青春ブタ野郎はパラレルスプリングの夢を見ない   作:もドえラん

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4.こもれびの記憶で、今を確かめる

 

 五月三日

 

 GWの中日。朝のゆりかもめは、観光客とレジャー目的の人たちで混み合っていた。

 

 お台場海浜公園の駅のホームに降り立つと、潮風が頬をかすめた。

 

 空はよく晴れ、砂浜の先には特設コートとテント。

 

 ビーチバレー大会の会場は、すでに歓声と拍手で満ちていた。

 

 「……間に合ったか」

 

 今日は大会の初日。

 

 大津と浜松さんに誘われていたが、四日と五日は用事があって来られない。

 

 だから今日だけでも、顔を出しておこうと思った。

 

 コートの脇に立つと、浜松さんがサーブを構える姿が目に入る。

 

 ネイビーのユニフォームに焼けた腕。

 

 太陽の下で跳ねるその動きは、以前よりもずっと力強かった。

 

 砂を蹴り上げて放ったスパイクが、一直線に相手コートへ突き刺さる。

 

 観客席から歓声が上がる。

 

 大津が浜松さんの手を軽く叩き、二人で笑い合う。

 

 その光景を見て、自然と拍手が出た。

 

 (……ちゃんと続けてるんだな)

 

 去年、誰よりもストイックに練習と試合をしていた二人。

 

 大学に進学しても同じ道を歩きながら、こうしてまた並んでいるのを見ると、あの頃の時間が少しだけ懐かしく感じる気がした。

 

 試合は接戦の末、二人の勝利で終わった。

 

 観客席がざわめき、砂の匂いと日焼け止めの香りが混ざる中、

 

 テント裏で汗を拭く浜松さんが俺に気づいて、ぱっと顔を明るくした。

 

 「岸和田くん!本当に来てくれたんだ!」

 

 「約束したしな。今日しか来られないけど」

 

 「えー、三日だけ? もったいないなぁ岸和田。明日も明後日も応援してほしかったのに」

 

 「明日から用事なんだ。ごめん」

 

 「そっか……でも、来てくれて嬉しいよ」

 

 そう言って笑う浜松さんの頬には、汗と光が混ざっていた。

 

 「試合、すごかった。動きが綺麗になってた」

 

 「ほんと?ありがとう。美凪ちゃんのスパイクがよかったからかな」

 

 「いや、夏帆のトスの角度だよ。夏帆の神業、ちゃんと生きてた」

 

 「そう?ありがとう美凪ちゃん」

 

 少し照れくさそうに笑いながら、髪を耳にかける浜松さんの仕草。

 

 その指先の動きに、ふと胸がざわついた。

 

 「また時間があったら、見に来て」

 

 「ああ。次はゆっくり観戦するよ」

 

 「じゃあ、せめて写真撮ろ!」

 

 そう言ってスマホを構える大津。

 

 砂の上で、浜松さんが軽く肩を組み、三人で笑顔のままシャッターが切られた。

 

 その一瞬だけ、潮風の音が遠ざかっていくような静けさを感じた。

 

 (……来てよかった)

 

 レインボーブリッジの向こう、海の光がきらめく。

 

 それはまるで、今日だけの思い出を封じ込めるように、

 

 ゆるやかに、春の空気の中へ溶けていった。

 

 五月五日

 

 静岡県牧之原市。

 

 今日は祖父の十三回忌。

 

 父と祖母と三人で、岸和田家先祖代々の墓へ向かっていた。

 

 「風、強いねぇ」

 

 祖母が日差しを避けながら、帽子を押さえた。茶畑の匂いを含んだ風が、丘の上の花々を揺らしている。

 

 坂を上りきると、磨かれた黒い墓石に「岸和田家 先祖代々之墓」と刻まれている。

 

 そのすぐ隣に、少し古びた石碑。「霧島家 先祖代々之墓」とあった。

 

 思わず足を止める。

 

 (……霧島?)

 

 名前に覚えがある。

 

 けれど、どこで聞いたのかまでは思い出せなかった。

 

 祖母が花を供えながら、ふとその隣を見て言った。

 

 「霧島さんのところ、昔はうちと仲が良かったのよ。おじいちゃんが県の農政課に勤めてた頃、お茶農家の霧島さんの家と、よく一緒に茶畑の視察に行ってたの」

 

 「そうだったんだ」

 

 「ええ。霧島さんのお孫さんとも、何度か遊んだことあるのよ、蓮真」

 

 「……俺が?」

 

 「ええ。お孫さんと、そのお友だち」

 

 祖母は懐かしそうに笑った。

 

 「二人ともかわいらしくてね。蓮真と三人でおままごとしてたの、覚えてない?」

 

 「……全然覚えてない」

 

 自分でも驚くほど、何の記憶もなかった。

 

 祖母は続けて、少し寂しそうに言った。

 

 「霧島さんのお孫さんね……数年前に、交通事故で亡くなったらしいのよ」

 

 「……そう、なんだ」

 

 風の音が、途端に強くなった気がした。線香の煙が揺れ、空へと溶けていく。

 

 祖父の墓の前に膝をつきながら、隣の墓に目をやる。

 

 その文字を指でなぞるように見つめていると、

 

 現実と記憶の境目が少しだけ滲んだ。

 

 祖母が静かに手を合わせ、父もその隣で頭を下げた。

 

 俺も同じように手を合わせる。

 

 「おじいちゃん、蓮真がちゃんと大学行ってるわよ」

 

 祖母の声が、柔らかく響く。

 

 「……見ててくれてるといいな」

 

 風に混じって、線香の香りが遠くへ流れていく。

 

 墓参りを終えたとき、ふと振り返った。

 

 岸和田家と霧島家、並んだ二つの墓に木漏れ日が差し、まるで時の向こうで寄り添うように見えた。

 

 風が少し温かくなった。

 

 過去と現在、そのすべてが静かに一つの風景の中に溶けていった。

 

 五月八日

 

 明日から授業が始まることもあり、目黒の実家から藤沢に帰るついでに、自由が丘で途中下車した。祖母と会う用事があったからだ。

 

 午前中に食事を済ませ、祖母と駅前で別れたあと、カフェの窓際に見慣れた横顔が見えた。

 

 「……双葉?」

 

 声をかけると、分厚い専門書を閉じてこちらを見上げる。

 

 「岸和田。偶然だね」

 

 双葉理央。いまは大岡山の東工大に通っていて、自由が丘はちょうど帰り道にあるらしい。

 

 どうやらこのカフェをよく利用しているようだ。

 

 「一人か?」

 

 「まぁ。課題が溜まってて、家だと集中できなくてさ」

 

 「なるほど、理系っぽいな」

 

 「それ、褒め言葉?」

 

 「半分くらいは」

 

 そんな軽口を交わして、俺も向かいの席に座った。互いに注文を済ませ、それぞれの近況を話す。

 

 「大学、どうなんだ?」

 

 「まあまあかな。友だちもできたし」

 

 「そっか。良かったな」 

 

 双葉がコーヒーを啜りながら、静かに視線をこちらへ戻す。

 

 「岸和田は?」

 

 「俺? ……全然だよ。咲太とも話すけど、学部違うし。麻衣先輩は仕事で忙しいから、意外と会えないし」

 

 「ふうん」

 

 「結局、受験の時と変わらず、のどかやづっきーとばっかり一緒にいるな」

 

 「……のどかって、桜島先輩の妹さんのことだよね?」

 

 「そう。ちょくちょく顔合わせるんだ」

 

 「へぇ。妹さんも有名人なんじゃない?」

 

 「まあな。あの姉妹はどっちも目立つし」

 

 「で、“づっきー”って誰?」

 

 「づっきーは、のどかと同じアイドルグループのリーダーでさ。広川卯月っていうんだけど、受験の頃からよく一緒に勉強してたんだ」

 

 「……アイドルの子?」

 

 「ああ」

 

 双葉はわずかに眉を上げ、どこか探るように笑った。

 

 「なるほどね。つまり、岸和田は“桜島先輩の妹さんと、そのアイドル仲間”とよく一緒にいる、と」

 

 「言い方に悪意ないか?」

 

 「事実確認」

 

 「……まあ、受験の時に一緒に勉強して、それ以来なんとなく仲が続いてるだけだよ」

 

 「ふうん」 

 

 「なんだよ?」

 

 「……梓川が青春ブタ野郎なら、岸和田は青春ニブ野郎だね」

 

 「は?なんだそれ」

 

 「言葉通り。……自覚ないでしょ。アイドル二人と仲良い大学一年生なんて、普通はもっと浮かれてるよ」

 

 「……いや、別にそういう関係じゃないから」

 

 「そういう人に限って、“そういう関係になる”んだよ」

 

 軽い調子で言いながらも、双葉の視線はどこか探るようだった。まるで、観察者を観察しているみたいに。

 

 俺は曖昧に笑いながら、アイスコーヒーのストローをくわえた。

 

 少し間を置いて、話題を変える。

 

 「そういえば、咲太、藤沢駅前で塾のバイト始めたんだってな」

 

 「ああ、うん。私も同じとこでバイトしてる」

 

 「そうなのか?」

 

 「大学に入ってすぐにね。時給も良いし、教えるのは嫌いじゃないからね」

 

 「なるほど。らしいな」

 

 双葉は頷きながら、カップの縁を指でなぞった。

 

 「岸和田もやってみたら? 向いてると思うけど」

 

 「俺が?」

 

 「観察して、説明して、気を配る。そういうの、得意でしょ」

 

 「……この間も、麻衣先輩に似たようなこと言われたよ」

 

 双葉が少し眉を上げる。

 

 「へぇ。桜島先輩にも?やっぱり、そう見えるんだ」

 

 「どういう意味だよ」

 

 「自分では気づいてないんでしょ?誰かのことを見守って、支えるのが自然なタイプだって」

 

 「……買いかぶりすぎだよ」

 

 「そういう人に限って、気づかないんだよ」

 

 軽く言いながら、双葉はカップの縁を指でなぞった。その横顔には、どこか探るような光が宿っている。

 

 (……褒めてるのか、皮肉なのか)

 

 そう思いつつも、どこか照れくさくて言葉が出なかった。

 

 窓の外では、夕陽が自由が丘の街をオレンジ色に染めている。

 

 ガラス越しに見える通りを、人々がゆっくりと行き交っていた。

 

 「……久しぶりに話したけど、やっぱり岸和田は岸和田だね」

 

 「どういう意味だ、それ」

 

 「多分、いい意味」

 

 双葉は少し笑いながら、コーヒーを飲み干した。

 

 その笑顔を見て、ふと高校の頃の物理実験室を思い出す。

  

 理屈っぽいのに、根っこのところでは優しい。

 

 変わらないのは、俺じゃなくて彼女の方かもしれなかった。

 

 カップを返して立ち上がる双葉が、鞄の肩紐をかけながら言う。

 

 「今度、塾で面接あるらしいから、もしやる気になったら連絡して」

 

 「考えとく」

 

 「言うだけ言って来ないタイプでしょ、岸和田は」

 

 「お前、俺の何を知ってるんだ」

 

 「観察眼なら負けないから」

 

 そう言って、彼女は軽く手を振り、店を出ていった。

 

 残されたテーブルの上で、氷の溶けたコーヒーが光を反射している。

 

 自由が丘の街に差し込む夕陽が、それを淡く照らしていた。

 

 その光を見つめながら、俺は小さく息を吐いた。

 

 ——青春ニブ野郎、か。

 

 言い得て妙だと、少しだけ思ってしまった。

 

 五月十三日

 

 昼下がりの学食は、いつもより少しだけ賑やかだった。

 

 GW明けで学生が戻ってきて、ざわめきと笑い声がキャンパスに戻ってきた感じがする。

 

 「いや〜もう最近、ほんとスケジュールぱんぱんでさ〜」

 

 のどかがトレーを机に置きながら、ちょっと大げさにため息をつく。づっきーが続ける。

 

 「私も次の撮影、朝五時集合だよ。夜型の私には地獄〜!」

 

 「完全に社会人の愚痴だな、それ」

 

 「アイドルも労働者だよ〜」

 

 ふたりがそんな調子で笑い合う。

 

 その明るさに、昼の光がよく似合っていた。

 

 「でもさきっしー!」

 

 「ん?」

 

 「来月からクイズ番組出ることになったの!」

 

 「しかも二人セットでね!」と、のどかが胸を張る。

 

 「おお、すごいな。きっとづっきーがボケで、のどかがツッコミなんだろうな」

 

 「えぇ!?私ボケてないよ!」

 

 づっきーがむきになって抗議する。

 

 「ほら、もうボケてるし」

 

 のどかが即座にツッコミを入れる。

 

 「……やっぱり間違いないな」

 

 俺が苦笑すると、二人が顔を見合わせて笑い合った。

 

 「よかったな。こうしてちゃんと次のステップに進めるの、ほんとすごいと思うよ」

 

 「ありがと。蓮真に言われると、なんか先生に褒められてるみたい」

 

 「……そうだ、ちょうどそれで思い出したんだけど」

 

 ふたりがデザートをつついている合間に、俺は少し真面目な声で続けた。

 

 「俺、塾のバイトやってみようかと思うんだけど、どう思う?」

 

 のどかが顔を上げて、「え、いいじゃん!」と即答する。

 

 「蓮真、教えるの得意そうだし、マジでやってみたら?」

 

 づっきーも頷きながらスプーンをくるくる回している。

 

 「きっしー先生とか似合いすぎる〜!」

 

 「ホワイトボードとか似合いそう!あと絶対生徒に人気出るタイプ」

 

 「いや、俺そんなキャラじゃないぞ」

 

 「そう言ってる人に限ってモテるんだよ〜」

 

 づっきーが笑いながら肘でのどかを小突く。

 

 「ちょっと!変なこと言わないの!」

 

 「まぁ……来週、面接の予約入れてみるか」

 

 「おお〜、やる気だねきっしー!」

 

 「うん、それ正解だと思う!」

 

 その明るさに背中を押されるように、俺の中でも決意が固まっていく。

 

 ふと、のどかが思い出したように顔を上げた。

 

 「そういえば、蓮真が言ってた“目黒・恵比寿・渋谷ナビ”、いつにする?」

 

 「ああ、あれか。二人とも忙しいなら合わせるよ」

 

 「じゃあ……再来週の日曜とかどう?」

 

 のどかがスマホのカレンダーを確認する。

 

 「その日ならちょうどライブもリハも入ってないし!」

 

 「いいのか?じゃあその日で決まりだな」

 

 「わーい、やっと実現だ!」

 

 づっきーがハイタッチを求め、のどかが笑いながら応じる。

 

 その音が小さく響いて、学食の喧騒の中に溶けていった。

 

 ふたりの笑顔を見ていると、世界は案外、こんな他愛もない瞬間で支えられているんだと思えてくる。

 

 五月十六日

 

 教養ゼミの授業が終わり、学生たちが一斉に席を立つ。

 

 「なあ、あの子可愛くね?」

 

 「美東さんだろ。お前、声かけてきたら?」

 

 そんな会話がすぐ背後で聞こえた。

 

 振り返ると、教室の前方でプリントをまとめている女子の姿が見えた。履修申請の時に見かけた子だった。

 

 肩までの明るい髪をハーフアップにして、左目の下に小さな泣きぼくろ。

 

 淡い白のブラウスとベージュのスカートが、どこか清楚で大人びた印象を与えている。

 

 (……美東さん?)

 

 どこかで聞いたことのある名字だった。

 

 けれど、いつ、どこでなのかまでは思い出せない。

 

 記憶の表面を指先でなぞるような、曖昧な既視感だけが残った。

 

 ふと目が合った。

 

 ほんの一瞬だけだったが、彼女は軽く会釈をして、静かに視線を戻した。

 

 胸の奥に、小さな波紋が広がる。

 

 何かを思い出しそうで、けれど掴めない感覚。

 

 そのまま鞄を肩にかけて教室を出た。

 

 昼下がりのキャンパス。学食へ向かう途中、見慣れた後ろ姿が目に入る。

 

 「咲太」

 

 声をかけると、トレイを手に並んでいた咲太が振り返った。

 

 隣には見慣れない男子がいる。

 

 「……お、岸和田。こっち空いてるぞ」

 

 相変わらずの気だるい調子で手を上げる。

 

 その緩さは、高校の頃から少しも変わっていなかった。

 

 誘われるまま、向かいの席に腰を下ろす。

 

 「で、そっちは?」

 

 「福山。福山拓海」

 

 咲太がコップの水を手に取りながら、気の抜けた声で紹介する。

 

 「僕が大学入って最初に“桜島麻衣と付き合ってるってマジ?”って聞いてきたやつ」

 

 「自己紹介で言うな、それ」

 

 福山は笑いながら手を振った。

 

 「いやいや、だって気になるだろ?普通あんな有名人と付き合ってるって噂聞いたら」

 

 咲太は肩をすくめる。

 

 「で、お前が岸和田だろ?梓川から聞いてるよ」

 

 「……嫌な予感しかしないけど、一応聞く。何を咲太から聞いた?」

 

 「岸和田、女の子紹介してくれるぞって」

 

 「は?」

 

 「だって梓川が言ってたんだよ。“岸和田、アイドルと友だちだから”って」

 

 「お前なぁ、咲太」

 

 「事実は事実だろ」

 

 「だからって人に言うな!」

 

 福山が吹き出す。

 

 「はは、なんか仲良いな、お前ら」

 

 「……まぁ、一応長い付き合いだからな」

 

 俺は淡々と答える。

 

 福山は明るく笑いながらも、場の空気を見てテンポを合わせてくる。

 

 軽いようでいて、妙にバランス感覚のあるタイプだ。

 

 三人で昼食をとりながら、話題は自然と他愛ない方向に流れていった。

 

 「なあ岸和田、マジで一回紹介してくんない?冗談抜きで興味ある」

 

 「悪い、俺そういうの仲介しない主義だから」

 

 「まじめだなー。梓川が言ってた通り」

 

 「どんな言い方されてんだ、俺」

 

 「“真面目で、人のことばっか見てる”って」

 

 咲太が軽く肩をすくめた。

 

 「当たってるだろ岸和田」

 

 「おいおい……」

 

 ため息をつくと、咲太はどこか満足げに微笑んだ。

 

 昼のざわめきの中で、窓の外を潮風が抜けていく。

 

 新しい友人、少しの誤解、そしていつもの日常。

 

 大学生活というものは、案外こうして“誰かの噂”から動き出すのかもしれない。

 

 五月十八日

 

 夕方の藤沢のファミレス。

 

 ガラス越しに沈みかけた陽が差し込み、厨房のステンレスが淡く光を反射していた。

 

 「すみません、チキンステーキ上がります!」

 

 花楓ちゃんの声がフロアに響く。

 

 まだ慣れないながらも、動きは少しずつ自然になってきた。

 

 「オーダー五番、お願いねー」

 

 古賀が笑顔で受け取り、皿を慎重に持ち上げる。

 

 その横顔には、いつもの明るさと、後輩を気遣う柔らかさがあった。

 

 この一ヶ月ほどで、花楓ちゃんもすっかりファミレスの空気に馴染んできた。

 

 当初は、咲太が一緒のシフトに入らないと仕事にならないような状態だったが、咲太や俺が揃わない日には、古賀が進んでシフトを合わせてくれていた。

 

 そのおかげか、今では花楓ちゃんも自然に古賀を頼るようになっている。

 

 オーダーミスをして落ち込んだ時も、古賀が軽く肩を叩いて笑わせていた。

 

 ああいう距離の詰め方は、本当に上手いと思う。

 

 俺はレジ横で伝票を整理しながら、ふと思い出したように口を開く。

 

 「……そういえば、古賀。来週の月曜日誕生日だよな」

 

 「わあ、覚えててくれたんだ!」

 

 古賀がぱっと顔を上げる。

 

 その声が、夕方のざわめきの中で小さく弾んだ。

 

 「まぁな。去年、米山さんと一緒にシュークリームご馳走したしな」

 

 「うん!あれ美味しかった!」

 

 「朋絵さん来週誕生日なんですか!?」

 

 「そうなの〜。十八になるんだ!」

 

 「へえ!大人の仲間入りですね!」

 

 「えへへ、そう言われると悪い気はしないかも」

 

 そんな他愛もない会話をしていると、入口のベルが鳴った。

 

 「いらっしゃいませ」

 

 反射的に顔を上げると、ドアの向こうに見覚えのある人物が立っていた。

 

 「……岸和田くん?」

 

 「……友部さん」

 

 思わず声が漏れる。

 

 花楓ちゃんのことで時々メッセージを交わしていたとはいえ、友部さんと実際に顔を合わせるのはほぼ一年ぶりだ。

 

 けれど、こうして会って言葉を交わすと、やっぱり空気のやわらかさが違う。

 

 穏やかな笑みと変わらない柔らかさに、懐かしさがこみ上げた。

 

 「久しぶりね。……少し大人っぽくなったわね」

 

 「そうですか?」

 

 「ええ。雰囲気がね。落ち着いてるというか。咲太くんにも、この前会ったけど、やっぱり同じことを思ったの」

 

 「咲太に会ったんですか?」

 

 「ええ、ちょうど一ヶ月くらい前。咲太くんも、相変わらずで安心したわ」

 

 「……ああ、そうですよね。多分、変わってないと思います」

 

 そう言って、友部さんは優しく笑った。その穏やかな声が、店の空気を少しやわらげる。

 

 「花楓さんはいる?」

 

 カウンターの向こうで花楓ちゃんが驚いたように振り向いた。

 

 「美和子先生!?どうしてここに?」

 

 「たまたま近くで仕事しててね。ちょっと寄ってみたの。元気そうな顔が見られて、うれしいわ」

 

 「ありがとうございます美和子先生!」

 

 そのやり取りを見ながら、俺は胸の奥に小さな安心を覚えていた。

 

 友部さんはパスタとコーヒーを頼み、しばらく軽い話をしてから立ち上がる。

 

 「じゃあ、そろそろ行くわ。今度は咲太くんがいる時に、また顔見せに来るわね」

 

 「はい。また来てください」

 

 「ええ。……岸和田くんも、無理しすぎないようにしてくださいね」

 

 「ありがとうございます」

 

 友部さんは柔らかく手を振り、夕暮れの光の中へと消えていった。

 

 閉店準備の頃、古賀が小声で言う。

 

 「きっしー先輩。友部さんだっけ、前会った時もだけど、優しい雰囲気だったね」

 

 「だな、ザ、スクールカウンセラーって感じだな」

 

 「……きっしー先輩も似てるね、そういうとこ」

 

 「え?」

 

 「人のこと見てる目が、同じ感じするから」

 

 古賀はそう言って、笑顔で皿を片付け始めた。

 

 背後で花楓ちゃんが「朋絵さん、誕生日ケーキ何が好きですか!?」と元気に尋ねる声が響く。

 

 その声を聞きながら、俺は小さく息を吐いた。

 

 いつもの藤沢店。

 

 けれど、季節の風とともに、少しずつ時間が動いていく気がした。

 

 五月二十日

 

 藤沢駅北口。雑居ビルの五階に掲げられた、湘南個別指導塾の看板を見上げる。

 

 (……本当に来ちまったな)

 

 咲太と双葉がバイトしている塾。

 

 双葉に「塾のバイト、面接あるよ」と自由が丘で言われたのが最初。

 

 そのあと、のどかとづっきーからも「蓮真教えるの得意そうだし、マジでやってみたら?」とか、「きっしー先生とか似合いすぎる〜!」と茶化された。

 

 階段を上り、ドアを開けると、静かな教室の空気が広がる。

  

 受付の奥にはホワイトボードが並び、仕切りの向こうから生徒と講師の会話が小さく聞こえる。

 

 どこか柔らかい雰囲気の場所だった。

 

 「あれ?」

 

 声の方を向くと、デスクで書類を整理していた双葉が顔を上げた。

 

 「岸和田。本当に面接受けに来たんだ」

 

 「そんなに意外か?」

 

 「意外。どうせ“考えとく詐欺”だと思ってた」

 

 「お前、俺をどんな人間だと思ってんだよ」

 

 双葉は小さく笑って、「こっちこっち」と手招きする。

 

 教室の壁には『個別指導・不登校支援コース』の文字。

 

 机の間隔は広く、照明も優しい。

 

 生徒と講師の距離を大切にしている雰囲気が伝わってきた。

 

 「塾長、悪い人じゃないから。リラックスして話せば大丈夫」

 

 「それ、フラグじゃないよな?」

 

 「さあね」

 

 そう言いながら、双葉はにやりと笑ってパソコンに戻った。

 

 そして面接室。

 

 出迎えたのは柔らかい物腰の四十代くらいの男性。

 

 「どうぞ、岸和田くん。梓川くんや双葉さんから話は聞いてますよ」

 

 「……そうなんですね」

 

 「同じ高校で成績も優秀だったそうじゃないですか」

 

 「いえ、普通ですよ」

 

 「大学は横浜市立大学の国際商学部なんですね。経済とか経営を中心に?」

 

 「そうですね。経営と社会心理の間みたいなことを学んでます」

 

 塾長は穏やかに頷き、少し笑った。

 

 「なるほど。観察して考えるのが好きそうですね。この塾では、学力より“生徒との信頼関係”を重視しているんです。そういうタイプの先生は、すぐ馴染むと思いますよ」

 

 「……ありがとうございます」

 

 話しながら、どこか不思議な安心感を覚えていた。

 

 この塾の“静けさ”は、俺にとって心地よかった。

 

 面接を終えて廊下に出ると、夕陽がガラス越しに差し込んでいた。帰ろうとしたそのとき、

ふと声をかけられて振り返る。

 

 「……岸和田さん、ですよね?」

 

 少し伸びた前髪を耳にかけたショートボブの子が立っていた。

 

 淡いブルーのカーディガンに白いブラウス。

 

 涼しげな瞳が、まっすぐこちらを見つめている。

 

 「……もしかして、吉和さん?」

 

 「はい。以前、羽田空港でお会いしましたよね。覚えていてくださって、うれしいです」

 

 「もちろん。久しぶりだね」

 

 吉和樹里。

 

 去年羽田空港で偶然出会った、大津と浜松さんのクラブチームの後輩の、静かな印象の女の子。

 

 まさか、この塾に通っているとは思わなかった。

 

 「岸和田さん、大学合格なされたんですか?」

 

 「ああ。なんとかね。吉和さんは?」

 

 「私も峰ヶ原に無事合格して、通っています」

 

 「それは良かった。おめでとう」

 

 「ありがとうございます」

 

 柔らかく微笑むその顔には、以前より少し大人びた穏やかさがあった。

 

 「大津先輩と浜松先輩とは、どうですか?」

 

 「この間、お台場の大会を見に行ったよ。二人ともすごかった」

 

 「やっぱり……さすがクラブチームのエースですね」

 

 「吉和さんも高校生になって、ビーチバレーの方はどうなんだ?」

 

 「練習環境は少し厳しくなりましたけど、楽しいです。去年よりもレベルの高い大会に出られるようになって、課題も増えました」

 

 「そうか。ちゃんと続けてるんだな」

 

 「ええ。……そうだ岸和田先生、今度試合を見にいらっしゃいませんか?」

 

 「先生って……まだ採用もされてないけど?」

 

 「なんだか、そう呼びたくなったんです」

 

 「はは……まぁ、いいよ。行くよ」

 

 「ありがとうございます。七月から試合が多くなるので、日程が決まったらご連絡しますね」

 

 「了解。楽しみにしてる」

 

 軽く会釈を交わし、吉和さんは静かに歩き出した。その背中を見送りながら、俺は小さく息をつく。

 

 世界は広いようで、案外狭い。

 

 咲太、双葉、大津、浜松さん、吉和さん。

 

 それぞれの線が、少しずつ繋がっていく。

 

 (……また新しい輪の中に入っていく感じがするな)

 

 ガラス越しに差し込む夕暮れが、教室の床に長い影を落としていた。

 

 五月二十三日

 

 教養ゼミを終え、教室を出た。

 

 外は柔らかな陽射しに包まれ、初夏の匂いが風に混じっている。

 

 (……そうだ、今日は古賀の誕生日だったな)

 

 スマホを取り出して短くメッセージを送る。

 《誕生日おめでとう》とスタンプをひとつ。

 

 すぐに返信が来た。

 

 《ありがとう、きっしー先輩!さっき奈々ちゃんからもプレゼントもらった!》

 

 廊下を抜けようとしたとき、ふと視界の隅に見覚えのある姿が映った。

 

 (……赤城?)

 

 YCUスクエアの一角の部屋に立てかけられたホワイトボード。そこには黒マーカーで大きくこう書かれていた。

 

 『学生ボランティア団体 設立準備中』

 

 文字の下はまだ空白で、名前もメンバー欄も埋まっていない。

 

 紙を片手で押さえながら、赤城郁実が一人で立っていた。

 

 迷った末、俺は声をかけた。

 

 「……赤城?」

 

 彼女が振り返る。細い指がマーカーを握ったまま止まる。

 

 「岸和田くん……?」

 

 「やっぱり。何してるんだ?」

 

 「え、あ……えっと……」

 

 言葉を探すように視線を泳がせる。

 

 「その……活動の準備を」

 

 「活動?」

 

 「……うん。学生ボランティアの団体を、ここで立ち上げようと思って」

 

 彼女の声は少し張りつめていた。

 

 でもその中に、どこか迷いのような柔らかさも混じっている。

 

 「ひとりで始めたのか?」

 

 「……うん。友だちに手伝ってはもらってるけど、まだ誰もいないから、形だけでも作っておかないと始まらないから」

 

 ホワイトボードの下には、めくれた募集チラシ。

 

 “ボランティア未経験歓迎”と手書きで書かれている。

 

 「……やっぱり、そういうことやるんだな。赤城らしいな」

 

 「え?」

 

 「昔から“誰かのために動く”タイプだっただろ。俺にも転校初日に話しかけてくれたし」

 

 赤城は少しだけ息を呑んだように見えた。

 

 「……覚えてたんだ」

 

 「印象強いからな」

 

 その返事に、彼女はかすかに微笑んだ。

 

 けれど、その笑みの奥に、わずかな戸惑いが残っていた。

 

 「……でも、正直、どうなるかはわからないの。ひとりでやるには範囲が広すぎて」

 

 「なんか手伝えることがあったら言ってくれ」

 

 その一言に、彼女は目を瞬かせた。

 

 「……え?」

 

 まるで聞き間違いでもしたかのように、軽く首を傾げる。

 

 「まぁ、俺もボランティアには興味あるし。人の動きを見るの、得意だしな」

 

 「……そうなんだ」

 

 言葉に詰まりながらも、少しずつ表情がほどけていく。

 

 「……ありがとう。まさか岸和田くんが、そう言ってくれるとは思わなかった」

 

 「俺だって人の役に立つことぐらい、考えるよ」

 

 「……そうかもね」

 

 ボードに貼ってあった紙が一枚剥がれそうになる。赤城が慌てて押さえるが、俺が先に手を伸ばしてそれを押さえた。

 

 「ありがとう」

 

 「大事な計画書だろ」

 

 その短いやり取りのあと、ほんの少しの沈黙が流れた。でも、不思議と気まずくはなかった。

 

 「また顔出すよ。どんな形になるか、見てみたいし」

 

 「うん……ありがとう」

 

 軽く手を振り、俺はその場を離れた。

 

 振り返ると、彼女はもう一度ホワイトボードに向き直り、新しい一行をゆっくりと書き足していた。

 

 『子どもたちがあなたを待っています』

 

 風が通り抜け、マーカーのインクの匂いがほのかに広がる。

 

 誰かが最初に動かないと、何も始まらない。

 

 その言葉が、風の中で何度も反響していた。

 

 五月二十九日

 

 日曜の午前十時、目黒駅の改札前。

 

 「おまたせ〜!」

 

 元気よく手を振りながら駆け寄ってきたのはづっきー。少し遅れて、のどかが小走りで追いつく。

 

 「ごめん、道間違えちゃって……」

 

 「だいじょーぶ。今日のメインナビゲーターはきっしーだから!」

 

 「そんな大層な役目だったか?」

 

 苦笑いしつつ歩き始める。春の終わり、目黒通りの緑が少しずつ深みを帯びている。最初の目的地は、庭園美術館だ。

 

 アール・デコ様式の白い建物を前にして、のどかは素直に感嘆の声を上げた。

 

 「すご……ここ、入れるの?」

 

 「入れるよ。昔、親に連れられて来たことある」

 

 「え、それは予習済みってことじゃん!」とづっきーが茶化す。

 

 美術館の中は静かだった。ステンドグラス越しの光が床に模様を落とし、のどかはそれをスマホに収めようとしている。

 

 「……こういう静かな場所って、好きかも」

 

 ぽつりとづっきーが呟くと、のどかが「ちょっと意外かも、卯月いつも騒がしいし」と首を傾げた。

 

 「そんなことないよ、のどか!」

 

 そのやりとりを横で聞きながら、俺はガラス窓の外、次に向かう自然教育園の木立をぼんやり眺めていた。

 

 自然教育園は、人の声すら遠くに感じるような静けさに包まれていた。

 

 のどかとづっきーは並んで木道を歩いている。俺は少しだけ後ろを歩いて、風と土の匂いを吸い込んだ。

 

 「……小学生のとき、遠足で来たんだよ」

 

 「へぇ、何してたの?」

 

 「図鑑に載ってる植物探したり、班で写生したり。たぶん、最初に“都内”の自然をちゃんと見たのがここだった」

 

 のどかは「へぇ」と何度も相槌を打ちながら、歩幅を合わせてきた。

 

 「蓮真の思い出巡り……ちょっと、いいなって思った」

 

 目を合わせずにそう呟いたのどかの声は、風に乗ってどこか遠くに行きそうだった。

 

 昼過ぎ、恵比寿ガーデンプレイス。テラス席のあるレストランで昼食をとることにした。

 

 「ここのパンケーキ、映える〜!」

 

 「のどかのほうが映える〜」

 

 二人の写真を撮ったり、笑い合って、バカみたいに騒いで、でもその喧騒もどこか居心地がいい。

 

 「……昔の俺、写真とかほとんど撮らなかったんだよな」

 

 ふと漏れた言葉に、のどかとづっきーが目を向けた。

 

 「今は?」

 

 「こうして、誰かといるときは、撮られてもいいかなって思う」

 

 それを聞いて、のどかはそっとスマホを取り出した。そして俺の横顔を、シャッター音もなく収めた。

 

 午後三時。渋谷駅前の雑踏に飲まれる。

 

 「ひゃー……人多っ」

 

 「さすが渋谷……」

 

 去年の夏。ちょうど受験期の七月に、三人で勉強会を開いたことがある。

 

 場所はこもれび大和田図書館。

 

 陽だまりの席で、参考書とノートを広げ英語と数学の問題を解いた。

 

 終わったあと、PARCOでハンバーグを食べたのも、今では懐かしい。

 

 そのままスクランブルスクエアの展望エリアへ。

 

 眼下に広がる街を見下ろしながら、のどかは「空の上にいるみたい」と声を漏らす。

 

 づっきーは「ここでライブしたら映える〜」と真顔で言い、周囲の観光客を笑わせていた。

 

 そのあと、PARCOへ移動。

 

 エスカレーターを上りきると、目の前に「Nintendo TOKYO」のロゴ。

 

 俺は思わず足を止めた。

 

 「え、きっしー? 顔ゆるんでるけど」

 

 「まさかの……任天堂オタク?」

 

 「いや、ほら、別にそういうわけじゃ……」

 

 言い訳をしながらも、足は自然と店内へ。

 

 ゼルダやマリオの棚を抜けた瞬間、ふと視線の先にピンクのぬいぐるみが並んでいるのが見えた。

 

 「……カービィか」

 

 「出たー!」と、づっきーが笑う。

 

 「そういえば去年の勉強会で、づっきー、数学のノートにカービィの落書きしてたよな」

 

 「えぇ!してないしてない!ちゃんと問題解いてたもん!」

 

 「いや、二次関数の問題解く時にしっかり書いてた。今でも覚えてるぞ」

 

 のどかが吹き出す。

 

 「あたしも覚えてる!卯月、そういうとこあるよね」

 

 「うぅ〜あれは集中力を高める儀式なんだよ!」

 

 「儀式って便利な言葉だな……」

 

 そう言いながらも、づっきーの表情は楽しそうだった。

 

 「でもさ、やっぱカービィって可愛いじゃん?まるっこくて、何でも吸い込むけど、ちゃんと優しいの!」

 

 「擬人化するあたり、もう相当だな」

 

 「芯があるタイプだよ、カービィは!」

 

 「ふふ、卯月が言うと説得力あるかも」

 

 のどかが笑う。

 

 店内を歩きながら、づっきーは次々とグッズを手に取っては目を輝かせていた。

 

 「見て見て、これ新作!寝てるカービィ尊い〜!」

 

 俺は思わず笑って、棚の一角に目を向けた。

 

 スターロッドを持ったカービィが、光を反射してこちらを見ている気がした。

 

 「きっしーも買いなよ!三人おそろで!」

 

 「いや、俺は……」

 

 「恥ずかしいとか言わないでよ〜?」

 

 「……言わないけど」

 

 結局、気づけば三人ともカービィのグッズを手にしていた。

 

 づっきーは満足げに笑い、のどかは「今日一番テンション高かったの卯月だね」と肩をすくめる。

 

 「だって、カービィは生きる活力だから!」

 

 渋谷の喧騒の中、その言葉がやけに明るく響いた。

 

 ——こもれび大和田図書館で一緒に勉強してた頃から、何も変わらない。

 

 けれど、その“変わらなさ”が、今はやけに心地よく感じられた。

 

 夕暮れ。スクランブル交差点で、三人並んで風に吹かれていた。

 

 「ねぇ、今日……すごく楽しかった」

 

 のどかがぽつりと呟く。

 

 「うん、めっちゃ歩いたけど、満足度高し!」とづっきー。 

 

 俺は、ただ「ありがとう」と答えた。何に対するありがとうかは、自分でも分かっていなかったけれど。

 

 夜。ベッドの上で、スマホの画面を見つめる。

 

 《次はどこ行く蓮真?》

 

 《またきっしーが行きたいとこでもいいよ!》

 

 《……じゃあ梅雨の時期っぽいとこ》

 

 《紫陽花とか!?》

 

 《そうだな。葉山とか鎌倉に良い場所がある》

 

 《いいね!蓮真楽しみにしてるね!》

 

 少し間を置いて、新しいメッセージが届いた。

 

 《あ、そうだ!来週ほたるのバースデーライブあるから、蓮真も来てね!》

 

 《岡崎さんの?》

 

 《そうそう!五日が誕生日なんだ!》

 

 《分かった。行くよ》

 

 《やった!きっしー来るなら絶対盛り上がる!》

 

 《あたしたちも出番多いから覚悟しといてね〜!》

 

 《はいはい》

 

 グループチャット《きっしー観察会》には、のどかとづっきーと俺の名前が並ぶ。

 

 ——今日は、俺の過去を歩いた日だった。

 

 でも、その隣にいたのは、今を一緒に歩いてくれるのどかとづっきーだった。

 




物語解説

今回の物語は、お台場での美凪と夏帆の試合観戦、自由が丘での双葉との再会、のどか・卯月との都内散策まで、岸和田蓮真が“日常の中で再び歩き出す春”を描きました。

本章で印象的なのは、彼が“過去を記録する観察者”から、“今を感じ取る存在”へと少しずつ変わり始めていることです。

赤城のボランティア団体の発足で芽生えた他者への関心。双葉との会話で指摘された気づかない優しさ。そして、のどかと卯月と歩いた渋谷で見せた、ほんの小さな笑顔。

それらはすべて、蓮真が過去にとどまらず、現在を確かめようとする証でもあります。

のどかの穏やかさと卯月の明るさは、彼にとって“こもれび”のような存在です。

予測できず、形も定まらないけれど、ふとした瞬間にその光が、心の奥に眠っていた何かを照らし出すとともに、その光は確かに、蓮真の世界を少しずつ温めていきます。

蓮真がその小さな明るさを掴めるかどうか。それが、彼のこれからを決めていくのかもしれません。

次回もぜひ、お楽しみください。

蓮真は最終的にどちらを選ぶと思いますか?

  • 豊浜のどか
  • 広川卯月
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