青春ブタ野郎はパラレルスプリングの夢を見ない 作:もドえラん
1.静けさを超えて、のどかな声を聴きにいく
十一月一日
藤沢駅前のカフェ。夜の街が、少しだけ沈黙を深めていた。
麻衣先輩は、しばらく黙って、窓の外の街灯を見つめていた。
指先でカップの取っ手をさすりながら、ゆっくりと言葉を置いていった。
「……のどか、幼い頃ね……」
そう前置きしてから、彼女はゆっくりとカップを手に取る。紅茶の湯気が、照明の光に溶けていった。
麻衣先輩は、だて眼鏡を指で外した。レンズの奥に隠れていた瞳が、ゆっくりとこちらを見つめる。
その眼差しには、役者としての鋭さと、姉としての柔らかさが同居していた。
「小さいころののどかは、本当に頑張り屋だったの。劇団のオーディションを何度も受けて、そのたびに落ちても、泣かずに“次は勝つ”って笑ってたの」
「のどかが劇団に入ったあと、同じオーディション会場で私と会ったのよ」
淡い湯気の向こうで、先輩の横顔が少しだけ遠くを見た。
「私も最初は戸惑った、でも嬉しかった。だから私も、“妹がほしいと思ってたの”って伝えたわ」
「でもその頃の私は、もう撮影現場を転々としてた。あの子にとって、私は“スクリーンの向こう側の人”になってしまったの」
「それでも忙しかった時期、毎月届く一通のファンレターだけは欠かさず読んでた」
指先がカップの縁をなぞる。
「幼い字で、“おねえちゃんはすごくかっこよかったです。じまんのおねえちゃんです”って。……あの子の言葉に、私の方が救われてたのかもしれない」
「でも、その“憧れ”が、いつしか“重さ”に変わってしまった」
「母親同士の関係もあって……のどかは、ずっと比べられてきたの」
麻衣先輩は、まぶたを伏せたまま言葉を続ける。
「去年の夏、家を飛び出して、私のところに来たの。その時はもう、泣きながら“家に帰りたくない”って」
静かな声だった。けれど、その中に確かな痛みがあった。
「それが、思春期症候群のきっかけだった。……私と、のどかが入れ替わったの」
そこまで言って、麻衣先輩は小さく息を吐いた。
「いろんなものを背負わせてしまったんだと思う。私の存在そのものが、あの子にとって壁になってたのかもしれない」
カップを置き、少しだけ目を細める。
「でもね、岸和田くん。あなたと話していると、あの子が少しだけ軽く息をしてるように見えるの」
「友だちでいいの。無理に何かをしてほしいわけじゃない」
「ただ、あの子の中で、比べることよりも、誰かを信じることの方が大事だって思えるようになったら、それで十分だから」
麻衣先輩は、そう言って微笑んだ。
押しつけがましさも、試すような強さもない、ただ静かな笑みだった。
「……俺に、それができるでしょうか」
問いというより、独り言に近い声だった。
麻衣先輩はカップを見つめたまま、優しく言う。
「できるかどうかじゃないと思うの。きっと、あなたはもうしてるのよ」
彼女はそれだけ言うと、立ち上がった。コートの裾がふわりと揺れる。
「のどかが笑っていられるなら、それでいいの。私はそれを見届けるだけ」
そう言って、麻衣先輩は軽く頭を下げた。
「ありがとう。あの子のことを、気にかけてくれて」
ドアのベルが鳴り、夜風がカフェに流れ込む。彼女の姿が人波に消えるまで、しばらく動けなかった。
テーブルの上に残された紅茶の香りが、ゆっくりと冷めていく。
胸の奥に残ったのは、重さではなく、静かな温度だった。
ポケットの中でスマホが震えた。
画面を開くと、一通のメッセージが届いていた。
《きっしー、明日の大船ライブ……来てくれるよね?》
差出人は豊浜。
短い文面なのに、どこか不安がにじんでいた。ライブ直前の緊張か、それとも、何か別の理由か。
俺はしばらく画面を見つめてから、指を動かした。
《もちろん。ちゃんと見に行くよ》
送信して数秒後、すぐに返信が返ってくる。
《やった。じゃあ、明日ステージの上から探すね》
その一文を見た瞬間、胸の奥に灯がともるような感覚があった。
《目立たないように隅で見てるけどな》
そう打つと、またすぐに返ってくる。
《きっしーはどこにいても分かるよ》
小さく息を吐いて、スマホを胸ポケットに戻した。
外の街灯がまたひとつ瞬く。それはまるで、静かに幕が上がる合図のようだった。
——明日、ステージの上で彼女がどんな顔をするのか。
それを見届けることが、今の俺にできる、たったひとつの約束だった。
十一月二日
文化祭当日。朝から校舎の前は、人の流れと笑い声であふれていた。
昇降口を抜けると、パンフレット片手に歩く生徒や、屋台の呼び込みの声が響いている。
冷たい風の中に、ほんのりと焼きそばの匂いが混じっていた。
午前中は、古賀と米山さんのクラスに顔を出した。
彼女たちの出し物は“謎解きカフェ”。
入口には「挑戦者求む!」と手書きのポスターが貼られていて、すでに行列ができていた。
「いらっしゃいませー、挑戦者さん!」
受付に立つ古賀が、満面の笑みで迎えてくれる。
「ノリが完全に店員だな」
「今日だけ特別営業ですよ。はい、これ問題用紙」
隣で案内してくれた米山さんが、少し恥ずかしそうに笑った。
「昨日、夜遅くまで仕上げてたんです。朋絵ちゃんがテンション高くて」
「奈々ちゃんが冷静すぎるだけだよ」
そんな軽口を交わしながら席に着く。テーブルの上には、コーヒーカップと手作りの謎解きカード。
問題を解き進めるうちに、気づけば時間を忘れていた。
「正解!……さすが、きっしー先輩」
古賀が小さく拍手をする。
「観察眼の勝利って感じですね」
米山さんが笑う。その笑顔を見て、思わず目を瞬かせた。
「……あれ、メガネは?」
「あ、これですか?今日だけ、コンタクトにしてみたんです」
米山さんが少し恥ずかしそうに髪を耳にかける。
「せっかくの文化祭だから、雰囲気変えてみようと思って」
「よく似合ってるよ」
そう言うと、彼女は一瞬驚いたように目を見開き、すぐに小さく笑った。
「ありがとうございます。……ちゃんと見えてますから、大丈夫です」
この間のあの曇りは、もうどこにもなかった。透明な光が、レンズのない瞳に静かに映っていた。
謎解きカフェを出たあと、少し時間が空いたので、双葉のいる科学部の展示、光と音の実験を見に行った。
去年は俺と咲太と国見くらいしか見に来ていなかったが、今年は入口の前に人の列ができていた。
中に入ると、思ったよりも明るい空間だった。
実験室の奥では、カーテンを閉めて設置された実験装置が青い光を反射している。
「光の干渉」と書かれたボードの前に、白衣姿の双葉が立っていた。
「ここでは、光の波が重なるとどうなるかを実験でお見せします」
説明をしている声が、どこか張りを帯びている。
集まった中学生や保護者たちが興味深そうにうなずいた。
「波が強め合うと、明るく。打ち消し合うと、暗く。つまり、見えるという現象は、案外不安定なものなんです」
その一言に、俺は思わず足を止めた。
——光の干渉は、見えることと、見えなくなること。
どこか、彼女らしい比喩だと思った。
説明を終えた双葉が、こちらに気づいて小さく手を振った。
「岸和田、来てたんだ」
「時間あったから、ちょっと見に来た」
「ちょっとって顔じゃないけど」
そう言って、双葉は肩をすくめる
「去年よりは人が来てるな」
「うん。珍しく賑やか。たぶん音波実験がウケてる」
教室の中央では、スピーカーと砂を使った振動実験が行われていた。
音の波が砂を跳ねさせ、模様のような形を作っていく。
子どもたちが歓声を上げ、スマホで写真を撮っていた。
「見えないものが形になるって、分かりやすいんだよ」
双葉が腕を組みながら言う。
「まぁ、そういうの、岸和田が一番好きそうだけど」
「……否定はできないな」
その言葉に、双葉が小さく笑った。
「展示の最後にアンケートあるから、感想書いていってよ」
「ちゃんと静けさを視る女って褒めとく」
「それはやめて」
軽口を交わしながら、出口へ向かう。
外に出ると、昼の光がまぶしかった。校庭の方からはバンド演奏の音が聞こえ、人の流れがさらに増えていた。
午後は、自分のクラスの展示を二人に案内した。
廊下には、クラスメイトたちが撮った写真がずらりと並んでいる。
テーマは「見つけた景色」。
「ここが、きっしー先輩のクラスなんだ」
古賀がパンフレットを手に言う。その隣で、米山さんが静かに展示の並びを見つめていた。
「ああ。写真展で、みんなでテーマを決めて撮ったんだ」
俺の担当は、旅先で撮った写真だった。
日本平から撮った富士山。
夏の夕方、道後温泉本館の屋根に座る猫。
そして、浜辺に残った足跡の連なり。
「きっしー先輩の写真、やっぱり上手いなぁ」
古賀が感嘆の声を漏らす。
「構図とかじゃなくて、“空気”が写ってる感じ」
「……空気、か」
自分でも少し照れながら、写真の前に立つ。観察者として記録してきた静けさが、こうして形になっているのは不思議だった。
「この猫、なんか岸和田先輩っぽいですね」
米山さんが、指先でそっとパネルの縁をなぞる。
「それは褒め言葉か?」
「はい。落ち着いてて、でもちゃんと周りを見てる感じ」
「わー、それ分かる!」
古賀が笑いながら頷く。
「“観察猫”って感じだよね」
「そんな種類いないけどな」
三人の笑い声が重なり、教室の空気が少しだけ和らぐ。写真の中の猫も、どこか得意げに見えた。
「……でも、ほんと不思議です」
米山さんが、小さく呟く。
「こうやって見る側の岸和田先輩の写真を見てると、なんだか逆に見られてる気がして」
「それは、カメラマン冥利に尽きるな」
「そういう意味じゃないですよ」
彼女が笑う。その瞳には、以前の曇りはもうなかった。コンタクト越しの光が、確かに世界を映していた。
「さっきの猫、あたしも撮ってみたいな」
「その時は、俺がモデル料取るぞ」
「じゃあ、シュークリーム一個でお願い」
軽口が自然と混ざる。
文化祭の喧噪が遠くで響く中、三人の笑い声が柔らかく溶けていった。
廊下の外では、秋の陽射しが窓を透かして差し込んでいた。その光の中で、三人の影が並んで伸びていく。
——音のある静けさ。それが今、この場所に確かにあった。
写真展を見終えたあと、三人で屋台エリアへ向かった。
中庭では、焼きそばのソースの匂いやクレープの甘い香りが入り混じっている。
文化祭らしいざわめきが、校舎の隙間を心地よく満たしていた。
「わー、クレープの列、すごい!」
古賀が嬉しそうに声を上げる。
「きっしー先輩、どれ食べます?クレープ?チョコバナナ?それとも期間限定のマロン?」
「いや、どれも糖分過多だろ」
「甘いものは脳にいいんじゃん」
古賀が腕を組んで主張する。
「……じゃあ、クレープで」
そんなやり取りに、米山さんがくすっと笑った。
「朋絵ちゃん、屋台だと急にテンション上がるよね」
「だって文化祭だよ!テンション上がらなきゃ損だよ」
注文を終えてクレープを受け取ったところで、ふと前方から聞き覚えのある声がした。
「かえちゃん、そっち行くと焼きそばこぼれるよ」
「え、うそ、うわっ熱っ!」
「だから言ったじゃん!」
「こみちゃん、笑わないでよ〜!」
目を向けると、屋台の列の向こうに咲太の姿があった。
花楓ちゃんと、もう一人、鹿野琴美さんを連れている。
「……あれ、岸和田?」
咲太が気づいて手を振った。
「よう。兄妹水入らずか?」
「まあ、そんなとこだな。花楓が初めて文化祭来たいっていうから、鹿野さんも一緒に案内してたんだ」
「へぇ、鹿野さんも楽しんでる?」
鹿野さんは少し照れたように頷いた。
「はい……でも、思ってたより人多くて、ちょっとびっくりしてます」
「まぁ峰ヶ原の文化祭は、ちょっとした名物だからな」
そう言いながら、花楓ちゃんが綿あめを差し出してくる。
「蓮真さんも食べます?」
「いや、遠慮しとく。歯が全部甘くなりそうだ」
「じゃあ代わりにこみちゃんどう!」
「え、えぇ!?」
「ほらほら!」
そんな賑やかなやり取りに、咲太が苦笑する。
「人混み平気になったんだな」
「まあ、少しずつ、な」
咲太は静かに目を細めた。その視線の先で、花楓ちゃんが鹿野さんの腕を引いて笑っていた。
「文化祭って、いいもんだな」
「らしくないな、咲太が言うと」
「お前もな」
お互いに小さく笑い合う。
その後ろで、古賀と米山さんがクレープを半分こしていた。
このざわめき、この空気。誰もが誰かと笑い合っていて、どこかで音楽が流れている。
それだけで、十分だと思えた。
俺はふと思い出して口を開いた。
「そういえば、花楓ちゃんと鹿野さんって、今日のスイートバレットのライブ、見に行くのか?」
花楓ちゃんがぱっと顔を明るくした。
「行きます!のどかさん、すっごく楽しみにしてたんですよ!」
「私も……!」
鹿野さんも恥ずかしそうに頷く。
「この日のために、ずっと曲聴いてきたんです」
「へぇ、ガチ勢だな」
俺が笑うと、花楓ちゃんは嬉しそうに胸の前で紙袋を掲げた。
「これ、ライブのあと渡すんです。メンバーのみなさんに」
「……それ、プレゼントか?」
「はい。みんなで作ったお菓子なんです。こみちゃんと昨日、一緒にクッキー焼いたんですよ」
鹿野さんも同じような紙袋を抱えて微笑む。
「控え室まで行く予定なんです。のどかさんたち喜んでくれるといいな」
「そっか。いい贈り物だな」
俺が言うと、花楓ちゃんは嬉しそうに頷いた。
「蓮真さんも、ライブ行くんですか?」
「……ああ、行くよ」
「じゃあ!」
花楓ちゃんが嬉しそうに身を乗り出す。
「ライブ終わったあと、一緒に控え室行きませんか?」
鹿野さんも小さく頷く。
「三人で行けたら、きっとメンバーのみなさんも喜びます」
「……そうだな」
俺は少しだけ考えてから頷いた。
「じゃあ、一緒に入場しようか。それで、ライブが終わったら、俺も控え室に行くよ」
花楓ちゃんがぱっと笑顔を咲かせる。
「約束ですよ、蓮真さん!」
その声に、鹿野さんも嬉しそうに笑った。
約束。その言葉が、胸の奥で小さく響いた。
それはまるで、次の幕の合図のように。
「じゃ、俺は古賀と米山さん待たせてるから、またあとで」
「了解。じゃあな」
軽く手を上げて別れる。
咲太たちが人混みに消えていくのを見送りながら、俺は手にしたクレープを一口かじった。
クレープの甘さが、思ったよりも控えめで心地よかった。
「……どうしました?」
米山さんが首をかしげる。
「いや、ちょっと思っただけ。こういう時間も悪くないなって」
古賀が笑う。
「きっしー先輩、やっと文化祭モードになってきたね!」
古賀がクレープの包み紙を丸めながら笑った。
「お腹も満たされたし、次どこ行く?」
「うーん……まだ時間あるし、もうちょっと見て回りたいかなあ」
米山さんがそう言って、風に揺れる前髪を押さえる。
午後の日差しが校舎の壁を橙に染め、祭りの熱気も少しずつ落ち着きを見せ始めていた。
屋台の喧騒が遠のくたび、どこか懐かしい放課後の匂いが戻ってくる。
「こっちの方、まだ行ってないよね」
古賀が中庭を抜ける渡り廊下を指さした。
「じゃあ見てみるか」
俺が頷いて歩き出す。
人の流れが少し緩やかになった通路を抜けたときだった。前方に、小さな人だかりができているのが目に入った。
背の高い男子生徒が、校内を歩きながら誰かに説明している。
「ここが体育館。文化祭のメイン展示もやる場所だ」
見上げるほど大柄なその男子は、バスケ部の加西虎之介だった。
この間の体育祭で、玉入れや借り物競争で見かけた、国見のバスケ部の後輩だ。
彼の隣を歩くのは、藤色のマフラーを巻いた小柄な女子。髪を耳にかける仕草が、いかにも年下らしい。
「へぇ……すごい人だね虎ちゃん」と、少し緊張したように笑っていた。
進学先の下見か何かだろうか。俺はただ通りすがりに視線を外した。
名前も知らないその子が、後に俺の大学生活に関わってくるとは思いもしなかった。
午後の陽射しがゆっくりと傾き、校舎の影が長く伸びていた。
模擬店の音楽も少しずつ途切れ、風に乗って紙コップの転がる音が響く。
「そろそろ片づけに戻らなくっちゃ」
古賀の声に、米山さんが頷く。
「うん。今日、楽しかったね」
「そうだな」
昼間の賑わいが嘘みたいに落ち着いて、校内には“終わり”の気配が漂っていた。
三人で後片づけを済ませると、昇降口の方からチャイムが鳴った。
放送部が「本日の文化祭は終了です」と告げるアナウンスを流している。
その声を聞きながら、米山さんがほっと息をついた。
「文化祭、終わっちゃいましたね」
「終わるとあっという間だな」
古賀が手を腰に当てて笑う。
「でも、今年は特に濃かった気がする」
「そうだな」
俺は、彼女たちの笑顔を見ながら頷いた。
“音のない教室”を見たあの日から、二週間しか経っていないのに、今のこの穏やかな時間が嘘みたいに思えた。
「じゃ、片づけも終わったし、今日はここまでだね」
米山さんが鞄を肩にかけて言う。
「朋絵ちゃん、また明日」
「うん。またね」
米山さんが帰っていくのを見送り、昇降口の脇でスニーカーの紐を結び直す。
「あ、きっしー先輩」
夕暮れに照らされた古賀の顔は、少し汗ばんでいるのにどこか晴れやかだった。
「今日は、一緒に回ってくれてありがとう」
「なんだ、改まって」
「だって、ほんとに楽しかったんだもん」
古賀は少し照れくさそうに笑う。
「奈々ちゃんも、“あんなに笑ったの久しぶりかも”って言ってた」
「そっか。それならよかった」
短く答えて腕時計に目を落とす。
「悪い、これから大船に行かなきゃ」
「大船?」
「豊浜のライブがあるんだ」
「あ……そっか」
古賀は一瞬驚いたように目を瞬かせ、それから笑みを浮かべる。
「じゃあ、気をつけて。……またバイトでね!」
「おう」
古賀の笑顔を背に、昇降口を出た。
校門の外では、オレンジ色の光がまだ空に残っている。
落ち葉が風に乗って舞い、昼間の喧騒が遠くに霞んでいく。
電車に乗る頃には、空はすっかり群青に変わっていた。
窓の外を流れる街の灯りが、車内のガラスに滲む。
ふとスマホの画面が光った。差出人は花楓ちゃん。
《もうすぐ開場です!》
送信者は花楓ちゃん。続けて、
《こみちゃんと入口で待ってます!》
思わず口元が緩む。
《了解。すぐ行くよ》
送信を終えると、車内の揺れがゆっくりと心に染み込む。
——文化祭が終わっても、音はまだ止まらない。
大船駅に着くと、夜風が頬を撫でた。
通りにはライブ会場へ向かう人の流れができていて、
その先から聞こえるベース音が、夜の街をかすかに震わせていた。
——今日の彼女を、ちゃんと見届けよう。
そう思いながら、俺は歩き出した。
ポケットの中のチケットが、ほんの少しだけ熱を帯びていた。
物語解説
この章から、物語はいよいよ高校生編のクライマックスへと静かに歩みを進めます。
麻衣の言葉を通して描かれたのは、豊浜のどかという少女が抱えてきた見えない影でした。
それは、幼い頃から続いてきた努力と比較の中で、誰にも言えなかった痛みや、心の奥に沈んでいた静けさ。そんな彼女の過去を聴くことで寄り添う。この章での蓮真の役割は、まさにその一歩といえます。
しかし彼はまだ解決者ではなく、ただの観察者にすぎません。けれど、その観察が確かな優しさに変わる瞬間を、この章で感じ取ってもらえたなら嬉しいです。
そして物語は、文化祭を越え、ステージの光へと向かいます。のどかの抱える影とは何なのか。そして蓮真は、咲太のように踏み込むのか
それとも、彼だけのやり方で“支える”ことを選ぶのか。
静けさの先に、まだ見ぬ答えが待っています。その続きを、どうか見届けてください。
蓮真は最終的にどちらを選ぶと思いますか?
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豊浜のどか
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広川卯月