青春ブタ野郎はパラレルスプリングの夢を見ない   作:もドえラん

34 / 84
4.届かぬ声を信じて、君の背を見守る

 

 十一月二十二日

 

 快晴の空と、秋の香りを含んだ潮風が横須賀駅前を包んでいた。

 

 港町特有の塩の匂いと、鉄と油のかすかな香りが入り混じり、空気の中に薄い金属の音が漂っている。

 

 海沿いの街らしい、少し寂しげで、それでいてどこか懐かしい匂いだった。

 

 今日はこの間の誘いで、豊浜と二人きりで出かけることになった。

 

 受験前の息抜き。朝の光はまだやわらかく、遠くの海が白く光っている。

 

 「きっしー、こっちこっち!」

 

 人混みの向こうで、豊浜が手を振っていた。

 

 いつもの編み込みサイドポニーテールではなく、今日は髪を下ろし、柔らかく波打つ金髪が肩にかかっている。

 

 風が吹くたび、その髪がふわりと浮かび、光を受けて琥珀色にきらめいた。

 

 「……お前、髪下ろすと印象変わるな」

 

 思わず口にすると、豊浜は少しだけ頬を染めて笑った。

 

 「ふふ、今日はアイドルオフデーだから。卯月とかにもあんまり見せないレアバージョン」 

 

 「……似合ってる」

 

 「ありがと。お姉ちゃんに言われたんだ、『たまには下ろしてみたら』って」

 

 「へぇ、麻衣先輩から」

 

 「うん。なんか、今日はこのままでいたかったの」

 

 その言葉の意味を、俺はまだ深く考えずにいた。

 

 港へ向かう道を歩く。

 

 朝の光が海面をまぶしく照らし、遊覧船の白い船体がゆっくりと揺れている。

 

 観光客たちの声、カモメの鳴き声、波のぶつかる音。

 

 全部が穏やかで、どこか遠い記憶の中の夏のようだった。

 

 「このあと、海軍クルーズ乗らないか?」

 

 ふと思い出して提案すると、豊浜が首をかしげる。

 

 「なにそれ?」

 

 「軍港を回る船。護衛艦とか潜水艦とか近くで見られるんだ。前から一度行きたくて」

 

 「へぇ、きっしーそういうの好きなんだ?」

 

 「まあな。小学生の頃、プラモデルとか作ってたし」

 

 「ちょっと意外。でも、似合うかも」

 

 そう言って笑ったその顔が、潮の光に照らされてまぶしかった。

 

 桟橋の上で船を待ちながら、豊浜はスカートの裾を押さえて立っている。

 

 風に吹かれた髪が頬にかかり、彼女はそれを指先で整えた。

 

 その仕草だけで、まるでステージの照明が一瞬だけ灯ったように感じられる。

 

 いつも観客の前に立つ彼女が、こうして自然の光の中にいるのが不思議だった。

 

 船がゆっくりと動き出す。

 

 岸壁との間に白い泡が生まれ、エンジンの低い唸りが足元から伝わる。

 

 豊浜はデッキの手すりに手をかけ、風に目を細めた。

 

 その表情は、ステージで見せる笑顔とはまるで違う。

 

 誰に見られるでもなく、ただ風と海に向けられた穏やかな顔だった。

 

 「ねぇ、きっしー」

 

 「ん?」

 

 「こういうの見てるとさ……みんな頑張ってる感じがして落ち着くんだ」

 

 「頑張ってる?」

 

 「うん。船の人たちも、港の人も、海の向こうで働いてる人も。それぞれの場所でちゃんと動いてるっていうか。……そういうの、安心する」

 

 そう言って、豊浜は護衛艦の甲板を見つめた。

 

 甲板の上では作業服姿の隊員たちが小さく手を振り返してくる。

 

 豊浜も思わず手を振り、少し照れくさそうに笑った。

 

 「なんか、ライブと似てるね」

 

 「ライブ?」

 

 「うん。見えないところでいろんな人が動いてる。ステージに立つのはあたしたちだけど、支えてくれる人がいなきゃ成り立たない。……そう考えると、ちょっとだけ頑張れる気がする」

 

 その言葉に、俺は何も返せなかった。

 

 返す言葉を探しているうちに、風の音だけが残る。

 

 海面の反射が、彼女の頬をゆっくりと照らしていた。笑っているようにも見えるし、何かを耐えているようにも見えた。その微妙な揺らぎが、俺にはやけにリアルに思えた。

 

 しばらくの沈黙のあと、豊浜がぽつりと呟いた。

 

 「……あたしさ、最近少し怖いの。何かを頑張るってことが、“ちゃんと見てもらうため”なのか、本当に自分のためなのか、わかんなくなる時がある」

 

 「……豊浜」

 

 名前を呼ぶと、彼女は小さく首を振った。

 

 「ごめん、変なこと言ったよね。忘れて」

 

 そして、無理に笑みを作る。

 

 その笑顔が、海風の中で少し滲んで見えた。

 

 船はゆっくりと港に戻っていく。

 

 汽笛の音が、低く、長く響いた。

 

 静かな音だった。まるで、誰かの胸の奥で鳴ったため息みたいに。

 

 港に戻ったあと、二人でヴェルニー公園を歩いた。

 

 秋の薔薇が咲き始めていて、潮風に甘い香りが混ざっている。

 

 鉄柵越しの海面が午後の日差しを反射し、ゆらめく光の粒が足元を照らした。

 

 軍港の向こうでは、巨大な艦の影がゆっくりと揺れている。

 

 豊浜は両手をポケットに入れたまま歩いていた。

 

 海風が吹くたびに髪が揺れ、その度に彼女は小さく瞬きをする。

 

 風に散った金色の髪が、光の中で溶けていくようだった。

 

 「……あれ?」

 

 前方から声がかかる。

 

 制服ではない、私服姿の古賀だった。

 

 隣には、落ち着いた色のカーディガンを羽織った米山さんがいる。

 

 二人とも紙袋を下げていて、買い物帰りらしい。

 

 「あれ古賀に米山さん、お前らも来てたのか」

 

 「偶然ですね。きっしー先輩と、あっ、もしかして……豊浜さん?」

 

 古賀が少し驚いたように目を見開く。

 

 「……やっぱり。去年の文化祭ぶりですよね」

 

 「古賀さんだよね?うん、そうかも。あのとき以来かな」

 

 豊浜は軽く笑いながらも、どこか懐かしそうに目を細めた。

 

 「オープンキャンパスで少しお話しましたよね?」

 

 米山さんが柔らかく言う。

 

 「うん。米山さんだっけ?きっしーの後輩の」

 

 「はい。覚えていただいてて嬉しいです。あのときはサイドテールだったから、最初わかんなくて」

 

 「今日はオフでね」

 

 豊浜は照れくさそうに髪を触れる。

 

 風に揺れる金色の髪が光を受け、三人の間に小さな沈黙が落ちた。

 

 古賀は笑いながらも、豊浜の方に視線を向けた。

 

 「豊浜さん。髪下ろしてるのすごく似合ってます」

 

 「ありがと」

 

 豊浜は少し驚いたように目を瞬かせ、照れくさそうに微笑んだ。

 

 「……あたしも、伸ばしてみようかなぁ」

 

 米山さんが目を丸くする。

 

 「朋絵ちゃん、前髪切ったばっかじゃん」

 

 「うん。でも、ちょっとイメチェンしたくなった」

 

 古賀は髪先をつまみながら笑った。

 

 秋の陽に照らされたその横顔は、少しだけ大人びて見えた。

 

 豊浜はふっと息を漏らし、小さく頷いた。

 

 「いいと思うよ。変えるのって、勇気いるけど楽しいから」

 

 「そう、ですよね」

 

 古賀はうれしそうに微笑み、米山さんと顔を見合わせた。

 

 「それにしても、豊浜さんオーラすごいですね。私服でも目立ちます」

 

 「え、そんなことないって」

 

 「いや、ほんとに。なんか……ちゃんと前に進んでる人って感じがします」

 

 その言葉に、豊浜は少し戸惑ったように笑った。

 

 ほんの一瞬だけ、視線が海の方へ逃げる。

 

 短い会話のあと、古賀たちは手を振って去っていった。

 

 風に乗って、二人の笑い声が遠ざかっていく。

 

 残された俺たちの間に、潮風が静かに流れた。

 

 海面に浮かぶ光の粒が、まるで時間の欠片みたいに揺れている。

 

 「……なんか、嬉しかった」

 

 豊浜が小さく呟いた。

 

 「え?」

 

 「褒められたのもそうだけどね。誰かが自分を見て変わってみようって思ってくれるのって、ちょっと不思議」

 

 「お前らしいな」

 

 「ふふ、そう?」

 

 豊浜は手すりにもたれ、港の水面を見つめた。

 

 潮の匂いが、金髪の隙間を通り抜けていく。

 

 その横顔は穏やかで、けれどどこか遠くを見ているようでもあった。

 

 「……あたし、ずっと“変わりたい”って言いながら、本当は怖がってたのかも。でも、さっき古賀さん見てたら、なんかちょっと嬉しくなっちゃった」

 

 「嬉しい?」

 

 「うん。あたしのことで、誰かが前向きになってくれるなら……それだけで少し報われる気がする」

 

 「……お前、ほんと真面目だな」

 

 「そう? たぶん、ただの性格だよ」

 

 豊浜は軽く笑い、風に揺れる前髪を指で押さえた。

 

その仕草は無意識で、だからこそ綺麗だった。

 

 彼女が笑うたび、港の光がやわらかく反射する。

 

 その一瞬一瞬を、俺は言葉にできずに見つめていた。

 

 薔薇の花弁がひとつ、風に舞って海に落ちる。

 

 波がそれを飲み込み、光の向こうへ連れていった

 

 波が薔薇の花弁を飲み込んだあと、豊浜は小さく息を吸った。

 

 「ねえ、きっしー」

 

 「ん?」

 

 「このあと、猿島行っていい?」

 

 「昨日、行きたいって言ってたもんな。行こうか」

 「……いいの?」

 

 「もちろん」

 

 「やった」

 

 豊浜は子どもみたいに笑って、リュックの肩紐を握り直した。

 

 フェリーに乗り込むと、船体がゆっくりと岸を離れる。

 

 エンジンの低い振動が足元に伝わり、潮の匂いがいっそう強くなる。

 

 甲板には観光客が数組。風が吹くたび、髪がふわりと揺れた。

 

 「きっしー、あそこ見て。すごい、もう島が見えてる」

 

 豊浜が指をさす。

 

 海の向こうに、深い緑に包まれた無人島が浮かんでいた。

 

 陽光を受けた岩肌がところどころ白く光り、その静けさがまるで時間の外側にあるように感じられた。

 

 「なんか、不思議な場所だな」

 

 「ね。人が住んでないのに、ちゃんと道があって、建物があって……」

 

 「こういう“空っぽ”って、ちょっと憧れる」

 

 「憧れる?」

 

 「うん。だって、誰もいないってことは、誰の期待もないってことじゃん」

 

 豊浜はそう言って、風に吹かれながら海を見つめた。

 

 その横顔には、ほんのわずかに影が差していた。

 

 島に着くと、木漏れ日の中を歩く。

 

 苔むしたレンガのトンネル、砲台跡、崩れかけた階段。

 

 どこも時間の手触りが残っていて、人の声よりも、風の音のほうがよく響いた。

 

 彼女はレンガの壁を指先でなぞる。ざらりとした感触に、細い指が止まる。

 

 「たぶん、あたし、こういうとこ好きなんだと思う。明るすぎるより、少し曇ってるくらいが落ち着く」

 

 「意外だな。舞台の上の方が似合うと思ってた」

 

 「うーん、そうかも。でも……たまには“影”の中に戻りたくなる時もあって」

 

 そう言って笑う顔は、どこか儚げだった。

 

 海辺に出ると、遠くに艦船の影が小さく見える。

 

 豊浜はしゃがみ込み、波打ち際の石を拾い上げた。

 

 「見て、ハートみたいな形」

 

 「ほんとだ。持って帰るのか?」

 

 「ううん、ここに置いとく」

 

 そう言って、彼女は石をそっと戻した。波が寄せて、また静かに引いていく。

 

 「誰かが拾っても、それはそれでいいの」

 

 「どうしてだ?」

 

 「その人がちょっとでもいい日だったなって思えたら、それだけで意味ある気がする」

 

 その言葉が、海風よりも深く胸に響いた。

 

 きっと彼女は、いつもそうやって誰かの心に小さな石を残してきたのだろう。

 

 自分が気づかないうちに。

 

 フェリーで港に戻ると、午後の光が傾きはじめていた。潮風の匂いに、少しだけ冷たい空気が混ざる。

 

 「ねぇ、きっしー」

 

 「ん?」

 

 「横須賀美術館も行っていい?バスで行かないとだけど」

 

 「もちろん。まだ日もあるしな」

 

 「やった」

 

 豊浜はそう言って、嬉しそうにリュックの肩紐を握り直した。

 

 バスの窓から、港の景色が少しずつ遠ざかっていく。

 

 陽射しがオレンジ色に変わり始め、建物の影が長く伸びていた。

 

 豊浜は窓の外をじっと見つめたまま、何も言わない。

 

 その横顔は静かで、まるで夕方の光と一緒に溶けていくようだった。

 

 美術館に着くと、白い建物が立っていた。ガラス越しに見える展示室の光が、まるで波の反射みたいに柔らかく揺れている。

 

 「きれい……」

 

 豊浜が小さく呟く。

 

 館内は思ったより人が少なく、足音と空調の音だけが淡く響いていた。

 

 二人で静かに展示室をまわる。

 

 「この絵、夕方の海かな」

 

 豊浜が立ち止まる。

 

 群青と橙が混ざり合うキャンバスに、沈みかけた太陽が一筋の光を残していた。

 

 「今日みたいだな」 

 

 俺がそう言うと、豊浜は少しだけ笑って、頷いた。

 

 展示室の奥のガラス壁を抜けて、屋上テラスに出る。

 

 視界いっぱいに広がる海が、夕陽で金色に染まっていた。

 

 風が吹くたび、髪がゆっくりと揺れる。

 

 「……すごいね」

 

 「本当に絵みたいだ」

 

 遠くに対岸の房総半島の影が、うっすらと浮かんでいる。

 

 沈みかけた太陽の輪郭が、海面にゆらゆらと滲んでいた。

 

 「この景色、忘れたくないな」

 

 豊浜がぽつりとつぶやく。

 

 「忘れないだろ」

 

 「うん。……でも、忘れたくないって思う瞬間ほど、いちばん早く薄れてく気がする」

 

 その言葉に返す言葉を見つけられず、俺はただ隣で同じ空を見ていた。

 

 風の音と波の匂い、そして沈む光。

 

 言葉よりも確かなものが、そこにあった。

 

 夕陽が完全に沈む頃、豊浜は小さく息を吐いて笑った。

 

 「ありがとう、きっしー」

 

 「なんでお礼?」

 

 「んー、なんとなく。今日のこと、きっとずっと覚えてる」

 

 その声は風に溶けて、海の向こうに消えていった。

 

 「……ねぇ、きっしー」

 

 「ん?」

 

 「あたしさ、やっぱり……」

 

 豊浜がこちらを向いて、口を開く。唇が確かに言葉の形をつくった。けれど、音だけが空気に滲んで消えた。

 

 「え?」

 

 思わず聞き返すと、彼女は一瞬だけ困った顔をして、同じ言葉を繰り返す。

 

 でも、肝心の彼女の声だけが、輪郭を失っていた。

 

 豊浜は小さく笑って首を振る。

 

 「……ごめん、後ででいいや」

 

 豊浜の視線は足元に落ち、髪が海風に揺れた。

 

 ——一瞬。この間見た影が、また顔を出した。

 

 けれど次の瞬間、豊浜は笑顔を作り直す。

 

 「ほら、暗くなる前に帰ろ」

 

 そう言った彼女の仕草は、少しだけぎこちなかった。

 

 バスで横須賀中央駅に戻り、改札を抜け、並んでホームに立つ。

 

 夜の空気はすでに冷たく、潮の香りがかすかに残っていた。

 

 電車接近のアナウンスが流れる、はずだった。

 

 「……ねぇ、今なにか流れた?」

 

 豊浜が小首をかしげる。

 

 「電車来るって言ってたぞ」

 

 俺は当たり前に答える。

 

 「そっか……」

 

 豊浜は軽く笑って、誤魔化すように前を向いた。風に揺れる髪が、月明りを受けて淡く光る。

 

 帰りの電車。窓に映る豊浜の横顔は、やけに白く見えた。

 

 外の景色が過ぎていくたびに、その輪郭が少しずつ遠ざかっていくように思えた。

 

 藤沢駅で別れる前、改札の少し手前で豊浜が立ち止まった。

 

 夜風が髪をほどいて、耳のあたりで小さく鳴る。

 

 「……あのさ、きっしー」

 

 「何?」

 

 「お姉ちゃんの誕生日、十二月二日でしょ。その日に、ちゃんと伝えようと思う」

 

 「当日、伝える?」

 

 「うん。プレゼント渡す時に。あたしやっぱりお姉ちゃんと一緒に暮らしたいから」

 

 言いながら、視線は俺の肩のあたりをさまよっていた。

 

 迷いはある。けれど、決めようとしている顔だった。

 

 「いいと思う。背中、押すよ」

 

 「ありがと」

 

 その一言も、さっきとは違ってきちんと耳に届いた。

 

 彼女は軽く笑い、改札へ歩きだす。振り返った口元が「またね」と動く。

 

 今度は、ちゃんと俺に届いた。

 

 ——横須賀の雑踏では零れ落ちた言葉が、藤沢の夜気には掬われた。

 

 理由はわからない。ただ、そういう日もあるのだと思う。

 

 豊浜の背中が人の流れに紛れていく。その姿が完全に見えなくなるまで、俺はしばらくその場に立っていた。

 

 十二月二日。彼女の言葉が、いちばん届いてほしい人に届くよう、願いながら。

 

 十一月二十五日

 

 バイト明け。油の匂いが、指先にまだ残っていた。ファミレスの裏口から出ると、夜気は乾いていて、白い息がすぐ形になる。

 

 店の角を曲がったところで、見覚えのある背丈が二つ、街灯の下をゆっくり歩いているのが見えた。

 

 「……おーい、咲太、花楓ちゃん」

 

 振り返った彼は片手を上げる。反対の手には

小さな紙袋。リボンがまだほどかれていない。

 

 「蓮真さん。こんばんは」

 

 「お、岸和田。時給稼ぎおつかれ。いま帰りか?」

 

 「なんだよ時給稼ぎって。さっき上がったところだよ。それと花楓ちゃん」

 

 並んでいた彼女が、マフラーに顔を半分埋めたまま、ぺこりと会釈した。手にはウサギのシールが貼られた包み。

 

 「誕生日、おめでとう」

 

 花楓ちゃんはマフラーの陰からこちらを見上げた。

 

 「ありがとうございます、蓮真さん。でも……どうして、私の誕生日ご存じなんですか?」

 

 「まぁ、咲太からこの間聞いたからな」

 

 その瞬間、花楓ちゃんの頬が赤くなった。

 

 「も、もうお兄ちゃん!そういうの言わなくていいから!」

 

 「別に減るもんじゃないだろ」

 

 咲太は悪びれもせず笑う。

 

 「そういう問題じゃないの!」

 

 マフラーで顔を隠しながら、花楓ちゃんはぷいと横を向いた。夜風に揺れたマフラーの端が、照明の光をやわらかく反射している。

 

 「まぁまぁ、機嫌直せって」

 

 「じゃ、僕らはここで。じゃあな岸和田」

 

 「蓮真さん。受験終わったらまたライブ行きましょうね!」

 

 「ああ。楽しみにしてるよ」

 

 花楓ちゃんが少し歩き出してから、ふと思い出したように振り返った。

 

 「そういえば、この間卯月さんに会ったら“またきっしーと勉強会したい”って言ってましたよ」

 

 「そうなんだ。じゃあ、また勉強会やるようにづっきーに連絡しとくよ」

 

 「はい、伝えときます!」

 

 そう言って、彼女は満足そうに笑った。

 

 手を振る花楓ちゃん、軽く肩を上げる咲太。

 

 信号の赤が二人の背を染め、やがてその光の中に溶けていった。

 

 帰宅して、シャワーを浴びたあと。ベッドの上でスマホを手に取る。

 

 《きっしー観察会》のグループチャットが光っていた。

 

 俺は花楓ちゃんの言葉を思い出しながら、メッセージを打ち込む。

 

 《さっき花楓ちゃんから聞いたけど、づっきーが、また勉強会やりたいのか?》

 

 《もし予定合うなら、また中央図書館で集まるか?》

 

 すぐに既読が二つ並ぶ。

 

 《ほんとに!?やりたい!あそこ静かで集中できるし、机の角がちょっと丸くて好きなんだよね!》

 

 《そこ!?理由そこなの!?》

 

 《触ると落ち着くじゃん!あと、帰りにまたのオムライス食べたい》

 

 《……で、いつが空いてる?》

 

 《私、十二月十二日空いてるよ〜》

 

 《あたしも。次の週に受験最後の模試もあるし》

 

 《そうなのか。俺もだよ。じゃあ十二月十二日で決まりだな》

 

 《オッケー、よろしくねきっしー》

 

 《りょーかい!私も朝からやる気全開で頑張る!》

 

 メッセージが流れていく画面を見ながら、ふと笑みがこぼれた。

 

 スマホの画面に、軽快なスタンプが二つ並ぶ。テンポの良さが、まるで三人の距離をそのまま表しているようだった。

 

 少し笑いながらスマホを伏せる。

 

 外は静かで、冬の風がカーテンをゆっくり揺らしていた。

 

 十二月二日

 

 窓の外、薄い冬陽が校庭の白線を撫でていた。十二月の空気は乾いていて、声は遠くまで届きそうだった。

 

 「今日は麻衣先輩の誕生日か」

 

 豊浜も、今日伝えるって言ってたな。実家に戻るかどうか。

 

 この冬の風が吹くころ、どんな言葉を選ぶんだろう。その声がちゃんと届くことを、ただ祈るしかない。

 

 昼休み、図書室の窓際で問題集を閉じると、向かいで咲太が欠伸を噛み殺した。外は冬の陽ざし。窓ガラスに反射した白い光が、机の上の文字を淡く照らしている。

 

 「よお咲太」

 

 「岸和田か。どうした?」

 

 「この前の模試、どうだった?」

 

 「僕?A判定。……これなら、麻衣さんと同じ大学も射程圏内だな」

 

 「おお、やるな」

 

 「やらないと麻衣さんに怒られるからな。倍率五倍だからまだ怖いけど」

 

 「岸和田はどうだった?」

 

 「俺は……まあ、余裕だったな」

 

 「だろうね。流石優等生」

 

 咲太は肩をすくめて、問題集を閉じた。

 

 ページを揃えながら、ふと思い出して口にする。

 

 「そういえば今日、麻衣先輩の誕生日だろ。プレゼントか何かあげるのか?」

 

 「岸和田、麻衣さんの誕生日知ってたんだな」

 

 「まぁ豊浜から聞いてるしな」

 

 咲太は少しだけ目を細めて、小さな包みをちらっと見せた。黒のリボンが結ばれている。

 

 「それか?」

 

 「ああ、台本カバー。麻衣さん相変わらず撮影が多いからな」

 

 「実用派だな」

 

 「去年は碌に誕生日祝えなかったからな。年に一回くらいはな」

 

 「そうか。麻衣先輩喜んでくれるといいな」

 

 そう言って立ち上がり、俺は図書室をあとにした。

 

 窓の外、薄い冬陽が校庭の白線を撫でていた。十二月の空気は乾いていて、声は遠くまで届きそうだった。

 

 放課後、帰りの電車の中。吊革に片手をかけながら、スマホの画面を開いた。

 

 トーク一覧の上に「桜島麻衣」の名前がある。少し迷ってから、短く打った。

 

 《麻衣先輩、お誕生日おめでとうございます》

 

 送信ボタンを押すと、車窓の外に冬の夕陽が流れていった。

 

 既読がつくまでの数秒が、やけに長く感じられた。

 

 数分後、返信が届く。

 

 《ありがとう。岸和田くん》

 

 《あとさっき、のどかと話したわ。実家のことちゃんと伝えてくれた》

 

 《 ……でも、少し疲れてるみたいだったわ。声は明るかったけど、どこか響きが違ってたの》

 

 指が一瞬止まる。「響きが違う」という言葉が、胸の奥に引っかかった。

 

 《受験も近いですし、いろいろ抱えてるんだと思います。でも、無事に伝えられたならよかったです》

 

 《ええ。あの子なりに、前に進もうとしてるのはわかる。だから、あとは見守るだけね》

 

 《岸和田くん、のどかのことお願いね》

 

 その一文を見た瞬間、心の奥に小さな熱が灯るのを感じた。

 頼まれた、というより、託された気がした。

 

 《任せてください》

 

 送信すると、画面の明かりがふっと落ち着いた。外では、夕陽がゆっくりと沈み、街の灯りがひとつ、またひとつ灯っていく。

 

 ——豊浜、ちゃんと伝えられたんだな。少し安心して、窓の外に目を向けた。

 

 その光の中に、疲れを隠した笑顔が一瞬浮かんだ気がして、俺はほんの少しだけ胸の奥を押さえた。

 




物語解説

今回の物語では、のどかの届かぬ声と、それを信じる蓮真の思いが、冬の季節の中で交わりました。

猿島の静寂と、夕陽に染まる美術館。その一日を通して描かれたのは、豊浜のどかが伝えるという行為と向き合う姿です。

しかし、言葉は届いたはずなのに、どこか響きが違う。声は確かにあったのに、耳には届かないことがある。そんな小さなずれが、やがて大きな歪みの前触れになる。

それを感じ取りながらも、蓮真はただ見守ることしかできません。

彼は言葉をかけるより、ただ隣にいること。届かぬ声を信じて、誰かの勇気を祈ること。それが彼なりの優しさであり、覚悟でもあります。

一方で、麻衣のまなざしは、妹を思い、後輩に妹を託します。それは見えない糸のように三人をつなぎとめています。

海辺の街から始まったこの冬のお話しは、やがて聞こえない声と、届きたい想いが重なり合う場所へと続いていきます。

どうかその続きを、見届けてください。

蓮真は最終的にどちらを選ぶと思いますか?

  • 豊浜のどか
  • 広川卯月
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。