青春ブタ野郎はパラレルスプリングの夢を見ない 作:もドえラん
読んでくださる皆さんのおかげで、ついにUAが1万を超えました。
本当にありがとうございます。
青ブタという小さめのタグの中で、ここまで多くの方が読んでくださるとは正直思っていませんでした。
ひとつひとつの話に、「原作の空気を壊さないこと」「もう一つの青ブタを描くこと」を大切にして書いてきましたが、こうして数字となって返ってきたのは皆さんのおかげです。
もし続きが気になる、好きな場面があったと感じていただけたら、お気に入りや評価、感想などいただけると、とても励みになります。
もちろん、読んでいただけるだけでも十分嬉しいです。
これからも岸和田蓮真の物語を、よろしくお願いします。
十月二十三日
カーテンを開けると、山脈みたいに分厚い雲の塊が、ゆっくりと西から東へ流れていた。
その隙間から、ところどころ青空が覗いている。
晴れているような、曇っているような、どっちにも振れきれない中途半端な空。
(……あのループの時の空に似てる)
晴れるのか、雨が来るのか、ただ曖昧なまま進んでいく空気。
何かが決まらないまま、揺れている。
その宙ぶらりんな気配が、昨日のづっきーの姿と重なって胸に残った。
スマホを開くと、未読のLINEがひとつ。
花楓ちゃんからだった。
《こんばんは蓮真さん。卯月さん大丈夫ですか?》
送られたのは昨夜の遅い時間。
俺は家に帰ってシャワーだけ浴びて、ベッドに倒れ込むように寝たから、返事が遅くなっていた。
花楓ちゃんも、昨日のづっきーの異変に気づいたのだろう。
指先が、ほんの少しだけ迷った。
(……大丈夫、って言っていいのか)
でも、不安を増やすような返しは、したくなかった。
だから俺は、
《おはよう花楓ちゃん。のどかやメンバーやファンもいるし、づっきーなら大丈夫だよ》
と送った。
数分後に返事が来た。
《蓮真さんがそう言うなら、安心です》
その文面に、胸が少しだけ軽くなる。
今日の野外ライブは午後一時から。
八景島までは、家からなら一時間ちょっと。
大学へ向かうルートと、ほとんど同じ。
けれど今日は、まっすぐ行く気にはどうしてもなれなかった。
(……あいつと歩いた場所に触れてから行きたい)
そう思って、わざと遠回りをすることにした。
まず、江ノ電に乗って鎌倉へ向かった。
七月。のどかとづっきーと三人で、花火大会に行ったことを思い出す。
屋台を笑いながら巡って、夜空に色が弾けるたび、づっきーが子どもみたいに嬉しそうに顔を上げて。その時の笑顔は……どこにも曇りなんてなかった。
次に、横須賀線で逗子へ向かった。
六月。紫陽花を見に三人で歩いた道を思い出す。
神奈川県立近代美術館で、づっきーがぽつりと呟いた。
「だって……なんか置いてかれる気がして」
不安を隠しきれず言ったあの声も、昨日の涙と重なる。
そこから八景島へ向かうために、京急とシーサイドラインを乗り継ぐ。
八景島はつい先月。づっきーと二人だけで“秘密のデート”をした場所だ。
潮風の中で笑って、水族館で無邪気にテンションが上がって、タワーの上では、ほんの一瞬世界が揺れた。
(……あの時のづっきーが、俺はやっぱり……)
言葉にはしない。
でも、胸の奥ではもう否定できない形で、それが残っている。
今日、あの子は必ず来る。
(向き合わなきゃいけない)
今日は、逃げられない。
八景島の海が見えてくる前から、そんな覚悟みたいなものが胸に形を成し始めていた。
巨大なジェットコースターのレーンを見上げながら歩いていると、建物の隣を通り抜けて、急に視界が開けた。
島の反対側に出たのだ。そこには、海に面した広場があって、多くの人が集まっていた。
ライブステージが組まれ、すでに名前を知らないアーティストが演奏している。
男性四人組のロックバンド。
人気はあるようで、ステージ前に集まった女性ファンは彼らの演奏に熱狂していた。
次に出てきたのは、神奈川県出身だというシンガーソングライターだ。
ギターとハーモニカ、それとやさしい歌声で会場をあたたかく盛り上げていく。
集まっている観客も実に様々だ
目的のアーティストがいて足を運んだファンもいれば、たまたま八景島に遊びに来て、やっていた音楽イベントをなんとなく見ているだけの人も大勢いる。
その差は、盛り上がりの熱量から、一目瞭然だ。
ファンはステージに一歩でも近づこうとしているのに対して、そうでない客は半分より後ろの方で、とりあえずという感じで手拍子をしている。
さらには、ステージをもっと遠巻きに眺めている人たちもたくさんいた。
ぽつぽつと間を空けて立っている。「なにやってるんだろう」というくらいの様子見気分で、楽曲に耳を傾けていた。
温度差こそあれ、会場には大勢の人が集まっている。ステージ前で積極的にライブに参加しているのが約二千人。昨日のライブと同じくらいだ。そうでない客も、五、六百人はいるように思えた。
咲太も、花楓ちゃんも、鹿野さんも来ているはずだが、見回して見つかる人数ではない。
この環境で特定の誰かを見つけるのは不可能だ。
「ありがとう、八景島!」
その挨拶を最後に、三十代のシンガーソングライターは、手を振ってステージからはけていく。
入れ替わりで、進行役と思われる若い女性が、マイクを持って舞台の脇に立った。
「次は、スイートバレットです!」
元気にそう紹介する。
曲のイントロが流れ出し、メンバーがステージ上に駆け出してきた。
最初の曲は「オトメノート」
サブリーダーで、最近はスポーツ系バラエティで体を張っている安濃さん。
ドラマの出演が増えている岡崎さん。
その後ろから、グラビアで以前から活躍している中郷さん。
四番目に出てきたのが、金髪をなびかせたのどかだ。
それで全部。
五人いるはずのスイートバレットなのに、五人目は出てこない。
ステージ前に集まったファンたちは、当然のようにづっきーの不在に気づいた。会場にファンたちの動揺が走る。不安がざわめきとなった。
>誰にもきっと負けない一歩踏み出した たとえ合図にでも
それらを吹き飛ばすように、スイートバレットの四人は力強く歌い出した。
づっきーの不在には触れず、いつも通りのパフォーマンスで、ファンたちに笑顔を届けていく。
激しくて、切れのあるダンス。野外でも負けないボーカル。四人で並ぶには少し広いステージでも、彼女たちは小さく見えなかった。
その迫力に、ファンたちも呼応する。掛け声を上げ、手を叩き、一緒になってジャンプする。
途中から雨がぽつぽつと降り出しても、誰も気にしない。むしろ、熱狂に油を注いでいる感じだ。
>もちろん本音リズムは ドキドキ ちょっとバレそう
勢いそのままに、のどかたちは一曲目を全力で歌い切った。
髪は濡れ、首筋を光る雫が流れ落ちる。
それは、雨のせいだけではない。
乱れた息を、四人が深呼吸して少し整えた。
会場は、誰に言われたわけでもないのに、静寂に包まれていた。
ひとり少ないスイートバレットのメンバーが何を語るのか、固唾を呑んで見守っている。
聞こえているのは弱い雨の音だけ。
「皆さん、こんにちはー!」サブリーダーの安濃さんが会場に呼び掛ける。
「私たちはースイートバレットです!」
いつもの挨拶は、ぴったり四人の声が重なった。
「てか、なんか私たち少なくない?」
岡崎さんが、さらっと核心に触れる。
「え?それ言っちゃう?」のどかがそれに乗ると、「づっきーのパート歌うの、きついんですけどお」と、中郷さんが強々と愚痴をこぼした。
それに、ファンたちが笑い声を上げる。
「で、づっきー、どったの?」またしても、岡崎さんが切り込む。
「今、会場和んだじゃん! 流そうよ!」困った声でのどかが突っ込むと、また笑いが起きた。
「づっきーのパート、きついんですけどお」
自分の話はまだ終わってないという不満顔で、中郷さんが唇を尖らせている。
「あたしもきついって!ほら、八重、見てないで、仕事して!」やってられないという感じで、のどかが安濃さんに話を振る。
まさに息の合ったコンビネーションだ。ファンはこうした彼女たちのやり取りも楽しみで、ライブに足を運んでいる。
「大丈夫」
安濃さんが会場に向かってそう声をかけた。
みんなの注目を一手に引き受けると、「卯月は必ず帰ってくるから!」と、力強く想いを投げかけた。
「だから、歌おう!」
それを合図に、二曲目の「超音波のメロディ」が会場に贈り響く。
ライブで盛り上がる定番の楽曲で、俺もスイートバレットの曲で一番好きな楽曲だ。
ふと見上げた空には、分厚い雨雲があった。
少し先には青空も見えている。向こうは晴れているのだろうか。天気予報の通りで、雲の流れ次第の気まぐれな空模様だ。数分先の天気もよくわからない。
のどかがイントロを歌い出す。
>聞こえないメロディ 響かせて
その矢先、ばんっと大きな音が会場に響いた。
ステージを照らす照明が一斉に落ちる。
観客たちの驚きが大きな波となって俺の方へ押し寄せてきた。
のどかたちも視線を上げて、消えた照明を気にした。
同時に、曲も止まっている。マイクものどかたちの声を拾わない。スピーカーは黙ったままだ。
誰もが言葉を失って、会場は静まり返った。
電気系統のトラブルだろうか。完全に、ライブ会場全体の電源が失われている。原因として真っ先に考えられるのはこの雨……
こうなると、ステージ上の四人は、茫然と立ち尽くしかない。
にわかに会場がざわつきはじめる。
遅れて、舞台袖からスタッフジャンパーを着た男性が出てきた。
「ただいま、原因を確認しておりますので、しばらくお待ちください」
ライブの一時中断だけを事務的に告げて、すぐにはけていく。
ステージ上のメンバーには、体を冷やさないようにベンチコートが配られた。それを仕方なくという感じで、のどかたちは受け取っている。
状況は最悪だ。それは、ファンにとってもそうだし、のどかたちスイートバレットのメンバーにとってもそうだ。
づっきー不在の今日のライブは、なにがなんでも成功させなければならない。
その強い想いで、ステージに上がったはず。
こんなトラブルに邪魔をされてはたまったものではない。
だからこそ、のどかたちはスタッフに促されても、ステージから下りようとしなかった。まだ続けたい。今すぐ続けたい。その気持ちが、ステージに彼女たちを留まらせている。
だが、そんな想いとは裏腹に、ライブの中断を受けて、一部の観客は離れていく。特に、後ろの方にいた、なんとなく見ていた人たちの脱落は顕著だ。
雨もまた強くなった。もう傘を差さないときつい。
ステージ前に集まった観客も、雨を嫌って後ろの方から徐々に崩れはじめている。
ひとり、ふたりと抜けると、人が塊となって去っていこうとする。
再開の目処も立たない以上、どこかで雨宿りをしようとするのは自然だった。
雨脚はさっきより明らかに強くなっていた。
周りの観客たちは、慌てて傘を広げたり、フードを深くかぶったりしている。
だけど俺だけは、立ち止まったまま、何もささずに雨を受けていた。
肩に、髪に、頬に。水の粒が容赦なく叩きつけてくる。
冷たいのに、不思議と嫌じゃなかった。
むしろ、その冷たさが、胸のざわつきをまっすぐにしてくれる気がした。
(……必ず来てる)
そう信じていた。
こんな状態でも、あいつが来ないわけがない。
雨が視界を白く滲ませる。傘の列の向こうで、人の影が忙しなく動いている。
誰かが走る音。誰かが帰ろうと踵を返す気配。
それら全部を縫うようにして、俺は一点だけを探していた。
フードを深くかぶったスタッフでもなく、メンバーを気遣うファンでもなく。
今にも泣き出しそうな空でも、止まったステージでもない。
広川卯月を。
雨の中に立つ俺を、周囲はどう見ていたんだろう。
たぶんきっと、ただの変人にしか見えなかったと思う。
でも、それでも良かった。
傘を差したら、見えなくなる。
フードを被ったら、視界が狭くなる。
コートを閉じたら、足音が聞こえなくなる。
あり得ないほど単純な理由で、俺は雨の中に身を晒し続けていた。
(……あいつを見つけるまでは、ここを動かない)
雨粒が頬を滑り落ちるたび、心臓の鼓動が少しだけ早くなる。寒さのせいじゃない。
そのときだった。
隙間が出来た観客の中に、づっきーはぽつんと立っていた。
キャップを被り、さらにその上からパーカーのフードを被っている。
真っ直ぐステージに向けられた眼差しは、この場所にいる誰よりも真剣で、心配そうにしていた。
づっきーのことだから、来ていると思った。
俺でさえ、気になって今日のライブを観に来ているのだ。づっきーが来ないわけがない。
俺はゆっくりづっきーに近づいて、その隣で立ち止まった。
すぐそばで見ると、フードの縁から落ちる雫が頬を伝っていた。
づっきーは気づいていないふりをしているみたいに、視線をステージから外さない。
「……やっぱ、来てたんだな」
一度だけ、づっきーは俺を横目に捉えた。だけど、無言で視線をステージ上に戻してしまう。
「誰にも言わないから平気だよ。俺の前では」
「………」
づっきーの表情は変わらない。驚きもしなければ、困った様子も見せなかった。声が出ないのだと訴えかけてもこない。
それが真実だった。
「やっぱりわかっちゃうんだね。私の嘘」
「……観察者だからな」
「昨日のライブでは、本当に声が出なくなったの」
言い訳するように、づっきーが呟く。
「信じてくれるかわからないけど……」
づっきーの視線は自信がなさそうだ。
「信じるよ。昨日、観てたから」
あれが演技だったとは思えない。突然のトラブルだった。
「後ろの方にいたでしょ。お兄さんと麻衣さんと」
「気づいてた?」
「うん。ステージからだとよく見えるんだよね」
「じゃあ、のどかたちも、こっちに気づいてるかもな」
俺がステージを見ると、今ものどかたちはその場に留まっていた。
「……そうかもね」
同じようにステージを見上げたづっきーが困った顔で笑う。
降り続ける雨は、そんな彼女のパーカーを湿らせていった。
「……前も、こんなトラブルあったよな」
気づいたら、口が勝手に動いていた。
「大船でさ」
づっきーが、少しだけ目を瞬かせる。
「……あったね」
ふっと、遠くを見るみたいな表情になった。
「機材トラブルで、音、全部止まっちゃったやつ」
「あの時は、安濃さんがマイクなしで歌い出したんだよな」
「うん。“とりあえず歌っとこっか〜”って」
小さく笑う声が、雨に溶けていく。
づっきーの言葉と、ほとんど同時だった。
スイートバレットのメンバーが、次々にベンチコートを脱ぎ捨てていったのは。
ここからだと遠くに思えるステージ上で、四人が円になるみたいに顔を寄せて、短く何かを確認し合う。
それから横一列に並び直して、大きく息を吸い込んだ。
次の瞬間、四人は歌声を奏でた。
楽器の演奏はない。スピーカーから流れるバックトラックもない。
マイクも、のどかたちの声を拾ってはくれない。
雨の音はさっきよりさらにうるさくて、ぼたぼたと服や地面に打ち付けている。
それでも、のどかたちは、雨に向かって声を投げた。
>聞こえないメロディ 響かせて 私たちは巡り合ってきた
>Let me sing my song
>Then tell me your thoughts
>Let me sing my song
俺とづっきーのいる場所まで、かろうじて届いてくる。
消えてしまいそうな歌声。
だけど、それによって、少しずつ会場の空気は変わりはじめた。
ステージの前の方で、誰かが手拍子をする。
ぽん、と一回叩くたびに、人数が増えていく。
その波は、ゆっくりと後ろに広がっていき、気づけば会場の半分近くを包み込んでいた。
離れかけていた一部の観客の足が止まる。
「……なにあれ」「すごくない?」みたいな表情で、ステージ上の四人と、ファンたちの様子を見守っている。
当然、完璧なパフォーマンスには程遠い。
のどかたちはダンスを諦めて、バラード調にアレンジした歌だけに集中しているから。
それでも、いや、だからこそかもしれない。
アイドルとか、ファンとか、そういう垣根を超えた一体感が、生まれかけていた。
手拍子の輪は、俺たちがいるすぐ手前まで来ている。
それでも、ステージから離れていく人の流れを完全に止めることはできなかった。
半分近いお客さんがいなくなっただろう。
残っているのは、六百人くらいか。
「これが、私たちの現実」
づっきーの小さな声が、雨の隙間を縫うようにして届いた。
「今日まで必死にみんなでがんばってきたけど、武道館の手拍子には届かない」
淡々とした口調だった。
嘆くでもなく、悲しむわけでもなく。
ただ、事実だけをそっと並べるみたいに。
「……このあと、行かないのか?」
俺は、ステージを見たまま尋ねた。
づっきー自身が、あの横一列の中に入るかどうか。
「私には、その資格がない」
短く返ってきた言葉は、雨より冷たく感じた。
「………」
「私も、ここにいる人たちと同じだから」
づっきーは、ステージじゃなく、客席の方を一瞬だけ見やった。
濡れた髪。傘の下から伸びる腕。
それぞれの思いで手拍子を送っている、名前も知らない六百人。
「私の中にもいるんだよ。叶わない夢を一生懸命追ってるのどかたちを、笑ってる私が」
「……」
「“武道館なんて無理に決まってるじゃん”って。“どうせ一瞬でしょ”って」
それを言うづっきーの声には、嘲りなんて一つも乗っていなかった。
自分で自分を殴るみたいに、静かに告白しているだけだった。
「それに気づいたら、同じステージになんて立てない」
嘆くでもなく、悲しむわけでもなく。
ただ、本当に少しだけ切なそうにして、づっきーはステージをじっと見ていた。
雨の匂いと一緒に、胸の奥がじわりと滲んだ。
づっきーは、自分の中にいる“笑ってる私”の話をした。
叶わない夢を追いかけてるのどかたちを、どこかで冷めた目で見ている自分。
それに気づいてしまったから、同じステージに立てない。
俺のせいだ。
初めて会った頃のづっきーは、いい意味で空気が読めなかった。
誰が何をどう言おうと、「すごーい!」と笑って、「やろーよ!」と飛び込んでいく側だった。
皮肉と嫌味なんて、きっと半分も理解していなかった。
それでよかったのに。
けれど、俺と一緒にいる時間が増えて、づっきーは、空気を読めるようになってしまった。
誰かが笑う時、それが“応援の笑い”なのか、“見下した笑い”なのか。
その違いを、無意識に嗅ぎ取ってしまうようになった。
皮肉と嫌味を、冗談だと流せなくなった。
そして同時に、自分もまた、本音と建前を上手に使い分けて、人を笑い者にしてしまう瞬間があることに、気づいてしまった。
(俺のせいで、づっきーは、づっきーらしくなくなってしまった)
それでも。
俺は、彼女には、彼女らしくいてほしいと思っている。
たとえそれが、俺が勝手に描いた理想の押しつけだったとしても。
たとえ、彼女自身を苦しめる一因になっていたとしても。
それでも、あのまっすぐ笑う子を、簡単に諦めることなんてできない。
だから、俺は口を開いた。
「わかってるよ。そんなことは」
「………?」
づっきーが、ほんの少しだけ首を傾げる。
「夢に届かないかもしれないことは、最初からわかってる」
「………」
「そんな夢を笑ってるやつがいるのも、ちゃんと知ってるよ」
ステージに視線を向ける。
雨の中で歌い続ける、四人の背中。
「安濃さんも、岡崎さんも、中郷さんも、のどかだって、きっとそうだ」
>好きな言葉も 歌声も 誰かにとっての雑音なの
それでもなお、みんなは歌い続けている。
「今のままじゃ、武道館も無理だって。そんなの、本人たちが一番わかってる」
それでも、ステージに立って、みんな声の限り歌っていた。
>広い世界嫌い ひとりぼっちみたい 空の底で
>潰れそうになる だけど
「それでも歌うのが、あいつらの現実なんだろ」
自分でも驚くほど、声はまっすぐ出た。
「届かないかもしれない場所に、手を伸ばし続けるのがさ。……カッコ悪くて、どうしようもなくて、それでも大好きな“スイートバレット”なんじゃないのか」
雨音が、ほんの一瞬だけ弱まった気がした。
づっきーは黙ったまま、ステージを見つめている。
フードの影で、表情はよく見えない。
でも、その肩がほんの少しだけ震えたように見えたのは、きっと気のせいじゃない。
「夢を笑ってるづっきーがいるの、俺はいいと思う」
「……よくないよ」
ようやく返ってきた声は、苦笑まじりだった。
「よくはないけどさ。それでも、夢見てるづっきーの方を、俺は信じたいってだけ」
「………」
「だって」
言葉を続けようとした瞬間、胸の奥にずっと沈んでいた答えが、ようやく形になった。
雨の匂いも、手拍子の音も、ステージの歌声も全部遠のいていくみたいで。
俺は、それだけをまっすぐ伝えるように口を開いた。
「それが……俺にとっての広川卯月だから」
づっきーの肩が、ほんのわずかに揺れた。
視線はまだステージを向いたままなのに、それでも、俺の言葉だけは確かに彼女の中に届いたみたいだった。
「……どういう、意味?」
フードの影で、表情はよく見えない。でも、声の色だけははっきりわかった。
自分のことなのに、どこか信じられないような、ほんの少し怖がっているみたいな声音。
だから、逃げずに続けた。
「誰かに笑われても、届くかわからない夢でも、それでも“やりたい”って言って、前に進もうとする。それが……俺にとっての広川卯月なんだよ」
自分で言って、胸の奥がじんと熱くなる。
「夢を笑うづっきーがいてもいい。諦めようとするづっきーがいてもいい。でも、夢を見て、泣いて、迷って、それでも歌いたいって思えるづっきーを、俺は信じたい……」
もう一度、彼女の方へ視線を戻した。
「づっきー……俺がちゃんと見てる。だから」
そこで、言葉を切って、一拍だけ間を置く。
喉の奥で、何かがカチリと噛み合った気がした。
「空気は読むんじゃなくて吸うんだろ、卯月」
自分でも驚くくらい、自然に名前が出た。
づっきーじゃなくて。初めて、呼び捨てで。
その瞬間、卯月は息を呑んだ。
フードの影で、ぱちりと目を見開く気配が伝わってくる。
喉がかすかに震え、何かを飲み込むみたいに、白い首筋が上下した。
胸のあたりをぎゅっと押さえて、立ち尽くす。
雨粒が、その手の甲を容赦なく叩いていた。
手拍子と歌声と雨音が、全部遠くなる。
ここだけ切り取られたみたいに、世界が静かになった。
「……ひどいよ」
かすれた声が、雨の隙間から漏れた。
「そうやって、名前で呼ぶの。ずるいよ、きっしー」
それでも、卯月は泣かなかった。
代わりに、そっと一歩を踏み出す。
水たまりを踏んだスニーカーの音が、小さくはねた。
もう一歩。もう一歩。
傘の列のあいだを抜けていく背中は、さっきまでここで「資格がない」と呟いていた子のものとは思えないくらい、まっすぐだった。
俺は、追いかけない。
ただその背中を、雨に濡れながら見送る。
空気なんて読まなくていい。ただ、好きなものの方へ吸い込まれていけばいい。
卯月は振り返らないまま、ステージへ向かって歩き出した。
卯月がパーカーのフードを脱ぐ。
帽子で隠れていた長い髪がはらりと落ちる。
二番のサビが、ついに終わった。
手拍子による短い間奏。のどかたちはハミングで音を繋いでいる。
そのあとに続くラスサビ前のCメロは、いつも卯月の独唱パートだ。
しかも、本来の楽曲でも、伴奏はピアノだけの静かな部分。
スイートバレットの曲を知り尽くしたファンたちは、いつも通りCメロの直前で手拍子をやめた。
歌声に集中するために。
静寂が辺りを包む。雨の泣き声が聞こえる。
それを、卯月が息を吸い込む音が上回った。
直後、卯月の歌声が響き渡る。
>透き通ってゆけば 大人になれるの
>たぶん違うと答えてくれた君へ
会場の視線は一瞬にして、観客の中にいた卯月に集まった。
のどかたちもステージ上からこっちを見ている。
卯月が一歩前に足を出す。もう一歩さらに進む。すると、ステージ前に集まっていた観客は、誰に言われたわけでもないのに左右に分かれ、卯月のためにステージまでの花道を作った。
その真ん中を、卯月はしっかりとした足取りで進んでいく。
歌いながら、奏でながら。
やがて、Cメロが終わるタイミングで、卯月はステージの下までたどり着いた。
「づっきー!」
のどかたち四人の声が重なる。
「づっきー!」
ファンたちもそれに呼応した。
四人のメンバーが力を合わせて、卯月をステージの上に引っ張り上げる。
軽いハウリングのあとで、スピーカーから音が流れた。電源が戻ったことを、一瞬で全員が理解する。
「さあ、いくよ!」
安濃さんの掛け声が響く。
>声にしていくには弱すぎる
>でも君には 君には届いてたんだね
雲の隙間から光が差した。空から光のカーテンが下りる。海を照らし、観客たちの頭上も照らし、そして、ステージの上にも……
天然のスポットライトがステージを照らす。
>聞こえないメロディ 響かせて 私たちは巡り合ってきた
>こうしてほら 巡り合ってきた
卯月が予備のマイクを受け取ると、ステージの中央に五人は集まって、ラストのサビを一緒になって歌い上げた。
ファンからは歓声が飛ぶ。喝采が沸き起こる。
その真ん中で、卯月たちはわけもわからずに涙を流し………そして、笑っていた。
三曲目の「BABY!」のイントロが被さるように流れ出した。
さっきまでバラード調にアレンジされていた曲とは対照的な、明るくて跳ねるようなサウンドだ。
観客たちは自然とジャンプしはじめる。
五人になったスイートバレットは、さっきまでのトラブルなんてなかったかのように、全力でステージ狭しと駆け回っていた。
俺は、その場から少しだけ下がる。
さっきまで隣にいた卯月の場所には、いつの間にか知らない誰かがいて、ペンライトを振っていた。
ようやく、自分の体が芯まで冷えていることに気づく。指先の感覚が鈍い。息を吐くと白く揺れた。
「……良かったな、づっきー」
不意に、横から声がした。
振り返ると、傘もささずに立っている男がひとり。
胸元まで濡れているパーカーに、相変わらず眠そうな目つき。
「咲太」
思わず名前を呼ぶと、咲太は肩をすくめる。
「お前もなかなかの濡れネズミコースだな」
「自業自得だけどな、これは」
短くやりとりを交わしたあと、咲太はステージを見上げた。
五人になったスイートバレットの姿を、じっと見つめる。
「……岸和田」
少しだけ真面目な声色だった。
「うまくいったんだな」
問いかけというより、確認に近い響き。
どこまで見ていたのかは、聞かなくてもわかる。
俺は、同じようにステージを見たまま、小さく頷いた。
「ああ」
それだけ答えると、胸の奥で、ようやく何かがほどけていくのを感じた。
ライブの終わりに、卯月はスイートバレットのメンバーとファンたちを前にして、ふたつの宣言をした。
ひとつは、噂になっているソロデビューのオファーを受けるということ。ただし、スイートバレットは卒業しない。両立するのだという。
そしてもうひとつは。
「私が、みんなを武道館に連れていく!」
雨上がりの空に向かって、卯月は声を張った。
「だから、ファンのみんなも、のどかも、八重も、蘭子も、ほたるも、私を武道館に連れていってね!」
独特の言い回しに、のどかたちは思わず顔を見合わせる。
「どっちがどっちを連れてくのよ……」
「いいじゃん、づっきーらしくて」
そう突っ込み合いながらも、四人は自然と卯月を中心にして肩を寄せ合った。
ファンたちは歓声でその宣言を包み込む。
ペンライトの光が、波打つ海みたいに揺れていた。
そのあとで、卯月が空気を読まずに、「じゃあ、アンコール」と言い出したときには、さすがのどかたちもぽかんとしていたが、その“空気の読めなさ”を、誰よりもよく知っているスタッフがいたのかもしれない。
すぐに、会場のスピーカーから新しいイントロが流れ出した。
「最後に、新曲やりまーす!“スノウドロップ”!」
卯月の掛け声と共に、イントロが流れる。
>空を仰いでる
>転がった秒針と
>孤独に埋もれた部屋に響くインターホン
少しハスキーで、でも芯のある卯月の声が、夜の雨の残り香みたいに会場を満たしていく。
>このままじゃダメだとして
>でもこのままで居られるように
>止ることをやめないで
>開く
歌詞のひとつひとつが、さっきまでの卯月自身のことを語っているように聞こえた。
>伝えたい気持ちは僕に
>舌が無くてもこんなに伝わってる
舌がなくても。
夢を諦めかけていた卯月が、それでも歌にして届けようとしている感情。
>掴みたい幸せだって
>一瞬香った花のように枯れないもの
>探して 彷徨って 生きる
雨で濡れたステージの上で、五人のシルエットが光に浮かび上がる。
武道館なんて無理だ、と笑う自分と。それでも歌いたい、と泣きながら前に進む自分と。
その両方を抱えたまま、それでもみんな「スノウドロップ」を歌っていた。
>もう現実と空想で渋滞
>なんやかんや眠ったら安泰
>そうでもないような日もある あるんだよ
>この先あるのは可能性
>心配ご無用 未完成でもいけ
完璧じゃなくていい。未完成のままでも、今ここにある感情を歌にしてしまえばいい。
そんなメッセージを、卯月自身が一番強く受け取っているように見えた。
>伝えたい気持ちがあって
>今こうして書き綴ってみるけど
>掴みたいそれは君の心
>それだけ
君が誰なのか。
ファンたち全員のことかもしれないし、隣のメンバーたちかもしれない。
あるいは……
>伝えたい気持ちは僕に
>舌が無くてもこんなに伝わってる
それでも、ここで聞いている誰かの心には、きっと届いている。
>掴みたい幸せだって
>一瞬香った花のように枯れないもの
>探して 彷徨って 生きる
最後のフレーズを歌いきると同時に、卯月はマイクを胸元に降ろした。
その瞬間、さっきまでの雨が嘘みたいに、晴れ渡った会場に、歓声と拍手が埋め尽くす。
「ありがとう、八景島!」
卯月の声が響く。
何度も何度も頭を下げる五人の真ん中で、卯月は泣き笑いみたいな顔をしていた。
その顔を見て、俺はようやく確信する。
卯月は、ちゃんと自分の夢を歌えるようになったのだと。
十月二十四日
空が高い。どこまでも遠く澄んでいる。
青よりも白く、白よりも透明な空色。
金沢八景駅から大学の入口まで続く線路沿いの道。ばらばらと学生たちが歩いている。
雨と機材トラブルに見舞われた野外ライブの翌日。
昨日が日曜日であった以上、翌日の今日はどうしたって月曜日になる。
当然のことながら、大学では平常通りの授業が行われるのだ。
昨日、色々と大変だったことなど、大学の日程には関係がない。
並木道を歩いていると、前方に黒髪が揺れた。卯月だ。
「……卯月?」
名前を呼ぶと、影がくるりと振り返った。
「おはよー!きっしー!」
満面の笑顔だった。
昨日の、雨に押しつぶされそうな顔じゃない。声も、ちゃんと出ている。
その瞬間、胸の奥に張りつめていた何かが、ふっとほどける。
「……戻ったんだな」
「うん。今朝起きたら、勝手に治ってた。……ふしぎー!」
笑いながら、封筒をぶんぶん振る。
「でさ!じゃーん!」
元気よく突き出してきた封筒には、黒い文字でこう書いてあった。
『退学届』
「いやいやいやいやいやいや待て!!!」
完全に条件反射で叫んで、自分でもびっくりした。
卯月はというと、
「え、なんで止めるの? 昨日言ったじゃん。“夢を笑う私がいるからステージに立てない”って」
屈託なくそう言った。
思わず頭を抱えたくなる。
(……ああ、この感じ。完全に元のづっきーだ)
良くも悪くも、空気が読めていない。
でも、そのことが心の底から嬉しかった。
昨日までの、鋭い棘みたいな良い子のづっきーじゃない。
ちゃんと、いつもの卯月がそこにいた。
「退学届持って大学来るやつ、俺は初めて見たぞ」
「え、だって提出しに行くんだよ?今日はそのつもりできた!」
「いやいやいやいや、提出する前に話そうな!?ていうか、なんでそんな笑顔なんだよ!」
「んー?昨日きっしーがさ」
卯月は封筒を後ろ手に回しながら、小さく首を傾げた。
「“空気は読むんじゃなくて吸うんだろ、卯月”って言ったから」
「……あれで理解した結果が退学届なのか?」
「うんっ!」
即答だった。
ひとつも迷っていない。
(……やっぱり、この子はこうでなくちゃな)
呆れと安心が同時に胸を叩いてくる。
昨日の涙も、迷いも、全部なかったことみたいに。
いや、なくなったわけじゃない。乗り越えたからこそ、この顔で笑えるのだ。
「きっしー、どうしたらいいと思う?」
封筒を胸に抱えながら、卯月がまっすぐ聞いてくる。
空気を読まない、でも全部まっすぐな卯月の顔。
昨日のステージに戻ったことで、まるでゼロに戻ったみたいに見えるけど、実際には彼女だけが、ひと晩で一歩先へ進んでいた。
俺は小さく息を吸って、ほんの少しだけ笑った。
「ソロの仕事も、スイートバレットも続けるつもりなんだろ」
問いかけると、卯月はぱっと顔を明るくした。
「うん。私がみんなを武道館に連れていく!」
迷いのない声だった。
「だからさ、ソロで武道館に立つんじゃなくて、スイートバレットで武道館に立つの。……そのためにソロもがんばる、って感じ?」
「欲張りだな」
「だって全部欲しいもん」
胸に抱えた退学届の封筒を、ぽん、と指で叩きながら笑う。
「それにこの大学に来たのはさ、統計科学学部を選んだのはさ、メンバーのことをもっと知るためだったから」
「……メンバーのこと?」
「うん。どんなお仕事してるときに楽しそうとか、どんなときに落ち込むとか、ファンの人たちがどんな風に応援してくれてるのかとか。全部数字で見られたら、もっとみんなのこと支えられるかなって思って」
言いながら、ちょっとだけ照れくさそうに視線をそらす。
「ほんとはね、そんなに難しいこと考えてたわけじゃないけど……なんか面白そう!って思ったら、気づいたら出願してた」
「らしいな」
思わず苦笑いが漏れる。
その“らしさ”が、昨日までどれだけ恋しかったか。
「それに……」
卯月はふいに、こちらをまっすぐ見上げた。
「きっしーと同じ大学に行けて、ほんっとに楽しかった!ありがと!」
不意打ちの笑顔と、不意打ちの言葉。
胸の奥が、ぎゅっと熱くなる。
「……そういうの、急に言うなよ」
やっとそれだけ返すと、卯月は「えへへ」と笑って、退学届の封筒をぶんぶん振った。
「だからね、きっしー」
「……だから?」
「卯月が卯月らしくいてくれて、本当に良かったよ、とか言うんでしょ?」
先回りされて、思わず目を瞬かせる。
「……なんでわかるんだよ」
「だって、さっきからずっとそういう顔してるもん」
そう言ってから、卯月は少しだけ真顔になった。
「でも、そうやって言ってもらえたの、すごく嬉しかったんだよ。きっしーに“そのままでいていいよ”って言われたみたいで」
俺は、観念したみたいに息を吐く。
「卯月が卯月らしくいてくれて、本当に良かったよ」
ちゃんと、言葉にして届ける。
卯月は一瞬だけぽかんとして、それから頬をふくらませた。
「……もう、きっしーずるいよ」
小さく、でもはっきりとした抗議だった。
少しの沈黙。
風が、二人のあいだを抜けていく。
卯月は視線を落として、胸元の封筒を見つめた。
それから、何かを決めたみたいに、ぱんっと手のひらで封筒を叩く。
「やっぱり辞めた!」
「……何を?」
「退学するの!」
「おいおい、辞めるのは退学の方だよなそれ」
反射的に突っ込むと、卯月は「そうそう」と笑った。
「だって、きっしー……」
そこで、言葉が少しだけ詰まる。
喉の奥で何かを確かめてから、もう一度、丁寧に言い直した。
「……蓮真くんと、みんなと一緒にいたいから!」
初めて聞く、自分の名前。
耳じゃなくて、胸のど真ん中に落ちてくる感じがした。
「……今、なんて?」
思わず聞き返すと、卯月は顔を真っ赤にして、ぶんぶんと首を振る。
「なんでもないよ!聞き間違いだよ!」
「聞き間違いにしていいレベルじゃなかったけどな、今のは」
それでも、彼女の中でそれが“精一杯の本音”であることは、ちゃんと伝わっていた。
だから、俺も一つだけ、勝手なことを言わせてもらう。
「……じゃあさ」
「ん?」
「入学、おめでとう」
「えぇなんで!」
素っ頓狂な声が返ってくる。
「お前、入学式出てなかったろ?」
「あっ……そっか!」
ぽん、と自分の額を叩いて、卯月は笑った。
「じゃあ今ので、ちゃんと入学できたってこと?」
「俺の裁量がどこまであるのか知らないけどな。……まあ、いいんじゃないか」
「やったー!」
退学届の封筒を、卯月はその場でくるりと回して、トートバッグの奥底に突っ込んだ。
「よしっ。じゃあ、行ってきます!」
「どこにだよ。講義?」
「ううん、お仕事!」
「今日は午後から撮影なの! だから午前中だけでもきっしーに会えて良かった〜」
「そんなつもりで退学届持ってくるなよ……」
「これ持ってきたから、きっしーに止めてもらえたんだよ?結果オーライ!」
どこまでも前向きな理屈に、思わず肩の力が抜けた。
「じゃ、またね!きっしー!」
並木道を、卯月はいつもの勢いで駆けていく。
黒髪が朝の光を受けて揺れる。
その背中を見送りながら、ふと思う。
(……ああ、やっぱり)
空気なんて読まなくていい。
ただ、好きなものの方へ、思い切り吸い込まれていけばいい。
それが、俺にとっての広川卯月だ。
そして今日、ちゃんと、この大学の一年生・広川卯月として、もう一度ここに入学した子だった。
その時、また、足元の影がわずかにずれる。
風の音が一瞬、遠ざかり、世界の輪郭が薄くなった。
まるで、現実から半歩だけ離れた場所に自分が立っているような感覚。
振り返る。誰もいないはずの道の先で、何かが見えた気がした。
人の気配。でも、そこには誰の姿もない。
(……またか?)
いや、確かに“いる”。視線の端で、空気の層がゆらりと揺れた。
そして、すぐに消える。胸の奥に、説明できないざわめきだけが残った。
その時、ほんの一瞬、風の向こうから、小さな呟きが聞こえた気がした。
「君にはわたしが見えないのね……岸和田くん……」
振り返っても、そこにはやはり、誰もいなかった。
その頃、構内を抜けて正門に向かって歩いていた卯月は、その途中で聞き慣れた声を耳にした。咲太だ。
「づっきー、もう帰るのか?」
まだ一限の授業すら始まっていない時間だ。何をしに大学へ来たのか、理由は限られているはずだ。
「退学届を出しに来たんだ、学生課に」
「……」
突然の報告に、咲太は一瞬で固まった。
頭の中でタイガクトドケ → 退学届と変換されるまでに、明らかに数秒のラグがあった。
「……また、急だな」
ようやくそう絞り出したところで、
「え、あ、ちがっ、違うよ!? これ提出しないやつだから!」
慌てて両手を振る卯月。
咲太は、ほっとしたように、しかし呆れたように眉をゆるめた。
「提出しない退学届なのか?……まあ、らしいけどな」
肩をすくめながらも、その声には確かな安堵が混じっていた。
そして次の瞬間、咲太はふっと笑って、「……卒業、おめでとう」と、いろんな意味をこめて言った。
昨日までの空気を読める卯月に区切りをつけるみたいに。
皮肉でもなく、ただ優しく背中を押すみたいに。
卯月は目をぱちくりさせて、「卒業じゃないよ!今、入学し直したところだから!」と、顔を真っ赤にして否定していた。
「ちなみに、きっしーはね、“入学、おめでとう”って言ってくれたよ?」
「……あいつらしいな」
思わず苦笑いがこぼれる。
「お兄さんは“卒業おめでとう”、きっしーは“入学おめでとう”。どっちも合ってる感じがするから不思議」
「づっきーがそう思うなら、たぶんそれが正解なんだろ」
咲太が肩をすくめると、卯月は楽しそうに笑った。
「お兄さんとのウイットに富んだトークはやっぱ楽しいね〜」
「でも、岸和田との方が楽しいんだろ?」
そう言うと、卯月は一拍も置かずに、
「それはそう!」
と親指を立てた。
「じゃあ、行くね!」
卯月は正門の方へと駆け出した。
門の方から流れてくる学生たちが、走る卯月に気づく。
彼らは今日もイマドキの学生らしい似たような洋服を着て、髪型をして、女子はメイクをして、リュックを背負って、バッグを持って、同じような話題を話して、スマホを見て、イヤホンで流行りの音楽を聴いている。
なんら変わることはない。彼らの日常がここにはある。
そうした学生たちの視線や意識に、卯月は気づいていた。
気づいたけれど、気にして立ち止まったりはしなかった。
速度を緩めることなく、卯月が正門を駆け抜ける。
一歩、二歩、三歩と大学から出たところで、卯月は何かを思い出したように、急ブレーキをかけた。
その勢いのまま、咲太の方を振り向く。
「お兄さん、ばいばーい!」
飛び跳ねながら、「ばいばーい!ばいばーい!」と、大きく両手で手を振ってくる。
そこにいたのは、空気を読めない卯月だった。
でも、元に戻ったわけではない。ずっと空気を読めなかった昔の卯月とは違う。
空気を読めるようになって、周囲が自分を笑っていたことを卯月は知っている。自分の中にも、他人を笑い者にする感情があることを卯月は知っている。
だけど、そうした感情に、卯月がその場で気づくことはもうない。
今も、横を通り過ぎる学生たちの目が自分を笑っていても気づかない。「イタイやつ」とか、「朝からうるせえ」とか、心の中の嘲笑にも気づかない。
一生懸命手を振って、咲太の反応を楽しみに待っているだけだ。
だから、咲太は卯月に大きく手を振り返した。
近くを通る学生たちの視線は冷ややかだったけれど、気にはならなかった。
卯月が、「ばいばい!」と言って、満足そうに笑うんだから。その笑顔の方が、ずっと価値がある。
卯月が駅の方へ向けて再び走り出す。
迷いのないその姿が見えなくなるまで、咲太は見送った。
見えなくなっても、少しだけその場から動けなかった。
時間にして三秒程度。
横から、女性の声が聞こえた。
「あーあ、もったいない。せっかく、空気を読めるようにしてあげたのに」
いつの間にか、咲太の隣には二十歳くらいの女性が立っていた。
赤い服を着ている。ただの赤い服ではない。サンタクロースの格好だ。それも、黒いタイツをはいたミニスカサンタ。
目をぱちくりさせながら咲太が見ていると、その視線に彼女が気づいた。何かを確かめるように、咲太の周りをぐるりと一周する。その様子を、咲太は目で追った。
「驚いた。君には、わたしのこと見えてるんだ」
わざとらしく、口元に手を当てている。
かわいい顔で、かわい子ぶっている。
一限の授業がはじまる五分前。並木道を本校舎へ向かう学生たちが足早に通り過ぎていた。
それなのに、ミニスカサンタなのに、誰も二度見すらしない。
見て見ぬふりをしているという感じではなかった。
彼らには、彼女が見えていないのだ。
「さすがね、梓川くんは」
「………どちら様でしたっけ?」
今のところ、サンタクロースの知り合いはいない。
「安心して。会うのははじめてだから」
「不安しかないです」
向こうは咲太のことを知っているようだし、彼女は咲太にしか見えていないのだから。
安心できる要素がどこにもない。
「わたしのこと、知ってるはずよ」
「記憶にございません」
「そう?」
ミニスカサンタが、意地の悪い笑みを浮かべる。
「わたしはね、霧島透子って言うの」
それは、確かに咲太の“知っている名前”だった。
————————
どこからどこまでが 僕なんだ
ねぇ、教えてよ 誰かの声、耳の奥に響いて
26時、途切れない針の雨
耳の奥の残響、うつむく影
ずっとこのままで、朝など来ないで
夢現つな 胸の中の歌
身をゆだねていたいな
どこからどこまでが 僕なんだ
ねぇ、教えてよ 誰かの声、耳の奥に響いて
境界線は溶けて消えた ひとつに混ざった
みんなに僕はなる
いけないことなの、ねぇ
君がいれば 僕なんかいなくてもいい
言葉は刃だ、何も言いたくない
「ひとりにしてよ」と「認めてほしいよ」
伝える前に、この手繋いで
頷いて、やさしく
ここからここまでの 小さな世界
ねぇ、話してよ、誰か来て
鼓動うるさい
どこからどこまでが 僕なんだ
ねぇ、教えてよ 誰かの声、まだ響いている
呼吸をひそめて 今
漂ってゆく しじま
傷なんて透けてしまえば
ほらね? わからない
ここからどこまでも僕の世界
ねぇ、この歌を誰か聴いて
まだ眠らないで
境界線は溶けて消えた ひとつに混ざった
みんなに僕はなる
いけないことなの、ねぇ
もう離れないで
————————
次回
『青春ブタ野郎はサイレントナースの夢を見ない』
広川卯月
『さすが蓮真くん、ブタ野郎だね』
この章をもって、『青春ブタ野郎は望んだワンステージの夢を見ない』の物語は一区切りを迎えます。
時系列でいえば、『青春ブタ野郎は迷えるシンガーの夢を見ない』のお話しです。
今章の中心に置いたテーマは、「夢と現実の温度差」でした。
八景島の雨の中で卯月がこぼした冷めた自分と、それでもステージに戻りたいと足を前に出す自分。
この二つの感情が同居する痛みこそが、彼女の思春期症候群の核心だと思い、その揺らぎを丁寧に描きました。
また今回は、名前を呼ぶ、呼ばれるという瞬間に特にこだわりました。
雨の中での「卯月」呼び捨て。翌日の「蓮真くん」という初めての名前呼び。
この二つが揃ったとき、ようやく二人の関係が一歩前に進む。そのために長い時間をかけて積み重ねてきた感情を、この章ですべて解放しました。
また、もうひとつどうしても触れておきたかったのが、「空気」という言葉をめぐる、咲太・蓮真・卯月の三者の対比です。
原作において咲太は、卯月に対してこう言いました。
「今こそ空気を読めよ、づっきー」
これは、原作の流れの中で卯月が一歩成長した瞬間を象徴する台詞でした。
その言葉があったからこそ、蓮真編ではどうしても描きたかった対比があります。
蓮真は、まったく同じ卯月に対して、まったく逆方向の言葉を投げかけます。
「空気は読むんじゃなくて吸うんだろ、卯月」
これは“空気を読む・読まない”という問題ではなく、“好きなものの方へ吸い込まれていい”という肯定です。
原作で咲太が“空気を読む・読まない”と示した道を、蓮真は“吸うもの”とひっくり返す。
この正反対のアプローチは、二人の主人公性の違いを最もはっきり見せられる部分だと感じていました。
その上で、もうひとつ大切だったのが、この対比に先立って描いた、咲太から蓮真への言葉。
「空気を読むなよ、きっしー」
この一言は、蓮真というキャラクターを最もよく理解しているのが咲太だ、という関係性を示すための核でした。
蓮真は“空気を読みすぎて動けなくなる”タイプ。咲太は“空気が悪くなっても破って進む”タイプ。
そんなふたりが同じ場所に立つとき、「読むなよ」という咲太の一言が、蓮真にとっては前に出る勇気になる。
そしてその言葉を経たうえで、蓮真は卯月に対して読む・読まないを超えた答えを返す。
この三層の対比が揃ったとき、卯月が前に進む道筋が、ようやく一本につながりました。
そしてその対として、咲太の「卒業、おめでとう」と蓮真の「入学、おめでとう」という二つの言葉もおきました。
空気を読めるづっきーを卒業させる咲太と、空気を吸って好きな方へ走る卯月を迎え入れる蓮真。
同じ卯月の変化を、二人の主人公がまったく違う言葉で祝福する構図を描きたくて、章全体を組み立てました。
そしてラストで、ついに大学生編のキーパーソン、霧島透子が姿を表しました。彼女こそが、今後の大学生編へつながる存在です。
次章は、赤城郁実を主役とした、原作の大学生編『青春ブタ野郎はナイチンゲールの夢を見ない』と重なるストーリーです。
郁実の視点を通して描いていくのは、彼女自身の物語であると同時に、咲太と蓮真の主人公性の対極性を、もっとも鮮明に照らす部分でもあります。
咲太ならどう動くのか、蓮真だから選べるものは何なのかその二つの答えの違いが、郁実の物語を軸にして立ち上がっていきます。
また今後の物語は、蓮真が中学時代に経験した“ループ”の真相。「#夢見る」が動き出すまでのプロローグといった要素も、蓮真を交えて、原作大学生編と絡めながら描いていく予定です。
ワンステージ編が、夢の最初の一歩なら、サイレントナース編は、選ばなかった世界と向き合う一歩になる物語として描く予定です。
感想や考察など、一言でもいただけたら、次章を書くうえで大きな励みになります。
これからも、岸和田蓮真の視点が照らす青春に、どうぞお付き合いいただければ幸いです。
これまでのヒロインで好きなキャラを教えてください
-
豊浜のどか
-
広川卯月
-
桜島麻衣
-
双葉理央
-
古賀朋絵
-
梓川花楓
-
大津美凪
-
浜松夏帆
-
米山奈々
-
赤城郁実
-
牧之原翔子
-
吉和樹里
-
上里沙希
-
鹿野琴美