青春ブタ野郎はパラレルスプリングの夢を見ない   作:もドえラん

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7.忘れられない微笑みは、夏の記憶を巡る

 

 八月四日

 

 今日は大津と浜松さんのビーチバレー大会、全日本大学選手権の初日。

 

 川崎の会場に行く前に、俺は少しだけ寄り道をしていた。

 

 行き先は同じ川崎市内にある藤子・F・不二雄ミュージアム。

 

 ここに来るのは、大学に合格してからは初めてだけど、もう何度も足を運んでいる。

 

 最初に訪れたのは中学生の頃だった。

 

 ループが終わって間もない頃、気づけばここに来ていた。

 

 漫画の原稿用紙の線の向こうにある“世界を描くこと”という作業に、自分の“観察”を重ね合わせたかったのかもしれない。

 

 入口でチケットをもぎってもらい、ゆるやかに展示室に向かう。

 

 展示ケースに描かれたドラえもんの名場面たちが、まるで時間を逆流させるみたいに出迎えてくる。

 

 原稿の余白に残る“迷い線”や修正の跡が、生きた手の動きとして残っているのがわかる。

 

 ガラス越しに見える漫画のコマに、小さく書かれたセリフがあった。

 

 『君はこの先何度もつまづく。でも立ち直る強さも持っているんだよ』

 

 (……いい言葉だ)

 

 その一文を見た瞬間、胸の奥で何かが静かに動いた。

 

 俺はポケットからタブレットを取り出し、書き留める。

 

 > “過去と未来のあいだに、今がある”

 

 > “昨日をやり直したいと思うのは、まだ未来を諦めていない証拠”

 

 気づけば、同じことを前にもここで書いた記憶があった。

 

 でも、今はその意味を少しだけ違う角度で受け取れる。

 

 中学の頃は「やり直したい」ばかりだった。

 

 高校では「観察しよう」と決めた。

 

 そして今は、「見届けたい」と思っている。

 

 (……俺も少しは変わったのかもな)

 

 展示をひと通り見てから、ミュージアムカフェに寄る。

 

 注文したどら焼きセットが運ばれてくる。

 

 焼き印のドラえもんの顔を見て、思わず口元が緩む。

 

 柔らかなあんこの甘さと、ほんの少しの塩気。

 

 この味を食べるたび、どこか原点に戻れる気がした。

 

 窓際の席から見えるのは、青い空と、屋上庭園のどこでもドア。

 

 風が吹くたびにピンク色の扉が小さく揺れる。

 

 (どこでも行けるなら、“今ここ”がいい)

 

 コーヒーを飲み干して立ち上がる。

 

 ミュージアムを出るとき、壁のイラストのドラえもんが微笑んでいるように見えた。

 

 「……そろそろ行くか」

 

 電車とバスを乗り継ぎ、会場の川崎マリエンに着いたのは午後一時過ぎ。

 

 海風が強く、照り返しの熱が足元からじわりと上がってくる。

 

 砂の匂いに混じって、遠くからホイッスルの音と歓声が響いた。

 

 会場の端から覗くと、コートの中央に二人の姿が見えた。

 

 大津は淡々とした表情のまま、正確にサーブを打ち返し、浜松さんはクールな視線でボールの軌道を読む。

 

 動きは違うのに、リズムは完全に噛み合っていた。まるで、呼吸が一つのチームみたいに。

 

 (……やっぱり、来てよかったな)

 

 試合が始まり、砂を蹴る音と、ボールが弾む音が空に響く。

 

 コート脇の観客席でタオルを握りながら、俺は静かに二人を見守った。

 

 観察ではなく、応援として。それが、今日この場所に来た意味だった。

 

 試合が終わると、砂浜の上に歓声と拍手が広がった。

 

 大津と浜松さんは、互いに手のひらを合わせて笑い合っている。全身砂まみれなのに、その笑顔は不思議と清々しかった。

 

 俺は観客席から立ち上がり、冷たいペットボトルを持って二人のもとへ向かう。

 

 「おつかれ。いい試合だったな」

 

 「岸和田、来てくれてたんだ!」

 

 大津が帽子を取りながら笑う。

 

 「言っただろ、応援行くって」

 

 「ほんとにありがと。めっちゃ暑かったでしょ」

 

 浜松さんがタオルで首筋を拭いながら、水を一口飲む。

 

 日焼けした頬の汗が光って、風にすぐ乾いていった。

 

 「見てて思ったけど、今日のコンビネーションすごかったな」

 

 「でしょ?ここ最近で一番いい流れだった」

 

 大津が笑いながら浜松さんを見る。

 

 「夏帆のトスがマジで神だった」

 

 「美凪ちゃんまだ言うのそれ」

 

 軽口を叩き合いながらも、互いに信頼が滲んでいる。

 

 それがこの二人の強さなんだと思う。

 

 「そういえば、次の試合っていつなんだ?」

 

 「次は九月!」

 

 大津がすぐに答える。

 

 「またお台場で来月の十七日から十九日にやるんだ、ツアーの後半戦。あとツアーのファイナルで、十月二十二日と二十三日に平塚でやるよ」

 

 「平塚って、お前らのチームの拠点だろ?」

 

 「そう。だから絶対に勝ちたい」

 

 浜松さんの声が、さっきまでの冗談混じりとは違っていた。

 

 真っ直ぐで、力のこもったトーン。

 

 「うちのクラブの子たちもみんな見に来るし、コーチも“ここで優勝してツアー締めろ”って気合い入れてるんだ」

 

 「浜松さん、燃えてるな」

 

 「うん。あの砂の上で勝てたら、最高だから」

 

 「そうそう。私らにとって“ホーム”だからね」

 

 大津も頷く。

 

 その言葉に、少しだけ胸が熱くなった。

 

 “自分たちの場所”を持ってる人の強さが、そこにあった。

 

 ふと、会話の切れ間に思い出して口を開いた。

 

 「そういえば、ロードバイクだけどさ」

 

 「うん?」

 

 「Bianchi、買ってみようかと思って」

 

 「へぇ、いいじゃん!」

 

 大津が目を輝かせる。

 

 「絶対似合うと思うよ、岸和田」

 

 「チェレステ、岸和田くんっぽいかも」

 

 浜松さんも軽く笑ってうなずく。

 

 「浜松さんにそう言われると、ちょっとその気になるな」

 

 「決まりだね。買ったら教えてよ。そしたら、一緒に走ろっか。海沿いとかさ」

 

 大津が言い、浜松さんが「三浦半島ツーリングだね」と笑う。

 

 「……お前ら、すぐ計画立てるな」

 

 「だってその方が楽しいでしょ」

 

 三人で笑い合う。

 

 砂に照り返す光が少し眩しくて、海風が汗の熱を冷ましていく。

 

 「じゃ、次はお台場で」

 

 「うん。見に来てよ」

 

 「もちろん」

 

 ふたりが笑って手を振る。

 

 その背中を見送りながら、心の奥に小さな火が灯るのを感じた。

 

 (……買ってみるか、ほんとに)

 

 チェレステの色を思い出しながら、タブレットを取り出してメモを残した。

 

 > Bianchi 購入検討

 

 > お台場大会(九月十七日〜十九日)

 

 > 平塚大会(十月二十二日〜二十三日)

 

 記録のはずの文字が、なぜか日記のように見えた。

 

 それだけで、少しだけ胸が熱くなった。

 

 八月六日

 

 約束の当日、待ち合わせ時刻が近づくと、咲太は部屋で着替えを済ませた。

 

 持ち物は昨晩のうちにリュックサックへまとめてある。一泊分の着替えと水着だけなので、大した荷物ではない。

 

 「お兄ちゃん、麻衣さんたちもう下で待ってるって」

 

 部屋の外から花楓の声が聞こえてきた。

 

 リュックを背負って部屋を出ると、ひまわり柄のワンピースに麦わら帽子をかぶった花楓がトートバッグを抱えて待っている。どう見てもこれからバカンスに行く格好だ。

 

 「麻衣さん待ってるよ。早く行こう」

 

 花楓はスマホをしまうと、すたすたと玄関へ。仕方なく咲太も後に続きながら尋ねる。

 

 「豊浜もいるんだろ?」

 

 「当たり前じゃん」

 

 当然の調子で返され、咲太は肩をすくめながら靴を履く。

 

 その横で花楓は愛猫に声をかけた。

 

 「なすの。あとでお母さん来てくれるから、お留守番お願いね」

 

 「なー」

 

 なすのが鳴き、咲太は鍵を閉めてエレベーターへ。到着のベルが鳴り、一階に下りると、花楓は勢いよく飛び出していった。

 

 咲太が普段の速度でエントランスを抜けると、道路脇に止まったミニバンから声が飛んできた。

 

 「咲太、遅い!」

 

 窓からTシャツ姿の金髪、のどかが顔を出す。

 

 その隣からは同じグループのづっきーが「お兄さん、早く早く!」と手招きしていた。

 

 ミニバンに近づいた咲太は、後部座席の奥に座る姿に気づいて、目を細めた。

 

 「……岸和田、お前そこにいたのか」

 

 声をかけられた俺はリュックを膝に置いたまま、軽く片手を上げる。

 

 「なんか後ろの席座ることになってな。今日はよろしくな咲太」

 

 咲太は小さくため息をつき、ぼそりとつぶやいた。

 

 「ほんとカオスなメンバーだな……」

 

 運転席には面識のある人物が座っていた。二十代後半くらいにも見えるが、実際は三十代後半。づっきーの母親だ。

 

 少し前、俺は初めて挨拶を交わしていた。

 

 「卯月のボーイフレンド?よろしくね、蓮真くん」

 

 冗談めかした笑顔に、一瞬言葉を失ったが、すぐに「……ボーイフレンドではないですけど、よろしくお願いします」と返した。

 

 そのやり取りを横で聞いていたづっきーは、「お母さん!」と赤くなって抗議していた。

 

 ラゲッジスペースに荷物を収めていた麻衣先輩が咲太に向かって言う。

 

 「今日、送ってくださることになったのよ」

 

 白いブラウスにゆったりしたパンツスタイル。休日の女優らしい雰囲気が漂っている。

 

 「咲太くんも、花楓ちゃんも、久しぶり」

 

 「ご無沙汰してます」咲太と花楓ちゃんがそろって頭を下げる。

 

 俺も改めて運転席に向かい、「今日は運転ありがとうございます。お世話になります」と告げると、母親はハンドル越しに「ほら、乗った乗った」とノリよく笑った。

 

 のどかとづっきーが俺のいる三列目に移動し、二列目には麻衣先輩と花楓ちゃん。助手席がひとつ残り、咲太が腰を下ろす。

 

 「それじゃあ、ここではないどこかへ出発!」

 

 「向かうのは山梨県の河口湖周辺だからね」

 

 づっきーの宣言に、冷静な母親が突っ込みを入れ、車はゆっくりと走り出した。

 

 高速を下りて一般道を走る車の助手席からは「河口湖」に関連する看板がちらほら見えていた。

 

 「じゃあ、次はカタカナ禁止ゲームをやろう!」

 

 「いえーい!」

 

 ひとり盛り上がるづっきーの声が車内に響く。

 

 三列目に並んで座っていたのどかとづっきーの隣で、俺は(……狭い)と心の中でつぶやいた。

 

 もっとも、このメンバーのテンションに比べれば、座席の狭さなんて些細なことかもしれない。

 

 やがて車は「旅の駅」と書かれた施設に到着した。

 

 地元の肉や野菜をふんだんに使ったレストランで昼食を取り、全員大満足。俺は(ああ、ここ……山中湖に別荘を持ってる親戚の家に来るとき、寄ったことあるな)と思い出していた。

 

 そしてふと、ハンドルを握るづっきーの母親の背中を見ながら考えた。

 

 (……来週の月曜から合宿免許取りに行くんだよなぁ……一人で旅行する時の自由度も増すし、楽しみだ)

 

 心の中でそうつぶやき、どこか胸の奥が少しだけ高鳴った。

 

 午後二時半過ぎ、再び車が走り出す。二十分ほどで貸別荘に到着した。

 

 母屋と離れ、プール、そして背景にそびえる富士山。敷地の広さも、雰囲気も、俺の知っている別荘の比ではなかった。

 

 「すごいとこだね」

 

 運転席から降りてきたづっきーの母親が感嘆の声を上げる。俺もつい口にしてしまう。

 

 「……うちの親戚が山中湖に別荘持ってるけど、ここは比じゃないな」

 

 「いや、お前んち親戚別荘持ってんのかよ!」

 

 咲太がすかさずツッコミを入れる。

 

 すると麻衣先輩が小さく笑って、冗談めかして言った。

 

 「じゃあ今度、連れて行ってもらおうかしら」

 

 「……考えときます」

 

 俺は肩をすくめて返すしかなかった。

 

 「咲太君、蓮真君、荷物下ろすの手伝って」

 

 づっきーの母親に声をかけられ、咲太と一緒に車の後方へ回る。

 

 ラゲッジスペースを開け、買い込んだ食材の袋や荷物をひとつひとつ抱えて運び出した。

 

 夏の陽射しの下、ようやくここから“旅行”が本格的に始まるのだと、胸の奥が少し高鳴った。

 

 「プールだ!!」

 

 空に突き抜けるような歓声が響いた。

 

 「あ、ちょっと卯月!」

 

 のどかの制止も聞かず、づっきーはサンダルを蹴飛ばし、裸足で芝生を駆け抜ける。Tシャツを脱ぎ捨て、走りながらミニスカートまで器用に脱ぎ捨てた。真っ赤なビキニ姿になり、そのまま勢いよくプールへ飛び込む。

 

 大きな水しぶき。五秒の静寂。

 

 そしてクジラのブリーチングのように水面から飛び出してきたづっきーは、仰向けに浮かびながら「気持ちいいー!」と両手をぶんぶん振っていた。

 

 「準備運動してから入れっつーの!」

 

 のどかはづっきーの脱ぎ散らかした服を拾い、花楓はサンダルを回収している。

 

 (……そんなに泳ぎたかったのか)

 

 俺は苦笑しながら眺めていた。

 

 すると後ろから声がかかる。

 

 「予備の着替え一式。きっと必要になるから」

 

 づっきーの母親が俺にナップサックを渡してきた。ズシリと重い。

 

 「……預かります」

 

 プールサイドでは、づっきーが遠慮なく水をかけ、のどかと花楓ちゃんはびしょ濡れで逃げ回っている。

 

 「のどかと花楓ちゃんは、先にプール入ってていいわよ」

 

 麻衣先輩が声をかけると、花楓ちゃんは一瞬迷ったが、のどかに手を引かれてはなれへ消えていった。

 

 「さっき買った食材は私と咲太で運んでおくから、蓮真くんも泳いできたら?」

 

 「いや、流石に男ひとりじゃ……。適当に富士山でも眺めてますよ」

 

 俺は軽く手を振って断った。

 

 その時、耳に入ったのは咲太の不用意な一言。

 

 「あれ?づっきーのお母さんは泊まっていかないんですか?」

 

 「私の水着姿見たかった?」

 

 「興味はあります」

 

 そう言った瞬間、麻衣先輩の手が咲太の頬をぐいっとつねり上げた。

 

 (……おいおい。しかも、ちょっと嬉しそうにしてないか? ご褒美か何かなのか?)

 

 俺は呆れ半分で心の中でツッコミを入れる。

 

 笑いながら車に戻ろうとするづっきーの母親が、ふと俺に振り向いた。

 

 「蓮真くん、卯月と仲良くね」

 

 「えっ……あ、はい」

 

 不意を突かれて慌てて返事をすると、そのやり取りを横で見ていた麻衣先輩と咲太が、細めた瞳で俺を見つめていた。

 

 のどかと花楓ちゃんは着替えに、麻衣先輩と咲太は食材を運びに行ってしまい、気づけば中庭には俺とづっきーの二人だけが残っていた。

 

 水面にぷかぷか浮いていたづっきーが、急にバシャッと起き上がってこちらを指さす。

 

 「ねえ、きっしーは泳がないの?」

 

 「咲太が戻ってきたらな」

 

 俺がそう答えると、づっきーは「ふーん、つまんなーい」と子どもみたいに水を叩いた。

 

 少し間を置いて、また突然思いついたように言う。

 

 「そういえば移動中、きっしーぜんぜん喋ってなかったよね。なんかあった?」

 

 あまりに直球な質問に、思わず苦笑する。

 

 「……みんなで旅行って、慣れてなくてな。ちょっと戸惑ってただけだよ」

 

 「えー?それって寂しかったってことじゃん!」

 

 悪びれもなく笑顔で断定してくる。

 

 「別にそういうわけじゃない。ただ……まあ、一人が好きだからかもな」

 

 言いながら、胸の奥に少し苦いものが残った。

 

 づっきーはその返答にきょとんとして、少しだけ表情を曇らせた。

 

 気まずさを打ち消すみたいに、彼女はぱっと笑顔を取り戻す。

 

 「……でもさ、せっかくだから一緒に楽しも!」

 

 普段なら絶対に「空気を吸う方向」で突っ走るづっきーから、思いがけず気の利いた言葉が出てきた。

 

 俺は少し驚いて、「……お前にしては珍しいな」と小さくつぶやく。

 

 その瞬間、卯月の中で、ほんのかすかに“空気を読む”という衝動が芽生え始めていた。

 

 づっきーとのやり取りが終わり、しばしプールサイドで水面を眺めていると、離れの方から足音が近づいてきた。

 

 「お待たせー!」

 

 明るい声とともに、のどかと花楓ちゃんが姿を現した。

 

 のどかは白地にひらひらしたオフショルダーの水着、花楓ちゃんは、オレンジと白を使ったセパレートの水着。ふたりとも少し照れたように肩をすくめながらも、表情は期待に輝いていた。

 

 「蓮真、一緒に泳ご!」

 

 のどかが真っ先に声をかけてくる。

 

 「そうそう!きっしーも入らなきゃ!」

 

 づっきーもプールの中から水を跳ねさせて加勢する。

 

 「……はぁ、ふたりに言われちゃ断れないな」

 

 苦笑しながら答えると、花楓ちゃんも嬉しそう に小さくうなずいた。

 

 一応持ってきていた水着を手に取り、俺は着替えに向かうことにした。

 

 この瞬間、もう“観察者”ではいられないのだと、少しだけ腹を括りながら。

 

 俺が水着に着替えて中庭に出ると、丁度咲太もきたところだった。

 

 プールには大きな空気ボートがふたつ浮かんでいた。

 

 つぶらな瞳のシャチと、横に長いバナナ。

 

 シャチの上には赤いビキニ姿のづっきー、バナナには白のオフショルダー水着ののどかが跨っている。

 

 ふたりの手にはスポーツチャンバラ用のスポンジ剣。

 

 「勝負だよ、のどか!」

 

 「花楓ちゃん、はじめの合図お願い!」

 

 気合十分なふたりに押されて、花楓ちゃんが緊張した面持ちで手を振り下ろす。

 

 「は、はい!はじめ!」

 

 まずはちょこんと剣先を突き合わせる。直後、剣を振り回しあい、互いに落とそうと必死の攻防が始まった。

 

 づっきーの大振りをかわし、のどかが鋭い突きを返す。それをづっきーが払い落とす。バランスを崩しそうになりながらも、ふたりとも落ちない。

 

 「……あいつら、すげえな」

 

 思わずつぶやいた俺に、咲太も花楓ちゃんも同意するようにうなずく。

 

 普通ならあの不安定なボートの上で戦うこと自体難しいのに、さすがはアイドル、体幹が鍛えられているのだろう。

 

 「こんな感じのやつ、昔の芸能人水泳大会で見たことあるな」

 

 咲太がぼそっと呟く。

 

 「芸能人のやつ?」と花楓ちゃんが小声で返す。

 

 「そう、それ。ポロリもあるかもしれないな」

 

 「……お前マジで何言ってんだ?」

 

 俺が真顔で呆れた声を出すと、花楓ちゃんも「お兄ちゃん、最低」とじと目を向けた。

 

 その直後、大きな水しぶき。のどかがついにバナナから落ちる。

 

 「ビクトリー!」

 

 づっきーが剣を掲げ、勝ち誇った笑顔を見せる。

 

 水から顔を出したのどかは「もうちょっとだったのに!」と悔しそうに言いながらプールサイドへ。

 

 剣を花楓に差し出し、「花楓ちゃん、仇を取ってね」。

 

 「え、私ですか?」戸惑う花楓ちゃん。

 

 「花楓ちゃんはハンデつけてもらえばいいんじゃないか?」

 

 俺が助け舟を出すと、のどかも「そうそう、片手はボート掴んでいいよ!」とすぐにルールを変えてくれる。

 

 「そ、それなら……」と覚悟を決めた花楓ちゃんは、どうにかバナナに跨る。だが、結果は一瞬。づっきーの二刀流を前に、あっけなく沈没。

 

 「ぷはっ!」と水から顔を出した花楓ちゃんは、びしょ濡れのまま咲太の方へ剣を突き出す。

 

 「じゃあお兄ちゃんやって!」

 

 「僕にも恥をかけってことか……」

 

 渋い顔の咲太だったが、のどかに煽られて結局参戦。

 

 合図は俺が「はじめ!」と告げる。しかし、結果はあっさり。づっきーの二刀流に叩かれ続け、咲太はすぐにバナナから落ちた。

 

 「咲太、よわっ」

 

 のどかの冷たいひと言が突き刺さる。

 

 そんな咲太を笑って見ていた俺も、いつの間にか標的になっていた。

 

 「次は蓮真だね!」

 

 「岸和田もやってみろ」

 

 「蓮真さん仇とってください!」

 

 のどか、咲太、花楓ちゃんの三人に口々に勧められ、逃げ場はなくなった。

 

 「……仕方ない。じゃあハンデありで頼む」

 

 俺は水着のままプールに入り、バナナに跨った。左手でボートを掴み、右手にスポンジ剣を構える。

 

 「それじゃ、はじめ!」

 

 のどかの声で試合開始。

 

 「とりゃー!」

 

 づっきーが容赦なく二刀流で攻めてくる。俺も必死に受け止めるが、不安定なボートはぐらぐらと揺れ、体勢を崩す。

 

 「うわっ」

 

 気づいた時には、俺の体は水中に沈んでいた。

 

 「蓮真もよわっ!」

 

 プールの上でづっきーが勝ち誇り、のどかは大笑い。

 

 花楓ちゃんも「……やっぱり強いなぁ」と苦笑していた。

 

 「そういや、花楓」

 

 「な、なに?」

 

 「水着なんて持ってたんだな」

 

 「え?今?」

 

 大袈裟に驚いたのは、花楓ちゃんの隣にやってきたのどかだ。

 

 「のどかさんに相談して、一緒に買いに行ってもらったの」

 

 不満そうに花楓ちゃんがそう教えてくれる。

 

 「どう?花楓ちゃん、かわいいでしょ!」

 

 「……まあ、普通だな」

 

 咲太の即答に、のどかが真っ先に反応する。

 

 「かわいいっつーの!」

 

 「普通なら、いいけど……」

 

 花楓ちゃんはぎりぎり聞こえる小さな声で呟く。

 

 「え~!絶対かわいいのに!」

 

 諦めずにのどかが食い下がる。

 

 「どかちゃんは、かわいいぞ」

 

 「あたしじゃないっての!」

 

 「づっきーも、かわいいぞ」

 

 「ほんと?やったー!」

 

 プールの中でづっきーが飛び跳ねるように喜ぶ。

 

 「咲太、お前、花楓ちゃんの水着褒めてやれよ」

 

 俺が横からツッコむと、咲太は肩をすくめた。

 

 その心のこもっていない調子に、のどかがむっとして俺に振り返る。

 

 「じゃあ、蓮真はどう思うの?」

 

 急に振られて一瞬戸惑ったが、観察癖が顔を出す。

 

 「……三人ともそれぞれ良いと思うよ。花楓ちゃんは健康的で爽やかな印象が強調されてるし、のどかは肩のひらひらが軽やかで明るい雰囲気に合ってる。づっきーは赤が映えてて、元気さが一番引き立ってるな」

 

 気づけば、ガチめに分析して褒めていた。

 

 「……」

 

 一瞬の沈黙の後、三人とも耳まで赤くなって目を逸らす。特にづっきーとのどかは、視線が泳ぎっぱなしだった。

 

 その空気を破ったのは、プールサイドに現れた麻衣先輩だった。

 

 「なに、堂々と他の子を口説いているのよ」

 

 咲太の頭をこつんと叩き、続けざまに俺の方へ視線を向ける。

 

 「蓮真くんもよ」

 

 「……いや、俺は真面目に褒めただけで」

 

 必死に弁解する俺を、麻衣先輩はしてやったりの笑みで見下ろしていた。

 

 「麻衣さん、今のは社交辞令で……」 

 

 言いながら振り向いた咲太の言葉が、途中で止まる。

 

 その理由は麻衣先輩の格好だった。

 

上下お揃いのラッシュガード。ショート丈のボトムからは透き通るような綺麗な脚が伸び、パーカーの襟元からは淡い色合いの水着がのぞく。髪はシュシュでまとめられ、軽やかなポニーテール。

 

 「社交辞令で?」

 

 麻衣先輩が少し挑発するように問いかけると、咲太は「……す」と最後の一文字をようやく絞り出した。

 

 その反応に満足したように、麻衣先輩はしてやったりの笑顔を浮かべる。

 

 「麻衣さん、綺麗……」

 

 花楓ちゃんが思わず見惚れてつぶやく。

 

 「花楓ちゃんも、水着かわいいわよ」

 

 「……あ、ありがとうございます」

 

 「普通でいいんじゃなかったのか?」

 

 咲太が突っ込むと、花楓ちゃんは頬をふくらませて「お兄ちゃんと麻衣さんは違うの」と拗ねたように言った。

 

 咲太がまだ麻衣先輩を凝視していたので、俺は隣から声をかける。

 

 「どうした? そんなに見惚れて」

 

 「……いや、僕の麻衣さんはかわいいなぁ…」

 

 惚気る咲太を横目に、俺も改めて麻衣先輩の姿を一瞥してから口にする。

 

 「麻衣先輩、よくお似合いですよ」

 

 褒めすぎない程度の一言に、麻衣先輩は軽く目を細めて微笑んだ。

 

 「次はみんなで水中ビーチバレーをしよう!」

 

 会話の流れをぶった切ったのは、プールの真ん中でバナナボートを動かしていたづっきーだ。

 

 「二対二のチーム戦にしよ!」

 

 「私、審判してあげる」

 

 麻衣先輩が笑ってそう言い、パラソルの下の椅子に腰を下ろした。

 

 こうしてのどかとづっきー、咲太と花楓ちゃんがビーチバレーを、麻衣先輩が審判をやることになり、自然と俺が余る形になった。

 

 「じゃあ、俺は観戦側だな」

 

 プールの端に腰を下ろし、俺はこれから始まる試合を見守ることにした。

 

 「グーパーじゃんけん、ポン!」

 

 咲太とづっきーはグー、のどかと花楓ちゃんはパー。チーム分けはすぐ決まった。

 

 咲太&づっきーvs のどか&花楓ちゃん。

 

 バナナボートをネット代わりにして、ビーチバレーが始まる。

 

 観戦側の俺は、両方をそれとなく応援しながらも(……結局また一人になっちゃったなぁ)と心の中で苦笑していた。

 

 水しぶきの中で声が重なり、白いボールが弧を描く。笑い声、歓声、そして波紋。

 

 その光景を眺めながら、ふと頭に浮かんだのは、一昨日行ったばかりの川崎の砂浜だった。

 

 (……大津と浜松さんも、こんな風に笑ってたっけ)

 

 あのときは汗と砂にまみれた“本気”の勝負で、今は笑い合いながらの“遊び”の試合。

 

 でも、ボールを追う姿だけは同じで、“まっすぐなものを追いかける目”っていうのは、こんなにも似ているんだと思った。

 

 観察しているつもりが、気づけば少し胸が熱くなる。

 

 そんな考えが浮かんだ瞬間、ボールがこっちに飛んできて慌てて避けた。

 

 「ごめーんきっしー!」

 

 づっきーが笑いながら手を振る。

 

 結果は、づっきーの豪快なスパイクがすべてアウトになるという予想外の展開で、のどか&花楓ちゃんチームが勝利。

 

 「やったね、花楓ちゃん!」とハイタッチする二人の笑顔は、見ていてこちらまで少し照れくさくなるほどだった。

 

 その後は普通に水泳対決に移行。俺も混ざり、昔少し水泳を習っていたこともあって、思ったより健闘できた。

 

 プールの中を全力で泳ぎ切った感覚は久しぶりで、胸の奥に爽快感が広がる。

 

 やがて水鉄砲を手にした撃ち合いへと発展し、中庭を走り回りながら笑い声が絶えない。再び水中ビーチバレーが始まる頃には、時間の感覚を忘れるほどに楽しい時間が流れていた。

 

 「そろそろ、夕食の準備をしましょうか」

 

 麻衣先輩の声がかかったのは午後六時過ぎ。まだ空は明るいのに、もうそんな時間かと驚く。はしゃいでいた分、気づけば体にプール後のけだるさがどっと押し寄せていた。

 

 夕食は咲太と麻衣先輩を中心に、俺も加わって肉と野菜を切り分ける。

 

 「蓮真くん、包丁慣れてるのね」

 

 「まあ、一人暮らしですし」

 

 咲太が焼き担当、花楓ちゃん・のどか・づっきーは串刺し担当だ。のどかは「玉ねぎ、肉、ピーマン、肉、玉ねぎ、肉ね」と呪文を唱えつつ、肉ばかり刺すづっきーを監視している。

 

 やがて準備が整い、プールサイドのテーブルへ。コンロに火を入れ、咲太と俺が順に肉を焼いていく。

 

 「花楓ちゃん、ファミレスのアルバイトはもう慣れた?」

 

 「はい。フロアの仕事は、ひとりで回せるようになりました」

 

 「偉い!」

 

 づっきーが抱きつくように褒める。その横で俺も言葉を添える。

 

 「最近は頼りになりますからね」

 

 「ありがとうございます、蓮真さん!」

 

 少し照れた笑顔を浮かべる花楓ちゃん。

 

 「咲太って、ちゃんと塾の先生できてんの?」

 

 のどかが肉にかぶりつきながら疑いの目を向ける。

 

 「今のところ悪い評判は聞かないな」

 

 「ふーん」

 

 「……まあ咲太の担当生徒の子も、咲太の授業分かりやすいって言ってたから」

 

 「蓮真が言うなら間違いないね」

 

 話題は自然に芸能活動へ移った。

 

 「豊浜の方はどうなんだ?」

 

 「ま、順調は順調だよ」

 

 「うん、今、スイートバレット史上、最高に絶好調だよね!」

 

 「こないだのライブも、すごいよかったです」

 

 「ありがとう、花楓ちゃん!」

 

 づっきーが花楓ちゃんを抱きしめる。のどかが慌てて串を取り上げ、「危ないから串は置けっつーの」と小言を漏らした。

 

 その賑やかさを眺めながら、俺はふと胸の奥に小さな影を覚える。

 

 (……スイートバレット全体が絶好調なのは確かだ。けど、この間づっきーから内緒で聞かされたイヤホンのCMの話。あれを考えると、もしかしてづっきーだけ抜きん出ているんじゃないか?)

 

 それは喜ばしい未来のようでいて、同時にグループのバランスを崩す火種になる可能性もある。プールで無邪気に笑っていたづっきーの姿と、彼女に降りかかるかもしれない重圧を重ね合わせてしまい、ほんの少しだけ不穏な気配が心をよぎった。

 

 そんな考えを振り払うように、麻衣先輩が俺に声をかけた。

 

 「そういえば、蓮真くんは最近どう?大学にも慣れた?」

 

 「ええ、だいぶ慣れました。塾のバイトも落ち着いてきましたし、ボランティア活動も始めました」

 

 「ボランティア始めたのね。どんなボランティア?」

 

 「不登校の子どもたちへの学習支援です。あと……今度、ロードバイクでも始めてみようかと思ってます」

 

 「へぇ、いいじゃない。蓮真くんも順調そうね」

 

 麻衣先輩がやわらかく笑う。

 

 「ロードバイク!見たい!」

 

 づっきーが串を置いて身を乗り出す。

 

 「買ったら見せてよ!」

 

 「うん、あたしも見たい。色はもう決めてるの?」

 

 のどかも興味津々で尋ねてくる。

 

 「今のところ、Bianchiのチェレステかな。緑に近い青色で、見た目が綺麗で」

 

 「いいねぇ、なんかきっしーに似合いそう!」

 

 づっきーが嬉しそうに笑う。

 

 「絶対、蓮真が乗ってると絵になるよ」

 

 のどかが少し照れくさそうに言う。

 

 「……期待されるとプレッシャーだな」

 

 「じゃあ、練習がてら湘南ツーリングしよ!」

 

 づっきーがまた勢いよく提案する。

 

 「卯月、それ絶対あたしも行くやつだよね」

 

 のどかがすぐに乗っかる。

 

 「……おいおい、勝手に計画立てるな」

 

 「だってその方が夏っぽいじゃん!」

 

 笑い声が夜風に混じり、波の音と遠くの虫の声が交じり合う。

 

 その光景の中で、俺は気づかないふりをしながら思う。

 

 (……こうして笑っていられる夏が、ずっと続けばいいのにな)

 

 片付けのあとは入浴タイム。女子から入ることになり、咲太はその間プール脇のジャグジーへ。俺はひとり部屋に戻り、今日の出来事をタブレットにまとめ始めた。

 

 「……やっぱり記録しておかないとな」

 

 笑い声や水音の余韻が耳に残ったまま、静かな時間が再び訪れていた。

 

 タブレットに今日の出来事をまとめていると、外から水音と笑い声が聞こえてきた。

 

 何気なく窓の外を覗いた瞬間、視界に飛び込んできたのは、ルームウェア姿のづっきーが、勢いよくプールへ飛び込むところだった。

 

 「……おいおい、何やってんだ」

 

 呆れる間もなく、大きな水しぶきが立ち、続いてのどかと花楓ちゃんまで巻き込まれて落ちていく。

 

 慌てて椅子から立ち上がった俺は、部屋の隅に置いていたナップサックを掴む。

 

 (そうだ、づっきーのお母さんから預かってた予備の着替え……絶対今必要になる)

 

 プールサイドに駆け寄ると、案の定、づっきーは「プール最高ー!」と天に向かって叫び、のどかは「着替えどうすんのよ!」と怒っている。

 

 花楓ちゃんは放心した顔で水に浮かんでいた。

 

 「づっきー!」

 

 声をかけながらナップサックを掲げる。

 

 「お前のお母さんから預かってた。……予言通りだな」

 

 「わー! きっしー神!」

 

 づっきーは水の中で両手を振り上げ、嬉しそうに笑った。

 

 俺は苦笑しつつバッグを差し出す。

 

 (ほんと、元気すぎる。……でも、やっぱり目が離せないな)

 

 「花楓ちゃんも、何か言ってやってよ」

 

 のどかに急に話を振られた花楓ちゃんは、一瞬驚いたあと、小さく笑い出した。肩を小刻みに震わせ、大きな笑いを堪えるような笑い方だ。

 

 「花楓ちゃん?」

 

 怪訝に思ったのどかが顔を覗き込む。

 

 「だ、大丈夫です。服のままプールに入るのって……なんか変な感じがして……ちょっと、楽しいですね」

 

 「だよね!」

 

 味方を得たづっきーは、バンザイをして大喜び。

 

 「少しは反省しろ!」

 

 のどかが声を張り上げる。

 

 「そうだぞ、づっきー」

 

 俺も苦笑しながら同調する。

 

 「……あと、咲太はこっち見んな!」

 

 濡れた服が肌に張り付いて気になるのか、のどかが顔を赤くして言った。

 

 「僕はさっきから麻衣さんしか見てないぞ」

 

 「お姉ちゃんをエロい目で見んな!」

 

 ツッコミが飛び交う中、のどかがふいにこちらを振り返る。

 

 「蓮真も、あんま見ないでよ!」

 

 「あぁ……ごめん」

 

 思わず視線を逸らし、素直に謝るしかなかった。

 

 その後、みんなで再びリビングに集まった。

づっきーは母親から預かっていた予備の着替えを着ていて、Tシャツと短パンのラフな姿。のどかと花楓ちゃんは、濡れてしまったルームウェアを脱ぎ、昼間に着ていた服に戻っていた。

 

 冷えたジュースやお菓子を並べて、自然とトランプ大会が始まる。ババ抜き、七並べ、大富豪……笑い声が絶えず、夜の貸別荘は再び賑やかになった。

 

 やがて眠気を訴える花楓ちゃんとのどかが先に部屋へ戻り、咲太と麻衣先輩も片付けを済ませて二階へ。

 

 リビングに残ったのは、俺とづっきーの二人だけになった。

 

 「……なんか、ごめんね!」

 

 いきなりづっきーが頭を下げる。

 

 「何がだよ」

 

 「さっき、プールでいろいろはしゃぎすぎちゃったし、のどかにも怒られてたし……きっしーまで巻き込んでさ」

 

 俺は小さく肩をすくめた。

 

 「気にすんな。まあ……楽しかったよ」

 

 「ほんと?」

 

 づっきーが少しだけ不安そうにこちらを覗き込む。

 

 「まあ、づっきーのおかげかもな」

 

 冗談めかして返すと、彼女の目が一瞬だけ大きく見開かれた。

 

 「そっか!」

 

 笑ったその表情は、いつもの無邪気さとは、少しどこか違っていた。

 

 「ねえ、きっしー」

 

 「ん?」

 

 「私も……きっしーみたいに、空気を読めるようになりたいなぁって、ちょっと思った」

 

 ぽつりと零されたその言葉に、俺は少しだけ苦笑する。

 

 (……俺だって、空気を読める人間じゃない。ただ観察と記録でごまかしてるだけだ)

 

 けれどづっきーは、そのことには気づいていない。無邪気さの裏で芽生えた“意識”は、やがて彼女自身を縛る鎖になるかもしれない。

 

 夜の静けさの中、リビングに残ったのは、楽しげな余韻と、説明できない不穏な気配だった。

 

 少しの沈黙のあと、づっきーが思い出したように顔を上げる。

 

 「そうだ、きっしー!」

 

 「ん?」

 

 「来週の十四日、空いてる?」

 

 「次の日から合宿免許行くぐらいだな……なんかあるのか?」

 

 「六本木で音楽フェスがあってさ。スイートバレットも出るんだ。夏のイベントだから見に来てよ!」

 

 楽しげな笑顔。誘うというより、純粋に楽しいことを共有したいという顔だった。

 

 「へえ、フェスか。頑張ってるな」

 

 「うん!ステージ大きいんだって。夜景も見えるんだよ!」

 

 まるで修学旅行の話をするみたいに目を輝かせている。その無邪気さが、この一日の締めくくりにはやけに眩しく見えた。

 

 「じゃあ、行けたら行くよ」

 

 「ほんと?やった!きっしー来てくれたら嬉しいな!」

 

 その一言を、俺は“ファンに向ける言葉”の延長として受け取った。

 

 けれど、彼女の頬がわずかに紅く染まっていたことには、気づかないままだった。

 

 「ああ。楽しみにしてるよ」

 

 そう返すと、づっきーは満足そうに笑って、

 「じゃあ寝よっか」と軽く伸びをして立ち上がる。

 

 その後ろ姿を見送りながら、俺は小さく息をついた。

 

 (……ほんと、よく笑うな)

 

 そう思っただけで、他の感情には名前をつけなかった。

 

 夜の貸別荘は静かで、蝉の声さえ届かない。

 

 笑いの余韻だけが、まだほんのりと胸の奥に残っていた。

 

 八月八日

 

 河口湖から帰ってきた翌日。朝、上里から「藤沢駅に正午ごろ来れる?」とだけ届いた。

 

 藤沢駅に指定された時間に向かうと、ベンチにもたれてスマホをいじる上里が手を上げた。

 

 「ごめん、急に。時間、平気だった?」

 

 「まあな。……で、ボランティアのことか?」

 

 上里は一呼吸おいて、少しだけ声を落とした。

 

 「ううん、違う。木曜の山の日が、郁実の誕生日でさ、プレゼント、一緒に選んでほしくて」

 

 「赤城の誕生日……八月だったのは覚えてるけど、そうか、十一日だったか」

 

 「うん。知らなかった?」

 

 「中学のとき本人が“私、夏生まれだから”って言ってたのは覚えてる。でも日付までは思い出せなかったな」

 

 「そういうの、岸和田くんらしいね」

 

 上里は小さく笑うと、改札横の通路を歩き出した。

 

 「でも国見に頼んでも良かったんじゃないか?」

 

 「頼んだら“任せろ”って全部持ってっちゃいそうだし、そもそも佑真まだ消防士の訓練で忙しいし」

 

 「それに岸和田くん、郁実と中学の同級生でしょ?好み、少しはわかるかなって」

 

 理屈としてはおかしくない。俺は肩をすくめた。

 

 「……了解。実用寄りで、現場でも使えるやつ、だな」

 

 「うん。郁実、資料まとめるの好きだしね」

 

 向かったのは湘南T-SITE。蔦屋書店の文具フロアは、紙とインクの匂いが落ち着く。

 

 「色は?」と上里。

 

 「派手なのは赤城には似合わないな。けど地味じゃなくて静かに強い色……濃いめのネイビーか、深いグリーンとかだな」

 

 壁面の棚から、A5サイズのドキュメントファイルを手に取る。布張りで、ラベルポケットと中仕切りが多いタイプ。背は薄いのに、紙が散らからない。

 

 「これ、打ち合わせの紙、現場メモ、領収書を三層で分けられてる。郁実は会議と現場を行き来するから、切り替えの速さに合うかも」

 

 上里は頷いて、すぐ隣のコーナーでリングノートを二冊手にした。方眼と無地。

 

 「議事は方眼、現場は無地でスケッチ。それぞれ背表紙に月のシール……どう?」

 

 「いい判断だと思うな」

 

 ペンは細軸のゲルインクを三色。黒は濃く、グレーは控えめ、ブルーブラックは少し遊び。

 

 付箋はインデックス型の落ち着いた色味を選ぶ。会議で貼って剥がしても紙を傷めにくいタイプ。

 

 会計前、上里が小さなチャームを迷いながら取った。真鍮の小さな山のシルエット。

 

 「“山の日”の誕生日、ってことで。主張しないけど、意味は残る。郁実、気づいたら多分ちょっと笑う」

 

 包み待ちの間、窓の向こうを風が抜けた。麦わら帽の人影、夏休みの親子連れ、緩い午後。

 

 「……ありがとね、岸和田くん」

 

 「礼を言うのは俺じゃないだろ」

 

 「それは郁実に言うけどさ。今日のは、”私が選びたいけど独りよがりにはしたくない”っていうわがまま。付き合ってくれて助かった」

 

 言いながら、上里は紙袋のリボンをそっと結び直した。

 

 その仕草に、芯の強さと繊細さが同居しているのが見えた。

 

 (上里って、こういうとき迷わないんだな)

 

 いつだって誰かのために動いて、思ったことはまっすぐ言う。

 

 “自分の信じた道を突き進む”という一点に限っていえば、どこか咲太に似ている。

 

 (だからこそ、国見にとって上里も咲太も、同じぐらい大切な存在なんだろう)

 

 人の痛みに気づくやつと、迷わず前に出るやつ。その間に立つ国見が、どれほど真っ直ぐで、どれほど優しいか。

 

 上里の横顔を見ながら、そんなことをぼんやり考えていた。

 

 八月十一日

 

 昼過ぎ。部屋のエアコンをゆるくつけて、机の上にタブレットを広げていた。

 

 とはいえ勉強をしていたわけじゃない。最近のボランティアの活動記録を、なんとなく整理していただけだ。

 

 スマホが震え、画面に赤城郁実の名前が表示された。個別のLINEは久しぶりだった。

 

 《沙希から聞いたよ。プレゼントありがとう》

 

 短い文面。でも、そこに彼女らしい端的さがあった。

 

 《誕生日おめでとう》

 

 そう返信すると、すぐに既読がついた。

 

 《ありがとう、岸和田くん》

 

 たったそれだけのやり取りなのに、画面越しでも少し空気がやわらかく感じられる。

 

 もう閉じようとしたとき、再びメッセージが届く。

 

 《そうだ。明後日のボランティアなんだけど、中学生たちと高尾山に登る予定なの。来れる?》

 

 《ああ、行くよ》

 

 即答だった。高尾山。夏の空気が厚く、蝉の声が混じる登山道が頭に浮かぶ。

 

 子どもたちにとっても、彼女にとっても大切な日になるのかもしれない。

 

 《了解、ありがとう。帽子忘れずにね⛰️》

 

 珍しくスタンプ付きのメッセージ。

 

 思わず口元が緩んだ。

 

 (……ほんと、赤城らしい)

 

 スマホを伏せると、窓の外では白い雲がゆっくり形を変えていた。

 

 静かな夏休みの午後が、少しだけ特別な色に変わった気がした。

 

 八月十三日

 

 朝から蝉の声が濃く響いていた。

 

 集合場所の高尾山口駅には、大学生ボランティア十名ほどと、中学生十数名が集まっていた。

 

 他大学のメンバーも混ざっていて、いつもより賑やかだ。

 

 「おはよう、岸和田くん」

 

 赤城が手を振る。

 

 いつも通り落ち着いた声だけど、どこか晴れやかな空気があった。

 

 赤城は、淡いグレーのチェックシャツに黒いアームカバー、ネイビーのキャップを被り、黒のリュックを背負っていた。

 

 派手さはないけれど、機能性と落ち着きを両立した装い。

 

 登山というより、“現場に立つ人間”の空気を纏っている。

 

 腕まくりをしたときに覗く日焼け止めの跡や、帽子の影から覗く視線の鋭さが、彼女の真面目さと現場慣れした姿勢を物語っていた。

 

 (……こういうところも、赤城らしいな)

 

 暑さの中でも表情を崩さず、誰よりも周囲を見て、誰よりも落ち着いている。

 

 その背中を見ているだけで、なぜか安心できた。

 

 「おはよう。今日も暑いな」

 

 「うん。でも、子どもたちのテンションはそれ以上だよ」

 

 確かに。集まった中学生たちは、朝から声が弾んでいる。

 

 俺たちの班は、女子中学生が一人と、男子が二人。

 

 女子の方は、やや引っ込み思案な印象で、男子の一人はよくしゃべり、もう一人はマイペース。絶妙なバランスだ。

 

 「それじゃあ、チームごとに行動開始します」

 

 リーダー役の大学生が声を上げると、各班が動き始めた。

 

 「私たちは一号路ね。ゆっくりペースで行くから」

 

 赤城の声に合わせて、俺と上里がそれぞれ後ろにつく。

 

 前を歩く赤城は、子どもたちの歩幅を自然に合わせていた。

 

 「坂きつい〜」と男子が言えば、赤城は笑いながら「そうね、でもここが一番の踏ん張りどころ」と軽く励ます。

 

 強要せず、淡々と支える。それでいて、声をかけられた子は必ず笑顔になる。

 

 (……こういうところだよな)

 

 無理をさせず、でも止まらせない。それが赤城の“導き方”なんだろう。

 

 途中の休憩所で小休止。上里が子どもたちに水を配りながら、俺に話しかける。

 

 「やっぱり郁実って頼れるよね。焦らせないのに、ちゃんとペース作るし」

 

 「そうだな。言葉より、見せて引っ張るタイプだ」

 

 赤城は遠くで、男子のひとりが落とした帽子を拾って笑っていた。

 

 小さな仕草に、真っ直ぐな優しさが滲む。

 

 薬王院の石段を登りきると、空が広がった。

 

 子どもたちは「着いたー!」と歓声を上げる。赤城が振り向き、「よく頑張ったね」と笑った瞬間、少しだけ風が吹いて、彼女の髪がふわりと揺れた。

 

 「岸和田くん。生徒たち見てて」

 

 「了解」

 

 子どもたちがソフトクリームを食べてはしゃぐのを、俺と赤城と上里で見守る。

 

 上里がペットボトルを飲みながら、少し笑って言った。

 

 「こういう時間、悪くないね」

 

 「……ああ」

 

 蝉の声と、甘いバニラの匂い。

 

 真夏の太陽が照りつけても、どこか心地いい静けさがあった。

 

 「みんなのおかげで、いい夏になりそうだね」

 

 赤城の言葉に、俺は小さく頷いた。

 

 八月十四日

 

 真夏の陽射しがアスファルトを叩きつけていた。

 

 駅を出てすぐ、熱気と人のざわめきが空気を震わせている。

 

 ビルの壁に反射した光が眩しくて、思わず目を細めた。

 

 目的地は、合同音楽フェス「SUMMER BEAT FES」。

 

 づっきーが言っていた“スイートバレットも出るイベント”だ。

 

 開演一時間前だというのに、もう会場前は人で溢れていた。

 

 グッズのうちわを扇ぎながら並ぶ人たち、日傘を差す女子高生、

 

 ステージから漏れるベースのリハーサル音。

 

 夏の匂いと音が、全部一度に押し寄せてくる。

 

 「蓮真さん!」

 

 声に振り向くと、花楓ちゃんが手を振っていた。その隣には、鹿野さんの姿もある。

 

 二人ともフェスの雰囲気に合わせて、軽い格好をしていた。

 

 「来てたんだな、二人とも」

 

 「はい!こんな大きなフェスに出るって聞いて、楽しみです!」

 

 花楓ちゃんは嬉しそうにチケットを掲げる。

 

 「私も、かえちゃんに誘われて。久しぶりにこういうイベント来ました」

 

 鹿野さんは涼しげな笑みを浮かべる。

 

 ステージの方から、機材のチェック音が響いた。

 

 「ワン、ツー、ワンツー」

 

 ドラムの試し打ち。マイクの反響。

 

 耳に入るそのすべてが、イベント前の緊張と高揚を混ぜ合わせていた。

 

 「今日のスイートバレット、トリの一つなんですよ」

 

 鹿野さんがパンフレットを見せてくる。時間は十五時十五分から。

 

 「へぇ、すごいな。扱いもトップグループみたいじゃないか」

 

 「そうなんですよ。しかも」

 

 花楓ちゃんがページをめくる。

 

 そこには「SWEET BULLET SUMMER LINE TOUR」の文字。

 

 「夏休み中、全国回るらしいですよ。十七日の仙台から、札幌、福岡、名古屋……で、三十一日が大阪」

 

 「……大阪か」

 

 パンフレットの行間を見つめながら、心のどこかで思う。

 

 (四国での合宿免許の帰りなら、寄れるかもしれないな)

 

 それは、ただの予定調整。

 

 でもその裏には、もう一度彼女たちを見たいという小さな衝動があった。

 

 「もうすぐ始まるみたいですよ」

 

 鹿野さんの言葉に、三人で観覧エリアの中央近くへ移動する。

 

 ステージの奥で、スタッフが大きな幕を外した。

 

 眩しい照明が一気に点き、歓声が波のように広がる。

 

 イントロが流れた瞬間、空気が変わった。

 

 観客の誰もが息を呑み、視線を一点に集める。

 

 「スイートバレットです!」

 

 司会の声が響く。

 

 その直後、ステージ上に五人のシルエット。

 

 センターに立つ赤い衣装の少女、づっきー。

 

 照明が彼女を照らした瞬間、歓声が爆発した。

 

 (……本当に、ステージの上の人なんだな)

 

 前回、プールサイドで笑っていた彼女と、今目の前にいる“広川卯月”はまるで別人のようだった。

 

 マイクを握り、息を合わせて歌いながら踊る姿は、観客の熱気を飲み込みながらも、堂々としていて。その視線は、誰よりもまっすぐだった。

 

 「うわぁ……すごい……!」 

 

 花楓ちゃんが息を呑む。

 

 鹿野さんも手を合わせながら小さく頷いていた。

 

 曲が進むにつれ、観客が腕を振り、声を合わせる。

 

 「BULLET! BULLET!」

 

 客席に揺れる光の海の中、づっきーは全身でリズムを刻みながら、ふと優しい表情で観客席の方を見渡した。

 

 その一瞬、視線がこちらに向いたような錯覚があった。

 

 「……」

 

 何も言えず、ただ息をのむ。

 

 もちろん、実際は誰かを特定して見たわけじゃない。でもその微笑みが、自分に向けられたような錯覚を、どうしても否定できなかった。

 

 「ラスト行くよー!!!」

 

 づっきーの声が響くと、再び歓声が上がる。

 その勢いのまま、最後のサビへ。

 

 照明が青から白へと切り替わり、紙吹雪が舞う。ステージの上で跳ねる姿が、まるで夏そのものの輝きに見えた。

 

 やがて音が途切れ、観客の拍手が重なっていく。づっきーは大きく息を吸い込み、笑顔で手を振った。

 

 「ありがとう!また次のステージで会おうね!」

 

 幕が閉じても、歓声は止まらなかった。

 

 終演後、会場の空気にはまだ熱の残り香が漂っている。

 

 「すごかったですね……」

 

 鹿野さんの言葉に、俺は頷く。

 

 「ああ。……これが、づっきーか」

 

 プールで無邪気に騒いでいた彼女と、ステージで光を浴びていた彼女。

 

 どちらが本当の“広川卯月”なのかは、まだわからない。

 

 でも、どちらも確かに彼女なんだと思えた。

 

 日が傾き始め、六本木のビルの隙間からオレンジ色の光が差し込む。

 

 帰り際、花楓ちゃんがパンフレットを見ながら言った。

 

 「……大阪のライブ、行きたいなぁ」

 

 「花楓ちゃんも、行けばいいんじゃない?」

 

 「はい、行けたら……。蓮真さんも行くんですか?」

 

 「まだわからない。でも……たぶん、行くと思う」

 

 そう言葉にした瞬間、自分でもその決意の強さに少し驚いた。

 

 (観察じゃなく、“見届ける”ってやつかもしれないな)

 

 フェスの余韻を胸に残しながら、俺たちは人波の中を抜け、夜に変わり始めた六本木の街を後にし、実家に寄った後、サンライズ瀬戸に乗るために、東京駅に向かった。

 

 八月十五日

 

 俺は、旅行も兼ねて四国に合宿免許を取りに行っていた。

 

 サンライズ瀬戸に揺られて夜明けの瀬戸内海を渡るとき、窓の外に広がる島影と朝焼けが、これから始まる二週間を象徴しているように思えた。

 

 潮風の匂い。窓ガラスの向こうで、海面がオレンジに染まっていく。

 

 人の少ない寝台列車の通路を歩きながら、ぼんやりと車窓を眺めていた。

 

 高松に着き、さらに電車で観音寺へ。

 

 潮の匂いが混じる駅前の風は、藤沢とは違う、どこか穏やかで緩やかな時間の流れを感じさせる。

 

 街の喧騒から距離を置くと、耳の奥がすっと静かになるような感覚があった。

 

 四国を選んだ理由は、いくつかある。

 

 湘南のようにゆったりとした海辺の空気。去年、大津と浜松さんの試合を見に愛媛まで行ったときに感じた、土地のやさしさ。そして、大小の島々が連なる瀬戸内の景色に、どこか“観察者”としての自分を映せる気がしたからだ。

 

 (人の多い都会では、俺は誰かの記録係のようだった。けれど、ここなら、ただの一人の旅人でいい)

 

 免許合宿の生活は規則的で、予想以上に静かだった。

 

 教習所の宿舎には同年代の学生も多くいたが、夜は早く寝て、朝は同じバスで通う。

 

 誰もが目的を持って動いている分、無駄な干渉がないのが心地よかった。

 

 それから、俺は教習が休みの日には、自転車を借りて名所を巡った。

 

 銭形砂絵を見下ろしたとき、夕日に照らされた巨大な「寛永通宝」の文字が現実感を失うほど幻想的で、“これを見た者はお金に不自由しない”という言い伝えを、思わず信じたくなった。

 

 そして、高屋神社。“天空の鳥居”と呼ばれる石段を登り切った先には、観音寺の街並みと瀬戸内の海が一望できた。 

 

 吹き抜ける風に汗が冷やされ、胸の奥まで透き通るような感覚に包まれる。

 

 見下ろす街と水平線のあいだに、世界が一枚のキャンバスみたいに広がっていた。

 

 (……いい場所だな)

 

 ふと、そんな言葉が口から零れた。思考ではなく、感覚として。

 

 空も海も同じ青に溶けて、境界がなくなる。

 

 そこに立つと、過去も未来もいったん脇に置いて、ただ“今”という一点に存在できる気がした。

 

 教習所に戻るころには、空が茜色に染まっていた。

 

 日焼け止めの香り、潮風、制服のような教習ジャケット。

 

 何も特別なことはない。けれど、確かに“今を生きている”という感覚があった。

 

 夜、寮のベランダに立ち、遠くの海の明かりを見ながら思った。(この二週間、何かが変わるわけじゃない。でも、少しくらいは、自分を動かせるかもしれない)

 

 その小さな期待だけを胸に、翌日の教習予定表を確認して、部屋の灯りを落とした。

 

 八月二十三日 

 

 昨日、仮免許を取った。

 

 今日は初めての路上講習を終えたあと、少しだけ夜風に当たりたくなって外に出た。

 

 瀬戸内の夜は驚くほど静かで、遠くの波の音すら聞こえてくる気がする。

 

 自動車学校から少し歩いたところにある小さなうどん屋の暖簾をくぐると、湯気と出汁の香りが鼻をくすぐった。

 

 「いらっしゃい。釜玉でいい?」

 

 「はい、それで」

 

 店主が手際よくうどんを茹でる音が聞こえる。

 

 席に着くと、奥のテーブル席では五人の女子中学生が制服ではないラフな格好で笑い合っていた。

 

 「お姉ちゃん、それ取りすぎ!」

 

 「いいじゃない、樹。トッピングは自由よ!」

 

 「夏凛ちゃん、辛いの入れすぎじゃない?」

 

 「だって夏だし、汗かいた方が気持ちいいでしょ!」

 

 「もう……友奈ちゃん、そんなに笑わないでよ」

 

 店内に響く笑い声が、心地よく耳に残った。

 

 その光景を眺めながら、どこか懐かしい気分になる。

 

 高校を出てからの時間は早かった。けれど、ああいう屈託のない笑い方は、もう自分にはできないんだと思った。

 

 ちょうどそのとき、頭上のテレビが切り替わった。

 

 「続いては、人気アイドルグループ“スイートバレット”の皆さんです!」

 

 司会者の明るい声に、俺は思わず顔を上げる。画面の中には、づっきーとのどかが並んでいた。

 

 クイズ番組の再放送らしい。

 

 づっきーは司会者の冗談に即座に反応し、

 

 「私、空気は読むものじゃなくて吸うものだと思ってます!」とドヤ顔で言い切る。

 

 スタジオが笑いに包まれ、観客席から拍手が起こった。その横で、のどかが冷静にボタンを押し、正解のアナウンス。

 

 「すごい、 この子賢い!」

 

 隣の席の大人しそうな子が目を輝かせる。

 

 「づっきーちゃんもおもしろい! 」と元気いっぱいそうな子が笑い、サバサバした子が「東郷もああいう返しできたら完璧ね」とちゃかす。

 

 「私はあんなに明るくは無理ですよ……」

 

 車椅子に乗った子が少し照れたようにうつむき、プライドが高そうな子が肩をすくめた。

 

 「……まあ、あれは天性のバカだから」

 

 「ひどいよ夏凛ちゃん!」

 

 再び笑い声が広がり、店の空気が少しあたたかくなった。

 

 そのとき、店内なスピーカーからゆっくりと音が流れ始めた。

 

 女性ボーカルの透き通るような声。

 

 > どこからどこまでが僕なんだ

 

 > ねぇ、教えてよ 誰かの声、耳の奥に響いて

 

 歌詞が、不思議なほど耳に引っかかった。

 

 (……この曲、前のどかに聴かせてもらった、霧島透子のSocial Worldってやつか)

 

 > 境界線は溶けて消えた ひとつに混ざった

 

 > みんなに僕はなる いけないことなの、ねぇ

 

 メロディがゆらぎながら、店の中に漂う。

 

 どこかで聴いたような、懐かしい響き。声の奥に、記憶の底をくすぐるような“誰か”の輪郭があった。

 

 (……この歌声、昔どこかで……)

 

 けれど、思い出そうとすると霧がかかったみたいに遠のく。

 

 誰の声なのかも、いつ聴いたのかも、どうしてこんなに引っかかるのかも分からない。

 

 > 「ひとりにしてよ」と「認めてほしいよ」

 

 > 伝える前に、この手繋いで

 

 > 頷いて、やさしく

 

 店主が「釜玉お待たせ」と言って湯気の立つ丼を置いた。

 

 現実の匂いが戻ってきて、歌は少しだけ遠ざかる。

 

 「……霧島透子って、流行ってんだなぁ」

 

 小さく呟いて箸を取る。出汁の香りとともに、歌の最後の一節が静かに響いた。

 

 > ここからどこまでも僕の世界

 

 > ねぇ、この歌を誰か聴いて

 

 > まだ眠らないで

 

 (……いま、俺はどっちの世界にいるんだろうな)

 

 俺は黙って釜玉うどんをすすりながら、再びテレビの画面を見つめる。

 

 (……づっきーはすごいな)

 

 づっきーの無邪気な笑顔は、あの日プールで見たままだ。

 

 なのに、画面越しだと距離がある。

 

 彼女はもう“表の世界”の人間で、俺はこの街の片隅でその光を眺めているだけ。

 

 誇らしいのに、少しだけ胸の奥がざらつく。

 

 続いて流れた街ぶらロケでは、づっきーがマイクを片手に地元の商店街を歩き、

 

 「この看板、“たこ焼き”って書いてるのに、焼いてるのタコじゃん!」と真顔で言い放つ。

 

 のどかが「それ、正しいツッコミになってないよ」と返し、カメラマンの笑い声が混じる。

 

 笑いながら見ていたはずなのに、心のどこかで「遠い」と思ってしまう。

 

 同じ夏でも、俺の夏と、彼女たちの夏はまったく違う。

 

 (……まあ、それでいい)

 

 釜玉うどんを食べ終え、店を出ると、夜風が頬を撫でた。遠くで波の音がかすかに響いている。

 

 振り返ると、店の窓越しに、まださっきの中学生五人の笑い声が聞こえていた。

 

 “今を楽しむ”ということが、どういうことかを思い出させるような声。

 

 その笑い声を背中に受けながら、俺はゆっくりと宿舎への道を歩いた。

 

 (来週大阪のライブ行くか……)

 

 静かな四国の夜に、どこか遠いライブ会場の光が、心の奥で小さく重なった。

 

 そして、街灯に照らされた道を見上げると、星が少しだけ瞬いていた。

 

 さっき聴いた“Social World”の余韻が、まだ耳の奥でかすかに鳴っていた。

 

 八月二十九日

 

 合宿最終日。

 

 卒業検定を無事に終えた瞬間、胸の奥にゆるい達成感が広がった。

 

 二週間という短い時間の中での講習と、知らない土地の風。

 

 気づけば、この静かな街の空気に少しだけ名残惜しさを感じていた。

 

 夕方、宿舎のベランダに出て、赤く染まる空を見上げる。

 

 潮の匂いが薄く漂い、瀬戸内の海の向こうに沈みかけた太陽が、街をやわらかく照らしていた。

 

 ポケットからスマホを取り出し、グループチャット《きっしー観察会》を開く。

 

 《免許、無事に取れた。明後日、大阪ライブ行く予定。》

 

 送信してすぐ、既読が二つ。

 

 づっきーとのどかから、ほぼ同時に反応が返ってきた。

 

 《すごいじゃん!合宿お疲れ〜》

 

 《やったね、きっしー!気をつけて来てね!》

 

 のどかのコメントには、かわいいウサギのスタンプ。

 

 づっきーの方は、相変わらずテンション高めのハイタッチ。

 

 その軽やかさに、思わず口元がゆるむ。

 

 (……ほんと、あの二人のメッセージって並ぶと空気が違うよな)

 

 それだけでいつもの空気が流れる気がして、スマホを閉じかけたそのとき、通知音がもう一度鳴った。

 

 今度は、個別のLINE。送り主はづっきー。

 

 《大阪でライブが終わって、きっしーが神奈川帰ってきたら会えない?》

 

 メッセージを見た瞬間、反射的に指が動いた。

 

 《のどかも誘ってるのか?》

 

 送信。すぐに既読がつく。けれど、返事はこない。

 

 (……あれ?)

 

 数分の沈黙。そのわずかな時間が、なぜかいつもより長く感じた。

 

 そして、ポン、と控えめな通知音。

 

 《ううん。きっしーに話したいことがあるんだ》

 

 短い。けれど、その一文には、不思議な重さがあった。

 

 「話したいこと?」

 

 何を、とは書かれていない。

 

 ただ、その曖昧さの奥に、言葉にできない温度のようなものを感じた。

 

 (……なんだろう)

 

 潮風が頬を撫で、遠くでカモメの鳴き声が響いた。

 

 沈みかけた夕陽が、赤とオレンジの境をぼかしながら消えていく。

 

 スマホの画面に残ったメッセージが、その色と同じくらい、静かに胸の奥に滲んでいった。




物語解説

今回の物語は、川崎での美凪と夏帆の試合観戦から、高尾山での郁実との活動、六本木の音楽フェス、そして四国での合宿免許取得まで、岸和田蓮真が“観察者として過ごした夏”を描きました。

この章で印象的なのは、彼が、自分の歩幅で季節を感じ取る人間として描かれていることです。

郁実たちと共に登った高尾山で見せた責任感。フェスで卯月の姿を見上げた瞬間の誇らしさと、そこにある小さな距離。瀬戸内の夜に聞いた静けさの中で、彼は初めて“誰かの光を遠くで見つめるだけではいられない”という感情に触れました。

それはまだ恋や憧れという言葉では言い表せないものです。

卯月の無邪気さとのどかの優しさ、郁実の責任感が、蓮真の静かな世界に波紋を広げていきます。

誰かを支えることと、自分が支えられること。
その違いに気づいたとき、彼は初めて“観察者”ではなく“当事者”として、夏を生き始めるのかもしれません。

次回もぜひ、お楽しみください。

蓮真は最終的にどちらを選ぶと思いますか?

  • 豊浜のどか
  • 広川卯月
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