青春ブタ野郎はパラレルスプリングの夢を見ない 作:もドえラん
十二月二十一日
放課後の教室は、いつもより静かだった。
冬の午後特有の冷たい光が、タブレットの画面の端を淡く照らしている。
タブレットの余白には、「豊浜 声 消失」と走り書きした文字。
その三つの単語が、まるで冷えた針みたいに胸に刺さっていた。
——咲太と双葉に話すべきか。
頭に浮かんだのは、あの二人の顔だった。
咲太は“行動”で、双葉は“論理”で、これまで数えきれないほどの不可思議を乗り越えてきた。
俺ひとりで抱え込むより、ずっと早く正解にたどり着けるかもしれない。
だが、その考えはすぐに喉の奥でほどけた。
咲太は今、受験に集中している。麻衣先輩の撮影スケジュールと時間を合わせながら、夜は予備校の自習室で問題集を解いていると聞いた。
双葉もまた、実験ノートを片手に帰宅部のような顔をしているが、毎晩、咲太と一緒に物理実験室で勉強をやっている。
それを知っているからこそ、足が止まった。
——それでも、やっぱり相談しようか。
そう思い直し、教室を出た。
夕焼けが消えかけた渡り廊下。
廊下の先の物理実験室に、ふたりの姿が見えた。
咲太は、問題集を片手に階段の踊り場で黙々とノートを取っている。
隣では、双葉が参考書をめくりながら何かを指で示していた。
彼女の横顔は真剣そのもので、光を反射する眼鏡の奥の瞳は一点を射抜くように鋭い。
「梓川、ここの分母、共通項で割り切れるから」
「……ああ、なるほど」
聞き取れるのは、それだけ。
彼らは完全に“受験生の時間”を生きていた。
この数ヶ月、咲太は誰の思春期症候群にも巻き込まれず、ただ前を向いて進んでいる。
俺は、思わず立ち止まった。
その光景を、しばらく動けずに眺めていた。
——邪魔はできない。
たとえ今この瞬間、豊浜に何かが起きていても。
それは、俺が引き受けるべきことだ。
静かに踵を返す。
外の空気は一気に冷え込み、息が白くほどけていく。
冬の空は深い群青で、校舎のガラス窓がその色を映していた。
図書室に戻る途中、廊下の照明が一つ、また一つと消えていく。
光が消えるたびに、決意が静かに固まっていった。
——自分の手で確かめよう。
あの日、ループを抜け出したときに終わったはずの思春期症候群は、
もしかするとまだ、自分の中で息をしているのかもしれない。
ただ眠っていただけで、完全に消えたわけではない。
豊浜の異変を感じ取れたのも、その残滓のせいだろう。
誰かの心が歪む瞬間、世界の歯車が微かにずれる。
そのズレを、俺だけが感覚として捉えられる。
そんな後遺症を抱えているのは、たぶん俺だけだ。
でも、それでいい。
もしこの感覚が、誰かの声を救うために残っているのなら、それを呪いとは呼ばない。
図書室のドアを押し開けると、冷たい静寂が戻ってきた。窓の外では校庭の灯りがぽつりぽつりと瞬いている。
俺は机に座り、タブレットを開いた。
指先が自然に動く。
> 観察メモ:十二月二十一日 豊浜の思春期症候群再発の可能性。咲太・双葉への相談は見送り。自分の意志による単独観測を優先。対象の異変は進行中。観測範囲の拡大を検討
文字を打ち終えると、液晶の白い光が頬を照らした。
画面の明かりが、まるで小さな灯火のように心を支えている。
——たぶん、誰かに頼れば楽になる。
でも、それじゃ意味がない。
俺があの春に見た地獄は、「助けることを諦めた結果」だった。だから今度こそ、最後まで見届ける。
逃げずに、観測し続ける。
窓の外で風が唸った。カーテンがわずかに揺れ、紙が一枚めくれる。
その瞬間、月の光が差し込んで、机の上を白く染めた。
その光を見ながら、小さく呟く。
「……今度は俺が、観測者であり続ける」
言葉が消えていく。夜の静けさの中、心臓の鼓動だけが確かに響いていた。
十二月二十二日
朝から、胸の奥に小さなざらつきが残っていた。豊浜の声が途切れた瞬間のことが、ずっと頭を離れない。
そんなざらつきが、一日中空気の中で何度も反響した。
放課後になり、空はもう薄紫に染まりはじめ、吐く息は白くほどけていく。
冬の街はどこか焦っていて、人の流れも早い。それでも俺の足取りは、いつもより遅かった。
——豊浜は大丈夫だろうか。
思春期症候群の再発。
電話でのノイズ、届かない声、あの不自然な沈黙。
今の俺には、誰にも相談できない。
だからこそ、彼女の小さな変化を一つ残らず観測しようと決めた。
観察者であることが、俺に残された唯一の方法だから。
けれど、ただ見ているだけでは届かないものもある。
ポケットからスマホを取り出す。LINEを開き、指が自然に動いた。
《豊浜、今日放課後、少し会えないか?》
送信ボタンを押すまでに、ほんの数秒のためらいがあった。観測者であるはずの俺が、対象に声をかけようとしている。
それが正しいのか、自信はなかった。
けれど、もう、静観しているだけでは遅い気がした。
ポケットにスマホをしまい、冷たい風を吸い込む。空は群青に染まり、街灯が一つ、また一つと灯っていく。
数分後、画面が小さく震えた。
《うん、大丈夫だよ。今、藤沢駅にいるの》
《お姉ちゃんと待ち合わせがあって》
その文字を見た瞬間、胸の奥に小さな灯りがともる。偶然ではなく、必然のように感じた。
——なら、行くしかない。
バッグを肩にかけ直し、俺は冬の空気を切り裂くように歩き出した。
次に訪れる光景が、何かを変える予感だけを信じながら。
藤沢駅に着く頃には、空の群青がすっかり深く沈み込んでいた。ガラス越しに見えるホームの明かりは、白く乾いた光で、吐く息すら冷たく映している。
改札前は、仕事帰りの人と学生でごった返していた。行き交う足音の中を抜けながら、スマホの画面に目を落とす。
《北口にいるよ》
顔を上げると、人波の向こうに金色の髪が揺れた。
「きっしー!」
振り向いたのは豊浜だった。
冬の照明がその髪に反射して、金色が少し白っぽく見えた。
「悪いな。いきなり会おうなんて連絡して」
「ううん大丈夫。お姉ちゃんと会う約束してたから、ちょうど良かったよ」
そう言いながら笑うけれど、その声にかすかな掠れを感じる。
そこへ、改札の向こうから麻衣先輩が姿を現した。落ち着いた気配の中にも、仕事帰りの疲れが少しにじんでいる。
「麻衣先輩、お疲れ様です」
思わず声をかけると、麻衣先輩は一瞬驚いたように目を丸くした。
けれどすぐに表情をやわらげ、「……あら、岸和田くん。偶然ね」と返してくれる。
その直後だった。
「お姉ちゃん、お疲れー!」
豊浜がいつも通りの調子で声をかける。しかし麻衣先輩は一瞬きょとんとしたあと、俺の方を向いて、「……今、のどか何か言った?」と首を傾げた。
「え……」
豊浜の笑顔が、その場で凍りつく。
無理に取り繕うまでの、数秒の空白。
まるで、彼女の存在がこの世界から少しずつ薄くなっているかのようだった。
それでも、俺にはちゃんと聞こえる。
声も、笑いも、息づかいも。
麻衣先輩は小さく首を振り、何事もなかったように笑みを作った。けれど俺の胸の奥には、氷のようなざわめきが残り続けていた。
そのまま三人で近くのカフェに入る。以前麻衣先輩から豊浜のことを話してもらったところだ。
窓際の席に腰を下ろすと、冬の夕暮れがガラス越しに街を赤く染めていた。
「お姉ちゃん、この前のドラマの衣装すごく似合ってたよ!」
豊浜が笑顔で話しかける。
しかし麻衣先輩はまた首をかしげ、俺に視線を送った。
「……のどか、今何か言った?」
「え……ううん、なんでもない」
豊浜は一瞬固まったあと、慌てて笑顔を作る。それは、泣き出す寸前の笑顔だった。
数分後。ケーキを前にして、豊浜がもう一度口を開いた。
「お姉ちゃん、このチョコケーキ、甘さ控えめで美味しいよ」
今度は麻衣先輩がすぐに反応する。
「そう?じゃあ一口もらおうかしら」
スプーンを伸ばしながら笑みを浮かべる麻衣先輩。
届かない時と、届く時がある。
その不安定さが余計に恐ろしく思えた。
会話はぎこちなく続き、俺は二人の間に沈む見えない壁をただ見守ることしかできなかった。
そして気づく。ときおり、麻衣先輩の声も微かに掠れて聞こえる。
店内のBGMにかき消されるような瞬間が何度もあった。
「……麻衣先輩?」
「どうかした岸和田くん?」
声をかけると、すぐに振り向く。俺の声だけは、確実に届いている。
けれど彼女の声は、時折、遠くのトンネルの奥から響くようにぼやける。
もしかして、彼女までこのズレの影響を受けはじめているのか。
そんな考えが胸の奥で冷たく膨らんでいく。
やがて会計を済ませ、席を立つ。豊浜が先に店を出て、外で待っているあいだ。麻衣先輩が振り返り、俺の耳元で小さく囁いた。
「……のどかの声、本当に聞こえなかったの」
その瞳は真剣そのものだった。
俺は一瞬言葉を失い、ただ頷く。
麻衣先輩は小さく息を吐き、声をさらに落とす。
「最初は疲れてるのかと思った。でも、違うわね……。さっきから、届いたり届かなかったりしていたから。岸和田くんはどう?」
「……俺にはちゃんと聞こえてました」
「やっぱり」
麻衣先輩は、ほんの一瞬だけ視線を落とす。
「岸和田くん。のどかのそばにいてあげて。……私もできる限り支えるつもりだけど、仕事で手一杯なときも多いの」
さらに麻衣先輩は声を潜め、俺の目をまっすぐ見た。
「咲太には、言わないでおくわ。受験に集中させたいし、咲太に余計な心配を背負わせたくないから」
その言葉には、妹を守りたい姉としての強さと、恋人を思いやる優しさが同居していた。
「……わかりました」
俺の返事は自然と硬くなる。自分に託されたものの重さを意識せざるを得なかった。
返事を探す間もなく、店の外から明るい声が響く。
「二人とも早くー!」
振り返ると、豊浜が街灯に照らされて手を振っていた。その笑顔は、ほんの一瞬前までの冷たいざわめきを忘れさせるほど明るく見えた。
けれど俺と麻衣先輩の胸には、答えの出ない違和感が重く残り続けていた。
その夜。勉強を終えてスマホを手に取ると、通知が光っていた。差出人は豊浜のどか。
《今日はありがとね》
続けて、少し間を置いてもう一通。
《……きっしーだけは、ちゃんと見てくれるね》
普段の彼女なら絵文字やスタンプを添えるはずなのに、それはなかった。
文字だけの短いメッセージは、笑っているふりをしているのに泣き出しそうな響きを帯びていた。
俺は何度も返信を打っては消し、結局《もちろんだ》とだけ返した。
送信ボタンを押したあと、胸の奥に広がったのは、冬の夜気よりも冷たい不安だった。
十二月二十三日
照明の熱と、レッスン室の乾いた空気。
豊浜のどかは長椅子に座り、手のひらに残るマイクの感触を確かめていた。
クリスマスのソロライブまで、あと二日。
けれど今もこうして、他のメンバーと一緒にステージ構成の最終リハーサルを続けている。
自分ひとりのライブでも、グループの基礎の上に立っている以上、練習を抜けるわけにはいかない。
昼から続いたダンスリハーサルはようやく休憩に入り、部屋のあちこちでメンバーたちが水分補給をしていた。
アンプのうなりと、スピーカーの微かなノイズが静寂に混じる。
窓の外には、もう冬の夕陽がかかっている。
「ふぅ……お疲れさま」
声をかけると、隣にいた卯月がペットボトルを傾けたまま首をかしげた。
「ん?どかちゃん、なんか言った?」
「え……いま、お疲れさまって」
「あれ?聞こえなかった」
卯月の返事に、周囲の空気が一瞬だけ揺れた。
そのやり取りを聞いていた蘭子と八重が、眉を寄せながら顔を見合わせる。
「え……声、出てなかったよ?」
「そうだよどかちゃん」
「そんなはず……」
のどかは笑おうとしたが、唇はわずかに震えていた。胸の奥で、何かが細く軋む音がした。
マイクの電源を確認する。問題ない。喉も痛くない。ただ、声だけが空気の中に溶けていく。
それでも自分を落ち着かせようと、軽く息を吸い込み、もう一度声を出してみた。
「づっきー、今日の立ち位置、ちょっと右だよね?」
しかし彼女は気づかない。
すぐ隣にいるのに、まるで違う世界の空気を吸っているように、目を合わせずに笑っている。
「立ち位置、どうしようか?」
「うん、たぶん……」
途中で言葉を切った。返ってきた返事が、まるで自分の言葉を遮るように自然だったからだ。
自分の声が、届かなかったことを前提に会話が続いている。
リハーサルが再開される。
音響スタッフがマイクを調整し、メンバーがステージマークの位置に散る。
その中で、のどかは深呼吸をひとつした。
あと二日。
このままではステージに立つことすら危うい。そんな焦りを押し殺すように、笑顔を作った。
「どかちゃん、次の立ち位置ここだよ」
ほたるがそう声をかけた瞬間、のどかの体が小さく跳ねた。聞こえた。
自分の名前が、確かに届いた。
「う、うん。ありがとう」
返事をすると、相手は何事もなかったように頷き、笑顔を返してくれる。
——聞こえる時と、聞こえない時がある。
その曖昧さが、心の奥にじわじわと染みこんでいく。まるで現実そのものが、音の出入り口を選んでいるみたいに。
休憩の合間、のどかはスタッフに呼びかけた。
「すみません、このケーブル、少し緩んで……」
しかし返事はなかった。視線すら合わず、スタッフは無表情のまま機材を片付けていく。
まるで最初から、そこに彼女はいなかったかのように。
「……あの!」
声を張り上げた瞬間、喉が焼けるように痛んだ。
それでも誰も振り向かない。空気が一瞬、真空になったように静まり返る。
その直後、卯月の声が、現実をあっさり取り戻す。
「どかちゃん、次もう一回Aメロからいこうか!」
届いたその瞬間だけ、世界が再び動き出す。
聞こえる声と、届かない声。
その境界が曖昧に入り混じり、現実の輪郭がゆらぎはじめていた。
マイクを握る手に力が入る。
自分の指先が、こんなにも冷たく感じたのは初めてだった。
届かない声。それは、風よりも静かで、音よりも確かな、孤独の形をしていた。
同じ日の夜。
夜の空気は冷たく澄んでいて、窓ガラス越しに街の灯りが滲んでいた。
勉強の手を止めて、スマホの画面を開く。
時計は二十二時を少し過ぎたところ。
豊浜の声が届かなくなるあの現象が、頭の中で何度も再生される。
気づけば、連絡先のリストを開いていた。
指が止まったのは、広川卯月の名前の上だった。
《づっきー、今、少し話せるか?》
送信して数十秒後。
すぐに既読がつき、明るいスタンプが返ってきた。
《どしたのきっしー!今レッスン終わったとこ!お腹ペコペコ!てか寒い!》
づっきーは相変わらずだ。けれど、その相変わらずさが、逆に不安を強くする。
《レッスンってことは、今日、豊浜と一緒だったよな?》
《うん!いつも通りのどか頑張ってたよ!……ていうか、ダンスの回転早すぎて目回った〜!》
《お前が?》
《うん、途中で天地逆転した気がしたもん!でもね、のどかはやっぱりすごいんだよ!どんなときも真っ直ぐでさ》
数行のメッセージに、彼女らしい軽さと素直さが混ざっている。
けれど、その明るさの途中に、ほんの少し沈んだ空白があった。
《……あ、でも》
《でも?》
《ちょっと変だったかも。声がね、なんか……聞こえない時があって。最初、イヤモニ壊れたかと思って、叩いちゃったもん》
《でもほたるも蘭子も八重も、同じ反応してて……》
《のどか本人は普通に喋ってる感じで……なんか、変だった》
文面のトーンが少しずつ下がる。普段なら「!」が並ぶのに、それがない。
《マイクの不調じゃなさそうだな》
《うん。ていうか、喋ってる口の動きと音がズレてる感じ?》
《見えてるのに、聞こえないっていうのが一番近いかも》
その言葉に、心臓が強く跳ねた。まるで、世界が同じ層を滑っているのに、音だけが別の層に落ちていくような感覚。
《づっきー》
《なに?あ、もしかして心霊現象とか言いたい?》
《違う。豊浜の声、俺にはちゃんと聞こえる》
一瞬、返信が止まった。数秒後、返ってきたメッセージは、づっきーらしい返事だった。
《ねぇ、それってさ、なんか主人公っぽくてズルいやつだよ。のどかが、ちゃんと見てくれる人がいるって言ってたの、多分きっしーのことだよ》
明るく装っているのに、文字の間からかすかな寂しさが滲む。
づっきーらしい、天然なりの優しさだった。
画面の光が、指先を白く照らした。確信に近い感覚が、胸の奥に静かに広がっていく。
——俺の声は、豊浜に届く。俺の耳は、豊浜を聞き取れる。
それは偶然ではない。
人の思春期症候群が発現するとき、俺の中のループの残滓が、必ず反応する。
あの春、世界が何度も繰り返されたとき、自分の「記録」がいかに現実を変えるか、変えられないかを、嫌というほど見た。
そして今、豊浜が世界から聞こえなくなるなら、俺という観測者が、その世界に彼女の音を留める。
タブレットを開き、記録を追加した。
> 観察メモ:十二月二十三日 広川卯月より。リハーサル中、豊浜の声が一部の人間に聞こえず。本人の自覚あり。症状進行。観測者による音声認識は可能
> 仮説:観測者の干渉により、対象の存在が再同期する可能性
光る文字が、静かに画面に浮かぶ。
その明かりを見つめながら、心の奥で小さく呟いた。
「……俺の声で、取り戻す」
冬の夜風が窓を叩き、カーテンがわずかに揺れる。
部屋の静けさの中で、その言葉だけが確かに響いていた。
十二月二十四日
体育館での終業式を終え、生徒たちがぞろぞろと校舎へ戻っていく。
俺も出口に向かうと、前方に双葉と咲太、国見の姿を見つけた。
三人は並んで歩きながら、進路や受験勉強の話をしているらしい。咲太はどこか疲れた顔をしていて、それを気遣うように双葉と国見が笑みを添えている。
——今、声をかければいいのかもしれない。
明日に備えて、豊浜の異変を話して、意見をもらうこともできる。
けれど、足が自然と止まった。
咲太は受験本番を目前に控えている。双葉だって同じだ。
この時期に心配を背負わせていいのか、と考えた瞬間、喉にかかった言葉は霧散した。
「……いや、やっぱりやめておこう」
小さく呟き、三人に気づかれぬまま踵を返す。その背中を見送りながら、胸の奥に冷たいものが沈んでいくのを感じた。
終業式を終えた午後、年末年始は東京の実家に戻るため、ラッシュには少し早い電車の座席に身を沈めた。
藤沢駅での乗り換えの合間、電車の時刻を確認する。
「……寄っていくか」
実家へ帰る前に、ひとつだけ確認しておきたい場所がある。
窓の外の景色が、街のビル群へと変わっていく。時間にして四十分ほど。車窓に映る夕暮れが少しずつ深くなる。
新宿駅に着くと、街はすでにクリスマスの準備で満ちていた。
駅構内のスピーカーからは軽やかなジングルベルが流れていて、人の波が行き交うたび、紙袋のリボンが擦れる音がかすかに重なる。
その喧騒を抜け、豊浜のソロライブが行われる会場へ向かった。
ソロライブの会場は、外気の冷たさと金属の匂いが混じり合い、どこか緊張を誘う。
正面の看板には、『Sweet Bullet Christmas Special Live』の文字。
その中央に、豊浜の写真が貼られていた。
マイクを握り、少し照れたように笑う顔。
目線の奥に宿る光は、どこか無防備で、それでも確かに前を向いていることを示していた。
「……明日、ここか」
呟いた声が風に混ざって消える。
設営スタッフが荷物を搬入している。
照明リハーサルの光が、ガラス越しにちらちらと反射した。その光の粒を目で追いながら、俺はホールの外周を一周するように歩いた。
音の反響がどう伝わるか、壁の材質や距離感を確かめながら。
入口近く、客席最後列の辺りで、空気の震えが微かに鈍くなるのを感じた。
——この位置なら、観測に支障はない。
スマホを取り出し、チケットアプリを開く。
画面に浮かぶQRコードが、淡い青色で輝いた。まるで彼女の声を繋ぎとめる鍵のように見えた。
会場を後にし、再び新宿の雑踏に戻る。
クリスマスイブ前夜の街は、人と光で溢れていた。恋人同士、家族連れ、プレゼントを抱えた人々。
それらの笑い声が、遠くの方でひとつの音楽のように混ざり合っている。
俺はその中を歩きながら、イヤホンを外した。
周囲の音を、すべての層で感じ取るために。
風、車の音、雑踏、どれも現実の確かな証。
でも、豊浜の声だけが、その現実から外れつつある。
俺は立ち止まり、スマホを開いた。
指先が自然に動く。発信ボタンを押すと、すぐに少し掠れた声が返ってきた。
「……きっしー?」
「悪い、突然。明日のライブ会場、見ておこうと思ってさ」
「えっ、ほんと? 見に来てくれるの?」
「もちろん。チケットも買った」
電話の向こうで、小さく息を飲む音がした。
「……ありがとう。きっしーに見てもらえるなら、頑張れる」
「体調はどうだ?」
「喉はまだ大丈夫。でも……ちょっと、変な感じがするの」
「変?」
「うん。なんか、自分の声が、誰のものかわからなくなる時があるんだ」
「どういうことだ?」
「SNSで動画をアップすると、すごく届いた気がするの。コメントも“どかちゃん最高!”って書かれてて、嬉しいのに、現実でステージに立つと、途端に声が遠くなる。まるでネットのあたしと今のあたしが別の人みたいで……怖くなるんだ」
息を呑む。
「……もう一つあるんだ」
彼女の声が少し震える。
「お母さんと、この前喧嘩したの。“大学進学してからも、麻衣さんの家に住むのはいいけど年末くらい帰ってきなさい”って言われて、あたし、思わず“年末年始も藤沢で過ごしたい”って言っちゃって。そしたら、“家族を軽く見るな”って怒られて……」
「……それで?」
「それ以来、ずっと考えてるの。あたしは“豊浜のどか”として生きたいのか、“桜島麻衣の妹”として生きたいのか、それとも、ただの“娘”として家に戻るべきなのか。どれも間違ってないのに、どれも正しくない気がするの」
「……自分の声が、どの世界に属してるか分からなくなった感じか」
「そう。まるであたしの中に、三人の私が同時にいるみたい」
「……それが、原因かもしれない」
「え?」
「思春期症候群だ。“どの自分が本当か”って揺れが、現実をずらしてる。SNSの中の自分、ステージの自分、そして本当の自分。どれか一つを選べないまま、声だけが行き場をなくしてる」
「……そうなのかな」
「たぶん。でも豊浜。俺には、お前の声、ちゃんと届いてる」
数秒の沈黙のあと、「……ありがと、きっしー」と小さな声が返ってきた。
その声は、震えていたけれど、確かに現実に響いていた。
「明日、行くから」
「うん。……楽しみにしてる」
通話が切れたあとも、しばらくスマホを握ったまま動けなかった。人々の笑い声や足音が、遠くでぼやけていく。
——彼女は、世界のどの層に立っているのだろう。
実家に帰るために山手線に乗り込むと、窓の外には無数の光が流れていた。
その光の一つひとつが、消えていくたびに胸が締めつけられる。
藤沢で過ごしたい自分と、家族に戻る自分。その狭間で、豊浜の声は今も揺れている。
俺は鞄からタブレットを取り出し、記録を追加した。
> 観察メモ:十二月二十四日 豊浜との通話。本人の中で「家族/自立」「現実/ネット」「過去/現在」の分裂あり。
> 対策:観測者による現実層における声の同調を試行予定。
画面の文字が、夜の車内灯に照らされて白く光る。
咲太に相談することもできた。けれど、今は麻衣先輩も言っていた通り、受験の追い込みで一番大事な時期だ。
双葉に頼るのも、彼女も同じく大学受験を控えていて、じっくり調べてもらえる状況じゃない。
麻衣先輩も、撮影や収録で多忙を極めていて、さらには咲太の勉強を手伝っていることを俺は何度も耳にしている。豊浜を細かく気にかけられる余裕はない。
づっきーも、豊浜と一番近くにいる存在ゆえに巻き込むことはできない。グループのリーダーで、づっきーなりにスイートバレットのために動いている。そこに心配をかければ、二人そろってバランスを崩しかねない。
——つまり、俺以外にいない。
思春期症候群は、観測者がいなければ存在すら曖昧になる。俺が見続けなければ、豊浜は更に世界から薄れてしまうかもしれない。
喉の奥が冷たくなる感覚を覚えながらも、俺は心の中で言葉を固めた。
今度は俺が豊浜を……のどかを救う。
観測者としてじゃなく、一人の人間として。
舞台袖で震える彼女の背中を支えるのは、俺の役目だ。
十二月二十五日
夜空に、ひときわ明るい満月が浮かんでいた。吐く息が白くほどけ、街の光がガラスのように反射している。
冬の風は冷たいのに、会場の中はまるで別世界だった。ドアを開けた瞬間、熱気と音が押し寄せてくる。
客席はペンライトの海。金、青、桃色、そして中央のステージを照らす白光。
『Sweet Bullet Christmas Special Live』
ステージ中央に立つのは、豊浜のどか。彼女の髪がライトを反射し、無数の粒子のように光を散らしていた。
歌声が響く。それは確かに、現実の空気を震わせていた。
だが、その確かさは、二曲目に入った瞬間に崩れ始めた。
観客の動きが、ほんの少し遅れて見える。歌っているのに、客席が静まり返る瞬間があった。マイクから漏れる音は確かにあるのに、誰もその声を聴いていない。
あれは、もう間違いない。
のどかの目は泳いでいた。喉は震えているのに、声はこの世界から切り落とされている。
マイクを握る手がわずかに震え、指先が冷たく見えた。
俺は客席の最後方、照明の影に立ちながら、胸の奥が張り裂けそうになるのを感じていた。
咲太も、双葉も、麻衣先輩も、づっきーも、誰にも頼れない。
いや、頼りたくなかった。
もしこの瞬間でも、彼女が助けを求めるなら。それに応えるのは、俺でなければならない。
そう思ってしまった。
けれど、袖から一歩踏み出す足は、恐ろしく重い。スポットライトの中に入ることは、彼女の世界へ干渉することだ。
——もし俺の声さえ届かなくなっていたら。
その考えが、背中を縫い止めていた。
その時だった。視界の色が一瞬で遠のいた。
音も光も、すべてが水の底に沈むように消えていく。客席のペンライトは静止し、観客の表情が無音の映像になる。
時間が止まったようだった。
これは知っている感覚だ。
他人の思春期症候群に触れた時、いつも感じる世界のズレ。空間の層がひとつ、現実から剥がれ落ちたような錯覚。
胸の奥で、何かが叫んでいた。「呼べ」と。
俺は息を吸い、世界の静止を切り裂くように声を放った。
「のどか!」
その名を呼んだ瞬間、止まっていた空気が震えた。凍りついていた光景に、波紋が走る。
のどかが振り返る。ステージの上、照明の向こうで、確かに俺を見た。
距離があるのに、視線が真っ直ぐぶつかる。
その瞳の奥で、失われていた音が芽吹くように光を取り戻していく。
照明が再び灯り、観客のペンライトが揺れた。音楽が流れ出す。世界が再起動する。
のどかの唇が開く。
——声が、聞こえた。
最初はかすかだった。けれど、次の瞬間には会場全体が震えていた。
マイクを通さずとも、彼女の声は確かに届いていた。
スクリーンに映る姿は、もう“桜島麻衣の妹”ではない。SNSの笑顔でもない。
この瞬間、この場所で歌う、豊浜のどか。
その声には、家族への迷いも、喪失への恐れも、すべてが溶け込んでいた。
——誰かの影じゃない。
——誰かに届けるためじゃない。
——今を生きる自分自身の声。
観客席に歓声が広がる。誰もが、その瞬間だけは、同じものを見ていた。
ラストのサビ。
のどかは、笑っていた。
声を張り上げ、全身で世界を抱きしめるように歌っていた。
その姿を見ながら、俺は心の奥で呟いた。
——届いたな。
ステージの照明が落ち、歓声がゆっくりと静まっていく。
客席に余韻だけが残り、白い紙吹雪が天井から降り続いていた。
俺は深く息を吸い、胸の奥に残る熱を確かめた。
「……あなたも、観に来ていたのね」
ふいに背後から声をかけられた。
振り向くと、落ち着いたベージュのコートを着た女性が立っていた。
年齢は四十代くらい。面差しに見覚えがある。
「……のどかのお母さん、ですか」
女性は静かに頷いた。
「はい。のどかの母です」
その声には、どこかためらいのような震えがあった。
「……来るか迷ったんです。前に喧嘩をしてしまってから、顔を合わせづらくて。でも、どうしても今日だけは……」
言葉を切り、少しだけ目を伏せる。
彼女の視線は、ガラスの向こう、まだ照明の残るステージへと向かっていた。
「……あの子の声、届いてましたか」
「はい。ちゃんと届いてました」
「……そう」
その言葉に、彼女の肩がわずかに揺れた。
「昔からあの子、負けず嫌いで。でも、強がってばかりで……本当はいつも不安そうにしてるんです」
「……それでも、今日の彼女は違いました」
母親は微笑む。
「私の知らないのどかの顔をしていました」
しばらく、二人の間に静かな沈黙が落ちた。
ホールの奥から、スタッフが片付ける金属音だけが響いている。
「あなたが、きっしーさんなのね」
その名前を出されて、思わず目を瞬いた。
「のどかから聞いていました。ありがとう。……あの子を支えてくれて」
その言葉は、どこか満月の光のように柔らかく、少しだけ滲んで見えた。
「俺は、ただ観測してただけです」
「観測?」
「はい。彼女が、もう一度自分の声を取り戻す瞬間を」
母親は静かに笑った。
「……それは、親でもできないことかもしれませんね」
窓の外に、冬の夜風が吹いた。
満月の光が、ビルのガラスを銀色に照らす。
「今日は、あの子の再出発の日です」
母親の声は穏やかで、どこか誇らしげだった。その横顔に、さっきまでののどかの面影が重なって見えた。
「……ありがとうございます」
俺はそう言って頭を下げた。
のどかのお母さんとの会話を終え、会場の外に出ようとしたその時、壁際に麻衣先輩の姿があった。
忙しい合間を縫って、わざわざ妹のステージを見に来ていたらしい。
ただの“姉だから”ではない。芸能界の先輩として、そして同じく“自分の存在を失いかけたことがある者”として。
だからこそ、のどかの異変を誰よりも敏感に感じ取っていたのだろう。それは、きっと俺以上に。
「……岸和田くんやっぱり来てたのね。……今度は、ちゃんとのどかの声、聞こえたわ」
「麻衣先輩……さっきまではどうでした?」
「正直、ほとんど反応できなかった。変な感覚だったわ」
麻衣先輩は小さく息をついて、それから俺と並んで歩き出した。
「一人で行くより、不自然じゃないでしょ」
そう言って、自然な形でのどかの控室へと一緒に入ることになった
扉を開けると、
のどかはタオルで顔を隠したまま、くぐもった声で言った。
「……きっしー、初めて名前で呼んだね」
「まぁ、特別な時だけな」
「じゃあ、あたしも……」
「ありがとう、蓮真」
タオルを下ろしたのどかは、少しだけ照れた笑顔で俺の名前を初めて口にした。
その言霊が、少しだけ温かく感じられた。でも同時に、強烈な実感があった。
——俺は今、この子に踏み込みすぎている。
背中を押すだけのはずだったのに、気づけば“支えなきゃ”という気持ちに縛られている。
その境界線がどんどん曖昧になっていく。
それでも、彼女の声を取り戻せたなら、それで構わない……。そう思ってしまう自分がいた。
横でのどかが「お姉ちゃん、大丈夫だよ」と笑ってみせる。
そして、その声は、もう麻衣先輩にちゃんと届いていた。
麻衣先輩はのどかの頭を軽く撫で、それから俺の方に視線を移す。
「……ありがとう、蓮真くん」
麻衣先輩からも初めて名前で呼ばれた。
「俺は、呼んだだけですよ」
「それが一番難しいことなのよ」
短いやり取り。
けれど、その言葉に込められた含みを、俺は勝手に感じ取っていた。
——ただ声を届けたことを言っているのか。それとも、のどかに“踏み込みすぎている”俺の在り方そのものを、見抜いた上で釘を刺したのか。
麻衣先輩の横顔は柔らかい微笑を浮かべていたが、その奥にあるものは読み取れない。
……いや、本当はわかっているのかもしれない。
あの人は、俺とのどかの距離を見抜いた上で、あえて何も言わずに受け入れてくれている。
だからこそ、余計に心に残った。
三人で出口へ向かう。
冬の夜風が頬を冷やす中、のどかは隣で小さくつぶやいた。
「……やっぱり、きっしーじゃなくて、蓮真って呼ぶ方が特別感あるね」
その言葉は、さっきよりもずっと近く、温かかった。
十二月三十一日
大晦日の夜。
池上本門寺の参道には、すでに新年を迎える人々の行列ができていた。
焼き団子の香りと、甘酒の湯気。
どこか懐かしいその匂いが、冷たい空気の中に溶けていく。
「ごめんね、待たせた?」
振り返ると、手袋をしたのどかが駆け寄ってきた。白い息の向こうで、彼女は少し照れたように笑う。
「いや、今来たとこ」
「ほんとに?寒くなかった?」
「“介添え人”は寒さに強いんだ」
「なにそれ」
そう言って笑う彼女の声は、ライブの時よりずっと穏やかだった。
のどかの実家はこの近くだ。数日前、一度帰省して家族と向き合った彼女は、今日、こうして俺を誘ってくれた。
「ここ、昔から好きなんだ。落ち着きたいときによく来てた」
「じゃあ、俺にとっては聖地だな」
「そんな大げさな」
二人で並んで階段を上る。石畳の隙間から冬の光が零れ、長い影を描いていた。
「来年、同じ大学に受かるといいね」
のどかが手を合わせる。
「そういえばさ」
のどかが両手をこすりながら、ふっと息を吐いた。
「お姉ちゃん、ここ数日ちょっと機嫌悪くてさ」
「……また咲太か?」
「そう。年末の模試の結果が悪かったんだって。全然口きいてないらしいよ」
「おいおい、咲太十一月の模試だとA判定だって言ってたのに。大丈夫かよ」
「ほんとほんと。本人も『風邪気味で集中できなかった』とか言い訳してたけど、通じなかったみたいで」
のどかはあきれたように肩をすくめる。
「おかげであたし、冬休みは咲太の勉強の手伝いさせられそう」
「家庭教師・豊浜のどか、か」
「やめてよその呼び方。時給出ないんだから」
そう言いながらも、のどかの声はどこか楽しそうだった。
その優しい笑い方に、冷たい空気が少しだけあたたかくなる。
「そういえばのどか、受験票もう届いたか?」
「うん、昨日。藤沢の住所に送ってもらったの」
「俺も。……でも不思議だな、今は別の高校なのに来年は同じ大学にいるかもしれないの」
「うん。でも、同じキャンパスで過ごしたいでしょ?」
何気ない言葉だった。けれど、その一言で一年分の距離が一気に縮まった気がした。
参道を抜けながら、俺はカバンからタブレットを取り出した。
画面の中には、日付順に並ぶ観察記録。
指でページをめくるたび、映像のように記憶が蘇る。
去年のクリスマスと年末年始の“記録と記憶の不一致”。
スイートバレットのバレンタインライブに行ったこと。
咲太が“可能性の世界”に行っていたこと。
のどかと歩いた目黒川のこと。
づっきーや花楓ちゃんと出会ったこと。
大津と浜松さんとの勉強会。
のどかとづっきーとの受験勉強。
浜松さんの思春期症候群。
文化祭での米山さんの思春期症候群。
そして、のどかの思春期症候群の再発。
そのひとつひとつが、確かに現実として残っていた。
俺の観察と記録が、誰かの生きた証としてそこに刻まれている。
「ねぇ、それ何見てるの?」
のどかが覗き込む。俺はタブレットを傾けて、画面を見せた。
「一年分の記録」
「うわ……ほんとに全部書いてる」
「……まるで、“思春期症候群”っていう不可思議な現象を記録したカルテだな」
「カルテ?」
「そう。俺たちが過ごした証拠って意味で」
のどかは少し考えてから、微笑んだ。
「じゃあ、来年もそのカルテ、更新してね」
「ああ」
「じゃあ、あたしの分も書いてよ。合格発表のあと、“新しい春”ってタイトルで」
「タイトルまで決めるなよ」
思わず笑うと、のどかもつられて笑った。その笑い声が、冬の空気の中でふわりと広がる。
階段を降りる途中で、除夜の鐘が鳴り始めた。遠くで響くその音が、今年の終わりと来年の始まりを穏やかに告げていた。
俺はもう一度、のどかの横顔を見た。その瞳の中には、春を待つような光があった。
——来年も、きっと記録することになるだろう。
人の心と、世界の歪みと、そしてそのやさしさを。
夜空の下、鐘の音がゆっくりと街に溶けていく。タブレットの画面を閉じると、月の残光が静かに俺たちを照らしていた。
それは、観測者のカルテを締めくくる最後の一行のようだった。
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語れない 眠れない トロイメライ
あなたの見てる正体
誰も読めないカルテ
不可思議 知りたいだけ
嘘も 現実も
どっちも 真実だったの 本当よ
今日もひとりごと
なんにも無理をしないで わたし愛されたい
有耶無耶 さよなら 軽い眩暈
あなたのいない現象界
誰も読めないカルテ
自意識 溢れ出して
鼓動 世界像
いつも噛み合わないの 痛くて
毎夜ねがいごと
なんにも疑わないで 混ざり融け合いたい
たわいない 判らない 理由 存在
あなたと残す後悔
誰も読めないカルテ
不愉快 繰り返して
正しい夢は かなしい声は
美しい? 疑わしい? 羨ましい?
ねえ、どれ?
語れない 眠れない トロイメライ
あなたの見てる正体
誰も読めないカルテ
不可思議 知りたいだけ
終わらないことはないトロイメライ
あなたと跨ぐ境界
誰も読めないカルテ
思春期 疵口 胸のうち
不可思議 知りたいだけ
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次回
『青春ブタ野郎はオブザーブサークルの夢を見ない』
豊浜のどか
『さすが蓮真、ブタ野郎だね』
この章をもって、『青春ブタ野郎は月明りライブの夢を見ない』の物語は一区切りを迎えます。
時系列でいえば、高校三年生の十一月から、大晦日である十二月三十一日までのお話です。
今章は、豊浜のどかの“声”をテーマに、彼女の思春期症候群の再発と、それに寄り添う岸和田蓮真の視点を中心に描いたオリジナルエピソードとなっています。
原作では明るく快活な印象の強い彼女ですが、今作ではその裏にある、“承認と自立の矛盾”“ネットと現実の乖離”“喪失の予感”といった繊細な痛みを描きました。
その見えない痛みを掘り下げ、彼女が再び「自分の声」を取り戻すまでの過程を、ライブという象徴的な舞台の中で描きました。
蓮真にとっても、今章は一つの転機といえます。
これまで彼は観測者”して他人の心の揺らぎを記録してきましたが、今回は初めて自ら「呼ぶ」という行動に出ます。
それは咲太のように大胆ではなく、蓮真なりの静かな勇気としての一歩です。
他人の声を取り戻すために、自分の声を使う。それがこの章で描きたかった、蓮真という人物の成長でした。
また、麻衣やのどかの母親との対話も重要な場面として描いています。
家族、姉妹という異なる距離感の中で、「声が届く」ということの意味を改めて問い直す形になりました。
物語の終盤、池上本門寺での年末詣では、静けさの中に灯る希望を描いたシーンです。
思春期症候群という非日常を経たあとに訪れる、ごく普通の冬の夜こそが、彼らの生きる現実の証であり、観測者の記録が持つ温もりでもあります。
次章からはいよいよ大学生編に突入します。
のどかと卯月との新しい日常、そして中学の同級生、赤城郁実との再会。彼女が立ち上げたボランティア団体との関わりを通して、観測から行動へと変わっていく蓮真の姿を描く予定です。
もしこの物語を少しでも楽しんでいただけたなら、ぜひ【高評価】や【お気に入り登録】をしていただけると励みになります。
感想もお待ちしています。皆様の一言が、次の章を紡ぐ大きな力になります。
これからも、静けさの先にある声を、一緒に追いかけていただけたら嬉しいです。
蓮真は最終的にどちらを選ぶと思いますか?
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豊浜のどか
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広川卯月