青春ブタ野郎はパラレルスプリングの夢を見ない 作:もドえラん
四月十二日
「……もしかして、赤城?」
「うん」
彼女は少しだけ笑った。
その笑顔は、中学の頃よりもどこか静かで、成熟して見えた。
そして同時に、少しだけ“影”を帯びているようにも見えた。
春の光の中で、ひとひらの桜が肩に落ちる。
その仕草ひとつに、昔の赤城とは違う“間”がある気がした。
——俺の知っている赤城は、いつも誰かのために動く子だった。
困っているクラスメイトがいれば放っておけず、自分のことより他人を気にかけていた。
けれど今の彼女は、その優しさの奥に、どこか“疲れ”のような静けさをまとっていた
「……あれ、メガネ、つけてないんだね?」
赤城が少し間を置いて言った。
懐かしさというより、記憶を手探りしているような声音だった。
「ん?ああ。高校に上がるときにコンタクトにしたんだ」
「そう……なんだ」
その返事に、どこか違和感を確かめるような間があった。赤城は視線を落とし、手にした資料の角を指で整える。
「……大学、こっちだったんだな」
「うん。いろいろ考えて、結局ここに」
「そっか」
そのやり取りのあと、風の音だけが残る。
桜の花びらが二人の間を横切った。
それが、どこか“時間の境界”みたいに見えた。
「中学のとき以来、か」
その一言に、赤城の表情がわずかに動いた。
聞き返すでもなく、笑うでもなく、ほんの一瞬だけ、言葉を失ったように。
「……そうだね。……ずっと、会わないままだと思ってた」
——私はそう答えたけれど、胸の奥で何かがずれる音がした。
中学のあと、自分は確かに彼と同じ峰ヶ原高校に進んだはず。
梓川くんと岸和田くん、三人で話した放課後の風景も、いくつも覚えている。
なのに、この世界の岸和田くんは、まるで“それがなかった”ように話している……
違う。これは“同じ過去を持たない彼”なんだ。
「……岸和田くんは、高校どこに進学したんだっけ?」
探るように、赤城が尋ねた。
「俺?湘南にある峰ヶ原高校ってとこだけど」
その答えを聞いた瞬間、赤城の瞳がほんの僅かに揺れた。
「……ここでも、梓川くんと一緒なんだ……」
小さく漏れた独り言は、風に溶けて俺の耳には届かなかった。
「赤城はどこに進学したんだ?」
自分でも、なんとなく会話をつなぐように尋ねる。
「……私は、近くの進学校。グレーのブレザーで有名なところ」
「……ああ、あそこか」
自然にそう返したが、その言葉の裏で、互いに確かめ合うような沈黙が流れた。
「……元気だったか?」
咄嗟に返ってきた言葉に、赤城はわずかにうなずく。
「うん。……岸和田くんも」
その声の中には、再会の喜びよりも、“自分の世界が確かに揺らいでいる”という静かな動揺があった。
「……じゃあ、また」
赤城はそう言って背を向ける。
去っていく彼女の背中を見つめながら、俺はただ、不思議な“空白”を感じていた。
まるで、たったいま再会したはずなのに、ずっと昔からすれ違っていたようなそんな感覚だけが、胸に残った。
四月十五日
春の陽射しが、ガラス張りの校舎に反射してまぶしい。
入学から十日。まだ大学という場所に体が馴染みきらないまま、履修申請のために国際商学部の棟へ向かっていた。
廊下では新入生らしき学生たちが、プリントを手に行き交っている。
「履修登録、エラー出たんだけど!」
「どこが必修かわかんない!」
そんな声を聞いて、思わず口元が緩んだ。
(……なんだ、みんな同じか)
自分だけが出遅れてるわけじゃない。
そんな小さな安心を覚えながら提出窓口に並んでいたときだった。
前から歩いてくる女子がひとり、ゆるく束ねた髪をハーフアップにして、後ろで小さなお団子を作っていた。
左目の下に、小さな泣きぼくろ。その一点が、妙に印象的だった。
振り向こうとした瞬間、すれ違う。
香水ではない、柔らかい澄んだ香りだけが残った。胸の奥が、ほんの一瞬だけざわめいた。
けれど、そのまま振り返ることはなかった。
書類を提出して外へ出ると、昼休みでにぎわう広場の中に、手を振る二人の姿が見えた。
「きっしー、こっちこっち!」
づっきーが全力で腕を振っていた。
その隣で、のどかがパンフレットを覗き込んでいる。
「遅いよ、もう教養ゼミの掲示見た?」
「いや、まだ。何かあったのか?」
「うん、びっくりするよ」
のどかが紙を広げて、うれしそうに言った。
「教養ゼミ、あたしとお姉ちゃん、同じグループになったの!」
「麻衣先輩と?」
「そう!お姉ちゃん、“後輩に混ざるの変な感じだわ”って言ってたけど、授業始まったらすぐ切り替わってさ」
のどかは少し笑って続けた。
「まるで、仕事してる時みたいだった。ノートも一字一句逃さない感じで」
「……それは麻衣先輩らしいな」
「うん。なんかね、ちょっと誇らしかった。家では結構自由なのに」
その言葉に、俺は思わず頷いた。
麻衣先輩が“表舞台に立つ人”だということを、改めて思い知らされた。
そして、その姿を間近で見ているのどかの瞳に、かつてとは違う“憧れではない尊敬”が宿っていることも。
「……麻衣先輩、今年から復学したんだもんな」
俺がそう言うと、のどかは小さくうなずいた。
「うん。お姉ちゃん、ようやく咲太と同じ大学に通えるからかな?ちょっと楽しそうだった」
「らしいな」
口元に自然と笑みが浮かぶ。
桜島麻衣という人は、何をしていても“ちゃんと隣に立てる努力”を忘れない。
その在り方が、のどかにも確かに受け継がれている気がした。
「でね、私もすごいよ!」とづっきーが手を挙げる。
「お兄さんと同じ統計科学のゼミだった!」
「咲太か」
「そう!“づっきーがいると騒がしくなりそうだな”って言われた!」
「たぶん本音だな」
「ひどい!?」
づっきーが頬をふくらませ、のどかが笑う。
「なんかみんな、うまく繋がってるね」
「そうだな」
俺は、掲示板に貼られた自分のゼミ名を思い出す。
国際商学部・単独指定:経済思想入門。
名前を見ても、誰の顔も浮かばなかった。
「蓮真は?」
「俺?俺は誰とも一緒じゃなかったよ」
「え、そうなの?」
「まぁ、みんなと学部違うしな。後期からやる基礎ゼミで一緒になるだろ」
「なるほど〜」
づっきーが腕を組んでうなずく。
「じゃあ、学外で会えばいいね!」
「それいいじゃん」
のどかがすぐに乗ってくる。
「また三人で出かけよ、春のうちに」
「そうだな」
思わず頷いていた。
言葉にした瞬間、風が吹いて、花びらの代わりに若葉が揺れた。
始まったばかりの大学生活。
別々の学部にいても、こうして笑い合える時間があるなら、それでいい。
ふと視線を向けると、ガラス越しの廊下を、午前中にすれ違った女子が、資料を抱えて通り過ぎていくのが見えた。
彼女は気づかない。俺だけが、その一瞬を覚えている。
——この大学で、また何かが始まる。
そんな予感が、胸の奥で静かに膨らんでいった。
四月十六日
新年度の喧騒が街に残る夕方、藤沢のファミレスに、新しい制服姿が一人加わった。
「きょ、今日からお世話になります。梓川花楓です」
不安げに名乗る声は、どこか震えていた。
先月まで厨房を走り回っていた国見は、今年の春から消防士になるために店を辞めた。
俺自身も、大学に進学したタイミングで新宿副都心店との掛け持ちはやめ、この藤沢店に固定することにした。だから、ちょうど空いた枠に花楓ちゃんが入った、という形だった。
「大丈夫だって。僕も最初は皿を落としまくったしな」
横で咲太が軽く笑い、場を和ませる。
「……咲太、そういうフォローは逆にプレッシャーだと思うぞ」
「岸和田が真面目すぎるんだろ」
そんなやりとりに花楓ちゃんが小さく笑ったのを見て、少し緊張が解けた気がした。
最初の数時間は俺と咲太と古賀で交代しながらサポートに入った。
「花楓ちゃん、こっちのテーブルお願い。あ、伝票はこうやって差し込むと楽だよ」
「は、はいっ。ありがとうございます、古賀さん」
「古賀さんじゃなくて、朋絵でいいからね!」
「えっ、でも……」
「そっちの方が自然だし!」
「……分かりました、じゃあ朋絵さん、って呼びますね」
「うん!」
少しずつ、ぎこちなさが薄れていく。
花楓ちゃんがオーダーを取りに行く姿を、古賀がさりげなく気にかけているのがわかった。
厨房から戻るたびに「今のスムーズだったね」とか「ちゃんと笑えてたよ」と声をかける古賀に、花楓ちゃんは照れたように「ありがとうございます」と返す。
そのやりとりを横目に見ながら、俺は思わず心の中でつぶやいた。
(……国見、お前の抜けた穴は、意外とちゃんと埋まりそうだぞ)
夜、シフトを終えて、四人で裏口を出た。
春の夜風が、制服に残る油の匂いをやさしく流していく。
「そういえば花楓ちゃん、今月末、池袋でやるづっきーのバースデーライブ行くの?」
「もちろん行きますよ!」
「そうか。俺も行くよ」
「え、きっしー先輩、花楓ちゃんと一緒にライブ行くんだ」
古賀が目を丸くする。
「いや、そういうわけじゃなくって。前に何回か会った、豊浜のどかって子、いただろ?“スイートバレット”っていうアイドルグループのメンバーでさ。そのライブなんだ」
「へえ、豊浜さんってアイドルだったんだ!」
「そう。それでづっきーはそのグループのリーダーなんだよ」
「卯月さん、かわいいしかっこいいし、私の憧れなんです!」花楓ちゃんが急にテンションを上げる。
「おお、花楓、ファンモード入ったな」
咲太が笑う。
「朋絵さんも今度行きましょう!一緒にペンライト振りましょう!」
「え、あたしも?うーん……可愛い子ばっかだと自信なくすなぁ」
「古賀、そこは“勉強になるよ!”って言っとけ」
咲太がすかさず突っ込む。
「先輩、む、無理だよそれは!」
笑いながら歩く道すがら、古賀がふと思い出したようにら咲太の方を見て、ニヤリと続ける。
「そういえば去年、先輩と江ノ島の海岸清掃で会った時、先輩、“妹とアイドル二人と来た”って言ってたけど、あれ……やばい妄想じゃなかったんだ」
「おい古賀、それ、まだ僕の妄想だと思ってたのかよ」
「だって……先輩だし」
「理由になってないだろ、それ」
俺と花楓ちゃんが顔を見合わせて笑う。
春の風に混じる笑い声が、どこか懐かしく響いていた。
四月二十日
先週の履修申請も終わり、ようやく大学生活が落ち着き始めた頃だった。
昼の講義を終えて学食に向かうと、偶然、同じ時間帯に別の授業を受けていた麻衣先輩とのどかの姿を見つけた。
「こっち空いてるよ」とのどかが手を振る。
トレーを持って近づいた俺は、一瞬、言葉を失った。
赤縁のメガネに、ゆるく編まれた三つ編み。
服装も地味めなブラウスとカーディガン。
芸能活動をしているとは思えないほど“大学生らしい”麻衣先輩が、そこにいた。
けれど、俺は、その落ち着いた仕草の中に、どこか懐かしい影を見た気がした。
(……母さんに、少し似てる)
そんな思いがよぎった瞬間、胸の奥が不意にざわついた。
「どしたの、蓮真?まさかお姉ちゃんに見惚れてる?」
のどかがにやりと笑う。
「ち、違うって」
慌てて視線を逸らすと、麻衣先輩が小さく咳払いをした。
「……この格好、そんなに変かしら?」
「い、いえ。すごく似合ってます。というか、ちょっと驚いただけで……」
「そう……大学ではあんまり目立ちたくないから」
そう言って微笑む顔は、スクリーンの上よりもずっと柔らかかった。
席に着いて、のどかがウチの学食の名物、よこいち丼をつつきながら言う。
「お姉ちゃん、その格好で外歩いたら誰も気づかないよ。逆にすごいね」
「目立たないに越したことはないわ」
「芸能人の言うセリフじゃないよ、お姉ちゃん……」
そんなやり取りを聞きながら、口を開いた。
「そういえば麻衣先輩、この間は映画のチケット、ありがとうございました」
「いいのよ。映画、良かった?」
「はい、とても。……あの作品見て、俺もボランティア始めてみようかなって思いました」
「蓮真くんがボランティアね。似合ってると思うわ」
麻衣先輩の言葉に、少し照れながら笑う。
「大学、復学してどうですか?」
「仕事との両立もあるけど、楽しいわよ」
のどかがすかさず口を挟む。
「咲太もいるしね」
「どうかしらね?」
麻衣先輩がわずかに頬を赤らめ、視線をそらす。
俺は内心、(図星だな)と思いながら、コーヒーを一口飲んだ。
「そういえば麻衣先輩、今日は咲太と一緒じゃないんですね?」
「咲太、今日は学習塾のバイトの面接に行ってるのよ」
「咲太、塾バイト始めるんですね」
「ええ。ファミレスだけじゃお金が足りないらしくて」
のどかが箸を置き、思いついたように言う。
「じゃあさ、蓮真も塾バイトやってみたら? 卯月にも教えてたし、絶対咲太より教えるのうまそう」
「そうね」
麻衣先輩も軽く頷く。
「蓮真くん真面目だし、人のペースに合わせるの上手いもの」
「……まあ、検討してみます」
俺は苦笑しながら返した。
春の昼下がり。
ガラス越しに差し込む光の中で、三人の笑い声が混ざり合った。
あの頃より少しだけ、大人に近づいたような気がした。
三限の授業が近づくころ、のどかがスマホを見て顔を上げた。
「そろそろ行くね。午後からレッスンだから」
「頑張れよ」
「うん。また夜LINE送るね」
軽く手を振って、のどかは食堂を後にした。
テーブルの上には、食べ終えたトレーと、残り半分のコーヒーだけが残る。
その静けさの中で、麻衣先輩がカップを持ち上げた。
「……本当に仲がいいわね、あなたたち」
「まあ、そうですね」
そう言いながら、俺は一瞬迷ってから切り出した。
「そういえば麻衣先輩。ちょっと相談があるんですけど」
「なにかしら?」
「今月の三十日、づっきーの誕生日で。プレゼント、何がいいか迷ってて」
麻衣先輩は少し目を細めて、コーヒーを置いた。
「広川さんの、ね」
「はい。毎年あげるわけでもないし、ちょっとちゃんとしたものをって思って」
「ふふっ、真面目ね」
そう言ってから、少し考えるように視線を落とした。
「……そうね。彼女、よく明るい服を着るでしょ?生成りのキャンバス地に、柔らかな革紐のストラップがついた白いバッグなんてどう?」
「白いバッグ……」
「派手すぎず、でも写真映えもするわ。軽くて使いやすいものなら、レッスンにも持っていけると思うの」
麻衣先輩の言葉に、頭の中で自然と卯月の姿が浮かぶ。
初夏の街を歩く、白いワンピースの彼女。
その肩に、柔らかい白のバッグが揺れている光景。
「……たしかに、似合いそうですね」
「でしょ? あの子、明るいからこそ、あまり主張しすぎないものもいいと思うわ」
麻衣先輩はそう言って、微笑んだ。
その表情は、まるで妹のことを話すように穏やかだった。
「ありがとうございます。参考にします」
「どういたしまして。……蓮真くん、ほんとに優しいのね」
「そんなことないですよ」
そう言いつつ、どこか照れくさくて、俺はコーヒーを飲み干した。
窓の外では、春の光がキャンパスを包んでいる。
静かに流れる時間の中で、麻衣先輩の言葉が不思議と胸に残った。
白いバッグ。
それは、まだ誰にも渡していない“気持ち”の形をしていた。
四月二十三日
その夜は、自宅のソファでくつろいでいた。
テレビの音が遠くで流れ、風呂上がりの湯気がまだ部屋の空気に残っている。
そんなとき、スマホがほぼ同時に二回震えた。
画面には、同刻に届いた二つのメッセージ。
《来週私の誕生日に、お台場行こう!》
《卯月の誕生日だから、蓮真も来るよね!》
……秒単位のシンクロ率。送信者は言うまでもなく、づっきーとのどか。
受験期に作っておいたグループチャット《きっしー観察会》が、こういうときだけ無駄に連携の取れたユニットになるのは、もうおなじみだ。
(……はいはい、逃げ道なし)
既読をつけただけで“来る前提”で話が進むことも、経験上わかっている。
俺が何を返そうと、“強制参加型誕生日イベント”が発動するのは時間の問題だ。
間をおかず、のどかからメッセージが続く。
《二月に八重のバースデーライブお台場でやったんだけど、その時夜景が綺麗だったから、なら今度昼から行こうって!》
《そうそう!海とフジテレビと科学の街!完璧!》
(……理由の方向性がバラバラだな)
とはいえ、二人の中ではもう確定らしい。
“なんとなくノリで決まった目的地”ほど、彼女たちの勢いを止めるものはない。
それにしても、お台場か。
子どもの頃、父に何度も連れて行ってもらった。
今はもうないパレットタウンの観覧車を見上げたり、船の科学館の白い船体を見つめては、
「大人になったらここで働きたい」なんて言って笑われた記憶がある。
そのあと必ず寄るのが、科学未来館だった。
プラネタリウムも展示も、全部が未知の仕組みに満ちていて、気づけば、あそこは今でも俺の好きな場所のひとつだ。
それに来週にはづっきーのバースデーライブが池袋でやる。
スイートバレットのバースデーライブは、メンバーの誕生日に毎年やる恒例のライブだと、のどかが自分の誕生日に話していたし、先週花楓ちゃんもそのライブに行くと言っていた。
どうせその翌日が誕生日のお祝いになるだろう。そう思っていた矢先に、この同時メッセージである。
《じゃあ、ライブ終わった翌日!お台場集合ね!》
《決まり〜!蓮真、遅刻厳禁だから!》
LINEの通知が、立て続けに鳴った。
返信する間もなく、決定事項が上から更新されていく。
俺はため息をつきながらスマホを伏せた。
画面のライトが消えると、部屋の中が少しだけ静かになる。
(……まぁ、いいか)
づっきーの誕生日を“お台場で祝う”なんて、いかにもあの二人らしい。
次の週末は、ライブの熱気と、潮風の残る休日。
その間に、どんな一日が待っているのか、まだ知らないまま、俺は天井を見上げて目を閉じた。
四月二十八日
明日からGW。大学の授業を終えた俺は、一度藤沢の家に寄って荷物を整理してから、目黒の実家に戻るつもりで藤沢駅にいた。
夕方のホームには、帰省や旅行の人たちが行き交い、どこか浮き立った空気が漂っている。
そのとき、改札の向こうから聞き覚えのある声がした。
「……あれ、岸和田?」
振り向くと、見覚えのある二人組がこちらに手を振っていた。
「大津、それに……浜松さん?」
高校の卒業式以来の再会だった。
二人とも少し焼けて、アスリートらしい引き締まった雰囲気になっている。
だがその中で、浜松さんの笑顔だけは当時と同じ、柔らかいままだった。
「久しぶり岸和田くん。大学どう?」
「まぁ、なんとか。そっちは相変わらず練習漬けだろ」
「うん、今日も平塚のクラブチームで練習してきた帰りなんだ」
浜松さんがタオルを肩にかけながら笑う。
隣の大津も、変わらない穏やかな笑顔を浮かべていた。
「お前ら、相変わらず仲いいな」
「そりゃチームメイトだし」
浜松さんが軽く大津の肩を叩く。
その動作が自然で、もう息の合ったコンビになっているのがわかった。
「いいコンビだな」
「でしょ?」と浜松さんが微笑む。
その笑みが、なぜかほんの少し長く俺の方に向けられていた。
「そうだ、来週さ」
大津が思い出したように言う。
「三日から五日まで、お台場で大会があるんだ。私たちも出る」
「お台場?」
思わず聞き返す。
「うん。毎年GWから始まる大会。砂もコートも新しくて気持ちいいんだよ」
「へぇ……いいな。海沿いのコート、絵になるだろ」
「うん、最高だよ。風がちょっと強いけどね」
浜松さんが少し笑いながら髪を耳にかける仕草をした。
その横顔に、砂浜の光景がふと重なって見えた。
「もし時間あったら、見に来てね岸和田くん」
「そうそう、客席に知ってる顔があると、結構気合入るから」
「……じゃあ、行くよ。ちょうど二日前にお台場行く予定もあるし」
「え?すごい偶然だね」
浜松さんが目を丸くして笑う。
「じゃあ、縁ってことで。楽しみにしてるね」
その言い方は、少しだけ含みを持っていて、
“縁”という言葉が、妙に胸に残った。
「……ああ、ぜひ行く」
ホームに電車が滑り込み、二人が軽く手を振る。
「また会場でね!」
電車のドアが閉まり、二人の姿がゆっくり遠ざかる。
(……浜松さん、ああいう笑い方、前からしたっけな)
少しだけ胸の奥に残る温度を誤魔化すように、
俺はイヤホンを耳に差し、発車ベルを聞いた。
お台場。
づっきーとのどか、そして大津と浜松さん。
不思議とみんなの春が、同じ潮風の下で交差しようとしていた。
四月三十日
池袋のライブハウス前は、春とは思えない熱気に包まれていた。
開演一時間前なのに、すでに行列ができている。
「卯月さん、やっぱりすごい人気ですね」と隣で花楓ちゃんが小さく声を漏らす。
「だな。……でも、こうして見ると実感するな。あの“づっきー”が、ちゃんとアイドルなんだって」
ステージ上の卯月しか知らない人たちが、ペンライトやグッズを手に笑っている。
それだけで、俺の胸の奥に小さな誇りのようなものが灯った。
ライブが始まる。照明が落ち、スクリーンに「Sweet Bullet Uzuki Birthday Special LIVE 」と浮かぶ。
歓声が一斉に上がる中、センターに立つ卯月がマイクを握った。
ステージ衣装は、白とピンクを基調にしたショートジャケット。
髪をサイドでまとめ、きらきら光るリボンが揺れる。
「みんなーっ!今日は、私のバースデーライブに来てくれてありがとう!!」
観客の声が一斉に弾ける。
花楓ちゃんの手にも、ピンク色のペンライトが光っていた。
俺もいつのまにか、同じ色のライトを握っている。
数曲を終えたあと、会場が一瞬暗くなる。
イントロが流れる。
タイトルは「BABY!」
>I wanna kiss you, love me baby!!
観客の歓声が一斉に上がり、ステージ全体が揺れた。
スポットライトが左右から走り、ピンクと白の光が交差する。
センターに立つのは、づっきー。
その両隣にのどかと岡崎さん。
少し下がった位置に、中郷さんと安濃さん。
のどかがマイクを握り、笑顔で叫ぶ。
「みんなー!今日はづっきーの誕生日だよー!盛り上がってこーっ!」
「イェーイ!」
観客の声が一斉に弾ける。
照明の光が揺れ、色とりどりのペンライトが波のように揺らめいた。
「BABY!」のイントロが跳ねる。
づっきーの声が高く、軽やかに空気を切った。
>ねぇ わたし朝から思考回路が大渋滞です
>前みたいに気の抜けた顔なんてしないわ
観客がリズムに合わせて手を叩く。
のどかが柔らかくステップを踏み、岡崎さんが合わせてビートを刻む。
安濃さんが控えめな笑顔で全体を支え、中郷はカメラにウィンクを投げた。
づっきーはセンターで一歩踏み出し、手を胸に当てる。
>君に“Kiss you, love me baby!!”
>始まったばかりのストーリー
その声がマイクを通して響き、空間を染めていく。彼女の笑顔は明るさと楽しさが混じっていた。
サビに入ると、会場のペンライトが一斉に跳ねた。
「BABY!」「BABY!」のコールが飛び交い、観客の熱が最高潮に達する。
花楓ちゃんが横で小さく息をのむ。
「……卯月さん、すごいです」
「そうだな。完全にステージの真ん中だ」
づっきーの声はまっすぐで、ひとつも揺れていなかった。
その目は、ただまっすぐ前を見ている。
それだけで、胸の奥がざわついた。
間奏を挟んで、照明が落ちる。
づっきーが息を整え、マイクを握り直す。
「今日は……本当にありがとう!この一年、いろんなことがあったけど、みんながいたからここに立てました! “BABY!”は、そんな私へのエールです!」
会場から「がんばれー!」の声が飛ぶ。
のどかが隣で小さく手を合わせ、笑顔で頷いた。
そして最後のサビ。
ステージにピンクと金の紙吹雪が舞う。
卯月が胸の前でハートを作り、力強く歌い上げた。
>君にもっと近づきたいよ
>どうしようもないくらいに今はただ
>君だけを見ていたい
>終わらないストーリー
その瞬間、照明が白く弾けた。歓声が爆発し、音が消えても、拍手が鳴り止まなかった。
づっきーが深く一礼し、顔を上げる。
ライトの中で、笑顔が涙に滲んでいた。
「ありがとう!大好きだよ、みんなー!!」
花楓ちゃんの手の中で、ペンライトがまだ光っている。俺は何も言えずに、その光景を見つめていた。
ステージのづっきーは、誰よりもまぶしかった。
まるで“自分の想い”そのものを歌にして、夜空に放っているみたいだった。
ライブが終わり、夜風が冷たく感じる。
人の波を抜けて駅へ向かう途中、俺はスマホを取り出した。
照明の残光がまだまぶたに残っている。
《づっきー、誕生日おめでとう。ライブ、すごくよかったよ。》
送信から十秒も経たずに、既読がついた。
すぐに返信が来る。
《ありがとー!!きっしー見つけたよ!ペンライト、超目立ってた!》
《てか“すごくよかった”って何その雑な褒め方!?再提出だよ!》
思わず笑う。
(……相変わらずだな)
《語彙力ないのはお互い様だろ》
と返すと、また即レスが飛んできた。
《そういうとこ好きだよ!じゃあ明日、お台場でね!おやすみー!》
(……ほんと、天真爛漫にもほどがある)
“好き”って言葉を、こんなに軽やかに言えるのはづっきーらしい。
たぶん、そこに深い意味なんてない。
ただ、今の気持ちをそのまま言葉にしてるだけ。
でもわかってるのに、どうしてだろう。
画面を閉じたあとも、そのひとことが頭から離れなかった。
でも、そんな彼女“らしさ”に救われる瞬間もある。
夜風の中で、俺はスマホをポケットにしまい、静かな余韻を抱えたまま歩き出した。
五月一日
日曜の朝、ゆりかもめの台場駅で改札を出る。潮風の匂いと、観覧車のあった場所の空白。
その向こうにづっきーがいた。
ベンチに腰を下ろしていたづっきーは、淡い陽射しに溶け込むように座っていた。
くすんだサーモンピンクのブラウスに、袖口で結ばれた小さなリボン。
落ち着いた黒のスカートが、その柔らかさを静かに受け止めている。
派手でも地味でもなく、ただ“彼女らしい”温度をまとっていた。
俺が近づくと、づっきーは顔を上げて、ぱっと花が咲くように笑った。
「きっしー、おそいよ〜!待ちくたびれちゃった!」
頬をふくらませながらも、目は完全に楽しそうだ。
どう見ても怒ってない。むしろ、“この時間も楽しんでいた”みたいな顔をしている。
「ごめん、ゆりかもめ混んでてさ」
「ふふん、いいもん。だって今日は誕生日明けだし、なんでも許しちゃう日だから!」
「自分で言うなよ、それ」
くだらないやりとりの中で、自然と肩の力が抜けていく。
ライブの熱気を残したままの彼女は、どこか“オフモードの広川卯月”に戻っていた。
「おまたせ〜!」
明るい声が背後から届く。
振り返ると、のどかが軽く手を振りながら駆け寄ってきた。
白いカーディガンに淡いデニムスカート。
潮風で揺れる髪が、朝の光を受けてきらめいている。
「二人とも早いね〜。あたしが一番かと思ったのに」
「当然!」とづっきーが胸を張る。
——こうして、俺たち三人のお台場の一日が始まった。
最初の目的地は、日本科学未来館。
真っ白な壁と、天井から吊らされる青い地球。何度見ても、この瞬間だけは子どもに戻れる気がする。
「蓮真、なんか詳しそうだね」
「昔、父親に連れてきてもらってよく来てたからな。展示も何度か入れ替わってるけど、やっぱり好きだ」
「へぇ……そういうの似合う」
のどかが、ほんの少し柔らかく笑う。
のどかは展示パネルを食い入るように読み、俺はそれに合わせて解説する。
「こういうの見ると、未来って案外すぐそこって感じするよね」
「だな。AIの浸透は想定より速い」
俺の説明に、のどかは短く「へぇ」と返す。この反応は、興味を持った証拠だ。
その横からづっきーの声が飛び込む。
「ねぇねぇ、このロボット、夜中に勝手に動き出したらどうする?」
「そういうホラー展示じゃない」
「え、違うの?」
づっきーは笑っているが、その目は案外ちゃんとロボットの仕組みを見ている。意外に、ただの天然じゃない。
誕生日の主役でも、彼女は彼女らしかった。
アクアシティのテラス席。海面に光が踊っている。
「づっきー、このパスタ絶対お前好きだろ」
「え、なんで分かるの?」
「この前、俺の誕生日会の時に似たやつ頼んでただろ」
「わー、きっしー、私の食歴まで覚えてるんだ」
言葉は冗談だが、づっきーの目は少しだけ探るようだった。
のどかは笑って、自分のピザをづっきーに差し出す。
「今日は卯月の誕生日なんだから、いろいろ味わわなきゃ損だよ」
ああいう自然なやり取りは、付き合いの長さが作るものだ。
——実は、このテラス席も俺とのどかで相談して、こっそり予約しておいた。
「せっかくなら景色のいいとこで食べさせてあげよう」ってのどかが言って。俺も賛成した。
そのことをづっきーは知らない。いや、言うつもりもなかった。
風が強まり、のどかの髪が頬にかかる。
俺は黙ってハンカチを差し出した。
「借りとく。ありがと」
海風で頬が赤くなったせいか、笑みがやけにやわらかく見えた。
午後はダイバーシティ東京プラザ。休日のショッピングモールは、人の波と空調の涼しさが交互に押し寄せてくる。
のどかは服飾フロアの入り口から、迷いなく奥へ進む。
「今日は主役の服を選ぶ日だから」
そう言って振り返る笑顔には、完全に狩人の気配があった。
ハンガーにかかったワンピースを二枚ほど手に取り、のどかはづっきーの肩に当ててみる。
「卯月はこういう色似合うよ。ほら、試着してみ」
「えー、じゃあきっしー見ないでよ」
「見てない」
「いや、視界に入ってるじゃん!」
カーテンの向こうから飛んでくる声は、まるで漫才の掛け合いみたいだ。
のどかは笑いながら、試着室のカーテンを軽く押さえて「じゃあ行くよー」と送り出す。
やがてカーテンが開く。
淡い若草色のパーカーに、ベージュのスカート。
春の風みたいに明るくて、見ているだけで気持ちが軽くなる。
それでいて、黒のブーツが全体を引き締めていて、“芯のある子”って印象を残す。
「どー?」
「……悪くないな。落ち着いて見える」
「それ褒めてる?貶してる?」
「褒めてる。普段が落ち着きなさすぎるだけだ」
「ひどーい!」
しかし口元は満足そうに緩んでいる。
のどかは「ほらね」と得意げに笑い、すかさず次のコーディネートを探しに行った。
のどかが立ち止まり、指差した先にはドラえもんオフィシャルショップ『未来デパート』。
「あれ、蓮真、なんか顔が緩んでない?」
「……気のせいだ」
本当は、子どもの頃からドラえもんが好きだ。実家の自室には、買い集めたドラえもんグッズが並んでいる……が、それは秘密だ。
しかし店内に入った瞬間、二人の目が同時に輝く。
「これ絶対常連だよね」
「きっしー毎月来てるでしょ?」
頷くしかなかった。観念して頷くと、のどかは「蓮真かわいいとこあるじゃん」とくすっと笑う。
のどかはぬいぐるみのコーナーで、四次元ポケットから顔を出すドラえもんを手に取って笑う。
「これ、家に置いたら絶対可愛い」
「いや、のどかの雰囲気と合わないだろ」
「うるさいな、こういうのは雰囲気じゃなくて愛でるものなの」
づっきーは食玩コーナーでどら焼き型の小物入れを手にして、こちらを振り返る。
づっきーは「きっしー、どら焼きも似合いそう」と口にする。
づっきーのこういう余計な一言は、観察するとだいたい的を射ているから困る。
レジを済ませ、通路に出たところでのどかが「ちょっと飲み物買ってくる」と自販機コーナーへ向かった。
自然と、俺とづっきーが二人きりになる。
「ねぇ、きっしー」
「なんだよ」
「のどかのこと、好きなの?」
真正面から射抜くような質問に、脳が数秒止まる。
「は?」
「だって今日、ずっと優しいじゃん。私の時と違う」
「お前は放っておくと勝手に動くからだ」
「ほら、そういうとこ」
づっきーはにやっと笑うが、その目は相手の表情を逃さない。
視線を受け止めるこちらが、観察される側に回った気分になる。
「別に、のどかにだけ特別ってわけじゃない」
「ふーん。でも“蓮真”って呼ばれたとき、ちょっと嬉しそうだったよ」
「……気のせいだ」
そう答えると、づっきーは口を尖らせてみせた。
「……でもさ。今日は私の誕生日会なのに?」
その言葉には、冗談だけじゃない色が混ざっていた。
「……だからこうして付き合ってんだろ」
「そっか。なら許す」
づっきーはようやく笑みを戻したが、その笑顔はいつもより少し大人びて見えた。
戻ってきたのどかは、何も知らずに俺たちを見比べていた。
夕方、デックス東京ビーチのデッキ。
オレンジ色の空にレインボーブリッジのシルエット。潮風がゆっくりと体温を奪う。
「きれいだね」
のどかの声は、景色に馴染むように落ち着いていた。
「なんか、青春って感じ!」とづっきーが笑う。
「そういえばさ」づっきーがにやりとこちらを見る。
「誕生日プレゼント、ちゃんと用意してくれてるんでしょ?」
俺が肩をすくめながら紙袋を差し出すと、彼女は首をかしげながら受け取った。
中を覗いた瞬間、ぱあっと顔が明るくなる。
「えっ、かわいい!バッグじゃん!」
「大学でも使えるし、荷物も入りそうだったから」
「しかも白っぽい色、どんな服にも合うし……きっしーセンスある!」
そう言って、づっきーは早速肩にかけてみせる。
生成りのキャンバス地に、柔らかな革紐のストラップ。
春の陽射しの下で、彼女の若草色のトップスとよく馴染んでいた。
(さすが麻衣先輩のチョイスだな……)
づっきーは得意げに笑いながら、くるりと一回転してみせる。
「じゃあ今日からこれ、私の“きっしーバッグ”ね!」
「……それはやめてくれ」
「え〜、いいじゃん、縁起物だよ?」
そう言いながら笑う彼女の横顔を見て、俺は、こういう笑顔のためなら、選んだ甲斐があったな、と思った。
づっきーは子どものように喜び、のどかも「似合うと思うよ卯月」と頷いた。
のどかからは、彼女の好きなブランドのイヤリング。
「ありがと、のどか!」と抱きつかれ、のどかは「もう、主役なんだから落ち着きなよ」と笑った。
夕焼けの光が二人の笑顔を照らす。
耳まで赤くなったのは潮風のせいか、それとも別の理由か。
俺は二人の横顔を交互に見た。のどかの目元は、さっき未来館で見せた真剣な表情と少し似ている。づっきーの口角は、昼間のからかいよりも柔らかい。
づっきーがにやっと笑い、言葉を投げる。
「きっしー、明日ものどかに優しくしてあげてね!」
「なんで俺限定なんだ」
「だって“蓮真”って呼ばれるの、嬉しそうだもん」
のどかが「卯月!」と小さく抗議し、耳まで赤くなる。その色が、夕陽とどちらのせいかは分からなかった。
帰り際、のどかが歩調を落として俺の隣に来る。
「……ねぇ蓮真」
「ん?」
「今日、ありがと。卯月の誕生日、一緒に祝えてよかった」
その声は、海風に紛れるほど小さい。けれど耳に残る質感は鮮明だった。
——こういう瞬間を、俺は意識的に忘れないようにしている。
部屋に戻ると、窓の外はもう完全に夜だった。
ベッドに腰を下ろすと、今日の潮風と、笑い声と、あの二人の表情が頭の中で再生される。
づっきーは誕生日でも普段と変わらず、直球質問や冗談を混ぜながら人の心を揺さぶってきた。
でも最後に見せたあの柔らかな笑顔は、いつもより少しだけ特別に思えた。
のどかは、そんなづっきーを支えるみたいに横に立ち、自然に場を和ませていた。
“誕生日を一緒に祝う”それだけのことなのに、三人の関係はまた少し形を変えた気がする。
——こうして思い返すと、今日一日がやけに長く感じる。
笑った時間と、少し胸に引っかかった時間と、海の匂い。
全部まとめて「楽しかった」と言えるなら、それは俺にとって貴重なことなんだろう。
机の上には、づっきーから渡された小さな紙 袋。
「今日は私のターンだから!」と笑って押しつけられたそれを、まだ開けずに眺める。
そっと袋を開けると、中から出てきたのはドラえもんの鈴のピンズ。
未来デパートで見かけたシリーズのひとつだ。
あの時、俺が少し足を止めたのを、づっきーはちゃんと見ていたのかもしれない。
それとも、ただの直感で選んだのか。どちらにしても、彼女らしい。
掌にのせた小さなピンズが、今日一日の記憶を静かに呼び起こす。
潮風、笑い声、そしてづっきーの誕生日。
——またひとつ、記録しておきたい一日が増えた。
その直後、枕に置いたスマホが、小さく光った。
画面にはグループチャット《きっしー観察会》の新着LINE。
《次はどこ行く?》
《きっしーが行きたいとこでもいいよ!》
のどかとづっきーからのメッセージ。二人のアイコンが、寝落ち前の空気を和ませる。
少し考えてから、俺はこう返した。
《目黒とかどうだ? この間は行かなかった、庭園とか静かなとこもある》
《そこから恵比寿まで歩ける、昼ごはんはテラスとかで》
《で、最後は渋谷。スクランブルスクエアとか、あえて騒がしいとこも》
少しして、二人から連続で返信が届く。
《なにそれ完璧じゃん!》
《うん、いい感じ。蓮真ナビ、頼りにしてるからね?》
グループチャットの画面が静かに更新される。
——次はふたりと“過去”を歩きたい日の気がした。ため息をつきながらも、口元が少しだけ緩んでいるのを、自分で分かっていた。
物語解説
今回の物語は、赤城との再会からお台場での休日まで、岸和田蓮真が“大学生としての春”を迎える過程を描きました。
本章で印象的なのは、蓮真が“観測するだけ”ではなく、“感じ取る”という行為に少しずつ踏み出していることです。
卯月の無邪気さに心が揺れ、麻衣の言葉と夏帆の微笑みに一瞬立ち止まる。
それらの瞬間に、彼自身の“生”への感度が確かに息づいています。
卯月という存在は、彼にとって“風”のような存在です。
予測できず、掴めないけれど、触れた瞬間に確かに世界を動かす。その風が、蓮真の止まりかけた心に再び光を通した。
また、ライブシーンやお台場での描写には、“春”という季節と“再生”のモチーフを重ねています。
この章から、“見つめるだけ”だった観測者、岸和田蓮真が、“関わる”物語へと歩き出す。
春風が運んだ微笑みが、彼にとってどんな意味を持つのか。その答えは、次のページから少しずつ明らかになっていきます。
次回もぜひお楽しみください。
蓮真は最終的にどちらを選ぶと思いますか?
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豊浜のどか
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広川卯月