青春ブタ野郎はパラレルスプリングの夢を見ない 作:もドえラん
十月七日
金曜の夜のファミレスは、人の気配にまだ熱があった。
バイト前の気持ちがどこか重いのは、づっきーのことで胸の奥がざわついていたからだ。
バックヤードに入ると、古賀がエプロンを直しながら振り向いた。
「きっしー先輩、おつかれー。……なんか、元気ないね?」
「そう見えるか?」
「見えるよ。顔に“人生しんどい”って書いてある」
相変わらずの態度に、ちょっとだけ救われた気がする。
「大丈夫だよ」
「絶対嘘じゃん」
心を読まれたみたいで視線を逸らしたとき、入口のベルが鳴った。
入ってきたのは、見覚えのある姫カット。
(……姫路さん)
今週の塾で会ったばかりだ。
あの時も妙に距離を詰めてくるタイプだった。
「いらっしゃいませー……あ、姫路さん」
古賀の声が一瞬だけ固くなる。その反応に気づく。
「朋絵先輩、こんばんは!」
「古賀、姫路さんと知り合い?」
「……今年の体育祭の実行委員で一緒だったの」
「なるほどな」
「きっしー先輩こそ、姫路さんと知り合い?」
「……ああ、姫路さん、俺がバイトしてる塾に通ってるから」
「なるほどね」
姫路さんは席につき、俺の姿に気づくと小さく手を振った。
「岸和田先生も、ここでバイトしてたんですね」
「……どうも、姫路さん」
(ファミレスのバイト中も先生か……)
料理を運び、伝票を置こうとしたとき──
ひらり、と伝票が指から落ちた。
「あっ……」
同時に拾おうと屈み込んだ瞬間。コツン。
「……っ」
姫路さんの額が軽く当たった。
「す、すまん……」
「いえ。……やっぱりシャイですね、岸和田先生」
またそれだ。
笑いながら言う彼女に、なぜか返す言葉がなかった。
休憩室に戻ると、古賀が待っていた。
「……きっしー先輩、さっきの見てたけどさ」
「どうした?」
「姫路さん、結構ズバズバくるよね……」
「……まぁ確かにな」
古賀は俺にはニックネーム、でも姫路さんにはさんづけ……その関係がなんとなく理解できた。
「……古賀、姫路さんのこと苦手なのか?」
古賀はちょっと頬をかいた。
「うーん……苦手ってわけじゃないけど……あたし、高校デビューだから」
「え?」
「もともとキラキラキャラじゃないし。姫路さんはなんか、中学の時から完成してたタイプっぽいから……ちょっと緊張するっていうか」
古賀がそんな話をするのは珍しかった。
「……古賀にも、そういう時期あったんだな」
「むしろ今が後付け。きっしー先輩こそ、なんか悩んでるなら言えばいいのに」
「……別に」
「なんか強がってるね。あっ、そうだ」
急に明るい声音を取り戻し、古賀が言う。
「来週、指定校推薦の出願するよ!」
「ああ、女子大のやつか。いいじゃん。おめでとう」
「まだ受かったわけじゃないですよ?」
「指定校なら大丈夫だろ。発表、十一月下旬だよな?」
古賀はぴたりと動きを止める。
「……きっしー先輩、なんでそんなに詳しいの?」
「一応、塾バイトしてるからな」
古賀は嬉しそうに笑う。
その笑みに安心したのも束の間、彼女が思い出したように言った。
「そうだ。去年の誕生日みたいに、なんか買ってくれるの?」
「……まあ、何か欲しいなら」
「えっ、じゃあ……この間、花楓ちゃんが見せてくれたCMのイヤホン!あれ欲しい!」
少し間が空いた。
「……ああ。づっきーのやつか」
古賀は、あ、と軽く目を丸くした。
「きっしー先輩……づっきーと、なんかあったんですか?」
(……古賀もづっきーって呼ぶのか。……まあ、俺のこともきっしーだしな)
「いや、なんもない」
古賀は少しだけ眉を寄せた。
「……ふーん。でもさ、きっしー先輩」
少しだけ大人びた表情になる。
「もし喧嘩したなら、早く仲直りした方がいいいよ」
「…………」
「素直にならないと、絶対後で後悔するから」
「ああ……」
答えたけど、心の底では別の言葉が渦巻いていた。
(喧嘩なら……まだいいんだけどな)
胸の奥のざわつきは、厨房の熱気よりずっと重かった。
バイトを終えて店を出ると、夜の藤沢の空気はひんやりしていた。
シャツ越しにも、夜風が胸の奥のざわつきを冷やしていく。
けれど、そのざわつきそのものが消えるわけじゃない。
(……古賀の言う通り、喧嘩ならまだ気が楽なんだけどな)
づっきーと俺の間にあるのは、そういう単純な感情じゃない。
変わってしまった空気と、言葉にならない距離。それが、胸の中にずっと引っかかっている。
自宅までの道を歩いていると、スマホが震えた。
画面には、大津の名前。
《岸和田、三連休の三浦ツーリングどうする?》
「あ……」
思わず声が漏れた。
(……忘れてた)
この間、父に会ったついでに、実家に置きっぱなしになっていたロードバイクを輪行して藤沢の家まで運んできていた。
走ろうと思えば走れる。むしろ、今の自分には気分転換が必要かもしれない。
《あぁ、行くよ。十日は大学の授業あるし、明日は用事があるから……九日でいいか?》
送信すると、すぐに別の通知が重なる。
浜松さんからだ。
《いいよ。楽しみにしてるね》
本来なら、「おう」とか何か返したんだろうけど……今日は返信を打つ気力がなかった。
スマホをポケットに戻し、再び歩き始める。
(……九日は走れる。気分転換にもなる。問題は……)
視線が自然に夜空へ向いてしまう。
(十日……づっきーと基礎ゼミがある日だ)
この三日ほど、ずっと気になっていた。
づっきーの声のトーン。周囲を気にして歩く姿。いつもの彼女らしくない沈黙。
(……話した方がいいよな。何かあるなら、聞いてやらなきゃ)
でも同時に、もうひとつの不安も胸にまとわりつく。
(……CMに出てから、づっきーは目立つようになってきてる。そんな彼女と一緒にいたら、迷惑になるかもしれない)
誰かに撮られでもしたら。
誰かが余計な噂を広めたら。
(……会うなら、人目がつかない時間を考えないと)
そう思う自分が、なんだかやけに慎重で、ずるい。
でも、彼女に余計な負担をかけたくないという気持ちの方が大きかった。
(づっきーは……あの時、“楽しくなかったって”言った)
その言葉の重さは、今も胸の片隅に引っかかったままだ。
(……十日。ちゃんと話せるだろうか)
鍵を回し、部屋の明かりをつける。
温かい空気が流れ込んできても、胸の奥だけはまだ冷えたままだった。
十月八日
土曜日の川崎駅のロータリーは、平日の疲れた喧騒とは違い、どこか休日の余白みたいな空気が漂っていた。
親子連れがゆっくり歩き、スポーツバッグを肩にかけた中学生が駆けていく。
週末のショッピングを楽しむ人々と、ただぼんやり駅前に立つ人が混ざり合う独特の風景。
今日、俺は授業もバイトもない。
それなのに、胸の奥はやけにざわついていた。
づっきーのことだ。
(……まだ整理ついてねえな)
頭の中はこの間の藤沢での彼女の表情のままだった。
そんな思いを抱えながら、俺はバス停へ向かった。子ども食堂の手伝いのために。
すでに到着した地域センターの前には赤城が来ていた。
「お疲れさま、岸和田くん」
土曜日の赤城は、平日より少し服装がラフだ。
白いスウェットに薄手のジャケット、髪は後ろでゆるく留めている。
その姿は社会貢献の人の顔ではなく、ただの同級生の顔だった。
「今日も、あの三人来るよ。楽しみにしてたから」
「そりゃ、よかったな」
赤城は小さく笑う。
その笑みの向こうに、子どもたちの顔が浮かんでいるのがわかる。
(……こういうところ、やっぱり強いよな)
俺はそう思いながら、センターの扉を押した。
エプロンを結び、調理室に入る。
「じゃあ、岸和田くんはカレーお願い。もう具材は洗ってあるから」
「了解」
赤城はいつものように進行役として動く。
土曜ということもあり、今日は中学生だけでなく、地元の小学生も数人来ている。
彼らの視線の先には、カレーの匂いがある。
玉ねぎを刻むと、甘い匂いが立ちのぼる。
「手つき、ほんと慣れてるね」
赤城が感心したように言う。
「一人暮らしだしな。これくらいは」
「えらいと思うよ。だって、自分で生活をまわすって、口で言うよりずっと大変だから」
その声が、胸の奥に温度を落としていく。
(……自分の生活すらうまく回せない時もあったけどな)
そんな自分と向き合う前に、調理室の扉が勢いよく開いた。
「え、今日カレー?やった!」
「休日のカレーは最強!」
中学生男子ふたりと、その後ろで控えめに立つ女子ひとり。
いつもの三人だ。
女子は小柄で、声が小さい。
けれど、赤城の姿を見るとふっと安心したような顔をする。
「来たね。エプロン貸すから一緒に手伝おう」
赤城は自然にそう言う。その優しさは、誰かに説明しなくても伝わる。
(俺も……こういう優しさができればいいんだけどな)
「にんじんの皮、むく!」
「じゃあ俺はじゃがいも!」
「わ、私……レタス……」
赤城が女の子の手元にそっと手を添える。
「大丈夫。ゆっくりでいいよ」
そう言う赤城の声は、救いそのものみたいだった。
俺が鍋に油をひくと、横で赤城が覗き込む。
「今日の岸和田くん、ちょっと静かだね」
「そう見えたか?」
「料理してる時の顔、いつもより集中してる」
(……全然隠せてないな)
づっきーのことが頭を離れないなんて、言えるわけがない。
「焦がさないでね?」
「……気をつける」
その直後。
「岸和田くん?」
「ん?」
「焦げてるよ」
「あっ……!」
鍋底が薄く茶色に染まっていた。
赤城はくすっと笑う。
「そろそろ休憩したら?」
「まだ大丈夫だよ」
「強がらなくていいからね」
その言い方が優しくて、余計に胸がざわつく。
「いただきます!」
中学生、小学生、赤城、俺。
みんなでバラバラに揃った声を上げる。
土曜日の夕方に、こんなふうに皆でカレーを食べる。
家ではない、学校でもない。でも確かに帰ってきたくなる場所。
「今日のカレー、なんかプロみたい」
男子が言う。
「いや、プロじゃない。家カレーの延長線だ」
「でも美味しいよ」
控えめな女子が小さな声で呟く。
その一言で、鍋の焦げなんて全部どうでもよくなる。
そんな子どもの声を聞きながら、赤城は言う。
「……すごいね、岸和田くん」
「何が」
「こういう場所で、こういうふうに手を動かせる人って、意外と少ないから」
その言葉が、妙に胸の奥に響く。
(俺は……支えられてるのか。誰かをちゃんと、支えられてるのか?)
答えはまだ出なかった。
「皿運び係、出動!」
「わーい休日サービス!」
男子ふたりはハイテンションで皿を運ぶ。
女子はおずおずとグラスを並べる。
赤城は、その子の手をそっと支えながら言う。
「それで十分だよ。ありがとう」
その優しさを横で見ていて、胸がぎゅっとなる。
(俺も……こんなふうに誰かを安心させられたら)
その時、赤城がふいに言った。
「ねえ、岸和田くん」
「ん?」
「無理しなくていいからね」
唐突で、でも核心を突く言葉だった。
「……なんの話だよ」
「誰かのことで悩んでるって、顔に出てるよ?」
見透かされて、言葉が止まった。
づっきーのことは言えない。
けれど、その胸のざわつきは、ずっと明らかだったのだろう。
赤城は追及しない。
「話したくなったら、話してね」
それだけを残して、片付けに戻っていった。
外に出ると、土曜の夜風は平日よりも少しやわらかかった。
「今日もありがとう、岸和田くん。本当に助かった」
赤城がそう言ったあと、ふと何か思い出したように顔を上げた。
「そういえばね、木曜日……大学でボランティアのチラシ配りしてきたんだ」
「チラシ配り?大学で?」
「うん。学生ボランティアの募集」
赤城は当たり前のことのように言う。
「勇気あるな、赤城。大学でチラシ配るのって、けっこうメンタルいるだろ」
「……そうかな?」
赤城は少しだけ照れたように肩をすくめる。
「仲間はもっといた方がいいし。受け取ってくれた子もいたし、それに……」
少しだけ視線をそらして続けた。
「岸和田くん、この前、友部さんを紹介してくれたでしょ? だから私も、何かできることないかなって思っただけ」
(……赤城のその勇気、俺も見習わないとな)
胸の奥が、すうっと熱を帯びていく。
自分自身、づっきーのことになると何もできずに立ち止まってばかりだった。
そんな自分と違って、赤城は迷いなく前へ踏み出せる。
その強さが、今の俺には眩しかった。
「そっちは帰り、南武線だろ?」
「ううん、今日は都内に行くから」
「都内?」
本来なら、ここで気づくべきだった。
赤城が#夢見る に関係する現場へ行っていること。
けれど、今の俺の頭の中は。
(づっきー……)
その名前でいっぱいで、赤城の行動を深読みする余裕なんてなかった。
電車が入ってくる。
ホームに人が流れる。電車は軽い音を立てながら止まる。
俺は、ドアが開くのを見ているだけだった。
(俺は……どうすればよかったんだ?今、どうすればいい?づっきーの変化に、俺は何を返せばいい?)
しかし、その問いはまだ答えを持たない。
ただ、答えのない問いを抱えたまま、夜のホームに立ち尽くす。
電車のドアが閉まる。
(……それでも)
俺は心の奥底で、確かに思った。
(づっきーが笑える日を、俺は見逃したくない)
それが、この日の唯一の本音だった。
十月九日
日曜日。秋の風がわずかに冷たくなり始めた藤沢駅前で、俺はロードバイクを押しながら二人を待っていた。
やがて、二台のロードが滑り込むようにやって来た。
「おーい、岸和田!」
大津の愛車は GIANTのTCR。相変わらず“速さの塊”みたいなフレームだ。
続いて浜松さんが軽く手を挙げる。
「岸和田くん、おはよう」
彼女のバイクは CANNONDALEのCAAD13。爽やかなカラーリングがよく似合っている。
俺の相棒は Bianchi VIA NIRONE 7。
チェレステのフレームは、今日も気分を切り替えてくれる色をしていた。
「じゃ、行くよー!」
三人でペダルを踏み始めると、足の動きに合わせて余計な思考が風に溶けていく。
(……やっぱりロードはいいな)
海沿いに出ると、潮風が胸のざわつきを少しずつ持っていってくれる気がした。
正午過ぎ、三崎口に到着。
「お腹減った……岸和田、ここ入ろう!」
大津が指差したのは、前から気になっていた食堂だ。
三人が頼んだのは 三色まぐろ丼。
メバチマグロの赤身、インドマグロの大トロ、本マグロのねぎとろの鮮度をそのまま乗せた、まさに三崎ならではの味。
味噌汁に小鉢がついて千三百円とお得。さすが、三崎港が近いだけのことはある。
「……うまっ」
思わず声が漏れる。
「でしょ?」
浜松さんが嬉しそうに頬を緩ませる。
(……づっきー、こういう海鮮の素朴なの好きそうだよな)
何気なくそう思ってしまう。
明日、その話を振ったら、ほんの少しでも、前みたいに笑ってくれるだろうか。
午後の海沿いの道は、向かい風すら気持ちよかった。
そんな中、大津が横から声をかけてくる。
「岸和田。……さっきから、なんか考えてる?」
「え?」
浜松さんも俺の顔を覗く。
「うん、なんかぼーっとしてた。疲れた?」
「……いや、なんでもないよ」
そう答えながらも、胸の奥の重さは消えない。
(ほんとは……めちゃくちゃあるけどな)
けれど、二人はそれ以上深く聞かない。
秋の風が頬をかすめ、チェレステのフレームが夕陽を反射する。
(……明日。明日こそ、ちゃんと向き合う)
そう思った瞬間、サイクルコンピュータの電子音が鳴り、まるで「行けよ」と背中を押されたような気がした。
三人は夕焼けの海を背に、藤沢へと戻っていった。
藤沢駅のロータリーが見えてくると、三人とも自然にブレーキを握った。
「じゃ、ここで解散かな」
浜松さんがヘルメットを外し、長い髪を結び直す。
大津は愛車のトップチューブを軽く叩きながら、にやっと笑った。
「そうだ、岸和田。ビーチバレーのツアーファイナル覚えてる?」
「え?」
「二十二と二十三。平塚。私たち、出るからさ」
浜松さんも、スポーツバッグの肩紐を整えながら俺を見る。
「……見にきてくれるよね?」
まっすぐな目だった。
そういえば、と胸の奥がわずかに動く。
(……予定に入れてたな。大津と浜松さんの大会)
づっきーのことで頭がいっぱいで、二人との予定は、心のどこかで霞んでしまっていた。
「岸和田、どうしたの?来れないの?」
大津の声に現実へ引き戻される。
不安と、胸の重さと、明日のづっきーの姿がちらつく。
けれど、来てほしいと思ってくれる二人の“まっすぐさ”を裏切りたくなかった。
「……あぁ、行くよ」
気づけば自然と返していた。
浜松さんがほっと微笑む。
「よかった。応援、楽しみにしてるから」
大津はグローブを外しながら、
「約束だよ?雨でも来てよ?」
「いや、雨なら中止だろ」
「それはそう」
そんな他愛ないやり取りが、気持ちを少しだけ軽くした。
夕焼けがビルの窓に反射して、三台のロードの影を細く伸ばす。
「じゃあまたね、岸和田」
「またね、岸和田くん」
二人が去っていく背中を見送りながら、俺はチェレステのフレームをもう一度軽く握った。
(……づっきーのことが不安でも、ちゃんと日常は続くんだよな)
明日のゼミ。
二十二、二十三日の大会。
どれも逃げられないし、逃げたくもない。
(……ちゃんと向き合えるようにしないとな)
秋風がひゅうと吹き抜け、チェーンがわずかに鳴った。
ロードを押しながら、俺は藤沢の夜道へと歩き出した。
十月十日
基礎ゼミの教室に入った瞬間、胸の奥がきゅっと縮むのがわかった。
前の席では、づっきーが女子グループの輪の真ん中にいた。
テンションは高くない。でも、周りの空気に合わせて、柔らかく笑っている。
(……やっぱり、どこか違う)
あの自然に人の空気なんて読まない、読めない、でもその代わりに場そのものを明るくしてしまうづっきーらしさが薄い。
俺が席に向かおうとすると、づっきーと仲のいい女子の一人が声をかけてきた。
「あ、岸和田くん?今日は卯月ちゃんと一緒に授業受けないの?」
「……あぁ、今日はちょっとな」
女子はくるりとづっきーの方へ振り返る。
「卯月ちゃん、なんかあったの?岸和田くんと喧嘩でもした?」
その問いに、づっきーは、ほんの一瞬だけ、視線を揺らした。
だが次の瞬間、空気を読んだ、無難な笑顔で返す。
「ううん、なんにも。今日はちょっと、一緒にならなかっただけだよ」
声も、笑い方も、整っている。
(……づっきー、自分で空気を読んで返してるな)
その瞬間、胸が少し痛くなった。
遠くから見ているだけで息苦しくなり、俺は咲太の方へ向かった。
「おはよう岸和田」
「……おはよう」
福山も軽く手を挙げる。
のどかは、机の上の資料を整えながらちらりと俺を見る。
「……卯月、やっぱり変だよね」
彼女の声はわずかに沈んでいた。
のどかは何も言わない。ただ、手を止めたまま、苦しそうに指先を握りしめていた。
(……のどかも同じ気持ちなんだな)
らしくないづっきーを見ると、俺も自分の胸がざわつくのを抑えきれない。
そんな俺たちの横を、美東さんが歩いてきて緑茶を置く。
「広川さんは広川さんだよ」
その落ち着いた声に、のどかも俺も、少しだけ呼吸が整った。
授業中、咲太が声を潜めて言った。
「今日のづっきー、どう思う?」
咲太は、見ていないようで、ちゃんと見ているやつだ。
俺は少し息を吐き出す。
「……やっぱり変だな」
「だよな」
咲太の横顔は妙に真剣だった。
講義が終わると、女子グループの子が言った。
「卯月ちゃん、今日このあと雑誌の撮影でしょ?早く行った方がいいよ!」
「うん。ありがとう」
づっきーは笑いながら荷物をまとめる。
づっきーが女子たちと別れたタイミングで、俺は急いで立ち上がった。
(……今しかない)
づっきーは廊下を歩き、中庭へ抜けるガラス扉に手をかけた。その背中を追う。俺も息を整えながら近づく。
俺が中庭に出るとづっきーが立ち止まった。
互いの間に、気まずい沈黙が垂れ込める。
「……あのさ、づっきー」
声をかける。でも彼女はどこかぎこちないまま笑った。
「どうしたの、きっしー?」
言いにくそうに、視線を泳がせている。その様子だけで、胸が締めつけられた。
俺は珍しく、自分からづっきーに話題を振った。
「昨日さ……三崎口に行ってきたんだよ、ロードバイクで。三色まぐろ丼、めちゃくちゃうまくてさ……」
そこで言葉が止まる。
づっきーの目が、俺の話を迷惑をかけないように聞こうとしている目だったから。
(……合わせてる)
前だったら「えーっ!いいな!なんで呼んでくれなかったの!」って全力で踏み込んできたはずの子が。
でも、今のづっきーは、違う。
俺の顔色を見て、場を乱さないように、距離を測りながら返そうとしている。
「……そうなんだ、楽しそうでよかったね、きっしー」
笑顔は、きれいに整っていた。
胸がひりつく。
言いたい言葉が喉につかえて出てこない。
(なんでだよ……なんで、こんな会話しかできないんだよ)
づっきーは、俯きながら指先をいじる。
「あのね……きっしー、この前……ごめんね」
「え?」
「藤沢のとき……楽しくなかった、みたいな……ああいう言い方しちゃって……」
喉が鳴った。
「……いや、べつに気にしてないけど」
「でも……きっしー、イヤだったよね……」
違う。
本当は違うのに、うまく言葉が出ない。
づっきーは小さく唇を噛む。
「……きっしーに、私、迷惑かけてたのかなって……思ったんだ」
「迷惑?」
「うん……」
視線は落ちたまま。
「最近……友だちにも言われるの。“岸和田くんと仲良すぎじゃない?” とか、“また一緒なんだ〜?” とか……」
心底、嫌そうに笑った。
「注目されるの、私だけならいいんだけど……きっしーにまで変な目が向いちゃったら……すごくイヤだなって思った」
「……ごめんね。いつも……迷惑かけて……」
小さく震えた声。
その一言で、俺は理解した。
づっきーもまた、ずっと苦しんでいたのだ。
俺を避けているんじゃない。
俺を巻き込みたくなかった。
注目を浴び始めている自分と一緒にいることで、俺が何か言われるのが怖かった。
ただそれだけの理由で、距離を取ろうとした。
(……そんなの、迷惑なわけないだろ)
心の中がぐしゃぐしゃに渦巻く。
でも、言葉にならなかった。
「行かなくちゃ。撮影、遅れちゃうから」
づっきーは小さく手を振った。
「……またね、きっしー」
そう言って、足早に去っていく。その背中は、ほんの少しだけ寂しそうで。
俺はただ、その姿を見つめるしかなかった。
風が木の葉を揺らし、昨日の三浦の海の向かい風よりも、ずっと冷たく感じた。
(……どうすりゃいいんだよ、これ)
胸の中に広がるのは、届きそうで届かない距離への痛みだった。
夜。シャワーを浴びたあと、机に向かっても集中できずにいた。
スマホが震えたのは、そんなときだった。
画面には のどかの名前。
「……のどか?」
「もしもし、蓮真?今、大丈夫?」
少しだけ声が硬い。俺は椅子を回して窓の方へ向き直る。
「ああ。どうした?」
「明日ね……卯月と一緒にクイズ番組の収録なんだ」
「ああ、そうなんだ……」
「うん……でも……」
ほんの小さな沈黙。
「卯月、ああなってからの収録って、明日が初めてで……なんか、ちょっと不安で……」
(……やっぱり、のどかもそう感じてるよな)
今日のづっきーを見て、俺と同じように胸がざわついたのだろう。
「のどかも、不安になるよな。……俺もだよ」
のどかは、受話口の向こうで息を吸う。
「蓮真……今日、卯月と話しに行ったって聞いたけど……どうだった?」
俺は少しだけ言葉を選んだ。
「あいつ……自分が俺に迷惑かけてたかもって、気にしてた」
「え……?」
のどかの声が、はっきり揺れた。
「藤沢のとき、“楽しくなかった”みたいに聞こえる言い方をしたこと……ずっと気にしてたらしい」
「……そんなの、卯月らしくないよ」
強く言い切る声だった。
「卯月が、そんなふうに自分責めるなんて……」
俺は、のどかの戸惑いがよくわかった。
あのづっきーが自分を抑えて、周りに合わせて、俺にまで気を遣っているなんて、本当にらしくなかった。
「だから……のどか」
俺は少しだけ目を伏せる。
「づっきーと一緒なら、気にかけてやってくれ。……のどかの方が、俺よりずっと一緒にいた時間長いだろ?」
のどかは一瞬だけ言葉を失ったあと、小さく息をつく。
「うん……わかった。卯月のこと……ちゃんと見てるよ」
柔らかく、それでも強い声。
「……でもね、蓮真」
「ん?」
「蓮真も……無理しないでね」
胸の奥で何かが静かに溶けた。
「……ありがとな。のどか」
「うん……いつでも相談してね」
通話が切れたあとも、のどかの声はしばらく耳の奥に残っていた。
(……二人とも、同じなんだな)
卯月を気にして、怖くなって、どう支えればいいかわからなくて、答えが見えないまま進もうとしている。
窓の外に目をやると、外の光が静かに揺れていた。
眠れない夜が、ゆっくり深く沈んでいった。
十月十一日
二限の英語の教室は、いつものざわつきはなく、外国語の緊張で空気が少しだけ張っている。
俺の隣には美東さんと麻衣先輩が座っていた。
英語オンリーの授業で、今日のテーマは、最近行った場所について英語で話すこと。
グループに分かれ、まずは美東さんから。
「I went back to my hometown, Shizuoka, last month.」
先月、故郷の静岡に帰ったらしい。
さらっと言うけど、彼女の英語は発音が綺麗で、落ち着きもある。
次に、麻衣先輩。
「I visited Miyake-jima for a shooting. The weather was perfect.」
三宅島。
俺もこの間聞いたばかりだが、英語にすると撮影の臨場感が少し混ざって聞こえる。
そして、俺の番。
(……三浦に行った、だけなんだけど)
本来なら言える。普段なら何でもない英文のはずだ。
でも、喉の奥にひっかかったように言葉が出ない。
「I… I went to… Miura… for a bike…? trip…?」
自分でもわかるくらい、ガタついた英語。
麻衣先輩が眉をひそめ、英語を破って日本語で静かに聞いてきた。
「蓮真くん。どうしたの?」
柔らかい声だけど、心の奥をすくい取るみたいに鋭い。
英語オンリーの授業なのに、誰も文句を言わない。麻衣先輩の声は、それだけ存在感がある。
もしかしたら、麻衣先輩なら。
咲太のことで何度も苦しみ、何度も立ち向かった人なら。
世間に彼氏がいると知られた時、炎上しかけたのに堂々と前を向いて、「彼は、私が芸能活動を再開するきっかけをくれた人です」と毅然と対応していたあの人なら。
芸能界の厳しさも、注目される側の息苦しさも知っている。
だから、づっきーの変化も。俺の迷いも。きっと他の誰より理解してくれる。
授業の空気を壊さないように、俺は英語で返した。
「…I’m just… a little bit tired. And maybe… worried about a friend.」
麻衣先輩の瞳が、ほんの少しだけ柔らかく細められる。
「I see. You can talk to me later.」
「あとで、ちゃんと話しなさい」
その声は静かだけど、逃がさない強さがある。
背後から、美東さんの落ち着いた声が英語で届く。
「Are you two… talking about some trouble?」
相談事?そんな意味だ。
振り返ると、美東さんは首をかしげたまま、いつもの冷静な目でこちらを見ていた。
「…Is everything alright?」
大丈夫?そんな控えめな問いだ。
ただ、それ以上踏み込む気配はない。
俺たちの間に流れている何かを察していて、
でもそこには土足で入らない方がいいと、きちんと線を引いてくれていた。
麻衣先輩が小さく微笑む。
「It’s okay, Miori. We’ll handle it later.」
美東さんはその言葉に軽く頷いた。
「…If he needs help, I’m here.」
必要なら力になる。でも、今は踏み込まない。
その距離感で、不思議と心が楽になった。
づっきーのことで胸の中が渦巻いていたはずなのに、気づけば少しだけ呼吸がしやすくなっていた。
英語の授業が終わると、麻衣先輩は振り返りもせず、
「蓮真くん、ついてきなさい」と、当たり前みたいな声音で言い残した。
拒否権など存在しない空気だった。
連れて行かれたのは、人の少ない学術情報センター。
麻衣先輩は座ると、鞄を膝に置き、小さく息をついた。
「今日はずいぶんと顔色が悪かったわね」
真正面から、逃げ道なく見つめてくる。
こんなふうに人と向き合えるのは、この人の強さだ。
俺は少しだけ視線を伏せる。
「……づっきーのことで、ずっと頭が混乱してて」
麻衣先輩は、予想していたという顔で頷く。
「広川さん、空気を読むようになっちゃったんでしょ?のどかから聞いてるわ」
「……はい」
「いつもと違う彼女を見るのって、しんどいわよね」
その一言に、胸の奥の緊張が少し緩んだ。
誰よりも変わってしまう怖さを知っている人だからこその言葉だった。
黙っていると、麻衣先輩は優しく、でも逃げられない声で続けた。
「蓮真くん、迷ってること、全部言いなさい」
ゆっくり、深く息を吸う。
そして核心を、口にした。
「……もし、麻衣先輩と咲太だったら……どうしますか?」
麻衣先輩は驚かない。
むしろ少しだけ笑って、膝の上で指を重ねた。
「その質問、広川さんにどう向き合えばいいかってことよね」
俺は黙って頷く。
彼女は、遠くを見るように、でも強い声で言った。
「私と咲太だったら、逃げないわ」
「逃げない?」
「ええ。相手が変わろうとしているなら、変わろうとしている理由を、ちゃんと見つける。怖いなら、怖いって言わせる。間違ってるなら、間違ってるって言う」
麻衣先輩は、迷わず続ける。
「だってね蓮真くん。変わってしまうのが一番怖いのは、本人なのよ」
胸が締めつけられる。
づっきーの寂しそうな背中が頭に浮かぶ。
「……本人がいちばん、怖い……」
「そうよ。だから支える人が逃げちゃダメ。戻ってきていいよって、ちゃんと言ってあげること」
優しい言葉なのに、鋭かった。
説得ではなく、導く言葉だった。
「蓮真くん、あなたはとても見てしまう子よね。でも、人の気持ちは観察するだけじゃ届かないのよ」
まるで俺の胸の奥を見透かしているみたいだった。
「……じゃあ俺は、どうすれば」
「簡単よ」
麻衣先輩は、少しだけ微笑んで言った。
「広川さんの“本当”を、もう一度ちゃんと呼び戻してあげればいいのよ」
その言葉は、まるで心に灯りをつけるように広がった。
「広川さんは強い子よ。でもね、強い子ほど、折れそうな時に誰にも言えなくなるの」
風が止まり、静寂が落ちる。
麻衣先輩の目は、どこまでも優しかった。
「蓮真くんなら……あの子を掬ってあげられるわ」
胸の奥にあった、むやみに絡まった不安がほどけていく。
俺は深く、息を吸った。
「……ありがとうございます、麻衣先輩」
「そうやって素直に言えるなら、大丈夫」
ベンチを立ち、軽く笑う。
「じゃあ、また授業でね。蓮真くん」
その背中は、風のように軽やかだった。
残されたのは、少しだけ前へ踏み出す勇気だった。
夜。食事を終えても、机に向かっても、胸のざわつきはまたま消えない。
(……のどかなら、今日のづっきーの様子も見てるよな)
スマホを手に取り、昨日と同じく、メッセージではなく直接電話をかけた。
「もしもしのどか。今、大丈夫か?」
「もしもし蓮真?今収録、終わったよ」
声色は明るいが、どこか疲れた響きが混ざっていた。
「そっか。……どうだった?クイズ番組」
少しだけ沈黙。
のどかは深く息を吸ったあと、ぽつりと言った。
「……卯月、ね。今日、なんか……すごかったよ」
「すごかった?」
「うん。正解したとき、“これからもばんばん正解しますよ!”っ言ってた」
のどかは続けた。
「あとね、“今が売り時ですからね!”とか……そんなことも言ってて」
「……売り時……?」
その単語が胸に引っかかる。
のどかの声は少しだけ曇っていた。
「なんか……“それっぽい答え”を探してる感じだった。本当に思ったことじゃなくて、周りが喜ぶ卯月を、演じてる感じで……」
俺は黙って聞いていた。
麻衣先輩の言葉が、頭を通り抜ける。
「変わってしまうのが一番怖いのは、本人なのよ」
「本人がいちばん、言えなくなるの」
(……たしかに。空気を読めるようになったづっきーは、全部“外側”に合わせてた)
のどかの声が、電話の向こうでわずかに震える。
「ねぇ蓮真。……卯月、きっと今、ひとりで怖がってるよね」
俺はそっと目を閉じた。
「……そうだな」
情けないことに、俺も今日までそのことをはっきり掴めていなかった。
づっきーの変化に焦って、どうにか元に戻そうと勝手に思って、でも核心に触れる言葉を何も持てなくて。
(……俺が一番、空回ってたのかもしれない)
のどかが、小さく言う。
「蓮真、卯月のこと……どうする?」
どうする。本当にどうすればいいか、今までわからなかった。
でも麻衣先輩の言葉が背中を押す。
「支える人が逃げちゃダメ。戻ってきていいよって、ちゃんと言ってあげること」
俺は深く息を吸った。
「……一旦、冷静に見るよ」
「見る?」
「うん。づっきーがどんなふうに変わって、どこで無理してて、どこが“本当”なのか……ちゃんと見極めたい」
のどかがゆっくりと息を吐く。
「……蓮真らしいね」
「逃げる気はないよ。でも、突っ走っても届かないって、痛感した」
のどかは静かに頷くような声で言った。
「うん……わかるよ。蓮真はいつも、人をちゃんと見てくれるから」
その声に、不思議と心が落ち着いた。
「のどか、明日も……づっきーと一緒なのか?」
俺の問いに、のどかは少し息を整えてから答えた。
「明日は違うけど、明後日は一緒だよ。再来週ライブが二日連続であるから、スイートバレット五人でレッスンなの」
いつもの仕事モードに戻ろうとしている声だが、わずかに重さが残っている。
「ライブ前ってなると……忙しいよな」
「うん。でもね……卯月、いつもなら“楽しみだね!”って真っ先に言うのに……今日は、それもなかった」
その静かな指摘に、胸がざわついた。
(……レッスンでも空気を読んだづっきーのままなんだろうか)
のどかは続けた。
「だから明後日、ちゃんと見てみるね。蓮真が言うみたいに……今の卯月を、一回ちゃんと観察してみる」
「……助かるよ。のどかの方が、俺よりずっと近い場所にいるから」
受話口の向こうで、のどかが小さく笑うのがわかった。
「うん。任せて。卯月は、あたしにとっても……大事な子だから」
その言葉に、胸の奥の緊張が少しだけほどけた。
「……蓮真もね。無理しすぎないで」
「ありがとな、のどか」
通話が切れたあとも、のどかの柔らかい声が、部屋の空気に残っていた。
十月十三日
スタジオに入った瞬間、のどかはすぐ気づいた。
(あ、今日の卯月……また少し違う)
鏡の前でストレッチをしながらも、卯月の動きはどこか遅れている。
体操の手順は合っているのに、呼吸が浅い。
いつもなら「よーし! 今日もぶっ飛ばしていくよー!」と笑うのに、その声が出てこない。
レッスン開始前、ほたるが眉を寄せて声をかけた。
「づっきー、今日ぼーっとしてない?」
「え? あ、ううん。大丈夫だよっ」
言葉はいつも通りなのに、返すテンポが半拍遅い。
蘭子もタオルを肩にかけながら覗き込む。
「づっきー睡眠不足?なんか元気ないよー?」
「ほんとに平気。全然」
卯月は笑ってみせるが、目の奥だけ笑っていない。
八重が小さく言う。
「……演技っぽいよ、づっきー?」
その一言に、のどかの胸がぎゅっとなった。
(……やっぱり変だよね)
その違和感が、今日になってさらに強くのどかの目に映った。
音楽が流れ、フォーメーションに入る。
スイートバレットは五人で踊るとき、卯月が空気を切り開く先頭の風みたいな役割になる。
でも今日は違った。
遅れる。動きが固い。表情も、どこか無理に作ってる。
「づっきー、そこ半拍ズレてるよ!」
八重が声を飛ばす。
卯月はびくっと肩を震わせて、慌てて修正する。
「ご、ごめん!気をつける!」
謝る声が弱い。
ほたるが、のどかと視線を合わせて口を動かす。
(やばいね、今日)
のどかは小さく頷いて返す。
(……うん。ほんとに)
卯月はペットボトルを両手で持ち、静かに息をしていた。
のどかは隣に座る。
「卯月……今日、なんか変だよ。どこか痛いとか、ない?」
「ないよー。ほんとに大丈夫だってば」
その大丈夫が、いちばん信用できない。
のどかが口を開きかけたとき、卯月の視線がふっと揺れた。
まるで、何かを考えている途中で急に空白になったみたいに。
「……卯月?」
「……あっ、ごめん。ちょっと考えごと」
考えごとをしている卯月なんて、珍しくて。
のどかは胸の奥がじわっと冷えるのを感じた。
(こんなの、卯月じゃない……)
さらに決定的だったのは歌の時間。
卯月は本来、感情がそのまま声に出るタイプだ。
ところが今日は、音程は合っている、リズムも合っている。でも“心”がない。
完璧に整っていて、整っているせいで逆に怖かった。
八重が眉をひそめる。
「……づっきー、上手いけど、上手いだけだよ?」
「え……?」
「感情、入ってないよ?づっきーにしては珍しい」
卯月は一瞬だけ困ったように笑う。
「そ、そっかな? なんか今日、眠いだけかも!」
“眠いだけかも”その言葉が、妙に痛かった。
蘭子がぽつりと言う。
「なんか……空気、読んで歌ってる感じする」
その瞬間、卯月の肩が小さく震えた。
のどかはすぐ気づいた。
(……卯月、傷ついてる)
でも卯月は笑う。笑って、飲み込んで、また平気なふりをする。
「大丈夫だよ、ほんとに。今日はちょっとだけ変なだけ」
レッスンが終わり、帰り支度をしているときも、卯月はいつもより静かで、誰とも目を合わせない時間が多かった。
蓮真から「気にかけてやってくれ」と言われた言葉を思い出す。
卯月の空気を読むようになった理由は確かにある。
だけど、だけど。
(卯月は、空気を読む子じゃない。空気を変えちゃう子だよ……)
のどかは、バッグを肩にかける卯月の背中を見つめながら、胸の奥で小さく拳を握った。
(蓮真……やっぱり、あたしも不安だよ……)
その不安は、静かに、でも確実に広がっていくのだった。
物語解説
今回の物語では、藤沢のファミレスと横浜のキャンパス、そしてスタジオという、接点のない日常のラインを平行に置きながら、目には見えないずれと沈黙の圧を描きました。
蓮真の視点では、ファミレスのバックヤードでの古賀との何気ないやり取りや、紗良の無遠慮な距離感に触れながら、いつも通りがほんの少しだけ歪んで見える感覚が、じわじわと胸を締めつけていきます。
一方で、卯月の変化は、個人の調子の悪さではなく、周囲に合わせてしまうという、彼女自身の“らしくなさ”として浮かび上がります。
大学の中庭で蓮真に、「迷惑かけてたのかな」と零すまでの経緯。女子グループの輪の中心で、完璧に空気を読んだ返答をしてしまう瞬間。
そしてのどか視点では、レッスン中にズレ続ける半拍、感情の抜け落ちた歌声、ぼんやりとした沈黙が、卯月の内部で進行している何かをより濃く示していきます。
その傍らで描かれるのが、麻衣の静かな眼差しです。
麻衣の、「変わってしまうのが一番怖いのは、本人なのよ」という言葉は、世界のどこかが揺らいでいるのではなく、当人の輪郭そのものが揺れていると告げるような重さを持っていました。
蓮真にとって、卯月の変化は世界側の歪みよりも、もっと個人的で、もっと切実な揺らぎとして迫ってきます。
のどかの視点では、第三者であり、親友でもある立場から、卯月の崩れ方がより鮮明になります。
歌に心が乗らない卯月を見て、「空気、読んで歌ってる感じする」とメンバーが口にするたび、のどかは胸が冷えていく。
卯月の“らしさ”が薄れていく現場。蓮真の“見るだけでは届かない”葛藤。それぞれのラインはまだ交わらないまま、しかし同じ一点、卯月が何かを失いつつあるという場所へ向かって進んでいきます。
その先で、蓮真と卯月の距離がどんな線を描くのか。のどかがどこまで寄り添えるのか。
次回もぜひ見届けてください。
これまでのヒロインで好きなキャラを教えてください
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豊浜のどか
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広川卯月
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桜島麻衣
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双葉理央
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古賀朋絵
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梓川花楓
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大津美凪
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浜松夏帆
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米山奈々
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赤城郁実
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牧之原翔子
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吉和樹里
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上里沙希
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鹿野琴美