青春ブタ野郎はパラレルスプリングの夢を見ない   作:もドえラん

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5.曇天のむこうで、願いは光を見つける

 

 六月五日

 

 秋葉原のライブ会場は、開場前から人の波で膨らんでいた。

 

 入口脇のフラスタには、「Sweet Bullet Hotaru Birthday Special LIVE 」と記されたパネル。

 

 ピンクと水色の風船が照明を受けてじんわり光っている。

 

 (……ほんとに増えたな)

 

 今月から、のどかとづっきーがクイズ番組に出始めた影響か、物販列も客席もいつもより熱量が高い。

 

 やがて暗転。スモークの向こう、センターに岡崎さん。右にのどか、左にづっきー。

 

 その後方には、中郷さん、安濃さん。

 

 ダンスラインのバランスが、これまでより厚く感じられる。

 

 一本目からシンセのリフが走り、岡崎さんの芯のあるボーカルに、のどかのコーラスが寄り添い、間奏ではづっきーがステージを駆ける。

 

 出番の配分が、いつもよりわずかに二人へ傾いているのがわかった。

 

 (……今日の主役は岡崎さん。でも、“今”の勢いは確かに三人のものだ)

 

 ステージ袖から伸びる逆光に、汗の粒がきらりと浮かぶ。

 

 誕生日ブロックでは会場全体がピンクのペンライトに染まり、岡崎さんが少し照れた笑顔を見せた。

 

 ふと視線を動かすと、客席後方に花楓ちゃんと鹿野さん。

 

 二人ともペンライトを握りしめ、リズムに合わせて小さく体を揺らしている。

 

 曲間に近くまで行くと、鹿野さんがこちらに気づいて小さく会釈した。

 

 「岸和田さん、来てたんですね」

 

 「ああ。づっきーとのどかに誘われててさ。……二人も?」

 

 「はい。最近私、ほたるさん推しになってしまって」

 

 「お、そうなんだ、なんで岡崎さん?」

 

 「同じ高校生なんですよ。私が高二で、岡崎さんは三年。スイートバレットの中で一番年が近いのに、あんな大きなステージのセンターに立ってるのが、すごいなって」

 

 その瞳はまっすぐで、ステージを見つめる光が一瞬だけ強くなった。

 

 「そういえば鹿野さんって、高校どこなんだっけ?」

 

 「近くの進学校ですよ。グレーのブレザーが可愛くて。……岸和田さん、知ってるかどうかわからないですけど」

 

 (……赤城と同じ、か)

 

 胸の奥で記憶がわずかに揺れた。

 

 俺はうなずいて、できるだけ自然に返す。

 

 「ああ、あそこか。知ってるよ。中学まではあの辺に住んでたから」

 

 「……そうだったんですね」

 

 鹿野さんは素直に微笑み、再びステージへと視線を戻す。

 

 俺の頭の中には、先週見た赤城のホワイトボードが一瞬よぎった。

 

 (……確か、赤城も同じ高校に通ってるんだよな)

 

 けれど次の瞬間、自分でその思考を打ち消す。

 

 (学年も違うし……知らないかもしれないな。わざわざ聞くことでもないか)

 

 そう心の中で呟いて、問いを飲み込む。

 

 そのまま手にしたペンライトを握り直し、再びステージへ目を向けた。

 

 センターの岡崎さんが笑って、のどかが手を広げ、づっきーが煽る。

 

 後列の中郷さんと安濃さんが息を合わせ、全体の動きが一つに重なる。

 

 光と歓声が天井に反射して波打つ。

 

 ——問いは胸の内にしまって、今日はただ、この音を聴こう。それで十分だと思えた。

 

 六月六日

 

 夕暮れの教室に、蛍光灯の白がにじんでいた。

 

 今日が、塾講師としての初仕事だった。

 

 初回の授業を終え、ホワイトボードを拭きながら、ふっと肩の力を抜く。

 

 (……思ってたより、ちゃんとできたな)

 

 高校生相手の英語。

 

 緊張しっぱなしだったけれど、生徒たちの「分かりました!」の声に少し救われた。

 

 ホワイトボードのペンを片づけ、帰り支度をしていると、廊下のほうから小さな声が聞こえた。

 

 「……紗良、誕生日おめでとう」

 

 柔らかい、けれどどこか遠慮がちな声だった。

 

 反射的に顔を向けると、ガラス越しに見えるエントランスで、男子生徒が一人の女子に声をかけていた。

 

 加西虎之介。去年の体育祭で顔を合わせた後輩だ。

 

 けれど、彼が声をかけた相手の女子は振り向かない。そのまま足早に出口へ向かっていった。

 

 挨拶を無視された加西くんは、手を止めたまま少しうつむく。

 

 去っていく女子の横顔を見た瞬間、どこかで見覚えがある気がした。

 

 そうだ、去年の文化祭の時、加西くんが案内していた子に似ている。

 

 あの時も、彼の後ろをついて歩いていた。

 

 廊下の角ですれ違った瞬間、空気が微かに揺れたように感じた。

 

 ほんの一瞬、遠くの音がかすむ。

 

 すぐに元に戻ったが、胸の奥に、どこか引っかかるようなざらつきが残った。

 

 気になって、俺は加西くんに声をかけた。

 

 「加西くん、だよな?」

 

 呼びかけると、彼が少し驚いたように振り向いた。

 

 「……岸和田先輩、ですか?」

 

 「そう。久しぶりだな。去年の体育祭ぶりか」

 

 「覚えてたんですか?」

 

 「ああ。青組の玉入れのカゴ持ち、やってたろ?加西くん身長高いし、手強かったよ」

 

 加西くんは照れくさそうに笑い、少し肩をすくめた。

 

 「……ありがとうございます。あれ、けっこう腕が疲れるんですよ」

 

 「だろうな。あの高さだと容赦ないからな」

 

 二人で少しだけ笑い合う。

 

 けれど、その笑顔の裏に、どこか影のような迷いが見えた。

 

 「さっきの子は誰なんだ?」

 

 「ああ……彼女は俺の幼馴染で、姫路紗良っていう子です。今は同じ峰ヶ原に通ってます」

 

 「姫路……さん」

 

 名前を繰り返す。

 

 耳に残るその響きに、なぜか微かなひっかかりを覚えた。

 

 「……最近、あまり話してくれなくて。小さいころからずっと一緒だったんですけど」

 

 加西くんは言いかけて、苦笑いのような表情を見せた。

 

 「すみません、変なこと言って」

 

 「いや、別に。……この塾、通ってるんだろ?」

 

 「はい。いまは、双葉先生に担当してもらってます」

 

 「双葉の授業、わかりやすいだろ?」

 

 「はい。……とても」

 

 その「とても」に、少しの間があった。

 

 言葉の奥に、ただの感想以上の温度が混じっている。

 

 その時、再び、ほんの一瞬だけ空気が波打った気がした。現実の奥に、もうひとつの層が透けるような感覚。

 

 (……気のせい、だよな)

 

 加西くんは軽く会釈して帰っていった。

 

 窓の外を見下ろすと、ビルの前を一人で歩いていく姫路さんの姿が見える。

 

 夕暮れの街灯が、その肩を静かに照らしていた。

 

 すれ違ったままの二人の距離だけが、やけにくっきりと見えた。

 

 六月十日

 

 昼下がりのキャンパスは、湿った風に包まれていた。

 

 梅雨の前触れのような灰色の空。

 

 どこかぼんやりとした光の下で、YCUスクエアの窓が淡く反射している。

 

 (……確か、この棟の三階のスチューデントオフィスだったよな)

 

 先日、赤城が「ボランティア団体を立ち上げる」と話していた部屋を訪ねてみた。

 

 掲示板の前には、手書きのポスターが一枚だけ貼られている。

 

 『学生ボランティア団体 設立準備中』

 

 その下にあるメンバー欄は、まだ空欄のままだった。

 

 ドアをノックしようとしたとき、背後から声が飛んできた。

 

 「……岸和田くん?」

 

 振り返ると、ショートの髪をゆるく巻いた女子が立っていた。

 

 少し気の強そうな目元。どこか懐かしい声の響き。

 

 「……上里さん?」

 

 「やっぱり。……ていうか、なんでここに?」

 

 声には、ほんの少しの警戒が混じっていた。

 

 まるで「どうしてあんたがここに?」と無言で探ってくるような視線。

 

 「この前、赤城に会ってさ。ボランティア団体を立ち上げるって聞いたから、ちょっと気になって来てみた」

 

 上里の眉がかすかに動いた。

 

 意外そうな表情を見せながら、ほんの一瞬、目の色が和らぐ。

 

 「へぇ……そうなんだ。でも、岸和田くんがボランティアに興味あるなんて、ちょっと意外」

 

 「まぁ、見学のつもりだよ。人の動きを観察したり支えたりするのは、嫌いじゃないし」

 

 「観察、ね」

 

 上里は腕を組んで小さく息を吐いた。

 

 まだ少し探るような目。けれど、最初よりは柔らかい。

 

 「……上里さんこそ、なんでここに?」

 

 「私?ここの看護学科に通ってるの。郁実とは同じ学部で、授業で地域医療とか福祉の話も出てくるから、見に来ただけ」

 

 「なるほど。らしいな」

 

 「“らしい”って、どういう意味?」

 

 「相変わらず、歯に衣着せない言い方するなって意味」

 

 「……まあ否定はしないけど」

 

 彼女が笑うと、わずかに肩の力が抜けた。

 

 「岸和田くん……佑真とか梓川くんと仲良かったよね?」

 

 「まあな。高校ではいろいろあったけど」

 

 「いろいろね……」

 

 そのとき、廊下の奥から軽い足音が聞こえてきた。

 

 「あ、岸和田くん来てくれたんだ」

 

 ファイルを抱えた赤城郁実が現れる。

 

 淡いグレーのカーディガンに、スカーフを巻いた落ち着いた装い。

 

 けれど、彼女の目はどこか明るい。

 

 「沙希も来てたんだ?」

 

 「うん。たまたまね。郁実が本気で団体作るって聞いたから、気になって」

 

 「沙希にそう言われると照れるな」

 

 「だってさ、郁実って行動力あるから」

 

 上里が笑い、赤城が肩をすくめる。

 

 二人の間に流れる空気は、どこか自然だった。

 

 俺はその光景を見ながら、少しだけ息を整えた。

 

 「……で、岸和田くんは郁実とどういう関係?」

 

 上里が視線を向けてくる。

 

 探るような目ではあるが、もう最初のような硬さはなかった。

 

 「中学の同級生なんだ。それで、赤城がボランティア団体を作るって聞いて、興味があって」

 

 「……ふぅん」

 

 上里はわずかに頷き、視線を下げた。

 

 その表情には、ようやく納得の色が宿る。

 

 「……そっか。なら、変な理由じゃなさそうね」

 

 「変な理由持ってる扱いかよ、俺」

 

 「警戒はしてたよ。……悪い?」

 

 思わず苦笑いすると、上里も小さく吹き出した。

 

 空気が、ほんの少し和らぐ。

 

 赤城は机にファイルを広げながら言った。

 

 「……岸和田くん、沙希。せっかくだし、今からオンラインの打ち合わせ参加する?今他の大学の学生と、どんな活動にしたらいいか意見をもらうところだから」

 

 「……ああ。いいのか?」

 

 「もちろん」

 

 その言葉に、俺は小さく頷いた。曇り空の隙間から差し込んだ光が、

 

 机の上の紙を淡く照らしている。

 

 (……なるほど、これが“始まり”ってやつか)

 

 上里が腕を組んで椅子に腰を下ろし、赤城がノートを開く。その向かいで、俺は静かに椅子を引いた。

 

 しばらく経った後、オンラインの打ち合わせが始まった。

 

 ノートパソコンの画面には、他大学の学生が数名映っていた。

 

 赤城が司会を務め、会議が始まる。

 

 「今日は、活動テーマの方向性を詰めたいと思っています。地域清掃とか子ども食堂の手伝いも候補にはあるけど、もう少し“私たちらしい”軸を持ちたいんですが、皆さんから意見をいただきたいです」

 

 淡々とした口調の中にも、赤城らしい芯の強さが滲む。

 

 画面の向こうから「環境保全系は?」「被災地ボランティアも視野に」といった意見が出てくる。

 

 (……すごいな)

 

 赤城の主導力に圧倒されつつ、俺はただ頷くタイミングを探していた。

 

 けれど、次の瞬間。ふと、脳裏に浮かんだことがあった。

 

 白い壁に貼られた一枚のポスター。

 

 『個別指導・不登校支援コース』

 

 あの湘南個別指導塾で見た掲示だ。

 

 机の下で手を組み、ほんの少しだけ息を吸う。

 

 「……あの」

 

 思わず声が出ていた。画面の数人が一斉にこちらを見た。

 

 「えっと……提案ってほどでもないんですけど」

 

 赤城が微笑む。

 

 「いいよ。何でも言って」

 

 「……不登校の子どもたちへの学習支援って、どうですか?」

 

 「学習支援?」

 

 上里が軽く首を傾げる。

 

 「この前、バイト先の塾でそういうコースを見かけたんです。“学校に行けない子に勉強のきっかけを”って掲示してあって。それ見て、ふと……“そういう場所を作れるのもボランティアなのかも”って」

 

 自分でも驚くほど、自然に言葉が出ていた。

 

 それは頭で考えたものじゃなく、胸の奥の残響みたいなものだった。

 

 「……いいと思う」

 

 最初に反応したのは赤城だった。

 

 「支援っていう言葉を、ちゃんと伴走にできる活動だと思う」

 

 「だね」

 

 上里も頷く。

 

 「看護の現場でも、居場所を作るっていうのはすごく大事。医療じゃ救えない部分に、教育や人とのつながりが効くこともある」

 

 画面の向こうの学生たちも「それ、面白いですね」「実際に需要ありそう」と口々に言い始めた。

 

 赤城がメモを取りながら言う。

 

 「じゃあ、ひとまず“学習・生活支援を通じた不登校児童支援”を仮テーマにします」

 

 俺は小さく頷いた。画面の中でそれぞれの顔がほっと緩む。

 

 「今日はここまでにします。皆さん、お時間いただきまして、ありがとうございました」

 

 赤城の声で会議は締めくくられた。パソコンの画面が暗転し、静けさが戻る。

 

 窓の外には、梅雨の気配を孕んだ曇り空。

 

 けれど、胸の中にはほんの少しだけ、光が差していた。

 

 「岸和田くん、ナイスアイデアだね」

 

 「……珍しく発言したからでしょ」

 

 「そうかも。でも、そういう“珍しさ”から始まることもあるよ」

 

 赤城の微笑みには、どこか安心を含んだ光があった。

 

 上里も、ふっと笑う。

 

 「観察者じゃなくて、行動者じゃん」

 

 「そんな大層なもんじゃねえよ」

 

 そう言いながらも、胸の奥が少し温かかった。まるで、静かな場所に一輪の花が咲いたみたいに。

 

 (……不登校児童の支援、か)

 

 もし、あの中学時代。

 

 誰かが「ここにいていい」と言ってくれていたら、俺の時間も、もう少し早く動き出せていたのかもしれない。

 

 そんな思いに耽る中、ノートを閉じる赤城が笑った。

 

 「岸和田くん、次回までに案を少し整理しておいてもらえる?」

 

 「……俺が?」

 

 「うん。提案者だから」

 

 上里がからかうように言う。

 

 「責任重大だね、岸和田くん」

 

 「……やめてくれ」

 

 三人の笑い声が、曇り空の午後にやわらかく響いた。

 

 校舎の外に出ると、ぽつりと雨が落ちてきた。小さな滴がアスファルトに染み込み、世界を静かに濡らしていく。

 

 小雨は本当は嫌いだ。

 

 あの日の記憶を、いつも思い出させるから。

 

 でも今日の雨は、なぜか嫌じゃなかった。

 

 六月十二日

 

 昼のピークを越えたファミレスには、ゆるやかな時間が流れていた。 

 

 厨房からは油の音と、コーヒーマシンの低い唸り。

 

 古賀と花楓ちゃんが片づけをしていて、ホールには俺と咲太の二人だけが残っていた。

 

 「ふぅ……やっと落ち着いたな」

 

 咲太が軽く背伸びをする。

 

 「咲太朝から入ってただろ。さすがに疲れたか?」

 

 「まあな。……でも今月は麻衣さんの撮影が少なくてさ」

 

 咲太はトレイを片手に、ぼんやり天井を見上げた。

 

 「“今月はデートするから、そのぶん稼いでおきなさい”って言われたんだよ」

 

 「……現実的だな、麻衣先輩」

 

 言うと、咲太はほんの少しだけ頬を緩めた。

 

 その笑みには、どこか静かな安堵が滲んでいた。

 

 「岸和田はどうなんだ?」

 

 「俺か?」

 

 トレイの上のグラスを拭きながら答える。

 

 「のどかとづっきーが忙しくて、最近は一人のことが多いな。強いて言えば、ボランティア団体の立ち上げに協力してるくらい」

 

 「ボランティア?お前が?」

 

 「言い方に悪意あるな」

 

 咲太は肩をすくめて笑う。

 

 「どういう風の吹き回しだよ?」

 

 「春にあったろ。麻衣先輩が主演した国際ボランティアの映画。あれ見て、ちょっと興味持ったんだよ」

 

 (上里のことは黙っておくか。咲太、上里と仲悪いし)

 

 「……ああ。あの映画の麻衣さん、可愛かったなぁ」

 

 「惚気か」

 

 「僕の麻衣さんは宇宙一かわいいからな」

 

 真顔で言い切る咲太に、思わず苦笑いがこぼれる。

 

 ——ほんと、変わらないな。

 

 けれど、その変わらなさが、たぶん一番すごいことなんだろう。

 

 そのとき、店のドアベルが鳴った。

 

 「いらっしゃいませー!」

 

 古賀の明るい声がホールに響く。

 

 顔を上げると、見覚えのある女子が立っていた。

 

 「……米山さん?」

 

 「こんにちは岸和田先輩。まだランチやってるかなと思って」

 

 淡いベージュのブラウスにデニム。そしてメガネをかけていない。

 

 (……あれ、コンタクトにしたのか)

 

 去年の文化祭の時だけ、たしかコンタクトにしていた。

 

 その一日限りの印象が、ふっと記憶の奥から浮かび上がる。

 

 あのときも、少しだけ大人びて見えたっけ。

 

 今の彼女は、あの“少しだけ”をもう自分のものにしていた。

 

 表情が前よりも柔らかく見える。

 

 俺は思わず目を細めた。

 

 「奈々ちゃん!いらっしゃいませ!」

 

 古賀がカウンター越しに笑顔で手を振る。

 

 「朋絵ちゃん、今日もバイト?」

 

 「うん。ランチのピーク終わったから、ちょっと落ち着いたとこ」

 

 「ならよかった。席、あいてる?」

 

 「奥どうぞ。あとでドリンク持ってくね」

 

 ふたりのやり取りは、まるで日常の延長線だった。その自然さが、かえって彼女たちの関係の深さを物語っていた。

 

 (……垢抜けたな)

 

 古賀の影響か、それとも別の理由か。

 

 あの頃よりも少し柔らかく、でも芯のある笑顔になっていた。

 

 窓から射す午後の日差しが、テーブルの上で揺れている。

 

 静かな時間の中に、それぞれの“今”が映っていた。

 

 休憩室の壁時計が、静かに秒を刻んでいた。

 

 夕方のピークを終えたファミレスの奥。

 

 厨房の熱気も届かない休憩室に、俺と花楓ちゃんだけがいた。

 

 古賀と咲太はすでに上がっていて、店内も落ち着いている。

 

 冷蔵庫のモーター音と、外の雨音がかすかに混ざり合っていた。

 

 「ふぅ……今日も忙しかったですね」

 

 ペットボトルのお茶を両手で包みながら、花楓ちゃんが小さく笑った。

 

 制服の袖口を指で整えるその仕草が、なんとなく丁寧で、らしいと思った。

 

 「そうだな。……お疲れ」

 

 「蓮真さんも、お疲れさまです」

 

 少し間を置いて、ふっと顔を上げる。

 

 「この間の岡崎さんのライブ、すごかったな」

 

 「はい。……蓮真さんも来てましたよね?」

 

 そう言って、花楓ちゃんは照れくさそうに笑った。

 

 「こみちゃんが“最近の推しがほたるさん”って言ってて。こみちゃんすごくて。最初から最後までずっとペンライト振ってて、私もびっくりしました」

 

 「そうだったな。鹿野さんも意外と、語り出すと止まらないタイプだろ」

 

 「ですね。でも……そういう“誰かを全力で応援できる”って、すごいなって思いました」

 

 「それは花楓ちゃんもだよ」

 

 「え?」

 

 「づっきーのライブのときとか、いつも思うよ。すごく嬉しそうに見てるし、ちゃんと“届いてる”感じがする」

 

 花楓ちゃんは少し驚いたように瞬きをして、それから小さく笑った。

 

 「……そんなふうに見えてたんですね」

 

 「見えてる。人を見てる目が優しいっていうか」

 

 彼女は少し頬を赤らめて、ペットボトルを見つめた。

 

 「……ありがとうございます。なんか、ちょっと照れますね」

 

 小さな沈黙が落ちた。外の雨音が、一定のリズムで屋根を叩いている。

 

 その音を聞きながら、俺はふと思った。

 

 応援する人がいるなら、応援を必要としてる人もきっといる。

 

 自然と、言葉が口をついた。

 

 「……そういえばさ、ちょっと相談してもいい?」

 

 「今、大学でボランティア団体を立ち上げようとしててさ。その中で“不登校の子どもたちへの学習支援”をテーマにしようって話になったんだ」

 

 「もし花楓ちゃんさえ大丈夫なら……どんな支援があったらうれしいか、少し聞いてもいいかな」

 

 花楓ちゃんは一瞬だけ視線を落とした。

 

 少しの間、黙ったままキャップを指先で弄んでいたが、やがて小さく頷いた。

 

 「……はい。大丈夫です」

 

 その声には、少しのためらいと、それを超える意志があった。

 

 「私、卯月さんと初めて会った時のことを思い出しました」

 

 「づっきーと?」

 

 「はい。卯月さんが、お母さんの言葉を話してくれたんです」

 

 花楓ちゃんは少し遠くを見るようにして、静かに続けた。

 

 「『卯月の幸せは、みんなに決めてもらうもんじゃなくて、卯月が決めるんだよ』って」

 

 「……なるほどな」

 

 「その言葉、すごく優しかったんです。“学校に行かない私”も、“行けなかった私”も、ちゃんと私なんだって思えた」

 

 小さく笑うその横顔は、過去の痛みを抱えながらも、確かに前を向いていた。

 

 「卯月さんにも言われました。『前の私がいたから、今の私がいるんだし』って」

 

 「……づっきーらしいな」

 

 「はい。……だから、もし支援をするなら“行けるようにする”より、“そのままでいられる場所を作る”のがいいと思います」

 

 「そのままでいられる場所、か」

 

 「はい。そこにいれば、少しずつ変わっていけると思うので」

 

 言葉の端に滲む穏やかな光。

 

 俺はそれを静かに受け止めながら、タブレットに小さくメモを取った。

 

 (……やっぱり、観察するだけじゃ足りないんだな)

 

 その時、外の雨音が少し強くなった。

 

 でも、不思議と嫌な感じはしなかった。

 

 「ありがとう、花楓ちゃん。すごく参考になった」

 

 「いえ。……なんか、少し話せてよかったです」

 

 彼女は小さく笑い、ペットボトルを両手で包み込む。

 

 その笑顔は、春の残り香みたいにやわらかかった。

 

 六月十七日

 

 夕方のYCUスクエア。

 

 外は梅雨の曇り空で、ガラス越しに見える街路樹が湿った風に揺れていた。

 

 赤城がノートパソコンを開き、前回の議事録を確認している。

 

 上里はその隣で資料を束ねながら、手際よくマーカーを走らせていた。

 

 「じゃあ今日の議題は、活動体制の整理と、次のステップの確認ね」

 

 赤城の声は落ち着いていて、それでいて芯が通っている。

 

 「……どうやら、これからは毎週金曜日に打ち合わせをやることになりそうだな」

 

 思わずそう呟くと、赤城が笑った。

 

 「うん。週一ぐらいで進めないと、たぶん形にならないから」

 

 「まじめだな、相変わらず」

 

 赤城は小さく肩をすくめて、ファイルを閉じた。

 

 「ボランティア登録の方は、ボランティア支援室で私の方からやっておくね。必要な保険の案内とかもスタッフさんと相談したいから」

 

 「なるほど、そっちは任せるよ」

 

 俺はタブレットにメモを取りながら答える。

 

 「俺のほうは、祖母と母の知り合いに国際NGO関係の人がいるから、そこから不登校支援をやってるNPOを紹介してもらえないか頼んでみる」

 

 上里が少し目を見開いた。

 

 「……岸和田くんの繋がりって、地味に広いね」

 

 「……まぁ、そうかな」

 

 そんな軽口を交わしながら、会議は和やかに終わった。

 

 帰り際、赤城が教授への依頼資料を取りに行ったため、廊下には俺と上里だけが残った。

 

 静かな廊下。窓の外では、街灯が雨粒を細く照らしている。

 

 なんとなく気まずい沈黙が流れた。

 

 上里が先に口を開いた。

 

 「……郁実のボランティア、ちゃんとしてると思う」

 

 「ちゃんとしてる?」

 

 「……表面上の“良いこと”で終わらせてない。誰かのために、ちゃんと行動しようとしてる。ひけらかすためのものでも、マウント取るための活動でもない」

 

 その言葉に、俺は軽く息を吐いた。

 

 「まぁ、赤城っぽいとは思うけどな」

 

 「……なんでそう思うの?」

 

 「中学のとき、生徒会で書記をやってた赤城を手伝ったことがあってさ。赤城はその時、部活とか委員会の意見を全部まとめてた」

 

 「俺みたいに途中で転校してきたやつにも普通に話しかけてくれて、あいつのおかげでわりと早く馴染めたんだ」

 

 上里は少し考えこむように視線を落とした。

 

 「……でもさ、時々思わない? ああいうの、気持ち悪いって」

 

 (……出たな、歯に衣着せない物言い)

 

 内心で苦笑しつつも、言葉にはしない。

 

 「私のお姉ちゃんもさ、東大に現役合格するくらい優等生だったの。家の中がいつも“完璧な人”の基準で動いてたから、余計に、そういう“理想的な人間”って苦手でさ」

 

 「まぁ、確かにな。理想的な人間すぎると、現実から浮くこともある。俺も高校のとき、よく“優等生”って言われて、たまに息苦しかったから」

 

 「……岸和田くんの場合は、成績の上では“優等生”だったけど、けっこう変人だったよね」

 

 「……変人?」

 

 「いつもタブレットいじって、誰かの行動メモしてたし。授業中も、急に外の空見て何か考えてたり」

 

 「……ひどい言いようだな」

 

 「そういう“ちょっとずれた視点”が、今も変わってないよね」

 

 上里は、からかうように微笑む。

 

 「……そっちこそ、歯に衣着せない言い方は変わってないな」

 

 「そう?」

 

 ふたりの間にまた、柔らかい沈黙が落ちた。

 

 廊下を抜けると、外の雨がやんでいた。

 

 舗道に残った水たまりが、夕暮れの光をぼんやりと映している。

 

 (……理想と現実のあいだにいる人間ほど、たぶん誰かを支えられるんだな)

 

 そんなことをぼんやり思いながら、俺は校門へ向かった。

 

 六月二十日

 

 昼下がりの大学キャンパス。

 

 講義を終えて構内のカフェ前に出たところで、麻衣先輩とのどかに出くわした。

 

 「お疲れ様、蓮真くん」

 

 「おつかれ、蓮真!」

 

 「お疲れ様です麻衣先輩。のどかも」

 

 麻衣先輩は軽く微笑んでいた。どうやらこのあと、咲太のいる別の校舎へ行くらしい。

 

 それを聞いたのどかが、当然のように言った。

 

 「じゃ、あたしも行く!」

 

 「え?」

 

 「最近お姉ちゃんもあたしも忙しかったから、久しぶりに遊びたいの!」

 

 (……麻衣先輩と咲太のデート、邪魔しちゃ悪いだろ。ていうか、のどかのシスコンはまだ治ってねぇのか……)

 

 そんな俺の内心をよそに、のどかはもうノリノリだった。

 

 「咲太も喜ぶよ!ね、お姉ちゃん!」

 

 そして案の定、咲太の第一声はこれだった。

 

 「豊浜はついてくるな。姉離れしろ」

 

 俺たちが別キャンパスに着くと、咲太はちょうど授業を終えたところだった。

 

 隣には、同じ教養ゼミを受けていたづっきーの姿もある。

 

 「えー、いいじゃん。あたしも最近お姉ちゃんと遊んでないんだから」

 

 「……岸和田、豊浜を止めてくれ」

 

 「……そう言われても、シスコンモードを発動したのどかは俺にも止められねぇよ」

 

 「お姉ちゃんいいよねぇ。……あ、不満なら咲太は帰ってもいいから」

 

 「いや僕のデートだぞ!」

 

 麻衣先輩は、そんなふたりを見ながら小さく笑う。

 

 「……そうね。せっかくだから、五人でどこか行きましょうか?」

 

 「えぇ……ていうか五人?僕と麻衣さんと豊浜と……あとは?」

 

 「蓮真くんと広川さんに決まってるじゃない」

 

 「え、俺もですか?」

 

 「ええ。たまにはいいでしょ、蓮真くん」

 

 「えぇ……まあ、いいですけど……」

 

 「ありがとう!麻衣さん!」

 

 すぐ横でづっきーが声を上げた。

 

 「きっしー、麻衣さんとお出かけだよ!」

 

 「……づっきー、お前はもう少し遠慮しろ……」

 

 咲太が頭を抱える。

 

 「僕と麻衣さんのイチャイチャデートが……」

 

 「……ドンマイ」

 

 「……それで、のどか。何か麻衣先輩とやりたいことでもあるのか?」

 

 「蓮真、良くぞきいてくれました!」

 

 「いや聞いてない」

 

 「横浜にあるカラオケに行きたいんだ!」

 

 「横浜にあるカラオケって、前に僕と麻衣さんと豊浜と花楓と行ったところか、あのシャンデリアがある?」

 

 「なんだそのカラオケ……」

 

 「そう!部屋もすごいんだけどね、そこのハニートーストがめっちゃ美味しいの!最近またハマっててさ!」

 

 「ハニートースト!」

 

 づっきーが食いつく。

 

 「私も食べたい!」

 

 のどかが得意げに言った。

 

 「前、一緒に行こうとしたら卯月が“あっ!デカ盛りハンバーガーのお店ができてる!”って言って行けなかったじゃん!」

 

 「……あれ?そうだっけ?」

 

 づっきーが首をかしげる。

 

 「そうだよ!あの日結局、二人でハンバーガー三つも頼んでさ」

 

 「……どっちかって言うと、そっちのほうが問題だろ」

 

 麻衣先輩が苦笑し、咲太がため息をつく。

 

 こうして、ほぼ流れと勢いだけで、俺たちは五人でカラオケに行くことになった。

 

 横浜駅近くの大型カラオケビル。

 

 シャンデリアが吊るされた豪華な個室に、五人の笑い声が響いていた。

 

 「この部屋、まじですごいな……」

 

 「でしょ?言ったじゃん!」

 

 のどかが胸を張る。

 

 「ハニートーストも種類がいっぱいあってさ!チョコバナナとかいちごとか!」

 

 のどかが目を輝かせながら皿をテーブルに置く。

 

 一斤まるごとのパンに蜂蜜とアイスが溶けていて、見ているだけで血糖値が上がりそうだった。

 

 俺は苦笑しながらナイフを持つ。

 

 「のどか!私、チョコバナナにする!」

 

 「じゃ、あたしはいちご!」

 

 (……賑やかだな)

 

 五人という人数でいるのには、正直まだ慣れていない。

 

 けれど、不思議と居心地は悪くなかった。

 

 マイクを握ったのどかが言う。

 

 「じゃあ、一曲目はあたしたちからね!」

 

 「スイートバレットの“BABY!”!」 

 

 「この前の卯月のバースデーライブで歌ってた曲!」

 

 イントロが流れ、二人の声が弾けた。

 

 > I wanna kiss you, love me baby!!

 

 > I wanna kiss you, love me baby!!

 

 のどかの明るく伸びる声と、づっきーの天真爛漫なハーモニー。

 

 会場で聴いたときの熱気が、一瞬で甦る。

 

 (……あの四月のライブも、こんな感じだったな)

 

 あの日のステージ。

 

 スポットライトの中で、のどかとづっきーが笑い合いながら、観客をまっすぐ見つめて歌っていた光景を思い出す。

 

 > 君に“Kiss you, love me baby!!”

 

 > 始まったばかりのストーリー

 

 楽しげに体を揺らすのどかと、満面の笑顔でマイクを掲げるづっきー。

 

 その二人を見ていると、自然と拍手をしたくなった。

 

 歌い終えると、部屋の中は一瞬拍手と笑いで包まれる。

 

 「どう?完璧だったでしょ!」

 

 「そうね、息ぴったりだったわよ」

 

 麻衣先輩はどこか誇らしげだった。

 

 「次は、僕らかな」

 

 咲太がリモコンを操作し、画面に曲名が表示される。

 

 「スピッツの“楓”?」

 

 のどかが首をかしげる。

 

 「咲太、渋い選曲だな」

 

 麻衣先輩が少し目を丸くして言った。

 

 「なんだか咲太らしくない選曲ね」

 

 「麻衣さん手厳しいなあ」

 

 咲太は肩をすくめる。

 

 「花楓の“楓”の由来の曲なんですよ。たまにはこういうのもいいかなって」

 

 「……へぇ」

 

 麻衣先輩が柔らかく笑う。

 

 イントロが流れ、静かなアコースティックギターの音が広がった。

 

 麻衣先輩がそっとマイクを握り、口を開く。

 

 > 忘れはしないよ 時が流れても

 

 その声は、澄んでいて、やさしかった。

 

 さすが女優。感情の乗せ方が違う。

 

 咲太が隣で合わせるが、ところどころ音が外れる。

 

 麻衣先輩が小声で笑いながら、彼の足を軽く踏んだ。

 

 「いってっ……!」

 

 「もう少し落ち着いて歌いなさい」

 

 > さよなら 君の声を 抱いて歩いて行く

ああ 僕のままで どこまで届くだろう

 

 微笑ましいやり取りに、みんなが笑う。

 

 けれど。

 

 俺には、麻衣先輩だけが歌っているように聴こえた。

 

 いや、“かつて”どこかで、麻衣先輩が悲しみと想い出を抱えて、この歌を口ずさんでいたような錯覚がした。

 

 (……なんだろうな、この感じ)

 

 歌い終わると、室内が一瞬だけ静まり返る。

 

 のどかが拍手をしながら笑う。

 

 「やっぱお姉ちゃんの声、綺麗〜!」

 

 咲太が得意げに胸を張る。

 

 「僕の麻衣さんは宇宙一だからな」

 

 「惚気か」と言いかけたが、まあ今は黙っておこう。

 

 「はい、じゃあ次は……」

 

 のどかがマイクをこちらに向ける。

 

 「蓮真!歌って!」

 

 「俺?」

 

 「きっしーの歌、聞いてみたい!」

 

 づっきーまで目を輝かせて言う。

 

 逃げ場はないらしい。

 

 リモコンを手に取り、少しだけ考えてから選曲した。

 

 画面に“ひまわりの約束”の文字が出る。

 

 「……いい曲ね」

 

 麻衣先輩が微笑む。

 

 (ドラえもんが好きだから、とは言えないな)

 

 静かなピアノのイントロが流れ、

 

 歌詞がゆっくりとスクリーンに流れていく。

 

 > どうして君が泣くの まだ僕も泣いていないのに

 

 声に出した瞬間、空気が少し変わった。

 

 室内のざわめきがすっと静まり、

 

 みんなの視線がこちらに集まる。

 

 > そばにいたいよ 君のために出来ることが 僕にあるかな

 

 のどかも、づっきーも、麻衣先輩も、それぞれの表情で耳を傾けていた。

 

 咲太も珍しく真顔で、静かにリズムを取っている。

 

 > これからは僕も 届けていきたい 本当の幸せの意味を見つけたから

 

 歌い終わると、短い沈黙のあとで拍手が起きた。

 

 「……蓮真上手すぎじゃない?」

 

 のどかがぽつりと呟く。

 

 「きっしー、音感めっちゃいい!」

 

 づっきーも目を丸くしている。

 

 「……実は昔、音楽教室通ってたんだ。バイオリンも少し」

 

 「えぇぇ!?」

 

 みんなが声をそろえる。

 

 「……意外と多才なのね、蓮真くん」

 

 麻衣先輩が笑った。

 

 「いや、ただの趣味ですよ」

 

 けれど、マイクを置いたあと、胸の奥にほんの少し、あたたかい残響が残っていた。

 

 (……こういう時間も、悪くないな)

 

 シャンデリアの光がゆらぎ、ハニートーストの甘い香りが漂う。

 

 窓の外では、初夏の横浜の夕空が、オレンジから群青へとゆっくり溶けていった。

 

 カラオケを出ると、ビルの隙間から海風が吹き抜けた。

 

 横浜の夕空は群青に沈みかけていて、街のネオンが滲んで見える。

 

 「は〜、楽しかったぁ!」

 

 のどかが伸びをしながら声を上げる。

 

 づっきーは上機嫌にスキップしていた。

 

 「ハニートースト、最高だったよね!」

 

 「卯月、ハニートーストほとんど食べてたじゃん!」

 

 「食べた分だけ幸せになるんだよ!」

 

 笑い声が夜風に溶けていく。

 

 前を歩く二人の後ろで、俺と咲太と麻衣先輩はゆっくり歩いていた。

 

 のどかがふと振り返る。

 

 「そういえばさ、葉山と鎌倉に行くの、月末の三十日でいい?」

 

 「……葉山?ああ紫陽花見にいく話か」

 

 「うん。ちょうどその日、リハもクイズ番組の収録もないし、授業も午前で終わるから!」

 

 づっきーも手を挙げる。

 

 「私はもちろんOK!予定空けてあるよ!」

 

 「いいのか?そんな貴重なオフに」

 

 俺が少し戸惑うと、のどかは笑って答えた。

 

 「だって、蓮真と一緒にいるの楽しいし。別に大丈夫だよ」

 

 すかさずづっきーが言う。

 

 「きっしーと一緒にいるの、私も好きだし!」

 

 「……そ、そうか。ありがとな」

 

 俺は頭をかいた。

 

 その後ろで、麻衣先輩と咲太がそっと視線を交わした。

 

 (……この子、ほんとにわかってるのかしら)

 

 (……いや、こいつ、絶対わかってねぇだろ)

 

 麻衣先輩は小さくため息をつき、咲太は苦笑いを浮かべる。

 

 「……岸和田、幸せ者だな」

 

 「え?」

 

 「なんでもねえよ」

 

 咲太は肩をすくめて呟く。

 

 「鈍感系男子って、実在したんだな……」

 

 「なにか言ったか?」

 

 「いや、こっちの話」

 

 そんなやり取りの間にも、のどかとづっきーの笑い声が前方で弾んでいた。

 

 街の灯りがぽつりぽつりと点き始め、アスファルトの匂いを含んだ風が通り抜ける。

 

 (……なんだか賑やかな帰り道だな)

 

 そう思いながらも、なぜか胸の奥に残る微かなざらつきの意味を、このときの俺は、まだわかっていなかった。

 

 六月二十四日

 

 昼下がりのYCUスクエア。湿った空気が窓の外で揺れている。

 

 冷房の効いた教室の中には、資料の紙の音と、パソコンのキーボードの軽い打鍵音だけが響いていた。

 

 赤城はノートパソコンを開いたまま、議事録を整理している。

 

 その真剣な横顔に、外の白い光が反射していた。

 

 「活動のテーマは、“不登校の子どもたちへの支援”で固めていい?」

 

 「そうだな。学習支援って言っても、いきなり教えるより、まずは話を聞く場を作る方が現実的だと思う」

 

 赤城が頷き、手元のメモに書き加える。

 

 「……聞くことから始める。いいかもね」

 

 「教える側が焦っても、相手は構えるだけだしな」

 

 軽い冗談のように言ったつもりだったが、赤城は真面目に受け止めていた。

 

 「うん。そういう感覚、大事だと思う」

 

 上里は今日は不在だった。

 

 「久しぶりに佑真とデートだから」と言い残して、昼前に去っていった。

 

 そのおかげか、今日は打ち合わせも静かで、進行はスムーズだった。

 

 赤城が一度ペンを置き、俺の方を見る。

 

 「岸和田くんの方はどう?NPOの件、進展あった?」

 

 「祖母と母の知り合いに連絡した。今週中には、不登校支援をやってるNPOの担当者を紹介してもらえると思う」

 

 「ほんとに?早いね……」

 

 赤城は目を見開いて、それから小さく笑った。

 

 確かに、自分でも意外だった。

 

 かつての俺なら、もう少し“様子を見る”を選んでいたはずだ。

 

 (……たぶん、あの頃の咲太を見てきたせいだろうな)

 

 麻衣先輩やのどかや花楓ちゃん、他にも俺が知らない間にも誰かのために常に走っていた背中。

 

 ただ見守るだけでは届かないことを、俺は何度も目の当たりにした。

 

 (あいつを見てたから、俺も動けたんだと思う。浜松さんのときも、米山さんのときも、そして、のどかのときも)

 

 (“観察”で終わらせなかったのは、あの背中を覚えていたからだ)

 

 観察だけじゃ、変わらない。

 

 そう思うようになったのは、あいつのせいだ。

 

 「……現場を知らないと、何も観察できないから」

 

 その一言に、赤城の手が止まった。数秒の沈黙のあと、ふっと微笑を浮かべる。

 

 「……やっぱり変わってるね、岸和田くん」

 

 「……褒め言葉として受け取っとくよ」

 

 赤城が小さく笑い、パソコンを閉じた。

 

 その音が合図のように、教室の空気が緩む。

 

 「私の方も、看護学科の先生に話してみる」

 

  赤城は机の上の書類を揃えながら、ふと呟いた。

 

 「……二人で何か作業してると、中学のときを思い出すね」

 

 「そうか?」

 

 「うん。なんか、懐かしい感じがする」

 

 赤城は何気ない風を装っていたが、その瞳の奥には、ほんのわずかに温度の違う光が揺れていた。

 

 ——私が元いた世界では、いつも彼は、梓川くんの隣にいた。

 

 だから岸和田くんとは、少し距離ができてしまっていた。

 

 そんな彼は、静かに資料を確認し、次の段取りを整理している。

 

 その姿に、あの世界で“理想だった岸和田くん”の面影が重なる。

 

 けれど今、この世界では違う。

 

 “理想”じゃなく、“現実”として隣にいる。

 

 誰かを支えるために、同じ歩幅で動いてくれる人。

 

 その事実に、胸の奥が少しだけ温かくなった。

 

 安心という名の、微かな温もりが広がっていく。

 

 「……少しずつ、形になってきたね」

 

 赤城の声が、どこか柔らかく響いた。

 

 その言葉に、俺も無意識に頷いていた。

 

 梅雨の曇天の下。俺たちのボランティア団体は、静かに確かな一歩を踏み出した。

 

 六月三十日

 

 午前の講義を終えた俺は、のどかとづっきーと一緒に金沢八景駅へ向かっていた。

 

 今日は、三人で葉山と鎌倉に紫陽花を見に行く予定だ。

 

 初夏の風が湿り気を帯びている。

 

 「逗子・葉山行き、これで合ってる?」

 

 ホームで電光掲示板を見上げたづっきーが、首をかしげる。

 

 「……っておい、それは三崎口行きだ」

 

 俺はとっさに腕を伸ばして止めた。

 

 「えっ!?あぶなっ!」

 

 づっきーは慌てて足を引っ込め、のどかが笑いながら肩を叩く。

 

 「卯月、どこ行く気だったの?三浦まで行ったら紫陽花どころじゃないよ」

 

 「だって“海沿い”って言ってたから、てっきり!」

 

 「まぁ三浦もいいけどな。あのあたり、一度プチ一人旅で行ってみたいと思ってる」

 

 「蓮真、一人旅好きだよね〜」

 

 のどかが呆れ半分、興味半分の顔で笑う。

 

 「夏休みもどっか行くの?」

 

 「そうだなぁ。合宿免許でも取りに四国でも行こうかな。去年行って良かったし」

 

 「へぇ〜、四国!」

 

 づっきーが目を丸くする。

 

 「きっしーって、なんで一人旅好きなの?」

 

 「んー……なんだろうな。自分探し的な感じ、かな」

 

 「え、じゃあさ、見つかったら旅終わっちゃうじゃん!」

 

 「……お前、そういうこと言うと身も蓋もねぇな」

 

 俺は苦笑しながら頭をかいた。

 

 のどかが、そんな二人を見て小さく笑った。

 

 「でもなんか、わかる気する。蓮真って、ひとりでもちゃんと楽しめそうだもん」

 

 「いや、今日は三人だからな」

 

 そう返すと、のどかとづっきーが同時に笑った。

 

 ホームのスピーカーから流れる発車ベルが、どこか夏の始まりを告げるように響いた。

 

 電車とバスを乗り継いで、俺たちは森戸海岸へと向かった。

 

 葉山の海沿いを抜けるバスは、潮風をまといながらゆっくりと坂を下っていく。

 

 窓の外では、初夏の光が波の粒に反射して、きらきらと瞬いていた。

 

 「海、見えてきたよ!」

 

 のどかが身を乗り出すように窓の外を指差す。づっきーも続いてスマホを構え、「きっしー、ほら見て!空まで青い!」と笑った。

 

 昼過ぎに着いた俺たちは、まず海沿いの食堂で昼ご飯をとることにした。

 

 注文したのは、それぞれ違う海鮮料理。

 

 のどかはシラス丼、づっきーは海老フライ定食、俺はアジのなめろう定食。

 

 潮の香りと味噌汁の湯気が混じる中、「んー! しあわせ〜!」とづっきーが箸を止めて伸びをした。

 

 「卯月、それ毎回言ってるよ」

 

 のどかが苦笑する。

 

 「だって本当なんだもん!」

 

 昼食を終え、せっかくだからと浜辺を目指して歩き出した。

 

 その途中、煉瓦色のした建物が目に入った。

 

 レストランや宿泊施設に加え、チャペルまで併設されたリゾートホテル。

 

 (……この場所、前にも見た気がする)

 

 思わず足が止まった。

 

 見覚えがあるはずのない光景に、胸の奥がざわつく。

 

 あの海を見渡すデッキ、風にたなびくカーテン。触れられない記憶の残滓が、潮風とともにすり抜けていく。

 

 「蓮真、どうしたの?」

 

 のどかの声で我に返る。

 

 「……いや、なんでもない」

 

 首を振って歩き出すと、海岸の白い砂浜が目の前に広がっていた。潮風が肌を撫で、波が小さく弾ける。

 

 「うわぁ……きれい!」

 

 づっきーが駆け出し、砂の上にしゃがみこんだ。

 

 「見て、これ!」

 

 彼女が拾い上げたのは、小さな貝殻。陽の光を受けて、虹色に輝いていた。

 

 「虹色だ……すごいな」

 

 俺が言うと、づっきーは満面の笑みを浮かべる。

 

 「ね!今日いいことありそう!」

 

 のどかもしゃがみこみ、波打ち際を見つめた。その表情は、どこか優しくて、どこか寂しげだった。

 

 「もうすぐ夏だし、泳ぎたいなぁ」

 

 づっきーが顔を上げて言う。

 

 「葉山で泳ぐの?」

 

 のどかが首をかしげる。

 

 「湘南はやめとけ。……ていうか、アイドルがプールとか海とか行ったら、下手したらスキャンダルになるんじゃないか?」

 

 「えっ、そうなの?」

 

 づっきーが目を丸くする。

 

 「海は無理だよ、卯月……」

 

 のどかが少し残念そうに呟いた。

 

 「でも、どっかで泳ぎたいなぁ」

 

 づっきーは貝殻を光にかざした。

 

 虹色の反射が頬を照らす。

 

 その横顔は、まるで夏の入り口を前に立つ少女そのものだった。

 

 潮騒がゆるやかに響く。遠くで波が砕け、空には入道雲の兆し。

 

 季節が、少しずつ変わっていく気配がした。

 

 その後、最初の目的地の「葉山しおさい公園」に向かった。

 

 潮の香りと土の匂いが混ざる庭園に、紫陽花が光っている。

 

 「なんか落ち着くね」

 

 のどかが深呼吸をして、目を細めた。

 

 「きっしー、池の鯉でっかい!」

 

 づっきーが指を差す。

 

 「餌あげたい!」

 

 「売ってないだろ」

 

 「じゃあ私の持ってる飴……はダメか」

 

 「やめろ」

 

 「えぇ〜」

 

 そのやり取りに、のどかがくすっと笑う。

 

 風に混ざる潮の匂いが、どこか懐かしく感じられた。

 

 次に訪れたのは「神奈川県立近代美術館」。白壁の建物に入ると、外の湿った空気が嘘のように静まる。

 

 のどかは鮮やかな抽象画の前で立ち止まり、「ライブの照明みたい」と呟いた。

 

 スポットライトの色とりどりの反射が、瞳の中に映り込んでいる。

 

 俺が別の作品を眺めていると、づっきーが小声で話しかけてきた。

 

 「きっしーって、こういうのちゃんと見るタイプだよね」

 

 「まあな。づっきーだって結構真剣だったろ」

 

 「だって……なんか置いてかれる気がして」

 

 「……?」

 

 聞き返す前に、づっきーは展示案内をひらひら振って笑ってごまかした。

 

 その仕草が、どこか不意を突かれたように心に残った。

 

 そのあと鎌倉へ戻り、江ノ電に揺られて長谷寺へ向かった。

 

 山門をくぐると、瑞々しい紫陽花が目に飛び込んできた。

 

 「わー、写真で見るよりきれい!」

 

 のどかがスマホを構える。

 

 「きっしー、こっち並んで!」

 

 言われるまま立つと、づっきーがひょいっと横から顔を出した。

 

 「三人で撮った方が梅雨感あるよ!」

 

 「梅雨感って褒め言葉か?」

 

 「褒めてる!」

 

 シャッター音と一緒に、小さな笑い声が響いた。

 

 のどかが次の予定を考えるように顔を上げる。

 

 「じゃあ次はどうする?」

 

 づっきーが少し考えて、ふと思いついたように言った。

 

 「じゃあ、海じゃなくて花火大会とか?」

 

 「花火大会?」

 

 「……そういえば、さっきポスター見たんだけど。鎌倉で来月の二十日に花火をやるらしい」

 

 ポスターの日付が、鮮やかに思い出される。

 

 「夏っぽさ満点じゃない?」

 

 のどかもすぐに笑顔になった。

 

 「花火見ながらかき氷とか食べたい!」

 

 「じゃあ決まりだな」

 

 俺がまとめると、二人の顔が同時にほころんだ。

 

 紫陽花が夕暮れの光を受けてきらめく。その一瞬が、夏の入口を静かに告げているように見えた。

 

 こうして、来月は鎌倉で花火という、少し特別な夏の約束が決まった。

 

 長谷駅に戻るころには、空が少しずつオレンジ色に染まり始めていた。

 

 江ノ電のホームには、潮風と鉄の匂いが混じる。

 

 窓の向こうを流れていく街並みが、夕焼けの色をゆっくり溶かしていく。

 

 「楽しかったね〜!」

 

 づっきーが両手を広げるように言った。

 

 「正夢になってよかった!」

 

 「……正夢?」

 

 俺が首をかしげる。

 

 「うん、ちょっと前に#夢見るってタグで“葉山・鎌倉行きたい!”って書いたの。そしたら本当に来れたから、すごくない?」

 

 「#夢見る?」

 

 「最近SNSで流行ってるんだよ。見た夢の内容とか、願い事みたいなことを書いておくタグ。現実になったらラッキーって感じのやつ!」

 

 のどかが隣で笑う。

 

 「卯月、そういうの好きだよね〜」

 

 「えへへ、だって楽しいもん!」

 

 づっきーが無邪気に笑い、スマホを振ってみせた。

 

 電車の窓に反射するその小さな画面に、確かに「#夢見る」という文字が一瞬だけ光った。

 

 「#夢見る……か」

 

 その言葉を、俺は心の中で繰り返した。

 

 日常の何気ない願いが、ほんの少しだけ現実に触れる。そんな軽い奇跡のような響きが、なぜか胸の奥に静かに残った。

 

 電車がトンネルに入る。

 

 外の景色が一瞬、闇に変わった。

 

 (……夢と現実の境目なんて、きっとその程度なのかもしれない)

 

 小さな違和感だけを残して、今日一日の光が、ゆっくりと遠ざかっていった。

 




登場人物紹介

名前 上里沙希『かみさとさき』
身長 160cm
誕生日 2月17日(※オリジナル設定)

国見佑真の彼女で、高校時代は、クラスの女子グループの中心に立つ存在で、ふたつ上の姉は、かつて峰ヶ原高校の生徒会長を務めた才女であり、沙希自身もその背中を追うように学業に励む日々を送っていました。

しかし同時に、「病院送り事件」をはじめとする咲太にまつわる噂を信じ、彼に強い警戒心を抱いていた一人でもあります。特に、彼氏である佑真の評判が下がることを恐れ、佑真の側に咲太が近づくことすら快く思っていませんでした。

蓮真とは、出席番号が一つ違いで、二年次には彼の前の席に座っていました。当初は咲太と同じく「得体の知れない存在」として距離を置いていたものの、三年次に別クラスとなって以降、自然と関わりが減っていきます。

大学入学後、ボランティア団体を立ち上げる郁実を通して再会した際には、蓮真が誰かのために動こうとする姿に触れ、かつての警戒心を静かに解いていきます。

また看護師を志しているのは、消防士として現場に立つ国見を支えたいという思いから。努力家で現実的な性格の中に、確かな優しさと責任感を併せ持つキャラクターと言えます。

この物語において、上里沙希は「現実に立つ者」の象徴であり、理想と現実の狭間で揺れる郁実と蓮真に“確かな地に足をつけること”を教える存在といえます。

蓮真は最終的にどちらを選ぶと思いますか?

  • 豊浜のどか
  • 広川卯月
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