青春ブタ野郎はパラレルスプリングの夢を見ない   作:もドえラん

48 / 84
4.届かぬ想いを抱えて、君の輪郭をなぞる

 

 十月五日

 

 二十一時。授業が終わり、生徒が帰り始めた頃、双葉が話しかけてきた。

 

 「岸和田。悪いんだけど、梓川からも私に話があるらしくてさ。ちょっと一階で待っててもらっていい?」

 

 「咲太が?」

 

 「うん。すぐ済むと思う」

 

 双葉は軽く言ったが、その“すぐ”は、俺にとって別の意味を持って響いた。

 

 (……咲太も、づっきーのことを双葉に話すつもりなんだろうな)

 

 昼間の咲太のあの視線。

 

 「岸和田、気をつけろよ」という短い言葉の重さ。

 

 づっきーの変化に気づいているのは、俺だけじゃない。

 

 むしろ、俺より冷静に、事態を捉えている可能性すらある。

 

 (……そういう意味では、ちょうどいい)

 

 俺も双葉に相談するつもりだった。

 

 咲太が同じ話題なら、すべてが一度に繋がる。

 

 だけど。

 

 (……俺の思春期症候群についてまでは、双葉には、まだ言えないよな)

 

 中学のループ。

 

 自殺未遂。

 

 全部を話すには、まだ覚悟が足りない。

 

 ただ静かに頷いた。

 

 「わかった。一階で待ってる」

 

 そう告げてエレベーターへ向かう。

 

 夜の塾は、蛍光灯の光がやけに白い。

 

 ボタンを押すと、扉が開き「まってくださいっ!」と小さな影が滑り込んできた。

 

 「よかったぁ……間に合った……」

 

 息を整えながら乗り込んできたのは、姫カットの茶髪が印象的な女の子だった。

 

 整った顔立ちがその髪型にやけに似合っている。

 

 「あっ……やっぱり。岸和田先生、ですよね?」

 

 ぱちっと目を輝かせて、彼女が言った。

 

 「……ああ、そうだけど。確か、姫路さん、だよな?」

 

 姫路紗良。去年、文化祭の日に加西くんが連れていた、あの子だ。確か加西くんとは幼馴染だったか。

 

 姫路さんは嬉しそうに頷いた。

 

 「はい、姫路紗良です。先生の授業の評判、聞いてますよ」

 

 そう言って満面の笑み。

 

 「数学の質問したくて先生探してたんですよ。

塾の先生から“梓川先生と岸和田先生が丁寧で優秀”って聞いたので!」

 

 「なんで俺が噂されてるんだ……」

 

 呟くと、姫路さんは楽しそうに笑う。

 

 「梓川先生にも声かけようと思ったんですけど……双葉先生に用事があるみたいだったので、避けました」

 

 (……やっぱり咲太、双葉に話してるんだな)

 

 その確認が落ち、胸の奥で確信が固まる。

 

 そんな思考をしている俺をよそに、姫路さんはくいっと身を寄せてきた。

 

 「ところで岸和田先生、今日ちょっと元気ないですよね?」

 

 「……そう見えたか?」

 

 「見えました。だから……」

 

 ぱんっ!!

 

 「っ……!」

 

 いきなり背中を叩いてくる。

 

 「元気出してくださいよ、岸和田先生!」

 

 「……お前な……」

 

 痛みより驚きが勝って、思わず声が漏れる。

 

 姫路紗良はいたずらっぽく笑った。

 

 「えへへっ、効きました?」

 

 「余計なお世話だよ」

 

 そう返した瞬間。

 

 彼女は不敵に微笑む。

 

 「……やっぱり。岸和田先生って、シャイで慎重なんですね」

 

 「……は?」

 

 「背中叩いた時の反応と、今の目でわかりました」

 

 まるで見透かすように言うと、エレベーターが一階に着く。

 

 「じゃ、岸和田先生。また今度!」

 

 夜の廊下に軽い足音を響かせ、去っていく。

 

 「……なんなんだ、あの子」

 

 ぽつりと呟く。

 

 胸の奥の重さは、少しだけ薄まっていた。

 

 (咲太が双葉に話していること。俺も相談したいことがあること。全部が……ちょうどいい)

 

 そう思いながら、ロビーの椅子に腰を下ろし、

 

 俺は二人が降りてくるのを静かに待った。

 

 「梓川も岸和田も、まだ思春期だったんだ」

 

 双葉にづっきーの話を聞いてもらうと、最初に返ってきたのはそんな言葉だった。

 

 塾講師のバイトが終わったあと。二十二時を少し回ったファミレスの店内は、まだ八割くらい席が埋まっている。

 

 今日は花楓ちゃんもバイトに入っていて、俺たちの注文を取りに来たのは花楓ちゃんだった。料理を運んできたのは古賀だ。

 

 高校生が働けるのは二十二時まで。

 

 今頃ふたりは、奥で帰り支度をしているはずだ。

 

 テーブルには、水のグラスとコーヒーと、ポテトとサラダ。『観察者ミーティング』っぽい布陣だ。

 

 「僕って意外とピュアだからな」

 

 咲太が、ポテトを一本つまみながら言う。

 

 「ブタ野郎は意外と繊細らしいしね」

 

 双葉は、さらっと返す。

 

 「それ、ブタの話だよな?」

 

 咲太がツッコむのを軽く無視して、双葉は視線だけ俺に向けた。

 

 「で、本題。梓川が思ってる通りなんじゃないの?」

 

 「というと?」

 

 「空気を読めなかったアイドルが、空気を読めるようになっただけの話」

 

 「……そんなことあると思うか?」

 

 思わず俺が口を挟む。

 

 こう言ってはなんだけど、づっきーの天然は筋金入りだ。

 

 昨日今日で、急に“普通の大学生”に寄せられるような器用なタイプじゃない。

 

 「梓川も岸和田も、どうしても思春期症候群に結び付けたいんだね」

 

 双葉が、わざとらしくため息をついた。

 

 「そうでないことを願ってるよ」

 

 咲太が答える。

 

 「俺も、できればそうであってほしいけどな」

 

 咲太は、ここ一年半ほど、目立った思春期症候群には遭遇していない。できればこのまま穏便に卒業したいはずだ。

 

 ただ、今回のづっきーに関しては、「何か説明のつく異常」があった方がまだ納得できる。

 

 それくらい、昨日今日のづっきーは、いつもと違っていた。

 

 双葉は、ゆっくりコーヒーカップを回しながら言う。

 

 「仮に思春期症候群だったとしても、彼女は自分の天然に悩んでたわけじゃないんでしょ?」

 

 「まあな」

 

 咲太がうなずく。

 

 「もちろん、昔は悩んでただろうけどさ」

 

 「……いや、そこは微妙かも」

 

 思わず口を挟んでいた。

 

 双葉の視線が、すっとこっちに向く。

 

 「どういう意味?」

 

 「ここ最近、づっきー、ちょくちょく言ってたんだよな。“空気読むっていうのかな”って」

 

 「たとえば?」

 

 「俺と一緒に大学いる時さ。女子グループから、“付き合ってるの?”みたいに詮索された時とか。本人はヘラヘラ笑ってごまかしてたけど」

 

 「……それ、完全に一因じゃない」

 

 双葉が、あっさり言う。

 

 「え?」

 

 「だとしたら、事の一因には岸和田との関係もあるかもねって話」

 

 その一言に、胸の奥がきゅっと掴まれる。

 

 「ちょ、ちょっと待て。なんでそこで俺が出てくるんだよ」

 

 「さっき自分で言ったでしょ。“岸和田と一緒にいる時に”、空気読めたらって思う場面があったって。つまり彼女の中で岸和田と一緒にいたい気持ちと、それで周りからどう見られるかって不安が、同時に存在してたってこと」

 

 (そんなはず…….)

 

 づっきーが陰で「大学生らしく」なろうと努力した可能性だって、本当は考えていた。

 

 でもそれを口にするには、ソロデビューの話にも触れざるを得ない。

 

 約束は、守らないといけない。

 

 だから、俺は口を噤んだ。

 

 双葉は、俺の沈黙を責めることはしない。ただ、事実だけを静かに積み上げていく。

 

 「べつに、岸和田を責めたいわけじゃないよ。ただ、気づいた瞬間に世界の見え方が変わるっていうのは、思春期症候群ではありがちなことだから」

 

 「……まあ、そういうもんだろうな」

 

 俺は、曖昧に返すしかなかった。

 

 咲太が、そこで「そういえば」と顔を上げる。

 

 「にしても、岸和田から思春期症候群の相談って、割とレアじゃないか?今までそんな話、双葉から聞いたことないぞ」

 

 「あー、それね」

 

 双葉が少しだけ目を細める。

 

 「岸和田から思春期症候群の相談を受けるのは、高三の時以来だね」

 

 「は?どういうことだ?」

 

 咲太が、思いっきり食いついた。

 

 「……ああ、実はさ」

 

 観念して、俺はコーヒーをひと口飲んでから口を開く。

 

 「浜松さんいたろ。あの子、去年の七月に思春期症候群に罹っててさ。その件で、一回だけ双葉に相談したんだよ」

 

 「初耳だぞそれ」

 

 「いや、お前その頃、受験勉強で手一杯だったし。あれ以上タスク増やしたら死ぬだろと思ってさ」

 

 「勝手に僕の処理能力を決めるな」

 

 そう言いつつも、咲太はどこか納得したようにため息をついた。

 

 「まあいいや。で、岸和田。お前自身はどう思ってるんだ?広川さんのこと」

 

 「どうって?」

 

 「思春期症候群かどうか。根拠とか」

 

 「……正直なところ、“いつものづっきーと違う”ってだけだな」

 

 俺は、正直に言った。

 

 「空気を読むづっきー。気を遣うづっきー。会話が続かなくて、“楽しくない”って言うづっきー。どれも、あいつらしくない」

 

 今日の藤沢駅前での違和感が、喉奥からまたこみ上げてくる。

 

 「……それだけでも、十分な根拠だと思うけどね」

 

 双葉は、淡々とそう言ったあと、ふっと表情を変えた。

 

 「じゃあ、もうひとつ聞いていい?」

 

 「なんだよ」

 

 「岸和田は、その広川卯月って子のこと、どう思ってるの?」

 

 「それさっきも聞いただろ」

 

 「さっきのは“症状としてどう思ってるか”の話。今のは、“彼女個人をどう思ってるか”の方」

 

 双葉の目が、まっすぐ俺を見る。

 

 (……来たな)

 

 わかっていたのに、逃げ場はなかった。

 

 「そりゃあ……大切な……」

 

 「大切な?」

 

 双葉が、あくまで淡々と続きを促してくる。

 

 「……」

 

 喉の奥で、言葉が止まった。

 

 友だちと呼ぶには、あまりに特別すぎる。

 

 それ以上と認めた瞬間、踏み越えちゃいけない一線が、確かに存在する気がした。

 

 のどかのことを思い浮かべる。

 

 づっきーの笑顔も浮かぶ。

 

 どっちかを選ぶことを考えた瞬間に、今の三人のバランスが壊れてしまう。

 

 (……まだ、名前をつけたくない)

 

 沈黙が、テーブルの上に落ちる。

 

 双葉は、それを見て小さく肩をすくめた。

 

 「……まあ、その反応なら、だいたい察しはつくかな」

 

 咲太が、ポテトをつまみながら口を挟む。

 

 「わかりやすいな、お前」

 

 「……うるさいな」

 

 思わずぶっきらぼうな声が出た。

 

 双葉は、それ以上追及はせず、コーヒーをひと口飲んでから話を戻す。

 

 「で、話を整理すると、彼女は自分の天然にそこまで悩んでいたわけじゃない。でも、岸和田と一緒にいる時に空気を読めたら、って思う場面はあった」

 

 「……まあ、そうだな」

 

 「だったら、今回のトリガーのひとつに、岸和田との関係が含まれていてもおかしくない」

 

 「……」

 

 言い返せなかった。

 

 ショック、という言葉はあまり好きじゃない。でも今の感覚には、それが一番近い。

 

 “俺のせいで”という言葉が、喉奥までせりあがって、なんとか飲み込む。

 

 双葉は、少しだけ柔らかい声で付け足した。

 

 「念のため言っておくけど、責めてるわけじゃないよ。そういう可能性もあるってだけ。大事な相手のそばにいたかったからこそ、起きた変化かもしれないって話」

 

 「……それなら、まだマシだな」

 

 心のどこかで、自分を守るような言葉を探していた。

 

 本当は、づっきーが陰で必死に大学生らしくなろうと努力したのかもしれない。

 

 でも、それを言葉にしてしまうと、ソロデビューのことも、のどかの不安も、全部ひっくり返してテーブルに並べることになってしまう。

 

 それだけは、まだやってはいけない。

 

 そんな俺の逡巡を知ってか知らずか、双葉はふいに視線を店の奥へ向けた。

 

 「……ま、それは一旦置いておいて」

 

 ちょうど奥のテーブルに、似たような雰囲気でまとまった女子大生の三人組がいる。

 

 膝くらいの長さのスカートに、上品なブラウス。肩にかかるくらいの髪は、ふんわり内向きにカール。頬はお風呂上がりっぽい血色感のメイク。

 

 合コンの反省会というより、期待外れだった男子へのダメ出し大会をしているのが、少し離れたここまで聞こえてくる。

 

 「それこそさ、新しくできたかわいい女友だちが言ってた通りなんじゃない」

 

 双葉が、さらっと言った。

 

 「一応、まだ友だち候補だよ」

 

 咲太が、苦笑混じりに返す。

 

 「かわいいのは否定しないんだ」

 

 「そこは否定するとこじゃないだろ」

 

 軽口をひとつ挟んでから、双葉は再び説明モードに入る。

 

 「その美東さん、言ってたんでしょ。“毎日似たような情報に触れてたら、直接やり取りしなくても、だいたいみんな同じになっていく”って」

 

 「ああ、“大学生のテンプレ”の話か」

 

 咲太がうなずく。

 

 「そう。毎日同じSNS見て、同じ番組や配信を見て、同じインフルエンサーをフォローして……。直接関わってなくても、情報が共有されて似たような服装、髪型、価値観になっていく」

 

 双葉は、奥の女子大生グループをちらと見た。

 

 「そういう“社会性”が、人間には備わってるんだろうね」

 

 「それってさ」

 

 咲太が、少し真面目な顔になる。

 

 「見ようによっては、量子もつれに似てないか?」

 

 その単語で、俺も思わず顔を上げる。

 

 双葉が以前、教えてくれたことがある。

 

 ある状態にある粒子同士は、何の媒介もなく、一瞬で情報を共有して同じ振る舞いをすると。

 

 「結果だけ都合よく解釈すれば、“似てる”くらいには言えるかな」

 

 双葉が、カップをソーサーに戻す。

 

 「たとえば、量子もつれの状態にあるコミュニティがあったとする」

 

 見ているのは、さっきの女子大生三人組だ。

 

 「あるな」

 

 「そこに、あとから量子もつれの状態にない友だちが合流したとする」

 

 ちょうどそのタイミングで、「ごめん、待った?」と遅れてひとり女子大生がやってきた。

 

 ミリタリーブルゾンにスキニーという、さっきまでの三人からは少し浮いた服装だ。

 

 「合流したな」

 

 「その後から来たひとりが、何かの拍子に量子もつれの状態に巻き込まれた場合。その時点で情報は共有化されて、コミュニティと一体化する」

 

 遅れて来た子は、席に着くなりミリタリーのブルゾンを脱いだ。

 

 現れたのは、他の三人と同じようなブラウスとスカート。

 

 髪型も、メイクも、距離感も、一瞬で馴染んでしまう。

 

 「まさに、情報が共有化されて、ひとつのグループとして一体化してるってわけ」

 

 単に「空気を読んだ結果」と言われればそれまでだ。

 

 だけど、制服もクラスもない大学という環境で、ここまで見事に似た者同士が再生産されるのは、やっぱりどこか異様にも思える。

 

 そこで、双葉はあっさりと言った。

 

 「……だから、今回のケースはそっちの可能性もあるってこと」

 

 「そっちってどっちだ?」

 

 咲太が尋ねる前に、双葉は先に答えを置いた。

 

 「これが思春期症候群だったとして、思春期症候群を起こしているのは広川卯月ではなく、彼女以外の空気が読める大学生全員だってこと」

 

 さらっと、とんでもないことを言う。

 

 だけど、不思議と納得感があった。

 

 俺は、最近ずっと感じていた違和感を思い出す。

 

 (……何も起きてない場所でも、たまに半歩ズレた感覚がする)

 

 現実の輪郭が、ごくわずかに揺れる。遠くの音が、一瞬だけかすむ。

 

 他人の思春期症候群に近づいたときだけ起こる、あの感覚。

 

 ここ最近は、特に何も起きていないはずの場所でも、そのずれがときどき顔を出していた。

 

 もし、大学というコミュニティ全体に、無意識なネットワークみたいなものが張り巡らされているとしたら、その説明が、いちばんしっくりくる。

 

 「無意識に情報を共有して、普通とかみんなとか、平均化された価値観を生み出す思春期症候群。もしくは、それを実現させる量子もつれ的な性質を持つ、無意識のネットワークが形成されてるとかね」

 

 双葉は、そんなふうにまとめる。

 

 「大学生全員で?」

 

 咲太が眉を上げる。

 

 「そう、大学生全員で」

 

 スケールが大きすぎて、笑えてくるレベルだ。

 

 だけど、どこの大学に行っても似たような学生グループは存在するし、似た服装、似た価値観、似た会話をしているのは事実だ。

 

 何より、卯月が思春期症候群を起こす側である理由は、岸和田との件以外は正直あまり見当たらない。

 

 大学生たちは、制服もクラスもなくなって、自分を証明するものを失う。

 

 だから、無自覚に大学生らしさを求めてしまう。

 

 その漠然とした不安の集合体が、普通やみんなという見えない怪物になっていく。

 

 その中で、あまりにも自分のままでいる卯月だけが、浮いてしまう。

 

 だから、呑み込んだ。集団の中に。

 

 そんな構図にも見えた。

 

 双葉は、ゆっくりとこちらを見返す。

 

 「思春期症候群の正体がそこにあるなら、彼女が巻き込まれる理由はわからないでもないでしょ」

 

 咲太が、ポテトをかじりながら言う。

 

 「づっきーはづっきーだからな」

 

 俺も、うなずく。

 

 づっきーは、づっきーらしく生きている。

 

 アイドルをやって、テレビに出て、雑誌にも載って。

 

 のどかや花楓ちゃんや、たくさんの子たちの勇気になってきた。

 

 そんな眩しい存在は、同年代から見れば、憧れであり、同時にコンプレックスの象徴でもあるはずだ。

 

 だから呑み込んだ……

 

 「……それが彼女を変えてしまうかもしれないから、梓川と岸和田は心配してるんだ?」

 

 双葉の問いかけに、咲太が「まあな」と肩をすくめる。

 

 俺は、気づいたら口を開いていた。

 

 「そりゃあ、当たり前だろ」

 

 声が、自分でも驚くくらい強く出た。

 

 咲太と双葉が、わずかに目を丸くする。

 

 「……悪い。ちょっと、でかかったな」

 

 「いや」

 

 双葉は、ふっと目を細めた。

 

 「そういうふうに言えるなら、ちゃんと大切なって、自覚してるってことだと思うよ」

 

 胸の奥で、何かがじわりと熱くなる。

 

 づっきーと、これまでみたいなやり取りができなくなるのが、怖い。

 

 意味のわからない例えで笑わせて、ツッコんで、ふざけて、また笑って。

 

 それが当たり前だと思ってた日常が、変わってしまうのが怖い。

 

 しかも、その理由の一部が、自分との関係にあるかもしれない。そう思うと、なおさらだ。

 

 双葉は、そんな俺たちの顔を見て、いつもの調子で軽口を挟んだ。

 

 「……ま、とりあえず。浮気がばれないように気を付けなよ」

 

 「誰の話だよそれ」

 

 咲太が即座にツッコむ。

 

 「新しくできたかわいい女友だちもいるんでしょ。桜島先輩に誤解されたら、また面倒だし」

 

 「それは本当にやめてほしい」

 

 咲太が、心底イヤそうな顔をしたところで、双葉がふと店内の時計を見上げた。

 

 すでに、店に入ってから一時間近くが経っている。

 

 今は、二十二時二十分。

 

 「花楓のやつ、遅いな」

 

 咲太がぽつりともらす。

 

 俺は、冷めかけたコーヒーをひと口飲みながら、グラス越しにゆっくりと息を吐いた。

 

 (……づっきーが、どう変わるのか)

 

 (そして、その変化に、俺はどう向き合うのか)

 

 答えは、まだ見えない。

 

 ただひとつだけはっきりしているのは、もう観察者だからなんて理由で、遠くから眺めているだけでは済まされない、ということだった。

 

 俺も、冷めかけたコーヒーカップをソーサーに戻した。

 

 「一緒に帰るから待ってろって言われたんだけどな」

 

 「着替えにしては時間かかりすぎだよな」

 

 俺がそう言うと、咲太は立ち上がりながら店の奥に視線を向けた。

 

 「僕は店の奥を見てくるから、双葉は先に帰ってくれていいぞ」

 

 「そう?じゃあ」

 

 双葉は食べた分のお代をテーブルに置くと、「また塾で」と言って席を立つ。

 

 「気をつけて帰れよ」

 

 そう声をかけると、双葉は軽く片手を挙げて、夜の店内から出て行った。

 

 双葉を見送ったあと、咲太がレジに向かう。

 

 「俺も、花楓ちゃんと古賀に顔出しておくか」

 

 そう言うと、咲太は「助かる」と笑って、店長に声をかけて会計を済ませた。

 

 それからふたりで店の奥へ向かう。

 

 キッチンカウンターの前を横切り、そのさらに奥へと進むと、休憩室のあたりから話し声が聞こえた。

 

 女子がふたり。どちらも聞き覚えのある声だ。

 

 中をのぞくと、思い描いた通りのふたりがいた。

 

 花楓ちゃんと古賀だ。

 

 ふたりとも、まだウェイトレスの制服のままで、花楓ちゃんが持ったスマホの画面を、肩を寄せ合うようにして覗き込んでいる。

 

 「さっさと着替えろー」

 

 咲太が声をかけると、ふたりは同時に振り向いた。

 

 「あ、先輩。きっしー先輩も」

 

 「お兄ちゃん、蓮真さんもこれ見て。卯月さんがすごいことになってる」

 

 「は?」

 

 思わず、咲太と顔を見合わせる。

 

 まったく意味がわからない。

 

 確かにづっきーは妙なことにはなっているが、その件については、花楓ちゃんは知らないはずだ。

 

 「いいから、早く」

 

 花楓ちゃんが、スマホを俺たちの目の前に突き出してくる。

 

 「早くしてほしいのは僕の方なんだけどな……」

 

 咲太がぼやく。

 

 俺も、早く着替えてもらって、早く解散したいという気持ちは同じだ。

 

 「ほんとにすごいの!」

 

 花楓ちゃんは、興奮気味に画面を指さした。

 

 仕方なく目を向けると、そこに映っていたのは、ワイヤレスイヤホンのCMだった。

 

 若い女性が、アカペラで歌っている。

 

 軽やかに始まる歌声。無駄のない伴奏。そして、妙に耳に残るブレス。

 

 (……ん?)

 

 胸の奥に、細い棘みたいな違和感が刺さる。

 

 (もしかして、これって?)

 

 「今日、新しいバージョンが公開されたばっかりなのに、百万回再生超えてるんだよ?」

 

 花楓ちゃんが、目を輝かせながら説明してくれる。

 

 画面の右下には、「100万回」の数字が、あっさり更新されたばかりですみたいな顔で表示されていた。

 

 (……マジかよ)

 

 歌は、ラストのサビへ入っていく。

 

 より繊細に、より力強く。

 

 CM用の短い尺のはずなのに、一曲まるごとフルコーラスを聴いたような満足感がある。

 

 カメラは胸元から首へ、首から口元へと上がり、歌が終わると同時に、これまで見えなかった女性の素顔を映し出した。

 

 おでこににじんだ汗。

 

 熱唱で紅潮した頬。

 

 疲れと充足感が入り混じった、あの独特の笑顔。

 

 俺は、その顔を知っていた。

 

 さっき藤沢駅で会ったばかり。 

 

 どこからどう見ても、づっきーだ。

 

 「……マジか」

 

 思わず、声が漏れた。

 

 コメント欄には、すでに大量のコメントが流れ込んでいる。

 

 {これって、クイズ番組に出てる天然の子だよね?}

 

 {歌とか歌うんだ}

 

 {こう見ると美人}

 

 {なんかすげえ}

 

 {歌まじうま}

 

 {づっきーの時代が来るな}

 

 づっきーを知っている人もいれば、知らない人もいる。

 

 共通しているのは、たった三十秒ちょっとのCMを通して、画面の向こう側の彼女に向けられた、強烈な興味と熱。

 

 それはコメント欄の文字情報とか、再生回数とか、そういうものだけじゃなく、スマホの小さな画面越しにも伝わってくる、よくわからない、でも確かにそこにある熱量だった。

 

 (……やっぱり、遠いよな)

 

 ぞわっと鳥肌が立つ感覚と一緒に、そんな思いが胸の奥から湧き上がる。

 

 ソロデビューの話。武道館の話。

 

 あのベンチで、半分冗談みたいなテンションで、それでも確かに本気で話してくれた夢。

 

 ただの天然な大学生とか、クイズ番組の面白い子とか、そういう枠をもう一段ぶち抜いて、ちゃんと歌で名前を憶えられる存在になるかもしれないという現実味。

 

 百万回再生という数字は、俺のそんな予感を、否応なく裏付けていた。

 

 (もしこれから、づっきーがもっと注目される存在になっていくなら……)

 

 画面の中で笑っている彼女と、藤沢駅前できっしーと呼んでいた彼女が、少しずつズレていく気がした。

 

 (俺と一緒にいるのって、むしろ迷惑なんじゃないか……)

 

 炎上だとか、変な噂だとか、アイドルをやっていれば、いくらでもリスクは転がっている。

 

 大学の同級生の男とふたりでいるところを撮られた、なんて見出しは、いくらでもつけられる。

 

 俺にそんな価値があるとは思ってない。

 

 ないけれど、づっきーの隣にいる無名の男というだけで、勝手に物語を作る人間はいくらでもいるだろう。

 

 (……考えすぎかもしれないけど)

 

 そう思って首を振ろうとしても、胸の奥のざらつきは簡単には取れなかった。

 

 「……すげえな、づっきー」

 

 気づけば、そう口にしていた。

 

 これはもう、単に「応援しているアイドルの活躍が嬉しい」とか、そういう次元だけじゃない。

 

 遠くへ行こうとしている背中を見ている感覚に近い。

 

 のどかの言う通り、卯月にはみんなを笑顔にする力がある。

 

 その力に、今、画面の向こう側の何十万人もの人間が気づき始めている。

 

 「卯月さん、ほんとにすごいですよね……」

 

 横で、花楓ちゃんが素直な感想を漏らす。

 

 「世界変わるかもしれないね」

 

 古賀も、感心したようにうなずいていた。

 

 そのすごいの輪の中に、俺もいる。

 

 でも、その輪の中心にいる彼女との距離だけは、逆に開いていくようにも思えた。

 

 (……それでも、俺はどうしたい?)

 

 さっき双葉に、「大切なんでしょ」と言われた言葉が、遅れて胸の奥で反響する。

 

 画面の中で笑うづっきーは、まちがいなく眩しい。 

 

 その眩しさに、目を細めたくなる。

 

 それでも、目をそらしたくはなかった。

 

 十月六日

 

 横浜駅から京急線に乗り換えた咲太は、いつものように吊り広告をぼんやり眺めていた。

 

 少年漫画雑誌の表紙に載った広川卯月。

 

 片肩のこぼれたセーター、黒髪の艶、オレンジをかじる素の笑顔。

 

 (……いい写真だな)

 

 花楓への土産に雑誌を買うか、それくらいの軽い気持ちで見ていると、

 

 「お兄さん、見すぎ」

 

 後ろから声がした。

 

 けれど、こちらの卯月は両肩がしっかり洋服にしまわれている。露出が少ない。色っぽさが全然足りていない。

 

 「やっぱり、あっちの方がいいか」

 

 「そ、そんなに見るの禁止」

 

 恥ずかしそうに卯月が腕を引っ張って、咲太の向きを変えてくる。

 

 なんとも珍しい反応だ。以前は、水着グラビアが載った雑誌を咲太が持っていても、「どう?どう?」と、むしろぐいぐい聞いてきたくらいなのに。

 

 「最近、調子いいんだな」

 

 「うん、おかげさまで」

 

 「CMもさ」

 

 「お兄さんも見てくれたんだ」

 

 その話題に、卯月の声は少し小さくなった。

 

 「昨日、花楓が騒いで教えてくれたよ。すごいことになってんだろ?」

 

 「そうみたい。今朝もマネージャーから連絡あって、大学行くときは気をつけろって」

 

 だから、普段は素顔丸出しの卯月が、今日に限っては帽子とマスクを着用しているのだ。

 

 変装の効果もあってか、今のところ周囲の乗客が卯月に気づく様子はない。ただ、咲太同様、中吊り広告の卯月に気づいて、しばらく見ている乗客は何人かいた。明らかに、昨日のCMを受けての反応だ。

 

 「昨日はさ、岸和田にも会ったんだろ?」

 

 何気ないふりをして尋ねる。

 

 「……うん」

 

 短い返事だけが返ってくる。

 

 本来なら、「聞いて聞いて」とマシンガントークが始まってもおかしくない場面だ。どこで会ったとか、何を話したとか、向こうがどんな顔してたとか。

 

 それが、やけにコンパクトな「うん」で終わった。

 

 (……ずいぶん、端折るな)

 

 咲太は、それだけでどこか噛み合っていないような感覚を覚える。

 

 岸和田から聞いている昨日の様子と、今の卯月の反応。その間に、微妙な“隙間”みたいなものができていた。

 

 その時、ドアの前に立った女子高生の二人組も、中吊り広告の方に気づいたようだった。

 

 「ねえ。あれ、昨日の」

 

 「あ、CMの!」

 

 「そうそう、名前なんだっけ?」

 

 「待って、調べる」

 

 スマホを出しながら話しているのが聞こえてくる。

 

 以前の卯月だったら、自分から話しかけて自己紹介をしていてもおかしくないシチュエーションだ。

 

 いきなり声をかけられて戸惑う相手のことなど気にせずに、卯月は自分のペースで力強く握手をしていたと思う。でも、今の卯月はぴくりとも動かなかった。

 

 そこに流れてきた車内アナウンスが、女子高生たちの会話を一時的に遮る。次は上大岡だと教えてくれた。

 

 「次で一旦降りて、隣の車両に移ろうか」

 

 咲太がそう提案すると、卯月は小さく頷いた。

 

 別の車両でも反応は同じ。男子高校生たちが興奮気味にCMを語っていた。

 

 上大岡、金沢文庫と乗り継ぎながら、二人は三度ほど車両を移動する。

 

 「なんか秘密のデートっぽいね?」

 

 卯月はくすっと笑った。

 

 それはほんの一瞬。だが、誰か別の相手を思い出したような表情だった。

 

 (……岸和田のことか?)

 

 昨日、岸和田とも会っているだろうと尋ねたとき、「うん」としか返ってこなかった。

 

 その浅い返事に、咲太はふたりがすれ違っている気配を感じていた。

 

 それに麻衣の彼氏である咲太としては、地味にはらはらしているというのが本音だ。

 

 今、卯月と一緒にいるのが見つかると、事実など関係なく彼氏扱いされて、おかしなデマがばら撒かれてしまうかもしれない。二股疑惑なんて流されたらたまったものではない。

 

 (それこそ、づっきーとデートする相手って意味なら、岸和田の方がよっぽどお似合いだと思うけどな)

 

 そんなことを心の中だけでぼやきながら、大学がある金沢八景駅に到着すると、「ふ~」と安堵のため息が無意識にこぼれた。

 

 改札を抜け、大学へ続く並木道を歩きながら、二人はいつもの調子で言葉を交わす。

 

 「でも、私はお兄さんに会えてよかったな」

 

 さりげなく落とされた言葉に、咲太はわざと意地悪く返した。

 

 「本当は、岸和田にも会いたかったんじゃないのか?」

 

 「……お兄さんって、ほんと意地悪だね」

 

 卯月は、少しだけ目を伏せて笑った。それ以上は何も言わない。

 

 その沈黙の中に、岸和田から聞いた昨日の藤沢駅のことが、確かに重なっていた。

 

 キャンパスに入ると、人の数も視線も一気に増える。

 

 掲示板の前では、ひとりの女子学生がビラを配っていた。

 

 「学生ボランティアに興味はありませんか?」

 

 赤城郁実だ。

 

 けれど、誰も足を止めない。通り過ぎた学生が、小さく「ボランティアだって」と笑うだけだ。

 

 その光景を、卯月は立ち止まって見ていた。

 

 笑う側ではなく、笑われる側の方に立ったまま。

 

 「ねえ、お兄さん」

 

 マスクを外し、卯月は真正面から咲太を見る。

 

 「私も、みんなに笑われてたんだ」

 

 咲太は、ゆっくりと頷くことしかできない。

 

 それで十分だと言わんばかりに、卯月は一度だけ目を伏せた。

 

 「……きっしーにもこんなふうに、迷惑かけてたのかな」

 

 泣きそうな声だった。

 

 その名前が出た瞬間、さっきの「うん」だけの返事と、藤沢駅前の二人のすれ違いが、静かに線で繋がった気がした。

 




物語解説

今回の物語では、藤沢のファミレスと横浜から金沢八景へ向かう電車とキャンパスという、二つの日常のラインを並べながら、目には見えない距離と輪郭の揺らぎを描きました。

塾帰りのファミレスで開かれた観察者ミーティングは、ひとりのアイドルの異変をめぐる話から、大学生全員が同じ方向を向いてしまうかもしれないという、思春期症候群のスケールを一段引き延ばしたような仮説でした。

広川卯月という個人のズレではなく、空気を読める大学生たちの側がどこか異常なのかもしれないという双葉の視点は、蓮真にとっても、咲太にとっても、自分が立っている地面の方がわずかに傾いているような感覚をもたらします。

そんな世界側の歪みの話の傍らで、蓮真自身は、もっと個人的で、もっと切実な揺らぎに向き合うことになります。

卯月のCMが百万回再生を超え、画面の向こうで「すごい」と称賛されていく現実。藤沢駅前で「楽しくなかった」と告げられた記憶。そして、「大切だろ」と問われても、名前をつけきれない関係。

応援したい、でも自分がそばにいることで足を引っ張ってしまうかもしれない。

遠くへ行こうとする背中を、誇らしさと取り残される不安の両方を抱えながら見送ってしまう。そこにあるのは、観察者としての冷静さと、ひとりの青年としての届かない想いの同居でした。

一方、咲太のパートでは、京急の車内から大学のキャンパスへと場面を移しつつ、「昨日、岸和田にも会ったんだろ?」という何気ない問いかけに対する、卯月の短い「……うん」、赤城郁実のボランティア勧誘を見つめる卯月の横顔、「私も、みんなに笑われてたんだ」という静かな告白が、蓮真と卯月のすれ違いを第三者視点から照らし出します。

「きっしー!」と呼んで笑っていた彼女が、「迷惑かけてたのかな」と、泣きそうな声でこぼすまでに辿り着いてしまった心の距離。

その先で、届かないままの想いがどんな線を描いていくのか。引き続き見届けていただけたら嬉しいです。

次回もぜひお楽しみください。

これまでのヒロインで好きなキャラを教えてください

  • 豊浜のどか
  • 広川卯月
  • 桜島麻衣
  • 双葉理央
  • 古賀朋絵
  • 梓川花楓
  • 大津美凪
  • 浜松夏帆
  • 米山奈々
  • 赤城郁実
  • 牧之原翔子
  • 吉和樹里
  • 上里沙希
  • 鹿野琴美
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。