青春ブタ野郎はパラレルスプリングの夢を見ない   作:もドえラん

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5.誰も気づかぬ声を、確かに掬い上げる

 

 十二月七日

 

 冬の空は薄く、遠くの海が静かに光っていた。

 

 この日から期末試験が始まり、午前中は教室全体が鉛のように重かった。

 

 「岸和田!」と呼ぶ声が背中を打った。

 

 振り向けば、大津が封筒を握りしめて立っていた。頬は紅潮し、目の奥がまぶしいほどに輝いている。

 

 「受かったよ!大学!」

 

 「良かったな。おめでとう」

 

 「ありがと!岸和田が教えてくれたおかげだよ!」

 

 「いや、俺はノート整理しただけだ」

 

 「それでもだよ。……ほんとありがと」

 

 大津は拳を軽く握って、笑った。

 

 「夏帆も同じ大学だよ!二人で合格!」

 

 「そうか、浜松さんもか。これで安心だよ」

 

 「岸和田ももうすぐだよね?」

 

 「俺は今週土曜、模試だよ」

 

 「岸和田なら余裕でしょ」

 

 「油断は禁物だろ」

 

 「大学進学しても、試合見に行くよ」

 

 「ありがとう!絶対来てよ!」

 

 「ああ」

 

 そう言って、大津は廊下へ駆けていった。

 

 夕方。

 

 校門を出ると、冬の風が頬を撫でた。陽は低く、海の方から射す光がやけに白い。

 

 期末の一日目を終えた足取りは重くも軽くもなく、ただ潮風に流されるように江ノ電の駅へ向かった。

 

 ホームには冷たい風と、海の匂い。江ノ島が遠くに霞んで見える。

 

 電車が滑り込んできて、俺は一番後ろの座席に腰を下ろした。

 

 窓の外では、波が七里ヶ浜にぶつかって白く跳ねている。

 

 しばらく車窓を眺めていると、鎌倉高校前で扉が開き、

 

 見覚えのあるシルエットが乗り込んできた。

 

 「……浜松さん?」

 

 「やっぱり。岸和田くんだ」

 

 制服の上にベージュのコート、手には参考書の袋。潮風に乱れた前髪を直しながら、少し照れたように笑う。

 

 「偶然だな」

 

 「うん。海、見てたら電車来ちゃって」

 

 「なるほど、江ノ電あるあるだな」

 

 「ふふ、そうかも」

 

 隣に座った彼女は、膝の上に袋を置きながら、少しだけ視線を落とした。

 

 「聞いたよ。大津と一緒に受かったんだって?」

 

 「うん。すごく安心してる」

 

 「よかったな。努力してたもんな」

 

 「ありがとう。……でもね、ほんとはちょっと怖かった」

 

 「怖かった?」

 

 「受かっても、誰かに“頑張ったね”って言ってもらえないかもしれないって」

 

 「そんなわけないだろ。今日もう何人にも言われてるはずだ」

 

 「でも、今の一言が一番嬉しいかも」

 

 電車が揺れ、彼女の髪が肩にかかる。その一瞬、ほんのかすかな香りがして、胸がざわついた。

 

 「たぶん、岸和田くんが隣で一緒に勉強してくれたのが、一番の救いだったんだと思う」

 

 「そうか」

 

 「うん。……だからね、もし岸和田くんがいなかったら、今の私はいなかったと思う」

 

 その言葉の意味を、俺はまだ“感謝”の延長だと思っていた。

 

 「そっか。結果的に役に立ててよかった」

 

 「……そういうとこだよね」

 

 「え?」

 

 「ううん、なんでもない」

 

 浜松さんは微笑んで、流れる海をじっと見つめた。

 

 波の向こうで、冬の太陽が傾いていく。光の筋が彼女の頬をかすめて、淡い橙を落とした。

 

 「ねぇ、岸和田くん」

 

 「ん?」

 

 「大学、違ってもさ……」

 

 「?」

 

 「また、同じ電車に乗れたらいいね」

 

 そう言って、彼女はほんの少し笑った。

 

 少しの沈黙。電車は徐々に街の明かりが増えていく区間へ差し掛かる。

 

 「ねぇ」

 

 「うん?」

 

 「私ね、もう少しだけ頑張る。ちゃんと自分のこと、好きになれるように」

 

 「いいと思う。……その方が浜松さんらしいと思う」

 

 「ありがとう」

 

 そう言って、浜松さんは微笑んだ。その横顔が、窓の外の光に照らされてやわらかく揺れた。

 

 やがて車内アナウンスが流れる。

 

 「まもなく、終点、藤沢です」

 

 電車が減速し、ブレーキの音が床を伝う。扉が開くと、冷たい空気が流れ込んできた。

 

 二人でホームに降り立つ。夕暮れの風が吹き抜け、街の灯りが少しだけ滲んだ。

 

 「岸和田くん」

 

 「ん?」

 

 「学校が、違ってもまた会おうね」

 

 「……ああ、また」

 

 そう言って、彼女は改札の方へ歩き出す。白い息が、夜の光に溶けていった。

 

 その背中を見送りながら、俺は自分のポケットの中で拳を握った。

 

 ——誰かを見送るたびに、少しずつ自分の中の季節が変わっていく。

 

 そんな気がした。

 

 十二月十二日

 

 冬の匂いが混じり始めた師走はじめ。

 

 吐く息が白く広がるたび、街全体が年末に向けてせわしなく動き始めているのを感じる。

 

 風は冷たいが、空はどこまでも高く澄んでいた。

 

 有栖川宮記念公園の図書館。

 

 受験前、最後の模試を来週に控える豊浜と俺。勉強会の発案者のづっきー。

 

 「冬の空気ってさ、ちょっとミントっぽくない?シャキッとしてて好き!」

 

 「卯月、声。ここ図書館」

 

 「ミント味禁止ってこと!?」

 

 「味じゃなくて、音量」

 

 「はっ、そうだった!シャキッて言っちゃった」

 

 反射的に両手で口を塞ぐ卯月。その仕草が子どもみたいで、周囲の視線をいくつか集めていた。

 

 「ほんと、卯月って空気読まないよね」

 

 「えぇ!空気は吸うものでしょ!」

 

 「……出たよづっきーの口癖」

 

 豊浜が小声で突っ込み、俺も突っ込む。

 

 三人で静かな閲覧席に腰を下ろす。

 

 館内はエアコンの音だけが一定のリズムで鳴っていて、紙をめくる音がよく響いた。

 

 豊浜がカバンから取り出した手帳を机に広げると、ページ一面にびっしりと書き込みがあった。

 

 「……おい、これ見てるだけで息詰まりそうなんだが」

 

 「え?あはは、そんな大げさだよ」

 

 笑ってはいるが、その手帳の隅には“予備校”“リハーサル”“撮影”の文字。

 

 空白は、ほんの数ミリの余白しかない。

 

 「明日が予備校?そのあとスタジオ?」

 

 「うん。でも大丈夫、きっしーは心配性だなぁ」

 

 「心配性じゃなくて、心配なんだよ」

 

 「……ありがと」

 

 豊浜は視線を落として笑う。その笑みはいつもより少し弱かった。

 

 づっきーが隣で身を乗り出して手帳をのぞき込み、目を丸くする。

 

 「のどか、予定ぱんぱんじゃん! ページに息する隙間ないじゃん!」

 

 「まあ、いろいろ重なっちゃってね」

 

 「私なんてさ、ライブとリハ以外予定表の空白が多すぎて逆に落ち着かないもん」

 

 「それはそれで問題」

 

 「うん、予定ゼロ不安症候群って名前つけた」

 

 「づっきー、それただの自業自得」

 

 「えぇ!空白が必要なんだよ!」

 

 豊浜が苦笑する。

 

 俺はノートを広げながら、二人のやり取りを眺めていた。づっきーの言葉はいつも遠回しに見えて、どこか核心を突いている。

 

 空白がないことが豊浜の弱さであり、強さでもある。

 

 そしてづっきーは、笑いながらそこに風穴を開けている。

 

 豊浜が手帳を閉じた。

 

 「……あ、そうだ。来週の模試の次の日、ライブ本番だから。見に来てよ」

 

 「ライブ?」

 

 「うん。スタジオでのリハも全部そのため。ちょっと大事なステージなんだ」

 

 笑顔はある。でも、声の奥にかすかな震え。

 

 づっきーがすかさず手を上げる。

 

 「もちろん行く!ていうか出るけど!」

 

 「出るのに“行く”って言うなよ」

 

 「気持ちはお客さんなんだもん!」

 

 「……お前ほんと面白いな」

 

 「きっしーに褒められた!」

 

 づっきーが胸を張る。

 

 その明るさに、豊浜の頬がゆるんだ。

 

 「じゃあ、きっしーも来てね」

 

 「わかった。行くよ」

 

 「ほんと?約束だよ」

 

 「うん」

 

 豊浜の瞳が、一瞬だけ揺れた。それが安心なのか、不安なのか、俺にはまだ分からなかった。

 

 冬の日差しが傾き、ガラス窓に反射した光が机の上で跳ねた。三人のノートの上に淡い橙色の影が落ちている。

 

 づっきーがそれを見て、「なんか、夕焼けの色っておでんっぽくない?」と呟いた。

 

 「……例えが独特すぎる」

 

 「えぇ!あの具が沈んでく感じ!」

 

 「……それ食べたくなってるだけだろ」

 

 豊浜がくすっと笑い、俺もつられて吹き出した。

 

 ——そうやって笑っていられる時間が、いつまでも続けばいいと思った。

 

 でも、時間はいつも静かに動く。

 

 帰り際、図書館の外に出た瞬間、冷たい風が頬を打った。

 

 「寒っ」と豊浜が言って、マフラーを直した。

 

 「豊浜、手袋は?」

 

 「今日忘れちゃって」

 

 「片方貸すよ」

 

 俺はポケットから手袋を取り出し、片方を差し出した。

 

 「え、いいよ。きっしー手冷えるじゃん」

 

 「俺は大丈夫だから」

 

 「…ありがとう、きっしー」

 

 「ねぇねぇ!」と、づっきーがスマホを掲げる。

 

 「せっかくだから、どっかイルミネーション見に行こうよ!」

 

 「このあと?」

 

 「そう!帰るだけじゃもったいないし、見たいとこあるんだ〜」

 

 「どこ?」

 

 「欅坂!ニュースで見た!イルミネーションがトンネルみたいになってて、超きれいなんだって!」

 

 「六本木か」

 

 「ね、行こ?ね、のどかも!」

 

 「うん……いいかも」

 

 豊浜は少し迷ったあと、柔らかく頷いた。

 

 その笑顔は、どこか安心したようでもあった。

 

 公園を抜け通りを歩く。

 

 並木の間を渡る風が冷たくて、吐く息が街灯に透ける。

 

 広尾の街を過ぎ、坂を上るたびに、空の色が群青へと変わっていった。

 

 冬の夜が、すぐそこまで降りてきている。

 

 「意外と歩くね〜」

 

 づっきーがマフラーの中から声を漏らす。

 

 「寒いくせに元気だな」

 

 「冷たい空気のほうが、心がしゃっきりするじゃん」

 

 「それ、ただの体育会系発言だよ」

 

 豊浜が笑いながら突っ込む。

 

 三人の笑い声が、夜の坂道に溶けていった。

 

 やがて、前方に白い光の帯が見えた。

 

 欅坂の並木道。

 

 木々の枝に無数の灯りが揺れ、風が吹くたび、雪の粒が流れるように光が動いた。

 

 「すごい……」

 

 豊浜が立ち止まり、見上げた。淡い光がその瞳に映り込んで、まるで星を閉じ込めたみたいだった。

 

 「きっしー、写真撮ろ!」

 

 づっきーがスマホを構える。

 

 「俺も?」

 

 「当たり前じゃん!」

 

 「づっきー、指入ってるぞ」

 

 「うそ!あ〜もう一回!」

 

 「寒いんだから早くしてよ〜」と豊浜が笑う。

 

 その声に、周囲のざわめきが一瞬だけ遠のいた気がした。

 

 「ね、のどか」

 

 づっきーが少し後ろから呼びかける。

 

 「ん?」

 

 「来年も、こうして三人で見たいね」

 

 「うん。……見たい」

 

 豊浜は優しく笑って、灯りに手を伸ばした。

 

 その指先がかすかに震えていたのを、俺は見逃さなかった。

 

 坂の上に近づくころ、づっきーがふいに言った。

 「ねぇ!あの光、ハート型になってる!」

 

 「ほんとだ」

 

 「きっしー、今度こそちゃんと撮って!」  

 

 「はいはい」

 

 俺が構えた瞬間、豊浜が何かを言った。

 

 けれど、声が途中で途切れた。

 

 「……え?」

 

 振り返ると、豊浜はすぐに笑って首を振った。 

 

 「なんでもない。写真、早く撮ろ」

 

 白い光が、彼女の頬を淡く照らしていた。その笑顔の奥に、一瞬だけ影が差した気がした。

 

 ——聞こえなかった言葉の輪郭だけが、冬の夜気の中に残っていた。

 

  欅坂を下りきると、光の粒が少しずつ背中の方へ遠ざかっていった。

 街のざわめきが静まり、代わりに風の音と足音だけが残る。

 

 「きれいだったね」

 

 づっきーが両手をこすりながら言う。

 

 「うん。……写真、思ったよりちゃんと撮れてる」

 

 豊浜がスマホを見せる。画面の中、三人の笑顔の後ろに白い光が滲んでいた。

 

 「この光の感じ、すごいね。夢の中みたい」

 

 「づっきー、寝落ち寸前みたいなテンションだな」

 

 「だって寒いし、お腹へったし、眠いし!」

 

 「三拍子揃ってるな」

 

 「きっしーも、ちゃんと笑ってるよ?」

 

 「撮られ慣れてないだけだ」

 

 「えぇ観察者スマイルだよこれ」

 

 「観察者スマイルってなんだよ」

 

 そんな他愛のない会話が、吐く息といっしょに白く漂った。

 

 信号を渡り、六本木ヒルズ沿いに六本木駅へ向かう。

 

 「ねぇ、きっしー」

 

 豊浜が少し遅れて歩きながら呼びかけた。

 

 「ん?」

 

 「さっきの写真、送るね。……それと、ありがと。今日」

 

 「こちらこそ。こっちも気分転換になった」

 

 「……うん」

 

 彼女は小さく笑った。けれど、続く言葉がなかった。

 

 しばらく沈黙が流れたあと、また声がしたはずだった。

 

 「……きっしー、あのさ」

 

 その声は、途中で音を失った。まるでイヤホンの片方だけが急に途切れたように。

 

 「……豊浜?」

 

 振り向くと、彼女は立ち止まっていた。口は確かに動いている。

 

 でも、音が届かない。ほんの一瞬のことだった。

 

 次の瞬間、彼女は首をかしげて、「どうかした?」と、何事もなかったように声を出した。

 

 今度は、はっきり聞こえる。

 

 その普通さが逆に怖かった。

 

 「……いや、なんでもない」

 

 「そ?きっしー、顔こわいよ?」

 

 「気のせいだ」

 

 笑ってごまかすと、彼女はほっとしたように肩をすくめた。

 

 づっきーが少し前で振り返る。

 

 「ねぇ〜二人とも、早くしないと六本木の駅、閉まっちゃうよー!」

 

 「閉まんねぇよ」

 

 俺は苦笑しながら歩き出す。けれど、耳の奥にはまだ、

 

 途切れた声の余韻が残っていた。

 

 風が吹き抜ける。街の明かりが遠くで瞬き、冬の夜は静かに深まっていった。

 

 

 十二月十九日

 

 朝の空気は澄みきっていて、吐く息が白くほどけていく。校門を抜けると、試験会場へ向かう受験生たちの列が静かに伸びていた。

 

 冬の陽射しがガラスに反射して眩しい。その光の中に、ひときわ明るい声が響いた。

 

 「きっしー!」

 

 振り向くと、豊浜が手を振って走ってきた。マフラーの端が風をはらみ、頬は少し赤い。

 

 「おはよ。今日、同じ会場なんだね」

 

 「みたいだな。偶然っていうより、必然かもな」

 

 「なにそれ、受験生っぽいこと言ってる?まぁお互いファイトだね」

 

 笑う彼女の声は明るかった。けれど、その笑みの奥には、わずかな曇りがあった。

 

 気づくほどでもない小さな陰り……それを、俺はまだ深く考えなかった。

 

 受付を済ませ、教室のような講義棟の会場へ入る。豊浜はペンケースを机に置き、深呼吸をひとつ。

 

 その指先に、ほんのかすかな震えが見えた。

 

 「緊張してる?」

 

 「え?ううん、大丈夫。慣れてるし」

 

 「アイドルの本番より?」

 

 「そっちは……別の種類の緊張かな」

 

 軽く笑ってみせたあと、豊浜は前を向いた。

 

 午前の科目が始まる。

 

 シャーペンの音、ページをめくる音、暖房の低い唸り。

 

 冬の静けさが、会場全体を包んでいた。

 

 昼休み。

 

 中庭のベンチで、俺たちは自販機の温かい飲み物を手にした。

 

 豊浜は缶コーヒーを指で転がしながら空を見上げる。

 

 「午前の英語、どうだった?」

 

 「まぁまぁ。文法は簡単だったけど、長文で少し焦った」

 

 「あたしも。途中で時計ばっか見てた」

 

 「どこも受験生あるあるだな」

 

 「……そっか」

 

 その“そっか”が、妙に遠くに聞こえた。

 

 音が風に溶けたように、一瞬だけ途切れたのだ。

 

 「豊浜、今なんて?」

 

 「え?なにが?」

 

 「……いや、聞き間違いか」

 

 「きっしー、集中しすぎて耳疲れてるんじゃない?」

 

 「かもな」

 

 笑って返したが、胸の奥に小さな違和感が残った。この感覚を、どこかで知っている。

 

 空気の流れが一瞬だけ止まり、人の動きや声から外側に置かれたような静止感。

 

 それは、豊浜と麻衣先輩が入れ替わっている時と同じだった。

 

 まるで自分だけが時の流れから切り離された層に滑り落ち、ほんの一瞬、世界の歯車が噛み合わなくなる、この感覚。

 

 そして今、豊浜の声だけが、この世界の速度から少し遅れている。

 

 午後の科目が終わるころには、外はもう夕方の色に染まりはじめていた。

 

 答案を提出して外に出ると、風が冷たかった。

 

 「おつかれ」

 

 「きっしーも」

 

 「結果、どうだった?」

 

 「手ごたえあったよ」

 

 豊浜は何かを言いかけて、唇を閉じた。

 そして、小さく笑う。

 

 「そっか」

 

 「うん。……来月の本番頑張る」

 

 その二度目の“頑張る”は、半分しか聞こえなかった。

 

 風が音を攫っていったように、声だけが抜け落ちていた。

 

 彼女はそれに気づかない。まるで、自分の声がこの世界から少しだけ遅れて届いていることを知らないように。

 

 「豊浜」

 

 「ん?」

 

 「疲れてないか?」

 

 「大丈夫。……昨日ちょっと眠れなかっただけ」

 

 「なんかあったのか?」

 

 「ううん、たいしたことじゃないよ」

 

 そう言って笑った。けれど、その笑顔は、どこか作り物みたいに整いすぎていた。

 

 ——彼女は誰にも言わなかった。前日の夜、自分の母親と少し言い合いになったことを。

 

 「実家には戻らない」と告げた時の、母の沈黙と、冷たい空気のことを。

 

 マフラーで隠したその喉は、小さく赤く、冬の乾いた風に痛んでいた。

 

 そして今、彼女の声は、ほんの少しずつ世界から遠ざかりはじめていた。

 

 十二月二十日

 

 町田駅前の商業施設。

 

 吹き抜けの広場に設けられた特設ステージには、五つのマイクスタンドが並んでいた。

 

 冬の空気は冷たく澄み、見上げればイルミネーションの光がまるで星屑のように瞬いている。

 

 俺は人混みの端に立っていた。視線の先には、五人のメンバー。

 

 センターは岡崎ほたる。

 

 その右に豊浜のどか、左に広川卯月。

 

 後方には安濃八重と中郷蘭子。

 

 五人が照明の光を浴びて並ぶ姿は、まるで冬の星座のようだった。

 

 タイトルは「ミューズになっちゃう」

 

 イントロが流れる。

 

 >元気ないじゃん ほらだんだん ミューズになっちゃう Da Da Da Da Dance!

 

 観客の歓声が一斉に上がり、広場全体が揺れた。

 

 づっきーがマイクを握り、明るく叫ぶ。

 

 「みんなー! 寒いけど元気ー!?」

 

 「イェーイ!」

 

 観客が応える。その声が天井に反響し、冬空へ弾けた。

 

 岡崎さんがセンターに立ち、余裕の笑みでリズムを刻む。その一挙手一投足に観客の視線が吸い寄せられていく。

 

 中郷さんは柔らかな表情で全体のバランスを支え、安濃さんはクールな目線でカメラにウィンクを送る。

 

 そして豊浜。

 

 ライトを浴びて笑顔を見せるその姿が、どこか遠く見えた。

 

 曲が進み、間奏を挟んでMCに入る。

 

 岡崎さんがマイクを構える。

 

 「みなさん、今日は来てくれてありがとう! 風、冷たいけど、私たちの熱で吹き飛ばそうね!」

 

 「イェーイ!」

 

 づっきーが叫び、歓声が広がる。

 

 次に、豊浜がマイクを口に寄せた。

 

 「みんな、元気ー?」

 

 ——その瞬間、世界が一瞬止まった。

 

 歓声が返らない。最前列の観客が、ぽかんとしたまま静止している。けれど、後列では手を振る人たちがいる。

 

 まるで、世界が二つに割れたようだった。

 

 俺の鼓膜が鈍く響く。音の波が途中で途切れ、空気の層がひとつズレる。

 

 マイクの不調かと思った。

 

 けれど、卯月が「声出してー!」と叫ぶと、すぐに大きな歓声が返ってきた。

 

 豊浜の声だけが、この世界に届いていない。

 

 「……えへへ、今日は寒いけど盛り上がろうね!」

 

 彼女は一瞬だけ息を詰まらせ、それでも笑顔を崩さずにステップを踏んだ。

 

 観客も、照明も、音も動いているのに、その声だけが別の層に滑り落ちていく。

 

 岡崎さんがセンターで手を掲げ、流れるようにフォーメーションが変わる。

 

 づっきーが前に出て、中郷さんが後方から包み込むようにハーモニーを重ねる。

 

 安濃さんのクールな声がメロディラインを引き締める。

 

 ——それでも、豊浜の声だけが微かに遅れていた。

 

 >元気ないじゃん ほらだんだん ミューズになっちゃう Da Da Da Da Dance!

 

 唇は確かに歌っている。けれど、半分の観客には届かない。届く人と、届かない人が、同じ空間に共存している。

 

 俺には聞こえる。でもそれは、現実の音じゃない。

 

 まるで記憶の中から響く声のように、遠くて、柔らかくて、少しだけ痛い。

 

 光の中で、五人が踊る。

 

 岡崎さんの笑顔がステージの中心を支え、づっきーがその明るさで空気を広げ、中郷さんが母のような安心感で包み、安濃さんが冷たい美しさで引き締める。

 

 その輪の中で、豊浜はたったひとり、遠ざかっていた。

 

 ——声が、届かない。それでも、彼女は歌っている。

 

 曲が終わり、照明が落ちる。

 

 観客の歓声と拍手が響く。

 

 づっきーがマイクを掲げて叫ぶ。

 

 「ありがとー町田ーっ!」

 

 「イェーイ!」

 

 その声に広場全体が応えた。

 

 豊浜も、同じようにマイクを掲げる。

 

 けれど彼女の「ありがとう」だけが、誰にも届かなかった。

 

 俺は拳を握る。胸の奥が、冷たく、痛いほど静かだった。

 

 昨日の模試で感じた、時間の“ズレ”。あれは気のせいじゃなかった。

 

 豊浜の声は、今、確かにこの世界の外側へと零れ落ちはじめている。

 

 町田のステージが終わったのは、夕方の七時を少し過ぎた頃だった。

 

 人混みを抜け、電車を乗り継ぎながらも、胸の奥に残る違和感は薄れなかった。

 

 あの瞬間、確かに豊浜の声は届いていなかった。

 

 観客の半分が反応せず、もう半分が歓声を上げるという不自然な光景。マイクの不調ではない。俺の感覚がそう告げていた。

 

 帰宅して、コートを脱いでもまだ冷たい空気が抜けない。いつもなら「おつかれ」とLINEで送るだけ。 

 

 けれど今夜は、それじゃ足りなかった。

 

 心臓の奥が、妙に早く脈打っている。その速さが、言葉より先に行動を促した。

 

 スマホを取り、発信ボタンを押す。やがて、少し掠れた声が返ってきた。

 

 「……きっしー?」

 

 その声を聞いた瞬間、胸の奥の糸が少し緩む。

 

 「悪い、突然。ライブ、おつかれ」

 

 「ううん、ありがとう。来てくれたんでしょ?」

 

 「もちろん。……すごかったよ」

 

 「ほんとに?ミスしなかった?」

 

 「いや、ちゃんとできてた。ただ……」

 

 「ただ?」

 

 「途中、マイク、調子悪くなかった?」

 

 電話の向こうで、少しの沈黙。

 

 「……気づいた?」

 

 「やっぱりか」

 

 「うん。自分でもおかしいなって思ったの。

歌ってるのに、音が自分から離れていく感じがして」

 

 息を呑む。それは、聞き間違えようのない言葉だった。

 

 「……豊浜、それってさ」

 

 「なに?」

 

 「疲れてるんじゃないか?」

 

 「そうかもね。……昨日あんまり寝てなかったし」

 

 「本番前で緊張した?」

 

 「うん。あと、ちょっと緊張してることもあって」

 

 「緊張してること?」

 

 「クリスマスの日にソロライブがあるんだ、新宿で」

 

 「ソロライブ?」

 

 「うん。事務所からの提案で……久しぶりだからまだ不安だけど、頑張ってみようかなって」

 

 「すごいな。おめでとう」

 

 「ありがとう。……ちゃんと声が届くといいな」

 

 小さな笑い声。

 

 けれど、その直後電話の向こうからノイズが走った。

 

 ザーッという音が一瞬挟まり、彼女の言葉が半分だけ消える。

 

 「豊浜?聞こえるか?」

 

 「……え? あ、うん。ごめん。ちょっと電波悪いみたい」

 

 「いや、たぶん….…」

 

 言いかけたところで、通話がぷつりと途切れた。

 

 無音。画面の通話表示が消え、部屋の静寂が戻る。

 

 俺はしばらく動けなかった。

 

 暗い部屋の中で、自分の呼吸だけが小さく響く。

 

 あのノイズ。あのずれ。あれは、既視感のある感覚だった。

 

 ——世界の速度が、わずかに狂う。

 

 その瞬間、胸の奥にざらつくような寒気が走った。

 

 俺は、思春期症候群を“乗り越えた”つもりでいた。

 

 けれど本当は、ただ抑えこんでいるだけなのかもしれない。

 

 あの春、中学の終わりに閉じ込めた時間の歯車は、まだ完全には止まっていない。

 

 ふとした瞬間に、世界が二重に見えることがある。声や光の届く速さが、他人より少しだけ遅く感じられる。

 

 麻衣先輩の時も、咲太の時も、浜松さんの時も、米山さんの時も。そして、病室で会った 女性の時も。俺はその違和感を、ずっと気のせいにしてきた。

 

 でも今日、あのライブで起きたことを前にして、もう言い訳はできない。

 

 俺はまだ、思春期症候群の外側に立っていない。

 

 ただ観察者として、境界のぎりぎりで踏みとどまっているだけだ。

 

 だからこそ、気づけたのかもしれない。

 

 彼女の声が、この世界から少しずつ外れていくことに。

 

 豊浜のどかの思春期症候群の再発。

 

 そう考えると、すべての辻褄が合う。

 

 彼女の言葉が聞こえなかったのは、誰かの錯覚ではなく、世界の方が彼女を拒んでいるのだ。

 

 俺はゆっくりと机の上のタブレットを開く。

 

 画面に浮かぶ光が、冷たく指先を照らした。

 

 記録アプリを立ち上げ、手が自然に動く。

 

 > 観察記録:十二月二十日 町田 スイートバレットライブ

 

 > 観察対象:豊浜のどか。ライブ観覧のため参加

 

 > 観察メモ:ライブ中に声の一部が消失。本人も「声が遠くに聞こえる」と発言。通話中に音声ノイズ・途切れあり。思春期症候群再発の可能性あり

 

 放っておけば、彼女の声は完全に消えるかもしれない。

 

 画面に映る文字が、冷たい光を放っている。

 

 それでも、その光の中に、自分の決意を刻むように指を動かした。

 

 >対策:クリスマスソロライブまでに干渉条件を特定

 

 記録アプリを閉じて、すぐスイートバレットの公式サイトを開く。

 

 販売ページには「残りわずか」の文字。

 

 画面越しにチケットの残数が減っていくのが見えた。

 

 ——間に合わないわけにはいかない。

 

 指先が自然と動く。

 

 購入完了の表示が出るまでの数秒が、異様に長く感じた。

 

 電子チケットのQRコードが表示される。

 

 光る画面を見つめながら、胸の奥で小さく息を吐く。

 

 それはまるで、彼女の声を繋ぎとめるための入場証のように見えた。

 

 外では風が強まり、カーテンが揺れていた。

 

 「……間に合わせる」

 

 呟いた声が、夜の静けさに溶けていく。

 

 ——彼女の声が、またこの世界に届くように。あの日、誰も救えなかった自分を、今度こそ越えるために。

 

 俺は静かに、動き出す決意をした。




物語解説

今回の物語では、冬の光とともに、豊浜のどかの声が少しずつ遠ざかっていきました。そして、その異変を最初に感じ取ったのが、岸和田蓮真でした。

声が届かないという現象は、単なるマイクの不調ではなく、伝えたい気持ちが誰かに届かないという心の奥の痛みの表れでもあります。

模試の教室で、一瞬だけ世界の歯車がずれたように感じた蓮真の違和感。そして、町田のステージで起きたのどかの聞こえない声。

そのすべてが、彼女の内に潜む葛藤の始まりを告げていました。

美凪と夏帆の大学合格が見送る者としての蓮真の姿を映し出し、のどかとの勉強会やイルミネーションの夜が支える者としての彼の在り方を描き出します。

そして蓮真は気づきます。自分が人の思春期症候群に反応してしまう後遺症を抱えたままだということに。

電話越しに聞こえた微かなノイズが、やがて大きな歪みへと変わっていく。その中心にあるのは、声を失いかけた少女と、それを記録しようとする少年。

次回、蓮真の物語はひとつの答えにたどり着きます。そして、高校生としての岸和田蓮真の物語は、ここでひとまずの幕を下ろします。

どうかその結末を、静かに見届けてください。

蓮真は最終的にどちらを選ぶと思いますか?

  • 豊浜のどか
  • 広川卯月
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