青春ブタ野郎はパラレルスプリングの夢を見ない   作:もドえラん

50 / 84
6.観察者は、踏み出す理由を見つける

 

 十月十四日

 

 昼休みの学食は、いつも通りざわざわしていた。

 

 トレイを持って列に並びながら、俺は自然と視線をフロアの奥へ向ける。

 

 (……いたな)

 

 少し離れたテーブルで、づっきーが女子グループに囲まれて座っていた。

 

 「ねーそれでさ〜」

 

 「まじで?やば〜」

 

 はしゃぐ声の真ん中で、づっきーも笑っていた。

 

 テンションは高すぎず、けれど浮いてもいない。

 

 相づちのタイミングも、笑うタイミングも、ちゃんと周囲に揃えている。

 

 ——きっしーにまで変な目が向いちゃったら……すごくイヤだなって思った

 

 あの言葉が、耳の奥にこびりついている。

 

 (……だから、か)

 

 こっちを見ないようにしているわけじゃない。

 

 ただ、「岸和田蓮真と一緒にいる自分」を見られること自体を、今は避けようとしている。

 

 ちょうどそのタイミングで、ふっと彼女の視線がこっちを向いた。

 

 ほんの一瞬だけ、目が合う。

 

 づっきーの笑顔が、ほんのわずかだけ固まった。

 

 俺も、反射的に目を逸らしてしまう。

 

 (……悪いな)

 

 手を振ることも、近づくこともできないまま、俺はトレイに乗った日替わり定食を持って、別の空いた席へ歩いた。

 

 ひとりで席に腰を下ろし、箸を動かす。

 

 味は、正直よくわからなかった。

 

 (……今、無理に行ってどうする)

 

 “きっしーにまで変な目が向いちゃったら”って、言った子に対して。ここで空気を読まずに突撃するのは、ただの自己満足だ。

 

 “暫くは様子を見る”自分で決めたことだ。

 

 俺が焦っても、しょうがない。

 

 観察者らしく、ちゃんと“今のづっきー”を見極める。

 

 そう決めて、フォークでハンバーグを切ったところで。

 

 「よっ、岸和田」

 

 聞き慣れた声が、斜め後ろから降ってきた。

 

 顔を上げると、トレイを片手に持った咲太が立っていた。

 

 「隣、いいか?」

 

 「……どうぞ」

 

 咲太は当然のような顔で腰を下ろし、味噌汁をひと口すすったあと、いきなり核心に触れてきた。

 

 「お前、広川さんのとこ行かないのか?」

 

 「……見てたのかよ」

 

 「そりゃ見えるだろ。あんだけわかりやすく逸れてたら」

 

 そこまで言われると、言い訳の余地がない。

 

 俺は箸の先でキャベツをいじりながら、ちょっとだけ息を吐いた。

 

 「あぁ……暫くは観察に徹するよ」

 

 「観察?」

 

 「俺が焦ってもしょうがないからな。今のづっきーがどんなふうに振る舞ってるか、まずはちゃんと見ておきたい」

 

 咲太は、納得したような顔で苦笑した。

 

 「……まぁ、岸和田らしいな」

 

 「褒めてるのか?」

 

 「さあな」

 

 咲太は箸を進めながら、ふと思い出したように言う。

 

 「広川さん、今朝も同じ学部の女子たちと一緒だったぞ」

 

 「……だろうな」

 

 咲太とづっきーは同じ学部だから、授業もかぶることが多い。

 

 「友だちの輪には、ちゃんと混ざってる。雑談もしてるし、授業中もノート取って、笑うところは笑って」

 

 「なら、良かったじゃないか」

 

 口ではそう言ったけど、心の中では少し引っかかる。

 

 咲太は続ける。

 

 「でもな、その女子グループの一人が、“卯月ちゃんってすごいね”とか、“やっぱ芸能人だよね〜”とか、ちょくちょく言ってるな」

 

 「……嫌味っぽく?」

 

 「嫌味ってほどじゃねえけど、ああいうの、普通なら何回も言われると、じわじわ効いてくるだろ」

 

 想像できてしまうから、余計に胸が重くなる。

 

 「……で、づっきーは?」

 

 「“そんなことないよ〜”って笑ってた。でも、ちょっとだけ、笑う前に間があった」

 

 咲太は、そこで一度箸を止め、ちらりと俺を見る。

 

 「……お前も、そういうの知りたいかと思ってな」

 

 「……」

 

 そう言われてみれば確かにそうだ。

 

 さっきまで「観察に徹する」とか言っておきながら、実際に見ているのは、学食の一コマだけ。

 

 俺の知らないところで、どんな言葉を投げられているのか。どんな顔でそれを受け止めているのだろうか。

 

 「……咲太、お前もそんなこと話に来るなんて、意地悪なやつだな」

 

 わざと少しだけ棘のある言い方をすると、咲太は肩をすくめた。

 

 「……まあ、観察者同士の“おせっかい”だな」

 

 「自分で言うなよ」

 

 咲太は、味噌汁の器を軽く揺らしながら言う。

 

 「岸和田も、自分がいない時の広川さんの様子、知りたいだろ?」

 

 その一言で、言い返す言葉がなくなる。

 

 俺は図星すぎて箸を置き、少しだけ天井を見上げた。

 

 「……まぁ。助かるよ」

 

 素直にそう返すと、咲太は「だろ?」と軽く笑った。

 

 「僕は授業で一緒になるから、お前が“観察に徹する”なら、僕もちゃんと見ておく」

 

 「……僕も、広川さんには花楓のことで恩があるからな」

 

 「ありがとう、咲太」

 

 さっきまで重かった胸の奥が、ほんの少しだけ軽くなっていた。

 

 (……ひとりで抱え込んでるつもりでも、結局こうやって割り込んでくるやつがいるんだよな)

 

 窓の向こうでは、昼の光の中を学生たちが行き交っている。

 

 その中のどこかに、づっきーの姿もある。

 

 今はまだ、遠くから見るしかできないけれど。

 

 (ちゃんと見ておく。焦らずに)

 

 その上で、どこで手を伸ばすか。

 

 それを決めるための時間が、今なんだと思うしかなかった。

 

 十月十五日

 

 卯月のいない四人の会話

 

 その日のリハスタジオは、いつもより静かだった。

 

 鏡張りの壁の前に並んだ四つの水筒。

 

 五人グループのはずなのに、整列したボトルにはひとつだけ空白がある。

 

 のどかがストレッチをしながら、ちらりとその空白を見た。

 

 「……今日も、卯月休みかぁ」

 

 少しだけため息を落とす。

 

 その声に、八重がタオルを肩にかけたまま振り向いた。

 

 「のどか、心配だよね。私もだよ。サブリとしては……やっぱり気になる」

 

 八重の声音は落ち着いていて、でも芯の不安が隠しきれていない。

 

 続いて、床に座って脚を伸ばしていた蘭子がのんびりと口を開いた。

 

 「……づっきー、最近ずっと無理してる感じするよねぇ。笑ってはいるけど、目が笑ってないっていうか……」

 

 蘭子の言葉はスローテンポだけれど、一番見守る目線が鋭いのが彼女だ。

 

 そして、ほたるが、八重歯を覗かせながら心配そうに膝を抱えた。

 

 「づっきー、ホントは悩んでるのに、悩んでないフリするもんね……」

 

 年少者らしい率直さが、一番胸に刺さった。

 

 のどかは、三人の顔を順に見ながら、小さく頷いた。

 

 「……やっぱり、みんなも気づいてたんだ」

 

 八重がフッと小さく息を吐く。

 

 「のどかだけじゃないよ。卯月、最近ずっと正解を探してる顔してる。あの子、前から空気読めない子だったのに……今は、読もうとして壊れそうになってる感じ」

 

 サブリーダーらしい、鋭い分析。

 

 蘭子も続ける。

 

 「私も、同じこと思ってたよ〜。づっきーって、空気とか読まずに“楽しい!”って思った方向に走る子なのに……最近、どこに走っていいのかわからなくなってるみたいで」

 

 ほたるは下唇を噛む。

 

 「……ワタシこの前、事務所の人が“ソロデビューあるかもね〜”って話してたの、聞いちゃって」

 

 のどかの表情が、はっきり曇る。

 

 「……やっぱり、それか」

 

 八重が小さく頷く。

 

 「のどかもその噂気になる?もしその話が本当なら、卯月、絶対、自分のせいでグループが壊れるって思ってる」

 

 「それ、ある……卯月の性格なら絶対にある……」

 

 のどかが両手を胸に置いて、ポツリとつぶやく。

 

 蘭子が、のんびりした声で締める。

 

 「づっきーはねぇ……優しい子だよ〜。自分より、まず誰かのこと考えちゃう子だから」

 

 ほたるも小さく頷く。

 

 「だから……壊れそうなくらい頑張っちゃうんだよね」

 

 のどかはゆっくりと深呼吸をした。

 

 「……あのさ、来週のライブのとき、マネージャーさんに話してみよう。“ソロの噂”が事実なのかも確認したいし……卯月が不安にならないように、ちゃんとした対応をしてほしいって」

 

 八重は力強く答える。

 

 「のどかが言うなら、みんなもついてくよ」

 

 蘭子も、ほたるも、力強く頷いた。

 

 四人の不安は同じだった。

 

 そして、卯月を守りたいという気持ちも同じだった。

 

 鏡張りのスタジオ。

 

 そこに映る四人の姿は、卯月のいない一人分の空白を抱えたまま、それでも前に進もうとしていた。

 

 十月十六日

 

 夜の教室は、ようやく静けさを取り戻していた。

 

 生徒たちも帰り、俺もプリントを束ねて帰ろうとしたとき。

 

 「岸和田先生、お疲れさまです」

 

 ロビーで、吉和さんが小さく頭を下げた。

 

 「あぁ、お疲れ」

 

 まだ授業終わりの疲れが残っているのか、彼女は息を整えながら続ける。

 

 「岸和田先生、来週の……大津先輩と浜松先輩の試合、見に行きますか?」

 

 「ああ、行くよ」

 

 そう答えた瞬間、彼女は少し安心したように笑った。

 

 それから、少しだけ迷った後、意を決したように口を開く。

 

 「それと……岸和田先生って、広川卯月さんと知り合いなんですか?」

 

 その問いに、胸がわずかに跳ねた。

 

 「……なんでそんなこと聞いてきたんだ?」

 

 吉和さんは慌てて手を振った。

 

 「ち、違くて! あの、最近CMにも出てるし……今日もクイズ番組に出てて……気になって……」

 

 「ああ、そう……なんだ」

 

 「先生と同じ大学ですよね?だから……ご存知かなって……」

 

 俺は心の中で息をひとつ吐く。

 

 (……知り合いどころか仲がいいなんて、この状況じゃ言えない)

 

 今のづっきーは注目を浴びている。

 

 不用意な発言が、どこか見えないところで広がるかもしれない。

 

 「いや、あんまり知らないな。学部も違うし。……梓川先生にも聞いてみたら?」

 

 「あ……そうなんですね。はい、聞いてみます」

 

 とりあえず納得したようだった。

 

 話題を変えるために、俺は軽く首を傾ける。

 

 「でも、吉和さん……広川卯月のファンなんだ?」

 

 吉和さんは耳まで赤くしながら、小さな声で言った。

 

 「……山田くんがファンで……」

 

 その一言で、すべて理解した。

 

 (……そういうことか)

 

 好きな人の話題を追いかける、その年齢らしい不器用さ。

 

 「そっか。じゃあ、今度山田くんからもなんか聞けるといいな」

 

 吉和さんは恥ずかしそうに会釈すると、駆け足でエレベーターの方へ走っていった。

 

 残されたロビーの静けさが、逆に胸のざわつきを広げる。

 

 外に出ると、夜風が頬を冷やした。

 

 (……づっきー、こんなふうに注目されてるんだな)

 

 吉和さんみたいな普通の高校生ですら知っている。

 

 CMもクイズ番組も、SNSでも名前が出てくる。

 

 ——届かないところまで行ってしまった。

 

 そんな錯覚が、胸を締めつける。

 

 しかも今は、あいつが変わろうとしている時期かもしれない。

 

 俺から距離を取る理由まで、自分で背負い込んで。

 

 (どうしたら……呼び戻せるんだ)

 

 麻衣先輩の言葉が、夜道に蘇る。

 

 「広川さんの“本当”を、もう一度ちゃんと呼び戻してあげればいいのよ」

 

 呼び戻す。

 

 じゃあ何に向けて、何を差し出せばいい?

 

 言葉か、距離か、覚悟か。

 

 まだ、見えてこない。

 

 でも、絶対に間違えたくない。

 

 夜の藤沢の風は、秋らしく澄んでいて。

 

 その中に立つ自分だけが、どこか立ち位置を探しているようだった。

 

 十月十七日

 

 三限から大学に向かった。

 

 基礎ゼミの教室を覗いた瞬間、胸の奥で小さな違和感が弾ける。

 

 (……いないな)

 

 づっきーものどかもいない。

 

 二人から欠席連絡は聞いていない。珍しい。

 

 この間までなら、どちらかが必ず俺に一言はくれていたのに。

 

 (LINEで……聞くか?)

 

 づっきー本人に送るのは、今は違う。

 

 二人同時に《きっしー観察会》で聞くのも、さらに違う。

 

 俺は、一番負担をかけない相手へ指を動かした。

 

 《のどか、今日は二人とも授業休み?》

 

 数分後、すぐ返ってきた。

 

 《これから卯月とダンスのリハあるから欠席だよ》

 

 (レッスン……か)

 

 続けて、のどかのメッセージ。

 

 《……やっぱり卯月、様子おかしいよ。あたしも心配》

 

 俺も画面を見つめたまま、小さく息を吐く。

 

 《俺もだよ》

 

 すぐに返ってきた文字は、のどか自身の不安を隠せていなかった。

 

 《ネットじゃ“卯月がスイートバレット卒業する”とか流れてくるし、事務所でも“ソロデビューあるかもね〜”なんて噂も流れてるらしいし……》

 

 《あのCMの影響で事務所もばたばたしてる。チーフに聞いても“今はライブに集中しろ”って言われた……》

 

 (……やっぱり、とんでもない渦の中心に立たされてるんだ、づっきー)

 

 頭に浮かぶのは、「ソロデビューの話が来てるの」と言った日の、づっきーの表情。

 

 今こそそれをのどかに話すべきか?

 

 いや、話せるはずがない。

 

 俺が言えば、のどかはもっと不安になる。

 

 今のづっきーの不安まで背負わせてしまう。

 

 だから、話さないと決めた。

 

 気持ちを切り替えるために、別の話題を投げる。

 

 《そういえば、今週のライブ、いつだっけ?》

 

 《土日だよ。土曜日が合同ライブでお台場、日曜日が八景島の野外音楽イベント》

 

 (土日か……)

 

 となると、大津と浜松さんのビーチバレーのファイナル観戦と完全にバッティングしている。

 

 (……二人には本当に悪いけど)

 

 今のづっきーを放っておく気にはなれない。

 

 《……行くよ。ライブ》

 

送信してからすぐ、のどかからもう一通。

 

 《明日は二人とも授業くるかって聞きたいよね》

 

 図星すぎて、思わず苦笑した。

 

 《……まぁ、気になるよ》

 

 《あたしは二限から行くよ。明日はリハもレッスンもないから》

 

 続けて、のどかの優しさが滲むような文字が届いた。

 

 《卯月は……聞いてみるね。蓮真、聞きづらいだろうから》

 

 胸が少しだけ温かくなった。

 

 《……悪いな》

 

 送信すると、すぐに返ってくる。

 

 《いいよ。あたしも気になってたから》

 

 短いやり取りなのに、のどかの気遣いがそのまま伝わってくる。

 

 (……本当に、助けられてばっかりだな)

 

 スマホを閉じると、教室のざわめきが急に遠く感じた。

 

 (……あれ)

 

 大津と浜松さんの試合が“二十二日・二十三日”

 

 づっきーのライブも“二十二・二十三日”。

 

 そして。

 

 (……赤城とのボランティアも、二十二日だ)

 

 バッティングしている予定が、もうひとつあった。

 

 (ライブに行くって決めた以上……これも断らなきゃな)

 

 気づいた瞬間、胸の奥に重さと申し訳なさが同時に生まれる。

 

 でも、どれも中途半端に抱え込んだままじゃ、結局誰の力にもなれない。

 

 づっきーのライブに行くと決めたなら、その時間をちゃんと作らなきゃいけない。

 

 俺は行く。見届けるために。

 

 席に座ると、咲太が手を上げて近づいてきた。その隣には、美東さん。

 

 「よ、岸和田」

 

 どうやら二人は、二限のスペイン語をづっきーと一緒に受けていたらしい。

 

 「広川さんのこと聞きたいんだろ?」

 

 図星すぎて、返事が遅れた。

 

 「……あぁ。どうだった?」

 

 咲太が肩をすくめる。

 

 「何ごともないようにお喋りしてたよ。友だちの輪にも普通に混ざってたし」

 

 美東さんは落ち着いた声で付け加える。

 

 「別に普通だったよ? よく笑ってたし」

 

 (……それが逆に安心できないんだよな)

 

 咲太は眉を寄せたまま、俺を見る。

 

 「でも、僕はやっぱり違和感あるけどな」

 

 「……だよな」

 

 「……もし広川さんが我慢を蓄積していたら、いつか爆発するかもしれない」

 

 胸に刺さった。

 

 (……俺も、それが一番怖い)

 

 「岸和田。お前、何か手立てあるのか?」

 

 真正面から問われる。

 

 逃げられない。

 

 俺はゆっくりと息を吐いた。

 

 「……とりあえず、土日のライブに行くよ」

 

 咲太は少しだけ目を細めて、頷いた。

 

 「あぁ、ライブがあるのは花楓から聞いてる。花楓も行くらしい」

 

 「そっか。花楓ちゃんも来るよな」

 

 咲太は苦笑して言う。

 

 「土曜日は鹿野さんが都合つかないんだとさ。だから日曜だけな」

 

 「なるほど……」

 

 そういえば、づっきーのことで頭がいっぱいで、花楓ちゃんや鹿野さんとライブの話、まるでできていなかったな……と内心苦く思う。

 

 最後に咲太が、ゆっくりとした声で言った。

 

 「僕にできることがあるならするよ。でも……」

 

 「?」

 

 「岸和田ができないことは、僕にはできないからな」

 

 それはつまり“お前はお前にしかできないやり方をやれ”という意味だ。

 

 俺は目を閉じ、静かに頷いた。

 

 「……ああ、わかってるよ」

 

 咲太は「ならいい」とだけ言った。

 

 気づけば、胸の奥のざわつきが少しだけ輪郭を整えていた。

 

 (そうだな……俺には俺のやり方がある)

 

 づっきーの“本当”を呼び戻すために。

 

 そのために、俺は土日のライブへ向かう覚悟を決めた。

 

 授業が終わったあと、俺はノートをまとめてすぐ席を立った。

 

 赤城なら、この時間帯は、YCUスクエアのスチューデントオフィスにいる。

 

 (……今のうちに伝えておこう)

 

 迷う前に動いたほうがいい。

 

 そう思いながら、スクエアのガラス張りの入り口を押し開けた。

 

 案の定、赤城はスチューデントオフィスで書類を整えていた。

 

 コンコン、と軽くノックすると、

 

 「あ、岸和田くん」

 

 赤城は顔を上げ、柔らかい笑みを見せた。

 

 「どうしたの?二十二日のボランティアの相談?」

 

 やっぱり、赤城は何でも先回りして言う。

 

 「……ああ、その件なんだけど」

 

 言葉を選ぶように、一度息を吐いた。

 

 「用事が入ったから……参加できそうにない。ごめん」

 

 赤城は驚いたように目を瞬く。

 

 ほんの一秒だけ、考えるように視線を落とした。

 

 そして、すぐ顔を上げて笑った。

 

 「そっか。了解」

 

 その言い方は、責めるでもなく、失望でもなく、ただの受容だった。

 

 「その日は友部さんと沙希が来てくれるから、人手は足りるよ。気にしなくて大丈夫」

 

 あまりにもすっと受け入れられて、逆に胸がきゅっとする。

 

 「……悪いな、本当に」

 

 「謝らなくていいよ」

 

 「“来られないのに来る”って言われるほうが困るし。ちゃんと前もって言ってくれたほうが助かる」

 

 すごく赤城らしい言い方だった。

 

 軽く笑って、俺のほうを見上げる。

 

 「岸和田くんは、ちゃんと行くべきところに行ってきてよ」

 

 胸の奥がちくりとした。

 

 (……俺が行くべきところ、か)

 

 今の俺には、その意味が痛いほどわかる。

 

 俺は深く頭を下げた。

 

 「ありがとう。助かる」

 

 「どういたしまして」

 

 赤城はまた手元の書類に視線を戻した。

 

 部屋を出たとき、胸の中の迷いの一部が、少しだけほどけていた。

 

 赤城と別れ、夕方のキャンパスを抜けて金沢八景駅に向かうころには、空はすっかりオレンジから紺へと変わりつつあった。

 

 (……大津と浜松さんにも、早めに言わないとな)

 

 ポケットからスマホを取り出し、二人とのグループチャットを開く。

 

 指が一瞬だけ止まる。

 

 正直、言いにくい。

 

 でも、二人を何も知らせずに裏切るのはもっとよくない。

 

 俺は深く息を吸ってから、メッセージを打ち込んだ。

 

 《ごめん。今週末のファイナル、行けそうにない》

 

 送ってから十秒も経たず、既読がつく。

 

 まず反応したのは大津だった。

 

 《え、マジで!》

 

 《まぁ……岸和田が言うなら理由あるんだろうけど》

 

 続いて浜松さん。

 

 《そっか……残念だけど》

 

 《来てくれると思ってたから、ちょっと寂しいかな》

 

 (……浜松さんには悪いことしたな)

 

 大津が追撃してくる。

 

 《でも岸和田、最近考えごとしてる顔してたし》

 

 《なんかあるんでしょ?無理すんなよ》

 

 浜松さんも、すぐ優しい言葉を寄せてくる。

 

 《うん。岸和田くんが元気ないの、ずっと気になってたよ》

 

 《だから行けない理由があるなら、それでいいよ》

 

 胸が少しだけ温かくなる。

 

 (……察してくれてるんだな)

 

 でも、余計な心配をかけるわけにはいかない。

 

 《ありがとう。二人の試合、応援してるよ》

 

 《また落ち着いたら三人でツーリング行こう》

 

 《その時は湘南平ヒルクライム!》

 

 《岸和田くん、待ってるね》

 

 会話が終わり、スマホの画面が暗くなった。

 

 夜風が吹き抜け、薄く冷たさを帯びる。

 

 (……俺の周りのやつらは、本当に気づいてくれる)

 

 それなのに、肝心の“呼び戻したい人”には何も届かないまま、距離だけが静かに広がっていく。

 

 足元の影が、街灯の下で細長く伸びた。

 

 土日。俺が行くべき場所は、決まっている。

 

 歩きながらスマホを確認していたとき、のどかから新しい通知が届いた。

 

 《明日、卯月も二限から来るって》

 

 胸の奥が、すこしだけ動く。

 

 《そっか……教えてくれてありがとう》

 

 送ろうとしたところで、続けてのどかから文字が飛んでくる。

 

 《あとね、今日のリハだけどさ》

 

 《珍しくっていうか、はじめてな気もするけど……卯月がダンスの先生に、ものすごく怒られてさ》

 

 思わず足が止まった。

 

 《なんで?》

 

 《なんか、リハに身が入ってないっていうか、ぼーっとしてて……》

 

 その“ぼーっと”の部分に、嫌な予感がひっかかった。

 

 《それで?》

 

 《さすがに気になったから、“卯月大丈夫?”って聞いたの》

 

 《そしたら?》

 

 返ってきたのは、のどかの胸の痛みがそのまま乗った文字だった。

 

 《大丈夫……ごめん、怒られちゃったねって、愛想笑いでごまかされた》

 

 《やっぱり、重症だよな……》

 

 《うん。卯月、前はなんでも話してくれたのに……》

 

 そして、少し間を置いて。

 

 《最近、あたし……卯月のことがわかんない》

 

 画面の光が、胸の奥に刺さる。

 

 昔のづっきーは、予測不能で“わからない”子だった。でもそれは、彼女の素直さがそのまま外へ溢れていたからだ。

 

 今の“わからない”は、違う。今は、づっきー自身の意思で、感情が隠されてしまっている。

 

 その見えなくなったものが、逆に怖かった。

 

 《……俺もだ》

 

 そう返すしかなかった。

 

 しばらくしてから、俺は指を動かした。

 

 《明日、大学早めに行ってみるよ。づっきーと話せる機会があれば……少しでも様子を知っておきたい》

 

 のどかはすぐに返してくる。

 

 《うん、いいと思う》

 

 《あたしも、咲太に相談してみるね。咲太、卯月と学部同じだし、授業同じなことも多いから》

 

 《……咲太がいてくれるなら心強いからな》

 

 そう返事をしながら、胸の奥では別の声が渦を巻いていた。

 

 (咲太は俺に言ったよな……“岸和田ができないことは、僕にはできないからな”って)

 

 あの言葉は励ましだけど、同時に線引きでもあった。

 

 (なのに。いつも俺は、咲太の背中を見てきただけだ)

 

 浜松さんの時は、咲太なら双葉に真っ先に相談すると思った。

 

 米山さんの時は、咲太ならこうすると真似をして動いた。

 

 そしてのどかの時も、最初に頼るべきと思ったのは咲太だった。

 

 (そんな俺に、“俺にしかできないこと”なんて……あるのか?)

 

 胸の奥でざらつきが広がる。

 

 ずっと観察者でいたぶん、誰かの痛みに触れようとしたとき、どうしても自信のない部分が顔を出す。

 

 でも明日は、づっきーが二限に来る。

 

 咲太がどう動くかとは別に、俺には俺の目で見なきゃいけない現実がある。

 

 そのことだけは、はっきりしていた。

 

 十月十八日

 

 まだ二限の始まる前の時間。

 

 秋の朝の澄んだ空気のなか、俺は校門の近くでづっきーを待っていた。

 

 (……来ないな)

 

 のどかの話では「二限から来る」と聞かされていた。

 

 しかし、時間が過ぎても黒髪の少女の姿は現れない。その時

 

 「蓮真!」

 

 のどかが小走りで近づいてきた。

 

 息が少し上がっている。急いできたのがわかった。

 

 「ごめん、ちょっと……早く伝えなきゃって」

 

 嫌な予感が胸をひりつかせる。

 

 「……何かあったのか?」

 

 のどかは眉を寄せ、少し息を整えてから言った。

 

 「さっきね……咲太と一緒に八景で降りたの」

 

 「でもね、咲太がホームのちょっと先を指さして……」

 

 のどかの言葉が、胸を固くする。

 

 「ひとつ前の車両に、卯月がいたの」

 

 (……っ)

 

 のどかは続ける。

 

 「卯月、三崎口行きの特急に乗ってて……」

 

 駅を出て大学へ向かうはずなのに、降りずにいたづっきー。

 

 それを見た咲太は、反射のように動いたのだろう。

 

 「咲太、降りたばかりの電車に、そのまま走って飛び乗って……卯月を追いかけてった……」

 

 咲太には携帯がない。だから連絡のしようがない。

 

 のどかの声が少し震えていた。

 

 「……蓮真にも、どう伝えたらいいかわかんなくて」

 

 俺は胸の奥に冷たいものと熱いものが同時に流れるのを感じた。

 

 (三崎口……)

 

 よりにもよって、この間大津と浜松さんと行った場所。

 

 づっきーは、そこに向かった。

 

 築き上げた距離を避けるように。

 

 ——そして、俺じゃなく。

 

 (……咲太が先に見つけてしまった、のか……)

 

 理由は分かっている。

 

 二人は同じ学部で同じ授業を取ることも多い。

 

 だから、同じ時間に同じ電車で登校することも多い。

 

 理屈では理解している。

 

 それでも、胸の奥の劣等感はどうしようもなく疼いた。

 

 のどかは不安げに俺を見上げる。

 

 「蓮真……どうする?」

 

 俺は深く息を吸った。

 

 本当は今すぐ三崎口へ行きたい。走り出したい。でも……

 

 (今の俺が追いかけても、追いつけるのか……?)

 

 授業が始まる時間が迫っている。

 

 三崎口にづっきーがいるとも限らない。

 

 そして何より、“追いかけるべきタイミングを間違えたら、もっと遠くなる”という嫌な予感が離れなかった。

 

 「……とりあえず、二限は行くよ」

 

 のどかはうつむきながらも頷いた。

 

 「……うん。何かわかったら、あたしが蓮真に伝えるね」

 

 「頼む」

 

 それしか言えなかった。

 

 のどかと別れ、講義棟へ向かいながら、胸の奥で何度も同じ言葉がこだました。

 

 (……俺は、どうしたらいいんだ)

 

 そして。

 

 (咲太……お前は、また“走って”行くんだな)

 

 劣等感と、悔しさと、焦りと、それでもどこかにある安堵が、胸の中で複雑な渦を巻いた。

 

 英語の教室の扉が近づくほどに、現実だけが足を重くした。

 

 二限の英語の授業。

 

 最初の五分で俺の集中力はすでに限界だった。

 

 (……づっきー、今どこにいるんだろう)

 

 教室に座りながら、さっきのどかから聞いた

 

 「三崎口行きの特急に乗ってて……」

 

 という言葉が、何度も胸に戻ってくる。

 

 俺は気を落ち着けようと深く息を吸った。

 

 すると。

 

 「Hey, Hasuma. You’re with us today.」

 

 柔らかい英語の声が横から聞こえた。

 

 麻衣先輩だった。

 

 その隣には、美東さん。

 

 (……今日も、同じ班か)

 

 運命めいたものを感じざるを得なかった。

 

 麻衣先輩は、白のシャツに赤縁のメガネをかけている。

 

 昨日、都内で撮影があったらしく、ホテルから直接大学に来たらしい。

 

 先生が課題を提示した。

 

 「Make plans with your friends in English.」

 

 友だちとの予定の立て方を英語で説明し合いましょう、という課題だ

 

 俺たち三人で、自然と輪ができた。

 

 麻衣先輩から口火を切る。

 

 「I usually make plans… when I meet my friends at work.On TV shoots, or location filming. We talk and decide there.」

 

 芸能人らしい、合理的で現場主義のスケジュールの組み方だ。

 

 続いて、美東さん。

 

 「I don’t have a smartphone… so I always send emails from my laptop.」

 

 相変わらず、彼女の英語は流暢だ。

 

 「How about you, Hasuma?」

 

 先生に気づかれない小声の英語で、麻衣先輩が聞いてきた。

 

 「I usually make plans on LINE…in a group chat with my friends.」

 

 口にした瞬間、胸が沈む。

 

 (きっしー観察会……)

 

 あのグループチャット。

 

 のどかも、づっきーも入っているチャット。

 

 前なら、何かあればすぐにそこへ一言投げればよかった。

 

 「明日、授業どうする?」

 

 「リハ大変?」

 

 「帰りに寄ってく?」

 

 でも今は送れない。

 

 づっきーに“見られたくない距離”を取られている。

 

 俺も、勝手に足踏みしてしまっている。

 

 (……どうして俺は、こんなときに何もできないんだ)

 

 心の中の落ち込みは隠せなかった。

 

 すると。

 

 「……蓮真くん、やっぱりまだ悩んでる?」

 

 麻衣先輩が、日本語で、小さく囁いた。

 

 鋭い。そして、優しい。

 

 俺は視線を落としながら答えた。

 

 「……はい」

 

 「広川さんのことでしょ?」

 

 名前を言われただけで、胸の奥が痛くなる。

 

 俺が返事に詰まっていると、麻衣先輩はふっと目を細めた。

 

 「心配なら行ってあげなさい」

 

 「え……」

 

 「蓮真くんがそんな調子じゃ、英語の授業にならないわよ」

 

 的確すぎる。

 

 俺はかすれた声で聞き返した。

 

 「……行って、いいんですか?」

 

 「今は私たちより、広川さんの心配をしなさい。出席カードは私が出しておくから」

 

 そう言ったときだけ、麻衣先輩は英語で続けた。

 

 「Go. She needs you more than this class does.」

 

 胸に日差しが差し込むような言葉だった。

 

 その直後、隣の美東さんが静かに口を開いた。

 

 「……You should go, Hasuma.Before it becomes… “too late.”」

 

 “too late”。

 

 その言葉だけが、妙に重かった。

 

 意味深すぎるその言葉に俺は一瞬だけ息を呑む。

 

 (……どうして、美東さんがそんな言い方を……?)

 

 後悔を知っている人間だけが言える“too late”。

 

 その影が、美東さんの声に宿っていた。

 

 麻衣先輩と美東さん、二人に同時に背中を押されて。

 

 (……行かなきゃ)

 

 胸の奥に、方向が生まれた。

 

 俺は二人に頭を下げる。

 

 「……Thank you. I’ll go.」

 

 麻衣先輩はふっと微笑んだ。

 

 「行ってらっしゃい。蓮真くん」

 

 美東さんは、ほんの少しだけ寂しげに笑った。

 

 「…Good luck.」

 

 俺は教室を飛び出した。

 

 行き先は決まっている。

 

 づっきーが向かったであろう、三崎口。

 

 ——同じ時間の、三崎口。

 

 「今日はサボりか、づっきー」

 

 卯月がびくっと肩を震わせて振り向く。咲太を見つけて、目をぱちくりさせた。

 

 「今日は、なんていうか……自分探しをしようと思って」

 

 冗談っぽく笑うが、声色は冗談に聞こえない。

 

 「三崎口で見つかるのか?」

 

 「わかんない。ここって何があるんだろう?」

 

 ホームの端から空と線路を見やりながら、卯月は少しだけ誇らしそうだった。

 

 この前、蓮真が話してくれた場所。ロードバイクで来たこと。マグロが美味しかったこと。

 

 同じ景色の中に、自分も立ってみたくなった。

 

 「有名なのは、マグロだろうな」

 

 看板は“三崎口”ではなく“三崎マグ口”。

 

 マグロ推し全開だ。

 

 「じゃあ、お腹空いたし、マグロを食べながら考えようかな」

 

 改札を出ると、がらんとしたロータリーと秋晴れの空。のぼりの「まぐろ」を見つけて、すぐに店へ入る。

 

 こぢんまりとした居酒屋で、二人は三色まぐろ丼を注文した。メバチの赤身、インドマグロの大トロ、本マグロのねぎとろ。味噌汁と小鉢付きで千三百円。

 

 卯月はメニューの写真を見て、どこか落ち着かない様子で待っていた。

 

 どんぶりが置かれた瞬間、目を丸くして、小さくつぶやく。

 

 「……これが、きっしーが言ってたやつ……」

 

 声には、少しの誇らしさと、少しの切なさ。咲太は聞こえないふりをした。

 

 どんぶり一杯で満足して帰ってもいいくらいだったが、卯月の探している自分は、三色まぐろ丼の中にはなかったらしい。

 

 お会計を済ませて外に出る。

 

 「これからどうする?」

 

 適当な返事が返ってくるだろうと思っていたら、

 

 「レンタサイクルに乗ろう!」と卯月。

 

 「そんなのどこに?」

 

 「改札出たところにあった観光案内所」

 

 咲太がぼんやり空を見ている間に、ちゃんと見つけていたらしい。

 

 改札まで戻ると、「レンタサイクル」の貼り紙が観光案内所のガラス戸に出ていた。

 

 「自分探しと言えば、やっぱり自転車でしょ」

 

 「なんでだ?」

 

 卯月は一瞬だけ視線を落とし、ふっと笑う。

 

 「……この間ね、きっしーもロードバイクで来たって言ってたから」

 

 あまりにも素直な言い方に、咲太は「ああ、なるほどな」と心の中で納得した。

 

 「レンタサイクルで探しに行くやつはあんまいないと思うぞ」

 

 忠告はスルーされ、「ごめんくださーい」と卯月は案内所へ。

 

 手続きを済ませて地図をもらい、走り出してから三十分、いや一時間近く。

 

 いつの間にか、車も人も少ない、大根畑ばかりの道になっていた。

 

 「これ、なんの葉っぱかなぁ?」

 

 「大根だよ。三浦大根」

 

 「お兄さん、詳しいね」

 

 「小学校の頃、遠足で大根畑を見に来たからな」

 

 「てか、づっきー」

 

 「なあに?」

 

 「今、どの辺走ってるんだ?」

 

 「わかんなーい」

 

 「どこに向かってんだ?」

 

 「海!」

 

 「地図はどうした?」

 

 「案内所の人が、ながら運転はダメって言ってたよ」

 

 「そうですね……」

 

 何を言っても無駄だ。

 

 ただ、今日の卯月は、咲太がよく知っている卯月に近かった。それが妙に安心でもある。

 

 同時に、これは多分、岸和田の前ではまだ上手く出せない顔なんだろう、とも思う。

 

 本当は、こうやって脱線して、くだらないことを言って笑う会話を、一番すべき相手は岸和田なのになぁ、と内心で頭をかいた。

 

 「気持ちいいね、お兄さん!」

 

 風は涼しく、空は晴れて、大根畑の道をほぼ貸切で走るのは爽快だった。

 

 「のどかだねぇー」

 

 「豊浜がどうしたー?」

 

 「そっちののどかじゃないってー」

 

 卯月の笑い声を、秋の風が運んでいく。

 

 「そういやさー」

 

 「んー?」

 

 「づっきーは、なんでうちの学部にしたんだ?」

 

 前から気になっていた質問だ。

 

 「お兄さんは、なんで統計科学学部にしたの?」

 

 「一番、競争率が低そうだったからだよ」

 

 「じゃあ、私もそうー」

 

 「なんだそりゃ」

 

 「お兄さんが嘘を吐いたので、私も教えてあげなーい」

 

 楽しそうに笑う卯月。雰囲気は昔の卯月に近いが、ちゃんと空気は読んでいる。

 

 「別に嘘は言ってないよ」

 

 「でも、本当のことでもないでしょ?」

 

 返す言葉はなかった。

 

 「あ、海!」

 

 「前!前!」

 

 坂を上り切ったところで自転車を止める。

 

 「ちょっと休憩ー」

 

 ストレッチをする卯月と、青空と海と大根畑。その組み合わせを眺めながら、咲太は自販機で買ったお茶を飲んだ。

 

 「お兄さん、一口頂戴」

 

 「間接チューになるぞ」

 

 「やっぱり、自分の飲む」

 

 自分の水をぐびぐび飲む卯月を見ていると、「……きっしーかのどかになんか言われた?」と、視線を逸らしたまま聞いてくる。

 

 とぼけると、卯月は小さく笑った。

 

 風が凪ぎ、大根の葉が揺れる。静かな時間が流れる。

 

 「お兄さんはさ」

 

 「ん?」

 

 「アイドルって、何歳までやれると思う?」

 

 「づっきーは一生やるんだろ」

 

 「前は、そんなこと言ってたねぇ」

 

 「今は違うのか?」

 

 「わかんない」

 

 そう言って、また海を見る。

 

 「昨日、大学の友だちに言われたの」

 

 「なんて?」

 

 「“いつまでアイドルなんてやってるの?”って」

 

 そこから先は、友だちの八つ当たりの話と、「みんな何かになりたい」といういつもの咲太節。卯月は黙って聞き、最後に小さく笑って、

 

 「アイドルで一生は無理だから」

 

 とだけ言った。

 

 軽口を交わしながらも、「武道館は遠い」という卯月の一言に、切なさが滲む。

 

 ともに頑張ってきた仲間と、夢の場所に立つことは、もう無理かもしれない。

 

 そう思ってしまったから、今さら「自分」を探しに来たのだと、咲太は察した。

 

 「づっきー、スマホ貸してくれ」

 

 乗り換えアプリで調べて、すぐに結果を見せる。

 

 「意外と近いぞ。三崎口駅から電車で二時間はかかんないってさ」

 

 「どこまで?」

 

 「そりゃあ、武道館」

 

 卯月の体が一瞬だけ固まる。

 

 「………やっぱり、お兄さん意地悪だね」

 

 スマホを返して自転車に跨がる。

 

 「サイクリングは楽しかったけど、ここにづっきーの自分は落ちてないよ」

 

 「そうかなぁ」

 

 納得はしていない声。それでも卯月も自転車に跨った。

 

 「でもさ、お兄さん」

 

 「ん?」

 

 「まず、ここから駅に帰らないとね」

 

 ペダルを踏み出す前に、咲太はふと思いついて聞いた。

 

 「さっきの武道館の話さ」

 

 「それ、どうして岸和田には話さないんだ?」

 

 一瞬、卯月の視線が揺れる。

 

 「……きっしーはさ」

 

 前を向いたまま続ける。

 

 「前までの、私が好きだと思うから」

 

 「前までの?」

 

 「何も考えないで、全力でアイドルやってる私。武道館だって、当たり前みたいに目指してる私」

 

 そこで区切り、わざと明るい声に戻す。

 

 「……そんな話、したらガッカリされそうでさ。だから、お兄さんには言えるけど、きっしーには、まだナイショ」

 

 冗談めかした口調の奥に、本音が滲んでいる。

 

 (やっぱり広川さんは、岸和田のことが好きなんだろうな)

 

 だからこそ、簡単には見せられない弱さもある。

 

 「そうか」

 

 そうだけ答えて、咲太はペダルを踏んだ。

 

 レンタサイクルを返して、駅前のロータリーに戻ってきたころだった。

 

 「……ふぅ」

 

 卯月が伸びをして、ベンチに腰を下ろす。まだ少し頬が上気している。

 

 咲太は自販機の前で、小銭をじゃらっと鳴らした。

 

 (そろそろ、帰りの時間だな)

 

 そう思った矢先だった。

 

 改札の方から、見慣れたシルエットが歩いてくる。

 

 「……あ?」

 

 少し遅れて、卯月も気づいた。

 

 「……きっしー?」

 

 金沢八景からの下り電車を乗り継いで、三崎口に辿り着いた俺は、改札を抜けたところで二人の姿を見つけて、思わず足を止めた。

 

 (……いた)

 

 胸の奥で、何か固まっていたものが、少しだけ動いた気がした。

 

 「岸和田」

 

 先に声をかけてきたのは咲太だ。

 

 「こんなところで会うなんて、奇遇だな」

 

 「奇遇っていうか……お前が追いかけてったって話、のどかから聞いてるからな」

 

 そう返すと、咲太は苦笑した。

 

 づっきーは、まだ状況を飲み込めていないように、きょろきょろと俺と咲太を見比べている。

 

 「……きっしー、なんでここに?」

 

 「それは……」

 

 言い淀んだ俺の代わりに、咲太があっさり言葉を継いだ。

 

 「岸和田、今から広川さんと武道館に行くんだろ?」

 

 「……は?」

 

 「……え?」

 

 俺とづっきーの声が、綺麗にハモった。

 

 (おいおい、話が見えなさすぎるだろ)

 

 咲太は、そんな二人の反応を楽しむように、肩をすくめる。

 

 「さっきも話したけどさ。武道館って、ここから電車で二時間もかかんないんだってさ」

 

 そう言って、ちらりとづっきーを見る。

 

 づっきーは、さっきまでよりもずっと複雑な表情をしていた。

 

 武道館。その単語に、さっき自分で「遠い」と言ってしまった場所が重なる。

 

 「……でも、お兄さんは?」

 

 づっきーが、恐る恐る尋ねる。

 

 咲太は、わざとらしいくらい爽やかな声で答えた。

 

 「僕、これから麻衣さんとデートだから」

 

 「……」

 

 (麻衣先輩から、そんな話ひと言も聞いてないけどな)

 

 心の中で即座にツッコむ。

 

 嘘だとわかるくらい、雑な理由付けだ。

 

 でも、その雑さが逆に、咲太らしかった。

 

 「そういう訳だから、じゃあな二人とも」

 

 そう言って、咲太は一歩だけ俺に近づく。

 

 すれ違いざま、俺の肩をぽんと叩き、小さな声で囁いた。

 

 「後は任せたぞ」

 

 短い一言なのに、それで全部を託された気がした。

 

 「……ああ」

 

 喉の奥が熱くなる。

 

 俺も同じくらい小さな声で返した。

 

 「ありがとな、咲太」

 

 咲太は「礼を言うのは、全部終わってからにしてくれ」とでも言いたげに、ひらひらと手を振って、駅のホームへ歩いていった。

 

 残されたのは、俺とづっきーだけ。

 

 秋晴れの空の下、ほんの少し冷たい風が頬を撫でていく。

 

 「……きっしー、本当に……」

 

 づっきーが、不安と戸惑いの混ざった顔で、俺を見上げる。

 

 逃げ場を探しているような目だった。

 

 (ここでまた、様子見なんてしたら、本当に、届かなくなる)

 

 胸の奥で、何かがカチリと音を立てた。

 

 「づっきー」

 

 名前を呼ぶと、づっきーの肩がびくっと揺れた。

 

 それでも、ちゃんと俺の方を向いてくれる。

 

 「武道館、行くんだろ?」

 

 言葉にした瞬間、づっきーの瞳が大きく揺れた。

 

 「……でも」

 

 「二時間だ」

 

 できるだけ穏やかな声で続ける。

 

 「ここから電車で二時間。遠いかどうか決めるのは、行ってからでいい」

 

 づっきーは唇をきゅっと噛んだ。

 

 それでも、否定の言葉は出てこない。

 

 俺は一歩だけ近づいて、まっすぐに言った。

 

 「一緒に行こう」

 

 「……え?」

 

 「づっきーが、今どんな気持ちなのか、俺はちゃんと知りたい」

 

 「だから、一緒に行こう。武道館まで」

 

 ロータリーのざわめきが、少し遠くなる。

 

 づっきーは、しばらく俺の顔をじっと見ていた。

 

 迷って、揺れて、それでも最後には、どこか覚悟を決めたみたいに、視線を落とす。

 

 そして小さく、息を吐くように。

 

 「……うん」

 

 短い返事が、風に乗って届いた。

 

 その「うん」に、どれだけの怖さと、どれだけの期待が混ざっているのか。

 

 全部はわからない。だけど。

 

 (それを知りに、行くんだ)

 

 そう思うことで、俺はようやく足を前に出せた。

 

 「じゃあ、行こうか」

 

 「……うん」

 

 駅舎の中へ向かって並んで歩き出す。

 

 三崎マグ口の看板が、少しだけ背中を押してくれるように感じられた。

 




物語解説

今回の物語では、観察することしかできなかった蓮真が、ほんの少しだけ前へ踏み出す理由を見つけていく姿を描きました。

誰かの気配や変化に、人より敏感な彼だからこそ、微かにずれ始めた卯月の呼吸や、のどかの不安、咲太の沈黙を、日常の風景の中で自然と拾い上げてしまう。

空気を読まないはずの卯月が、誰にも気づかれないように歩幅を合わせてしまうとき、蓮真は初めて、観察者のままでは届かない距離を意識します。

支えるために距離を測ってきた彼が、支えたい相手へ自分から歩み寄ろうとする。

その衝動とも呼べない小さな一歩が、今章で描かれた変化の核心です。

すれ違いの始まりは、いつもほど静かで、けれど確かに青春を形づくる揺らぎでもあります。

岸和田蓮真という観察者の物語は、ここからさらに踏み込んだ局面へ進んでいきます。

次回も、ぜひお楽しみください。

これまでのヒロインで好きなキャラを教えてください

  • 豊浜のどか
  • 広川卯月
  • 桜島麻衣
  • 双葉理央
  • 古賀朋絵
  • 梓川花楓
  • 大津美凪
  • 浜松夏帆
  • 米山奈々
  • 赤城郁実
  • 牧之原翔子
  • 吉和樹里
  • 上里沙希
  • 鹿野琴美
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。