青春ブタ野郎はパラレルスプリングの夢を見ない 作:もドえラん
十月十八日
改札を抜けて、三崎口駅の駅舎の中に入る。
切符売り場の横の案内板を見上げながら、俺たちは並んで電車を待った。
「……上りの特急でいいか」
「うん……きっしーに任せる」
会話らしい会話にならないまま、ホームへ上がる。
電車が滑り込んできて、俺たちは並んで乗り込んだ。
がらがら、というほどではないが、空席はいくつかある。
俺たちは窓側の二人掛けに座った。づっきーが窓側、俺が通路側。
「……」
沈黙が、揺れと一緒に座席の隙間に溜まっていく。
視線のやり場に困って、俺は何となく前方を見上げた。そして、思わず息が止まる。
中吊り広告。
少年漫画雑誌の表紙を単独で飾っているのは、他でもない広川卯月だった。
片足を胸に引き寄せて座った、くつろいだポーズ。
ぶかぶかのセーターからこぼれた肩。
白い肌の上を流れ落ちる黒髪。
色っぽいのに、オレンジをかじった口元は妙にきょとんとしていて、年相応のあどけなさが残っている。
(……なんだよ、これ)
隣にいる“づっきー”と、広告の“広川卯月”が一瞬、重なった。
俺が黙って広告を凝視しているのに気づいたのか、づっきーも視線をそちらへ向ける。
「あ……」
声が漏れたと同時に、づっきーはぱっと顔を背けた。
耳が、ほんのり赤い。
(見るのも嫌なのか?)
そんなことまで考えてしまった。
「……あの表紙か」
俺がそう言うと、づっきーは窓の外を見たまま小さく返す。
「見てたの?」
「……本屋で平積みになってたからな。通りすがりに」
「ふーん……通りすがりで、結構じっくり見てたんだ?」
どこか拗ねたような声音。
気のせいかと思ったが、それ以上確かめる勇気はなかった。
「それは……まあ……構図が凝ってるなって思って」
「そこ、気にするのきっしーくらいだよ……」
軽く笑った。その声には、少し力が抜けた気配があった。
——その広告の表情は、撮影の時、“ある一人の顔”を思い浮かべて作られたものだなんて、この瞬間の俺は知る由もない。
づっきーが、この表紙だけは“妙に照れていた理由”にも気づかず。
ただ、俺はただの表紙として受け取り、彼女のほうはそれを見つめ返されて、黙って真っ赤になっている。
沈黙の膜が、ほんの少し薄くなる。
けれど、お互いの胸の内には、全く違う熱が生まれていた。
「……ああいう撮影、どうなんだ?」
俺は気まずさを誤魔化すように尋ねる。
づっきーは、ふっと息を吐いた。
「楽しいよ? ……ああいうのも、うん」
「……楽しいんだな」
ほんのわずか、間があいた。
「でもね……」
言いにくそうに膝を見つめる。
「あの時は、前までの私だったから」
(……?)
俺は聞き返すタイミングを逃す。
づっきーは、気まずそうに笑った。
「考えないで、“かわいく撮られたいです”ってだけ思ってた」
「……今は違うのか?」
「……わかんない」
その言葉の影には、三崎口で見た“不安”よりも少しだけ“恥ずかしさ”が混ざっているように見えた。
(……なんだ?)
俺には理由はわからない。
だけど、づっきーは「広告を見られた」だけで落ち着きがなくなっている。
ほんの少し、その理由を知りたかった。
「ねぇ、きっしー」
「ん?」
「さっきさ、二時間って言ってたじゃん」
「言ったな」
「きっしーにとっては、武道館って……近い? 遠い?」
不意打ちの質問だった。
車輪の音が、しばらくのあいだ言葉の代わりをしてくれる。
「……俺にとっては」
「うん」
「づっきーが“遠い”って思ってるなら、全部“めちゃくちゃ遠い”よ」
正直に言ってから、少しだけ笑う。
「だから、今日みたいに、“二時間で来られるとこなんだ”って確認しに行く日を作らないと、俺の感覚が追いつかない」
づっきーが、きょとんとした顔でこっちを見た。
中吊り広告のきょとん顔と同じ表情だ。
「……それ、ちゃんとフォローになってる?」
「なってる。たぶん」
俺がそう言うと、づっきーはふふっと肩を揺らして笑った。
また少し、車内の空気が軽くなる。
それでも完全に気まずさが消えたわけじゃない。
沈黙と会話が、波みたいに入れ替わりながら、電車は都心へ向かって進んでいった。
武道館の最寄り駅の九段下で降りると、外はもうすっかり暗かった。
地上に出た瞬間、冷たい夜気が頬を撫でる。
「……おお」
思わず声が漏れた。
街灯の薄明かりの中で、日本武道館はどっしりとした存在感を放っている。
入口の正面はひらけていて、風が吹くたびに、色づきはじめた木々の葉がわずかにざわめいた。
不思議と、周辺の空気が澄んでいるように感じられる。
神社の境内に足を踏み入れたときの感覚に似ていた。
静謐さと、どこか張りつめた雰囲気。
今日は何の催しも行われていないのか、辺りは静けさに包まれている。
敷地を通り抜けていく人影はちらほらあったが、大きな建物を見上げて、どこか意味深に立ち尽くしているのは、俺とづっきーだけだった。
「………」
づっきーは軽く後ろに手を組んで、武道館の巨大な屋根を見据えていた。
無言のまま、瞬きだけを繰り返す。その横顔が何を考えているのかはわからない。
だから俺は黙って、その言葉を待った。
「きっしーはさ」
「ん?」
「一年間に、何組のアイドルがこの舞台に立てるか知ってる?」
その問いが向けられた瞬間、胸の奥がわずかにざわついた。
(……聞いてくると思った)
実際、俺は知っている。
スイートバレットを追いかけるようになって、自然と耳に入ってきた情報だ。
武道館に“初めて”立てるアイドルの数。
その数字がどれだけ残酷か。
その数字の中にスイートバレットが入ることがどれだけ難しいか。
俺は全部わかっている。
でも、それをここで知ってると言ってしまったら、づっきーが本当は聞きたい答えまで、俺が勝手に踏み込んでしまう気がした。
だから。
「さあ」
俺は、あえて知らないふりをした。
できるだけ柔らかく、肩の力を抜いて。
づっきーの肩が、わずかに揺れた。
ほんの一瞬、安心したようなでも同時に、傷ついたみたいな表情にも見えた。
「はじめて立てるのは、多くて五組。一組も立てなかった年もある」
淡々としているのに、声の奥のどこかが震えている。
俺は黙って聞いた。
づっきーの問いは、“事実”を聞くためじゃない。きっと、“自分がどうすればいいのか”を探すための言葉だった。
「……そっか」
あえて、俺は無知なふりをしたまま、短くそう返した。
づっきーの喉が、小さく上下し、言葉が続いた。
「今、日本にアイドルって何千組もいるんだって」
「……」
「みんなが本気で武道館を目指してるかはわからないけど……」
途切れた言葉の奥にあるものは、“自分はもう本気じゃいられないのかも”という、言えない本音だ。
俺は知っている。
この子は以前、目を輝かせて言った。
「私たち、武道館目指してるから!」
その言葉の無邪気さと強さが、俺には眩しくて仕方がなかった。
けれど、その光は今、消えかけている。
胸の奥が静かに痛んだ。
づっきーものどかも、TVに出て、顔を知られて、それでも埋められるのはせいぜい二千人。
ライブに行く俺だからこそ、その現実の重さを知っている。
武道館は、一万人。
夢が“手を伸ばせば届く距離”ではないと、誰より自分たちが知っていたはずだ。
それでも、づっきーは笑って「目指してる」と言えた。
だからこそ、今の沈黙があまりにも痛い。
「最初からわかってたことだろ……」
やっとの思いでそう言うと、づっきーは小さく頷いた。
「……うん、最初からわかってた。ここを目標って決めたときから、わかってた」
そこまでは落ち着いていたのに、次の瞬間、声が少しだけ震えた。
「わかってたのに……わかんなくなっちゃった」
視線が落ちる。
「ここって……本当に私が来たい場所だったのかな」
「………」
その言葉は、風よりも弱く、でも風よりも鋭く胸に刺さった。
「前はこんなことで悩んだりしなかったのにな」
その呟きは、壊れかけた夢の残響みたいだった。
武道館の巨大な影の下で、づっきーの肩は小さく震えているわけでも泣いているわけでもない。
ただ、自分を見失いかけている少女の横顔がそこにあった。
俺は、一歩だけ近づいた。
「……それさ」
気づいたら、口が勝手に動いていた。
「もっと俺に、話してくれてもよかったんだぞ」
づっきーが、かすかに目を瞬く。
「え……?」
「武道館のこととか、スイートバレットのこととかさ。づっきーが引っかかってるのがなんなのか、今日ここに来るまで、正直全然わかんなかった」
自嘲混じりに、息を吐く。
「大学で笑ってるあいだも、本当はこんなふうに悩んでたんだとしたら……俺だけ何も知らないままなのは、ちょっと悔しいよ」
言ってから、自分でも“らしくないことを言ったな”と思った。
づっきーは驚いたように目を見開いて、それから視線をそらす
夜風が木々を揺らす音だけが、武道館の前に残っていた。
づっきーは、ゆっくりと息を吸い、吐いた。
その吐息の温度が、さっきよりわずかに低い。
「……きっしーのせいで、わかんなくなっちゃったんだよ」
その言葉は、怒りでも拗ねでもなく、本音が勝手に溢れてしまったみたいに弱かった。
俺は否定しなかった。むしろ、そのまま受け止めるしかなかった。
「読めるようになってよかったこともあったよ」
づっきーは指先を胸の前でぎゅっと握った。
「お兄さんの皮肉がわかるようになったし……友だちとも波長が合うし……ちゃんとした会話ができるようになったって……褒められたりもする」
そこで一度、言葉が途切れた。
夜の空気の中で、づっきーの声だけが揺れている。
「でも……私の頭の中に、みんながいて……」
づっきーはこめかみに触れた。
「みんながいろいろ言ってて……“こうしなよ”とか、“今は黙ってたほうがいいよ”とか……それを、いちいち聞いてたらさ……」
喉が詰まったみたいに、次の言葉が出るまで少し時間がかかった。
「……何が自分なのか、わかんなくなってきて」
その声は、本気で泣きそうだった。
俺の胸の奥が静かに痛む。
「何も知らずに笑われてた自分には……戻りたくないよ。でも……」
夜風に揺れる黒髪。落ちた視線。かすかに震える手。
そして、ぽつりと。
「きっしーといる時だけは……戻りたいって思っちゃう」
武道館よりも重たい言葉だった。
俺は何も言えなかった。
言葉にした瞬間、なにかが壊れそうで。
づっきーは涙を落とす寸前の目で、俺を見た。
「今の私って……思春期症候群なのかな?」
迷いと恐怖を押さえ込んだ声だった。
俺は息を吐く。
「……ああ、多分」
づっきーの指が小さく震えた。
「じゃあ……治ったら……空気、読めなくなるの?」
その質問は、核心すぎて、俺は答えを喉でつかんだまま、声にできなかった。
「……」
本当にわからなかったから答えられないのか、答えたら壊してしまう気がしたからなのか。
どっちなのか自分でもわからなかった。
沈黙を受けて、づっきーはさらに一歩踏み込む。
「きっしーは……どっちの私がいいと思うの?」
前の“空気を読めないづっきー”か。今の“空気を読めるづっきー”か。
本当は、決まっている。
俺は前のづっきーのほうが、ずっといい。
だけど。そんな無責任な答えが言えるわけない。
かといって、“どっちもいい”なんて逃げ方をしたら、今のづっきーはもっと傷つく。
だから、俺は、唯一言える言葉だけを選んだ。
「……俺は」
づっきーが、呼吸を止める。
「づっきーが、づっきーらしくいてくれればいいと思う」
真正面から言った。
飾りも逃げもない、俺の限界ぎりぎりの答えだった。
づっきーは数秒、何も言わなかった。
武道館の影がゆっくりと伸びて、俺たちの足元で静かに重なった。
数秒の沈黙。
そして、震え声。
「……じゃあ、私らしさって……何?」
涙を堪えた目で俺を見る。
俺は淡々と、でもゆっくり言葉を選んだ。
「づっきーは……すごいって思ってるよ」
「……え?」
「不登校になっても、通信制でも……それでも、自分の幸せを自分で決めてきた。逃げじゃなくて、“選んできた”」
小さく息を呑むづっきー。
「でもづっきーは……自分だけじゃなくて、のどかや、みんなの幸せも知りたいんだろ。多分……みんなを“知りたい”んだと思う」
づっきーの目が揺れる。
「それは……俺には絶対にできないから」
自嘲気味に笑う。
俺は不登校になっても、必死に“みんなと同じ道”に戻ろうとした。
みんなの気持ちを知りたくても、踏み込めず、いつも観察だけしていた。
それを言葉にはしない。けれど、声音には出てしまう。
づっきーの唇が震えた。
黙っていたづっきーの頬を、一粒の涙がつっと落ちた。
声を殺して泣くでもなく、表情を崩すでもなく、ただ涙だけがまっすぐ落ちる。
その涙は、自分でも気づかないうちにこぼれたようだった。
づっきーは唇を噛んだまま、ほんの少し顔を伏せる。
づっきーの涙が落ちた瞬間、武道館の前の空気が、ほんの少しだけ変わった気がした。
彼女は涙を拭いもせず、苦しそうに笑ってみせた。
「……きっしーって、ずるいよ」
「……」
「そういうふうに……“私のこと見てる”みたいなこと言われたら……」
こぼれた涙は一粒じゃなかった。ぽと、ぽと、と静かに落ちる。
「私ね……」
づっきーは胸の前で手を握りしめたまま、息を整えようとして整えられず、乱れた呼吸のまま言葉を続けた。
「きっしーといる時だけ……空気読めない私のままでいたいって思っちゃう」
声が震えていた。
「でも……今の私は……みんなの声が頭に入ってきちゃうから……戻りたいって思うことも……間違ってる気がして……どうしたらいいかわかんなくて……」
涙で視界が滲んでいるのに、づっきーは必死で笑おうとしていた。
「こんなの……嫌だよ……」
その一言が、胸の奥に深く沈んだ。
づっきーは顔を伏せる。
「今日は……ありがとね、きっしー」
言葉だけ落として、そのまま背を向けた。
走り出すわけでもない。
ゆっくり歩いているだけなのに、その後ろ姿が“遠ざかる”速度だけがやけに速かった。
黒髪が夜風に流れ、武道館の灯りにかすかに滲んでいく。
俺は動けなかった。
呼び止める言葉が、ひとつも出てこなかった。
(……なんでだよ、俺)
一歩踏み出すこともできずに、足元だけが重く、冷たくなっていく。
(なんで……追いかけられねぇんだよ)
胸の真ん中で何かがざわついた。
それは後悔でも罪悪感でもない。
もっと、刺すような、落ち着かない……
(……焦りだ)
初めて自覚した。
俺は焦っている。
このままだと、づっきーがどこかに行ってしまいそうで。
本当にどこか戻れない場所に、ひとりで落ちていきそうで。
動かなきゃいけないのに、動けなかった。
夜の武道館の前で、俺はただ立ち尽くしていた。
づっきーの小さな背中が、完全に暗闇へ消えていくまで。
十月二十一日
大学の教室は、秋の光が差し込んでいるのに、俺の胸の中だけ妙にざわついていた。
黒板を前に教授が淡々と説明しているけれど、内容はまったく入ってこない。
(……このままだと、づっきーはどこかに行ってしまう)
三日前の武道館前でのあの表情。
泣きながら、最後だけ笑ったあの顔。
思い返すたび、胸の奥がざわっとして落ち着かなくなる。
そしてここ数日、づっきーも、のどかも、一度も大学に来ていない。
(リハと撮影が重なってるんだろうけど……)
理由がわかっていても、不在の空席がやけに大きく見える。
ページをめくる音やキーボードの打鍵音の中で、俺だけが時間から半歩ずれていた。
そんな時だった。
「岸和田、授業終わったか?」
後ろから咲太の声がして、続いて麻衣先輩が隣に立つ。
教科書を閉じた俺の顔をひと目見て、麻衣先輩が小さく眉を寄せる。
「蓮真くん。……まだ顔が暗いわよ?」
「……そう、ですかね」
気を抜けば、そのまま全部こぼれそうで、曖昧に誤魔化す。
咲太が腕を組んで俺を見る。
「広川さんと、どうだった?」
逃げられない質問が、まっすぐ飛んできた。
俺は、観念してあの日の出来事を話した。
武道館に行ったこと。
づっきーを泣かせてしまったこと。
自分が答えられなかったこと。
最後、追いかけられなかったこと。
全部話し終えると、咲太が深いため息をついた。
「……お前、やっぱり不器用すぎるだろ」
「……だよな」
否定できなかった。
麻衣先輩も、ゆっくり俺を見る。
「蓮真くん。あなたね……優しすぎるのよ」
「え?」
「傷つけたくないって気持ちはわかるけど、それって“何も言わないことの言い訳”にもなるの。広川さんみたいに、まっすぐな子には余計、響いちゃうわ」
言い方は優しいけれど……内容は刺さる。
「……はい……」
半分しょげて返すと、
咲太が少しだけ笑って、背中をぽんと叩いた。
「でもまぁ……悪気があるわけじゃないんだろ岸和田、お前はお前のやり方で向き合えばいい。ただ」
咲太の目が少しだけ鋭くなる。
「広川さんのこと、ちゃんと掬ってやれよ」
重くも優しい、咲太らしい言い方だった。
胸の奥の焦りが、少し現実味を持って沈む。
「……ああ」
絞り出すように答えると、
麻衣先輩が話題を切り替えるように、ぱっと声を上げる。
「そういえば蓮真くん。明日のライブ、行くんでしょ?」
「当たり前ですよ!!」
思ったより大きな声が出てしまい、教室の前の方から数人が振り向いた。
「あ……すみません」
耳が熱くなる。
麻衣先輩はくすっと笑って、
「よかった。のどかが“蓮真は絶対来るから”って言ってたから」
「のどか……言ってたんですか」
「ええ。それに私たちも行くわよ。関係者として、ね」
「えっ……」
咲太が苦笑しながら補足する。
「豊浜に頼んだら、あっさり通してくれたんだよ。“お姉ちゃんと咲太なら当然でしょ”ってさ」
のどからしい。
いつでも人を信じて、まっすぐで、温かい。
(……だからこそ、づっきーは余計に苦しいんだよな)
胸の奥でまた、焦りがじわっと膨らむ。
咲太が立ち上がりながら、俺の肩に手を置いた。
「岸和田」
「なんだよ」
「逃げるなよ」
短く、でも深く響く言葉だった。
俺はゆっくりと頷いた。
「……掬うよ、ちゃんと」
たとえ、観察者のままじゃ届かなくても。動かなきゃいけないと、ようやく自覚した。
授業のざわめきの中で、俺は小さく息を吐いた。
俺はタブレットを開き、記録をした。
> 観察メモ:十月二十一日 広川卯月が、空気読解の過剰適応を契機とした思春期症候群を発症中。外界との認知的同期強化により、個人の意思決定が希薄化。観測者の関与時のみ同期が一時的に緩む傾向
> 仮説:観測者が、発症条件・例外処理の可能性大。明日のライブにて、広川卯月と再同期
明日、づっきーがステージに立つ日。
その前に、俺はもう一度、あの子に向き合わなきゃいけない。
自宅に戻っても、胸のざわつきだけは全然消えてくれなかった。
タブレットはノートの画面のまま机に置きっぱなし。
カーテンのすき間から入る街灯の光が、部屋の壁を薄く照らしている。
(……明日だもんな)
づっきーがステージに立つ日。
のどかも横にいるはずだ。
そう思うだけで落ち着かなくなって、ベッドに倒れ込んだ瞬間。
スマホが震えた。
表示された名前は、のどか。
「……のどか?」
通話ボタンを押すと、少し疲れた声が返ってきた。
「もしもし、蓮真?」
「どうしたんだよ、こんな時間に」
「うん……なんか、話したくなっちゃって」
その言い方だけで、胸の緊張がすこし緩む。
「リハ、終わったのか?」
「たった今。今日めっちゃ詰め込みでさ……死ぬかと思った」
苦笑混じりの声。でも、その声の奥に、微妙なひっかかりがある。
「のどか」
「ん?」
「……づっきーも来てたよな?」
電話口の向こうで一瞬だけ息が止まる気配。
「……うん」
のどかの返事は短く、慎重だった。
「リハには来たけど、すぐ別メニューで呼ばれたの。撮影とか、外仕事とか。最近そういうの多いの」
のどかの声には、疲れと、心配と、少しの寂しさが混ざっていた。
「……そうなんだな」
俺がそう返すと、電話口の向こうで、のどかが少し息を吸う気配がした。
「……ねぇ、蓮真」
「ん?」
「明日のライブが終わったら……マネージャーに聞いてみるつもりなの」
「……何を?」
少しだけ間があいた。
「卯月のこと。最近、様子変でしょ?ソロデビューの話とか、外の動きとか……あたし、ちゃんと聞いてみようと思う」
胸の奥が、ぎゅっと痛む。
のどかの声は続く。
「だって……あたし、卯月の隣にずっといたのに……最近、何も知らないままになっちゃっててさ。ちゃんと、向き合いたいの」
(……そうだよな)
のどかが気にするのは当然だ。
づっきーの変化、距離感、沈黙。
ソロの噂。
外仕事の急増。
全部、のどかにとっては親友としておかしいサインなんだ。
でも……
(……俺だけが、あの日の泣きそうな顔を知ってる)
(のどかは知らない)
それが一番、胸に刺さる。
のどかは何も悪くないのに。むしろ一番づっきーを守ろうとしてるのに。俺だけが、先に核心に触れている。
それが、申し訳なくて仕方なかった。
「……のどか」
「ん?」
「……聞けるなら、聞いてやってくれ。づっきー、たぶん……誰かに気づいてほしいはずだから」
電話の向こうで、小さく笑う気配。
「うん。任せて。……卯月は、あんな顔してるけど、本当は寂しがり屋だからね」
その言葉に、武道館前で涙をこぼしたづっきーの姿が重なる。
胸が熱くなるのを誤魔化すように息を吐いた。
「蓮真」
「何?」
「卯月のこと……ありがとう。気づいてくれて、そばにいてくれて」
「……俺なんかでいいのかよ」
「うん。蓮真だから、だよ」
返事ができなくて、沈黙が落ちる。
のどかは優しく、だけどしっかりと続けた。
「明日、ステージから……蓮真、探すからね」
「……ああ。行くよ。ちゃんと」
「うん。じゃあまた明日」
通話が切れたあとも、胸の痛みだけは、しばらく消えなかった。
(……のどかに隠してるみたいで、最低だな俺)
でも、言えない。
づっきーの涙も、不安も、あの言葉も、俺が預かってしまった。
(ごめんな……のどか)
その小さな罪悪感の上に、明日への覚悟がひとつ積み重なった。
十月二十二日
俺は実家から、ゆりかもめでお台場へ向かっていた。
実家の目黒から直行するならりんかい線の方が早い。けれど、あえて回り道をしたのは、レインボーブリッジ越しに広がる夜景を眺めながら、づっきーとどう向き合うか、考える時間が欲しかったからだ。
窓に映る自分の顔は、街の灯りと海の反射でわずかに揺れている。
答えは簡単じゃない。そうわかっているからこそ、余計にこの遠回りが必要だった。
台場駅で改札を抜け、潮風が抜ける通路を歩く。ふと視界の端に、ダイバーシティお台場が見えた。
あの日、のどかとづっきーと三人でここに立ったことを思い出す。
科学未来館、アクアシティ、そして未来デパート。
づっきーに「きっしー毎月来てるでしょ?」と突っ込まれ、のどかに笑われた日。
あれからまだ半年も経っていないのに、今日はその二人の間に見えない距離ができているように感じた。
俺は、ライブ会場へと進んでいく。防音扉を開けて、ホールの中に入った。
スタンディングの会場内は、ほぼ満員と言っていいだろう。後ろの方まで、結構な密度で観客が集まっている。これでも、二千人に満たないくらいだ。
壁際を通って、後ろの方にあるわずかなスペースに陣取ると、そこに、麻衣先輩と咲太もやってきた。
麻衣先輩はマスクに赤縁のメガネ、咲太はラフなパーカー姿。こういう場所でも妙に馴染んでしまうあたりが、この二人らしい。
「蓮真くん、こっち空いてるわよ」
麻衣先輩が軽く手を上げる。
「どうも麻衣先輩。ありがとうございます」
「気にしないで。のどかに頼まれたんだもの。……“蓮真も絶対くるから、二人ともよろしくね”って」
その言葉だけで、胸の奥が強く揺れた。
(……のどか)
昨日の電話を思い出す。
「ちゃんと、向き合いたいの」と、のどかは言っていた。
でも俺だけが、づっきーの涙の理由を知っている。
罪悪感が、うっすら喉元にひっかかる。
咲太は会場を一望して、
「さすが、埋まってると圧あるな……」
と、俺の肩を軽く肘でつついた。
「岸和田、ちゃんと見とけよ。今日の広川さんは、多分、いつもより出るだろ」
「……わかってる」
そのタイミングで、注意事項のアナウンスが流れ出した。
撮影録音の禁止、ステージへの登壇禁止、周囲に迷惑をかけないように、節度を持って盛り上がりましょう、というもの。
今日のライブは、四組のアイドルグループが合同で行うもので、それぞれの持ち時間は三、四曲分。スイートバレットは二番手だ。
一組目のグループが全部で三曲を歌い終える。
メンバーを呼ぶファンたちの声が、ステージに届けられた。それに手を振って応えながら、彼女たちは小走りで、ステージからはけていった。
ステージ上に誰もいなくなったところで、照明が意図的に落とされた。
「おぉー!」
ファンの期待が、下から込み上げる低音となって重なる。
次の瞬間・淡い照明がステージを照らした。誰もいなかったその場所に、スイートバレットのメンバー五人が背中を向けて立っている。
最初の曲は「ミューズになっちゃう」
>元気ないじゃん ほらだんだん ミューズになっちゃう Da Da Da Da Dance!
ひとりずつ短いパートを歌いながら振り返り、最後にセンターに立つづっきーが、サビのアレンジからはじまる曲の冒頭を高らかに歌い上げた。
間奏に、ファンの声が飛び交う。「づっきー!」、「どかちゃん!」、「やんやん!」、「らんらん!」、「ほたるん!」と。
ただ、歌の邪魔はしないように、Aメロに入るとサイリウムを振ってライブをステージ下から盛り上げることに徹する。
そんなファンの後押しを受けて、スイートバレットのボーカルを引っ張るのはやっぱりづっきーだ。
づっきーの歌声は、いつもひとつひとつの音を的確に捉え、歌詞に沿った感情がきちんと込められている。
そして他のメンバーはそれに寄り添って、グループとして大きな芯がある楽曲にまとめ上げている。
ライブの大音量の中でも、五人の合わさった歌声は、不思議と心地がよい。
ダンスも、背の高い中郷さんから、小さな岡崎さんまで、動きに統一感がある。シンクロしている。
パフォーマンスとしては、スイートバレットのライブは、他に引けを取らないと、ファンとしての贔屓ではなく、純粋にそう思える。
そんなことを考えているときだった。
それまで完璧だったスイートバレットのライブに、小さな綻びが見えはじめた。
最初は気のせいだと思えるくらいの小さな違和感だった。
でも、づっきーのダンスだけが、わずかに擦れている。
それは、そういう演出なのかもしれない。
違うとわかったのは、づっきーがのどかと立ち位置を入れ替わるときだ。のどかの目が一瞬づっきーを気にした。
隣にいる麻衣先輩も、咲太も、瞳に疑問を浮かべている。何かがおかしいのだ。
そして、それはファンにも伝わっていき、サイリウムを振る腕に迷いが出ていた。
自然と会場の視線は、づっきーに集中する。
そのづっきーは、テンポのずれたダンスを踊りながら、視線はどこか遠くに向けられていた。笑顔は失われていなかったが、見ている先にファンはいない。
不安が膨れ上がる。何が起きているのかがわからない。何かが起きようとしているのかどうかもわからない。
ただ、少なくとも、今日は調子が悪いのかもしれないと、楽観的に片付けていいことには思えなかった。その直感は、現実のものとなる。
二番のサビに入る瞬間、それは起こった。
> いつからか 自らが 諦めちゃってんだ
づっきーの歌声が、喉を詰まらせたみたいに一瞬途切れる。
掠れた音を、マイクが拾った。呻き声のようなノイズ。
それでも、スイートバレットの歌声が止まることはない。のどかや他のメンバーが、づっきーのソロパートをフォローしたのだ。
そんな中、づっきーはマイクを握ったまま歌い続けている。
づっきーの歌声が途切れた瞬間、俺の背筋を冷たいものが走った。
(……のどかの時と、同じ?)
思わずそう考えた。声が“誰かに届かなくなる”あの現象。
ライブ会場のざわめき。ステージからの光が観客を断続的に照らす。
だが。数秒後、俺は違和感に気づいた。
(……違う)
あのとき、のどかの声が現実から半歩ずれたように、世界の輪郭が揺れる感覚があった。
観客のざわめきも、照明の明滅も、一瞬だけ遠くなった。
届くはずの音が届かないという、現実の側のほうが歪んでいた。
しかし今のづっきーは、世界は、歪んでいない。
照明も、音も、観客の反応も、現実のまま。
歪んでいるのは、世界じゃない。
彼女自身だ。
(……声が、届かないんじゃない。声が出てない)
その確信と同時に、づっきーはまたサビの入りでマイクを口元に当てるが、マイクは一切、づっきーの声を拾わなかった。
掠れた息が一瞬だけ聞こえた。
(これ……のどかの現象じゃない。たぶん、本当に声が出なくなってる)
その時だった。
「蓮真くん……これって……」
麻衣先輩が、不安を押し殺した声で訊いた。
彼女の瞳も、のどかの時を思い出している。そして、今のづっきーの異変に、確信と迷いを同時に抱いている目だ。
だけど、俺は首を横に振った。
「違います、麻衣先輩」
麻衣先輩が息をのむ。
俺は、声が震えないように、ゆっくりと言った。
「これは……のどかの症状じゃありません」
「じゃあ……これは……?」
ステージでは、のどかが視線だけで“づっきー、大丈夫?”と問いかけている。
づっきーは笑う。でも、笑顔の奥に空洞がある。
俺は小さく深呼吸をした。
「……たぶん、ほんとうに、声が出なくなったんです」
そのまま、一曲目が終わる。
ステージに並んだスイートバレットのメンバーがファンと向き合う。
「皆さん、こんばんはー!」
サブリーダーの安濃さんが、何事もなかったかのように、会場に元気よく呼び掛けた。
「私たちはー」
「スイートバレットです!」
メンバー全員の声がハモる。でも、マイクが拾ったのは四人の声だけ。
やはり、づっきーの声が聞こえていない。
口は動いているけれど、俺たちのところまで届いてこない。ステージの目の前にいても、聞こえなかったのではないだろうか。
そんなづっきーの異変を気遣ってか、「なんか、もう時間押してるらしいんで、残り二曲続けていきます!」と、安濃さんが挨拶を短く切った。
次の曲に入る直前、ステージ上ではづっきーを除いた四人のメンバーがそれとなく視線でやり取りを交わした。
それだけで、何かを伝え合うことのできる濃密な時間を、彼女たちは今日まで過ごしてきたのだ。
だから、二曲目の「超音波のメロディ」も、三曲目の「BABY!」も、スイートバレットは無事にライブをやり遂げた。
一曲目と同様、づっきーだけダンスはずれていたし、どう見てもひとりだけ口パクになっていたけれど、ライブを中断するような素振りは一切見せなかった。
ステージを去るまで、アイドルらしく明るく元気に、メンバー全員が笑っていた。
それとすれ違うようにして、三組目のアイドルグループがテンポよく登場する。会場の熱を冷まさないようにしているのだろうか。
その最初の曲がはじまる前に、「出ましょうか」と、麻衣先輩に言われて、俺は咲太と一緒にホールの外に出た。
防音扉の外側は、聞こえてくる音の音量が小さくて、まるで別の世界だ。
現実に戻ってきた感じがある。
麻衣先輩が、ふっと息をつく。
「……私たち、車で来てるの。駐車場に行くけど、蓮真くんも来る?」
「はい。お願いします」
そう答える声が、少しだけ震えていたのを、自分で気づいた。
歩き出してすぐ、咲太が口を開いた。
「麻衣さん、さっきのってさ……」
麻衣先輩は、ゆっくりと歩きながらも、立ち止まる必要もなかった。
何かを確かめるみたいに一度だけ瞬きをしてから、あっさりと言った。
「声が出なくなったのよ」
その言い方があまりに平坦で、逆に胸が痛くなる。
言葉としての温度がないのに、意味だけが鋭く刺さる。
咲太が息を呑んだ。
「……やっぱ、そうだよな」
俺は、言葉を飲み込んでいた。
のどかのときとは違う。現実が歪んでいない。届かないんじゃなくて“出てない”。
つまり、それは。歌うための喉が、アイドルである彼女の一番の場所が、どこにもつながっていないということだ。
心臓が、きゅっと縮む。
「……俺から、のどかにLINE送ってみます。返事は……すぐには来ないと思いますけど」
気休めにもならない言葉だとわかっていた。それでも言わずにはいられなかった。
道の端に寄って、麻衣先輩が足を止めた。夜風が髪をかすかに揺らす。
「蓮真くん」
呼ばれて、顔を上げる。
麻衣先輩は、いつもの冷静な瞳で、だけどその奥にごくかすかな温度を含んでこちらを見た。
「あなたが一番つらいってこと、わかってるわよ」
俺の胸が、大きく揺れた。
「……いえ、そんなこと」
「だって、広川さんは、あなたには、なにも隠せないでしょう?」
図星すぎて、言葉が出なかった。
声が出ていないのに笑っていた、あのステージのづっきーの顔が頭から離れない。
咲太が、ぐっと両手をポケットに突っ込んだまま空を仰ぐ。
「……声が出ないって、アイドルにとって致命傷だからな……」
その現実的すぎる問いかけが、余計に胸に落ちてくる。
麻衣先輩は静かに言った。
「どうするかじゃなくて、どう支えるかよ。広川さんだけじゃない。のどかも、絶対に動揺してる」
「……はい」
返事をしても、胸の奥は重いままだった。
声が出ない。ステージ上に立つづっきーにとって、それが意味するもの。
スイートバレットのセンターである彼女にとって、それがどれほど残酷な現実なのか。
考えるたび、喉の奥が詰まる。
そして、いちばん怖いのは。
彼女がそれを、笑顔で隠していたことだ。
いつもと同じように見せようとしていたことだ。
あの笑顔の奥にある空洞が、目に焼きついて離れない。
俺はスマホを取り出した。画面がにじんで見える。
(のどか……今、どんな顔してるんだろ)
打ち込む。
《のどか。あとで話せるときでいい。何があっても、俺はいるから》
送信ボタンを押す指が、ほんのわずか震えていた。
のどかから返事があったのは、一時間後くらい。
《ありがとう。今、病院だよ》と、短い文面が俺のスマホに届いた。
なんでも、出番が終わってすぐに、づっきーを病院に連れていくことになったらしい。
俺が「そっち行くから」と場所を尋ねると、お台場からそう遠くない総合病院の名前が送られてきた。
俺たちが病院に着いたのは、午後八時半過ぎだった。
ほとんど車のいない駐車場に、麻衣先輩の車が滑り込む。サイドブレーキが引かれる音が、やけに大きく聞こえた。
「着いたわよ」
そう言って、麻衣先輩がシートベルトを外す。俺と咲太も、それに倣ってドアを開けた。
夜の空気は、ライブハウスの熱気が嘘みたいに冷たい。
「入口、あっちでいいのかしら?」
麻衣先輩が、病院の建物を見上げながら呟く。
外来受付の明かりはすでに落ちている。代わりに、救急搬送用の赤いランプが点いた裏口だけが、ぽつんと浮かぶように明るかった。
「とりあえず、救急の方行ってみましょうか。ダメって言われたら、そこで聞きましょう」
麻衣先輩の言葉に、俺たちはうなずいて歩き出す。
そのときだった。
向かう先の通路の奥から、二人分の人影がこちらに近づいてくる。
ひとりは、ベンチコートを羽織ったづっきーだ。
その下は、まだステージ衣装のまま。メイクもばっちり残っている。
ただ、耳元や手首のアクセサリーだけは外してあって、ライブが終わってから、最低限だけ片づけて、そのまま駆けつけたのが見て取れた。
もうひとりは、前に一度だけ会ったことがある、づっきーの母親だった。
「あら……咲太くん?」
近づいてくる途中で、母親が咲太に気づく。
「お久しぶりです」
「久しぶりね。……それから、蓮真くんも久しぶり」
俺の方にも、気さくな声が飛んでくる。
「ご無沙汰してます。遅くにすみません」
思わず、少しかしこまった口調になる。
「いいのよ。来てくれてありがとう。麻衣ちゃんも」
「こんばんは。……急にごめんなさい」
麻衣先輩が軽く会釈する。
その間、づっきーはほとんど口を開かなかった。
いや、正確には、口を開きかけて、閉じた。
視線が、ふっと俺とぶつかる。
「……」
何か言おうとした気配があった。だけど、づっきーはすぐに目を伏せてしまう。
ベンチコートの裾を、ぎゅっと指先でつまむのが見えた。
“ボーイフレンドが来てくれたんだから、もっと元気出しなさい”
そんな風に、母親の目が一瞬だけ卯月に向く。
けれど、声には出さない。ただ、心配とからかいが半々みたいな、その独特の親の目で。
胸が、きゅっとなった。
「づっきー、大丈夫か?」
気づいたら、俺は一歩だけ前に出て、そう声を掛けていた。
「………」
づっきーは答えない。
返事の代わりに、少し困ったように口元だけで笑ってみせる。
さっきステージで見た笑顔と、よく似ていた。明るいのに、奥の方が何も映していない笑顔。
「ごめんね」
俺たちの間に入るようにして、母親が口を開いた。
「今、卯月、声出ないんだ」
さらりとした口調だった。でも、その指先は、そっとづっきーの背中に触れている。
「………」
言葉が、喉の途中で固まる。
やっぱり、見立て通りだ。
本当に、声が出なくなってしまったらしい。
マイクが拾わなかっただけじゃない。
のどかのときみたいに、世界の側がずれているわけでもない。
今、目の前のづっきーは。
俺の「大丈夫か」という、一番シンプルな問いかけにさえ、声で答えることができない。
その現実が、ようやく、遅れて胸の奥まで落ちてきた。
「とにかく、今はゆっくり休むように言われてね。最近、忙しかったから」
まあ、麻衣ちゃんほどではないけど、と母親は冗談っぽく付け足した。
その間、づっきーは何かを言いたくても言えない様子で、何度か口を開いては、諦めて閉じていた。
そんなづっきーを俺が見ていると、気づいたづっきーと目が合う。
づっきーは曖昧に微笑んで、すぐに俺から視線を逸らした。
あ、と思った。
それは“アイドルの笑顔”の形をしていたけれど、さっきステージで見たそれよりも、さらに薄くて、弱々しかった。
ファンのための笑顔ですらない。何も言えない自分をごまかすためだけの、ちいさな作り笑いだ。
胸の奥が、きゅっとねじれる。
(……なんだよ、それ)
喉の奥まで出かかった言葉を、必死に飲み込む。
本当は「大丈夫じゃないだろ」とか、「無理に笑うなよ」とか、いくらでも言いたかった。
なのに、俺の口から出たのは、さっきと同じ、当たり障りのない問いかけだけだ。
結局、俺も同じだ。
づっきーと同じように、本音を飲み込んで、形だけの言葉でごまかしている。
それが、どうしようもなく悔しかった。
「のどかちゃんたちなら、まだ中でマネージャーと話してるよ。明日のこともあるし」
母親の言葉に、現実へ引き戻される。
そうだ。明日の日曜日も、スイートバレットにはライブが控えている。
「じゃあ、悪いけど、今日は卯月を連れて帰るね」
「……はい、お大事にしてください」
言えるのはそれくらいだった。
本当は、「また連絡していいですか」とか、「俺にも何か手伝わせてください」とか、何かひとつくらい踏み込んだ言葉を選べたはずなのに。
俺の口は、相変わらず安全な言葉しか選べない。
づっきーは俺と咲太に小さく手を振り、麻衣先輩にはぺこっとお辞儀をしてから、車の助手席に乗り込む。
その横顔は、やっぱり笑っていた。
でも、その笑顔のどこにも、彼女の声は宿っていない。
(……何やってんだよ、俺)
ドアが閉まる音が、やけに大きく響いた。
追いかけるみたいに視線で車を見送ることしかできない自分に、どうしようもない悔しさだけが、じわじわと積もっていった。
電気が半分消えた薄暗い病院の廊下には、当然のように誰もいなかった。
しばらく通路を麻衣先輩と咲太と進んでいく。
先の曲がり角に明かりが差し込んでいるのが見えた。その角に近づくと。
「卯月のソロデビューの話、本当だったんですね?」
のどかの冷めた声が聞こえた。
外来受付前の明るいスペースで、スイートバレットの四人とのどかのマネージャーが向き合っている。のどか、安濃さん、中郷さん、岡崎さん、全員が立ったまま緊張した空気のまま話していた。
「……卯月にソロデビューの話があるのは本当よ」
そう告げるマネージャーの声は、観念したように重かった。
メンバーたちは、一瞬で顔色を変えた。
「それって……卒業ってこと?」
「それ、いつの話ですか?」
断片的な言葉だけが聞こえてくる。
八月末に一度話が出たこと、チーフが悩んでいたこと、CMの反響で再浮上したこと。
だが、卯月本人は一度その話を断っていたこと。
その事実に、のどかたちの表情はさらに曇った。
「じゃあ、なんで最近のづっきー、どっか変だったんだろう………」
岡崎さんの小さな呟きに、四人の間で視線が交わされる。
しかし、誰も答えを出せなかった。
タイミングも違う。理由が見つからない。
ソロデビューが原因だと思っていた変化が、実はずっと前に終わっていた話だと知ってしまったからだ。
そこまで聞いたとき、胸の奥が熱く痛んだ。
(……違う。理由はわかってる)
ソロデビューの話も、づっきーがどう受け止めていたかも。俺は、知っている。
九月のはじめ。
夕方の渋谷で、ふたりきりで話したとき。
「ソロデビューの話が来てるの」
「きっしーなら、変にジャッジしないで聞いてくれるかなって」
不意打ちみたいにこぼれたづっきーの問いかけ。
あのとき、俺は。
「俺は、づっきーの“スイートバレットのリーダー”としての顔も、“広川卯月”としての顔も、どっちも知ってる。でも、どっちか片方だけになったら……づっきーらしくなくなる気がする」
そんな、当たり障りのないようで、決定的なことを言ってしまった。
ソロに行くなとも、グループをやめろとも言わなかった。
代わりに、どっちも欠けちゃダメだなんて、現実味のない答えを押し付けた。
づっきーは、少しだけ黙ってから
「……きっしー、やっぱりずるいな」
「そう言われたら、ちゃんと前見なきゃって思っちゃうじゃん」
って、それをそのまま受け取ってくれた。
ふたりだけの秘密にして、のどかにも、誰にも話さなかった。
(……結局、俺は、何も背負ってないところから理想だけ言ったんだ)
ソロデビューの話が出ていたこと。
それを一度、づっきーが断ったこと。
そのあともずっと、“リーダーのづっきー”と“ひとりの広川卯月”の間で揺れ続けていたであろうこと。
その全部に、俺の言葉が絡んでいる。
声が出なくなるまで、悩ませるだけ悩ませて。
(お前のせいなんだよ、岸和田蓮真)
心の中で、自分の名前を罵倒する。
それでも、足はその場から一歩も動かない。
ふと横を見ると、のどかが真剣な表情で前を向いていた。
唇を結び、肩をわずかに震わせながら。
(……気づいてるよな、のどかは)
づっきーの変化。
ソロの話。
そして、俺との関係。
線では繋がらなくても、中心に俺がいることだけは。
自分のときに起きた“声が届かなくなる”症状。その恐怖を救ってくれたのが俺だったという事実。
だからこそ、のどかは堪えている。
責めることもできるのに、責めず。
泣きつくことだってできるのに、しない。
ただ、マネージャーのほうだけを見ている。
「あなたたちはどうなの?」
逆にマネージャーがのどかたちに質問する。
「あの子が悩んでたこととか、心当たりないの?」
「………」
マネージャーの問いかけに、四人は沈黙で応えた。
互いに視線を交わす。あれかもという目配せだけ。
だが結局、言葉にはしなかった。
「言いたくないならそれでいいわ。あなたたちで解決するのね?」マネージャーの確認に、安濃さんが代表して頷く。
「とにかく、明日は予定通りの入り時間でいきます」
「はい」
四人の返事が綺麗に揃う。
「覚悟だけはしておいて」
それが、何の覚悟なのかは部外者の俺にもわかった。
づっきーの声が出ないのなら、つまり、そういうことだから……
俺はそのあと、麻衣先輩の車で藤沢まで送ってもらうことになった。
帰りの車の中は静かだった。誰も口を開こうとしない。
ハンドルを握った麻衣先輩は運転に集中していたし、助手席に座る咲太の後ろに乗ったのどかは、俺の隣で窓の外を流れる夜の街並みをぼんやり見ているだけだ。
しばらく一般道を走っていた車は用賀を過ぎると、第三京浜の入口をぐるっとカーブしながら上がっていく。一定の速度で、車は順調に進んでいる。
「ライブの前、控え室で、聞かれたの」と、のどかが声を発した。
感情は殺されて、後悔だけが残された声。
いつもの快活なのどかの雰囲気はどこにもなかった。何もかもが違っていて、最初、のどかの声に聞こえなかったほどだ。
のどかは、左肩でドアに寄り掛かり、窓ガラスに頭を預けている。その目は先ほどから変わらず外の景色を見ているが、何を見ているのか、のどかはわかっていないだろう。
「卯月に聞かれたの」
「………」
俺も咲太も麻衣先輩も黙っておいた。
静かに、のどかの言葉の続きを待つ。
「“私たち、武道館に行けると思う?”って」
「………」
「いつもなら、“行けるよ”、“行こうよ”って答えてた。答えてるつもりだった……」
聞こえているのは、車の走行音と小さなのどかの声だけ。
「決まってたライブが中止になって落ち込んだときも、仕事で失敗して自信をなくしてたときも、がんばって歌とダンスの練習してるのに、全然ファンが増えなくて、焦って、泣きそうだったときも、愛花と茉莉が卒業したときだって………」
「メンバーの誰かが不安で押し潰されそうなときは、合言葉みたいに、“みんなで武道館行こう”って励まし合ってた。ずっと、そのつもりだった……」
のどかの声が、わずかに湿り気を帯びていく。悲しいからではない。寂しいからでもない。悔しくて、不甲斐ないから……
「いつもは言えてたはずなのに、今日は言えなかった」
「………」
「あたしも、メンバーのみんなも、卯月に聞かれて、“行けるよ”、“行こうよ”って……言い出せなかった」
「そりゃあ、そうだよね。だって、いつも真っ先にそう言ってくれてたのは、卯月だったから。不安になっても、みんなを引っ張ってくれてたのは、いつも卯月だった」
のどかがぽつりと呟く。
視線は窓の外、目の奥には涙の光。
俺は何も言わず、そっとハンカチを差し出した。
「ありがとう」
小さな声で受け取ったのどかは、再び窓の外へ視線を戻した。
「あたしも、メンバーのみんなもそんな卯月に勇気づけられてただけ。卯月が不安になってるのに、何もしてあげられなかった」
のどかの声が震えた。
胸の奥が締めつけられるように痛む。
(……のどかにまで、こんな思いをさせて)
のどかはづっきーの親友だ。
背中合わせでずっと活動してきた戦友だ。
本来なら、今日みたいに泣き出す寸前の声で後悔をこぼすような子じゃない。
のどかは強い。明るい。前を向ける。
誰かが崩れそうなら、真っ先に支えに入る、そういう子だ。
そののどかが、づっきーのことで、ここまで苦しんで、悔しがって、泣きそうになっている。
(原因の一つが俺だなんて……のどかにまで背負わせて、どうする)
づっきーがソロの話を抱えて揺れていたこと。
それを俺だけが知っていて、誰にも言わなかったこと。
“づっきーらしくなくなる”なんて曖昧な理想を押しつけて、答えを曖昧にしたこと。
結果として、づっきーは声を失い、のどかは自分を責めている。
何も言わず横で聞いているだけの俺は、ただただ情けなかった。
「卯月は大丈夫なんだって、勝手に決めつけてた」
車は一定の速度で今も走り続けている。
相変わらず、俺も咲太も麻衣先輩も黙ったままだ。
「明日はどうするの?」
さらにしばらく走ったところで、ようやく麻衣先輩が口を開いた。
いつもと変わらない口調。
麻衣先輩の声に反応したのどかは、ドアにもたれていた頭を離した。斜めになっていた体を真っ直ぐにして、心なしか背筋も伸びている。
恐らく、泣き言ばかりを言ったので、怒られると思ったのだろう。
麻衣先輩は、あまり口には出さないがのどかの活動も熱心に応援している。
新曲が出ればスマホにDLしているし、CDもきちんと購入していると、麻衣先輩からのLINEで聞いたことがある。
その反面、芸能活動に対する甘えにはかなり厳しいと、のどかからはよく聞いている。
そういう麻衣先輩だからこそ、国民的知名度を誇る人気女優という地位に立ち続けているのだろう。
「明日は、卯月なしの四人でやると思う」
「いけそうなの?」
麻衣先輩が短い言葉で確認する。
「いくよ。当たり前じゃん」
のどかの声には、まだ迷いが感じられた。不安も含まれている。実際、本当にいけるかどうかなんてわかっていない。わからないけれど、いきたい気持ちがのどかにそう言わせた。
「そう」
麻衣先輩は少しうれしそうな口調だった。
「これ以上、卯月を不安にさせてらんない。今度はあたしたちが引っ張ってく」
のどかの言葉を聞きながら、助手席の咲太が、ちらりとバックミラー越しに俺の方を見た。
何かを言いたげな、いつもの無気力な目つきじゃない。
少しだけ真面目な、あの目。
「麻衣さん、コンビニがあったら寄ってもらえますか?」
「いいわよ」
麻衣先輩は、咲太の意図を察したのだろう。迷いなく答えた。
のどかは気づいていない。
でも、俺はわかった。
(……咲太、俺に話があるんだな)
しばらく走ったあと、国道一号線沿いのコンビニに車が滑り込む。
麻衣先輩はのどかと車に残り、俺と咲太だけが外へ出た。
夜風は冷たくて、街灯の光がアスファルトに滲んでいた。
咲太は自動ドアの前で立ち止まると、俺の方を見た。
「僕、明日のライブ行くから」
その言い方が、宣言のようだった。
「……意味はわかるよな?」
「あぁ、来るだろうな……」
咲太は苦笑もせず、真正面から俺を見ていた。
「さっき、病院での広川さんの顔、見たよな?」
「……ああ」
「落ち着きすぎてた。あれは、受け入れたって顔じゃない。隠してる人間の顔だった」
咲太の言葉に、俺は胸の奥がひやりとした。
「……俺も、そう思ってた」
「だろ?」
咲太は、夜の街の明かりを背負いながら言った。
「広川さんは、たぶん……声は、出る」
その言葉は希望じゃなくて、覚悟の匂いがした。
俺は深く息を吸う。
「……でも、なんで隠す?」
「わからない。でも、広川さんは見せたくないものがある。今日の感じだと岸和田、お前には特に」
胸が締めつけられる。
「僕、前にも言ったよな」
咲太は、静かに続けた。
「“岸和田に出来ないことは、僕には出来ないからな”って」
「………」
「広川さんのこと、僕がやれることは限られてる。でも、明日、誰が手を伸ばせるかって言われたら……」
咲太は一拍置いて、はっきりと言った。
「……お前だろ」
胸の奥が熱くなる。
逃げたいわけじゃないのに、怖い。でも、咲太はそれを全部見透かした上で言った。
「空気を読むなよ、きっしー」
最後だけ少し笑った。
俺は、ゆっくりと息を吐いた。
誰かがやらなきゃいけないことなら、咲太が背負ってきたものなら、俺だって。
(やっぱり俺にしか……いや、俺だからやるんだ)
はっきりそう思えた。
「……ああ。やるよ」
咲太は軽くうなずいた。
「じゃあ、行くか。麻衣さんたちも待ってるし」
「ああ」
自動ドアが開き、夜の冷たい空気がジャケットの内側に入り込む。
でも、足取りはさっきとは違っていた。
明日のライブで何が起きるかはわからない。
だけど俺はもう、ただ観察するだけの岸和田蓮真じゃない。
届かない声に、手を伸ばせるのは、俺だ。
物語解説
今回の物語では、夢を語ることに慣れていた卯月が、初めて夢に触れることを怖がる瞬間と、それを前にして揺れる蓮真の姿を描きました。
声を失ったのは喉ではなく、揺らぎはじめた心の輪郭。その小さな異変に誰より早く気づいてしまうのは、やはり蓮真でした。
人の気配に敏感で、些細な変化を拾い上げてしまう彼だからこそ、武道館の前で零れ落ちた卯月の沈黙や、のどかの涙に混ざる悔しさ、麻衣と咲太の間に漂う緊張に、ひとつずつ丁寧に触れてしまう。
観察者であることは、彼にとって強みにも、逃げ道にもなり得る。けれど今回、蓮真は初めて、自分が見つけた痛みから目を逸らしませんでした。
支えるために距離を測ってきた彼が、支えたい相手へ向けて、距離の測り方そのものを変えようとする。そのまだ形になりきらない一歩こそが、今章の中心にある変化です。
夢を見る者と、それを見守ってきた者。ふたりの関係がほんの少しずつずれたとき、その揺らぎは確かに青春の輪郭を深くしていきます。
岸和田蓮真という観察者の物語は、ここからさらに踏み出した場所へ進んでいきます。
次回も、ぜひお楽しみください。
これまでのヒロインで好きなキャラを教えてください
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豊浜のどか
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広川卯月
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桜島麻衣
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双葉理央
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古賀朋絵
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梓川花楓
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大津美凪
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浜松夏帆
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米山奈々
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赤城郁実
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牧之原翔子
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吉和樹里
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上里沙希
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鹿野琴美