青春ブタ野郎はパラレルスプリングの夢を見ない   作:もドえラん

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青春ブタ野郎は望んだワンステージの夢を見ない『広川卯月編』
1.秘密と約束の狭間で、揺れる心を包む


 

 九月三十日

 

 「大人になるって、どういうことなんだろう」

 

 海風に揺れるロングの黒髪と、深いワインレッドのロングコート。

 

 白いタートルネックに、ブラウンチェックのロングスカート。

 

 三宅島・伊豆岬灯台。夏の名残を残した空の下で、麻衣は台本の最後の一節を静かに読み上げた。

 

 「ねぇ。君はまだあの頃のまま?」

 

 その瞳には、どこか懐かしさと柔らかい笑みが混ざっていた。

 

 カメラマンが声をあげる。

 

 「はい、カット。OKです」

 

 スタッフが一斉に拍手し、麻衣はほっと肩を落とした。

 

 ロケは順調に終わり、これから空路で東京に戻る予定だった。

 

 場面は変わり、大学内の公衆電話ボックス。

 

 咲太は、大学構内にある小さな電話ボックスで受話器を耳に当てていた。

 

 「もしもし咲太?今ちょうど撮影終わったところ」

 

 「お疲れ様でした、麻衣さん」

 

 声を聞いただけで、咲太の表情が少しだけ緩む。

 

 「咲太、今日は何時くらいに帰れそう?」

 

 電話ボックスの外では、福山が早く出てこいと言わんばかりに待っていた。

 

 その隣には、講義終わりののどかと卯月もいる。

 

 「それが……福山から基礎ゼミの懇親会に誘われたので、少し遅くなりそうです」

 

 「ふーん……」

 

 (あ、これちょっと拗ねてるやつだ……)

 

 咲太は心の中でため息をついた。

 

 外での会話が耳に入ってくる。

 

 「懇親会、豊浜さんと広川さんもどう?」

 

 「行きたい!」と卯月。

 

 「これからリハーサルでしょ?」と即ツッコミするのどか。

 

 「あ、そうだった!」と素で忘れていた卯月。

 

 咲太は電話へ意識を戻す。

 

 「夏休みもほとんど会えなくて、一ヶ月ぶりにやっと会えるのに、懇親会に行っちゃうんだ?」

 

 「せっかく麻衣さんと同じ大学なのに、まさかこんなに会えないとは思ってなかったので……行くなと言われれば断ります」

 

 「いいんじゃない? 私も今からだと帰りは少し遅くなるし。夜に顔だけ見に寄ってあげる」

 

 「では、お言葉に甘えて」

 

 「咲太好みの可愛い子がいるといいわね」

 

 「それは楽しみだなぁ」

 

 「浮気したら許さないからね」

 

 「しませんよ」

 

 ——同じ日の、同じキャンパス。

 

 俺は中庭のベンチに腰を下ろし、スマホの画面をぼんやり眺めていた。

 

 国際商学部の小谷先輩から「今日、顔合わせ兼ねて基礎ゼミの懇親会やるから、岸和田くんも来てよ。俺、幹事やるからさ」と誘われていたものの、正直なところ悩んでいた。

 

 (……知り合い、いるかわからないんだよな)

 

 同じ学部に友だちと言えるほど仲がいい奴がいるわけでもない。

 

 咲太と福山は別の学部だし、サークルにも入ってない。

 

 赤城はボランティア活動が忙しいだろうし、そもそも赤城は基礎ゼミを履修していない。

 

 大学は広くて、気づけばひとりでいる時間が増えている。

 

 そんなとき、ふと《きっしー観察会》の通知が鳴った。

 

 《ねぇきっしー、いまどこ?》

 

 《咲太、今からお姉ちゃんに電話するって。電話ボックス前にいる》

 

 (……麻衣先輩に電話?なんだその情報)

 

 とはいえ、づっきーとのどかがいるなら、このまま懇親会に行くよりはよほど心が落ち着く。

 

 俺は立ち上がり、本校舎の片隅の電話ボックスへ向かった。

 

 ちょうど着いた頃、咲太が受話器を置いたところだった。

 

 福山が横でニヤついている。

 

 「お、岸和田。お前も懇親会来るか?」

 

 突然声をかけられ、少し驚きつつ答える。

 

 「ああ。学部の先輩から誘われてて……知り合いがいないか探してたところだった」

 

 福山が満面の笑みで肩を叩いてくる。

 

 「よし、じゃあ一緒に行こうぜ!人数は多いほうが絶対面白いって!」

 

 「……ああ。ありがとう」

 

 その隣で咲太が苦笑いしつつ、

 

 「岸和田、観察ばっかりするなよ」

 

 と肩を竦めた。

 

 そこへ、づっきーとのどかが手を振りながら近づいてくる。

 

 「蓮真、懇親会行くの?」

 

 「ああ。先輩から誘われてたから」

 

 「そっか……あたしたちはリハだけど、楽しんできてね!」

 

 づっきーが、なぜか妙にキラキラした目で身を乗り出す。

 

 「ねぇきっしー、懇親会の味、あとで教えて!」

 

 「……おいづっきー。お前は俺をなんだと思ってるんだ……」

 

 「うーん、味覚センサー?」

 

 「違うは」

 

 のどかは「ほら、行くよ!」と卯月を引っ張っていき、

 

 振り返りざまに軽く笑った。

 

 「……頑張ってね、蓮真」

 

 そう言って、ふたりはリハーサルへ向かっていった。

 

 二人の背中が離れていくのを見送りながら、胸の奥にふっと空気が抜けるような感覚が残った。

 

 (……来ないのか)

 

 リハーサルがあると分かっていたのに、それでもどこかで、ほんの少しだけ期待していた自分がいる。

 

 いつも賑やかに場を明るくしてくれる二人が参加したら。そんな思いが一瞬よぎる。

 

 その微かな気持ちを断ち切るように、横から肘で小突かれた。

 

 「なぁ岸和田」

 

 福山がにやっと笑う。

 

 「相変わらず豊浜さんと広川さんと仲良いな、お前」

 

 「……普通に友だちなだけだよ」

 

 「いやいや、あの距離感はどう見ても普通じゃないって。お前、人生イージーモードだろ?」

 

 「そんなわけないだろ」

 

 福山の茶化しに、俺は肩をすくめるしかなかった。

 

 けれど、どこか胸の奥のもやは消えないままだった。

 

 この後、俺、咲太、福山は、三人で大学をあとにした。

 

 こうして、騒がしくて、少し面倒で、けれどどこか温かい夜が静かに始まった。

 

 後期の授業は週頭の月曜日から始まり、その月曜には「基礎ゼミ」と呼ばれる学部混合の一般教養科目があった。半年間、同じ講義を選択した面々が集まることになる。

 

 その顔合わせを兼ねた懇親会。

 

 開始から一時間半が経過した今、俺と咲太がいるテーブル以外はすでにすっかり出来上がっている。

 

 最初に幹事の小谷先輩が「順番に自己紹介を」と言っていたはずだが、今となっては誰も覚えていない。声が大きければ楽しい、そんな場の空気に包まれていた。

 

 咲太によると、福山がのどかとづっきーにも声をかけていたが、ふたりともライブのリハーサルが入っていて来られなかった。

 

 一方で咲太は、参加する前にわざわざ公衆電話から麻衣先輩に許可をとっていた。

 

 懇親会の後に会う予定もあるらしく、どこか落ち着いた様子でグラスを傾けている。

 

 そしてとうの福山はというと、俺と咲太がトイレに立った隙を逃さず、ちゃっかり女子のいるテーブルに紛れ込んでいた。

 

 スマホを出してLINE交換までしている様子を見て、呆れると同時にその行動力に感心する。

 

 俺と咲太は同じテーブルに残り、麻衣先輩やのどかやづっきーのことを話題にしていた。

 

 特に盛り上がるわけでもなく、淡々と会話は続く。それでも、不思議と居心地は悪くない。

 

 二人っきりで面と向かって話す機会はあまりないだけに、その静かなやり取りが印象に残った。

 

 咲太との会話が一区切りついたころだった。

 

 「ここ、いいですか?」

 

 そんな声がかかり、顔を上げると一人の女子学生が立っていた。

 

 肩までの明るい髪をハーフアップにして、左目の下に小さな泣きぼくろ。

 

 前期の授業で何回か見かけたことがある子だ。たしか名前は“美東さん”だったっけ。

 

 咲太は、わずかに眉を寄せてから口を開いた。

 

 「どちらかと言うと、よくないです」

 

 「おいおい」と俺は慌ててつっこむ。

 

 彼女は無言で数度瞬きを繰り返し、困惑したように首を傾げた。

 

 「……どうして、ですか?」

 

 話を聞けば、どうやら向こうのテーブルでLINE交換が始まりそうになり、逃げてきたらしい。

 

 「嫌なら断ればいいんじゃないですか?」

 

 「普通、そうなんだけど……」

 

 咲太の助言に、泣きそうな顔をした彼女は困ったように笑った。いや、たぶん元々そういう顔立ちなだけで、本当は困っていないのかもしれない。

 

 俺が尋ねる。

 

 「普通じゃない理由があるんですか?」

 

 「……わたし、スマホ持ってないから」

 

 少しだけ間を置いて返ってきた理由に、俺も咲太も言葉を失う。

 

 「今どき珍しいな」

 

 「だから、信じてもらえないんだよね」

 

 内心で(咲太以外にもスマホを持たない子っているんだな)と思いながら、空っぽの会話を続けるのもどうかと思い、自己紹介に切り替えることにした。

 

 「統計科学学部の一年、梓川咲太です」

 

 「なんで、いきなり?」

 

 笑いながら彼女は枝豆をつまんで口に運ぶ。ぽつりと「豆、うまっ」と呟き、ウーロン茶をまた一口飲んだ。

 

 俺も続けて名乗る。

 

 「国際商学部一年の岸和田蓮真です、よろしく」

 

 彼女はぱちりと目を見開いた。

 

 「国際商学部一年、美東美織です。同じ学部だったんだね」

 

 軽く会釈を返しながら、どこかで聞いたことのある名前だな、と感じた。

 

 ——美東美織

 

 その響きに、胸の奥がわずかにざらつく。

 

 どこか懐かしい。けれど、それがどの記憶なのか、思い出せない。

 

 夏の匂い、子どもの笑い声。

 

 (……誰だったっけ)

 

 記憶の奥底を掘り起こそうとしても、すぐに砂のように指の間からこぼれ落ちる。

 

 「岸和田、どうかしたか?」

 

 咲太が何気なく尋ねる。

 

 「いや、なんでもない」

 

 そう答えてウーロン茶の氷を揺らした。カラン、と乾いた音が耳に残る。

 

 (美東美織……どこかで確かに、聞いた名前だ)

 

 そう思いながらも、その記憶の欠片には、どうしても手が届かなかった。

 

 「どうも」と軽く返すと、美東さんはぱちりと瞬きをして、俺を見た。

 

 「……普通に“はじめまして”なのに、ちょっと違う感じがする。言葉にできないけど」

 

 「……まぁ、同じ学部だし。何回も見かけてるんだろうし」

 

 そう言うと、美東さんは「なるほどね」と小さく笑って、また箸を進めた。

 

 「ま、梓川くんのことは当然知ってたけど、岸和田くんは落ち着いてるのに、さっき“おいおい”ってつっこんでたの、ちょっと意外」

 

 思わぬ感想に返す言葉を探していると、咲太が「僕って有名人だからな」と冗談めかして言い、場の空気がまた緩む。

 

 「梓川くんと岸和田くんは今日、なにしに来たの?」

 

 「主に、飯を食いに」

 

 「誘われて来ただけだから特になにも」

 

 最後のひとつを取られる前に、咲太もから揚げを箸で摘み上げた。

 

 「他のテーブルは人数多くて、取り分が減るし」

 

 「みんな、飢えてるんだね」

 

 美東さんは他人事のような目を向け、同級生たちが積極的に親睦を深めようと騒ぐ様子を観察していた。

 

 「時間、あと五分なんで、ぼちぼち適当に。あ、二次会、カラオケ予定してるんで、みんな参加してください」

 

 奥のテーブルから小谷先輩が両手をメガホン代わりに声を張り上げる。半分は聞いていて、半分は聞いていない。

 

 「二次会だって。梓川くんと岸和田くんも行くの?」

 

 「俺は東京に帰らないと、父親と会う用事があるし」

 

 大学生になってからは、月に何回かは東京の実家に顔を出すようにしている。今日はちょうど、仕事で忙しい父と久しぶりに会う約束があったのだ。

 

 咲太は「帰るよ。このあとバイトだし」と答える。

 

 「今から?夜のバイト?」

 

 美東さんが不思議そうに問い返した。

 

 もっとも夜というほど時間は深くない。時計を見ると、午後六時を回ったばかりだった。懇親会が居酒屋の開店時間である午後四時スタートだったせいで、ずいぶん早い解散になる。

 

 二人は咲太の塾バイトのことで話が盛り上がる

 

 「じゃあ、また授業で、咲太もまた塾でよろしくな」

 

 「またな、岸和田」

 

 「バイバイ、岸和田くん」

 

 俺はそれだけ言って席を立ち、そのまま横浜駅へと向かった。

 

 改札を抜けて電車に揺られたあと、その夜は久しぶりに父と渋谷で食事をすることになった。

 

 駅前の雑踏を抜け、落ち着いた和食店に入ると、父はすでにカウンター席で待っていた。 

 

 グレーのスーツに淡いネクタイ。仕事終わりの疲れを少しだけ滲ませながらも、目の奥には穏やかな光があった。

 

 「お疲れ様、蓮真。合宿、終わったんだってな」

 

 「まぁ、なんとか。免許取れたよ」

 

 「そうか。それはよかった」

 

 席に着いて、湯呑を受け取る。湯気がほっとするように鼻をくすぐった。

 

 「……あのさ」

 

 「ん?」

 

 「合宿免許の費用、出してくれてありがとう。急にお願いしたのに」

 

 「気にするな。お前がちゃんとやり遂げたなら、それで十分だ」

 

 父は湯呑を傾けながら、少しだけ口元をゆるめた。

 

 「それに、車の免許ぐらいは社会に出る前に取っておいた方がいいからな」

 

 「うん。でも、ほんとに助かった。バイト代だけじゃ全然足りなかったし」

 

 「……礼なんか言わなくていい。どうせ将来、送迎ぐらいは頼むからな」

 

 「それ、早くない?」

 

 思わず笑って返すと、父も肩をすくめて笑った。

 

 その何気ないやり取りが、子どもの頃に戻ったようで、少しだけ懐かしかった。

 

 料理が運ばれてきて、箸を取ったタイミングで、父がふと口を開いた。

 

 「……で、彼女は出来たか?」

 

 箸を持つ手が止まった。

 

 「は?」

 

 「大学生だろ。そろそろ一人くらいできてもおかしくない」

 

 「いないよ、そんなの」

 

 即答したけれど、胸の奥に何かが波紋のように広がった。

 

 ——づっきーの、無邪気な笑顔。

 

 ——のどかの、照れたような横顔。

 

 そのどちらも浮かんで、すぐに掻き消えた。

 

 (……いや、何考えてんだ俺)

 

 湯呑の中の氷を揺らす。カランと音がして、静かな店内に響いた。

 

 父はそんな俺を見て、にやりと笑う。

 

 「そうか。まあ、焦るな。いい相手がいれば、それでいい」

 

 「……うん」

 

 それ以上、話題を掘り下げることもなく、ふたりで黙々と食事を続けた。

 

 味噌汁の湯気が立ちのぼり、店の外では渋谷の夜のざわめきが遠くに聞こえる。

 

 ふと思った。

 

 (“いい相手”って、どっちのことなんだろう)

 

 答えは出ないまま、湯気の向こうで父の横顔を見た。

 

 その背中を見つめながら、いつか自分も同じように誰かを支えられる人間になりたいと、ぼんやり思った。

 

 店を出ると、夜風が少しだけ冷たく感じた。

 

 ネオンの光の中、づっきーとのどかの笑顔が心の奥で交錯していた。

 

 十月二日

 

 午後、横浜市立大学のシーガルセンターの会議室。

 

 窓の外では銀杏並木が色づき始め、秋の風が静かに葉を揺らしている。

 

 俺はその部屋で、友部さんと赤城を引き合わせていた。

 

 「こんにちは。スクールカウンセラーの友部です」

 

 「はじめまして。赤城郁実です。今日はありがとうございます」

 

 二人は軽く会釈を交わし、テーブルを挟んで向かい合った。

 

 俺は端の席で、記録用のノートを開きながら同席する。

 

 今回の相談は、不登校児童の学習支援ボランティアのことだ。

 

 「最近、気になる子がいるんです」

 

 赤城は、少し迷いながら切り出した。

 

 「二年生の女の子なんですけど、学校に行けない理由をなかなか話してくれなくて……最初は目も合わせてくれなかったのが、この前の七里ヶ浜の海岸清掃で、“楽しかった”って言ってくれたんです」

 

 彼女の声には、その一言にどれだけの時間がかかったかが滲んでいた。

 

 「それは大きな一歩ですよ」

 

 友部さんが穏やかに頷く。

 

 「無理に話を聞き出すより、楽しい時間を共有できる方がずっと大切です」

 

 「そうですね……」

 

 友部さんは少し考えてから、静かに言葉を選んだ。

 

 「焦らず、その子の時間に合わせてあげてみてください」

 

 赤城は小さく頷いた。

 

 「……ありがとうございます」

 

 表情に、少しだけ安堵が浮かぶ。

 

 穏やかな空気が流れる中、友部さんが履歴書の一部に目を留めた。

 

 「……あら」

 

 小さくつぶやいて、視線を上げる。

 

 「赤城さんの出身中学校……」

 

 赤城が目を瞬かせる。

 

 「え、はい?」

 

 友部さんの声の調子が、少しだけ柔らかさを失った。

 

 それは、懐かしさと慎重さが入り混じった声音だった。

 

 「このあたり、昔スクールカウンセラーとして関わっていたことがあるの。岸和田くんも、たしか同じ中学だったわね」

 

 「あ……はい」

 

 俺は静かに頷いた。

 

 友部さんはふっと微笑み、しかしそれ以上は深くは触れず、「……今日はこのくらいにしておきましょうか」と静かに言った。

 

 「はい……ありがとうございました」

 

 赤城は少し緊張した面持ちのまま、資料をまとめて席を立つ。

 

 その背中を見送りながら、友部さんは柔らかく会釈をした。

 

 「また、活動の報告があったら聞かせてくださいね」

 

 「はい」

 

 赤城が部屋を出ていき、ドアが静かに閉まる。

 

 その音が消えたあと、友部さんはしばらく無言で履歴書を見つめていた。

 

そして、深く息をついてから俺の方を向く。

 

 「……岸和田くん。彼女と咲太くんが、同じ中学だったのを知っていた?」

 

 「はい……知っていました」

 

 友部さんは軽く頷き、書類を閉じた。

 

 「そう……。咲太くんのあの頃のこと、私は少しだけ覚えているの。花楓さんが学校で孤立していた時期、兄の彼も周囲から心無い言葉を浴びていた。それでも、妹を守るためにあの子は必死だった」

 

 窓の外の銀杏が風に揺れ、光がちらちらと会議室の床を照らす。

 

 友部さんは視線を落とし、静かに言葉を続けた。

 

 「だから……あの二人を、あまり近づけないであげて。岸和田くんと咲太くんの場合は別。あなたには、花楓さんや桜島さんの信頼があるから。でも赤城さんとは、きっと少し事情が違うの」

 

 「……なるほど」

 

 「ええ。咲太くんにとっても、赤城さんにとっても、中学時代はまだ“解けていない時間”だから。再会が癒やしになるとは限らないの」

 

 俺はしばらく黙って頷いた。

 

 「……わかりました」

 

 「ありがとう。あなたが間にいてくれて助かるわ」

 

 友部さんはそう言って、少しだけ微笑んだ。

 

 その笑顔は、カウンセラーというより、長く見守ってきた誰かの母親のような優しさを帯びていた。

 

 会議室を出て、外の風にあたる。

 

 秋の陽射しが穏やかに落ちていて、さっきの話の余韻が、心の奥でまだ波を立てていた。

 

 (……言われてみれば、なんで咲太は、自分の辛かった時期に同じ中学にいた俺には、あんなに普通に接するんだろう)

 

 別のクラスだったとはいえ、同じ時間を同じ場所で過ごしていたのは確かだ。

 

 それでも、彼は過去を掘り返すようなことは一度も言わない。

 

 (……もしかして、俺の方がもう“過去を見ない”と決めてるから、咲太もそれを察しているのかもしれない)

 

 そう思いながらも、胸の奥にもうひとつの感覚が残った。

 

 (いや……もしかしたら、もっと別の理由があるのかもしれない)

 

 その瞬間、ふいに昔の会話が頭をよぎった。

 

 「可能性の世界に行ってた」

 

 まだ高校生の頃、咲太がそう言って笑ったことがある。

 

 冗談半分のようで、どこか本気のような口調で。

 

 「そこでのお前は……僕と結構仲が良かったらしい」

 

 その言葉を、なぜか今になって思い出していた。

 

 (……なるほどな)

 

 俺は小さく息をつく。説明のつかない“信頼の理由”が、ようやく輪郭を持ちはじめる。

 

 (だから、あいつは俺には壁を作らないのかもしれない)

 

 風が銀杏の葉を揺らし、街の方へ流れていく。

 

 そのざわめきが、まるで過去と現在、そして“もうひとつの可能性の世界”の境界を撫でていくようだった。

 

 十月三日

 

 二限のスペイン語の授業を終えたあと、咲太と拓海は学食に流れ込んだ。授業を一緒に受けていた卯月や美織は別の用事があるらしく、それぞれ人混みに消えていった。

 

 学食のメニューは全体的に安く、そばやうどんに至っては百円台からある。腹を空かせた学生の胃袋の強い味方だ。

 

 二人はそれぞれ頼んだどんぶりを五分足らずで平らげ、サーバーで自由に汲めるお茶で口を潤していた。

 

 「梓川、女の子紹介してくれませんか?」

 

 福山が箸を置きながら、癖のように口にした。

 

 「懇親会で連絡先交換した女子は?」

 

 「返事がありません」

 

 「ご愁傷様」

 

 「豊浜さんでもいいからさ」

 

 「“でもいい”とか言うと、怒られるぞ。豊浜は沸点低いから」

 

 (……まあ、だからこそ岸和田とは噛み合うんだよな)

 

 (あいつは真面目だ。だけど“場の温度に合わせる”ことは滅多にしない。読むのは空気じゃなくて、人。集団のノリには鈍いくせに、相手の表情の変化にはやたら敏感だ。僕とは違う意味で“空気に迎合しない”。それが岸和田だ。)

 

 (豊浜も根は真面目だけど直球で、感情が表に出やすいところがある。勢いで行き過ぎるときに、岸和田のブレーキが効く。逆に岸和田が躊躇しているときは、豊浜が背中を押す。足りないところが綺麗に補完関係になってるんだろう)

 

 咲太が軽く笑って返すと、さらに付け足した。

 

 「それに豊浜は岸和田と仲いいだろ。まず無理だと思うぞ」

 

 「……そうだよなぁ」

 

 福山は肩を落とし、コップのお茶を一口あおった。

 

 「二次会のカラオケはどうだった」

 

 咲太が話題を切り替える。

 

 「霧島透子の曲が人気だったよ、みんなうまくってさ」

 

 福山は肩をすくめながら答えた。

 

 「霧島透子ってまだ流行ってんのか」

 

 「まだ、つうか、まさに今って感じだろ」

 

 そう言って拓海はスマホを取り出し、画面を咲太に向ける。

 

 YouTubeの再生画面には、イヤホンのCM動画が映し出されていた。流れているのは霧島透子の代表曲のカバー。画面に出ているのは霧島透子本人ではない。

 

 「……霧島透子の正体は不明ってことか」

 

 咲太は眉を寄せてつぶやく。

 

 「そ。ああでも桜島麻衣じゃないかって噂が流れてたな、どうなのよ霧島透子=桜島麻衣説って?」

 

 「んなわけないだろ」

 

 もう一口お茶をすする。すると、学食の入口にきらきらしたものが見えた。噂をすればなんとやらだ。

 

 のどかは誰かを捜しているのか、学食を見回していた。すぐに、咲太とばっちり目が合う。かと思うと、すたすたと近づいてきた。どうやら探していたのは咲太だったらしい。

 

 「やっと、見つけた」

 

 「なんか用か?」

 

 のどかの視線が、一緒にいる拓海に向かう。

 

 「ちょっと、咲太、借りていくね」

 

 「どうぞ。お好きなように」

 

 あっさり咲太を差し出す。

 

 咲太の意思は聞かずに、のどかは回れ右をして、きびきびとした足取りで出口の方へと歩いていった。

 

 外に出た咲太とのどかは研究棟そばのベンチに腰を下ろし、黙ってダンス部の練習を眺めていた。

 

 「で?」

 

 「………今日、卯月と会った?」

 

 「会ったよ。スペイン語で一緒だった」

 

 「様子、どうだった?」

 

 「別に、いつも通りだったんじゃないか?」

 

 のどかは小さく息を吐く。

 

 「昨日、ちょっとあって………喧嘩したっていうか………」

 

 咲太が理由を問うと、のどかはぽつぽつと語り出す。

 

 卯月とスイートバレットの今後のことで言い合いになったこと。

 

 事務所が卯月のソロデビューを考えているかもしれないこと。そして、自分はグループとして武道館に立ちたい一方で、卯月には努力が報われてほしいと願っていること。

 

 「…………そんな感じ」

 

 一通り聞いた咲太は肩をすくめた。

 

 「なんだ、そんなことか」

 

 「は?」

 

 「こっちは真面目に悩んでるんだけど」

 

 「贅沢な悩みでいいじゃないか」

 

 「……………」

 

 「要は、仕事が増えて、今まで通りにいかないことに文句言ってんだろ?そんな話、麻衣さんにしたら、引っ叩かれるぞ」

 

 「う、それは………」

 

 その場合、どういうわけか咲太が引っ叩かれそうで、嫌な予感しかしない。この話を麻衣の前でするのは絶対にやめよう。

 

 「…………」

 

 のどかは、咲太の言葉を受け入れても、まだ完全に納得したわけではなさそうだった。

 

 「広川さんのことが気になって仕方ないなら、もう一度、話し合えばいいんだよ。僕みたいな部外者からこそこそ様子を聞いてないでさ」

 

 「というか、岸和田にも相談すればいいじゃないか」

 

 「……だって蓮真には、迷惑かけたくないし……それに最近、仕事で忙しかったから会ってなかったし」

 

 (僕には迷惑かけてもいいと思ってんのか……)

 

 「迷惑かけたくないか。……それって結局、岸和田を大事に思ってるからじゃないのか?」

 

 「ち、違うっての!そんなことわかってるわよ!」

 

 照れと苛立ちが混ざった声をあげ、のどかは勢いよく立ち上がる。

 

 「咲太に相談したあたしがバカだった。ありがと!」

 

 ぷりぷりした足取りでその場を離れていく。咲太は肩をすくめて見送るしかなかった。

 

 その日の夕方。

 

 講義を終えてキャンパスを出る頃、俺のスマホにメッセージが届いた。

 

 《今から、少し会えない?》

 

 のどかとは八月以来、彼女の仕事が忙しくて顔を合わせる機会がほとんどなかった。

 

 その間、俺はテレビ越しに彼女を何度か見かけている。

 

 づっきーが予想外の言動で、どこでも笑いを取るのに対して、のどかはそのお目付役として、優等生的な振る舞いで認知されるようになってきていた。

 

 そんな二人を画面越しに見ながら、やっぱり彼女たちは“表の世界”の人間なんだと、妙に遠く感じた瞬間もあった。

 

 だからこそ、その日の夕方に届いた短いメッセージはちょっとだけ嬉しかった。

 

 送信ボタンを押すまでに、のどかは何度も迷っていた。咲太には話した。けれど咲太の前では強がって終わってしまった。

 

 蓮真には、本当は迷惑をかけたくない。

 

 去年の十二月に自分が思春期症候群を再発したとき、彼に支えてもらった記憶があるからこそ、これ以上は甘えちゃいけない。そう思う気持ちもある。

 

 それでも、今のままじゃ苦しい。誰かにちゃんと聞いてほしい。

 

 のどかはカップを握るようにスマホを持ち直し、ついに送信したのだった。

 

 久しぶりに二人っきりで会おうと向かった藤沢駅前のカフェ。

 

 窓際の席で待っていたのどかは、どこか所在なさげにカップを両手で抱えていた。

 

 「蓮真、来てくれてありがと」

 

 「場所くらい教えてくれれば来るよ。それで……なんか相談?」

 

 「……実はね、今日、咲太にもちょっと相談したんだけど」

 

 「咲太に?」

 

 「うん。でも、結局ちゃんと聞いてほしいのは蓮真だったんだと思う」

 

 のどかは視線を落とし、ぽつぽつと話し始めた。づっきーのソロデビューの噂、スイートバレットの将来への不安、そして自分がづっきーに強く言いすぎた後悔。

 

 昼間は強がっていた彼女が、今は少し震える声でそれを吐き出している。

 

 のどかはカップを握りしめたまま、声を震わせた。

 

 「……どうしたらよかったのかな」

 

 「……無理に答えを出さなくていいんじゃないか」

 

 俺は静かに返す。

 

 「づっきーも、のどかも、ちゃんと考えてる。その分だけ言葉がすれ違ったんだろ。……でも、のどかの努力が報われてほしいって思う気持ちは、ちゃんと伝わると思う」

 

 のどかはしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。

 

 「……ありがと。やっぱり蓮真に話してよかった」

 

 その笑みを見ながら、胸の奥にわだかまりが残る。

 

 先月の始め、づっきーから「ソロデビューの話来てるの」と打ち明けられ、秘密にしてほしいと頼まれていた。

 

 のどかには言えない。のどかに余計な心配をかけないためにも、ここで俺が握っている情報を出すわけにはいかなかった。

 

 だけど。

 

 (……のどかがづっきーのことを心配する気持ちも、よく分かる)

 

 ずっと一緒に走ってきた相手だからこそ、見えなくなる瞬間の怖さも痛いほど分かる。

 

 胸の奥に押し込んでいた言葉が、気づけば口をついて出ていた。

 

 「……あのさ、のどか」

 

 「ん?」

 

 「もしよかったら、俺からもづっきーに一言言っておくよ。……お前がどう思ってるか、ちゃんと伝わるように」

 

 のどかがわずかに目を見開き、息を呑む。

 

 「蓮真が……?」

 

 「ああ。のどかが心配してることくらい、言われなくても分かるよ。……づっきーにも、それを知ってほしい」

 

 言い終えると、のどかはカップをぎゅっと握りしめて、小さく笑った。

 

 「……ありがとう。……でもね」

 

 そこで一度深く息を吸い、真っ直ぐこちらを見る。

 

 「……あたしも、明日ちゃんと卯月と話してみる。逃げたくないから」

 

 その表情は、さっきまでの迷いよりもずっと強かった。

 

その言葉には、小さな震えと同時に、確かな覚悟が宿っていた。

 

 俺は静かに頷く。

 

 「……のどからしいな。じゃあ、お互いできることをやるだけだ」

 

 「うん……蓮真がいてくれて、よかった」

 

 そう呟いた彼女の横顔は、悩みの奥にある強さを取り戻しているように見えた。

 

 カフェを出たあと、夜風に当たりながらスマホを取り出す。

 

 のどかの強がった笑顔が、まだ胸のどこかに残っていた。

 

 本当は誰より弱い部分もあるくせに、いつも前を向こうとする。その姿に救われたのは、もしかしたら俺の方かもしれない。

 

 (……約束は守る。でも、づっきーにも言うべきことは言っておかないと)

 

 迷った末に、メッセージを打ち込む。

 

 《今日、のどかと会った。ソロデビューのことも聞かれた。もしかしたら、気づかれるのも時間の問題かもしれない》

 

 送信から少しして既読がつき、ほぼ間を置かずに返信が飛んできた。

 

 《……電話してもいい?》

 

 ため息をひとつついて、通話ボタンを押す。

 

 「もしもしー?きっしー?」

 

 耳に飛び込んできた声は、いつもの調子外れの明るさのはずだった。

 

 けれど、その裏側にかすかな揺らぎが隠れているのが分かった。

 

 「今日はありがとね。のどかには言わなかったんでしょ?」

 

 「約束だからな」

 

 「ありがとう。のどか真面目だからさ。きっと背負いすぎちゃうと思うんだ」

 

 軽い口調なのに、息の端に疲れが滲んでいた。

 

 (……やっぱり、何か抱えてるな)

 

 少し間を置いて、俺は口を開いた。

 

 「づっきー。お前の気持ちはわかる。でも、のどかや他のメンバーのこともちゃんと考えてやれよ。グループとして一緒に走ってきた時間は、みんなにとっても大事なんだから」

 

 電話口がしばらく静かになる。

 

 その沈黙は、いつもの考えてなさそうで実は考えてるづっきーのそれとは違った。

 

 やがて、小さな笑い声が返ってくる。

 

 「……きっしー、たまに正論言うとドキッとする……」

 

 「いつも言ってるつもりだけどな」

 

 「ありがと。ちゃんと考えるね。」

 

 短いやり取りのあと、通話は切れた。

 

 画面に映る通話終了の文字を見つめながら、俺は夜風に深く息を吐いた。

 

 (……やっぱり、変だ)

 

 普段のづっきーなら、空気を読まずに突拍子もない話をしだして、場をかき回して笑わせるはずなのに。

 

 今の彼女は、“周りを気にしすぎている”。

 

 まるで、自分の行動が誰かを傷つけることを恐れているみたいに。

 

 胸の奥に生まれた違和感は、夜風で冷えるどころか、じわじわと形を持ちはじめていた。

 

 (……明日。づっきーの授業が終わったら、少し時間をつくって会いに行くか)

 

 あの声の揺れは、放っておいていい種類のものじゃない。

 

 そして、俺の予感は間違っていなかった。

 

 異変が起きたのは翌日。

 

 いつもと変わらないはずの大学の景色の中に、確かな変化があった。




物語解説
 
今回の物語では、過去と現在、そして可能性の世界が静かに重なり合う瞬間を描きました。

秋へと傾くキャンパスで、蓮真は再び咲太、麻衣、郁実、のどか、そして卯月と向き合うことになります。

誰かのために観察し続けてきた蓮真が、初めて自分自身の感情と向き合う。その小さな変化こそが、今章の核心です。

今章からは、物語が原作の大学生編、『青春ブタ野郎は迷えるシンガーの夢を見ない』へと重なり、卯月の思春期症候群を通して、蓮真とのすれ違いと再生を描いていく予定です。

静かな異変の兆しとともに、蓮真の観察者としての“青春”は、新しい季節へと踏み出します。

次回もぜひお楽しみください。

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  • 豊浜のどか
  • 広川卯月
  • 桜島麻衣
  • 双葉理央
  • 古賀朋絵
  • 梓川花楓
  • 大津美凪
  • 浜松夏帆
  • 米山奈々
  • 赤城郁実
  • 牧之原翔子
  • 吉和樹里
  • 上里沙希
  • 鹿野琴美
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