青春ブタ野郎はパラレルスプリングの夢を見ない 作:もドえラん
大学生編の物語を始めるにあたって、本日、舞台となる横浜市立大学の学祭に行ってきました。
特設ステージにて、アニメ第二期の主題歌を担当した Conton Candy さんのライブが行われていて、生で聴く「スノウドロップ」の音が、胸の奥にまっすぐ届いたのが印象的でした。
また、ライブの途中では、アドリブで「君のせい」のフレーズが流れ、その瞬間、あの“青春の世界”が目の前にふわりと広がったようでした。
ライブの余韻のまま、その足で七里ヶ浜へ向かいました。海辺には、遠目に江ノ島や富士山が見え、潮風と一緒に少し冷たい秋の匂いが残っていて、咲太や麻衣たちが歩いたあの景色が、確かにそこにありました。
現実と物語の境目が曖昧になるような、不思議な一日でした。
だからこそ、この“大学生編”は今日から始めようと思います。
少し大人になった彼らの時間を、静かに、そして丁寧に描いていきます。
大学生編も、ぜひお楽しみください。
1.やさしさの形を知って、季節は息づく
三月六日
春の空は、薄い雲を通して柔らかい光を落としていた。
体育館から流れ出る拍手の余韻と、生徒たちの笑い声。
胸の前に証書を抱えたまま、俺はゆっくりと正門へ向かった。
咲太はいつも通りの落ち着いた足取りで、双葉はほんの少し照れ笑いを浮かべていた。
国見は部活帰りみたいにさっぱりした笑顔で「おつかれ!」と声をかけてくる。
そして、その隣には大津美凪。
いつもは快活な彼女も、今日はどこか柔らかい表情をしている。
「高校、終わっちゃったな」
俺がそう言うと、大津は小さく息を吐いて、「終わったというより、次のセットに入ったって感じかな」と笑った。
「……やっぱり例えがビーチバレーだな」
「だって、まだ試合は終わってないし。大学でも砂の上に立つつもりだしね!」
「相変わらず強気だな」
「強気じゃないよ。負けず嫌いなだけ」
そう言って彼女は肩にかけた鞄を少し持ち直した。その横顔には、夕陽のような淡い光が差していた。
正門前には、サングラス姿の桜島麻衣と、花束を抱えた古賀朋絵。
「卒業おめでとう、蓮真くん」
「ありがとうございます」
「夕方から京都で撮影だってのどかから聞いたのに……来てくれたんですね」
俺が小声で言うと、麻衣先輩はサングラスの奥でふっと目を細めた。
「当たり前でしょ。咲太もそうだけど、大事な後輩の卒業式なんだから」
そう言ってから、麻衣先輩は少し視線を横に向けた。
「こんにちは。そして、おめでとう大津さん。一昨年の体育祭以来ね」
不意に声をかけられた大津が一瞬驚いたように目を瞬かせ、すぐに姿勢を正した。
「桜島先輩……ありがとうございます。覚えていてくださったんですね」
「もちろん。二人三脚で咲太と一緒だったでしょう?」
「はい。梓川のおかげで楽しめました」
「そう。良かったわ」
麻衣先輩は柔らかく微笑み、大津は少し照れたように髪を耳にかけた。
「光栄です。……私も、あの日のこと、ずっと覚えてます」
「そっか。なら、またどこかでね」
そんな二人のやり取りを見ながら、俺は胸の奥が少しだけ温かくなった。
それは憧れと継承が交錯するような一瞬だった。
その言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
肩越しに咲太を見ると、本人は軽く手を上げて笑っていた。
古賀が咲太と同じく、俺の胸元に花束を押し付ける。
「はい、きっしー先輩も。なんだかんだでお世話になったから」
「“なんだかんだ”は便利な言葉だな」
「便利でしょ?」
その横で、米山さんが少し緊張した様子で口を開く。
「……岸和田先輩たち、かっこよかったです。最後の式、ちゃんと見れて良かったです」
「ありがとう。米山さんも、来年か」
「はい。来年は、私たちが見送られる番です」
小さく笑うその顔は、もう静かな少女ではなかった。
自然と輪になって話す流れになった。
「で、国見はもう消防士の道に行くんだろ?」
「おう、春から訓練所。しんどいって噂ばっかだけどな」
「火の中でも走れる男になれよ」咲太が笑い、「命張る仕事だし、ちゃんと休みなよ」と双葉が少し真面目に言う。
「ありがとよ」
国見は頭をかきながら、それでも嬉しそうだった。
「双葉は?」
「私は予定通り、東工大。明日が発表だけど、手応えはあるから大丈夫だと思う。研究室ももう候補は決めてある」
「さすがだな双葉」咲太と国見が感心したように言い、双葉はわずかに口元を緩めた。
「じゃあ蓮真は?」国見の視線が俺に向く。
「俺は咲太と同じ大学」
「あ、そうだったな」
「ああ。横浜市立のほう。学部は違うけど。発表は双葉と同じく明日、でも手応えはある」
「まぁな、僕も麻衣さんのおかげで大丈夫だと思う」咲太も続けて相槌をうつ。
(実はづっきーも同じ大学だってことは、この場では咲太にはまだ内緒だ。のどかのことは咲太も知ってるし、そこはいい)
「じゃあこれからも、意外と顔合わせる機会多そうだな二人は」
「そうだな」
その横で、麻衣先輩が柔らかく言う。
「みんな、いい顔してるわね」
ひとしきり会話が途切れたところで、古賀が手を叩いた。
「はい、じゃあせっかくだし全員で写真撮りましょ!」
「お、古賀さんいいなそれ」国見が乗り気になり、双葉も「記念だしね」と頷く。
「……え、僕も入るのか?」
咲太は眉をひそめながらも、古賀に腕を引っ張られるようにして列に加わった。
「渋々だな」俺が笑う。
麻衣先輩がスマホを構え、古賀や米山さんも交えて俺たちは校門前に並んだ。
花束と証書を抱えて肩を寄せ合い、笑顔とシャッター音が重なった。
こうして、思春期症候群という異常の中で、それぞれが自分を見つけた高校生活は幕を閉じた。
正門をあとにして校舎を振り返ると、空はすでに春の光に満ちていた。まだ制服姿のまま歩く生徒たちの声が、風に乗って遠ざかっていく。
「このあとどうする?」
咲太が花束を抱えたまま尋ねてきた。
「俺はちょっと寄り道」
「寄り道?」
「浜松さんも、今日卒業式らしいんだ」
「同じ日程なのか」
「大津と一緒に藤沢駅で会う約束してるから、顔出してくる」
「なるほどな。じゃあ僕らはこのへんで」
咲太が軽く手を上げる。
咲太を見送り、俺は大津と並んで歩き出す。
電車に揺られ、藤沢駅に戻る。
改札を抜けると、駅前のロータリーには同じ制服を着た生徒たちがちらほら。
笑い声と、どこか名残惜しそうな空気が入り混じっていた。
「……夏帆、代表挨拶やったんだって」
「へぇ浜松さんすごいな」
「うん。夏帆はいっつもすごいよ」
大津は頷きながら、少しだけ笑った。
駅前を少し歩くと、見覚えのある後ろ姿がベンチに座っていた。制服姿の女子が、膝の上に卒業証書を抱え、隣には赤い花束。
「夏帆」
大津が声をかけると、彼女はゆっくり顔を上げた。
「……あ、美凪ちゃん。岸和田くんも」
「お疲れ様夏帆」
大津が微笑みながら手を振る。
「二人とも来てくれたんだ。ありがと」
「同じ日に卒業したんだし、顔出さないとね」
「そういう律儀なところ、美凪ちゃんらしいね」
ベンチに並んで腰を下ろす。
浜松さんが口を開いた。
「大学、楽しみだなぁ。美凪ちゃんも同じキャンパスだし」
「うん、心強いよ。夏帆が一緒なら、練習も生活も安心」
「安心って言わないでよ、頼られるの苦手なんだから」
「じゃあ、頼られないように頑張る」
「……あー、それもプレッシャーかも」
大津と浜松さんの笑い声が重なって、春の風に溶けていった。
「岸和田くんは?」
「俺は横市。咲太と同じだけど、学部は違う」
「そっか。またどこかで藤沢組で集まれるといいね」
「ああ。また試合も見に行くし、ちょくちょく顔を合わせると思う」
三人の会話が一度途切れ、駅構内からアナウンスが響いた。
その音を聞きながら、浜松さんがぽつりと呟く。
「……なんか、不思議だね」
「なにが?」
「こうして三人で話してるの。最初は勉強会だったのに」
「そうだな。気づいたらチームみたいになってた」
「うん。勉強ってさ、スポーツと似てるんだね」
「どういう意味?」大津が首を傾げる。
「教える側も、教えられる側も、ちゃんと向き合わなきゃ伝わらない。それって、コートでも同じでしょ?」
「……たしかに」大津が小さく笑う。
三人の笑い声が、春の風に混じって溶けていく。
「じゃあ、そろそろ行こっか」
大津が立ち上がると、浜松さんもバッグを肩にかける。
「今日来てくれて、ほんとにありがとう。……岸和田くん」
名前を呼ばれた瞬間、胸の奥に小さな余韻が残った。
「また会えるだろ。次は“勉強会”じゃなくて“試合”で」
「うん、楽しみにしてる」
駅前の歩道橋の上で、浜松さんは振り返り、手を振った。春の夕暮れに、その笑顔がゆっくり溶けていった。
隣で大津が小さく呟く。
「……夏帆、ちゃんと前を向いてたね」
「そうだな」
「私も、夏帆と一緒に、そろそろ次のセットに入らないと」
「ああ」
「次の試合、負けないようにね」
「勝ち負けの話か?」
「人生は、いつだって試合だから」
その言葉に、俺は思わず笑った。風が頬を撫で、春の日差しが少しだけ滲んだ。
三月七日
横浜市立大学の合格発表日。
けれど俺は自宅ではなく、新宿のカフェにいた。
理由は二つ。
一つは、このあと夜から新宿のバイトシフトが入っていたから。
もう一つは、のどかが「仕事でお姉ちゃんが京都に行ってるし、自宅だと一人で緊張するから」と言ったから。
向かいの席にはのどかがいて、マスクを外してストローをくわえている。
「じゃ、せーので開く?」
「……ああ」
同時にスマホをタップする。画面に浮かんだ文字を見て、思わず息を吐いた。
「……よかった」
「やった!受かった!」
のどかが声を弾ませ、すぐにスマホをこちらに突き出してくる。
そこに並んだ「合格」の二文字は、俺の画面にも同じように光っていた。
「これで一緒だね」
「そうだな」
安堵と嬉しさが混ざり合い、自然と笑みがこぼれた。
のどかはスマホを握ったまま、ぱっと顔を明るくする。
「お姉ちゃんにも報告するね!」
「……麻衣先輩に?」
「うん!“二人とも合格したよ!”ってすぐ送りたい!」
勢いそのままに入力を始める指先を見ていると、画面の小さな文字以上に、彼女の笑顔が眩しく感じられた。
しばらく後、麻衣先輩からLINEが届く。
《咲太も受かったわよ。これで全員ね》
俺はのどかと顔を見合わせて頷いた。
その直後、のどかのスマホがもう一度震える。
「……お姉ちゃんからだ」
画面を覗き込み、のどかが声を弾ませる。
「合格祝いに、明日と明後日でスノボに連れてってくれるって! 咲太と花楓ちゃんも一緒にだって!」
「へぇ、いいじゃないか」
のどかは一瞬だけ俺のほうを見て、少し照れたように続ける。
「もし暇なら蓮真くんもどう?って……お姉ちゃんが聞いてみてって」
思わぬ誘いに一瞬心が揺れたが、すぐに頭を振った。
「……残念だけど、明日は親戚と用事があるんだ」
「そっか……」
のどかは名残惜しそうに画面を見つめ、それでもすぐに笑みを取り戻した。
「じゃあ、帰ってきたらまた一緒に遊ぼ」
「おう、楽しんでこいよ」
笑顔の裏で、わずかに胸の奥がきゅっと締めつけられる。
せっかくの機会を断たざるを得なかった悔しさと、彼女が楽しそうにしてくれる安堵が、同時に混じり合っていた。
「じゃーん!」
突然、背後から陽気な声。
振り返る間もなく、スマホの画面が俺たちの目の前に突き出された。
「受かった!」
そこに立っていたのはづっきーだった。
制服姿のまま、リュックを背負っている。
「……づっきーなんで制服なんだ?」
思わずツッコむと、づっきーは胸を張って答える。
「だってまだ卒業式してないもん!私の学校、通信制だから二十四日なんだよ」
「いや、それにしたって休日だよ卯月?」
のどかが即座にツッコミを入れる。
「いいのいいの。制服だと“まだ高校生やってる感”あるでしょ?でも私服だともう大学生になった気になっちゃうし、今日ぐらいは“現役感”大事にしたくて!」
確かに彼女の言う通り、制服姿のまま街を歩くのは、現役高校生であることを意識させる。
休日にまで制服を着ようなんて普通は思わないが、づっきーらしい発想だと納得するしかなかった。
「それじゃあ合格祝いにケーキでも頼む?」
「ダメ〜!太るから!」
のどかが即座にツッコミを入れる。づっきーは「えー」と大げさに肩を落とした。
そのあと、ふと思い出したように顔を上げる。
「そういえばさ、のどかの誕生日って十四日でしょ? で、きっしーは二十日だよね?」
「……まぁ、そうだけど」
「卒業と合格も兼ねて、一緒に祝お!絶対楽しいって!」
突然の提案に、のどかは「ちょっと恥ずかしいんだけど」と照れ笑いを浮かべ、俺は苦笑しながらも否定できなかった。
春の午後、新宿のカフェには、合格の喜びと次の祝いごとの約束が重なっていた。
新宿でのバイトを終え、帰り道、通知を確認すると、画面には双葉からの短いLINEがきていた。
《受かった》
それだけ。けれど彼女らしい、無駄のない報告だった。
続けて《お祝いは落ち着いたらでいいから》と添えられていて、思わず笑ってしまう。
俺は《おめでとう》と返し、ついでに《研究室の候補は?》と尋ねると、スタンプひとつで会話が打ち切られた。
双葉らしいな、とまた笑った。
三月十四日
その日の昼、俺は花楓ちゃんと鹿野さんと一緒に、渋谷のライブハウスにいた。
のどかの誕生日を記念したスイートバレットのライブだ。
入口脇のフラスタには、「Sweet Bullet Nodoka Birthday Special LIVE 」と記されたパネル。
ステージの照明が落ち、イントロが流れた瞬間、歓声が会場を満たす。
スクリーンに映る笑顔、スモークの向こうで揺れるピンクと黄色のペンライト。
何度も見たはずの光景なのに、今日だけは違って見えた。
センターで歌うのどかの声は、以前よりも力強く、そして何より、“自分のためだけではない”響きを帯びていた。
花楓ちゃんが小さく息をのむ。
「……のどかさんすごい」
「ほんとだな」
俺はその言葉に頷きながら、ふと視線をステージの奥に向けた。
マイクを握るのどかの背中が、まるで光そのものみたいにまぶしかった。
終盤、MCの時間。のどかは笑いながら観客に語りかけた。
「今日ここにいるみんなが、あたしの“今”を作ってくれました。ありがとう!」
そのあとほんの一瞬、客席を見渡して、まっすぐこちらを見た気がした。
偶然かもしれない。でも、あの一瞬だけは、確かに目が合ったと感じた。
アンコールが終わり、客電が戻る。
花楓ちゃんと鹿野さんが拍手をしながら、俺はぽつりと呟いた。
「……のどか、クリスマスの頃の迷い、全部置いてきたみたいだ」
ステージを後にしたとき、夕風が春の匂いを運んでいた。
のどかのバースデーライブは成功のうちに終わり、このあとは麻衣先輩の家に招かれ、ささやかな誕生日会が開かれる予定だった。
俺たちは人混みを抜けて、それぞれ電車に乗る。
花楓ちゃんは「のどかさんにプレゼント買って行きますね」と言い、鹿野さんは横浜の自宅に戻るために田園都市線のホームに向かった。
俺は一度藤沢の家に帰宅し、シャツを着替えてから、桜島家へ向かうことにした。
夜、俺は麻衣先輩の家に招かれていた。
誕生日会の主役は、のどか。
彼女の誕生日ということで、麻衣先輩が「どうせなら家でやりましょう」と提案してくれたのだ。
俺にとっては初めて足を踏み入れる麻衣先輩の家。
玄関を上がった瞬間から緊張が走る。
広いリビングに並べられた料理やケーキは、どこか華やかで、それだけで「芸能人の家」を実感させられる。
けれど、次の瞬間、不思議な既視感が胸をかすめた。
——来るのは初めてのはずなのに、まるで何度もここを訪れたことがあるような気がする。
照明の明るさも、窓の向こうに見える夜景の角度も、壁紙の色味さえも。
全部、どこかの記憶の中で“知っている”ような錯覚。
(……でも、こんな感覚、あるはずがない)
「いらっしゃい、蓮真くん」
麻衣先輩がエプロン姿で出迎えてくれる。思わず背筋が伸びた。
「お邪魔します……すみません、この間はお誘いいただいたのに」
自然と頭を下げると、麻衣先輩はふっと笑みを浮かべた。
「いいのよ。急な誘いだったし。でもまたの機会には遠慮しないで」
「……ありがとうございます」
その柔らかな言葉に、胸の奥で小さな悔しさと感謝が同時に重なった。
すでに咲太と花楓ちゃん、それにづっきーも集まっていた。
づっきーは持参したプレゼントをテーブルに並べ、花楓ちゃんは少し緊張気味にのどかの隣に座っている。
「じゃあ、ハッピーバースデー!」
麻衣先輩の掛け声で、みんなで歌いながらケーキに火を灯す。
のどかが照れくさそうに「ありがとう」と言い、蝋燭を吹き消した。
プレゼントを開けるときも笑顔が絶えなかった。
づっきーからはカラフルなヘアアクセサリー。花楓ちゃんからは可愛い文具セット。咲太からは、小さな手鏡。
「アイドルは身だしなみが大事だからな」なんてぶっきらぼうに言いながらも、耳の後ろをかいている。
のどかは一呼吸おいて、にやりと笑う。
「咲太にしては気が利くじゃん」
「……僕じゃ思いつかない前提かよ」
むくれる咲太に、リビングがどっと笑いに包まれる。
麻衣先輩からはブランドものの小物で、さすがのセンスに一同が感嘆する。
俺からは、シンプルな革の手帳カバーを渡した。
「わぁ……ありがとう、蓮真。これいつでも使えるよ。大事にするね」
その笑顔に、胸の奥が少し熱くなるのを感じた。
和やかな空気の中、ケーキを分け合い、咲太とのどかが恒例の軽口を交わす。
づっきーはいつも通りはしゃいでいて、花楓ちゃんは楽しそうに眺めながらも、時折俺に向かって「すごいですね」と小声で話しかけてくる。
俺はカップを置いて、ふと口にした。
「そういえば、去年ものどかってバースデーライブやってたけど……毎年の定番なのか?」
「え、蓮真さん知らなかったんですか?」と花楓ちゃんが驚いたように目を丸くする。
「ごめん、あんまり意識してなかった」
のどかが呆れたようにため息をつきながらも、笑って言った。
「そうだよ!バースデーライブはメンバーの毎年の恒例!来月は卯月の番だし!」
「そうだよ!きっしー来てね!」とづっきーがすかさず割り込む。
「……また強制参加か」
「もちろん!」
のどかとづっきーが同時に笑い、麻衣先輩と咲太もつられて笑った。
そして最後に、麻衣先輩が言った。
「咲太も蓮真くんも広川さんも、大学生活が始まったら忙しくなると思うけど……のどかのそばにいてくれるなら安心だわ」
その言葉に、のどかがこちらをちらりと見て、俺は小さく頷くしかなかった。
春の夜、桜島家のリビングは、ケーキの甘い匂いと笑い声で満ちていた。
三月二十日
昼下がりの学芸大学駅前。
春の陽射しが柔らかく街を包み、カフェの看板や街路樹の影が静かに揺れていた。
「ここだよ、きっしー!」
づっきーが指差したのは、古民家を改装した保護猫喫茶。
入り口の横には「里親募集中」と書かれた黒板と、猫の写真がいくつも貼られている。
「まさかづっきーの誘いが、猫カフェだったとはな」
「でしょ? 私、前から来てみたかったんだ〜!」
づっきーは満面の笑みを浮かべて、靴を脱ぐやいなや店内へ。
のどかは少し苦笑しながら、後に続く。
室内は木の香りとコーヒーの匂いが混じり合い、昼の光がやわらかく差し込んでいた。
床にはゆったりとした猫たちが十数匹。窓際には陽だまりの中で眠る白猫の姿。
「かわいい……」
のどかが小さく声を漏らす。
そのすぐ隣で、づっきーはすでに一匹の黒猫を抱き上げていた。
「見て見て、この子めっちゃ人懐っこい〜!」
猫の鼻を自分の鼻に近づけながら、まるでキスでもするようなテンションだ。
「近い近い、逃げられるぞ」
俺がはそう言ったものの、黒猫はすぐにづっきーの腕の中に落ち着いた。
「ね?相性いいんだと思う!」
「それ、勝手に決めつけてない?」のどかが笑う。
「いや、たぶん猫の方も諦めただけだろ」
「ひどっ!私、好かれてる自信あるもん!」
づっきーは拗ねたように頬を膨らませ、次の瞬間、猫の鼻先をちょんと自分の鼻にくっつけた。
「ほら〜、見て?チューした!」
「……やめとけ」思わず声が裏返る。
のどかは笑いを堪えきれず、肩を震わせていた。
その後も、づっきーは黒猫の頭を撫でながら「この子、のんって名前だって。なんかのどかに似てる」と呟き、のどかは「似てないって!」と即ツッコミ。
気づけば俺は、そんな二人のやりとりを静かに眺めながら、
ああ、この時間が続けばいいと自然に思っていた。
店を出る頃には、陽射しが少し傾きかけていた。
「じゃあ次はごはんだね!」
「行く店はもう決まってる」
「え、まさか予約とかしたの?」
「した」
俺の答えに、のどかとづっきーが同時に驚いた顔をする。
「蓮真、やるじゃん!」
「……まぁ、一応今日、俺の誕生日だしな」
「え、うそ、今思い出したとかじゃないよね!?」
「……半分くらいはそうかもな」
のどかはあきれたように笑いながらも、
「じゃあ、ちゃんと祝ってあげなきゃね」とづっきーと目を合わせた。
そのあと、俺たちは東横線で中目黒に向かった。
中目黒駅から少し歩いた先にある、小さなレストランの窓際席。
この店を選んだのは俺だった。落ち着いて話せて、料理も気取らない。そんな場所がいいと思ったからだ。
メニューを開いた瞬間、づっきーが目を輝かせる。
「見て見て!このパスタ、名前がかわいい〜!」
「“春色カルボナーラ”って、それ名前だけだろ」
「いやいや、ピンクペッパーだよ!春限定!これは頼むしかないっ!」
「一応主役、俺じゃなかったっけ……?」
思わず小声で呟くと、のどかが笑いをこらえきれず吹き出した。
「もう、卯月って本当に自由だよね」
「え?主役が楽しむのが一番でしょ?」
「お前じゃねえよ」
そう言いつつ、メニューを閉じた。
気づけば、のどかも同じパスタを頼んでいて、俺だけが無難に日替わりプレート。
注文を終えるころには、づっきーが「写真撮ってもいい?今日のメモリアルディナーだから!」とスマホを構え、ウェイトレスに「三人の写真お願いしまーす!」とまで頼んでいた。
——ほんと、どの瞬間も楽しそうだな。
そんな彼女を見ていると、つい口元が緩む。
誰よりも場を明るくして、空気を軽くする。
それが、広川卯月という存在のいちばんの魔法なのかもしれなかった。
料理が運ばれると、づっきーは「見て見て!湯気の角度が完璧〜!」とまたはしゃぐ。
フォークを回しながら笑う横顔は、照明の光を反射して、まるで春そのものだった。
「てか、なんで俺の誕生日覚えてたんだ?」
問いかけると、づっきーはグラスを揺らしながらにやっと笑った。
「だって、のどかと六日違いだし。それに……」
一拍置いて、人差し指を立てる。
「だいぶ前に、きっしー自分で言ってたじゃん!」
「……俺が?」
「そうそう。去年、新宿のファミレスで花楓ちゃんに初めて会ったとき。あの時、私の誕生日が四月三十日だって話になって、その流れで教えてくれたんじゃん」
言われてみれば、そんな会話をした記憶がうっすら蘇る。
あの時の俺は、まさかこんなふうに三人で誕生日を祝うことになるとは想像していなかった。
「……覚えてる方がすごいな」
「でしょ? 私、意外とそういうの記憶力いいんだよ!」
胸を張るづっきーに、のどかが「意外と、ね」と小さく笑った。
ちょうどそのタイミングで、テーブルにホールケーキが置かれる。
白いクリームに苺が並び、中央には小さなチョコプレート。
そこには「Congratulations」とだけ書かれていた。
「よーし、切り分けるよ!」
づっきーがナイフを手に取り、勢いよく立ち上がる。
「危なっかしいから貸せ」
俺が受け取ろうとすると、「じゃあ半分こでやろ」と譲らない。二人でぎこちなくナイフを進めると、のどかがくすくす笑った。
「なんか結婚式みたいだね」
「やめろ」思わず声が裏返り、づっきーは「確かに〜」と悪ノリしてくる。
結局、三人で笑いながらケーキを分け合った。フォークを運ぶたび、苺の甘酸っぱさが口いっぱいに広がる。
「大学でも、こうやって時々は集まろ!」
のどかがケーキを口に運んだあと、柔らかい声で言った。
「もちろん!」
づっきーは即答して、俺の方をじっと見る。
「きっしーもだよ?」
「……わかってる」
そのやり取りの中に、これから先も続いていく予感が静かに混ざっていた。
窓の外には、駅前から続く夜の街の灯りと、ゆるやかに流れる車のテールランプ。
春の風が坂道を抜け、グラスの縁を淡く照らしていた。
夜。街頭が川面を淡く染める頃、桜が咲き始めた目黒川の遊歩道で、のどかとづっきーからプレゼントを渡された。
川沿いの桜並木はまだ三分咲き程度だが、淡い花びらが水面に映り込み、通りを行き交う人の声もどこかゆるやかに響いている。
「誕生日おめでと、蓮真」
のどかが差し出したのは、細長い包み。リボンをほどくと、中から落ち着いた色合いの万年筆が現れる。
「……万年筆?」
「うん。大学でもずっと使えるし、蓮真に似合うと思って」
のどかはそう言いながら、わずかに照れたように視線をそらした。
「勉強も、レポートも、就活も……これ一本で乗り越えてね」
「ありがとう。大事に使うよ」
自然と真剣な声になっていた。
「じゃ、次は私!」
づっきーが大きめの紙袋を勢いよく突き出す。
中を覗いた瞬間、俺は思わず固まった。
「……ドラえもん?」
そこに入っていたのは、サンリオデザインの「I’m Doraemon」シリーズのマグカップ。
柔らかなタッチのドラえもんが描かれていて、どこか懐かしく心をくすぐる。
「えへへ、かわいいでしょ?毎日使えるかなって!」
づっきーは自信満々に笑う。
「……お前、なんでこれを」
「え?なんでって、可愛かったからだよ!」
づっきーは本気で首をかしげている。どうやら俺がドラえもん好きだとは、まだ知らないらしい。
横でのどかが呆れたように笑った。
「ほんと、卯月って直感だけで動くよね」
「いいでしょ? でも気に入ってくれたでしょ?」
「……まぁ、悪くない」
思わずそう返すと、づっきーは「やった!」と両手を上げて喜んだ。
桜の花びらが川面を流れ、月明りが二人の笑顔を淡く照らす。
両手に抱えた万年筆とマグカップ。
それぞれの性格そのままの贈り物が、春の誕生日を鮮やかに彩っていた。
ふと、のどかが思い出したようにバッグの中を探り始めた。
「……あ、そうだ。これ、お姉ちゃんから預かってきたんだ」
差し出されたのは、封筒に入ったチケット。
桜島麻衣主演。その文字が目に入った瞬間、思わず息をのむ。
「映画のチケット?」
「うん。今週末から上映するやつ。姉ちゃんが“これ、蓮真くんに渡しておいて”って。誕生日プレゼント代わりに、だって」
「麻衣先輩が……?」
のどかは少し照れくさそうに笑った。
「“あの子なら、きっと何か感じてくれると思うから”って言ってた。あたしも、気になってたから……三人で行こ?」
そう言って、づっきーの方を振り返る。
「えっ、私も?」
「もちろん。チケット三枚あるし」
「やった!じゃあ私、ポップコーン係ね!」
勢いよく両手を上げるづっきーに、のどかが呆れ笑いを浮かべる。
「まだ決まってないから」
俺は二人のやり取りを見ながら、封筒の中のチケットをそっと見つめた。
タイトルは 『ひかりの方舟』。
ニュースで見たことがある。
麻衣先輩が国際ボランティアを題材にした作品で主演を務めたと報じられていた。
“奇跡は起きるものじゃない。作るものだ。”
予告編のその一言が、ずっと頭に残っていた。
「……観たかったんだ、これ」
思わず漏らすと、のどかが小さく笑った。
「でしょ?お姉ちゃん、見る人選んでたもん」
「俺が選ばれたってことか」
「うん。なんか、“あの子は観察するだけじゃなくて、感じ取るから”って」
その言葉に、胸の奥が少しだけ熱くなった。
「……ありがたいな。三人で行こう」
「決まり!」とづっきーが即答し、のどかが柔らかく頷く。
夜風がゆるやかに川を渡り、花びらを運んでいった。
それはまるで、これから始まる新しい季節の予告のようだった。
物語解説
今回の物語では、卒業という終わりと、始まりを受け入れる静かな瞬間を描きました。
桜が咲き始める三月、蓮真はそれぞれの仲間たちとの別れを経て、少しずつ日常の輪郭を取り戻していきます。
体育館の拍手、藤沢駅の夕暮れ、そして春の誕生日。そのどれもが、過ぎ去る季節の中で彼が確かめたやさしさの形でした。
誰かを支えるだけでなく、自分も支えられている。その事実を受け入れることが、彼にとって新しい始まりの一歩になります。
のどかと卯月、美凪や夏帆などとの穏やかな関係が交差する中で、彼の中にあった観察者としての自分が、静かに変わり始めていく。
春の光の中で息づくその変化こそが、本章のテーマです。
やがて物語は、横浜での大学生活へ。そこで待つのは、再会と、新しい選択。
止まっていた時計が再び動き出すように、蓮真の歩みも次の季節へと進んでいきます。
次回もぜひお楽しみください。
蓮真は最終的にどちらを選ぶと思いますか?
-
豊浜のどか
-
広川卯月