青春ブタ野郎はパラレルスプリングの夢を見ない   作:もドえラん

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2.空気を吸わないアイドルを、観察者は見守る

 

 十月四日

 

 昨日と代わり映えしない大学の風景に、学生たちの様子。

 

 咲太は、二限の授業が行われる本校舎に入っていた。必修科目の線形代数の講義がこれからここで行われる。

 

 席はすでに三分の一程度が埋まっていた。全員が同じ統計科学学部。

 

 その中で、女子六人グループの中のひとり。

 

 周りの女子と同じようなスカートをはいて、同じようなブラウスを着ている卯月はいた。

 

 友だちの冗談にツッコミを入れて笑い、逆に、ボケをかまして突っ込まれている。みんなと同じタイミングで卯月は笑っていた。

 

 卯月は咲太を見て、何か思い出したかのように口を半開きにする。それから、友だちに「ちょっとごめん」と断りを入れて席を立った。

 

 真っ直ぐ咲太の前までやってくると、一瞬だけ周囲を気にする素振りを見せる。そのあとで、少し前かがみになって、「のどか、何か言ってた?」と、咲太にだけ聞こえる声で聞いてきた。

 

 「何かってなに?」

 

 「何かは何か」

 

 返ってきたのは、韻を踏んだだけの意味のない言葉。

 

 「なんだそりゃ」

 

 咲太の要領を得ない返事に、卯月が口をへの字に曲げる。だが、咲太としては、卯月が何を求めているのかがわからないのだから仕方がない。

 

 「昨日、豊浜となんかあったか?」

 

 のどかの方からは、先週末に喧嘩っぽい態度を取ってしまったという話を聞かされている。

 

 何かあるとすれば、それくらいだろうか。

 

 だが、これに関して言えば、咲太の中ではすでに解決済みの話だ。昨日、相談を持ち掛けてきたのどかが、もう一度卯月と話してみると言っていたし、岸和田にも相談するように助言した。

 

 だからこれ以上、咲太が気にしても仕方がない。

 

 「大学出たあと、昨日はずっと雑誌の撮影だったから、のどかとは会ってない」

 

 「連絡も?」

 

 「のどかとは昨日は取ってない」

 

 気になる言い方だ。わざわざ「のどかとは」と「昨日は」と言われると、別の誰かからは昨日連絡があり、今日はのどかから連絡があったかのように聞こえる。そして、その咲太の余計な勘繰りは、間違いではなかった。

 

 「さっき『今日、大学来てる?』って、LINEがあって」卯月は、そう続けたから。

 

 「それで?」

 

 「そんなことわざわざ聞いてくるってことは、なんか話があるのかなって思わない?」

 

 「思わない人もいるんじゃないか?」

 

 少なくとも、昨日までの卯月だったら、思わなかったのではないだろうか。そんな詮索をする前に、「どうしたの、のどか!」と返事を送りそうな気がする。電話をできる状況だったら、その場でのどかにかけていたのではないだろうか。絶対にそうだ。

 

 そう考えると、今日の卯月はやはりどこか違う気がした。

 

 「広川さんの方こそ、昨日なんかあった?」

 

 「……なんかってなに?」

 

 「なんかはなんか」

 

 「真似されたぁ」

 

 そう言って、卯月は場を和ませるように笑う。それもまた、咲太の違和感になった。

 

 卯月が愛想笑いを浮かべている。こんなの見たことがない。少なくとも、今日、この瞬間までは………

 

 それに、「なんかあった?」と聞けば、咲太の質問の意図など気にすることなく、「撮影で転んでお尻打った」とか、昨日のトピックスを話してくれるのが、“咲太の知っている”広川卯月という人間なのだ。

 

 一体、この違和感はなんだろうか。

 

 その正体を見極めようとしていると、「今日、調子いいんだよね」と、卯月がまた笑う。

 

 それとなく咲太から逸らした視線は、先ほどまで一緒にいた女子グループに向けられていた。

 

 「みんなと波長がぴったり合ってる感じ」

 

 改めて見比べるまでもなく、卯月と女子グループは似たような服装でまとまっている。

 

 「みたいだな」

 

 たまには、そんな日もあるのかもしれない。

ただ、いつもと違うという感覚は、卯月自身にもあるようだ。

 

 今日は調子がよくて、みんなと波長が合っていると感じているのだから。

 

 そこまで考えたところで、「席に着いて」と、小さな声で言って教授が教室に入ってきた。

 

 学生たちが正面に向き直る。卯月も友だちが待つ前の方の席に戻っていった。

 

 「なぁ、福山」

 

 席に着いた卯月の背中を見ながら、咲太は斜め後ろに話しかけた。

 

 「ん?」

 

 「今日の広川さん、どう思う?」

 

 「かわいいと思うよ」

 

 「他には?」

 

 「かわいいと思うな」

 

 返ってきたのは、普段通りの言葉。

 

 「貴重な意見をありがとう」

 

 「どういたしまして」

 

 どんな些細なことでも、一度気になると気にしてしまうもので、線形代数の授業が行われている最中も、どこかいつもと違う卯月の行動は、自然と咲太の目に留まった。

 

 昨日までの卯月なら、教授の話に熱心に耳を傾けていた。わからないところがあれば、授業の中断も賑わずに手をあげて質問をする。

 

 周りの友だちが小声で話したり、スマホでやり取りをしたりしていても、スイッチが入ると集中力が途切れることはなかった。それがこれまでの卯月の普通だった。

 

 けれど、今日は落ち着きなく体をぐらぐら揺らしたり、隣の友だちとふざけ合ったり………

 

 まるで以前のどかから聞いた、岸和田と三人で勉強会をしていた時のように。

 

 授業が終わったタイミングでも、「先生、また来週ー!」と、元気に手を振ったりもしない。

 

 教室にいる他の学生と同じように教科書をさっさと片付け、今は女子グループに混ざって昼食の相談をしている。その輪の中から、卯月の声だけが目立って聞こえるということもない。

 

 「学食行こう」という提案に、「うん、行こう」と落ち着いたテンションで返事をしているだけ......

 

 テンションは低いわけじゃない。けれど、いつもの“自然とひときわ目立ってしまう卯月”ではなかった。

 

 その変化を、咲太は誰よりも敏感に察していた。

 

 ——違和感。

 

 それは、ほんの些細なズレが積み重なってできる、嫌な静けさだった。

 

 声の大きさ。表情の使い方。突拍子もない言動が一切ないこと。

 

 そして何より。

 

 卯月が一度も「岸和田」の名前を出していない。

 

 いつもの広川卯月なら、「今日はきっしーとのどかとお出かけなの!」とか、「きっしーに課題手伝ってもらうんだ!」とか、「きっしーとのどかと“よこいち丼”食べるんだ!」とか、そんな具合に、話題の端々に当然のように岸和田の名前が登場する。

 

 むしろ、会話の八割が「きっしー」でもおかしくないくらいだ。

 

 なのに、今の卯月は、まるで最初から岸和田蓮真という存在がいないかのように、一度もその名前を口にしていなかった。

 

 妙だ、と咲太は眉を寄せる。

 

 もし「岸和田と喧嘩した」とか「距離を置かれた」とかなら、卯月の性格上、逆にわかりやすく落ち込むはずだ。

 

 むしろ黙ってられず、誰かに漏らすタイプだ。

 

 なのに、そういう気配もゼロ。

 

 むしろ、会話自体は晴れやかで、周囲の女子たちも、卯月の変化に気づいている様子はなかった。

 

 完全に馴染んでいる。

 

 演技には見えないし、気を遣っているわけでもない。ただ自然に、そこにいる。

 

 だからこそ、不自然だった。

 

 (……本当に、何が起きてるんだ?)

 

 胸に沈む違和感は、じわじわと形を持ち始めていた。

 

 すると、売店に行った福山の入れ替わりで、金髪の女子が教室に入ってきた。のどかだ。

 

 一瞬だけ咲太を見る。でも、すぐに、前のドアから出て行きそうだった卯月の背中に向き直った。

 

 「卯月」

 

 その声に、卯月がびくっとする。それから、「ごめん、学食、先行ってて」と友だち五人を、

廊下に送り出した。

 

 一緒に授業を受けていた他の学生も昼食に向かい、教室には弁当箱を机に出した咲太と、ふたりのアイドルだけが残された。

 

 「………」

 

 「………」

 

 教室の前と後ろ。距離を置いたままの卯月とのどかの間には妙な緊張感がある。

 

 「さて、飲み物でも買ってくるかな」

 

 空気を読んで、退室しようと思った咲太だったが、それはのどかの行動によって阻まれてしまう。

 

 「まだ飲んでないから、これあげる」

 

 教室の真ん中あたりに座る咲太のところまで来たのどかが、弁当箱の横にジュースのペットボトルを置いたのだ。

 

 同席してもいいと言うのなら、そうするまでだが………

 

  「えっと、のどかの用事って、こないだのことだよね?」

 

 先に切り出したのは、卯月の方だった。

 

 「………こないだって?」急に言われたのどかは眉を寄せている。

 

 「もちのろん、日曜日だよ」

 

 卯月の口調は、「そんなの当たり前じゃん!」とでも言いたそうだ。

 

 「………?」

 

 だから、のどかが反応に困るのも当然だった。まさか、卯月の方からその件を持ち出されるとは思っていなかったはず。

 

 のどかたちの焦りや苛立ち、不安や心配が、卯月には伝わっていないと思っていたから……

 

 だからこそ一度昨日、岸和田にも相談するように言った。

 

 「ほんとごめん!」

 

 のどかの困惑をよそに、卯月は両手をぱんと合わせて拝むように謝る。

 

 「私、全然みんなの気持ちわかってなかった。のどかが怒るのも当然だよ」

 

 「……卯月?」

 

 「今は、ばらばらでする仕事が増えて、グループの活動が減ってるもんね。それは私も嫌だから、ちゃんとメンバーで話さないと」

 

 「そうなんだけど……あたしも、ごめん。言い過ぎたと思ってる」

 

 「そんなことない。言ってくれたから、わかったんだし」

 

 「うん……」

 

 「そりゃあ、個人の仕事も大事だよ?それでスイートバレットのことを知ってくれる人もたくさんいると思う」

 

 「あたしも、そう思ってる」

 

 「だけど、そのせいで、私たちがばらばらじゃあ意味ないもんね」

 

 「うん……」

 

 「だから、八重も、蘭子も、ほたるも一緒に相談しよう。今日のダンスレッスン、久しぶりにみんな揃うよね?」

 

 「そのはずだけど………」

 

 一体、自分は誰と話しているのだろうか。のどかはそんなことを考えているのかもしれない。

 

 筋道の立った話し方をする卯月の顔を、のどかは最後まで不思議そうに見ていたから。

 

 「のどか?私、変なこと言ってる?」

 

 反応が鈍いのどかの様子から、卯月は何かを察したのだろう。それこそがまさに、卯月に対する違和感の本質だ。相手に合わせて話を進めている。

 

 「ううん。あたしがしたかったのはその話……」どこかうわ言のようにのどかは返事をする。

 

 「よかったあ」

 

 「うん……」

 

 先ほどからずっと、のどかは心ここにあらずといった感じだ。

 

 「のどか?」

 

 今度もそれに気づいた卯月が堅認な顔をする。

 

 「なんでもない………今日、八重だけ撮影で遅れるみたいだけど、みんなで話そう。あたしから連絡しとくから」

 

 「うん!お願い。あ、私、学食に友だち待たせてるから行くね」

 

 小さく手を振ると、卯月は鞄を持って教室を出て行く。すたすた歩くその背中はすぐに見えなくなった。

 

 卯月が教室を出ていった直後、廊下の向こうから見慣れた影がこちらへ歩いてきた。

 

 岸和田蓮真だ。

 

 「あ、岸和田くんだ」

 

 卯月がふだん一緒に行動している女子グループが、ぱっと顔を明るくする。

 

 「岸和田くん、卯月ちゃんとなんか話あるの?」

 

 「ん、ああ……ちょっとだけ」

 

 俺はいつもの調子で軽く返した。

 

 女子たちは「そっかー」と言いながら横にずれ、自然とふたりの前にスペースができる。

 

 づっきーは俺を見ると、ぱっと表情を和らげた。

 

 「昨日はありがとうね、きっしー。おかげで、のどかとちゃんと話せたよ」

 

 「それなら……よかったよ」

 

 俺はそう答えつつ、胸の奥にひっかかる感覚を見逃さなかった。

 

 ——やっぱり、変だ。

 

 普段のづっきーなら、まず昨日の話に触れる前に、「ねえきっしー聞いて!今日ね!」といきなり全然関係ない話題をぶち込み、その場の空気を一瞬で攪拌して笑わせてしまう。

 

 それが、づっきーという人間のテンプレートだ。

 

 だが今のづっきーは、周りの空気を読みすぎて、慎重に話を運んでいる。

 

 まるで、言葉を選びながら相手に合わせようとしているような……

 

 (彼女らしくなさすぎる……)

 

 俺はその違和感を胸に留めたまま、口を開いた。

 

 「づっきー、このあと時間あるか?」

 

 小さく期待と心配を込めた声。

 

 しかし、づっきーは微笑んで首を振った。

 

 「ごめん。このあと、みんなで学食行くんだ」

 

 「……そっか。悪いな、引き留めて」

 

 「ううん。またあとでね、きっしー」

 

 卯月は軽く手を振り、女子たちと一緒に廊下の奥へ歩いていく。

 

 その笑顔はいつものづっきーと同じに見えるはずなのに、俺には、どこか貼りついたような、不自然な均整を帯びているように感じられた。

 

 一方教室では、のどかが、卯月の消えたドアの向こうをじっと見つめている。

 

 そのまま動くのをやめてしまいそうだったので、「よかったな」と、咲太は声をかけた。

 

 「………」

 

 無言で、のどかが視線を向けてくる。顔には疑問が張り付いていた。

 

 「よかったなって言ったんだよ」

 

 「なにが?」

 

 「仲直りできて」

 

 「………うん、まあ、それは」

 

 頷きはしたけれど、のどかの表情は冴えない。釈然としない気持ちで塗り潰されている。

 

 咲太はその様子に眉を寄せようとしたその時。教室の扉が半分ほど開いた。

 

 「入っていいか?」

 

 聞き慣れた声だった。岸和田蓮真だ。

 

 のどかが驚いたように目を見開く。

 

 咲太も「タイミングがいいにも程があるだろ」と言いたくなる。

 

 「悪い、咲太。授業じゃないからいいだろ?」

 

 「どうぞご自由に」

 

 「ありがとよ」

 

 俺は軽く苦笑しながら教室に入り、のどかの前に歩み寄った。

 

 「のどか、大丈夫か?」

 

 その一言に、のどかの肩が小さく揺れた。

 

 「……見てたの?」

 

 「いや。でもづっきーと話したんだろ。……どうだった?」

 

 のどかはすぐには返事をしなかった。

 

 ある程度は解決したはずなのに、胸の奥のざらつきが言葉を止めている。

 

 「卯月が周りをみてた」 

 

 思ったままをのどかが口に出してくる。言葉にするとしたら、咲太も似たようなものだっただろう。

 

 「蓮真、卯月になに言ったの?」

 

 のどかの目は疑いの色に染まっている。

 

 「俺はなにも言ってないよ。」

 

 「ほんとに?」

 

 「ああ」

 

 「じゃあ、なんで日曜日には全然伝わってなかったのに、今日になってこうなるの?」

 

 「……俺にもわからないよ。ただ昨日俺がづっきーに連絡した時もそんな感じだった」

 

 咲太が間に入ってくる。

 

 「広川さんのことは、豊浜と岸和田の方がわかってんだろ?」

 

 のどかは出会った時期も早ければ、同じグループのメンバーとして密度の濃い時間をともに過ごしている。

 

 岸和田も、卯月とはいつも一緒にいて、周りから見たら友だち以上の関係性に見える。

 

 「当たり前だっつーの!」

 

 「まぁ、そうだけど」

 

 不機嫌な顔でのどかが納得し、俺は肩をすくめながらも納得する。

 

 だからと言って、づっきーに対する疑問と違和感が消えたわけではない。少し考えたあとで、「さっきの本当に卯月だった?」と、のどかは咲太に真面目な顔で聞いてきた。

 

 「違うっていうなら、なんなんだ?」

 

 「あたしの顔色窺いながらしゃべってた」

 

 その言葉には、「そんなのは卯月じゃない」という強い想いが含まれている。

 

 「そうだな」

 

 俺も素直に頷く。

 

 俺たちの知っているづっきーは、“空気を吸う”タイプであり、“空気を読む”タイプではない。

 

 「だって、それってさ………」

 

 喉に何かを詰まらせたかのように、のどかが途中で言葉を止めた。口に出すのを、躊躇ったのだと思う。

 

 「卯月、空気読んでたじゃん」続きの言葉がそれだったから。

 

 「だな」

 

 本当にその通りなのだ。

 

 いつもと何が違ったのか。

 

 まさに、のどかが言った通り。空気を読んでいた。

 

 あの、づっきーが………

 

 違和感の正体はそれなのだ。

 

 「もしかして、あたしとお姉ちゃんのときみたいにさ」目でのどかが咲太に話しかけてくる。

 

 「誰かと入れ替わってるってか?」

 

 「うん」

 

 「それにしちゃあ、スイートバレットの事情に詳しすぎただろ」先ほどふたりが話していた内容は、関係者以外知りえない情報のはずだ。

 

 「そうだけど………」

 

 「仮に、なんらかの思春期症候群だったとして、これってなんかまずいのか?」

 

 「そんなの………」

 

 多分のどかは「当たり前じゃん!」と続けようとしたのだと思う。だが、言い終える前に気づいたのだ。

 

 卯月とは仲直りができた。

 

 のどかが感情的になってしまった理由についても、即座にわかってもらえた。

 

 今のところ、困ったことはなにもない。むしろ、いいことばかりではないだろうか。それにのどかは戸惑っている。

 

 しかも、卯月は咲太の前で、「今日は調子がいい」と言って笑い、「みんなと波長が合ってる」とうれしそうにしていた。

 

 突然の変化に、のどかだけではなく、咲太も戸惑っていた。

 

 「じゃあ、これでいいの………?」

 

 のどかの、不安を隠しきれない確認に「明日になれば、元に戻ってるかもしれないしな」と、咲太が先送りの答えを返す。

 

 俺も続ける。

 

 「今は観察しておこう、のどか。……悪い変化じゃないなら、余計に慎重になった方がいい」

 

 のどかはゆっくりと頷いた。

 

 だがその表情には、まだ揺れが残ったままだった。

 

 のどかと咲太と別れ、俺はひとり廊下を歩きながら、さっきの教室の空気を反芻していた。

 

 もし咲太の言うように、これが思春期症候群だとしたら……

 

 いや、でもそれならあの感覚が出るはずだ。

 

 他人の思春期症候群に触れた時にだけ起こる、現実から半歩だけ足を踏み外したような、あの輪郭の揺れ。

 

 遠くの音が一瞬だけ遠ざかり、世界の色だけが濃く浮かび上がる、あの異常な瞬間。

 

 だが、最近は、何も起きていないのに、あの感覚を覚えることがある。

 

 (……俺のセンサーが、鈍ってるだけなのか?)

 

 その可能性も否定できなかった。

 

 中学の時のループ以来、自分の感覚は正常とは言いきれない。

 

 俺だけが世界の縁を掴んでいるような、あの特異な質感が、完全に消えたことなんて一度もない。

 

 だから今、何かを断定するのは危うい。

 

 それに。

 

 (づっきー自身……空気を読みたいって、最近言ってたよな)

 

 あいつはあいつなりに、“空気が読めない”という自覚を抱えている。

 

 笑って誤魔化していたけれど、あれは笑って済ませていい種類の悩みじゃない。

 

 心の奥の奥で、本当は周りと噛み合いたいと願っていたのを、俺は知っている。

 

 (……もしかして、努力しただけなんじゃないか?)

 

 ふと、その考えが胸をよぎった。

 

 ソロデビューの話が来てから、づっきーは表ではいつも通り明るく振る舞いながらも、陰では必死に“空気を読もう”としてきたのかもしれない。

 

 グループで動くときと、ひとりで動くときとでは、必要とされる能力が全く違う。

 

 ソロで成功したい。

 

 ひとりでも輝けるようになりたい。

 

 そのためには、“空気読めてるように見せる力”が絶対に必要だ。

 

 あいつもアイドルなら、それに気づかないはずがない。

 

 (……づっきーなりに、努力してきただけなのかもしれない)

 

 その可能性は十分にある。

 

 ただ、そう思おうとしている自分がいるのもまた事実だった。

 

 今のづっきーは、良い方向に変化しているように見える。

 

 だが、それが本当に自分の意思で行っている進化なのか。それとも、思春期症候群という疾患の作用なのか。

 

 その境界線は、俺にすら見分けがつかない。

 

 (……観察が必要だな)

 

 胸の内で、そっと言葉にした。

 

 俺が昔、自分の世界のループに取り込まれ、出口のない日々を彷徨ったあと、救いになったのは“誰かが見てくれている”という感覚だった。

 

 あいつがもし、気づかないところで何か異変を抱えているのだとしたら、俺は、それを見落とすわけにはいかない。

 

 づっきーが空気を読むようになった理由が、努力なのか、成長なのか、異変なのか、それとも………

 

 その答えに辿り着くには、もう少し時間が必要だった。

 

 俺は歩みを止めずに、前を見つめた。

 

 (……夜、づっきーにもう一度連絡するか)

 

 胸の奥の小さなざわつきは、まだ消えていなかった。

 

 夜。自宅の明かりだけがぼんやりと部屋を照らしている。

 

 ファミレスのバイトを終えて帰宅し、シャワーを浴びて頭が少し軽くなったところで、机の上のスマホに目が向いた。

 

 のどかと咲太の言葉。そしてづっきーの“らしくなさ”がずっと胸に残っていた。

 

 このまま寝付ける気はしない。

 

 俺は深く息を吸い、メッセージを打った。

 

 《づっきー、お疲れ様。今、大丈夫?》

 

 送信してすぐ、既読の文字がついた。

 

 普段なら《大丈夫だよー!なになに!》

みたいなテンションの返事が飛んでくるはずだ。

 

 しかし返ってきたのは、らしくない返事だった。

 

 《きっしー、お疲れさま。今なら大丈夫だよ》

 

 丁寧。語尾が落ち着きすぎていて、づっきーというより“誰か別の女の子みたいな返事”だった。

 

 胸に小さなざわつきが波紋を広げる。

 

 俺は慎重に文章を続けた。

 

 《今日、いろいろあったろ?大丈夫かって思って》

 

 数秒の間を置いて、返事が届いた。

 

 《今日は本当にごめんね。きっしーにまで心配かけたくないんだ》

 

 (……また謝るのか)

 

 づっきーがこんな風に謝るなんて、滅多にないことだ。

 

 いつもの彼女なら、《きっしーに心配された!うれしー!!》と勢いよく返してきてもおかしくない。

 

 なのに今日は、静かで、整っている。

 

 さらに続きが届く。

 

 《あのね、今日ね、学食で友だちに“岸和田くんといつ付き合うの?”って聞かれちゃって》

 

 《誤解されたくなくて……》

 

 《その……学校の中で会うの、ちょっと気になるんだ》

 

 《だから、もし会うなら外の方がいいかなって思って》

 

 (……づっきーが周囲の目を気にしてる?)

 

 づっきーは今まで、“空気を読むんじゃなくて吸うもの”と言い切っていた人間だ。

 

 そんな彼女が、周囲の視線を気にして場所を変えようと言うなんて。どう考えても、らしくない。

 

 違和感がさらに濃くなる。

 

 俺は落ち着いて返した。

 

 《誤解のことはわかったよ。気にしてくれてありがとな》

 

 《じゃあ、外で会おう、いつがいい?》

 

 すぐに、明るさを装った文章が返ってくる。

 

 《うん。明日、空いてるよ》

 

 《藤沢とかどうかな?人多いけど、逆に目立たないかもって》

 

 《いいかな?》

 

 丁寧で、落ち着いていて、文字の奥に“温度”がない。

 

 俺は時間を確認する。

 

 明日は英語の授業が二限にあり、そのあと塾のバイト。

 

 藤沢に寄れるのは十四時半あたりだ。

 

 《明日は二限のあとバイト入ってる》

 

 《だから十四時半くらいなら行ける》

 

 《十四時半ね。わかった》

 

 《南口で待ってるね。無理しないでね、きっしー》

 

 “無理しないでね”

 

 ……この言葉が、どうしても引っかかる。

 

 いつもの彼女なら、《じゃあバイトまで一緒にいる!》とでも言いそうなものなのに。

 

 (……観察するしかねぇか)

 

 スマホを伏せると、暗い部屋の中で胸のざわつきだけがはっきり残った。

 

 明日、十四時半。藤沢駅南口。

 

 そこで、今のづっきーが何なのか、少しは見えるかもしれない。

 




物語解説

今回の物語では、いつも通り日常の中に溶け込んだ、ごく小さな違和感を描きました。

秋の柔らかな光が差し込むキャンパスで、蓮真は咲太、のどか、そして卯月がそれぞれ抱える変化と向き合うことになります。

空気を読むことなく、ただその場の風を変えてしまう存在だった卯月。そんな彼女が初めて周囲に合わせて呼吸を整えるようになった時、蓮真は、観察者としての視点と、一人の人間としての不安のあいだで揺れ始めます。

誰かを支えるために観察し続けてきた蓮真が、
“支えたはずの相手が自分から離れていくかもしれない”という感情に触れる。その微細な揺らぎこそが、今章の核心です。

静かに始まった変化の気配とともに、岸和田蓮真という観察者の青春は、次の局面へと歩みを進めます。

次回もぜひお楽しみください。

これまでのヒロインで好きなキャラを教えてください

  • 豊浜のどか
  • 広川卯月
  • 桜島麻衣
  • 双葉理央
  • 古賀朋絵
  • 梓川花楓
  • 大津美凪
  • 浜松夏帆
  • 米山奈々
  • 赤城郁実
  • 牧之原翔子
  • 吉和樹里
  • 上里沙希
  • 鹿野琴美
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