青春ブタ野郎はパラレルスプリングの夢を見ない 作:もドえラん
1.静かな決意は、夕暮れのなか色づく
十月二十七日
四限のチャイムが鳴り終わると、教室のざわつきが一気に廊下へ流れ出していった。
俺はノートパソコンを閉じ、肩をゆっくり回しながら席を立つ。
今日は三人とも別々の授業。
それぞれの教室から、時間差で合流する予定だった。
ことの発端は昨日。《きっしー観察会》というふざけた名前のグループチャットに、卯月が突然、「きっしー!明日、基礎ゼミの勉強教えて!」と送りつけてきたのがすべての始まりだった。
すると、のどかはすぐに、「そうだね、卯月もあたしも欠席したし、三人でやろうか」と返事していた。
卯月は仕事でゼミを二回欠席、のどかも一回欠席している。
二人とも不安そうではあったが、三人なら大丈夫、という空気が、あのチャットに流れていた。
と、そのとき。
「きっしーっ!」
廊下の奥から、妙に存在感のある人物が全力で手を振ってきた。
黒髪のストレートロングをいつもより低い位置でまとめ、
謎の変装アイテムみたいなサングラスをかけた少女。
「……いや、誰だよその格好」
思わず言ってしまった。
卯月は、スキップみたいな足取りで近づいてきながら胸を張る。
「えへへ、大学では目立たないように変装してきたの!」
「逆に目立ってるって……」
ツッコミが追いついてくるより早く、俺は吹き出してしまった。
サングラスのサイズが大きすぎて、顔の半分が隠れている。
しかも髪型はいつもと違うから、確かに雰囲気は変わってる……
「いやさ……そのサングラスの主張が強すぎる」
「えっ、ダメ?私的にはバレないモードなんだけど!」
そこへ、少し遅れてのどかが到着する。
のどかは卯月を見た瞬間、数秒フリーズしてから、ふっと吹き出した。
「……卯月、それは逆に目立つやつだよ」
「なんでーっ!?」
本気で不服そうに頬をふくらませている。
のどかも俺もまた笑った。
「なんでそんなに元気なんだよ。四限まであったんだろ」
「だって〜!三人そろったの久しぶりだもん!」
卯月は、俺の疲れものどかのペースも全く関係なく、いつものテンションで笑う。
この空気読めない明るさが、むしろありがたい。
のどかはノートをバッグにしまいながら、静かに微笑む。
「……なんか、安心した。元気でよかった」
「えっ、私元気じゃなかった?」
「そりゃ、いろいろとね」
のどかの含みのある言い方に、卯月は首をかしげるだけ。
そのズレが、なんだか懐かしかった。
「じゃ、行こ行こ!今日の勉強会!」
卯月は勢いよく俺の腕を引っ張る。
のどかは苦笑しながら、その背中を見て言った。
「……やっぱり、卯月って卯月だね」
「だな」
八景島の雨の中で泣きそうになっていた子と同じ人間とは思えないほど、今日の卯月は軽かった。
変装は変だけど、笑顔はちゃんと本物だった。
三人は並んで歩き、学術情報センターへと向かった。
まるで、また元の“いつもの三人”に戻れたみたいに。
学術情報センターの奥のスペースは、今日も静かだった。
人が少なく、三人で座っても誰の視線も気にならない。
卯月は椅子に座ると、勢いよくペットボトルを取り出した。
「卯月、それ緑茶か?」
「うん!なんか“学術”って感じするじゃん!」
その瞬間、のどかの手がぴたりと止まった。
(……今、“卯月”って)
いつもなら「づっきー」で呼んでいるはずの蓮真が、まるでそれが当たり前みたいな顔で名前を口にした。
胸の奥が、きゅっと鳴る。
(前から……そうだっけ? あたしの知らないところで、そうやって呼ぶようになってた?)
顔には出さない。出したくない。
だから、のどかはペンを握り直して、いつもの調子で笑った。
「……イメージの雑さが天元突破してるぞ」
(こういう空気読まないテンション……完全に卯月だな)
「じゃ、卯月。欠席した分の内容やるぞ」
「はーい!」
卯月は元気よく返事をしてペンを握るが……目線だけ俺からずれている。
(あ、これ完全にわかってないパターンだ)
説明を始めて数十秒
「きっしー、この相関関係と因果関係ってさ、アイスの売上と海難事故は関係ある!っていう例のやつ?」
「そう、それは因果じゃなくて相関な」
「じゃあさ!!きっしーが眠そうな日って、だいたい私のせいだよね!」
「それは深夜に送ってくる“今日の自撮り!”通知のせいだな」
「えっ!?やっぱり関係あったんだ……!」
満面の笑みなのが余計にズレてる。
のどかはペンをくるくる回しながら笑った。
「なんかさ……受験勉強のときに戻ったみたいだね」
「確かに」
俺がそう言うと、卯月は胸を張る。
「でしょ〜!?あのときの私、めっちゃ勉強してたもん!」
「卯月、あのとき“めっちゃ勉強してた”って言えるほど机に向かってた?」
「向かってたよのどか!?」
そんな空気のまま、三人でテキストを広げていく。
卯月は理解すると「わかったぁぁぁ!!」と声が大きすぎて、
「声! 声ちいさくして!」
のどかが慌てて押さえる。
でもその賑やかさが、妙に心地よかった。
卯月の明るさも、のどかの優しさも、全部、三人でいる時の“空気”だった。
しばらく勉強したあと、のどかが思い出したように言った。
「そうだ蓮真。来週の学祭……スイートバレットのライブやるんだよ」
「へぇ凱旋ライブか、すげぇな」
「だから……はい、これ」
のどかがチケットの入った封筒を差し出す。
「いいのか?」
「もちろん。大学のライブなんてそうないしね」
「ありがとな」
卯月も「あっ!お兄さんと麻衣さんにも渡さなきゃ!」とテンションが上がる。
「卯月、二人にちゃんと言っといてね」
「うんっ!」
のどかがお姉ちゃんモードで優しく笑う。
そして、俺も思い出したように口を開いた。
「そういえば卯月、無理なお願いなんだけどさ……後輩の合格祝いにイヤホンプレゼントしたいんだけど、余ってるやつとか……あったりしないよな?」
「あ、あるよ! 全色もらったから好きなのあげる!」
「マジで助かる、ありがとう」
のどかが首をかしげた。
「後輩って誰?」
「古賀だよ。指定校推薦で合格しそうだからな」
「ああ……古賀さんか。なるほどね」
のどかは意味深に笑った。
一方で卯月は。
「古賀さんって……えっと……会ったこと……あったっけ……?」
指先をこめかみに当てながら、本気で思い出そうとしている。
(いや卯月、お前は古賀に一度も会ったことないぞ……いくら探してもそのフォルダは空だ……)
俺の心のツッコミなど知らないまま、卯月は「うーん……」と首をかしげ続ける。
のどかがクスクス笑いながら、
「卯月、多分その人蓮真の“バイト先の後輩さん”だよ」
「えっ!?そっか、だから知らなかったんだ!」
やっと理解して、ぱあっと顔が明るくなる。
(理解した瞬間の反応だけは天才なんだよな……)
三人で笑いながら勉強を続けた。
ほんのひととき。
複雑な感情も、仕事の不安も、全部忘れて、ただ大学生の三人に戻れる時間だった。
三人でノートを広げながら、しばらく問題を解いていると、
「きっしー!ここもう一回説明して!」
卯月が椅子ごと滑ってきて、俺の隣にぴったり寄ってくる。
距離が、近い。
ペン先が触れるくらいの勢いで、俺のノートに顔を寄せて覗きこむ。
「ほら、ここは条件分岐だから……」
俺が説明を始めると、卯月は「へぇ〜!!」と素直に顔を輝かせた。
その顔が、やけに近い。
のどかも同じ問題を解いていたが、手が止まっていた。
その視線はノートの紙面に落ちているのに、意識がまったく別のところにあるのが分かった。
(……のどか?)
少し心配になって声をかけようとした瞬間、
「きっしーの説明、すっごい分かりやすい!」
卯月が無防備に笑って、俺の腕を軽くつついた。
その距離感の近さに、のどかの肩がほんのわずか揺れた。
そんな小さな揺れに気づくのは、多分俺だけだ。
のどかはすぐに微笑みに戻ったけれど、その笑顔はさっきの“受験勉強のときみたいだね”のときより、少しだけ硬い。
「……よかったね、卯月。蓮真の教え方が合ってて」
「うん!きっしーはねぇ、なんか分かるんだよ!魔法みたい!」
「魔法……ねぇ」
のどかは小さく息を吐いた。
微笑んでいるのに、ほんの一瞬だけ、その瞳に影が走った。
(……のどか)
卯月の素直さ、その無自覚な近さや言葉が、親友として支えてきたのどかを、無意識に傷つけることがある。
そのことを、卯月は気づいていない。
そしてその痛みを、のどかは声に出さない。
のどかはノートに視線を落とし、
「……ほんと、卯月は、特別なんだよね」
誰にも届かないくらいの小さな声でつぶやいた。
でも、その言葉だけは、なぜか胸に刺さった。
俺が気づいたことを悟られないように、のどかはすぐに顔を上げて、いつもの優しい笑顔に戻る。
「よし。じゃあ、あたしも次の問題やろ」
その声は明るくても、ページをめくる指先がほんの少し震えていた。
三人の空気が、少しずつ変わり始めている。
その“温度差”に気づいたのは、このときが初めてだった。
学術情報センターを出ると、夕方の風がキャンパスを抜けていった。
いつもの並木道。学生たちがまばらに行き交う時間帯だ。
「ひゃぁーー疲れたぁ!きっしー教え方うまい!のどかもありがと!」
卯月は両手をぐいっと伸ばし、スキップの一歩手前みたいなノリで歩いている。
のどかは横で「卯月は声が大きいんだよ」と苦笑しつつ、でもどこか優しい。
そんなとき。
「……あ、岸和田くん。お疲れ様」
前方でチラシを抱えていた女の子が、軽く手を上げた。
赤城郁実だ。
「赤城、今日もチラシ配ってたんだな」
「うん、まあね。夕方のほうが受け取ってもらいやすいから」
彼女は控えめに笑う。
卯月がその横顔をまじまじと見つめて、俺の袖を引っ張った。
「きっしー、この人知り合い?」
「ああ。俺が手伝ってるボランティア団体の仲間でさ」
「あっ!この間チラシ配ってた人だ!」
卯月はパァッと表情を明るくすると、勢いよく一歩前に出て、「はじめましてっ!広川卯月です!!」と言いながら、両手で赤城の手をがっつり掴んで上下にぶんぶん揺らした。
「えっ、あ、は、初めまして……赤城郁実、です……」
シェイクの勢いで、赤城の頭まで揺れている。
「卯月、ちょっと……揺れすぎ……!」
横でのどかが慌てて止めようとするが、卯月は完全に素のテンションだった。
やっと解放された赤城は、小さく息を整えてから、俺を見る。
「……えっと、岸和田くんの……彼女?」
「いや違うぞ?」
即答すると、なぜか赤城は「そっか」と少しだけ眉を緩めた。
そこへ、のどかが一歩前へ出る。
「卯月はあたしと蓮真の友だちだよ、赤城さん」
言い方は柔らかいけど、その声にはほんの少しだけ芯があった。
その一瞬の空気の揺らぎを、俺だけが感じる。
赤城は「なるほど……」と小さく頷き、のどかに向けて微笑んだ。
のどかも微笑み返す、いつもの完璧な笑顔で。
その完璧さが、今は逆に胸に引っかかった。
赤城はチラシを抱え直し、ふっと俺の方を見て言った。
「そういえばさ、岸和田くん。明後日って何か用事ある?」
「いや、特にはないけど」
「明後日、スチューデントオフィスでいつもの中学生たちに沙希と一緒に勉強教える予定なんだけど、できれば、マンツーマンで見てあげたくて。もし都合つくなら、手伝ってくれないかな?」
一瞬迷ったが、すぐに頷いた。
「ああ、いいよ。先週行けなかったしな」
「……助かる。ありがとう」
赤城の声はどこかほっとしていた。
卯月は「えーいいな!ボランティア!」と無邪気に言い、のどかはその横で「……蓮真、ほんとすごいよ」と小さく呟いた。
赤城はチラシを胸に抱え直し、俺へ向けて言う。
「じゃあ明後日、十二時に大学の中庭で待ってるね」
「了解」
軽く返すと、赤城は静かに微笑んで歩き出した。
背中に夕方の光が差して、気づけば三人ともその姿を無言で見送っていた。
赤城はチラシを抱えたまま、夕焼けを背に小さく会釈して歩き出した。
三人の視線が届かなくなる、並木道の角を曲がったところで、ふっと、歩幅を緩める。
そして、誰にも届かない声でつぶやいた。
「……もっと近くにいられたら……良かったのかなぁ」
胸の奥に、少しだけ痛い記憶が滲む。
転校してきたばかりの男の子がいた。
教室の空気に馴染めず、静かにノートをめくっていたあの横顔。
誰に話しかけるでもなく、必要最低限の言葉だけ置いて、すぐ黙ってしまう少年。
岸和田蓮真。
教科書をまだ持っていなかった彼に、私が最初に「これ、貸そっかと」声をかけた。
それが、彼と私の始まりだった。
生徒会書記だった自分は、いつも仕事に追われていて、プリントの整理や原稿の写しを、何度も彼に手伝ってもらった。
「赤城、これ、順番合ってる?」
気づけば、誰よりも頼ってしまっていた。
気づけば、誰よりも目で追ってしまっていた。
でも彼は、見返りを求めず、ただ淡々と作業をこなしてくれるだけで、それ以上の関係に踏み込めずに、時だけが過ぎていった。
この“世界”では、同じ大学に入って、同じボランティアで、仲間って呼べる距離まで来れたのに。
そのすぐ隣で、別の女の子の名前を、あのときよりずっと自然に呼んでいる。
(……そっか。今は、あの子たちの岸和田くんなんだ)
彼は今日、無邪気な女の子と楽しそうに笑っていた。
親しげで、距離が近くて、呼び方だって特別で。あの頃の自分が一度ももらえなかったものを、今あの子たちは全部持っている。
「……でも、仕方ないか」
夕暮れの中、私はふと、胸の奥がざわつくのを感じた。
無邪気に笑って話す広川卯月。
その隣で、さりげなく見守っている豊浜のどか。
夕焼けの中に立つ三人が、ひどく眩しく見えた。
(……救えたんだよね。岸和田くんは)
転校してきたばかりで誰とも話さず、静かに座っていた男の子。
あの日、最初に声をかけたのは自分だった。
岸和田くんは特別扱いを嫌うタイプだったけれど、生徒会の原稿写しやプリント整理を頼むと、文句を言わずに淡々とこなしてくれた。
あのとき、自分は“誰かを救えていた”気がする。でも……
(……梓川くんのことは、救えなかった)
胸の奥がじわりと痛くなる。
中学三年の夏。
梓川咲太の妹・梓川花楓が、SNSでいじめを受けた。
ストレスで身体に直接、傷や痣が浮かぶという異常。
思春期症候群と呼ばれたその現象を、彼は必死に訴えた。
「思春期症候群は本当にあるんだ!」
けれど、教師も、クラスメイトも、誰一人として信じなかった。
梓川くんは「変なことを言うやつ」として扱われ、クラスから孤立し、学校からも浮いた。
私は、毎日、廊下ですれ違うたび思った。
(助けなきゃ)
(声をかけなきゃ)
(あんな顔で歩いてるの、見ていられない)
でも結局、一度も踏み込めなかった。
(……あれが、私の後悔なんだ)
救えなかった初めての人。
声をかける勇気が出なかった相手。
だからこそ、思う。
(岸和田くんが今、私の手の届く場所にいてくれる……それが嬉しいんだ)
救えなかった未来を、一つだけ取り返せているみたいで。
それが、この“世界”での私の“居場所”になっていた。
私はチラシを抱え直しながら、ふいに立ち止まった。
胸の奥で、ひとつの考えが膨らんでくる。
(……梓川くんのこと、今なら変えられるのかな)
誰も信じてくれなかった“あの時”を、まるごとやり直すことはできない。
でも。今、梓川くんは普通に大学に通い、岸和田くんも隣で歩いてくれている。
なら、中学のクラスメイトをもう一度集めて、あの頃の誤解を解き、思春期症候群の真実を伝えられたら。
「……同窓会、やろうかな」
口にした瞬間、心が大きく揺れた。
後悔を終わらせるための第一歩。
救えなかった少年のために。
過ちを認めないまま大人になった同級生たちのために。
そして、救えた少年・岸和田蓮真の隣を、胸を張って歩くために。
私は、静かに、大きく息を吸った。
そして決めた。
中学三年のクラス、全員に声をかける。あの夏の続きを、終わらせるために。
その日の夜。
風呂上がりにベッドへ沈み込み、スマホを開く。
画面をスクロールしていると、ずっと気にしていた通知が一つだけ残っていた。
双葉からの未返信LINEだ。
《日曜日、梓川と国見とお茶する予定なんだけど、岸和田もくる?国見が会いたいって言ってた》
本当は、一週間くらい前にも同じ誘いをもらっていた。
けれど
(……卯月の件で、ずっとバタバタしてたからな)
卯月の思春期症候群による異変。
気づけば、そのことで頭がいっぱいになっていて、双葉に返す余裕がほとんどなかった。
スマホを握り直し、遅くなったことを心の中で詫びながら、返信を打つ。
《ああ、行くよ。返事遅れて悪かった》
数秒で既読がつき、双葉からすぐに返ってきた。
《気にしないで。広川卯月のことで、いろいろあったでしょ》
(……やっぱり双葉、気づいてたか)
的確すぎる洞察に、苦笑が漏れる。
続けて、もう一通。
《国見に伝えておくね。それと日曜日だけどどうせ梓川と塾バイトで同じスケジュールだし、そのまま塾に直行することになると思う》
《了解》
短いやりとりが終わり、画面が暗くなる。
天井をぼんやり眺めながら、深く呼吸を整える。
天井を見上げながら、俺は小さく息を吐いた。
十月二十八日
三限の中国語の教室は、眠気とおしゃべりが半々くらいの空気で満ちていた。
本校舎の一角。後ろの列で、俺は教科書を開きながら、隣の福山のノートをちらっと覗く。
(……相変わらず漢字の字面だけで戦ってるな、こいつ)
前の方では、小谷先輩がいつもの調子で発音練習を仕切っていた。
「じゃあ次、ここ。福山くん、読んでみて?」
「えっ、俺っすか。えーっと……」
微妙なトーンで中国語らしきものを発音し、教室のあちこちから笑いが漏れる。
チャイムが鳴り、授業が終わったあと。
「はぁぁー、今日も発音むずかった……」
福山が大きく伸びをしながら、前にいる小谷先輩に向かって歩いていく。
「小谷さん、小谷さん。例のやつ、マジで頼みますよ」
「例のやつ?」
俺がノートをしまいながら聞き返すと、福山はニヤニヤしながら振り向いた。
「合コンだよ、合コン。大学といえば合コン。俺はね、高校の時からずっと言ってきたわけ。“大学入ったら合コン行きてぇ”って」
「お前、目標がブレてないのはある意味すげぇな」
俺が半分呆れ気味に答えると、小谷先輩が肩をすくめて笑った。
「はいはい。そんな福山くんの執念に負けて、ちゃんとセッティングしたよ」
そう言って、スマホを軽く掲げる。
「来週の月曜日。俺が幹事で、場所は桜木町駅東口の創作和食。個室予約してあるから、ゆっくり話せると思うよ。看護学科の女子三人だから、感謝してね、福山くん」
「マジっすか!?小谷さん、愛してます!!」
福山が大げさに拝んでいる。
(看護学科三人……また濃いとこから連れてきたな、この人)
そう思っていたら、福山が当然のようにこっちを指さした。
「で、男側は俺と、小谷さんの友だちと……岸和田、お前も来いよ」
「は?」
「三対三だしさ。バランス大事じゃん?」
軽いノリで言うが、完全に既定路線みたいな顔だ。
「いや、俺そういうのは……」
反射的に断ろうとしたところで、小谷先輩が口を挟んだ。
「いいじゃん岸和田くん。一回くらい経験しときなよ。社会勉強、社会勉強」
軽い調子だけど、視線はどこか試すようだった。
ふと、数ヶ月前のことを思い出す。
ソーシャル・エコロジー・サークルに誘われていたが、赤城のボランティア団体の立ち上げのために結局断ったときの、小谷先輩の「そっかぁ、残念だなぁ」という笑顔。
あのときの、ほんの少しだけ申し訳なさを含んだ記憶が、胸の隅で顔を出す。
(……まぁ、合コン一回行ったところで、人生終わるわけじゃないしな)
自分に言い訳しながら、俺は小さく息を吐いた。
「……分かりました。一回だけですよ」
「よっしゃー!これで男三人確保!」
福山が両手を上げてガッツポーズをする。
「岸和田、ナースだぞ。ナース!もっとテンション上げてこ!男の大学生活のハイライトだぞ!」
「おいおい気が早いって……」
俺が肩を押さえながら苦笑すると、福山はわざとらしく目を細め、ニヤリとした。
「……まさかだけどさ。豊浜さんと広川さんが大学にいるから、合コンは別に行かなくていいって感じ?」
「なんでそうなる……」
即答したが、福山はまったく聞いていない。
「いや〜、俺は気づいてるぞ?岸和田。大学内に二人も可愛い子がいるし仲良いから、外に出なくていい理論ね」
「そんな理論ねぇよ。……まぁでも、経験としては興味あるから……行くとは言っただろ」
言うと、福山は大げさにため息をついて、肩を揺らす。
「ほら見ろ!モテ男は余裕が違うんだよなぁ……」
「いや、なんて返事すれば正解なんだよ……」
「沈黙こそモテの証拠なのかもしれないな」
「勝手に分析するな」
言いながらも、どう言えばいいのか本当に分からない。
のどかと卯月の名前を出されると、否定するほど余計に怪しまれるし、肯定したらもっと面倒くさい。
(……あいつらといる時間が楽しいのは事実だけど)
口に出すわけにはいかないので、俺はただ歩く速度を少し早めた。
が、福山は全力でついてくる。
「とにかく、桜木町の月曜は覚悟しとけよ岸和田!看護学科は……いいぞ!」
「知らんって……」
「小谷さんが幹事だし、絶対成功するからな!」
(いや成功ってなんだよ……)
心の中で突っ込みながらも、少しだけ楽しみになっている自分に気づく。
でもその隣では、福山が鼻歌まじりに歩きながら俺に尋ねる。
「……でさ、岸和田。もし豊浜さんとか広川さんに“どこ行くの〜?”って聞かれたらどうすんの?」
「いや、言わねぇよ二人は……多分」
「言うぞ。あの二人は言う。絶対聞く」
「……マジで余計なフラグ立てんなよ」
桜木町の月曜。
いろいろ動きそうな夜が、ゆっくり迫ってきている気がした。
十月二十九日
昼下がりの大学の中庭。
銀杏の葉がひらひらと舞い落ちる中、赤城は一本の木の根元に静かに腰を下ろしていた。
膝の上には分厚いノートとプリント。
風に揺れる髪をそっと指で抑えながら、丁寧にページをめくっている。
落ち着いた色のカーディガン、膝を揃えて本を読む、控えめな姿勢、少しだけ伏せ目がちの表情。
その目元には、昨夜考えすぎたせいか、ほんのわずかな疲れもにじんでいる。
でも、ページをめくるその手つきは優しくて、赤城の、“誰かを救いたい”という芯の強さが滲んでいた。
風が吹くたび、黄色い葉が一枚、彼女の肩のあたりに落ちる。
赤城はそれに気づくと、そっと指でつまんで膝の上へ置いていた。
そして、俺が近づくと気づいた赤城は、そっと顔を上げて、穏やかな微笑みを浮かべた。
「岸和田くん……来てくれて、ありがとう」
中庭で待ち合わせた赤城と合流すると、すぐに上里も走ってきた。
「岸和田くん、今日もよろしく」
「よろしく、上里さん」
今日教えるのは、定期的に見ている中学生たちだ。
数学の文章題で詰まって泣きそうになっていた子がいたので、俺と上里でそれぞれ担当を分けて見ることになった。
「ほら、ここで情報を書き出すんだ。いきなり式にしようとするな」
「……あっ、わかった!」
子どもの顔がぱっと明るくなる瞬間、赤城が嬉しそうにこちらを見て頷いた。
(……ほんと、こういう場では赤城は先生みたいだよな)
そんなことを思いながら、短い二時間が終わった。
二時間の学習支援が終わり、子どもたちが帰り支度を始めたころだった。
「郁実先生、蓮真先生、沙希先生!」
元気よく手を振りながら、三人の中学生が駆けてくる。
「どうしたの?」と赤城が笑って少ししゃがむと、そのうちの一人が恥ずかしそうに口を開いた。
「えっと、あの……あさって、ハロウィンのイベントがあって……」
言いづらそうにしながら続ける。
「一緒に来てくれたら嬉しいなって……その……みんなで言ってて……」
赤城は、柔らかく目を細めていた。
「いいの? 私たち、ただの大学生のお姉さんだよ?」
「うん! いつもお世話になってるし……先生みたいで……」
照れながら言う子どもたちの言葉が、赤城の胸にまっすぐ届いたのは、俺でもわかった。
赤城はそっと微笑む。
「ありがとう。気持ちが嬉しい」
その声はすでに、行くつもりの人間のそれだった。
次に子どもたちが俺と上里に視線を向ける。
「蓮真先生も、沙希先生も……よかったら……」
「ごめん。あさって合コンあるんだ」
「ごめんね。私も……その日ちょうど合コン誘われちゃって」
(……上里も合コン行くんだな)
上里は彼氏の国見がいる以上、恋愛ごとに関しては、完全な部外者に見えていたけど、普通に行くんだと気づく。
子どもたちは少し残念そうに肩を落としたが、すぐに「じゃあ郁実先生と行く!」と切り替えた。
赤城は一瞬だけ戸惑ったあと、小さく息を整えて頷いた。
「うん。行くよ。楽しみにしてるね」
その言葉は確かに優しかった。
子どもたちが帰り、一緒に金沢八景駅に向かう中、上里が大きく伸びをしながら言う。
「いやー今日も疲れた〜」
赤城は片づけながら、俺たちに軽く会釈した。
「二人とも、ほんとありがとう。助かった」
「いいって。それより赤城、帰りどうすんだ?」
「私は……ちょっと逗子に寄り道してから帰るから。二人は先に帰って」
この間も赤城は、同じように方向を変えて帰った。
今日は、京急の逗子・葉山方面へ行くつもりだ。
いつもなら、俺と赤城と上里、三人とも自然に横浜方面行きのホームに並ぶ。だが今日は。
「じゃ、二人ともまたね」
赤城は迷いなく、逆方向のホームへ歩いていった。
彼女が向かった先は“逗子・葉山行き”。
(……またか)
上里も眉をひそめていた。
「ねぇ、郁実って家こっちだっけ?」
「いや、全然違うぞ」
「だよね? なんか最近様子変じゃない……?」
赤城の背中は、夕暮れのホームに小さく消えていった。
電車が来て、俺たちは無言のまま乗り込んだ。
二人きりになると、驚くほど話題がない。
車窓に映る街の灯りだけが時間を埋めていく。
沈黙が続いたあと、ふと思い出して口を開いた。
「明日、国見と会うんだよ」
上里はぱちりと目を開く。
「へぇ……佑真、ますます逞しくなったんだから、楽しみにしてて?」
「上里さん惚気か?」
「ち、違うわよ!!」
車内に反射する声が少し照れていた。
数秒後、上里はハッとしたように俺を見た。
「……もしかして、梓川くんと双葉さんも一緒?」
「まぁ、そうだけど」
すると上里は急に真剣な声になった。
「岸和田くん。私が“同じ大学”に通ってること、梓川くんには言わないでよ」
「分かってるよ。上里さん、仲悪いからな」
「……そういうこと」
上里は小さく息を吐いたあと、窓に視線を戻した。
「まぁ、楽しんできて。佑真、岸和田くんと会えるの喜ぶよ」
俺は軽く頷きながら、流れていく夜景を見つめた。
電車は進む。
明日から、何が起きるのかなんて分からないまま。
登場人物紹介
名前 赤城郁実『あかぎいくみ』
身長 160cm
誕生日 8月11日
横浜市内の中学校出身で、岸和田蓮真とは中学二年生のときに、梓川咲太とは中学三年生のときにそれぞれ同じクラスだった少女。
大学進学後は、学内で立ち上がった不登校児童の学習支援ボランティア団体を発足し、静かに活動を続けています。
落ち着いた口調と控えめな態度が印象的で、必要以上に自己主張をしないタイプ。ボブカットの整った髪と、感情をあまり顔に出さない穏やかな表情が特徴で、周囲からは真面目で堅実、責任感が強いと評されています。
中学時代、生徒会書記を務めていた彼女は、転校直後でまだ教室に馴染めていなかった蓮真に最初に声をかけた人物でもあり、原稿の写しやプリント整理を手伝ってもらう中で、自然と彼を信頼するようになります。
蓮真に対してかつて淡い初恋心を抱いていましたが、いまはその感情は静かに手放しており、互いを支え合えるボランティア仲間として距離を保ちながら関係を続けています。
一方で、中学三年生の時期に花楓の思春期症候群を巡る騒動で孤立していった咲太に対し、何もできなかったという後悔を抱え続けています。
救えなかった相手を思い出すたび、彼女の胸が痛むのは、当時ただ一言の声をかけられなかった自身の弱さを忘れられないからです。
郁実がいま学習支援に力を入れている背景には、責任感の強さだけでなく、「誰かの力になりたい」、「過去の後悔を二度と繰り返したくない」
という静かな意志が存在しています。
しかし同時に、蓮真が常にそばで支え続けてくれる状況は、彼女の心の奥底にある“逃げたい”という願望を満たし続けてしまい、別の世界の自分と入れ替わるという思春期症候群を、逆に固定化させる原因にもなっています。
控えめで淡々としていながらも、内に確かな情と後悔を抱えて歩く。赤城郁実は、そんな静かな強さを秘めた少女といえます。
蓮真は最終的にどちらを選ぶと思いますか?
-
豊浜のどか
-
広川卯月