青春ブタ野郎はパラレルスプリングの夢を見ない 作:もドえラん
八月三十一日
大阪城公園
夕方になっても熱のこもった空気が漂い、アスファルトの照り返しが靴底から伝わってくる。
ステージの向こうでは、すでに人の波がざわめきと歓声でひとつの大きな塊になっていた。
昨日、花楓ちゃんに「大阪のライブを見に行く」とLINEを送ったところ、即座に返信が来た。
《もし良かったら、卯月さんの大阪限定グッズ、買ってきてください!》
お願いされたのは、レモンイエローの限定Tシャツと、づっきーのサイン入りアクリルキーホルダー。
袋をしっかり抱えながら、俺は観客の波に混ざった。
開演のアナウンスが流れると、ライトが一斉に点く。音と歓声がぶつかり合い、空気が震えた。
メインステージに立つのは、スイートバレットの五人。
センターにはのどかとづっきー、左右に岡崎さんと中郷さん、後方に安濃さん。
いつものステージよりも広い空間なのに、彼女たちの存在が埋め尽くしていた。
のどかの透明感のある歌声が会場全体を包み、づっきーの明るく突き抜けた声が、それを前へ引っ張っていく。
岡崎さんはリズムを刻むようにしなやかに踊り、中郷さんの笑顔は会場を和ませる。
安濃さんはクールに見えて、ふとした瞬間に柔らかい笑みを見せた。
スクリーンに映る五人の姿は、誰一人として欠けていなかった。
それぞれが違う色を放ちながら、同じ方向を見ている。
その一体感に、観客の歓声が波のように押し寄せた。
ステージ終盤、づっきーがマイクを握りしめて叫ぶ。
「みんなー!今年の夏、最高の思い出できたー!!」
ライトが反射して、髪先が金色に光る。
その隣でのどかが優しく手を振り、観客に笑いかける。
あの瞬間、確かにスイートバレットは“青春そのもの”だった。
ライブが終わり、照明が落ちる。
ざわめきが名残惜しそうに消えていく中、俺は花楓ちゃんに頼まれたグッズの袋を確認した。
ロゴの下に並ぶ五人の名前が、汗ばんだ手のひらにやけに鮮やかに感じられた。
会場を出て、駅前のベンチに腰を下ろす。
グループチャット《きっしー観察会》を開く。
《ライブ見てきた。最高だった。》
送信してすぐに既読が二つついた。
づっきーからの返信は一瞬だった。
《ほんとに来てくれたの!?ありがとー! どうだった?》
《めちゃくちゃよかった。五人とも、ちゃんと前を見てた》
のどかからもすぐに。
《ありがとう蓮真。みんな、楽しそうだったでしょ?》
《ああ。見てて元気になるステージだった》
LINEの通知が消えたあと、しばらく画面を見つめていた。
ライブの余韻がまだ体のどこかに残っている。
手のひらには、グッズの袋の温もり。耳の奥には、観客の歓声。
けれど、そのすべてがだんだんと遠くなっていく。
ふと見上げた空には、ライトアップされた大阪城が浮かんでいた。
光の反射がゆらめいて、まるで現実の方が映像みたいに見えた。
九月一日
夜行バスで神奈川に戻ってきた。
大阪の熱気がまだ体の奥に残っている。眠れたようで眠れていない感覚。
街の空気はほんの少し秋めいていて、蝉の声の代わりに鈴虫の音が混じっていた。
帰宅して荷物を片付けていると、スマホが震えた。
表示された名前はづっきー。
《きっしー、おかえり!》
《ありがと。ツアーおつかれ》
スタンプが一つ送られてきて、続けてメッセージ。
《ねえ、三日の夕方、会えない?》
《三日?》
《うん。ツアー終わりでライブもないし、テレビの撮影もないの。久しぶりに自由な日なんだ》
何気ない文面だけど、読んだ瞬間、心の奥で小さく鳴った音を無視できなかった。
(……“話したいことがある”って、あの夜に言ってたやつか)
タブレットを開く。三日はボランティア活動の予定が入っている。
赤城の団体の打ち合わせと、次の週末のイベント準備。
……だけど、時間を少し動かせば、どうにかなる。
《その日、午前は予定あるけど、夕方なら大丈夫かも》
そう返すと、すぐに既読がついて
《やった!じゃあまた時間と場所決めよ!》
嬉しそうな絵文字が並んだ。
スマホを伏せ、しばらく考える。
づっきーは、たぶん何も特別なつもりじゃない。けれど、なぜだか、その一言だけが静かに胸に残る。
夜、赤城にLINEを送った。
《三日の打ち合わせ、午前中にずらせないかな》
《了解。午前に調整しておくね。何かあった?》
《ちょっと、用事ができた》
それ以上は何も聞かれなかった。彼女はそういうところで無理に踏み込まない。
(……ありがとう、赤城)
タブレットに残っていた大阪のライブ写真を眺めながら、心のどこかで、三日という日を何度も反芻していた。
あの無邪気な笑顔の裏にある“話したいこと”。
それがどんな言葉になるのか。想像しようとすると、なぜか胸が少しだけ痛くなった。
九月三日
金沢八景駅から歩いて五分ほどの市民センター。
夏休み明けということもあり、館内は人も少なく、エアコンの低い唸りと紙をめくる音だけが静かに響いていた。
窓際の会議室で、俺と赤城、上里の三人が机を囲んでいた。
テーブルの上には、活動記録のファイルと次回の予定表。
赤城がボールペンを手に、ホワイトボードに書き込みながら口を開く。
「次回の活動、十日は七里ヶ浜の海岸清掃で決定ね」
赤城がホワイトボードに日付を書き入れる。ペン先が小さく鳴る音が、静かな部屋に響いた。
「不登校支援って形で、子どもたちにも海辺の活動に参加してもらうつもり」
「前回の高尾山よりも気温は落ち着くだろうし、いいと思う」
上里がメモを取りながらうなずく。
「あと、後期が始まったら、ボランティア支援室にポスター掲示のお願いを出しておく。活動写真も一緒に貼ってもらえるように」
赤城の声は、いつものように無駄がなくて落ち着いている。
「写真は俺が整理しておくよ」
「助かる。岸和田くんの写真はいつも構図が自然だから、見てる人に伝わるから」
「そうか?そう思ってもらえるなら嬉しいな」
「うん。あ、あと活動日なんだけど」
赤城はノートを開き、週ごとのスケジュール表を見せた。
「今後は月の第二週と第四週の土曜日に固定しようと思ってる。参加する中学生たちも、予定を立てやすくなるはず」
「賛成。継続してやるなら、安定したリズムが大事だしな」
俺がそう言うと、上里も「定例化はいいと思う」と続けた。
ペンを置いた赤城が、軽く息を吐く。
「……少しずつ形になってきたね」
窓の外では、風に揺れる木々の葉が陽射しを反射していた。その光を受ける赤城の横顔は、まっすぐで、迷いがなかった。
(……赤城はほんとうに、前を見て動くタイプだ)
目的のために手を動かし、言葉を惜しまない。その姿勢は、どこかづっきーやのどかの“まっすぐさ”と似ていた。
「じゃあ、次回の詳細はまたグループで共有しよう」
赤城がそうまとめると、上里が時計を見て席を立った。
「私、午後から友達と会うから、先に出るね」
「おつかれ沙希。資料はあとで共有するね」
赤城が答え、上里は軽く手を振って会議室を出ていった。
ドアが閉まる音が静かに響く。
室内には、俺と赤城の二人だけが残った。
赤城は書類をまとめながら、何気なく尋ねてくる。
「岸和田くんも用事あるんだよね?」
「ああ。……少し、人と会う約束があって」
そう答えると、赤城は一瞬だけ目を細めて笑った。
「そっか。じゃあ、気をつけてね」
軽く言葉を交わして、会議室を出ようとしたそのとき。
パソコンのトラックパッドをなぞる小さな音が聞こえた。
ふと振り返ると、赤城がまだ席に残っていて、画面に映るSNSのタイムラインをじっと見つめていた。
その画面には、見覚えのある文字列が並んでいた。
《#夢見る》
スクロールする彼女の指が一瞬止まり、眉がわずかに動いた。
「……本当に、当たるのかな」
小さくつぶやいたあと、彼女はスマホを取り出し、どこかにメモを残すように画面を操作していた。
その横顔は、いつもの理知的な印象とは少し違って見えた。
まるで、何かを“確かめに行く”人の目だ。
俺は声をかけるタイミングを逃し、そのまま扉を押して廊下に出た。
静かな冷房の風が頬をかすめる。
(#夢見る……か)
のどかとづっきーから、その話を聞いたことがある。
“見た夢の内容とか、願い事が現実になる”まるで都市伝説みたいな話。
まさか赤城まで、そんなオカルトを信じてるのか?
首を振って、余計な思考を追い払う。
午前の涼しさとは対照的に、外の空気はまだ夏の名残を残していた。
このあと、夕方。づっきーとの再会が待っている。
夕方。渋谷駅の人混みを抜け、MIYASHITA PARKの屋上へと続く階段を上がる。
づっきーから指定された待ち合わせ場所は、「ドラえもん みらいのとびら」というモニュメントの前だった。
夕暮れの光が、どこでもドアをやわらかく照らしている。
その前で、白いキャップにワンピース姿のづっきーが手を振った。
「きっしー!」
明るい声とともに、いつもの笑顔。
「今日はありがと!わざわざ渋谷まで」
「いや、別に。……にしても、なんでここなんだ?」
「だってここ、ドラえもんのモニュメントあるんだよ?きっしー、ドラえもん好きでしょ?」
「……よく覚えてるな」
思わず笑うと、づっきーは胸を張って得意げに言った。
「しかもね、今日がドラえもんの誕生日なんだって!」
「九月三日……なるほど」
「でしょ? “未来につながる日”って感じがしてさ。話すなら、ここがいいかなって」
づっきーらしい。理由が可愛くて、どこか真剣だ。
二人でベンチに腰を下ろす。ビルの隙間を抜けて吹く風が、少しだけ冷たく感じた。
「……あのね、きっしー」
「ん?」
「ソロデビューの話が来てるの」
言葉の温度が一瞬変わる。づっきーは、膝の上で手を組みながら続けた。
「チーフから言われたんだ。“卯月、ソロでやってみないか”って」
「ソロって、グループと並行してじゃなくて?」
「ううん。もしやるなら、スイートバレットは卒業になるかもって」
言葉の“卒業”が胸に残る。
づっきーの声の奥には、揺れる気持ちがはっきり見えた。
「他のメンバーには、まだ言ってないの。なんか、どう話せばいいか分かんなくて……」
「それで俺に?」
「うん。きっしーなら、変にジャッジしないで聞いてくれるかなって」
俺はしばらく黙っていた。
頭の片隅に、以前の光景がよみがえる。
渋谷のこもれび大和田図書館で、のどかとづっきーと一緒に勉強していたときのこと。
づっきーは、まっすぐな目で言っていた。
「私たち、武道館目指してるから!」
その言葉の熱を、今でも覚えている。
「づっきー」
「うん?」
「俺、前渋谷で勉強会した時の“武道館目指してる”って言葉、すごく好きだった。あれは“みんなで夢を見る”って意味だっただろ?」
「……うん」
「だから、もしソロの話を受けるにしても、あの“みんなで”って部分を大事にすればいいと思う。自分が先に進むことが、チーム全体を広げる形になるなら、それは間違いじゃない」
づっきーは黙って俺を見つめ、やがて小さく息を吐いた。
「ソロの話は、すごく嬉しかった。自分を認めてもらえた気もした。でも、今の私が光って見えるのは、きっと五人でステージに立ってるからだと思う」
彼女の指先が、ベンチの端をぎゅっと掴む。
その横顔には、笑顔とも泣き顔ともつかない表情が浮かんでいた。
「だから、一旦断る。チーフには、まだやり残してることがあるって伝えるつもり」
「いい判断だと思うよ」
俺の声は自然と穏やかになっていた。
「俺はさ、づっきーの“スイートバレットのリーダー”としての顔も、“広川卯月”としての顔も、どっちも知ってる。でも、どっちも欠けたら“づっきー”らしくなくなる気がする」
「……きっしー、やっぱりずるいな」
づっきーが笑って、涙をこらえるように視線を上げた。
「そう言われたら、ちゃんと前見なきゃって思っちゃうじゃん」
「前を見るのは、づっきーの得意分野だろ」
「……うん」
夕焼けが街を染めていく。
ビルの隙間から吹く風が少しだけ冷たくなり、ドラえもんのモニュメントの“みらいのとびら”が、夕陽の中で淡く輝いた。
「ありがと、きっしー」
「いや、礼を言うのは早いだろ。まだこれからなんだから」
「……そうだね」
短い沈黙のあと、づっきーがふと思い出したように顔を上げた。
「ねえ、これ、のどかとかみんなには内緒にしててくれる?」
「ソロの話のことか?」
「うん。まだ整理ついてないし、心配かけたくないから」
「分かった。俺の口からは何も言わない」
「ありがと。きっしーなら、そう言ってくれると思ってた」
彼女の声が少しだけ和らぐ。
「ねえ、今度の三連休、空いてる?」
「多分な。どうした?」
「大学始まる前に、八景島シーパラダイス行かない?水族館とかさ、久しぶりにのんびりしたいなって」
「のどかも誘うのか?」
「ううん。きっしーと二人がいいな」
そう言って笑うづっきーの表情は、さっきまでの迷いが嘘みたいに澄んでいた。
強がりでも覚悟でもなく、素直な笑顔。
ドラえもんの誕生日に、“みらいのとびら”の前で未来を選ばなかった少女。
でも、その“選ばなかった勇気”こそが、彼女の未来を、少しだけ確かなものにしていた。
九月四日
昼下がりのファミレス。
ランチのピークが過ぎ、店内の空気が少し緩んでいた。
厨房の方からフライヤーの音が遠くに響き、窓際には午後の日差しが柔らかく差し込んでいる。
休憩時間、休憩室に腰を下ろしていると、花楓ちゃんがエプロン姿のまま顔を覗かせた。
「蓮真さん、それ……」
「ああ、これか」
バッグから、大阪限定のレモンイエローのTシャツと、づっきーのサイン入りアクリルキーホルダーを取り出す。
「花楓ちゃんから頼まれてたやつだよ」
「ありがとうございます!」
花楓ちゃんの目が一瞬で輝く。
「うわぁ……本物だ。かわいい……」
「会場の熱気もすごかったぞ。夏の締めくくりって感じだった」
「いいなぁ。私も行きたかったです」
嬉しそうにグッズを抱える花楓ちゃんの横で、古賀がトレーを持ったまま会話に入ってきた。
「大阪まで行ったんだ、きっしー先輩。意外とフットワーク軽いね」
「まあ、旅のついでみたいなもんだよ」
「でも、そう言うタイプの人が一番楽しむんだよね」
そう言って、古賀はストローを口にくわえながら小さく笑う。
その表情に、どこか言い出したいことがあるような気配があった。
「……そういえばね、あたし、推薦の話もらえそうなの」
「お、ほんとか。どこだ?」
「都内の女子大。枠が余ってるらしくて、先生が声かけてくれた」
「すごいじゃないか」
「うん……でも、なんかピンとこなくてさ」
古賀は指でストローを回しながら、小さくため息をついた。
「みんな進路決まってきてるのに、あたしだけなんか取り残されてる感じ。奈々ちゃんだって」
「米山さんがどうかしたか?」
「……七月に一緒に海行ったときにさ、ナンパしてきた男子が奈々ちゃんの中学の同級生だったんだ」
「そんな偶然あるんだな」
「でね、その二人、今すごくいい感じらしくて」
言葉のトーンは明るいけれど、どこか焦りが滲んでいた。
「奈々ちゃん、恋も勉強も順調で……いいなぁって思っちゃう」
「……古賀はいつだってまっすぐだし、そんなに焦らなくてもいいと思うぞ」
ぽろっと出た言葉に、古賀の肩が一瞬ぴくりと動いた。
そして、少し俯いたまま、笑うような声で言った。
「……それ、きっしー先輩に言われるとずるいなぁ」
「ずるい?」
「うん。先輩にそう言われたら、バリむかぁってなるけど……きっしー先輩だと、なんか素直に嬉しいかも」
「おいおい……」
思わず視線をそらす。横で花楓ちゃんが、それを見て小さく吹き出した。
「なんか、二人とも仲良いですね」
「そう見えるだけだよ」
「ふふ、そういうことにしておきます」
窓の外では、陽が少し傾き始めていた。
遠くのセミの声がかすかに聞こえ、空気の端っこに秋の匂いが混じっている。
夏の終わりは、たぶん、こういう他愛のない時間の中に静かに潜んでいるのだと思った。
九月十日
午前九時。まだ陽射しは柔らかいが、砂浜の照り返しには夏の残り香があった。
潮の匂いと湿った風が混ざり、空の青さが少しだけ白く霞んで見える。
今日は七里ヶ浜の海岸清掃。
地域ボランティアと学生団体が合同で行う活動に、俺たちの“不登校支援チーム”も加わっていた。
全体では三十名ほどの参加者。
その中で俺と赤城は、担当する中学生三人、女子ひとり、男子ふたりと行動を共にしていた。
「キャップ、落ちてた!」
「貝殻かと思ったらペットボトルだった!」
「ゴミ袋、こっちに入れてー」
中学生たちは最初こそ緊張していたが、波打ち際を歩くうちに自然と笑い声が混ざるようになっていった。
「前回の高尾山より楽しいかも」
女子生徒の声に、赤城が穏やかに微笑んで頷く。
「自然の中にいるだけで、少しずつ気持ちが軽くなるでしょ」
その言葉が、浜風に乗って柔らかく広がる。
午前中いっぱい、空には一度も雲がかからなかった。
昼過ぎ。作業を終えたあと、子どもたちを駅まで見送る。
「また来週ねー!」
車両のドアが閉まり、電車が走り出す。
笑顔のまま手を振る彼らを見届けてから、俺は小さく息を吐いた。
駅を出て、ふと振り返る。
海の方角に、まだ立ち去らずにいる赤城の姿が見えた。
潮風に髪を揺らしながら、じっと水平線を見つめている。
その姿は、普段の「現場をまとめる赤城」ではなく、どこか遠い世界を覗いているようだった。
「……どうかしたか?」
声をかけると、赤城はゆっくり振り向いた。
その瞳の奥には、ほんの一瞬だけ戸惑いが浮かんでいた。
「ううん。なんでもないよ」
言葉を探すように間を置いて、彼女は続けた。
「ただ……ちょっと懐かしいなぁって思って」
「懐かしい?」
問い返すと、赤城は一瞬だけ視線を逸らした。潮の音に紛れるような、小さな息づかい。
「……うん。部活の先輩たちと来たことがあるの。その時の空気に、少し似てる気がして」
わざとらしくはない。けれど、どこか“用意された答え”のようにも聞こえた。
「そうか。俺も中学の頃、よく来てたよ。この辺の空気が好きでさ。それで峰ヶ原高校を選んだのも、この湘南の雰囲気が近かったからだな」
「……そうなんだ」
赤城は笑った。けれどその笑みの奥に、一瞬だけ影が差す。
まるで、その学校名に、何かを思い出したかのように。
「赤城も、峰ヶ原に来ればよかったのにな」
軽い冗談のつもりで言った。
だが、赤城はなぜか少しだけ言葉を失ったように立ち尽くした。
そして、時間を置いて小さく頷いた。
「………うん。そうだね………」
その瞬間、世界が、ふっと静止した。
風の音が遠のき、波の光がゆっくりと鈍くなる。足元の砂の粒が、まるで別のリズムで時を刻み始めたように見えた。
(……この感じ)
のどかの時も、浜松さんの時も、米山さんの時も。誰かの“思春期症候群”に触れた時、いつも訪れる“現実の層のズレ”。
空気が半歩、ずれる。
自分だけが違う階層の現実に取り残されるような、不思議な浮遊感。
けれど、目の前の赤城は、そんな異変など感じていない。ただ穏やかに波を見ている。
「……気のせい、か」
呟いて目を細める。
視界の歪みは、潮風が通り抜けると同時にすっと消えた。
沈黙が戻る。波が寄せては返し、砂浜を濡らす。
赤城は微笑みながら言った。
「ねえ、岸和田くん」
「ん?」
「やっぱり、海っていいね」
「……だな」
彼女の笑顔が、陽の光に照らされて淡く揺れる。
その輪郭が、ほんの一瞬、現実と“もう一つの世界”の水平線に、滲んで見えた。
九月十四日
夕方の教室には、蛍光灯の白い光が静かに落ちていた。
夏期講習が終わっても、塾の空気はどこか熱を残している。
ホワイトボードの前では咲太がプリントをまとめ、その隣で双葉が採点した答案を整理していた。
「おつかれ、岸和田」
双葉が机に肘をつきながら声をかける。
「夏休み中、どこ行ってたの?」
「合宿免許。四国まで」
そう答えると、双葉がペンを回しながら小さく笑った。
「なるほどね。だからいなかったんだ」
「ん?」
「岸和田がいない間、私と梓川が岸和田の担当生徒を見てたんだよ。夏期講習の最中で、けっこう大変だったんだから」
「それはほんと悪いな」
「まあ、どうせ戻ってきたらまた押しつけるけどね」
双葉の口調は淡々としていたが、その目は冗談めいていた。
「で、双葉は夏休み何してたんだ?」
「一人暮らししてる友だちの家で鍋したくらい。あとはずっとここだね」
「真面目だな」
「褒め言葉として受け取っとく」
双葉がそう言ったタイミングで、咲太がホチキスを片手に割り込んできた。
「こっちはこっちで地味に地獄だったんだぞ」
「地獄?」
「麻衣さんが先月末から北海道に撮影行ってて、全然会えてない」
「……そうか。俺も似たようなもんだよ」
「ん?」
「づっきーとのどか、テレビの収録とかライブで忙しくて、夏は一回もまともに会えてない」
「でもお前にはボランティアがあるだろ?」
「まあな。先週の土曜日も行ってきたし」
双葉が興味ありげに尋ねる。
「不登校支援でボランティアしてるって言ってたやつ?」
俺は思い出したように頷く。
「そうそれ。あとそういえば咲太、赤城郁実ってやつ知ってるか?」
咲太の手が止まった。数秒の沈黙のあと、静かに言葉を返す。
「岸和田、お前……なんで赤城のこと知ってるんだ?」
「そりゃボランティア一緒にやってるからだよ」
「一緒に?」
「そう。中二の時、同じクラスでさ。大学入って再会したんだ」
咲太は目線を少し落とした。記憶の奥を探るような仕草。
——一年半前。あの“可能性の世界”で。赤城が、自分に言っていた言葉が頭をよぎる。
「……中二の時、同じクラスだったから」
(なるほどな)
小さく息を吐いた咲太の声が、妙に静かに響いた。
「赤城って、どの学部なんだ?」
咲太が何気なく尋ねると、俺は少し考えてから答えた。
「看護学科だよ。それがどうかしたか?」
「……いや、なんでもない」
俺は首を振り、視線を答案に戻す。けれど、胸の奥には小さな引っかかりが残っていた。
そのまま話題は、授業の進行や次回のシフトの話に移った。けれど。
(やっぱり、何か隠してるな)
そう思った。でも、“何を”とは分からない。
ただ、咲太の中に“触れてはいけない層”がある気がした。
俺自身も、思春期症候群の経験を誰にも話していない。だからこそ、無理に踏み込むことはしなかった。
蛍光灯の白い光が、静かな教室を照らしている。紙をめくる音、鉛筆の先がノートを擦る音。
その日、外では夏の名残を告げる蝉が最後の声を振り絞っていた。
ふと、時計を見ると夜八時を回っていた。
(そういえば、来週の三連休……づっきーと八景島行く約束してたんだっけ)
スマホを開き、カレンダーを確認する。
十七日は免許センター、十八日は大津と浜松さんの試合。
予定の空きは、十九日しかなかった。
《づっきー、来週の三連休だけど、十九日で大丈夫そう?》
すぐに既読がつき、数秒後に返信が届いた。
《いいよ!楽しみにしてるね!》
画面の向こうから明るい声が聞こえてくるような気がした。
(……そうか。じゃあ、十九日、か)
胸の奥で、さっきまでとは違う種類の静けさが広がる。
現実の中で、確かに何かが動き出している。
蛍光灯の下、プリントを束ねる咲太の横顔を見ながら、俺はひとり、スマホをポケットにしまった
九月十七日
午前中、神奈川県の運転免許センター。
講習を終えて渡されたプラスチックカードを受け取った瞬間、ほんの少しだけ、指先が震えた。
「……ついに、取ったか」
小さく呟いて、免許証を光にかざす。
白い天井灯が反射して、写真の中の自分が少しだけ大人びて見えた。
その足で、バスと電車を乗り継いで渋谷へ向かう。
目的はひとつ。夏の終わりからずっと引き取りを待っていた、Bianchiのロードバイク。
店に入ると、チェレステグリーンのフレームが壁際で静かに光っていた。
「お待たせしました、VIA NIRONE 7ですね」
スタッフが慎重にバイクを押し出す。
ペダルを取り付け、ハンドルを握った瞬間、
イタリア語で“始まりの道”を意味するその名の由来を思い出した。
(VIA NIRONE……“出発の道”か)
思わず口元が緩む。
高校、大学、そして中学の時のループを越えた今の自分にとって、この名前は偶然とは思えなかった。
サドルの高さを微調整し、ボトルケージを確認。レジを済ませると、スタッフが笑って言った。
「安全運転で。納車日は今日ですから、記念日ですね」
「そうですね」
そのままロードにまたがり、渋谷の街を抜けて目黒方面へ。
夕方の陽射しがビルの間から反射して、チェレステのフレームが淡く光る。
代官山を越え、目黒川沿いを滑るように走る。
軽いギアで回すペダルの感触が心地いい。
エンジンのような音も、車の混雑も、遠くに霞んでいった。
実家のある目黒の住宅街に着く頃には、汗ばむ額に風が心地よかった。
玄関の前でブレーキを握り、バイクを立てかける。
「……ただいま」
言葉が自然に漏れた。
夏の間ずっと外に出ていた気がして、家の空気が妙に懐かしく感じられる。
荷物を置いて一息ついたあと、スマホを取り出した。
大津と浜松さんのグループLINEにメッセージとロードバイクの写真を送る。
《免許、無事に取れた。ついでにロードも買った》
送信してしばらくすると、通知が二つ立て続けに鳴った。
《やったじゃん!岸和田、ついにライダーだ!》
《Bianchi買ったんだ!?似合うね》
大津と浜松さん、テンションの高いリアクション。
《明日のお台場、試合それで来なよ!》
《うん、それいいと思う。海沿い走れるし!》
《……いいかもな、それ》
返信しながら、窓の外の空を見上げた。
薄い雲の切れ間から、夕方の光が静かに落ちてくる。
免許証と、Bianchi。
どちらも“走り出すための鍵”だった。
明日、初めてのロングライドでお台場へ向かう。
その先に待つ景色が、少しだけ楽しみだった。
九月十八日
午前の陽射しがまだ柔らかいうちに、お台場海浜公園に着いた。
昨日引き取ったばかりのBianchiのVIA NIRONE 7。
ペダルを踏みながら海沿いを抜けると、チェレステのフレームが水面の光を反射して、まるで海と同化しているように見えた。
砂浜の向こうには、ビーチバレーコートが並び、アナウンスと歓声が入り混じっていた。
コートサイドには見慣れた二人、大津と浜松さんの姿。
ペアのユニフォームをまとい、試合開始を待つその背中は、夏の日差しの中でひときわ眩しかった。
笛が鳴り、試合が始まる。
大津のスパイクは相変わらず鋭く、浜松さんのトスは砂の上とは思えないほど滑らかだった。
彼女のたちのプレースタイルは静かで正確。
大津の声が響くたびに、砂が舞い上がり、観客席の歓声がひとつに重なった。
セットカウント2―1。
接戦の末に二人は勝利を収めた。
大津が砂まみれの手でガッツポーズを上げ、浜松さんが小さく笑う。
その光景が、風と海の音と一緒に心に残った。
「岸和田ー!」
試合後、コート脇から声が飛ぶ。
「来てくれたんだ、ありがとう!」
「本当にロードで来たんだ!?」
「まあな。初ライドだよ」
言いながら、Bianchiを押して二人のもとへ歩く。
浜松さんが目を丸くした。
「やっぱりBianchiって、センスあるね岸和田くん」
「うん、岸和田っぽい色!」
「どういう意味だよ」
「なんかさ、“静かに速そう”って感じ」
「それ褒めてるか?」
「もちろん!」
三人で笑い合いながら、二人のバイクも見せてもらう。
大津の愛車はGIANTのTCR。マットブラックに青のラインが映えて、力強さと軽さを両立していた。
浜松さんの愛車はCANNONDALEのCAAD13。ホワイトベースにシルバーのパーツが美しく、彼女の落ち着いた性格を映すようだった。
「いいなぁ……二人のセッティングは違うな」
「まあ、私たちもまだ初心者だけどね」
「岸和田ももう仲間入りだね」
「え?」
大津が笑って言う。
「十月の三連休、三浦にでもロングライド行こうよ!三人で」
「海沿いのコース、走るの気持ちいいよ」と浜松さんも頷く。
「三浦か……前も言ってたな」
頭の中に、青い海と坂道のある風景が浮かぶ。確かに、今の自分なら、行けそうな気がした。
「……いいな、それ。行こう」
「決まり!」
大津が笑って拳を突き出す。浜松さんが軽くその拳を小突き、三人の間に潮風が吹き抜けた。
試合会場のざわめきが遠ざかる。
海の光とロードの色が重なって見えた。
昨日よりも、ほんの少しだけ前へ進めた気がした。
九月十九日
空は高く、秋の風が少しひんやりしていた。
潮の香りがホームに漂う中、改札の向こうで手を振る姿が見える。
白いカーディガンに淡いピンクのニット、細身のデニム。
その服装はいつものステージ衣装とは違い、柔らかい雰囲気をまとっていた。
「きっしー!」
づっきーがパンフレットを手に駆け寄ってくる。
「待たせたか?」
「ううん、今来たとこ!」
軽い会話を交わすだけで、どこか心拍数が上がる。
同じグループの友だちとして何度も会っているのに、二人きりという状況が、今日はやけに特別に感じた。
「……なんか、今日の格好、いつもより落ち着いてるな」
「でしょ? “秘密のデート”っぽくしてみた!」
「おいおい……」
冗談っぽく笑う声。だけどその瞳の奥には、少しの照れが混じっていた。
言葉にできない何かが、胸の奥で静かに波打つ。
園内は祝日らしい賑わい。家族連れやカップルが行き交う中、潮風が髪を揺らす。
「まずは水族館行こっ!」
「了解」
ドルフィンファンタジーのトンネルをくぐると、そこは青の世界。
イルカが水面を滑り、光の粒が水槽越しに踊る。
「わぁ……やっぱりここ好き」
づっきーの声が、水の揺らぎと重なって消えていく。
その横顔を見ていると、時間の流れが遅くなったように感じた。
(……なんだ、この感覚)
観光客のざわめきが遠のいていく。
音がゆっくりと水に沈んでいくように、世界の輪郭が曖昧になっていく。
まるで、自分だけが違う層の現実に取り残されたような、あの“浮遊感”。
(おかしい……誰も思春期症候群の兆候なんて出ていないのに)
手すりを握る指先に、わずかな冷たさ。
気のせいだと思いたくても、心のどこかで“何か”を感じていた。
「きっしー、見て!ペアで泳いでる!」
「ほんとだ」
「いいなぁ……こういうの。息ぴったりって感じ」
その声で現実が戻る。
水槽の光が彼女の頬を照らし、柔らかな笑顔を映していた。
「腹減ったな」
「じゃあ海沿いのカフェ行こ!」
昼はテラス席で潮風を感じながら、海鮮ドリアとハンバーガー。
「ねぇ、一口ちょうだい!」
「お前、最初から狙ってただろ」
「えへへ、バレた?」
笑い合う声が、波の音と混ざって心地よく響いた。
午後、づっきーが指をさした。
「あれ乗ろうよ、シーパラダイスタワー!」
「……あの高いやつか」
「そう、それ!空から海見るの好きなんだ」
展望タワーのカプセルがゆっくりと上昇を始める。
床が静かに回転しながら、視界が広がっていく。
下には、さっきまで歩いていた海辺の道。
遠くに八景島の橋、その先には横浜の街並み。
太陽の光が海面に反射して、まるでガラスの破片を撒いたようだった。
「わぁ……!綺麗すぎる」
「……すげぇな」
横顔を見やると、づっきーの瞳に光が映りこんでいた。
青と金が混ざり合い、まるで別世界のようだった。
(……現実が、少しだけ遠い)
上昇を続けるタワーの中で、また世界の層がわずかに揺らぐ。
外の景色が一瞬だけ静止したように見えた。でも、隣の彼女はその変化に気づかない。
「ねぇ、きっしー」
「ん?」
「こういう時間、久しぶりだね」
「……そうかもな」
「最近バタバタしてるから。今日みたいに“何も起こらない時間”が、ちょっと嬉しい」
言葉の一つ一つが、海風に溶けていく。
俺は何か返そうとしたが、喉の奥で言葉が止まった。
タワーがゆっくりと下降を始める。
づっきーは手すりに指をかけ、窓の外を見つめたままぽつりと言った。
「来週から、また大学始まるね」
「後期からは基礎ゼミで一緒だろうしな」
「うん……」
頬をうっすらと紅く染めながら、づっきーがうなずく。その横顔を見て、なぜか胸が熱くなった。
(……なんでだろう)
タワーが地上に着く頃、俺たちはいつの間にか黙っていた。けれど、その沈黙が不思議と心地よかった。
夜。ライトアップされたアクアミュージアムのイルカショーの光が波に映り、イルカの影が水面に揺れていた。
「今日はありがとね、きっしー」
「いや、こっちこそ。楽しかった」
「また行こうね、こういう“秘密のデート”」
「おいおい」
冗談めかした声。けれど、づっきーの笑みは少しだけ照れていて、目を逸らした俺の頬も熱を帯びていた。
駅へ向かう道すがら、潮風の中、づっきーが振り返って手を振る。
「じゃあね、また大学で!」
「おう」
その背中が、街灯に照らされて小さく揺れた。
俺はまだ、自分の気持ちに気づいていなかった。
ただ、現実のどこかが少しずつズレていく、その予感だけが確かに残った。
九月二十四日
午後四時過ぎ。
夏の名残を感じさせる陽射しが、ガラス張りのキャンパスの床を照らしていた。
YCUスクエアの一角にあるスチューデントオフィス。
ウチの大学では、ボランティア団体や学外サークルなどに、こうやって大学施設を開放することがある。
今日はそれを利用して、不登校支援活動の一環として、中学生たちに勉強を教える日だった。
「じゃあ次、数学のプリントね」
赤城が配るプリントを受け取りながら、俺は横で生徒の質問に答える。
上里は別テーブルで理科を担当していて、時々「そこ、ちょっと違うよー」と笑いながら声をかけてくる。
「郁実先生、ここの解き方もう一回!」
「いいよ。ここはね」
赤城はしゃがんで生徒と目線を合わせ、ゆっくりと説明を続けた。
その穏やかな声が、窓越しの午後の光と溶け合う。
(……やっぱり、赤城はすごい)
押しつけがましくなく、どんな相手にも同じ温度で接する。赤城のそういうところに、子どもたちは安心しているのが分かった。
活動が終わる頃には、外はすっかりオレンジ色に染まっていた。片付けを終えたあと、三人でオフィスを出る。
「じゃあ私は資料を支援室に戻してくるね」
赤城がファイルを手に歩き出す。
上里は腕時計を見て、「あ、もうこんな時間。ごめん、私このあと佑真と会う約束あるんだった」と言った。
「国見と?」
「うん。もうすぐ消防士の訓練が終わるから、そのお祝いってことで」
「なるほどな」
「じゃ、またグループでまとめ送っとくから」
軽く手を振って、上里は夕陽の射す廊下を小走りで去っていった。
赤城が戻ってくるまでの間、俺は廊下をなんとなく歩いていた。そのとき、エントランスの方から声が聞こえる。
(……赤城?)
ガラス越しに視線を向けると、彼女の前にひとりの男性が立っていた。
二十代前半くらい。スーツに細縁の眼鏡。真面目そうな雰囲気だが、表情には緊張が走っている。
「……だから、そういうことじゃないんです」
赤城の声が少しだけ強く響く。
男性は短く息を吐き、何かを言い返した。
遠くて内容は聞こえない。けれど、二人の間に漂う空気がただの立ち話ではないことだけは分かった。
(知り合い……なのか?)
言葉を交わすたびに、赤城の眉がわずかに寄る。彼女がこんな表情を見せるのは初めてだった。
やがて、男性が頭を下げて立ち去る。
赤城はその背中を見送ったあと、短く息を吐いた。
俺は角を曲がり、何気ないふうを装って声をかける。
「おつかれ、赤城」
「……あ、岸和田くん」
笑顔を作ろうとした口元が、ほんの少しぎこちない。
「今の人、知り合い?」
軽く聞いたつもりだったが、赤城は一瞬だけ視線を逸らし、
「……うん……まぁ、ちょっと、大学の関係で」
とだけ答えた。
「大学の関係……?」
それ以上、彼女は何も言わなかった。
沈黙のまま並んで歩くと、ガラス越しに夕焼けが差し込み、二人の影が長く伸びる。
すれ違う学生の声が遠くで響き、足音だけが静かに残る。
(……ただの知り合い、じゃなさそうだ)
胸の奥に小さな違和感を残したまま、俺たちは校舎を後にした。
校舎を出ると、夕焼けはさらに濃い朱に染まり、ガラス張りの通路に長い影を落としていた。
夕焼けに染まる街を抜け、駅が見えてくる。
いつもなら、赤城も俺と同じ、横浜方面行きのホームへ向かうはずだった。
少なくとも、これまでの帰り道はいつもそうだった。
だが今日の赤城は、改札を通ったあと、一瞬だけ立ち止まると……
迷いもなく、横須賀方面行きのホームへ歩き出した。
(……あれ?)
思わず声をかける。
「赤城、帰りそっちなのか?」
振り返った彼女は、驚いたふうでもなく、ただ少しだけ言葉を選ぶように間を置いて、
「……うん、今日はちょっとね」と短く答えた。
その返し方が、いつもと違う。
言いにくい用事、というより、何かを隠しているような響き。
「用事?」
軽く尋ねると、赤城は控えめに笑った。
「まぁ……そんなところかな」
それ以上言わせてはいけない気がして、俺も「そっか、ならホームまで送るよ」と頷く。
けれど、彼女の手元が一瞬だけ見えた。
スマホの画面には、小さく光る文字。
《#夢見る》
スクロールしながら、真剣な目で何かを読み込んでいる。
その横顔は、いつもの赤城とは似ているようで、どこか違って見えた。
(#夢見る……またそれか)
最近流行っている、“夢の内容を投稿する遊び”。
なのにこのところは「正夢だった」という報告が妙に増えている。
(まさか赤城まで信じてるってわけじゃ……)
そう思いかけたとき、アナウンスがホームに響く。
「まもなく横須賀方面行きが到着いたします」
赤城はスマホをしまい、小さく会釈する。
「じゃあ、また連絡するね。今日はありがとう」
「おう、気をつけて」
電車のドアが開くと、赤城はスッと乗り込んだ。
車内の明かりに照らされた横顔は、どこか決意のようなものを宿しているように見えた。
扉が閉まり、電車がゆっくりと動き出す。
(……やっぱり、変だよな)
赤城の家がある方向とは逆。
しかも、あの《#夢見る》タグを確認してから動いたように見えた。
偶然か、気のせいか。
だけど胸の奥に引っかかる違和感は、簡単には消えなかった。
俺はただ、彼女がこれからどこへ行くのか知る由もないまま、横浜方面行きのホームに向かった。
九月二十五日
夕方のファミレスの店内は、放課後帰りの学生や家族連れでほどよく賑わっていた。
窓の外はすでに赤みを帯び、街灯の明かりがガラス越しに滲んでいる。
俺と花楓ちゃんは、並んでホールのシフトに入っていた。
「いらっしゃいませー!」と明るい声を響かせる彼女は、もうすっかり接客にも慣れている。
「花楓ちゃん、ドリンクバー補充お願い」
「はいっ!」
返事も気持ちいい。動きも丁寧で、客層にも評判がいい。
そんな中、入口の方から見覚えのある女性が入ってくるのが見えた。
「あ……」
花楓ちゃんが一瞬だけ目を見開く。
その視線の先にいたのは、友部さんだった。
「こんばんは花楓さん」
落ち着いた微笑みを浮かべて、彼女はレジ前まで歩いてくる。
「こんばんは美和子先生。おひとりですか?」
「ええ。花楓さんの頑張ってる姿を見に来たの」
そう言って、優しい目で彼女を見つめた。
「……!」
花楓ちゃんの声に少し驚きと照れが混ざる。
「せっかくだから、コーヒーでも飲んでいくわね」
そう言ってテーブルに座る友部さんのもとへ、俺が注文を取りに行った。
「ホットコーヒーひとつでよろしいですか?」
「うん。ありがとう岸和田くん」
伝票を置いたあと、少しだけ会話の流れができた。
「岸和田くん五月に会った以来ね。元気にしてた?」
「はい。大学の授業とバイトでなんとかやってます」
「そう。……花楓さんの指導も、いつもありがとうね」
「いえ、むしろ助けられてます」
友部さんはコーヒーを受け取りながら、ふと穏やかに尋ねた。
「そういえば、最近は何か活動してるの?」
「はい。不登校の子どもたちを支援するボランティアをやってて。赤城郁実っていう友人が立ち上げた団体なんです」
「まぁ……そうなのね」
その言葉に、友部さんの目が少しだけ和らぐ。
「もし岸和田くんさえよければ、スクールカウンセラーとして何か手伝おうか?」
意外だった。でも、その申し出に胸の奥が熱くなった。
「……本当ですか?ぜひお願いします。今度、赤城にも会ってください」
「もちろん。来週の土日なら空いてるから、詳しい日程が決まったら教えてね」
会計を済ませ、店を出る時、友部さんはもう一度花楓ちゃんに目を向けた。
「花楓さん、立派になったわね」
「ありがとうございます!」
店を出ていく背中を見送りながら、俺はスマホを取り出した。
LINEを開き、赤城の名前をタップする。
《来週の一日か二日、時間あるか?俺の知り合いのスクールカウンセラーの人が、赤城の活動を手伝いたいって言ってくれてて。会ってみないか?》
送信して数分後、既読がついた。
《ぜひ。ありがとう、岸和田くん。二日がいいかな》
その短い返信に、赤城らしい落ち着いた温度があった。
《了解。そう伝えておくよ》
画面を閉じ、厨房に戻る。
コーヒーの香りがまだ残るフロアで、花楓ちゃんが新しい伝票を取って走っていく。
人と人が繋がる瞬間というのは、案外こうして、何気ない一日の中にあるのかもしれない。
九月二十六日
キャンパスの並木道に、秋の風が通り抜けた。
木々の葉が少しだけ色を変え、夏とは違う匂いを運んでくる。
後期が始まった初日。駅から坂を上り、大学の正門を抜けると、広場のベンチにづっきーが座っていた。
白のブラウスにベージュのジャケット。
小物のアクセサリーも控えめで、ステージ衣装とはまるで違う、大学生らしい装いだった。
「きっしー、おはよ!」
手を振る声に、自然と笑みがこぼれる。
「おはよう。早いな、いつもより」
「んー、撮影の入りが遅いから、基礎ゼミがある午前だけ来たの!」
そう言って笑う姿に、なんとなく安心する。
夏の間に多忙を極めていた彼女が、こうして少し落ち着いた表情を見せているのが嬉しかった。
そこへ、づっきーの友達グループがやってきた。彼女たちは同じ学部の女子数人で、普段からづっきーと仲が良い。
「ねぇねぇ、岸和田くんって卯月ちゃんと付き合ってるの?」
不意の問いに、思わず間を置く。づっきーが慌てて手を振った。
「ち、違うよ!そういうのじゃないから!」
「えー、だっていつも一緒にいるじゃん」
「それは……ほら、きっしー、大学の課題とか手伝ってくれるから!」
「アイドルは恋愛禁止だから!」と軽く笑ってみせるその声に、どこか焦りの色が混ざる。
俺も苦笑しながら否定した。
「いや、ほんとに違うよ。友達として普通に会ってるだけ」
「ふーん?」
彼女たちは意味ありげな視線を残して去っていく。
その背中を見送りながら、ふとづっきーが黙り込んだ。
「……なんか、こういうの、ちょっと難しいね」
「何が?」
「……空気を読むっていうのかな……どう振る舞えばいいのか、少し考えちゃった」
彼女の声は珍しく静かだった。
この時、広川卯月が“空気を読む”という言葉を、自分の感情として口にしたのは初めてだった。
その時、背後から明るい声がした。
「蓮真、卯月!」
のどかが手を振りながら近づいてくる。
「のどか、久しぶりだな」
「うん!やっと大学戻ってきたって感じ!」
三人でキャンパスを歩きながら、後期の話をする。
「基礎ゼミ、咲太も一緒だよね」
「そうそう。これでまた賑やかになりそう」
「だな。お互い後期も頑張ろう」
小さく拳を合わせて笑い合う。
——この光景が、当たり前に続くと思っていた。
だが、基礎ゼミを受けた後の別れ際。
「じゃあ、私そろそろ行くね。午後から撮影なの」
づっきーはそう言って笑顔を作るが、その声の裏にわずかな疲れが滲んでいた。
手を振って走り去る背中を見送りながら、のどかがぽつりとつぶやく。
「最近、卯月のオファーが多くてさ。スケジュールがみんなと合わなくなってきてるんだ」
「そうなのか」
「うん。……ちょっと、心配なんだよね。あの子、無理するタイプだから」
その言葉で、ふとこの間の“ソロデビュー”の話が頭をよぎった。
づっきーが迷いながらも抱えていた、あの葛藤。
(スイートバレットは、今、グループとしての転換点を迎えているのかもしれない)
そんな予感が、胸の奥に静かに沈んでいった。
「……卯月、平気かな」
「大丈夫だろ。づっきーはどんな時もちゃんと笑うから」
のどかが小さく微笑んだ。
夕方、校門の前でのどかと別れる。
「またね」と言い合って背を向けたその瞬間、空気が変わった。
(……?)
足元の影がわずかにずれる。
風の音が一瞬、遠ざかり、世界の輪郭が薄くなった。
まるで、現実から半歩だけ離れた場所に自分が立っているような感覚。
振り返る。誰もいないはずの道の先で、何かが見えた気がした。
人の気配。でも、そこには誰の姿もない。
(……気のせい、か?)
いや、確かに“いる”。視線の端で、空気の層がゆらりと揺れた。
そして、すぐに消える。胸の奥に、説明できないざわめきだけが残った。
その時、ほんの一瞬、風の向こうから、小さな呟きが聞こえた気がした。
「……わたしは……霧島透子……」
振り返っても、そこには誰もいない。
夕焼けだけが、静かに校門の影を伸ばしていた。
————————
ずっと嘘みたいな うろ覚えの歌
ふと唐突醒めた夢
ずっと泣いてたかった 句点のない世界
そっと解く 君の腕
本当は離れ離れ
引き裂かないで
寄せて 返して返して!
傲慢なんだ
水平線は僕の古傷
まだ青く 溢れるmonologue
僕はこのまま 象られてくだけなの?
それじゃいっそ
————————
次回
『青春ブタ野郎は望んだワンステージの夢を見ない』
広川卯月
『さすがきっしー、ブタ野郎だね』
この章をもって、『青春ブタ野郎はオブザーブサークルの夢を見ない』の物語は一区切りを迎えます。
時系列でいえば、高校三年生の三月から、大学一年生の九月末までのお話しです。
今章は、原作の大学生編へとつながる前日章として執筆しました。
作中に登場する郁実のボランティア活動の手伝いや、卯月の「空気を読む」という小さな感情の芽生え。これらはすべて、原作には存在しないオリジナルの補完要素として設計しています。
特に卯月の思春期症候群の発端を、短編小説『青春ブタ野郎はトロピカルサマーの夢を見ない』を土台にして、卯月の“誰にも言えない蓮真への仄かな想い”として、その最初の違和感を描くことも意識しました。
また、郁実と蓮真のボランティア活動を通して、後の大学生編での人間関係の下地となる、観察者としての蓮真から、支える者としての蓮真の姿を掘り下げています。
今章は、原作には存在しないエピソードや人物設定を多く加えつつも、世界観や人物の温度感は、できる限り『青春ブタ野郎シリーズ』の空気に寄り添うよう意識しています。
原作の大学生編で描かれる咲太たちの物語のひとつ前に、こんな日常があったのかもしれない。そんな“もしも”の季節として読んでいただけたら嬉しいです。
次章からはいよいよ、原作の大学生編の始まりの物語である『青春ブタ野郎は迷えるシンガーの夢を見ない』へと合流します。
原作に合流してストーリーを進めるにあたっては、基本原作の雰囲気に寄り添いつつも、オリジナル展開も含む予定です。
オリジナルの展開が続いてきたこのシリーズも、一旦はここでひと区切りですが、この物語の歩みは止まりません。
感想や考察など、一言でもいただけたら、次章を書くうえで大きな励みになります。
これからも、岸和田蓮真の視点が照らす青春に、どうぞお付き合いいただければ幸いです。
これまでのヒロインで好きなキャラを教えてください
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豊浜のどか
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広川卯月
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桜島麻衣
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双葉理央
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古賀朋絵
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梓川花楓
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大津美凪
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浜松夏帆
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米山奈々
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赤城郁実
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牧之原翔子
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吉和樹里
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上里沙希
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鹿野琴美