青春ブタ野郎はパラレルスプリングの夢を見ない   作:もドえラん

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4.夏の人波にまぎれ、呼び方は変わる

 

 八月二日

 

 その日、桜島先輩はロケを終えて藤沢に戻ってきたらしく、再び俺に声がかかった。

 

 夕方、新宿でのバイトを終えた頃、スマホが震える。

画面を開くと、短いメッセージが届いていた。

 

 《岸和田くん、少し付き合ってくれる?》

 

 理由は自分でもよくわからない。けれど気づけば、俺は慌ただしく更衣室で制服を脱ぎ捨て、藤沢行きの小田急線に飛び乗っていた。

 

 もしかしたら、“あの時”が頭を離れなかったのかもしれない。

 

 桜島先輩が思春期症候群で誰からも見えなくなっていた頃、俺は傍にいながら踏み込めなかった。

 

 梓川みたいに声をあげていれば、もしかしたら彼女は世界から見えなくなることはなかったのかもしれない。

 

 だから今度は、桜島先輩が必要としているなら。遠くても、迷う理由なんてなかった。

 

 待ち合わせ場所は藤沢駅前。

 

 「悪いわね。咲太のバイト先に行きたいんだけど……ひとりだと目立つから」

 

 「なるほど、だから俺を」

 

 「ええ。介添え人ってやつ」

 

 軽く笑ってそう言われると、断る理由はなかった。

 

 駅前からファミレスまでの道を歩く間、俺は人の流れを少しずつずらし、彼女が浮かないように先回りする。

 

 観光客や学生の波に紛れながら、自然に足を運んだ。

 

 「やっぱり助かるわね。……こういうの、慣れてるの?」

 

 「まあ、気配を消すのは得意なんで」

 

 「ふふ、咲太とは逆の意味で安心できるわ」

 

 その横顔は、少しだけ肩の力が抜けていた。

 

 そんな道中、桜島先輩が、不意に俺へ声をかけてきた。理由はわからない。

 

 けれど、梓川に久々に会うからか、少しだけ調子が良いようにも見えた。

 

 足取りは軽く、声の調子にもわずかな柔らかさが混じっている。

 

 「そういえば、岸和田くんはこっち出身?」

 

 思いがけない問いに、少し間を置いて答える。

 

 「東京です。……でも、静かなところが良くて藤沢に部屋を借りてます」

 

 「へえ、一人暮らしなんだ。じゃあ一人っ子?」

 

 「はい、そうです」

 

 俺がそう言うと、桜島先輩は短く息を整え、小さく言葉を落とした。

 

 「私はね……妹がいるの」

 

 「……そうなんですね」

 

 それ以上は聞かず、俺も前を向いた。

 

 彼女も同じように黙り、再び人混みのざわめきに溶けていった。

 

 やがて店の前に着いた。ガラス越しに、制服姿の梓川が忙しなく動き回るのが見える。

 

 ——そういえば、この間このファミレスにヘルプで入ったんだよな。

 

 桜島先輩はほんの一瞬、深呼吸をしてから姿勢を正した。

 

 「ここまでで大丈夫よ。ありがとう」

 

 「じゃあ……頑張ってください」

 

 「ええ」

 

 軽く会釈を交わして、俺は踵を返す。

 

 店内に入っていく彼女の後ろ姿を見送ったあと、繁華街のざわめきに紛れるように歩き出した。

 

 駅前の通りには、浴衣姿の学生や家族連れがちらほら混じっていた。

 

 茅ヶ崎の花火大会がある日だったらしい。人波の中に漂う線香花火のような匂いが、夏の夜を際立たせている。

 

 浴衣の人混みを横目に、俺はふとため息をついた。

 

 静かな高校生活を望んでいたはずなのに、俺は気づけば、また桜島先輩の“証人”になっていた。

 

 次の日。桜島先輩は事務所から“デート禁止令”を言い渡されていた。

 

 八月四日

 

 桜島先輩に事務所から“デート禁止令”が出された翌日、俺が彼女から呼び出しを受けたのは、夕方のことだった。

 

 短いメッセージに添えられたのは「少しお願いがある」という一文だけ。

 

 内容は書かれていなかったが、それだけで十分だった。

 

 俺は駅のホームに立ちながら、次に来る電車を確認し、返信を打つ。

 

 《わかりました。向かいます》

 

 送信ボタンを押した瞬間から、胸の奥でざわめきが広がる。

 

 これは梓川に向けた言葉ではなく、俺に投げかけられた“役割”への呼びかけだ。

 

 やがて改札を抜けると、人混みの中に帽子を深くかぶった彼女の姿が見えた。

 

 一瞬だけ視線が合い、すぐに逸らされる。

けれどそのわずかな仕草の中に、信頼と迷いが同居しているのを感じた。

 

 「……岸和田くんに頼みたいことがあるのよ」

 

 キャップのつばを深く下げたまま、桜島先輩は静かに言う。

 

 「実は、事務所から“咲太と二人っきりで会わないように”って昨日言われたの」

 

 「……そうなんですか。それで、受け入れたんですか?」

 

 「保留にしたわ。だって、私一人で決めていい問題じゃないでしょ? 二人のことなんだから」

 

 人混みを避けるようにキャップを目深にかぶりながら、桜島先輩は小声で続けた。

 

 「……正直、こんなお願いしたくはないのよ」

 

 彼女は少し言い淀み、視線を落とした。

 

 「……この間の思春期症候群のこともあるし。咲太と会えない分、不安になるのよ」

 

 一瞬だけ迷いを浮かべて、彼女は小さく息を吐いた。

 

 「だから……岸和田くんに頼むしかないの。これは彼氏の代わりじゃなくて、ただの“移動サポート”。“誰かが一緒にいた証明”としてね」

 

 「咲太と一緒に歩けば目立つ。だからといって、誰の目にも触れない生活なんて送れない。そういう時に……人目を散らしてくれる第三の立場がいると助かるの」

 

 その声音には、頼るしかない苦みが滲んでいた。

 

 彼女が本当はこんな役目を俺に背負わせたくないのだと、はっきりわかる。

 

 俺は黙ってうなずき、一歩前に出る。

 

 余計な会話はいらない。ただ自然に人の流れを切り分け、隙間をつくるだけでいい。

 

 梓川と並んで歩くことはできない。けれどその間を埋める“第三の立場”なら、俺にしかできない。

 

 ただ、それでもリスクは残ることに変わりはない。

 

 一緒にいる姿をもし撮られれば、別の憶測が生まれるのは目に見えている。

 

 だからこの役目も、以前のように頻繁に回ってくることはないだろう。今日のような、特別な場面に限られていく。

 

 すれ違う人々のざわめきに紛れ、桜島先輩は小さく息を吐いた。

 

 その仕草に、不自由な現実と、わずかな安心が同居しているのを感じた。

 

 その後も、俺は不定期に“第三の立場”として呼ばれることがあった。後に知ることになるが、この間梓川は、双葉理央の思春期症候群に振り回されていたらしい。

 

 俺も科学部唯一の部員で、学校でいつも制服の上に白衣を着ている女子生徒だということぐらいは知っていた。

 

 人混みの駅前や繁華街、さらには病院まで。桜島先輩は帽子を目深にかぶり、周囲の視線をやり過ごしながら歩く。

 

 俺は一歩横に立ち、彼女が浮かないよう歩調を合わせる。ときには先回りして人の流れを切り分ける。

 

 俺に求められているのは相変わらず、余計な言葉も仕草も挟まず、ただ自然に“隙間を埋めること”だけだった。

 

 八月十三日

 

 梓川が学校で倒れ、そのまま入院したという話が届いた。

 

 桜島先輩はすぐにお見舞いに行くと決めたが、芸能人である以上、病院にひとりで向かうのはリスクが大きい。

 

 「今日もお願いしていいかしら」

 

 駅前で待ち合わせた麻衣先輩は、マスクと帽子で顔を隠しながらそう言った。

 

 「咲太に恋人としてのお見舞いに行くんじゃなくて、仕事の合間に“顔を出すだけ”。人目を避けたいから、歩調を合わせてほしいの」

 

 「わかりました」

 

 短く答えて、俺は隣に並ぶ。

 

 病院に着くまでの道のり。お盆の藤沢駅前は人であふれていたが、俺が半歩前に出て流れを受け止めれば、麻衣先輩の周りにわずかな余白が生まれる。

 

 彼女は終始うつむきがちに歩き、ただ静かに俺の作る通路を進んだ。

 

 病院の玄関前で足を止める。

 

 「ここまででいいわ。中は……私ひとりで行くから」

 

 そう言って小さく会釈する麻衣先輩の横顔は、強がりと不安が入り混じっていた。

 

 「じゃあ、ここで。」

 

 俺がそう告げると、彼女は一瞬だけ視線を上げ、小さく「ありがとう」と呟いて病院の自動ドアの向こうへ消えていった。

 

 その背中を見送りながら、俺は思った。

 

 これは俺にしかできない役割だ。“彼氏”としてではなく、“証人”として。

 

 そんな介添えの日々が重なるにつれ、俺の中の呼び方も揺らぎ始めた。

 

 最初は「桜島先輩」だった。テレビや雑誌で目にする“桜島麻衣”をそのまま口にしていたに過ぎない。

 

 だが、人混みの駅前で並んで歩くとき、信号を渡るタイミングを視線で合わせるとき、俺の隣に立っているのは芸能人でも大女優でもなかった。

 

 ただの“先輩”だった。

 

 ——それを決定づけた出来事がある。

 

 八月二十七日

 

 藤沢駅の改札を抜けたときのことだ。

 

 夏の観光シーズンで、江ノ島まで向かうサーフボードを抱えた若者や、旅行カバンを引く家族連れでごった返していた。

 

 押し合いへし合いの人波の中で、小さな子供がつまずいて転びそうになった。

 

 その瞬間、俺は自然に一歩前へ出て子供を庇い、体を張って人の流れを受け止めた。わざと立ち止まり、人の動きを緩やかに切り分ける。

 

 母親が慌てて抱きかかえるまでの数秒間、ほんのそれだけの行動。

 

 けれど、その数秒がなければ、きっと子供は人混みに押し潰されていた。

 

 桜島先輩はその横で、一瞬だけ目を丸くして俺を見ていた。

 

 声をかけるでもなく、ただ視線で「大丈夫」と伝え、歩き出す。それで十分だと思っていた。

 

 「……桜島先輩」

 

 そう声をかけた瞬間、彼女がふと眉を寄せたのを俺は見逃さなかった。

 

 「桜島、ってつけなくてもいいわよ。咲太からは普通に“麻衣さん”って呼ばれているんだから」

 

 一瞬言葉に詰まり、無意識に口をついた。

 

 「……わかりました……じゃあ麻衣先輩で」

 

 すると彼女は、肩の力が抜けたように小さく笑った。

 

 「そうね、その方がしっくりくるわね」

 

 それ以来、俺の中で“麻衣先輩”が自然に定着した。

 

 有名人としての距離を置く呼び方ではなく、先輩後輩としての現実の距離を測る呼び方。彼女が少し嬉しそうに返事をしてくれる、その響きが妙に居心地よかった。

 

 ……とはいえ、“証人”として俺を必要としてくれるのは麻衣先輩だけだ。

 

 彼女以外の誰に話したところで、きっと理解はされない。

 

 それは誇らしいようで、同時に妙な孤独感でもあった。

 

 改札を抜けて、風が吹き込んできたとき。麻衣先輩はふと表情を和らげ、けれどどこか申し訳なさそうに言った。

 

 「……明日からまた仕事が立て込むの。だから今日はここまでね」

 

 そして少し間を置いて、視線を横に流す。

 

 「それにこのあと、咲太とも会う約束をしてるの……」

 

 そう言ったあと、少し間を置いて俺を見やった。

 

 「岸和田くん。……なんでこんな無茶な介添えに、夏休み中とはいえ付き合ってくれたの?」

 

 不意を突かれて、言葉が詰まった。

 

 本当は軽い言い訳を返せばよかったのかもしれない。

 

 でも、この人の目を前にすると、曖昧なごまかしはできなくなる。

 

 「……もし、麻衣先輩が“あの時”思春期症候群に罹っていたときに、俺も梓川……咲太みたいに踏み込んでいれば……」

 

 喉がひりつく。けれど、止められなかった。

 

 「……麻衣先輩が、世界から見えなくなることはなかったんじゃないかって。だから……これは俺なりの贖罪なんです」

 

 言い切ると、麻衣先輩は目を瞬かせ、やがて小さくため息をついた。

 

 「……本当に、変わった子ね」

 

 そう呟いてから、真っ直ぐに俺を見た。

 

 「でもね、岸和田くん。あなたは“証人”でいてくれればそれだけで十分よ。贖罪なんていらない。……私がここにいたって、ただ覚えていてくれるだけでいいのよ。」

 

 その声は不思議なくらい静かで、揺らぎがなかった。

 

 俺は何も返せず、ただ頷くしかなかった。

 

 そして、この日が、夏休み中に麻衣先輩へ介添えをした最後の日になった。

 

 翌日からは彼女の仕事が本格的に立てこみ、俺も、週末は東京の実家に帰ることにしていたためだ。

 

 藤沢駅でのささやかな出来事は、俺にとって“区切り”として記憶に残ることになった。

 

 改札前で軽く会釈を交わすと、麻衣先輩は「ありがとう」と小さく言い残し、踵を返した。

 

 その歩みが向かう先に——カジュアルな私服姿の梓川咲太が待っていた。

 

 彼は片手をポケットに突っ込みながら、いつも通り気だるげな表情で手を挙げている。

 

 二人の間に流れる空気を見た瞬間、俺は足を止めた。

 

そこに踏み込む理由も、必要もない。

 

 彼女の「介添え人」としての役割は、今この瞬間で確かに終わったのだとわかったからだ。

 

 だから俺は背を向け、別の出口から駅前の喧騒へと歩き出した。

 

 たぶん俺は、また“静けさ”を探して、今日もうるさい日常を拾うのだろう。

 

 残された背中の向こうでは、麻衣先輩が咲太に歩幅を合わせる姿が確かにあった。

 

 「贖罪なんです」

 

 そう答える岸和田くんの横顔は、余計な力みがなくて穏やかだった。

 

 ——贖罪だなんて言っていたけれど、私は違うと思う。

 

 ——たしかに咲太なら、もっと前に出て周囲を牽制してくれる。

 

 それも安心できるけど、この子の静けさは、別の種類の安心感をくれる。

 

 自分が目立たなくて済む、という安心。

 

 咲太と一緒にいるときは岸和田くんの出番は少ない。けれどそれでも、校門を出る二人のすぐ後ろを歩き、周囲の視線や人の動きを観察してくれる。

 

 有名人である私に向けられる視線が、どんなふうに広がっていくのか——それを一番冷静に記録できるのは、咲太でも私でもなく、岸和田くんだった。

 

 咲太が他の子の思春期症候群に追われてるとき、私と一緒にいても手を繋げない状況のとき。

 

 ——その隙間を埋めてくれる“第三の立場”。

 

 それが、私にとっての岸和田蓮真の「介添え」だった。




登場人物紹介

名前 桜島麻衣『さくらじままい』
身長 165cm
誕生日 12月2日

原作のメインヒロインであり国民的女優。大人びた態度と礼儀を備える一方、恋愛では不器用で初心な面もあり、家庭環境の複雑さから早くに一人暮らしを始め、生活力を身につけつつも孤立や友人の不在を抱えていました。

「誰も自分を知らない世界に行きたい」という願望が、周囲から認識されなくなる思春期症候群として現れますが、咲太の全校生徒の前での告白で救われます。

その後、正式に咲太と交際を始め、芸能活動に復帰。苛立ちや葛藤を抱えながらも咲太を信じて支える存在であり続けます。

咲太が「真正面から踏み込む力」なら、麻衣は「視線を背負い隣に立つ強さ」を象徴する存在です。蓮真にとっても、最初に自分を“証人”として必要とした特別な相手であり、三人の関係は、本作を象徴する大きな軸となっていきます。

蓮真は最終的にどちらを選ぶと思いますか?

  • 豊浜のどか
  • 広川卯月
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