青春ブタ野郎はパラレルスプリングの夢を見ない 作:もドえラん
十月五日
二限の英会話。教室の扉を開いた瞬間、俺は思わず足を止めた。
そこにいたのは、赤縁のメガネをかけ、ゆるく編まれた三つ編みを肩にかけている麻衣先輩だった。
白に近い生成り色のブラウス。その上に薄いグレーのカーディガン。
華やかさは控えめなのに、逆に視線が吸い寄せられるような 落ち着いた知性があった。
文学少女。そんな言葉が自然に浮かぶ。
息が少しだけ詰まる。
メガネをかけた横顔。三つ編み。地味めの服装。
その“静かな佇まい”は、子どものころの記憶の奥に沈んだままの母親の姿と重なって見えた。
(……やっぱり似てる)
胸の奥が、不意に熱を帯びる。
自覚したくない感情まで浮かび上がりそうで、咄嗟に目をそらしてしまう。
完全に不意打ちだった。
そんな俺の狼狽を知ってか知らずか、麻衣先輩がゆっくりと振り返る。
「……あれ?」
優しい声が落ちてきた。
「蓮真くんも、この授業とってたのね」
心臓が、ほんの少し跳ねた。
微笑んだ声が、思ったより近くに落ちてきた。
「はい、麻衣先輩。よろしくお願いします」
すると今度は、麻衣先輩の隣の席から、明るい声が飛んできた。
「あ、岸和田くん! やっほー!」
懇親会でも会った、あの独特の透明感を持つ女の子、美東美織さんだ。
その軽い調子は、他人の気配をやわらげるような明るさだった。
「……こんにちは、美東さん」
「えへへ。今日はよろしくねー」
まるで旧知の友人に挨拶するみたいな、フランクさ。
だが不思議と、違和感はなかった。
むしろ、どこか懐かしいような、馴染むような気配だけが胸に残る。
(……なんでだろうな)
やがて先生が入ってきて、言葉を告げた。
「Today’s class is English only. No Japanese, OK?」
学生たちの中に、小さくため息が混ざる。
点呼が終わり、ペアワークの時間になる。
「The number of students is odd today.So… you three, form a group.」
指されたのは、麻衣先輩、美東さん、そして俺だった。
(よりによって……)
どこか背筋が伸びる。
俺たちは教室の隅のテーブルに集まった。
最初の課題は自己紹介。
先に口を開いたのは美東さんだった。
「Nice to meet you again.My name is Miori Mito.Please call me Miori during this class.First name only, OK?」
丁寧で流れるような発音だった。
まるで英語そのものが、美東さんのパーソナリティに自然と溶けているようだった。
そのとき、麻衣先輩が小さく「あっ」と息をこぼした。
「ファーストネーム……か。……えっと、その……美織って呼べばいいのね?」
ほんの一瞬だけ、日本語で確認するように言ってしまった。
英語禁止の授業なのに、思わず母国語が漏れたような、その微細なためらい。
「Yes. Please.」
美東さんは微笑む。
麻衣先輩は、照れくさそうに息を整えて、「……Miori.Nice to meet you.」
今度は英語で言い切った。
声の端に、ほんの少しだけ柔らかい迷いが残っていた。
そして視線が俺に向く。
「How about you, Hasuma-kun?」
「I’m… Hasuma Kishiwada.Um… please call me Hasuma.」
そう言いかけた時だった。
「Then I call you Hasuma, too.Only in this class, OK?」
麻衣先輩がふわりと笑って見せた。
「え……」
胸の奥が一瞬だけきゅっと掴まれる。
蓮真と呼ばれた感覚が、喉の奥で浮かんでは消えた。
(……今、俺のこと呼び捨てで呼んだよな?)
どこかで聞いたような、麻衣先輩から名前で呼ばれる音。けれど記憶は靄がかかったままだ。
俺はゆっくり頷いた。
「Y-Yes, Ma— …Ms. Sakurajima.」
「……Ms.つけるの、なんか距離感じるわよ?」
麻衣先輩がくすっと笑う。
「す、すみません。呼び捨ては……さすがに……」
「During class, it’s fine.But suit yourself.」
そう言いながらも、楽しそうにしている。
その横で、美東さんが微笑む。
「Then… Hasuma,your turn. Please introduce yourself.」
「Oh… right.My name is Hasuma Kishiwada.You two can call me… Hasuma.」
言いかけたが、妙に喉が引っかかる。
美東さんから“蓮真”と呼ばれることへの抵抗もなくなっていた。
(変だな……俺)
それに美東さんの名前“Miori”にも不思議なほど違和感がなかった。
初めて呼ぶのに、舌が自然に動く。
「Miori, how about your hobby?」
気づけば自然に、そう口に出していた。
美東さんは一瞬だけきょとんとしてぱっと花が開くように顔を明るくした。
「I like… eating.Especially sweets.」
途中で少し恥ずかしそうに目を伏せる。
「I love tasting new food.It makes me happy.」
その声は授業のざわめきの中でも、ほんの少しだけ甘く、味わうという言葉そのものみたいに柔らかく響いた。
麻衣先輩が続ける。
「Then, Hasuma.What’s your hobby?」
「Uh… reading.And… observing someone.」
「Observing?」
美織さんが小さく首をかしげる。
麻衣先輩がふっと目を細めた。
「ふふ、それは“蓮真くんらしい”わね」
らしいという一言が、英語より鮮明に胸に刺さる。
三人で英語だけで話しているはずなのに、そこには確かに日本語の温度“俺たちの距離”があった。
授業の半分が過ぎる頃には、なぜか三人の会話は自然と回り続けていた。
俺が麻衣先輩から“Hasuma”と呼ばれたことに既視感がある理由。
俺が美東さんを“Miori”と呼ぶことに違和感がない理由。
そのどれも、まだ言葉にならない。
ただ、胸の奥で静かに波紋のように広がっていく。
次のワークに移る前、先生がプリントを配るために席を離れた。
教室には英語のざわめきと紙が擦れる音だけが広がって、ほんの短い“自由時間”が生まれた。
そのタイミングで、美東さんが小さく手を胸の前で合わせた。
「Ah… I forgot something important.」
「What is it?」
麻衣先輩が英語で返す。
美東さんは、少しだけ申し訳なさそうに笑って
「I don’t have a smartphone.So… I cannot join some class apps.Sorry.」
その言葉に、麻衣先輩が「え?」と日本語で瞬きをした。
俺はそれを聞いた瞬間、すぐに懇親会の情景が思い浮かぶ。
(そういえば……言ってたな)
あの夜、美東さんはスマホを持ってないと語っていた。
ゆっくりと、麻衣先輩の視線が俺に向けられる。
「蓮真くん、知ってたの?」
「この間の懇親会で、聞きました。美東さん、スマホ持ってないって」
「へぇ……」
麻衣先輩は小さく頷いてそして、ふっと表情を変えた。
「あっ……待って。咲太が言ってた。“スマホ持ってない女子大生がいる”って」
美東さんが少し驚いたように目を開く。
「That’s… me.」
美東さんは少し照れくさそうに肩をすくめた。
「I don’t need it.I like… quiet life.」
「少し、不便だけど」
その横顔は、どこか信念のような静けさをまとっていた。
麻衣先輩は柔らかく微笑む。
「いいと思うわよ。無理に合わせなくても、生活って自分で選べばいいんだから」
「Thank you.…Mai is kind.」
「“Mai”って呼ばれるの、なんか新鮮ね」
英語と日本語が綺麗に混ざりあう小さな空間。
その中で、美東さんの“スマホを持たない理由”と、麻衣先輩が“咲太が言っていた子がこの子だ”と繋がった瞬間が、静かに空気を変えた。
美東さんは、誰かと同じに合わせるために生きていない。だけど、誰かを拒絶しているわけでもない。
ただ、自分に必要なものだけを大切にしている。
その姿勢は、なんとなく、俺の胸にも刺さるものがあった。
(……だから、違和感がなかったのかもしれない)
初対面なのに懐かしく感じた理由。名前で呼んでも自然だった理由。
そのどれも、まだうまく説明できない。
ただ、少しずつ輪郭が形になっていく気がした。
やがて先生の “See you next week.”で英会話の授業は締めくくられた。
ペンを片づけながら、ふと横を見る。
美東さんが、英語用プリントを丁寧にファイルへしまい込んでいた。
その仕草が終わった瞬間だった。
「……ふぅ。やっと日本語しゃべれる……」
ぽそっと、肩の力が抜け落ちるような声がこぼれた。
さっきまでの流暢な英語とは違う、やわらかくて少し甘い声色。
「お疲れ様、美東さん」
俺が言うと、彼女はほわっと笑った。
「うん。ずっと英語だと、なんか頭の中キーンってするから」
言葉のリズムそのものが、日本語の心地よさを取り戻したみたいに緩んでいる。
麻衣先輩も隣で、少し上品に笑う。
「美織、英語すごく上手だったわよ。癖が自然でびっくりした」
「えへへ……ありがとう麻衣さん。でもね、英語ずっとは疲れちゃうし、やっぱり日本語が一番安心する」
「そうね。あと……蓮真くんから“美織”って呼ばれるの、なんか……変じゃなかった」
「え?」
「英語なのに、変じゃなかったですよ?なんでかなって……ちょっと思っちゃった」
その視線は、まっすぐ俺に向いていた。
理由は言葉にならないまま、ふわりとした沈黙が間に落ちる。
麻衣先輩が、そんな空気をやわらげるように言った。
「さ、日本語に戻ったところで……お昼、行きましょ。お腹すいちゃったし。授業も早く終わったことだし」
「行きましょ麻衣さん!」
美東さんは一気に明るさを取り戻し、トートバッグを肩にかけた。
完全に、授業中の英語モードから戻った瞬間だった。
昼休みの学食は、すでに六割ほど席が埋まっていた。
トレイの音や学生たちのざわめきが混ざりあって、いつもの大学の昼の風景が広がっている。
「意外と混んでるわね」
麻衣先輩が少しだけ肩をすくめる。
美東さんはきょろきょろと辺りを見まわした。
「あ、窓際の席空いてるよ」
「ナイス美東さん」
窓際の四人席が一つだけ、ぽつんと空いていた。
偶然なのか、誰かが立ち去った直後なのか。
陽の光が差し込むその席に、俺たちは自然と吸い寄せられるように向かった。
各自、名物のよこいち丼を注文する。
「これ、前に咲太が“めちゃくちゃうまい”って言ってたわ」
「のどかとづっきーも言ってました。評判なんですね」
「ええ。咲太も、“学食で一番コスパがいい”って力説してたわ」
麻衣先輩の言葉に、思わず笑ってしまう。
——同じ日の、同じキャンパス。
一限、二限の授業を乗り越えた咲太は、昼休みになると学食に向かった。今朝六時に起きて作った弁当があるのだが、今日から大学に来ている麻衣と、昼は一緒に食べる約束をしているのだ。
学食内は、すでに八割の席が埋まっていた。
混雑したフロアを見渡すと、窓際に席を確保した麻衣を見つけた。麻衣も気づいて、小さく手を振ってくる。
咲太はトレイを持った学生たちの間をすり抜けて、麻衣がいる四人掛けのテーブルに近づいていく。すると、麻衣の真向かいに岸和田と、美織がいることに気づいた。
「お疲れ、三人とも」
トレイを軽く掲げながら、窓際の席に歩いてくる。
「咲太、お疲れ」
「梓川くん、やっほー」
俺と美東さんがそれぞれ応じる。
咲太は軽く手を上げて返しながら、一度、麻衣先輩と美東さん、それから俺を見比べたあとで、麻衣先輩の隣に座った。
「二限の英語で一緒だったの」
尋ねる前にそう咲太に教えたのは麻衣先輩だ。
「麻衣さんが隣に座ったときは、心臓飛び出るかと思った」
その瞬間のどきどきを思い出したのか、美東さんが胸に手を当てる。
「美織は大げさ」
少し呆れたように麻衣先輩が言葉を返す。
「いやいや、麻衣さんはもっと自覚持って。ね、梓川くん」
自然な会話のラリーのあとで、美東さんが話を振ってくる。麻衣先輩の視線も咲太の方へと注がれた。
そのふたりと、対面で静かに箸を動かしている俺を今一度見比べたあとで、「なんか、随分仲がいいですね」と、咲太は率直な感想を口にした。
テーブルを眺めれば、三人そろって学食の名物、よこいち丼を頼んでいる。すでに、麻衣先輩と美東さんのどんぶりは空っぽだ。
俺のどんぶりだけが、まだ半分ほど残っている。
「咲太、妬いてんのか?」
「ちげえよ。ただ……麻衣さん、友だち作るの苦手だから、ちょっと意外で」
麻衣先輩が咲太の腕を小突く。
「誰がよ」
そう言いつつ、さっき奪った玉子焼きを嬉しそうに味わっているあたり、否定しきれていない。
麻衣先輩は持ってきたお茶を咲太の前に置きながら、さらりと言った。
「英会話の授業、ペアを組んでずっと話していたおかげね」
「なるほど。でも……なんで岸和田も一緒にいるんですか?」
俺は箸を持ったまま肩をすくめた。
「履修してる人数が奇数でさ。俺があまっちゃったんだよ。それで先生から、麻衣先輩と美東さんと組めって言われたんだ」
「なるほどな」
咲太は納得したように頷く。
「あとね、スマホ持ってないって聞いて、咲太が話してた子だってわかったから」
「どうせ、から揚げ三つも食べた食い意地の張った女がいたって言ったんでしょ」
「そこまで話してないって」
「おかげで、麻衣さんとお近づきになれたから許してあげるけど」
美東さんは話を聞いちゃいない。
「美織の自己紹介で、ファーストネームで呼んでほしいって言われたときは、さすがにちょっと抵抗あったけどね。英語だと不思議と自然だったのよね」
「なんで、ファーストネーム?」
咲太が美東さんに尋ねる。
美東さんは、恥ずかしげもなく、でも少し照れながら言った。
「麻衣さんには、呼び捨てにされたいと思って」
「わかるなぁ」
咲太はしみじみ頷きながら弁当の唐揚げを口に運ぶ。
その直後、急に顔を上げた。
「……まさかとは思うが岸和田。僕の麻衣さんを呼び捨てにはしてないよな?」
「してねぇよ」
即答した俺の横で、麻衣先輩が微笑む。
「私は蓮真くんのことは呼び捨てで呼んだけどね」
「……麻衣さんが呼び捨てにする男は僕だけかと思ってました……」
咲太の肩が、目に見えて落ち込む。
「英語の授業の時だけよ。ね、蓮真くん?」
「ええ、もちろん」
俺が頷くと、美東さんが「うんうん」と妙に嬉しそうに頷いた。
すると、何も言わずに席を立った麻衣先輩は、俺のコップと咲太のコップに目をやる。
「蓮真くん、もう少し飲む?」
「あ、じゃあ、ちょっとだけお願いします。ありがとうございます」
「いいのよ」
麻衣先輩はサーバーのお茶を持ってきてくれた。そして咲太の弁当箱の隣にそっと置く。
「麻衣さん、ありがと」
それに、麻衣先輩は口元だけでやさしく微笑む。
「………」
それを見ていた美東さんは、なにやら目をぱちくりさせていた。
「どうしたの、美織?」
「………ふたりって本当に付き合ってるんだ」
まだ目をぱちくりさせている。よっぽど信じられないらしい。
「釣り合ってないとはよく言われるよ」
はっきり口に出す人間は少ないが、周囲の視線がそう語っているのを感じることは多々ある。
珍しいことではない。
お似合いですね、と咲太も本心から言われたことはないかもしれない。
「ううん、そうじゃなくて、なんか距離感が自然で………とてもお似合いです」
畏まった美東さんは、どういうわけかちょっと恥ずかしそうだ。自分の言葉に照れたのだろうか。
人を褒めるのは、変に構えてしまって意外と難しかったりもする。
「美織、ありがと」
そう言って麻衣先輩が笑いかけると、美東さんはハートを撃ち抜かれたみたいにふやけて、ふにゃっと俺の左肩に倒れ込んだ。
「おいおい、美東さん……!」
思わず支えると、「あ、あぁごめん……つい……」と赤くなって離れていった。
咲太がすかさず口を開く。
「岸和田、浮気か?」
「ちげえよ!」
即座にツッコむ俺と、笑う麻衣先輩。
美東さんは両手で頬を押さえながら、椅子に座り直し、ぽつりと言った。
「もうダメ。わたし、今、恋に落ちた」
「この前も言ったけど、僕の麻衣さんはあげないからな」
「時々、貸してよ」
「ふたりとも、私は物じゃないわよ」
麻衣先輩の言葉に、美東さんが少し緊張した表情で起き上がる。
「美東、気にしなくていいぞ。麻衣さんはこれくらいじゃ怒らないから」
「そうね。咲太はいつももっと生意気だものね」
再び、麻衣先輩の箸が咲太の弁当箱に伸びてきて、カニクリームコロッケを獲っていった。
「あー、麻衣さん、それはせめて半分」
だが、咲太の制止の声は届かず、麻衣先輩はばくりと食べてしまう。
「………なんだろう、この感じ。わたし、まだここにいていい?」
咲太と麻衣先輩を交互に見たあとで、美東さんが心細そうに聞く。
「遠慮してくれ」
「いいに決まってるでしょ」
咲太と麻衣先輩の声が同時に重なる。
その隙間で、俺も言葉を添えた。
「まぁ……気持ちは、わからなくもない」
美東さんは少し驚いたように俺を見て、ふっと笑った。
「……じゃあ、とりあえず、お茶おかわりしてくる」
間を取ったような選択をして、美東さんはコップを持って席を立った。空になっていた麻衣先輩のコップを持っていくあたり、抜かりがない。
「美織って、ちょっと咲太に似てるわよね」
サーバーにコップを置いた美東さんの背中を見ながら、麻衣先輩がそんなことを言ってきた。
「それ、美東に言ったら嫌がりますよ」
「咲太は嫌じゃないんだ。美織、かわいいもんね」
「……それは、否定しないですけど」
そこに、お茶をおかわりした美東さんが戻ってくる。
「なんの話?」
「美東はかわいいって話」
「麻衣さん本当?」
美東さんは露骨に疑いの表情だ。どうやら咲太は信用されていないらしい。
「そうね」
「えっと、ありがとうございます」
麻衣先輩の言葉は素直に受け取って、美東さんが大人しく席に座る。照れ隠しに、ずずっとお茶をすすっていた。
会話が途切れたところで、麻衣先輩は最後に残っていた玉子焼きを口に入れた。
箸をケースにしまって、弁当箱の蓋も閉じる。ランチクロスに包んで終了。
俺は、麻衣先輩が持ってきてくれたお茶を飲んで一息つき、冷めかけたよこいち丼をひと口だけかき込んで、静かに三人のやりとりを観察していた。
咲太が弁当箱をしまい終えた頃、俺はふとスマホの時計に視線を落とした。
(……そろそろ、行かないと)
今日はこのあと、藤沢でづっきーと待ち合わせている。
時間にそこまで厳しい約束ではないが、づっきーの場合、早く着いたり突然来たりする可能性がある。
念のため余裕を持って向かったほうがいい。
俺は飲み残しのお茶を一息に飲み干し、トレイの上を軽く整えてから三人へ向き直った。
「……そろそろ出ますね。藤沢に寄る用事があって」
「もう行くの岸和田くん?」
美東さんが少し目を丸くする。
麻衣先輩は柔らかく頷いた。
「蓮真くん、藤沢って……バイト?」
「いや、今日は人に会うだけです」
咲太が箸を置き、じろっと俺を見る。
「豊浜か?」
「違ぇよ」
反射的に返したが、咲太は完全に疑いの目を浮かべている。
「誰と会うの?」
美東さんが純粋に尋ねてくる。
俺は少しだけ迷って正直に言った。
「……広川卯月って子と」
その瞬間、三人の反応が綺麗に割れた。
「広川さんね。あの子なら、早めに行ってあげたほうがいいわよ」
麻衣先輩は、なぜか事情をよく分かっているかのように落ち着いた声。
「広川さん……ああ、スペイン語の授業でタピオカ飲んでたかわいい子ね」
美東さんは、どうやらづっきーと知り合いらしい。
「……岸和田、広川さんに会いに行くんだな」
その声音には、観測者同士の“勘”がにじんでいた。
づっきーが“空気を読むようになった”こと。
あの違和感に、咲太も気づいてる。
俺を見つめながら、咲太は低く短く言った。
「……岸和田。気をつけろよ」
ただの声かけではない。
何か“変化が起きている”ことを知っている者が発する注意のトーンだった。
(……ああ、そういうことか)
俺も咲太が何を意図して言ったのか、すぐに理解した。
「……ああ。ありがと、咲太」
苦笑しながら立ち上がる。
「じゃあ、また授業で」
「気をつけてね、蓮真くん」
麻衣先輩が片手を小さく振ってくれる。
美東さんも同じように手を振った。
「またね、岸和田くん!」
俺は軽く手を挙げて応じ、学食を後にした。
晴れた窓際の光が背中を押すように、駅へと歩き出す。
今日ここで見た“普通の昼休み”の温度と、これから会う“空気を吸わないアイドル”の気配が、胸の中で静かに交差していた。
十四時半、藤沢駅のペデストリアンデッキに出ると、ちょうどづっきーが立っていた。
いつものように跳ねたり、手をぶんぶん振ったりはしない。
姿勢はまっすぐで、表情は柔らかいのに静かすぎる。
「待ってたよ、きっしー」
明るい“声色”だけはいつも通りだ。
けれど、その明るさはどこか 丁寧に作りすぎている。
(……やっぱ、変だ)
俺が気づくより早く、づっきーは周囲を確認して軽く会釈すらしていた。
づっきーが“空気を読む”なんて、見たことがない。
今、その全てをやっている。
駅前のカフェで向かい合って座る。
注文が届くまでのわずかな時間すら、落ち着かない沈黙が流れた。
づっきーがふいに口を開く。
「きっしー、ホットでよかった?もしミルク欲しかったら、言ってね」
「いや……俺はこれでいいよ」
返事をしながら、胸の奥が妙にざらつく。
気遣いの言葉。配慮。様子伺い。
全部、“づっきーらしくない”。
本来なら、「きっしーにはブラックが似合うよね!?闇属性って感じ!!」とか意味不明なことを言って笑ってるはずなのに。
今日のづっきーは、薄いガラス越しに会話しているみたいだった。
俺はたまらず聞いた。
「……づっきー、なんかあった?」
「ううん。なにもないよ」
微笑んだまま、スプーンをゆっくり回す。
視線がふっと下に逃げたのを、俺は見逃さなかった。
づっきーは嘘をつく子じゃない。だけど気づいてないうちの変化を隠す時、決まって少しだけ視線が落ちる。
そして、同じ空気をづっきーも感じていた。
「……ねぇ、きっしー」
「うん」
「今日のきっしー、なんか……優しいね」
「優しい?」
「うん……気を遣ってくれてる感じがする」
(それは……お前がいつもと違うからだよ)
喉まで出かけた言葉を、飲み込む。言えば壊れてしまいそうで。
コーヒーが到着してからも、会話は続かなかった。
づっきーが気を遣う。
俺も気を遣う。
互いに相手の“間”を読み合って、逆に何も言えなくなる。
妥協の会話が続く。
「……おいしいね、このコーヒー」
「そうだな」
それ以上続かない。
「……きっしー、今日暑いね」
「まぁ、秋にしてはな」
続かない。
二人で話しているのに、二人とも“相手と話す理由”を探しているみたいだった。
本当なら、俺がツッコんで、づっきーが笑って、そこから勝手に転がるのがいつもの流れなのに。
今日は、転がらない。
世界が引っかかっている感じがした。
一時間も経たないうちに、俺たちは席を立った。
今日は無理に引き延ばしてはいけない。
ふたりとも、そう思っていた。
駅前に出ると、づっきーが歩きながらつぶやいた。
「きっしー……私ね」
「うん」
「今日、なんでだろ……すごく、居心地悪かった」
言葉が、心の真ん中を突いた。
づっきーは小さく笑う。
「きっしーのこと、嫌いとかじゃないよ?全然ね?」
「……わかってる」
「ただ……なんか違った。いつもと。うまく言えないんだけど……楽しくない、って思っちゃった」
胸の奥が、ぎゅっと軋む。
それは、俺も同じだった。
「……俺も、そう思った」
その瞬間。
づっきーの表情から、“いつもの天真爛漫なづっきー”が消えた。
彼女はゆっくり目を伏せる。
「そっか……」
その声の揺れは、“自分が壊れ始めている”ことを、無意識に悟っているようだった。
秋の風がふたりの間を通り抜けていく。
世界の輪郭が、ほんの少しだけズレた気がした。
——これは、思春期症候群だ。
観察者としての直感が、確かにそう告げていた。
人の流れが交差する駅前で、づっきーは一歩だけ俺に近づき、ほんの少しだけ首を傾けた。
「……じゃあ、きっしー。今日はここまでにしよっか」
「……ああ」
言葉がそれ以上、喉を抜けてこない。
本来なら、
“またどっか行こうな”
そんな軽い一言でも自然に出せたはずだ。
だけど今、何を言っても全部間違いに思えてしまう。
づっきーも気づいている。
だから、無理に明るく見せるみたいに、小さく笑って言った。
「……また大学でね」
その声は天真爛漫ではなくて、“誰かに合わせようとしている広川卯月”の声だった。
胸がきゅっと掴まれる。
呼吸の仕方を、一瞬だけ忘れる。
「……ああ」
返せたのは、それだけ。
本当にそれだけだった。
づっきーはそれを聞いた瞬間、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
「じゃあね、きっしー」
身体を反転させ、ロータリーへと歩き出す。
その背中を見送りながら、(……なんでこんな簡単な一言も言えなかったんだ)と、胸に重いものが沈んでいく。
距離が広がるのは、言葉ひとつ失うだけで十分だった。
づっきーがロータリーの向こうに消えてから、俺はしばらく動けなかった。
胸の奥がざわざわと落ち着かず、息が浅い。
(……思春期症候群)
空気を読む、気を遣う卯月、会話が続かない。そして楽しくない。
あれは、づっきー本人の意思じゃない。
そんな感覚だけが、ずっと指先にまとわりついていた。
そのまま俺は、塾のバイト先に向かった。
日曜の夕方、まだ空は薄い橙色で、建物のガラスに残り陽が揺れていた。
エレベーターが開くと、シャーペンの音とページをめくる音が混ざった、独特の静けさが響く。
「岸和田?」
受付カウンターの裏でプリントを整理していた双葉が顔を上げた。
その表情を見た瞬間、自分の顔が相当ひどいのだと気づいた。
双葉は目を細め、椅子から立ち上がる。
「……どうしたの?顔色悪いけど」
その声音は、普段の冷静な双葉とは少し違っていた。
観察者同士の勘。
いや、双葉は“人を見る目”が鋭すぎる。
俺は胸の奥のざらつきを押し込むようにして口を開く。
「……双葉」
「ん?」
「塾のバイト終わったら……時間あるか?」
言った瞬間、双葉が目を瞬かせた。
「へぇ……珍しい。岸和田から“相談”なんて」
「……まぁ、そうだな。けど……頼りたい時くらいあるんだよ」
自嘲気味に笑うと、双葉は腕を組んで俺をじっと見つめた。
「……いいよ。終わったあとに」
短いけれど、双葉の声は柔らかかった。
「ああ。……助かる」
授業開始の時間が迫っていたから、俺はロッカーに向かった。
白シャツに着替えながら、頭の中ではさっきのづっきーの横顔が何度も反芻される。
「今日、なんでだろ……すごく、居心地悪かった」
「楽しくない、って思っちゃった」
あの言葉は、俺の胸の奥にまだ刃みたいに刺さったままだ。
(……双葉と話せば、糸口がつかめるかもしれない)
観察者としてじゃなく、“づっきーのそばにいたい自分として”今は、誰かの助けが必要だった。
そのための時間が、ゆっくりと迫っていた。
物語解説
今回の物語では、英会話の授業から学食、そして藤沢へ日常の場面を移ろいながら、静かに滲むズレと違和感を描きました。
麻衣、美織、咲太という、蓮真にとって心の温度を測れる相手と過ごす大学の昼休みは、何ひとつ特別な事件が起きない穏やかな時間でした。
けれどそのやわらかな日常風景と対照的に、藤沢で再会した卯月の空気は、あまりにも静かで、あまりにも整いすぎていました。
天真爛漫で、空気を読む代わりに空気そのものを変えてしまう。そんな卯月が、周囲の呼吸に合わせようとする。
その小さな変化は、ただの気分の問題ではなく、蓮真に観察者としての感覚とひとりの青年としての不安を同時に呼び起こしました。
蓮真はこれまで、他人の異変を察知し、支え、寄り添うことで誰かを助けてきました。
けれど今回彼が直面したのは、自分にとって大切な誰かが変わってしまうかもしれない、という、より私的でより鋭い焦りでした。
そして、卯月の「楽しくなかった」という一言は、蓮真の胸に深く沈み込むものとなります。
静かな違和感は、やがて蓮真と卯月にとって避けられない局面へとつながっていく。次章では、双葉との対話を通じて、蓮真がその揺らぎの輪郭を探り始めます。
彼の青春は、またひとつ新しい段階へと進み始めました。
次回もぜひお楽しみください。
これまでのヒロインで好きなキャラを教えてください
-
豊浜のどか
-
広川卯月
-
桜島麻衣
-
双葉理央
-
古賀朋絵
-
梓川花楓
-
大津美凪
-
浜松夏帆
-
米山奈々
-
赤城郁実
-
牧之原翔子
-
吉和樹里
-
上里沙希
-
鹿野琴美