青春ブタ野郎はパラレルスプリングの夢を見ない   作:もドえラん

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2.桜の向こうで、新しい観測は始まる

 

 三月二十五日

 

 映画館を出ると、夜の空気が少しだけ冷たかった。

 

 手に残った半券を指で折り曲げながら、俺はぽつりと言った。

 

 「……大学入ったら、ボランティアサークルとか入ってみんのも、ありかもな」

 

 のどかが横目でこちらを見る。

 

 「珍しいね、蓮真の口から“入ってみる”なんて」

 

 「映画、効いたの?」とづっきーが笑う。

 

 「まぁ、麻衣先輩の台詞回しと……現場の手の温度、みたいなもんがさ。見てるだけじゃ足りないとき、あるんだなって」

 

 「うん、わかる。『ひかりの方舟』って、結局“誰かの一歩”の積み重ねだったもんね」

 

 のどかの声には、少し余韻が混ざっていた。

 

 そんな空気を、づっきーの唐突な声が切り裂く。

 

 「ねぇねぇ、あのシーン覚えてる? 村の子どもが急に“パンツ!”って叫ぶとこ!」

 

 「そこ!?」のどかが吹き出す。

 

 「いや、あれ絶対アドリブだよ!監督の粋な演出って感じ!」

 

 づっきーは本気で感動している。

 

 のどかは目を細めてニヤリと笑った。

 

 「パンツ履いてないアイドルが言う?」

 

 「ちょっ!?のどか!?」

 

 づっきーが一瞬で顔を真っ赤にする。

 

 「……は?」俺は完全に置いてけぼりだ。

 

 のどかが楽しそうに説明を始める。

 

 「だいぶ前のライブでね、卯月が“アイドル、パンツ履かないから!”ってマイクで叫んだことがあって」

 

 「おいおい、なんでそんなことを」

 

 「ちがうの!」づっきーが慌てて手を振る。

 

 「ほんとにあれは事故なの!その前にのどかが」

 

 のどかがニヤリと笑う。

 

 「だって、ライブのMCで、お姉ちゃ、あたしが言ったの。“づっきーライブの後、パンツまで汗で!”って」

 

 「おいおい!」俺は思わず吹き出す。

 

 「そしたら客席がどよめいて。卯月が慌てて、“アイドル、パンツ履かないから!”って」

 

 「言ったのか?」

 

 「言っちゃったんだよ!」

 

 づっきーは両手で顔を覆い、声を裏返らせる。

 

 笑いの余韻の中、ふと俺だけが引っかかる。

 

 いま、のどかは確かに「お姉ちゃ」って言いかけた。

 

 けれど彼女は何事もなかったように笑っていて、づっきーも気づいていない。

 

 ほんの一瞬だけ胸の奥がざわめいて、すぐに波のように消えていった。

 

 「もうほんと地獄だったんだから!お客さん“うぉぉぉーー!”って盛り上がっちゃって!」

 

 「それでマネージャーにライブの後に説教?」

 

 「五分どころじゃなかった! “公の場でパンツを武器にするな”って二十分コース!!」

 

 のどかは肩を震わせながら笑う。

 

 「でも、あれでファン増えたんだよね?」

 

 「そうなの! なんか伝説のMCとか言われて!」

 

 「炎上商法だな」

 

 「違うもん!」

 

 俺は腹を抱えて笑いながら言った。

 

 「お前ら、ほんとに仲良いな……」

 

 のどかが少し照れたように笑い、づっきーはぷくっと頬を膨らませる。

 

 「仲良いっていうか、被害者と加害者だからね!」

 

 「いや、どっちがどっちか分かんねーな」

 

 そのやり取りにまた笑いが生まれ、さっきまでの映画の余韻が、現実の温度を取り戻した気がした。

 

 エスカレーターを降り、駅へ向かう動線に乗る。途中の分岐で、づっきーがスマホを掲げた。

 

 「ここからは私たち、別行動!」

 

 「うん、今日は愛花と茉莉の“卒業おめでとう会”だから」

 

 のどかが笑いながら言う。

 

 「愛花と茉莉?」

 

 「うん、スイートバレットのメンバー。今月で卒業なの」

 

 「あー、なるほど。お祝いか」

 

 「そう!今日はその打ち上げみたいな感じ!」と、づっきーが元気よく頷く。

 

 「伝えといてくれ。“おめでとうございます”って」

 

 「任せて!」づっきーが親指を立てる。「きっしーも、大学行ったら一緒にサークル見学いこ?」

 

 「……お前がサークル入ったら、絶対サークルクラッシャーになるだろ」

 

 「えぇ!ならないよ!」

 

 のどかが即座にうなずいた。

 

 「いや、なるね」

 

 「なんで!?」

 

 「だって、空気読まないし、天然だし、場の男子がみんな一瞬で勘違いしそうだもん」

 

 「そんなことないもん!」

 

 「ほら、否定の仕方がもうクラッシャー」

 

 「のどかひどい!」

 

 俺は苦笑して肩をすくめた。 

 

 「……まぁ、お前が真面目に話すだけで場がざわつくタイプなのは確かだな」

 

 「どういう意味!?」

 

 「いい意味で、目立つってこと」

 

 「フォローになってない!」

 

 「してるしてる」

 

 のどかが小さく笑う。 

 

 「うん、してないね」

 

 「のどかまで!?」

 

 笑いながら、づっきーは肩をすくめた。

 

 「じゃあ来月ね」

 

 のどかが小さく手を振る。「入学式の日、また一緒に写真撮ろ」

 

 「いいね!そのあとカフェ行こ!」とづっきーが元気に言う。

 

 「まだ式も始まってないのに二次会の話!?」と、のどかのツッコミが重なり、笑い声が夜風に溶けた。

 

 改札前で二人と別れる。去っていく背中の向こうに、知らないステージと、これから知る季節が重なって見えた。

 

 ポケットの中で半券が折れる音がした。

 

 俺はタブレットのメモを開き、ひとつだけ書き足す。

 

 ——“見守るだけの日を、少し減らす”

 

 四月一日

 

 朝の空気は、少しだけ冷たかった。

 

 春とはいえ、鎌倉の山あいはまだ冬の名残を残している。

 

 遠くで鳩の声がして、潮の匂いが微かに混じっていた。

 

 父さんと並んで歩く。

 

 墓地の坂道を上るたび、足元の砂利が静かに音を立てる。

 

 墓石の間を抜ける風が、線香の香りをふわりと運んでいった。

 

 母さんの墓前に立つのは、久しぶりだった。

 

 刻まれた名前に指を触れると、少しだけ冷たくて、懐かしい。

 

 「受かったよ。横浜市立大学」

 

 言葉にしてみると、それだけで胸の奥が少し軽くなった。

 

 父さんは静かに頷き、花を供えてからマッチを擦る。

 

 火がつく音が、山の静けさの中に小さく響いた。

 

 「お前が進学するって聞いたら、きっと喜ぶぞ」

 

 そう言って、父さんは線香を立て、短く笑った。

 

 俺は返す言葉を探しながら、曇りがかった空を見上げた。

 

 遠くの桜が、風に揺れている。

 

 ——こうして四月が来るたび、思い出す。

 

 中学一年の春。

 

 あのとき俺は、同じ三月を何度も繰り返した。

 

 何度も、同じ朝、同じ空、同じ放課後を見た。

 

 どんな選択をしても、四月が来なかった。

 

 そして、最後の夜。

 

 もう何も変えられないと思って、俺は自分の部屋でロープを握っていた。

 

 ——その瞬間、机に広げたノートを閉じ、深く息を吐いた瞬間、不思議な静けさが胸に広がった。

 

 その静けさの中で、時計の秒針が確かに動き始めた。

 

 時間が、戻ってきたのだ。

 

 次の日が、母さんの三回忌だった。

 

 俺はその日、何も言えずにただ墓の前に立っていた。

 

 けれどあの日から、止まっていた時間が少しずつ流れ始めた気がする。

 

 ——母さん。

 

 俺、ちゃんと前に進むよ。

 

 あのループの中で閉じ込めた昨日を、取り戻していくから。

 

 線香の煙が春風に流れ、空へと細く伸びていく。

 

 それを見ていたら、自然と手を合わせていた。

 

 父さんが「行くか」と言って立ち上がる。

 

 俺も頷いて、花の前にもう一度視線を落とした。

 

 墓石の上に、ひとひらの桜の花びらが落ちる。

 

 それはまるで、母さんが微笑んでいるように見えた。

 

 四月五日

 

 四月の空は、冬の名残をほんのわずかに引きずった色をしていた。

 

 京急線の改札を抜けると、同じ方向に歩くスーツ姿の新入生たちがずらりと並んでいる。

 

 会場となる大学の前は、記念写真を撮る人であふれていた。

 

 咲太とのどかは、すでに正門前にいた。

 

 咲太はスーツ姿の新社会人みたいな落ち着きで、のどかは淡い水色のブラウスにベージュのスーツ。

 

 肩までまっすぐに下ろした髪は、光を受けてやわらかく揺れていた。

 

 「……のどか、黒髪似合うな」

 

 思わず口にすると、のどかは小さく笑って答えた。

 

 「さすがに金髪で入学式はまずいでしょ。今日だけ、ちゃんと染め直したの」

 

 「一日限定の“落ち着いた豊浜のどか”か」

 

 「そういう言い方やめて」

 

 咲太が横で吹き出す。

 

 「いや、でも大人っぽいな。普通に社会人でも通じるぞ」

 

 「やめてよ、照れる」

 

 軽く笑い合ったあと、俺は小さく息を吸って言った。

 

 「……似合ってるよ」

 

 のどかのまつげがわずかに揺れ、目が細められる。

 

 「ありがとう、蓮真」

 

 そのやり取りに、隣の咲太が首を傾げた。

 

 「そういえばさ、お前ら、いつから呼び捨てで呼び合うようになったんだ?」

 

 のどかは一瞬だけ間を置いて、視線を横にそらす。

 

 「……内緒」

 

 「内緒?」

 

 「まぁ、いろいろあったの。アイドルには秘密が多いの」

 

 「ふーん……」

 

 咲太はそれ以上追及せず、軽く肩をすくめて笑った。

 

 その笑い方に、いつもの咲太らしい優しさが滲んでいた。

 

 ——本当の理由は言えない。

 

 あの冬の夜、声を失ったのどかに、俺が名前を呼んだ瞬間に彼女の声が戻った。

 

 あれが、呼び方の始まりだった。

 

 式が終わったあと、咲太、のどかと三人でキャンパスの外へ出る。

 

 構内の桜並木は満開を少し過ぎた頃で、花びらが風に乗って舞っていた。

 

 「入学式って、思ってたよりあっさり終わるね」

 

 のどかがパンフレットを見ながら言う。

 

 「咲太が真面目に座ってるの、珍しかったけどな」

 

 「僕だって空気は読むぞ」

 

 「読むって言った瞬間に怪しいんだよね」と、のどかがくすっと笑う。

 

 そんな穏やかな空気の中、背後から元気な声が飛んできた。

 

 「きっしー!のどか!お兄さん!」

 

 振り返ると、パンプスをコツコツ鳴らしながらづっきーが駆けてくる。

 

 黄緑のシャツに淡いピンクのブラウス、白いスカートにデニムのジャケット。

 

 入学式らしさはゼロだが、春らしさは満点だった。

 

 咲太が目を見開く。

 

 「づっきー!?」

 

 「お兄さんの反応、最高〜!」

 

 づっきーは笑いながら、のどかの腕に軽く自分の腕を絡める。

 

 「ちょっと! 卯月、走るなってば!」

 

 「だって早く言いたかったんだもん! “入学おめでとう!”って!」

 

 「自分も新入生だろ」俺が苦笑すると、

 

 「そうだけど、私入学式出てないし!スイートバレットのリハで抜けてきたの!」

 

 「抜けてきたって言うな……」

 

 咲太は額に手を当て、「僕、今日で一年分は驚いた気がするぞ」とぼやく。

 

 「ねぇねぇ、三人とも写真撮ろ!入学式って感じのやつ!」

 

 づっきーがスマホを取り出し、半ば強引に俺と咲太を引き寄せる。

 

 シャッターが切れる瞬間、春風が吹き抜け、散った花びらが画面いっぱいに舞った。

 

 「うわ〜!奇跡の一枚!」

 

 「奇跡って、花びらのおかげだろ」

 

 「私が呼んだから風が吹いたの!」

 

 「その自信どこから出てくるんだよ」

 

 咲太が呆れたように笑い、のどかが肩をすくめた。

 

 四人並んで歩く後ろ姿を見ながら、俺は心の中で思う。

 

 のどかは麻衣先輩と同じ国際教養学部。

 

 づっきーと咲太は統計科学学部。

 

 そして俺は国際商学部。

 

 学部こそ別々だが、同じキャンパスに通っているというだけで、こうして自然と集まることができる。

 

 咲太とのどか、そしてづっきーが同じ大学にいるこれからの生活が、静かなはずがない。

 

 四人で少し言葉を交わしたのち、俺たち三人、のどかとづっきーと俺は駅に向かうことにした。

 

 「せっかくだし、カフェ寄らない?」

 

 のどかが提案すると、づっきーがすぐに手を挙げた。

 

 「賛成!入学式の打ち上げだね!」

 

 「まだ入学して三時間も経ってないけどな」

 

 「いいの、春はスタートダッシュが大事なの!」

 

 「何の競技だよ」

 

 正門前で咲太と別れ、「じゃあな」と手を振った咲太の背後で、不意に声が聞こえた。

 

 「……城、だよな?」

 

 「うん、久しぶり」

 

 振り返ると、咲太に話しかけているメガネをかけた女子がいた。

 

 どこかで会ったことがあるような子だと、直感的に思う。

 

 「蓮真、どうしたの?」

 

 のどかに尋ねられて我に返る。づっきーも首をかしげている。

 

 「……いや、なんでもない」

 

 そう答えて駅へと歩き出したとき、一瞬だけその女子と目が合った。

 

 胸の奥がかすかにざわめく。

 

 ——まさかな……。

 

 そう呟くように思いながら、俺は二人と並んで歩き出した。

 

 だが、駅へ向かうはずだった足は、づっきー一言で方向を変えることになる。

 

 「ねぇ、大学の裏に、モンブランがすごい人気なカフェがあるんだって」

 

 「聞いたことある。あたし行ってみたかったんだよね」

 

 「じゃあ行ってみよ?」

 

 大学裏の先、ヨーロッパ風のオシャレなマンションタウンの一階。暖かいオレンジの外壁と白枠、緑の扉が印象的で、窓際からはショーケースに並ぶケーキが陽光を受けてきらめいている。

 

 「……なんか、大学の裏とは思えないな」

 

 俺がそう呟くと、のどかが笑った。

 

 「でしょ? ここだけ別の国みたいだよね」

 

 「写真撮りたくなる外観だよね!」とづっきーがスマホを構える。

 

 「店の前で撮るな、迷惑だろ」

 

 「大丈夫、一瞬だけ!」

 

 「お前の一瞬は大体三分ぐらいだろ」

 

 「うわ、細かい〜!でも正解!」

 

 のどかが「それは褒めるとこじゃないから」と笑い、俺もつられて口元が緩んだ。

 

 づっきーがテンション高めにドアを開ける。

 

 窓際には数組の学生客。その中にノートパソコンを開いた社会人風の女性が一人。

 

 その顔は、見覚えのある横顔だった。

 

 肩までの黒髪。シンプルな白いブラウス。

 

 表情は静かだが、視線の動きだけが印象的だった。

 

 去年の夏、横浜市立大学のオープンキャンパス。構内に貼られていた「ミスコン候補者紹介」のポスター。

 

 なんとなく気になって、試しにポスターにのっていたインスタのアカウントをフォローした。

 

 あのあとも投稿は途切れることなく続いていた。

 

 ただ、受験期のあの頃はスマホを見る余裕もなくて、気づけばずいぶん遡らないと最新の投稿に追いつけないくらいになっていた。

 

 そういえば、あの年、グランプリを獲ったんだったな。 

 

 その頃から一気に更新が増えて、どの写真も眩しく見えた記憶がある。

 

 ふとした瞬間に、その断片だけが頭に浮かんで、胸の奥が少しざわついた。

 彼女がカップに口をつけた瞬間、視線がふとこちらに向いた。

 

 一瞬だけ、目が合う。

 

 時間がほんのわずか止まったような錯覚。

 

 その瞳は驚きでも好奇心でもなく、どこか確かめるような色をしていた。

 

 「きっしー?どうしたの?」

 

 のどかの声で我に返る。

 

 「……いや、なんでもない」

 

 目線を外すと、窓から光が差し込んで、モンブランの表面を淡く照らしていた。

 

 づっきーがスプーンを構えながら言う。

 

 「これさ〜、上の栗クリーム、帽子みたいでかわいくない?」

 

 「お前、帽子って言うな。食べ物に人格与えんな」

 

 「え、だって可愛いじゃん!食べられるのかわいそう!」

 

 「じゃあ俺がもらう」

 

 「ちょっ、それは違う!」

 

 くだらないやり取りの合間にも、ふとした拍子に、あの横顔が脳裏をかすめる。

 

 大学という新しい日常の始まりに、俺はまた、知らない何かを“観測してしまった”のかもしれない。

 

 四月十日 

 

 昼のピークがひと段落した頃、店内にはようやく静けさが戻っていた。

 

 窓の外では、藤沢の春の陽射しが歩道に模様を描いている。

 

 厨房から漂うフライ油の匂いに、まかないコーヒーの甘さが混ざっていた。

 

 「じゃあ、交代で休憩入ろ!」

 

 古賀が伝票を束ねながら言う。

 

 俺と咲太が頷き、三人でバックヤードの休憩室へ移動した。

 

 紙コップに注いだコーヒーを手に、折りたたみ椅子に腰を下ろす。

 

 咲太がぼそりと呟いた。

 

 「なんか、この時間になると高校の頃思い出すな。まだ卒業してから一ヶ月しか経ってないけど」

 

 「まぁ、メンツもほぼ同じだからな」

 

 俺が言うと、古賀が笑う。

 

 「ね、なんか“高校生活の延長”みたい」

 

 その穏やかな空気の中で、俺はふと思い出して口を開いた。

 

 「そういえば、今日だよな」

 

 「ん?」

 

 咲太が顔を上げる。

 

 「お前の誕生日」

 

 「ああ……よく覚えてたな」

 

 「去年、単語カード渡しただろ。“水に濡れても使えるやつ”」

 

 「うわ、あれまだ持ってるよ。受験の時めっちゃ使った」

 

 咲太が笑うと、古賀が首を傾げた。

 

 「単語カード?きっしー先輩なんか地味じゃない?」

 

 「地味だけど実用的なのがいいと思ったんだよ、派手なプレゼントよりいいだろ」

 

 「いや、間違ってないけどさ!」

 

 古賀が肩をすくめて笑い、咲太も苦笑する。

 

 「で、今夜はどうするんだ?」

 

 「麻衣さんと花楓と一緒に実家に帰る。大学進学祝いも兼ねて、母さんが飯作ってくれるらしい」

 

 「家族バースデーか、いいな」

 

 「まぁ、どうせ母さんと父さんが昔話で一時間は語るだろうけどな」

 

 咲太のその言い方が、なんだかんだ嬉しそうで、俺と古賀は目を合わせて小さく笑った。

 

 カップを置いて、咲太がふと話題を変える。

 

 「そういえば、岸和田。新宿の店、辞めたんだってな」

 

 「ああ。国見が先月辞めたから、俺も区切りかなって。大学との両立もあるし、藤沢一本にした」

 

 「気心知れた人ばっかだし、いいねきっしー先輩」

 

 「まぁな」

 

 古賀がコーヒーを飲みながらぽつりと言う。

 

 「国見先輩、元気かなぁ」

 

 「消防士の訓練で地獄見てる頃だろうな」 

 

 咲太の言葉に、三人の間に笑いがこぼれた。

 

 「でも、代わりってわけじゃないけど……」と咲太が続ける。

 

 「土曜日から花楓がここでバイト始める」

 

 「え、ほんとに!?」

 

 古賀が目を輝かせる。

 

 「ああ。最初は週二。学校帰りにちょっとだけ」

 

 「わ、楽しみ〜。絶対かわいい後輩になるじゃん」

 

 「おい、プレッシャーかけるなよ」

 

 「岸和田、古賀、花楓をよろしくな」

 

 「了解」

 

 「了解、先輩!」

 

 二人同時に返して、咲太が笑う。

 

 外では学生の声が遠くに響いていた。

 

 昼休みの時間が、ゆっくりと流れていく。

 

 「そういえばさ、大学どう?」と古賀が聞く。

 

 「僕は……麻衣さんと付き合ってるからか、すっかり有名人だよ」

 

 「まぁ、そうなるわな」

 

 俺が答えると、咲太は苦笑した。

 

 俺は続けて、ため息交じりに肩をすくめた。

 

 「まぁ咲太のおかげで、俺もたまに話しかけられるようになったけどな」

 

 「え、きっしー先輩まで!?」

 

 「“麻衣先輩の後輩で、咲太の高校時代の同級生”って紹介されるから、妙に覚えられる」

 

 「ブランド力すごいな〜」

 

 古賀が感心したように言い、三人の笑い声が休憩室に広がった。

 

 「……そろそろ戻るか」

 

 咲太が腕時計を見て立ち上がる。

 

 「午後もあと一踏ん張りだな」

 

 「だね。でも今日くらいは、誕生日補正でサボってもいいんじゃない先輩?」

 

 「麻衣さんにバレたら怒られる」

 

 「正論だな」

 

 俺と古賀が同時に返して、三人で笑った。

 

 店内に戻ると、昼の光がフロアの床に反射していた。

 

 新しい大学生活も、働く場所も、全部が“続き”のようで、少しだけ違う。

 

 でも、こうして笑って過ごせたなら。それだけで十分だと、俺は思った。

 

 四月十二日

 

 校門から伸びる並木道の両脇には、テントと立て看板がずらりと並び、ビラを配る上級生たちの声が交錯している。

 

 「新入生のみなさーん!一緒に未来を変えよう!」

 

 「カフェでミーティングしてます! 一年生歓迎!」

 

 大学に入ってまだ一週間。

 

 勧誘の声にもようやく慣れてきた頃だった。  

 

 「君、国際商学部の一年だよね?」

 

 振り向くと、グレーのジャケットにメガネの男が立っていた。

 

 首から学生証を下げ、胸ポケットには名刺入れ。どこかサラリーマンのような落ち着きをまとっている。

 

 「俺、小谷良平。国際商学部の二年。岸和田くんだよね?」

 

 「……ええ。なんで知ってるんですか」

 

 「入学式の名簿で名前見たんだ、新入生リストの整理手伝ってたし。それに岸和田くん、梓川くんほどではないけど有名人だしさ」

 

 まあ、俺の名前が少し知られているのは事実だ。

 

 あの桜島麻衣の後輩かつ、麻衣先輩と付き合っている咲太の高校時代の同級生で、今も同じ大学に通っている。

 

 そのうえ、アイドルをやっているのどかや、づっきーとも仲がいい、なんて話がもし混ざっているなら、噂のひとつやふたつは立つだろう。

 

 入学早々“芸能関係にやたら縁のあるやつ”という、よくわからない肩書がついているのかもしれない。

 

 とはいえ、そんなのは全部外から見た話で、俺自身はただ静かに過ごしたいだけだ。

 

 そういって小谷先輩から差し出された名刺には、こう印字されていた。

 

 > ソーシャル・エコロジー・サークル

 

 > エコロ人役員 小谷 良平

 

 「すみません、名刺持ってなくて」

 

 「ああ、いいって。それより、タメ口でいいかな?」

 

 「え、あ……はい」

 

 「この……ソーシャル・エコロジー・サークルって、なんですか?」

 

 名刺に並んだ単語はどれも聞いたことがあるのに、三つ並ぶと意味が掴めない。

 

 俺の問いに、小谷先輩は待ってましたとばかりにメガネをくいっと上げた。

 

 「お、興味ある?」

 

 その声色には、少しの熱と、少しの営業スマイルが混ざっていた。

 

 「都内のいろんな大学と合同で活動してるんだけど、テーマは“人と社会と環境の関係”。環境問題って、実は人間社会の支配システムに関連してるんだよ。だからうちは、思想とか構造をちゃんと理解したうえで、“サステナブルな未来”を議論していこうっていう集まりなんだ」

 

 話が続く。

 

 「この前の会合ではね、経済と支配、ヒエラルキー、あとESG投資の本質とか。最近話題のSDGsも、“企業が掲げるスローガンの裏に何があるか”をディスカッションしてさ。ちなみに、うちのアドバイザーにはテレビにも出てる社会学者がいるんだ。朝まで議論してたよ」

 

 すらすらと未知の単語が小谷先輩の口から流れ出す。

 

 話の輪郭は掴めるようで掴めない。

 

 結局、何が本質のサークルなのかよく分からなかったので、俺は曖昧に頷いた。

 

 「はぁ……なるほど」

 

 「ま、最初は難しく聞こえるよね」

 

 小谷先輩は微笑んで、名刺を俺の方へ押し出す。

 

 「もっと詳しく知りたかったら、今度声かけて。そこに連絡ちょうだい」

 

 名刺の右下に印刷されたQRコードを、彼は人差し指で軽く叩いた。

 

 その指の動きに、どこか妙な熱を感じた。

 

 「ありがとうございます。……ちょっと考えてみます」

 

 「自分の中で社会って言葉に何か引っかかるなら、きっと合うと思うよ」

 

 軽い口調のまま、彼は次の新入生の方へ歩いていった。

 

 残された俺は名刺を見下ろす。

 

 “ソーシャル・エコロジー・サークル”。

 

 理屈より先に、思想の匂いだけが記憶に残った。

 

 ポケットに名刺をしまい、構内の裏道を歩き出す。

 

 キャンパスのざわめきが遠ざかると、鳥の声と風の音だけが耳に届いた。

 

 (……なんか、現実のほうが、よっぽど複雑だな)

 

 そう思いながら中庭を抜けたとき、不意に聞き覚えのある声がした。

 

 「やっぱり、岸和田くんだよね?」

 

 振り向くと、そこに立っていたのは赤城郁実だった。

 

 春の光に溶けるような淡いピンクのカーディガン。手には資料ファイル。

 

 「……もしかして、赤城?」

 

 「うん」

 

 彼女は少しだけ笑った。

 

 その笑顔は、中学の頃よりもどこか静かで、成熟して見えた。

 

 ——この時の俺はまだ知らなかった。

 

 大学という“現実”の中で、“もう一つの可能性の世界を知る人”に出会ったことに。




物語解説

今回の物語は、岸和田蓮真の大学生編の幕開けとして、彼が過去と向き合い、新しい季節へ歩き出すまでの時間を描きました。

舞台となるのは、入学式の前後。

中学時代の止まった三月を思い出す墓参の場面から、桜の舞うキャンパスでの咲太、のどか、卯月との再会、そして偶然に目にした岩見沢寧々の存在まで。

それらはどれも、彼の“観測者”としての人生が、次の段階へと動き始めたことを示しています。

これまでの蓮真は、出来事の“外側”から他者を見守る立場に徹してきました。

しかしこの章からは、彼自身が行動し、選び、関わっていく姿勢がわずかに芽生えています。 

「見守るだけの日を、少し減らす」という言葉は、その決意の象徴であり、彼が再び生きることを選ぶための小さな一歩です。

のどかや卯月との軽妙なやりとり、咲太との関わり、そして赤城郁実との再会。

それぞれの断片が、過去と現在、そしてまだ見ぬ“もう一つの世界”を静かに繋いでいきます。

春の光の中で再び動き出した時間が、これからどんな“現実”と“可能性”を交錯させていくのか。

岸和田蓮真という観測者の視点を通して、その軌跡を見届けていただけたらと思います。

蓮真は最終的にどちらを選ぶと思いますか?

  • 豊浜のどか
  • 広川卯月
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