青春ブタ野郎はパラレルスプリングの夢を見ない   作:もドえラん

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6.夏の匂いと鼓動を、観察者は綴る

 

 七月一日

 

 午後の湿った風が、キャンパスの銀杏並木を重たく揺らしていた。

 

 シーガルセンターの会議室。テーブルに、紙コップのアイスコーヒーが三つ並んでいる。

 

 向かいに座っているのは、母さんと祖母の知り合いだというNPO職員の男性。

 

 落ち着いた紺のジャケットに、使い込まれた手帳。口調も穏やかだけど、話の運び方は無駄がない。

 

 「不登校の子どもたちへの“学習と居場所”の支援、いい視点ですね」

 

 低い声でそう言って、俺たちの資料に目を通していた。赤城が身を乗り出す。

 

 「初動は、どんな形が現実的でしょうか」

 

 「来週の土曜、地域の学習会に顔を出してみましょう。中学生が数人ほど。まずは教えるより、一緒にいることから始めてください」

 

 一緒にいる。その言葉に、少しだけ胸の奥が反応した。

 

 俺はうなずきながら、メモに日付を書き込む。

 

 「七月九日ですね。参加します」

 

 「俺も行きます」

 

 隣の上里がそう言いかけて、ほんの一瞬だけ言葉を止めた。

 

 「午後、金沢八景駅近くの公民館で。私と、現場の学生ボランティア一名が同行します。三人で大丈夫ですか?」

 

 「三人で伺います」

 

 赤城が即答し、ノートに“七月八日初訪問”と走り書きした。

 

 打ち合わせは淡々と進み、最後に佐川さんが穏やかな笑みを浮かべる。

 

 「良いことをしようとしなくて大丈夫です。ただ、目の前の子と同じ温度でいてください」

 

 そう言い残して、会議室を後にした。

 

 静かになった空間で、赤城が小さく息を吐く。

 

 「……よし、初動は決まったね」

 

 「だな」

 

 俺がうなずいたそのとき、上里が小さく手を挙げた。

 

 「……ごめん」

 

 赤城が顔を上げる。

 

 「え?」

 

 「活動って、毎週金曜に固定だと思ってて……。来週の土曜、千春と明日香と遊ぶ約束、入れちゃってた。完全に私のミス」

 

 珍しく、声が少し小さかった。いつもの鋭さが影を潜めている。

 

 赤城は少しだけ首を傾げてから、静かに笑った。

 

 「固定化してたのは、たぶん私たちのほうだよ。現場が土日中心なのは今日わかったことだし」

 

 「でも、初回で穴を空けるのは……ほんとにごめん」

 

 「沙希は、無理のない範囲で時々入ってくれれば、それで十分だよ。看護の視点で“安心の場”を見てくれるだけでも、すごく助かるから」

 

 「……それでいいの?」

 

 「うん。現場は継続が大事だけど、無理に詰め込んでも続かないし。沙希のタイミングで来てくれたらいい」

 

 その言葉に、上里の肩がほんの少しだけ緩んだ。

 

 「……ありがとう郁実。じゃあ次から、そうさせてもらう」

 

 赤城は穏やかに頷き、ファイルを閉じる。

 

 「うん。チームは、全員が毎回いなくても動けるほうが強いから」

 

 空気が、ようやく和らいだ。

 

 (……こういうところが、赤城のすごいところなんだよな)

 

 俺は心の中でそう呟きながら、タブレットに次回の予定を打ち込んだ。

 

 > 次回予定:七月九日 金沢八景公民館にて不登校児童と初対面

 

 > 参加:岸和田蓮真・赤城郁実

 

 > 目的:雰囲気確認、対話のきっかけ探し

 

 指先で打鍵するたび、思考が静かに整っていく。

 

 (……こうして、形になっていくんだな)

 

 画面を閉じると、廊下の外で風がひときわ強く吹いた。

 

 湿った空気に、夏の匂いが少しだけ混じる。

 

 七月の始まり。俺たちの小さなチームは、ようやく現場に歩き出す準備を整えた。

 

 会議室を出ると、外の湿気が一気に肌にまとわりついた。

 

 夕方の空は薄く曇っていて、白く霞んで見える。

 

 夏が本気を出す前の、少しだけ憂鬱な空気。

 

 「じゃあ、また来週」

 

 赤城と上里がそれぞれ反対方向の駅へ歩いていく。

 

 俺はひとり、ゆっくりと坂道を下り始めた。

 

 スマホを取り出すと、画面の上に小さく「七月一日」の日付が浮かんでいる。

 

 ふと、記憶の奥で何かが引っかかった。

 

 (……あれ、今日って)

 

 数秒考えて、思い出す。

 

 そうだ。今日、浜松さんの誕生日だ。

 

 何かしてあげるにはもう遅いけど、せめてメッセージくらいは。

 

 俺はポケットの中で、指先を動かした。

 

 《誕生日おめでとう。いい一年になりますように》

 

 送信。それだけの短い言葉。

 

 数分後、すぐに既読がついた。そして返信が来る。

 

 《覚えててくれたんだ。ありがとう。なんかすごく嬉しい》

 

 画面の向こうで、少し笑っている顔が目に浮かぶようだった。

 

 試合中の真剣な横顔よりも、大津と一緒にいる時の柔らかい笑み。

 

 けれど、俺の中ではそれを“特別な意味”としては受け取れなかった。

 

 風が吹き抜け、並木の葉がさざめく。

 

 スマホの画面に残るメッセージの光が、少しだけ温かく感じた。

 

 七月の始まり。誰かの誕生日のたびに、世界が少しずつつながっていく気がした。

 

 七月六日

 

 夜の駅前は、梅雨明け前の湿気をたっぷり含んだ風が吹いていた。

 

 街灯の光が水たまりに滲み、アスファルトの輪郭をぼやかしている。

 

 湘南個別指導塾でバイトを始めて、ちょうど一か月。板書の癖も、生徒のテンポも、ようやく掴めてきた。

 

 今日も最後の授業を終えて、ホワイトボードを拭いていたとき。手前の教室から足音が近づいてきた。

 

 「こんばんは、岸和田先生」

 

 顔を上げると、黒髪のショートボブが揺れた。涼しげな目元に、控えめな口調。咲太のクラスに通う高校一年生吉和さんだ。

 

 「ああ、吉和さん。今日も梓川先生の授業?」

 

 「はい。英語の長文でした」

 

 彼女はノートを胸に抱きながら、淡々と答える。声は静かだが、言葉の奥に芯の強さがある。

 

 「梓川先生、教えるの上手い?」

 

 「……意外と、わかりやすいです」

 

 「意外と、か」

 

 思わず笑うと、吉和さんは少しだけ目を細めた。

 

 「“関係代名詞は麻衣さんと僕と同じで、僕がタイミングを間違えると浮気と思われる”って言ってて」

 

 「……おい、それ授業で言ったのか」

 

 「言ってました。しかも、“thatは軽く見える麻衣さんの妹で、whichはちゃんと話を聞いてくれる麻衣さん”とか」

 

 「……あいつ、マジでブレねぇな」

 

 吉和さんは表情を変えずに小さくうなずいた。

 

 「でも、不思議と覚えやすいです」

 

 淡々とした声のまま言うからこそ、逆におかしくて、俺は思わず笑ってしまった。

 

 (……とはいえ麻衣先輩と付き合ってるだけあって、妙に説得力あるんだよな、そういうの)

 

 咲太の言葉は、冗談みたいでいて、どこか現実味がある。

 

 麻衣先輩との関係と、英語の文法を同列に語るあたりが、あいつらしい。

 

 「岸和田先生は、今から帰りですか?」

 

 「ああ。ちょうど今終わったところ」

 

 「……じゃあ、よかった」

 

 その一言に、わずかな間があった。

 

 「え?」

 

 「実は、七月十日に鵠沼海岸でビーチバレーの大会があって。私、出場するんです」

 

 「吉和さんが?」

 

 「はい。夏の大会は毎年あって、今年は高校に上がって初めての公式戦で」

 

 静かな声の中に、ほんの少しだけ熱がこもる。普段は落ち着いた彼女が、言葉の端でかすかに弾んでいた。

 

 「よかったら、見に来てください。岸和田先生、日曜はお休みですか?」

 

 「まあ、一応な」

 

 「そうですか。なら是非。試合は午前十時からで……場所、送っておきますね」

 

 そう言ってスマホを取り出し、あっという間にマップのリンクを共有してくる。

 

 行動が早い。意外な一面だった。

 

 「……わかった。予定が合えば行くよ」

 

 「ありがとうございます。じゃあ、よろしくお願いします」

 

 表情は変わらないが、その一言には確かな自信があった。

 

 軽く頭を下げて、静かに廊下を歩いていく。

 

 その背中を見送りながら、俺は思わず息を漏らした。

 

 (……クールに見えて、意外と押しが強いな)

 

 静かな教室に残る、微かな砂の匂い。

 

 海からの風が、どこか遠い夏の気配を運んでくるようだった。

 

 鞄を肩にかけ、エレベーターの前でボタンを押す。

 

 階数表示のランプがゆっくり上がってくるのを眺めていると、背後から聞き慣れた声がした。

 

 「何僕の教え子と話してたんだ、岸和田?」

 

 振り返ると、ペットボトル片手に咲太が立っていた。

 

 いつもの無表情のまま、口元だけが少し緩んでいる。

 

 「吉和さんのことか?授業の話をしてただけだよ」

 

 「へぇ。浮気か?」

 

 「おいおい、咲太じゃないんだから……。ていうか俺、彼女いねぇぞ?」

 

 咲太は肩をすくめる。

 

 「……お前、豊浜とかづっきーとか、どう思ってるんだ?」

 

 「……何をだよ」

 

 「いや、別に」

 

 (……そういうとこだよなあ、こいつ)

 

 俺が軽く息をつくと、咲太は肩をすくめて言った。

 

 「僕は麻衣さん一筋だぞ」

 

 「そりゃどうも。理想的な回答だ」

 

 「だろ?」

 

 得意げに言いながら、咲太はペットボトルをもう一口。その表情には、ほんのりとした照れと誇りが混ざっていた。

 

 (……まあ、あの二人らしいけどな)

 

 エレベーターのドアが静かに開く。

 

 咲太と並んで中に乗り込む。

 

 蛍光灯の白い光が、無機質な壁に反射していた。

 

 階数ボタンを押して、ドアが閉まる音が響く。

 

 「……麻衣先輩のことになると、ほんと真っすぐだよな」

 

 咲太はペットボトルを軽く振って、口角を上げた。

 

 「介添え人の“蓮真くん”にそう言われると、なんか照れるな」

 

 「……悪意を感じるな」

 

 「まあ、そう思っとけ」

 

 そのやり取りのあと、エレベーターの中に短い沈黙が落ちた。

 

 蛍光灯の反射越しに、咲太の横顔が映る。

 

 (……あいつ、ほんと真っすぐだよな)

 

 それをからかうつもりはない。けど、羨ましいと思う瞬間は確かにある。

 

 けれど、それを口にするほど器用でもない。

 

 沈黙のまま階数表示の数字がひとつ減っていく。チン、と軽い音が鳴り、ドアがゆっくり開いた。

 

 外の空気は、少しだけ冷たかった。

 

 駅のペデストリアンデッキに出ると、湿った夜風が頬をなでた。

 

 梅雨明け前の空気は重いのに、不思議と心は軽かった。

 

 塾の仕事を終えて、スマホを開く。大津と浜松さんとの三人トークだ。

 

 《今日、塾で二人のチームの後輩に会ったよ。七月十日のビーチバレー大会に出るって言ってた》

 

 送信すると、すぐに既読がつく。

 

 《後輩って誰?岸和田》

 

 《吉和樹里さんって子だよ》

 

 《ああ樹里ちゃんか。岸和田、知り合いだったんだね》

 

 (そういえば、大津と浜松さんの後輩であることは知っていたけど、塾で吉和さんと会っていることまでは、二人には話していなかったな……)

 

 《樹里ちゃん、岸和田くんと同じ塾行ってるんだ?》

 

 《すごい偶然だよね。樹里ちゃん、小柄だけどレシーブうまいんだよ。いつも砂まみれで練習してる》

 

 《本人はクールに見えるけど、けっこう負けず嫌いだよ》

 

  《なるほどな……言われてみれば、そんな感じだったかも》

 

 《ちょっと夏帆に似てるよね》

 

 《そうかな?それで岸和田くんも試合見に行くの?》

 

 《ああ、折角だし見に行くよ》

 

 《私たちも行くよ!久しぶりに応援行こって話してたからさ》

 

 《じゃあ現地で。熱中症には気をつけろよ》

 

 《はーい先生!》

 

 《岸和田くんも日焼け止めちゃんと塗ってね!》

 

 スマホの画面に浮かぶスタンプの波。

 

 明るいやりとりの奥で、胸の奥がほんの少し温かくなる。

 

 (……偶然って、案外こういう形で繋がるんだな)

 

 風とともに、アスファルトの香りがかすかに混じる。

 

 週末は、砂の上でまた“観察”することになりそうだ。

 

 七月八日

 

 午後の中庭は、木漏れ日がちらちらと芝生の上で揺れていた。

 

 打ち合わせを終えた俺と赤城は、日陰のベンチに腰を下ろして一息ついていた。

 

 「……明日が初現場だね」 

 

 「緊張してるのか?」

 

 「ちょっとだけ。けど、こういう“最初の一歩”って、いい緊張感だね」

 

 「まあな。準備もほぼ終わったし、あとは行くだけだ」

 

 赤城が小さくうなずいたその時、背後から明るい声が響いた。

 

 「あれ?蓮真!」

 

 振り向くと、のどかが手を振りながらこちらに歩いてきた。

 

 白いブラウスにデニムスカート。大学帰りの軽装でも、やっぱりどこか舞台映えする。

 

 「のどか。今日、授業あったのか?」

 

 「うん。午前中だけ!さっきまでお姉ちゃんとお昼してたの」

 

 「麻衣先輩と?」

 

 「そうそう!相変わらず忙しそうだったけどね。でも“蓮真くん、元気?”って聞かれたよ」

 

 「……余計なこと言うなよ」

 

 「えへへ」

 

 のどかが笑いながらベンチの隣に腰を下ろす。

 

 その明るさに、赤城が少し驚いたように目を瞬かせた。

 

 「えっと、こんにちは。桜島せ……桜島麻衣さんの妹さん、なんですか?」

 

 「はい。妹の豊浜のどかです!」

 

 のどかが笑顔で名乗り、今度は俺の方を向いた。

 

 「蓮真、この人は?」

 

 「中学の同級生。赤城郁実って言うんだ。最近、ボランティア団体の立ち上げで再会してさ」

 

 「赤城郁実です。よろしく」

 

 「へぇ……蓮真の中学の同級生なんだ……」

 

 のどかが興味深そうに赤城を見やる。

 

 そして、ふと何かを思い出したように首をかしげた。

 

 「ってことは……じゃあ、咲太とも中学から知り合い?」

 

 一瞬、赤城のまつげがわずかに揺れた。けれど、表情を崩さずに首を振る。

 

 「え、梓川くん?ううん、知らないよ」

 

 その言葉は、ごく自然な笑顔に包まれていた。けれど俺には、その一瞬の間が、どこか現実の縫い目を感じさせた。

 

 (……知らない、か)

 

 あまりにも滑らかな否定だった。だからこそ、違和感が残った。

 

 次の瞬間、胸の奥が妙にざわついた。

 

 (……なんだ、これ)

 

 赤城、のどか、俺。この三人が並んでいる光景を、どこかで見た気がする。

 

 草の香り、夕暮れのキャンパス。

 

 光の粒が揺れる中、確かにこの二人と一緒にいたような、そんな既視感。

 

 記憶の断片はすぐに霧のように消えた。けれど、その残滓だけが胸の奥に残る。

 

 「蓮真?どうしたの?」

 

 のどかの声に我に返る。

 

 「……いや、ちょっと考え事してただけ」

 

 「そう。ならいいけど」

 

 そう言って笑うのどかの隣で、赤城も穏やかに微笑んだ。

 

 けれど俺の胸の奥では、ずっとあの既視感が静かに波を打っていた。

 

 のどかはスマホを見て、軽く立ち上がった。

 

 「そろそろ帰るね。夕方からリハあるから」

 

 「おう。頑張れよ」

 

 「うん。また連絡するね」

 

 笑顔を残して、のどかは中庭を駆けていった。

 

 白いブラウスの裾が陽に透けて、夏の光の中に溶けていく。

 

 その背中が見えなくなったころ、静寂が戻った。風が木の葉を揺らし、木漏れ日が机の上に模様を作る。

 

 俺は紙コップを持ち上げて一口飲み、少し間を置いて口を開いた。

 

 「……同じことを尋ねて悪いんだけどさ」

 

 赤城がこちらを見た。

 

 「うん?」

 

 「本当に、咲太のこと知らないのか?さっき“梓川くん”ってすぐに名前が出てきたから」

 

 一瞬だけ、赤城の目が揺れた。でもすぐに、いつもの落ち着いた表情に戻る。

 

 「……梓川くんって、あの桜島麻衣さんと付き合ってるって、大学内じゃ有名だから」

 

 その言葉に、俺は軽く息を漏らした。

 

 「……なるほど。そういうことか」

 

 言われてみれば納得だ。麻衣先輩と付き合っている咲太の知名度を考えれば、何もおかしくない。

 

 「気になった?」

 

 「まあ、ちょっとな」

 

 赤城はカップを両手で包み込みながら、静かに笑った。

 

 けれどその笑みの奥に、どこか遠い影が差しているように見えた。

 

 午後の風が止み、ひとときの沈黙が落ちる。

 

 (……やっぱり何か、隠してるよな)

 

 そう思いながらも、俺はそれ以上追及できなかった。

 

 彼女の言葉が、まるで境界線のように感じられたからだ。

 

 赤城が立ち上がる。

 

 「そろそろ行こっか。資料まとめて、ボランティア支援室に出さなきゃ」

 

 「……ああ、そうだな」

 

 俺も立ち上がり、ベンチの影を抜ける。

 

 午後の陽射しは少し傾き始めていて、ガラス越しの建物がやわらかく光っていた。

 

 その光の中で、赤城の横顔がどこか遠くを見つめていた。

 

 まるで、誰かを思い出しているように。

 

 七月九日

 

 昼過ぎの金沢八景は、梅雨明け前の光が強く、雲の切れ間から夏の匂いが差し込んでいた。

 

 駅から坂を下りた先、ガラス張りの新しい公民館が見えてくる。

 

 入口の前には、NPO職員の男性と、現場スタッフの大学生ボランティアがすでに待っていた。

 

 「今日はよろしくお願いします」

 

 赤城が先に頭を下げ、俺もそれに続く。

 

 「こちらこそ。まずは顔合わせから行きましょう」

 

 公民館の多目的室に入ると、柔らかい木の匂いと、冷房の涼しさが迎えてくれた。

 

 テーブルにはノートや色鉛筆、ワークシートが並べられている。

 

 その向こうに、中学生くらいの子どもたちが三人。男子が二人と、女子が一人。緊張した面持ちで、俺たちの様子をうかがっていた。

 

 「こんにちは。今日から見学させてもらいます」

 

 赤城が柔らかく挨拶をし、俺も続いて頭を下げる。

 

 最初は距離を感じていた子たちも、赤城が冗談めかして話しかけるうちに少しずつ笑顔を見せ始めた。

 

 「学校の課題、進んでる?」

 

 「うーん、理科がムズい」

 

 「じゃあ、私、理科得意だから。どんなとこが苦手?」

 

 赤城の声は明るいけれど、押しつけがましくない。

 

 その距離感が絶妙で、俺も隣でプリントを整理しながら、自然に子どもたちと会話を重ねていった。

 

 気づけば、一時間があっという間に過ぎていた。

 

 最後には、さっきまで俯いていた女子の子が、小さな声で「また来てくれますか?」と聞いてきた。

 

 「もちろん。また一緒にやろう」

 

 赤城がそう答えると、三人ともほっとしたように笑った。小さな空間の中に、確かに温かい空気が生まれていた。

 

 初日としては、十分すぎる手ごたえだった。

 

 片付けを終え、公民館を出ると、海のほうから湿った風が吹いてきた。

 

 「……無事終わったな」

 

 「うん。最初は緊張したけど、いい子たちだったね」

 

 「赤城、教えるの上手いな。言葉の選び方がうまいというか」

 

 「ただ話すより、聴くほうが好きなのかも」

 

 赤城がそう言って笑った、そのときだった。

 

 小さな泣き声が聞こえた。

 

 見ると、女の子が目を真っ赤にして立ち尽くしている。

 

 赤城は迷わず駆け寄り、しゃがみこんだ。

 

 「どうしたの?お母さんとはぐれちゃった?」

 

 女の子は涙をこらえながら、こくんとうなずく。

 

 赤城は目線を合わせて、ハンカチで頬を軽く拭ってやった。

 

 「大丈夫。ゆっくり教えてくれる?」

 

 声は驚くほど優しかった。その柔らかさに、子どもの表情が少しずつ落ち着いていくのがわかった。

 

 通りかかった女性が警察に連絡し、ほどなく母親が駆けつける。

 

 女の子は「ありがとう」と小さな声で言って、母親の腕の中に飛び込んだ。

 

 その様子を見届けたあと、赤城はほっと息をついた。

 

 「よかった……。迷子、怖いよね」

 

 「……ほんと、すぐ動けるよなお前」

 

 「ん?」

 

 「正義感っていうか、そういうの、自然に出るのすごいと思う」

 

 赤城は少し照れたように笑って、髪を耳にかけた。

 

 夕暮れの風が二人の間を通り抜ける。

 

 日が沈む直前の空は、群青と茜が混ざった色をしていた。

 

 歩き出す足取りは軽かった。今日、ようやく“はじまり”の実感があった。

 

 俺たちの小さなチームは、確かに動き出している。

 

 七月十日

 

 昼前の鵠沼海岸は、夏の匂いが濃かった。

 

 白い砂に陽射しが反射し、波の音が絶え間なく響く。

 

 海沿いのコートでは、ビーチバレーのボールが乾いた音を立てて跳ねていた。

 

 「こっちこっち!」

 

 大津が日除け帽を押さえながら手を振る。

 

 その隣で浜松さんもペットボトルを振って笑った。

 

 「思ったより人多いね」

 

 「うん。今日は樹里ちゃん以外にも、うちの後輩も多いよ」

 

 浜松さんがそう言いながら、コートの方を指さす。

 

 視線の先に、砂を蹴ってレシーブを上げる吉和さんの姿があった。

 

 小柄な体が光を弾くたび、砂が舞い上がる。

 

 塾で見ていたときの落ち着いた印象とは違い、今の彼女は躍動そのものだった。

 

 ボールを追う表情は真剣で、声を出すたびにチームの空気が引き締まる。

 

 「やっぱ、樹里ちゃん頑張ってるね」

 

 「うん。樹里ちゃん普段はクールだけど、練習では一番声出してるんだよ」

 

 浜松さんが誇らしげに言う。

 

 「そういえば、岸和田くんも塾で会ってるって言ってたよね」

 

 「ああ。偶然だけど、あの子、今は咲太のクラスの担当なんだ」

 

 「えっ、梓川も塾のバイトしてるの?」

 

 大津が驚いたように目を丸くする。

 

 「相変わらず変なこと言ってない?」

 

 「“関係代名詞は僕と麻衣さんの関係みたいなもんだ”とか言ってたらしい」

 

 「……うわ、想像つくわ」

 

 大津が苦笑し、浜松さんが首を傾げる。

 

 「梓川くんって、そんな人なの?」

 

 「まあ、教え方は変だけど、結果的に印象に残るタイプなんじゃないか」

 

 「なるほどね。印象派の先生って感じなんだ」

 

 浜松さんは納得したように頷く。

 

 俺はつい笑ってしまう。

 

 (……まあ、あいつらしいっちゃらしい)

 

 やがて、試合が終わった。

 

 潮風の中、コートに集まる選手たちの笑い声。

 

 その中から、吉和さんがこちらに気づいて小さく手を振った。

 

 「岸和田先生……来てくれてたんですね」

 

 砂まみれの髪を整えながら、近づいてくる。

 

 その後ろで大津が笑顔を浮かべた。

 

 「樹里ちゃん、ナイスプレーだったよ。ほんと成長したね」

 

 「ありがとうございます。大津先輩の声、聞こえました」

 

 「そうなの?風で届かないかと思ったのに」

 

 「ちゃんと届いてました」

 

 浜松さんも優しく笑う。

 

 「動きがすごく安定してた。レシーブも、ラインぎりぎりで拾ってたね」

 

 「ありがとうございます……練習のときから、浜松先輩の動きを見てて。目標にしてるんです」

 

 その言葉に、浜松さんがわずかに目を見開いた。

 

 「……私を?」

 

 「はい。落ち着いてて、どんな時も焦らないところ、すごいなって」

 

 照れたように笑う吉和さんの横顔は、海風に吹かれて少し赤くなっていた。

 

 「吉和さん、試合中の声、すごく通ってた。堂々としてたよ」

 

 「ありがとうございます。……岸和田先生も、来てくれて嬉しかったです」

 

 その一言に、胸の奥がほんの少しだけ温かくなる。

 

 「じゃあ、また塾で」

 

 「はい。次の梓川先生の授業も、頑張ります」

 

 短い会話を交わして、彼女はチームメイトのもとへ戻っていった。

 

 その背中を見送りながら、浜松さんが微笑む。

 

 「……樹里ちゃん、努力家だよ。本番で一番落ち着いてる」

 

 「確かに。人をよく見てる。だから、浜松さんみたいになりたいんだと思う」

 

 俺が言うと、浜松さんは少し照れたように肩をすくめた。

 

 「そういうの……嬉しいね」

 

 波音と笑い声が混ざり合う。

 

 空には入道雲の気配。

 

 潮風が頬を撫で、熱を少しだけ冷ましていった。

 

 吉和さんと別れた後、俺たちは三人で海沿いのベンチに移動した。

 

 風が潮の匂いを運び、髪を揺らす。

 

 大津が水を飲みながら言う。

 

 「岸和田、私たち最近ロードバイク始めたんだ」

 

 「へぇ、ビーチバレー以外にも?」

 

 「そうそう。トレーニングも兼ねてだけど、ただ走るのが気持ちいいの」

 

 浜松さんが笑って頷く。

 

 「朝早く三浦の海沿いを走るとね、景色がほんとにきれいで」

 

 俺はその言葉に少し惹かれた。

 

 風を感じながら知らない道を走る光景が、ふと頭に浮かぶ。

 

 「……それ、いいな。俺もやってみようかな」

 

 「お、珍しい。岸和田が運動系に興味持つなんて」

 

 大津が目を丸くする。

 

 「運動っていうより、旅に近い感じがするんだよ。行ったことのない景色を、自分の足で見に行くっていうか」

 

 「うんうん、それそれ!」

 

 浜松さんが笑う。

 

 「走ってると、観光ってより“旅してる”感じになるんだよね」

 

 「今度一緒に行こっか。初心者コースで」

 

 「いや、体力がもつかどうか……」

 

 「大丈夫、私たちペース合わせるから!」

 

 大津が笑いながら肩を叩いた。

 

 波音と笑い声が混ざり合う。

 

 (……いいな、そういう夏も)

 

 観察者としてじゃなく、ただ一人の人間として。

 

 その瞬間の眩しさを、素直にきれいだと思った。

 

 七月十三日

 

 期末レポートの仮稿をまとめ、学内のカフェで一息ついていた。提出まではまだ推敲が必要だが、とりあえず形になったことにほっとする。

 

 紙コップを手に取りながら、ふと大学に入ってからの自分の生活を思い返す。

 

 のどかやづっきー、咲太に麻衣先輩とは学部が違うため、前期は授業が一緒になることはほとんどなかった。

 

 学部内で気軽に話せる相手は一人二人はできたし、赤城のボランティアを手伝っているとはいえ、ファミレスのバイトでは古賀と花楓ちゃん、塾のバイトでは双葉と咲太と一緒なこともあり、高校時代の延長の人間関係を続けていた。

 

 所謂キャンパスライフからは少しズレた生活。だが、それも一人が好きな自分らしい、と納得してしまう。

 

 そんなことを考えていたときだった。

 

 「よ、岸和田。ここ、隣いいか?」

 

 顔を上げると、トレーを持った福山が立っていた。

 

 「福山か。今日は咲太と一緒じゃないんだな?」

 

 「梓川?あいつ、今日は桜島麻衣とデートだってよ」

 

 「……まあ、それなら納得だな」

 

 言いながら苦笑する。

 

 福山とは咲太経由で顔を合わせることはあるが、こうして二人で話すのは意外と初めてだった。

 

 「そういえばさ、岸和田って桜島麻衣とも仲良いの?」

 

 「仲良いっていうより……お世話になってる先輩って感じかな。あと、麻衣先輩の妹と一緒にいることが多いからな」

 

 「妹?それって豊浜さんのことだよな?」

 

 「ああ、そうだけど……ていうか、なんでのどかが麻衣先輩の妹って知ってるんだ?」

 

 「そりゃ梓川から前に聞いたし。ていうか下の名前で呼んでるのかよ。付き合ってんのか?」

 

 「……いや、そういうわけじゃないけど」

 

 「ふーん……でも岸和田いいよなぁ。豊浜さんもそうだけど、広川さんともよく一緒にいるし」

 

 「……なんか、噂にでもなってるのか?」

 

 「まあな。三人でいるとこはよく見かけるし、俺の学部の男子は、梓川と同じくらい岸和田を羨ましがってるよ」

 

 「……そうなんだな」

 

 「なあ、岸和田。豊浜さんか広川さん、どっちか紹介してくれよ」

 

 「……やめとけ」

 

思わず即答していた。

 

 自覚はないつもりでも、胸の奥に微かなざらつきが残る。

 

 「のどかは刺々しいとこがあるし、づっきーは天真爛漫すぎる。振り回されるぞ」

 

 「へぇ……岸和田、二人のことよくわかってるんだなぁ」

 

 「……余計なお世話だよ」

 

 軽くため息をつくと、福山はニヤニヤしながらストローを回した。

 

 「じゃあさ、同じ学部の美東さん紹介してよ」

 

 「美東さん?あああの子か」

 

 「そうそう。かわいいって評判だし」

 

 「……悪いけど、俺もほとんど話したことないんだ。たぶん紹介しても意味ないと思う」

 

 「マジかー。てっきり話したことあると思ってた」

 

 「いや、全然」

 

 福山は苦笑して、カップのストローを弄びながら言った。

 

 「でもさ、美東さんって、どっかミステリアスだよな」

 

 「そうかもな」

 

 俺は曖昧に相づちを打ちながら、もう一度その名前を頭の中で反芻する。

 

 美東。どこかで、聞いたような気がする。

 

 はっきりとした記憶じゃない。けれど、心のどこかに引っかかる感覚だけが残った。

 

 (……どこで、聞いたんだっけ)

 

 思い出そうとすると、なぜか風が木の葉を揺らす音が頭の奥に響いた気がした。

 

 小さな葉音。

 

 その向こうで、誰かが二人笑っていたようなそんな、記憶の残響。

 

 「岸和田?」

 

 「あ、悪い。ちょっと考えごと」

 

 「レポート疲れだろ。真面目だな岸和田は」

 

 福山が冗談めかして笑う。

 

 俺も苦笑いを返しながら、冷めたコーヒーを一口飲んだ。

 

 視線を落としたカップの底に、光がわずかに反射していた。

 

 その一瞬だけ、名前の意味を思い出しそうになって、けれどすぐに“霧”のように消えた。 

 

 七月十六日

 

 昼下がりのYCUスクエアのスチューデントオフィス。

 

 冷房の効いた会議室には、三人分のアイスコーヒーが並んでいた。

 

 「……じゃあ、夏休み中の活動スケジュールについて、ざっくり決めようか」

 

 赤城がファイルを開きながら言う。

 

 隣で上里が髪をかき上げ、少し背伸びをした。

 

 「ボランティアって、夏休み期間って活動多いの?」

 

 「うん。学校が休みだから、子どもたちも集まりやすいみたい」

 

 赤城がメモを見ながら答える。

 

 「一応、週一ペースで現場を回す予定。参加できる日は無理なく教えてね」

 

 「俺は、予定が入らなければ極力出るよ」

 

 「助かる。ありがとう岸和田くん」

 

 赤城が微笑む。

 

 上里もペンを回しながら、「私も、友だちとか佑真との予定と重ならなければ行く」と言った。

 

 「じゃあ夏休み中は、ただ教えるだけじゃなくて、交流のイベントとかも考えてみようか」

 

 「イベント?」

 

 「例えば、海岸清掃とか。林間学校っぽいレクリエーションも面白いと思う」

 

 赤城の提案に、俺は思わず頷いた。

 

 「それ、いいかもな。体を動かすと自然と会話も増えるし」

 

 「でしょ?沙希はどう思う?」

 

 「うん……いいと思う。自然の中で過ごすのって、勉強より心に残るし」

 

 「じゃあ、現場の担当にも相談してみようか」

 

 話が一段落ついたころ、赤城が何気なく口にした。

 

 「そういえば、明日って沙希暇?」

 

 「ううん。ちょっと出かけるんだ」

 

 上里が軽く笑った。

 

 「国見とデートか」

 

 俺が茶化すように言うと、上里はむっとした顔でペンを構えた。

 

 「茶化さないで。ちゃんとデートなんて久しぶりなんだから」

 

 「へぇ〜、どこ行くの沙希?」

 

 「みなとみらい。水族館と夜景……って、なんで私が答えなきゃいけないの」

 

 「いや、別に」

 

 俺は苦笑しながらアイスコーヒーを口にした。

 

 その軽いやり取りの間にも、窓の外では夏の陽射しが揺れていた。

 

 (……夏が来るんだな)

 

 レポートに追われた前期がようやく終わり、

これから始まる長い休みに、少しだけ胸が軽くなる。

 

 そして、この小さなチームでの活動も、少しずつ形になっていくのだと実感していた。

 

 七月十九日

 

 その日、咲太は「はぁ……」と露骨にため息を吐いた。

 

 機浜市立大学の本校舎。昼休みの空き教室、窓の外にはじりじり照りつける真夏の太陽。五日連続の猛暑日だが、ため息の理由は暑さではない。

 

 「ため息なんて吐いて、なによ?」

 

 スマホを操作していた麻衣が顔も上げずに言う。

 

 「もうすぐ夏休みだなぁと思って」

 

 「だから?」

 

 「海とか、プールとか、行きたいなぁって」

 

 普通の学生なら当たり前のデートも、桜島麻衣には無理だ。国民的女優が海やプールに現れれば、大騒ぎになる。咲太もそれは分かっていたが、せめて愚痴るくらいは許されると思っていた。

 

 「じゃあ、ちょうどいいわ」

 

 麻衣はいたずらっぽく笑い、スマホの画面を差し出す。そこには芝生の庭にプールが付いた貸別荘の写真。

 

 「夏休みに泊まりに行きましょう」

 

 一瞬「ひゃっほー」と叫びそうになるが、咲太は堪えた。どうせ水着にならないだろう、と。

 

 「日焼けするって言うんでしょ」

 

 「ええ。次の映画、雪国の話だし」

 

 「ほら。」

 

 そう言いながらも、麻衣はさらりと付け加える。

 

 「でも、水着は買ったわよ」

 

 その一言で、咲太の答えは決まった。

 

 チャイムが鳴り、麻衣先輩は弁当箱を片付けながら笑う。

 

 「じゃあ、決まりね」

 

 その頃、学食の一角で、俺とづっきーとのどかは向かい合って遅めの昼をとっていた。

 

 「この唐揚げ、思ったよりジューシーだね」

 

 「うん、学食なのに侮れない!」

 

 づっきーが無邪気に笑い、のどかも頷く。

 

 そこへ、麻衣先輩がきて、ふと足を止める。

 

 「楽しそうね、あなたたち」

 

 「あ、麻衣先輩」

 

 俺が慌てて姿勢を正すと、麻衣先輩はにこりと微笑んだ。

 

 「そうだわ。せっかくだし、蓮真くんたちも一緒にどう?」

 

 「えっ……一緒にというのは?」

 

 思わず聞き返すと、麻衣先輩はスマホを掲げ、プール付き貸別荘の写真を見せてきた。

 

 「夏休みにここへ泊まりに行くの。咲太と二人でもいいけど、人数がいた方が気楽でしょ?」

 

 「……なるほど」

 

 三月にスノボへ誘われたのを断ってしまったことが頭をよぎる。だからこそ今回は迷わずに頷いた。

 

 「ぜひ。今度はお世話になります」

 

 「やったー!行く行く!ありがとう麻衣さん!」

 

 づっきーはテーブルに身を乗り出すほどの勢いで即答した。

 

 「ありがとうお姉ちゃん!貸別荘って響きだけでもテンション上がるなぁ!」

 

 のどかも笑顔でうなずく。

 

 のどかが続ける。

 

 「この前、葉山に行ったときにね、泳ぎたいなぁって話してたから……ちょうどいいよね」

 

 「葉山?」

 

 麻衣先輩が首をかしげる。

 

 「うん、紫陽花見に三人で寄ったの」と説明するのどかの横で、づっきーが補足するように言う。

 

 「きっしーが案内してくれて、海も見えてすごく楽しかったんだ!」

 

 麻衣先輩はちらりと俺を見て、口元に薄い笑みを浮かべた。

 

 「へぇ……女の子二人と一緒に、ね」

 

 その声音には、からかい半分、探り半分の色が混じっていた。

 

 「いや……そういうわけじゃ……」

 

慌てて否定しようとする俺を見て、のどかは耳まで赤くしながら「お姉ちゃん、変な言い方しないでよ」と小さく抗議した。

 

 「ふふ、冗談よ」

 

 麻衣先輩はあっさり笑って流すと、スマホをパタンと閉じた。

 

 「じゃあ、決まりね。夏休み、楽しみにしてて」

 

 その瞬間、三人とも顔を見合わせて、自然と笑みがこぼれた。

 

 こうして、夏休みの貸別荘旅行は俺たちも加わることになった。

 

 七月二十日

 

 午後のキャンパスは、期末試験を終えた解放感に包まれていた。

 

 中庭のベンチで、俺はのどかとづっきーを待っていた。

 

 待ち合わせの十分前。人の流れはまだまばらで、セミの声だけが遠くから響いてくる。

 

 タブレットを開いて今日の予定を確認していると、背後から声がした。

 

 「岸和田くんだよね?」

 

 振り返ると、づっきーと同じ学科の女子グループが立っていた。

 

 昼休みや講義のあとに、よく彼女と話している顔ぶれだ。

 

 「卯月ちゃんたちと花火見に出かけるんでしょ?」

 

 「ああ、まあ」

 

 「へえ。岸和田くんって、豊浜さんとも仲良いんでしょ?」

 

 なんとなく、探るような口調だった。

 

 軽い会話のつもりなのはわかる。けど、同じようなことを福山にも聞かれたばかりだった。

 

 「いや、普通の友達だよ」

 

 そう答えると、彼女たちは少し意味ありげに笑って去っていった。

 

 タブレットを閉じ、深く息を吐く。

 

 (……やっぱ、噂になってるのか)

 

 思い返せば、三人で学内を歩くことも多かった。

 

 目立つ二人と一緒にいれば、目を引くのは当然だ。

 

 けれど俺は、そういう話題にあまり興味がない。

 

 昔から、人の噂よりも“その場の人の動き”のほうが気になる。

 

 誰が何を言うかより、その言葉のあとに生まれる沈黙のほうが印象に残る。

 

 多分それは、癖みたいなものだ。

 

 一人でいる時間が好きなのも、その静けさの中で世界を整理できるからだろう。

 

 ……とはいえ、面倒ごとは避けたい。

 

 (夏休み明けからは、学内で三人で集まるのは控えるか。外で会うようにしたほうが気が楽だ)

 

 そんなことを考えていると、背後から明るい声が響いた。

 

 「蓮真!」

 

 のどかが片手を振りながら駆け寄ってくる。

 

 淡いミントグリーンのノースリーブに、白いロングスカート。

 

 風に裾が揺れて、陽射しの中で涼しげに光っていた。

 

 その後ろから、づっきーが笑いながら追いつく。

 

 オレンジのショートスリーブシャツに、デニムのショートパンツ。

 

 ふたりの“素の色”が、夏の光に映えていた。

 

 「待たせた?」

 

 「いや、今来たところ」

 

 「鎌倉で浴衣借りるんだよね?」

 

 「うん、レンタル店予約した!」

 

 づっきーがスマホを掲げて得意げに言う。

 

 「よし、じゃあ行くか」

 

 風が少し強く吹いて、木漏れ日が揺れた。

 

 ふたりの笑い声が重なって、夏が一段と近づいた気がした。

 

 噂なんてどうでもいい。

 

 今のこの瞬間だけは、俺が観察するより先に“記憶したい”と思った。

 

 鎌倉の浴衣レンタル店の入り口で、のどかがくるっと回って見せた。

 

 「どう?蓮真」

 

 のどかの浴衣は、水色と黄色の組み合わせ。

 

 視覚的に明度差が大きいけど、不思議と喧嘩してない。

 

 そしてひまわり柄が、のどかの印象をそのまま映してるみたいだった。

 

 「……似合ってるな」

 

 「ふふ、やっぱりそう言うと思った」

 

 すかさずづっきーが袖をぱたぱたさせて前に出る。

 

 「私もどう?きっしー!」

 

 赤地に橙の花柄。どこから見ても目を引く。

 

 立ってるだけで、場の空気が少し明るくなる。正しくづっきーらしい。

 

 「似合ってるよ」

 

 「やったあ!で、どっちが似合ってる?」

 

 「比べるな」

 

 「えー、じゃあ三人で歩くときはくじ引きで並び順決めよっか」

 

 そんなルール聞いたことない。

 

 鶴岡八幡宮へ向かう途中、屋台の匂いにのどかが足を止める。

 

 「りんご飴と焼きトウモロコシ、どっち食べる?」

 

 「両方食べる気だろ」

 

 「え、バレた?」

 

 りんご飴を持たされた俺に、づっきーがニヤッと笑う。

 

 「じゃあ私が一口もらうね」

 

 「それのどかのだぞ。」

 

 「大丈夫、私虫歯ないから!」

 

 意味不明な安心感はいらない。

 

 由比ヶ浜の海辺。

 

 花火が咲くたび、のどかが歓声を上げて俺を見る。

 

 「やっぱ近くで見ると迫力あるね!」

 

 「だな」

 

 その横でづっきーは耳を塞ぎながら笑っていた。

 

 「音デカ!……ねぇ、きっしーも耳ふさいであげよっか?」

 

 「いや、聞こえないだろ」

 

 「そっか、じゃあ私の分だけふさいどく!」

 

 ……と思ったら、づっきーは急にポケットからスマホを取り出した。

 

 着信音じゃなく、メッセージの通知音。画面の明かりが顔を照らす。

 

 ちょっと離れた場所で、短くうなずきながらやり取りをしているのが見えた。

 

 戻ってきたづっきーに、軽く聞いてみる。

 

 「仕事の話か?」

 

 「え? あー……うん、イヤホンのCMの話が来てて、今ちょうど詳細が入ってきたんだ」

 

 「へぇ」

 

 「まだ決まりじゃないけどね」

 

 「……花火見に来てるのに、雰囲気壊しちゃったかな?」

 

 「別に。……お前らしい」

 

 づっきーは苦笑いしながら、のどかの横に戻っていった。

 

 でも、胸のどこかが少しだけ、きゅっと縮んだ気がした。

 

 もし、自分がもう少し空気を読めるタイプだったら。

 

 きっしーの考えてること、もう少しわかるのかな。

 

 笑いながらごまかすんじゃなくて、ちゃんと話せたりするのかな。

 

 そんなことを思ってしまう自分が、なんだか変で。

 

 でも、目の前の花火がきれいすぎて、誤魔化すように笑ってしまう。

 

 そう、きっしーと一緒にいる時間が、少しだけ特別に感じるだけ。

 

 そう思い込むようにして、のどかの隣に並んだ。

 

 空を見上げるふりをして、ほんの一瞬だけ卯月は横目で蓮真を見る。

 

 胸の奥のもやもやに、彼女自身はまだ名前をつけられなかった。

 

 人混みの中で袖が触れた瞬間、のどかが小声で言う。

 

 「……蓮真、手、繋いでもいい?」

 

 「花火に夢中じゃなかったのか」

 

 「どっちも大事なの」

 

 すかさずづっきーが割り込む。

 

 「じゃあ私も繋いでいい?三人で花火見るなんてレアでしょ!」

 

 「歩きにくいだろ」

 

 「じゃあ片手だけ!きっしーの左手は私ね」

 

 そう言って笑うその声の奥に、自分でも気づかない小さなざらつきが混じっていた。

 

 終盤、のどかが夜空を見上げたまま呟く。

 

 「……来年も、一緒に来ようね」

 

 「ああ」

 

 づっきーがすぐに続ける。

 

 「もちろん私も!ていうか私が計画立てるから!」

 

 「計画立てるって……大丈夫か?」

 

 「大丈夫だよ!」

 

 花火が終わり、屋台の灯りが少しずつ消えていく。

 

 鎌倉駅へ向かう人混みの中、のどかとづっきーは先を歩き、友達に送る写真を選びながら笑っていた。

 

 その笑い声が、遠くの海の音と重なって耳に残る。

 

 俺は少し離れた場所から、二人の背中を見ていた。

 

 肩を寄せ合ってスマホを覗き込むのどかと、横でいたずらっぽく笑うづっきー。

 

 夏の光の中で、二人ともいつもより少し大人びて見えた。

 

 (……まいったな)

 

 誰かの変化を観察するのは得意なはずなのに、今だけは、その違いに名前をつけられなかった。

 

 胸の奥が、ほんの少しだけざらつく。

 

 けれど、それがどんな感情なのかはわからない。

 

 ただ、この瞬間をもう少しだけ見ていたいと思った。

 

 それだけで十分だった。

 

 七月二十三日

 

 昼過ぎに大学で赤城のボランティア書類の整理を手伝い、そのまま藤沢のファミレスへ向かった。

 

 夕方のシフトは古賀と花楓ちゃん。夏休み目前のせいか、客の出入りも多い。

 

 「いらっしゃいませー!」

 

 花楓ちゃんの声が、少しずつ板についてきた。慣れないながらも、一つひとつ丁寧に動いている。

 

 そんな様子を横目に、伝票を整理していると、古賀がトレーを片手に近づいてきた。

 

 「ねぇ、きっしー先輩。夏休みって何するの?」

 

 「そうだな、麻衣先輩から貸別荘に招待されたから行くのと、合宿免許でも取りに行く予定。あとはボランティアの手伝いとかだな」

 

 「へぇ、桜島先輩から招待されたんだ」

 

 「蓮真さんも麻衣さんから招待されたんですか?」と、隣で花楓ちゃんが首を傾げる。

 

 「ああ。花楓ちゃんも?」

 

 「はい。楽しみにしてます。明日、のどかさんと一緒に水着見に行く予定なんです」

 

 「へぇ。じゃあ俺も一応、水着取り寄せとかないとな」

 

 「水着買うなら、横浜のワールドポーターズってとこがいいよ、きっしー先輩、花楓ちゃん!」

 

 「へえ、古賀詳しいな」

 

 「この間、奈々ちゃんと学校帰りに行ったんだ。奈々ちゃんが“受験勉強の息抜きに少し海行かない?”って言ってさ。そしたら先輩と会って、“ナンパには気をつけろよ”って言われたらしくて」

 

 「お兄ちゃん、また余計なこと言ってる……」

 

 「まぁでも、なんか咲太らしいな。そういえば古賀と米山さん、去年も海行ってたよな?」

 

 「うん。夏っていえば海だし」

 

 「まぁ確かにな。楽しんでこいよ」

 

 「ありがと、きっしー先輩。あ、そういえばボランティアって言ってたけど、何やってるの?」

 

 「ああ、不登校の児童の学習支援だよ。大学でボランティア団体立ち上げてるやつがいてさ。その手伝い」

 

 「へぇー、きっしー先輩えらいね」

 

 「私もそう思います、蓮真さん」

 

 「そうか? まぁ、やらないよりはやる方がいいからな」

 

 「ちょっとそういうとこ捻くれてるよね、きっしー先輩」

 

 「おいおい……」

 

 軽口を交わしながらも、フロアの空気は穏やかだった。

 

 厨房から聞こえる油の弾ける音と、外から差し込む西日のオレンジ色。

 

 夏は、気づかないうちに始まっていた。

 

 七月二十六日

 

 昼過ぎ、横浜ワールドポーターズ。

 

 貸別荘に持っていく水着を選びに来たはずが、思ったより種類が多くて迷っていた。

 

 メンズの棚の前でスマホを見ていると、背後から聞き覚えのある声がした。

 

 「……あれ、岸和田じゃん?」

 

 振り向くと、大津と浜松さんがいた。

 

 二人ともスポーティな服装で、髪の先に夏の光が差している。まさに“動いている季節”の人たちだった。

 

 「奇遇だな。二人も買い物か?」

 

 「うん、ビーチバレーの競技用水着を見に来たんだ。大会近いから」

 

 浜松さんが笑って肩のトートを軽く揺らす。

 

 「岸和田は?」

 

 「貸別荘に行く予定があってな。プールがあるらしくて、ついでに買い替えようかと思って」

 

 「へぇ、いいね」

 

 大津がラックを眺めながら言う。

 

 「そうだ、このあとスポーツサイクルのショップ行くけど、時間ある?ちょうど寄ろうと思ってて」

 

 「ロードの?」

 

 「そう。ほら、前に少し興味あるって言ってたじゃん」

 

 「見てるだけでも楽しいよ」と浜松さんが続ける。

 

 結局、三人で店を出て、スポーツサイクル専門店へ向かった。

 

 店内はオイルと金属の匂いが混ざっていて、空調の音さえ機械的に感じる。

 

 並ぶフレームの列を眺めていると、大津が指をさした。

 

 「岸和田には、Bianchiが合いそうだね」

 

 「Bianchi?」

 

 「うん。クラシックで落ち着いてるけど、どこか上品なんだよ。あのチェレステカラー、岸和田のイメージに近い」

 

 「わかる。静かだけど芯がある感じ」

 

 浜松さんも頷きながら言う。

 

 「お前ら、勝手にイメージ固めるなよ」

 

 「褒めてるんだよ」

 

 浜松さんが笑う。

 

 「で、二人はどこの乗ってるんだ?」

 

 「私はGIANT。コスパ最強、走りも軽い」

 

 大津が胸を張って言う。

 

 「私はCANNONDALE。軽くて反応がいいから好き」

 

 「でも、結局は自分のペースで走れるかどうかだよね」

 

 「……なるほどな」

 

 フレームに触れながら、ふと尋ねた。

 

 「そういえば、前に大会があるって言ってたけど、いつなんだ?」

 

 「ああ、それね。全日本ビーチバレー大学男女選手権大会。来月の四日から七日まで、川崎であるんだ」

 

 浜松さんが答える。

 

 「四日から七日か……貸別荘行くのが六日から七日だから、四日か五日なら見に行けるな」

 

 「え、岸和田来るの?」

 

 「ああ。時間合えば応援しに行くよ」

 

 大津が嬉しそうに笑う。

 

 「マジ?じゃあ頑張るしかないね!」

 

 「岸和田くんが応援席にいたら、ちょっと緊張しそう」と浜松さんも笑った。

 

 その笑顔の奥には、ほんの少しの緊張と誇りが混じっていた。

 

 会話のリズムが心地いい。

 

 二人のやり取りには、競い合いと信頼のバランスがちゃんとある。

 

 見ていると、何かを“目指す”っていう熱が伝わってくる気がした。

 

 夕方、港の方まで歩いて風に当たる。

 

 空は薄く染まりはじめた群青色で、潮の匂いが夏の深さを告げていた。

 

 (……Bianchi、悪くないかもな)

 

 そう呟いて、タブレットにメモを残す。

 

 ほんの思いつきだったけれど、ペダルを漕ぎ出す前のような小さな高揚感があった。

 

 七月三十日

 

 今日は赤城のボランティア活動の手伝いには行かず、塾の夏期講習のバイト。

 

 教室に漂うマーカーとコピー紙の匂いが、夏の午後の空気に混じっていた。

 

 授業準備をしていると、咲太が担当するクラスからひとりの男子が出てきた。

 

 「こんにちはー、岸和田先生っすよね?」

 

 「そうだけど、君は……」

 

 「今日から夏期講習で来てる山田健人です!」

 

 元気のいい声。どこか落ち着きのない視線に、早速エネルギーを感じた。

 

 「よろしく。山田くん、なんで塾に通うことになったんだ?」

 

 「いやー、一学期の成績悪くてさ。親から“夏休みは絶対に塾行け”って言われて、しぶしぶ来てて」

 

 「なるほど。まあ、理由はどうあれ来たなら無駄にはならないさ」

 

 「それ、うちの母親と同じこと言う!」

 

 山田は笑って肩をすくめると、急に話題を変えた。

 

 「てか岸和田先生、咲太先生と双葉先生と同じ高校だったってマジっすか?」

 

 「……ああ、そうだけど」

 

 「え、すげー!てか双葉先生っておっぱいでかくね?」

 

 「……は?」

 

 反射的に顔が引きつった。

 

 この唐突な話題の転換、どう反応すれば正解なんだ。

 

 「岸和田先生、彼女いないの?」

 

 「余計なお世話だよ、山田くん。というか、そろそろ梓川先生のとこ行ったほうがいいんじゃないか?」

 

 「ちぇ、真面目だなぁ岸和田先生!」

 

 そう言い残して、山田くんは走って教室に戻っていった。

 

 ……元気なのはいいけど、ああいうタイプは正直苦手だ。

 

 静かな空気で集中させるタイプの俺には、あの勢いをコントロールするのは難しい。

 

 (……咲太、よくああいう生徒相手に教えられるな)

 

 思わず小さく笑いながら、ホワイトボードに明日の授業予定を書き足した。

 

 外ではセミの声が重なり、窓の向こうの青が少し滲んで見えた。

 

 真面目すぎると言われるのも悪くない。少なくとも俺には、それくらいがちょうどいい。

 

 バイトを終え、廊下に出たところで咲太と鉢合わせた。

 

 「おつかれ、岸和田」

 

 「おつかれ。山田くん、どうだった?」

 

 「早速“どうやったら彼女できるか”って聞かれたな」

 

 「……想像がつくな」

 

 咲太は苦笑しながらファイルを抱え直す。

 

 「でもまあ、話すテンポはいいから、授業より雑談で伸びるタイプだな」

 

 「お前、よく面倒見られるな」

 

 「お互い様だろ。岸和田は淡々と教えてるし」

 

 「それは性格の違いだよ」

 

 軽く肩をすくめると、咲太がふと思い出したように言った。

 

 「そういえばさ、花楓から聞いたけど、岸和田も貸別荘来るんだな?」

 

 「ああ、誘われたからな。よろしく頼む」

 

 「僕と麻衣さんのイチャイチャデートの邪魔はするなよ?」

 

 「邪魔したことないだろ」

 

 「一応予防線張っとかないとな。岸和田、たまに深読みするとこあるから」

 

 「……それ、褒めてないだろ」

 

 「半分は褒めてる」

 

 「残りの半分は?」

 

 「麻衣さんや双葉とかにも言われそうだなーって思って」

 

 「お前な……」

 

 咲太は肩をすくめながら、エレベーターに乗り込んでいった。

 

 音が途切れて、廊下に静けさが戻った。

 

 外の空は、すっかり群青に沈みかけている。

 

 窓の向こうでは、街灯がひとつ、またひとつと点いていった。

 

 誰かの一日が終わって、また誰かの夜が始まる。

 

 その境目を見ていると、なんとなく、世界が少しだけ静止したように思えた。

 

 (……たまに深読みしすぎ、か)

 

 苦笑しながら、自動ドアを抜けて夜風の中に出る。

 

 街路樹の葉が揺れて、風が少し湿っていた。

 

 胸ポケットの中のスマホが小さく震えた。

 

 画面には、赤城からのメッセージ。

 

 《来週の活動日、予定どう?》

 

 《来週は別件があって難しいな。その次の週ならいけるよ》

 

 《わかった。岸和田くんが来てくれるだけで助かるよ》

 

 指先で返信を打ちながら、思う。

 

 夏が本格的に動き出している。

 

 誰かの想いも、どこかの出来事も、ゆっくりと熱を帯びていく。

 

 その中で、自分はどこまで観察者でいられるだろうか。

 

 ふと、そんな考えが頭をよぎる。けれど次の瞬間には、もう忘れていた。

 

 ビルの隙間から見える空に、ひときわ強く星が瞬いていた。

 

 それを一瞬だけ見上げて、俺は歩き出した。

 

 夏の夜は、静かに深まっていく。




登場人物紹介

名前 吉和樹里『よしわじゅり』
身長 160cm
誕生日 2月3日(※オリジナル設定)

平塚のビーチバレークラブに所属する、峰ヶ原高校一年生で、咲太が講師を務める湘南個別指導塾の生徒。

学業と部活動を両立させる生活を送る中で、咲太の授業に触れ、その独特な指導法を理解しようと真面目に取り組む数少ない生徒の一人でもあります。

ビーチバレーでは、美凪と夏帆の後輩にあたり、彼女たちを目標として日々練習を重ねています。

陽射しを受けて健康的に日焼けした肌とは対照的に、性格は落ち着いており、感情をあまり表に出さないタイプ。しかし、その内面には強い意志と負けず嫌いな一面を秘めており、試合になると誰よりも集中力を発揮します。

蓮真との出会いは、美凪と夏帆が世界選手権のために出発する羽田空港。

当時は挨拶を交わしただけの関係でしたが、大学進学後に塾で再会し、改めて言葉を交わすようになります。

担任ではないものの、彼の静かな態度と誠実な言葉に信頼を寄せており、咲太と並んで「自分の話を聞いてくれる大人」として慕っています。

普段は淡々とした態度を崩さない彼女ですが、塾で共に学ぶ健人に対して、いつしかわずかな好意を抱くようになります。

蓮真は最終的にどちらを選ぶと思いますか?

  • 豊浜のどか
  • 広川卯月
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