みました。

前章までの蓮真は観察者として距離を保ち、他者を見つめ、支える立場でしたが、今章ではあえてその立場を一歩越えています。

米山奈々の抱える“静寂の思春期症候群”に対して、蓮真は自ら空気を壊すという、まさに咲太がとりそうな行動を選びました。それは彼にとって初めての介入であり、観察者としての在り方に揺らぎを生む出来事でもあります。

今回描くにあたり意識したのは、“静けさの中にある救い”です。米山奈々という少女の、誰にも届かない声をどう再び響かせるか。その過程で、蓮真自身の変化。観察者から行動者への一歩を描けたと思います。

次章は、この物語のメインヒロインである豊浜のどかに関するオリジナルストーリーを予定しています。

彼女の抱える声のテーマを軸に、麻衣との関係性、そして蓮真との距離の変化を丁寧に描いていきます。

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感想もお待ちしています。皆さんの一言が、次の更新への大きなモチベーションになります。これからも、ぜひお付き合いいただければ嬉しいです。

蓮真は最終的にどちらを選ぶと思いますか?

  • 豊浜のどか
  • 広川卯月
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