青春ブタ野郎はパラレルスプリングの夢を見ない   作:もドえラん

55 / 84
3.#夢見るの予兆は、静かな日常を染める

 

 十月三十一日

 

 「そ。岸和田くんの言う通り、全部本当。私、教室から見てたし」

 

 「遅れてすみません。看護学科の一年、上里沙希です」

 

 その名前が告げられた瞬間。

 

 テーブルの空気が、ほんのわずかに震えた。

 

 (……やっぱり、上里か)

 

 俺は内心で小さく息を呑む。

 

 咲太は、まだ驚愕の途中にいた。声も動きも、追いついていない。

 

 一昨日、中学生たちが赤城を誘ったとき、上里が言っていた合コンの存在。

 

 あれがこれだった。

 

 上里は涼しい顔で続ける。

 

 「そこにいる梓川くんと岸和田くんとは、高校の同級生です」

 

 その言葉に、テーブルが一斉にざわつく。

 

 梓川くん? 岸和田くん? 高校の?

 

 千春さんと明日香さんが目を丸くしている。

 

 俺は、咄嗟に口を開いた。

 

 「……上里さんが言ってた合コンって、これだったのか」

 

 上里は俺の言葉に、ほんの少しだけ肩をすくめて笑った。

 

 「うん。まさか一緒になるとは思わなかったけど。……運がいいのか悪いのかは、分かんないけどね」

 

 さらりと余計な含みを持たせる言い方。上里らしい軽さと、静かな本音の混ざった声。

 

 それを聞いていた咲太が、肘で俺を小突く。

 

 「……どういうことだよ、岸和田……」

 

 小声。でも、刺すような小声。

 

 (そりゃそうなるよな)

 

 俺はグラスを持つふりをして、視線をテーブルに落としながら返す。

 

 「……後で話すから」

 

 それだけ告げた。

 

 咲太は、明らかに納得していない目をしながらも、ひとまず頷くしかなかった。

 

 その間にも、上里はテーブルの空気を自然に自分のペースに乗せていく。

 

 まるでここが、最初から彼女の席だったみたいに。

 

 千春さんが、上里に興味津々で身を乗り出す。

 

 「沙希、梓川くんと知り合いだったの?」

 

 すぐに小谷先輩も加勢する。

 

 「てことは……桜島麻衣とも?」

 

 その質問に、咲太は“やめてくれ……”と言いたげに眉をひそめていた。

 

 咲太から見た上里は、癒しとは真逆の存在。“苦手な相手ベスト3”に入るレベルだ

 

 だからこそ、ここで再会するという予想外すぎる展開に、咲太は混乱していた。

 

 当の上里は、一拍おいて淡々と答える。

 

 「……まぁ、一応ね。高校で同じクラスだったから」

 

 その落ち着いた声が返ってくるたびに、テーブルの四人、福山、小谷先輩、千春さん、明日香さんは、合コン特有の面白がりのノリで反応してくる。

 

 「え、何その再会イベント!」

 

 「めちゃドラマじゃん!」

 

 「沙希、梓川くんに冷たくしてたタイプ?」

 

 「それ気になる~~!」

 

 咲太の顔は、すでに“地獄だ……”の表情だった。

 

 その後は当然のように、話題は「高校時代」に雪崩れ込み、俺も完全に巻き添えになった。

 

 質問攻めは、合コンが終わるその瞬間まで続いた。

 

 「校舎から海って見えたの?」

 

 「え、江ノ電通学!?青春すぎない?」

 

 「江の島も歩いて行けるのいいなぁ……」

 

 「てか桜島麻衣が通ってたってことはさ……すれ違ったりするの? 握手とかできるの?」

 

 興味津々の千春さんと明日香さんは、手をバシバシ叩きながら盛り上がる。

 

 そして、上里が“なんで黙ってたの?”攻撃を受ける番がきた。

 

 「沙希、なんで言わなかったの?そんな有名校!」

 

 「ほんとそれ!」

 

 上里は肩を竦め、申し訳程度に笑った。

 

 「べつに言う必要ないし……。聞かれても面倒だし」

 

 面倒。その一言で、だいたい全部説明がついた。

 

 峰ヶ原高校と聞けば、必ず麻衣先輩の話題になる。

 

 そこから先は、“会わせてよ”とか、“どんな子なの?”とか、“写真は!?”とか、そんな面倒な流れは火を見るよりも明らかだ。

 

 上里が黙っていた理由は、よく分かる。そして俺も。

 

 「ねぇ岸和田くん。梓川くんと仲良さそうだし……桜島麻衣とも知り合いなの?」

 

 「東京出身って言ってたよね?なんで峰ヶ原高校にしたの?」

 

 「もしかして芸能人に会いたかったとか?」

 

 「海の近くで青春したかったとか?」

 

 と、次々と質問責めにあった。

 

 答えるたび、次の質問が飛んでくる。

 

 まるで、情報聞き出し大会のようだった。

 

 咲太と俺が適当に濁しつつ答えても、女子たちは、じゃあさ、じゃあさ!と食い下がってくる。

 

 その賑やかな空気の中でも、上里だけはどこか落ち着いていて、俺と咲太の反応を時々ちらりと観察していた。

 

 (……やっぱり、上里は鋭い)

 

 そんな感想だけが、胸の奥に残った。

 

 店を出た瞬間、夜の空気が頬に触れた。

 

 ハロウィンの喧騒は少しだけ落ち着き、代わりに人の余韻みたいなざわめきが広場に漂っていた。

 

 「それじゃ、俺たちは二次会行くから」

 

 「じゃあな、梓川、岸和田!」

 

 福山が手を振り、四人は楽しげに歩いていった。

 

 上里も軽く手を振る。

 

 「お疲れ。またね」

 

 四人の背中が雑踏に消えた途端、上里はふっと息を吐き、俺たちの方を見た。

 

 「それじゃ、私、地下鉄だから」

 

 それだけ言うと、さっきまでの合コンの賑やかな空気から切り離されたみたいに、静かな足取りで、みなとみらい駅の方へと消えていった。

 

 上里が見えなくなった瞬間、咲太がすかさず肘で俺を突く。

 

 「……おい岸和田。どういうことだよ?」

 

 まあ、言われるよな。

 

 俺は少し肩を竦めて答えた。

 

 「……上里とは赤城のボランティアで時々一緒になるんだよ。今回の合コンはほんとに偶然……俺も上里も、まさか同じ場になるとは思わなくて」

 

 咲太は眉を上げる。

 

 「上里がボランティアってのは意外だな」

 

 「まぁな。でも……国見の助けになりたいっていうのも、あるんじゃないか?」

 

 「なるほどな……」

 

 咲太は納得したように頷いたあと、少しだけ刺す声で続けた。

 

 「でもさ。上里が同じ大学通ってること、言ってくれてもよかったじゃないか?」

 

 「咲太と上里、仲あんまり良くないだろ。言い出しにくいって……」

 

 咲太は小さくため息をつく。

 

 「まぁ、いいや。国見に文句言うから」

 

 「やめてやれよ」

 

 そんなやりとりをしながら、俺たちは桜木町駅へ向かって歩き始めた。

 

 街路樹の影が、オレンジ色の街灯でゆらゆら揺れている。

 

 「それで、岸和田」

 

 咲太が切り込んでくる。

 

 「さっきの赤城のことで、何か気になることあるんだろ?」

 

 「ああ」

 

 歩きながら答える。

 

 「最近赤城……#夢見るを見てたことがあるんだよ」

 

 咲太の足音が一瞬だけ止まった。

 

 「……そうなのか?」

 

 「そう。で、もう一つ」

 

 「?」

 

 「赤城、実家横浜市内だろ?なのに最近、ボランティア終わった後の帰り道……横須賀とか逗子とか、全然違う方面に行ってたんだ」

 

 咲太は静かに息を吸う。

 

 「それは……確かに怪しいな」

 

 「俺もそう思った。だから……」

 

 少しだけ声を落として続けた。

 

 「もしかしたら赤城は、#夢見るを信じて……困ってる誰かのところに行ってたんじゃないか?」

 

 咲太は小さく顎を上げる。

 

 「“正義の味方”……ってわけか」

 

 「そんなところだろうな」

 

 その時、俺のスマホが震えた。

 

 画面には“赤城郁実”の文字。

 

 (……このタイミングで)

 

 隣に咲太がいたので出ることができず、そのまま通知が消えていった。

 

 「豊浜か広川さんか?出なくてよかったのか?」

 

 「……あぁ……あとで折り返すよ」

 

 藤沢駅に到着したところで、俺と咲太は改札前で別れた。

 

 「じゃ、明日またな」

 

 「ああ。また」

 

 咲太が改札を抜けていく。静かな夜の風が、潮の匂いを連れてくる。

 

 その時、画面がふるふる震えた。

 

 《蓮真?合コン終わった?》

 

 《終わったよ》

 

 《ねぇねぇきっしー!お持ち帰りされなかった?》

 

 《されてねぇよ》

 

 《そういえば蓮真、明日って暇?》

 

 《たぶん空いてるけど、どうした?》

 

 《お姉ちゃんが頼みたいことがあるんだって》

 

 《麻衣先輩が?わかった。二限の英語で一緒だから、明日聞いてみるよ》

 

 スマホをポケットに戻す。

 

 今日一日、いろんなものが動いた。

 

 仮装した街、正夢の噂、赤城の影、上里の再会、そして明日、また新しい何かが動き出す気がしていた。

 

 家に着き、夜風だけが静かに部屋へ入り込んできた。

 

 シャワーを浴び、冷たい水を飲んでひと息ついてから、スマホを開いた。

 

 気になっていたことを、ようやく尋ねる。

 

 《さっきの電話、話したかったことって何?》

 

 送信した途端、既読がつく。返ってきた返信は、思ったより短く、そして慎重だった。

 

 《明日、二限が終わった後って時間ある?》

 

 続けて、もう一通。

 

 《スチューデントオフィスに来てもらえないかな?少し話したいことがあるの》

 

 今日、赤城は中学生たちとハロウィンに行き、俺と上里は合コンがあると断った。

 

 同じ場所にいたというのは偶然だが……#夢見るについてであることは確かだ。

 

 俺は短く返す。

 

 《大丈夫。行くよ》

 

 すぐに返ってきた。

 

 《ありがとう。……明日、よろしくね》

 

 その文は、いつもより少しだけ硬かった。

 

 部屋の明かりを落とし、ベッドに身を沈める。

 

 目を閉じると、今日の出来事が静かに流れていった。

 

 咲太と上里の再会、咲太との会話、#夢見る、そして……赤城のわざわざ電話をかけてきたという事実。

 

 (……明日、話を聞けば分かるか)

 

 そんなふうに思いながら、深く息を吸った。

 

 静かな夜が、少しずつ落ちていく。

 

 十一月一日

 

 二限の英語は、今日もEnglish onlyルールが厳格に敷かれていた。

 

 俺、麻衣先輩、美東さんの三人は、同じグループになっていた。

 

 今日のテーマは、「Your favorite song and why you love it.」

 

 それぞれ、好きな曲について英語で説明しないといけない。

 

 最初に話したのは麻衣先輩だった。

 

 「My favorite song is BABY! by Sweet Bullet.It’s cute, energetic, and… well, my sister is a member. I want to support her.」

 

 その言い方はあくまでクールで自然なのに、どこか誇らしげでもあった。

 

 美東さんがにやりと笑う。

 

 「Mai, you really care about your sister, don’t you?」

 

 麻衣先輩は軽く肩をすくめただけで、

 

 「Well… I just cheer for her in my own way.」

 

 と返した。

 

 次に順番が回ってきたのは俺だ。

 

 「My favorite song is Snowdrop by Sweet Bullet.」

 

 そう言うと、麻衣先輩の目が細くなる。

 

 「Snowdrop? Oh,Hasuma… didn’t you say you liked that ‘ultrasonic melody’ the other day?」

 

 俺は苦笑しながら英語で続けた。

 

 「I heard it at the live show last month… and I got hooked. The melody was beautiful. The lyrics were simple but warm.」

 

 すると二人とも、少しだけ目を見張る。

 

 美東さんが嬉しそうに笑う。

 

 麻衣先輩も、なんとなく納得したように微笑んだ。

 

 最後は美東さんの番だ。

 

 「My favorite song is Social World by Kirishima Toko.」

 

 教室にいた外国人講師が、「I like that song too.」と食いついてくる。

 

 美東さんは少しだけ視線を落とし、静かに言った。

 

 「Yes. Her songs always feel… true. Honest. They remind me of something important.」

 

 その言い方は、普段の柔らかい美東美織とは違っていた。

 

 まるで、胸の奥に触れる何かを隠しているみたいで。

 

 麻衣先輩は、意味深に微笑んで言う。

 

 「Miori liking Kirishima Toko’s songs… I think I kind of understand why.」

 

 美東さんも、そっと目を伏せながら答えた。

 

 「…Thank you, Mai-san.」

 

 その声は、不思議なほど静かで、どこか痛みを抱えているようだった。

 

 英語の授業が終わり、教室を出ようとしたところで、「蓮真くん、ちょっといい?」と、麻衣先輩が声をかけてきた。

 

 俺は肩掛けのバッグを持ち直しながら近づく。

 

 「麻衣先輩。昨日、のどかから聞いたんですけど……頼み事って何ですか?」

 

 麻衣先輩は小さく微笑んで、指を頬に当てる。

 

 「ええ、お願いしたいことがあってね。今日、咲太の家でカレーを作るの」

 

 「カレー……ですか」

 

 「ええ。のどかと花楓ちゃんと広川さんも手伝ってくれるんだけど……のどかも広川さんも、あまり料理は得意じゃないから」

 

 (……まぁ、想像はつく)

 

 麻衣先輩は、そこでひと呼吸おいてから続けた。

 

 「だから、蓮真くんにも手伝ってほしくて。蓮真くん、一人暮らしでしょ?料理できるわよね?」

 

 「えぇ、まぁ……それなりには。良いですけど……咲太には言ってあるんですか?」

 

 その瞬間、麻衣先輩がふわりと悪戯っぽく笑った。

 

 「言ってないわよ?」

 

 「え?」

 

 「咲太、驚かせてみようかなぁって思って。昨日、勝手に合コン行った仕返しにね」

 

 「はぁ……」

 

 麻衣先輩は優雅に息を吐きながら続けた。

 

 「だから蓮真くん、そのつもりで。頼りにしてるわ」

 

 「……分かりました。手伝います」

 

 麻衣先輩の顔がふっと柔らかくなる。

 

 「助かるわ。それと、買い出しも一緒にお願いしたいのだけど、いいかしら?」

 

 「もちろん大丈夫です。今日は授業は四限までなので」

 

 「よかった。私はこのあと補講があるから……藤沢駅に十七時でいいかしら?」

 

 「わかりました。藤沢駅、十七時ですね。よろしくお願いします」

 

 「ええ。気をつけて来てね、蓮真くん」

 

 そう言って麻衣先輩は軽く手を振り、廊下へ歩き出した。

 

 (……合コンの仕返しに、カレーで驚かせるってやっぱり麻衣先輩、強いな)

 

 そんなことを思いながら、俺も教室をあとにした。

 

 英語の教室を出たあと、三限までの空き時間を使って、俺はスチューデントオフィスへ向かった。

 

 キャンパスの真ん中を抜ける遊歩道は、昼休みの名残でまだ少しだけざわついていた。

 

 銀杏の葉が風に揺れて、ひらひらと足元に落ちてくる。

 

 YCUスクエアのドアをそっと開けると、いつもの事務的な空気と、エアコンの低い駆動音が迎えてきた。

 

 入口近くのカウンターでは、職員が数人、書類を仕分けている。

 

 その中にあるスチューデントオフィスの端っこに、赤城は座っていた。

 

 膝の上には、いつもの分厚いノート。

 

 机の上には、ボランティアのチラシ。

 

 俺が近づくと、赤城はすぐに気づいて、そっと立ち上がった。

 

 「……岸和田くん」

 

 いつもの落ち着いた声。でも、どこか硬い。

 

 小さく会釈を返してから、椅子を引く。

 

 座った瞬間、赤城の手元にあるノートの端に、ふと視線がいった。

 

 #夢見る

 

 その文字が、ノートの端に小さくメモされている。

 

 やっぱりな、と思った。

 

 「……#夢見るのこと、だろ?」

 

 先に口火を切ると、赤城は、わずかに目を見開いた。

 

 すぐに、気まずそうに笑う。

 

 「……うん。ごめん。黙ってて」

 

 俺は首を振った。

 

 「別に、それはいいよ。赤城は……多分、人の役に立ちたいと思ったんだろ」

 

 その一言に、赤城の指先が、ほんの少しだけきゅっと握られた。

 

 「……そう、かもしれない」

 

 視線を落としながら、赤城はかすかに頷く。

 

 「たださ」

 

 俺は続けた。

 

 「赤城って、この手のオカルトは信じないタイプだと思ってたけど」

 

 そう言うと、赤城は苦笑いを浮かべる。

 

 「私も、そう思ってたよ。自分のこと」

 

 ゆっくりと息を吐き、椅子に座り直す。

 

 その仕草に合わせて、ノートの端がめくれ、ハロウィンのかぼちゃの絵がちらりと覗いた。

 

 「……それで、岸和田くんに頼みがあって」

 

 赤城が、まっすぐこちらを見る。

 

 瞳の奥の色が、さっきまでよりも濃くなっていた。

 

 「何?」

 

 できるだけ、フラットな声で返す。赤城は、一拍置いてから言った。

 

 「#夢見るのこと……」

 

 言葉を選ぶように、ゆっくりと続ける。

 

 「私ひとりじゃ、防げないことがあって。……協力してほしいの」

 

 (……まさか、そう来るか)

 

 #夢見るを信じた上で、なおかつ、自分ひとりでは足りないと判断して、俺のところに来た。

 

 (赤城は、俺のことを“協力者”として見てるってことか)

 

 そう考えると、少しだけ合点がいく。

 

 昨日、俺が咲太と一緒に動いていたこと。そして、入学式の日わざわざ咲太に声をかけにいった理由。

 

 (赤城の本当の狙いを知れば……赤城の気持ちにも、少しだけ近づけるかもしれない)

 

 沈黙が、数秒だけ落ちた。

 

 その沈黙の重さに耐えかねたように、赤城が小さく付け足す。

 

 「もちろん、危ないことをさせるつもりはないよ。ただ……」

 

 言い淀んでから、絞り出すように。

 

 「見ていてほしいの。私が間違えそうになったとき、止めてくれる人が、どうしても必要で」

 

 (……なるほどな)

 

 それは、赤城なりの「助けて」の言い方だった。

 

 俺は息を吸い、椅子の背にもたれかかる。

 

 「……分かった。いいよ」

 

 短く、そう答えた。

 

 赤城の目が、大きく見開かれる。

 

 「……ほんとに?」

 

 「ほんとに。どうせ放っておいても、赤城の動きは気になるしな」

 

 半分は冗談、半分は本音。

 

 赤城は、安堵と緊張の入り混じった顔で、ゆっくりと息を吐いた。

 

 「……ありがとう、岸和田くん」

 

 言葉と一緒に、ほんのわずかに肩の力が抜ける。

 

 その変化を見て、改めて思う。

 

 (やっぱり赤城は、誰かを救いたい人なんだな)

 

 だからこそ、危なっかしい。

 

 だからこそ、放っておけない。

 

 「それで……具体的に、何をすればいい?」

 

 俺がそう切り出すと、赤城はノートを開き、スマホを取り出した。

 

 画面には、#夢見るのタイムライン。

 

 数日前のハロウィンの投稿、その下に並ぶ、新しい予知の断片たち。

 

 ここから先の話が、きっと本当の意味での「#夢見る」の始まりなんだろう。

 

 そんな予感だけが、妙に鮮明に胸に残った。

 

赤城はノートを閉じて、少しだけ表情を和らげる。

 

 「……うん、お願いがあるの、今日なんだけど」

 

 「今日?」

 

 聞き返すと、赤城はスマホの画面をこちらに向けた。

 

 そこには、タイムラインのひとつの投稿が固定されていた。

 

 {#夢見る新横浜駅で、おばあちゃんが階段から転げ落ちて大怪我する夢見た……嫌だなぁ……外れてほしい……}

 

 文字だけなのに、その嫌だなぁの部分だけ、妙に生々しく感じる。

 

 「……今日、岸和田くん、このあと時間ある?」

 

 赤城は画面を伏せながら尋ねてきた。

 

 「……できれば、私、その現場を見に行こうと思ってて」

 

 そう言いながらも、赤城の声はほんの少しだけ揺れていた。

 

 当たり前だ。誰かが怪我をするかもしれない場所に、わざわざ出向こうとしている。

 

 「岸和田くんも……手伝ってくれない?」

 

 一瞬、返事に詰まる。

 

 (……新横浜、か)

 

 頭の中で、今日の予定が反射的に並んだ。

 

 このあと三限・四限を受けて、そのあと藤沢で麻衣先輩と合流して、買い出し。夜は咲太の家でカレー作り。

 

 「……ごめん。俺、このあと用事があるんだ」

 

 正直にそう答えると、赤城は「そっか」と小さく笑った。

 

 責めるでもなく、残念がるでもなく。

 

 ただ、少しだけ肩を落とす。

 

 「ううん。こっちこそ、急に言ってごめんね」

 

 そう言ってから、赤城は一度スマホをしまいかけてまた、思い出したように取り出した。

 

 「ねぇ、岸和田くん」

 

 「ん?」

 

 「梓川くんって、三限終わったら……どこにいるか分かる?」

 

 「咲太?」

 

 不意に出てきた名前に、少しだけ目を瞬かせる。

 

 「たしか……あいつ、コンピューター実習で情報教育実習室のはずだよ。……何か、咲太に用事なのか?」

 

 赤城は、ほんの少しだけ躊躇してから、頷いた。

 

 「うん。……今度、中学の同窓会をやることになったらしくて。その案内状を、渡したくて」

 

 「中学の同窓会?」

 

 思わず聞き返してしまう。

 

 「俺にはそんな話、来てないけど」

 

 「あ……それはね」

 

 赤城は、申し訳なさそうに視線を落とす。

 

 「中学三年の時の、クラスの同窓会なの。だから……クラスが違った岸和田くんのところには、案内状いってないはずだよ」

 

 「ああ……なるほど」

 

 それなら筋は通る。

 

 「でもさ」

 

 俺は言う。

 

 「赤城、咲太は同窓会なんか来ないと思うぞ?」

 

 言いながら、自分でも少しだけ言葉を選ぶ。

 

 「分かってるだろ。咲太が中学の時、どんな扱いを受けてたか」

 

 その瞬間、赤城の指先がぴくりと動いた。

 

 「……うん。分かってる」

 

 短く、でも確かに。

 

 「でも……ああして昨日、話せたから。一応、案内状だけでも渡しておきたいの」

 

 その言い方は、とても慎重で、とても真っ直ぐだった。

 

 「……赤城がいいなら、それでいいけど」

 

 それ以上、否定する資格は俺にはない。

 

 赤城は「ありがとう」と小さく笑ってから、少しだけ真面目な顔になって言った。

 

 「それと……#夢見るのことは、梓川くんには言わないでね」

 

 「咲太なら、もう察してると思うけど。……なんで?」

 

 そう聞くと、赤城はほんの少しだけ視線を泳がせた。

 

 「梓川くんなら……必ず動きそうだから」

 

 即答だった。そして同時に。

 

 「それに……」

 

 そこで赤城は言葉を切った。

 

 「それに?」

 

 促してみるが、赤城は首を横に振る。

 

 「ううん。なんでもない。……とにかく、今回は内緒にしておいてほしい」

 

 その表情の中に、言葉にしきれない何かがかすかに滲んでいた。

 

 (……咲太には、頼りたくないってことか)

 

 そう考えた瞬間、妙に腑に落ちる。

 

 そう、私が彼に「口止め」した本当の理由。

 

 それは、岸和田くんには言えない。

 

 でも、心の奥底には、ずっと感じていることがある。

 

 中学・高校の頃。私は、誰かを助けたいなんて、そんな大層なことを考えていたわけじゃない。

 

 ただ、困っている子がいたら、見過ごせない。それだけだった。

 

 なのに、気づけば全部うまくいかなかった。

 

 手を伸ばせば届くと思っていたのに、届かなかった。

 

 誰一人、救えなかった。

 

 その一方で、梓川くんは。

 

 信じられないくらい傷ついていたはずなのに。

 

 教師にも、クラスにも、誰にも信じてもらえなかったのに。

 

 「変なことを言うやつ」と笑われて、浮いて、孤立して……

 

 それでも。彼は止まらなかった。

 

 自分が笑われるのを分かっていても、妹さんのいじめを訴え続けて、クラス全員が黙っている中でひとりだけ声を上げて。

 

 最後には放送室に立てこもって、妹さんを、梓川花楓を救った。

 

 私ができなくて、諦めてしまったことを、彼は全部やってのけた。

 

 だから、なのかもしれない。

 

 “正義の味方”みたいな役割は、いつの間にか梓川くんが背負うものになってしまった。

 

 私がやれなかった役を、彼がやっていた。

 

 だから今回は、私がやりたい。

 

 誰かを救う役を、“梓川くんじゃなくて、私が”。

 

 彼に知られたら、きっと動く。

 

 絶対に手伝うって言う。

 

 危険だって分かってても、止まらず突っ込む。

 

 それは分かってる。だからこそ、言えない。

 

 これは、私だけの戦いにしたい。

 

 ……だけど、本当は、ひとりじゃ怖い。

 

 間違えそうになったら、誰かに止めてほしい。引き戻してくれる人が、どうしても必要だった。

 

 その役目は、梓川くんじゃない。

 

 岸和田くん。

 

 中学の頃、誰も信じなかった梓川くんの異変に、“あの子だけは”気づいていた。

 

 放課後の教室で、昇降口で、廊下ですれ違うたびに。私も含めて、誰も寄り添わなかった彼に、そっと寄り添っていた。

 

 妹さんの件でも、岸和田くんは黙って手伝っていた。

 

 大声で叫ぶ役が梓川くんなら、そばで支える役が岸和田くんだった。

 

 だから、頼れると思った。

 

 他の誰でもない、岸和田くんに。

 

 あの頃、助けられなかった誰かを、今度こそ救うために。

 

 ……見ていてほしいと頼んだのは、そういう意味だから。

 

 「……了解。#夢見るのことは、俺からは言わないよ」

 

 そう言うと、赤城はほっとしたように微笑んだ。

 

 「ありがとう。本当に、助かるよ」

 

 スマホの画面が消え、ノートが閉じられる。

 

 「じゃあ、私は三限が終わったら……梓川くんを探しに行くね」

 

 「情報教育実習室でたぶん、あいつ、もっさりした顔でキーボード叩いてるよ」

 

 「……想像つくね」

 

 赤城が、少しだけ楽しそうに笑ったのを見て、俺もつられて肩の力が抜けた。

 

 スチューデントオフィスを出たあと、キャンパスの空は少しだけ曇りがかっていた。

 

 銀杏並木の向こうで、チャイムが鳴り始める。

 

 (#夢見る、お年寄りの怪我、同窓会、赤城、咲太……)

 

 今日、夕方からは藤沢でカレーの買い出し。

 

 その前に、別の場所で、別の「事件」の準備が静かに進んでいる。

 

 「……忙しい一日になりそうだな」

 

 小さく溜息をつきながら、俺は三限の教室へと歩き出した。

 

 三限・四限が終わり、教科書を鞄にしまって校門へ向かうと……

 

 「蓮真!」

 

 「きっしー!!」

 

 校門の外で、のどかと卯月が並んで手を振っていた。

 

 (……待ち伏せされてる気配しかしない)

 

 近づいた瞬間から、案の定、口撃が始まった。

 

 「ねぇ蓮真、昨日の合コンってどんな感じだったの?」

 

 「きっしーお持ち帰りされなかった?てか気に入られたでしょ?」

 

 「されてねぇよ。ていうか、お前ら聞く気満々だろ」

 

 二人は顔を見合わせて、同時ににこーっと笑う。

 

 「もちろん!」

 

 「もちろんだよ!」

 

 (息ぴったりすぎるだろ……)

 

 そんな賑やかさのまま、三人で藤沢駅へ向かうことになった。

 

 途中、卯月が突然くるっと振り返りながら言った。

 

 「ねぇねぇ、今度さ紅葉見に行こ! 三人で!」

 

 のどかも勢いよく乗っかる。

 

 「いいじゃん。三人でお出かけ久しぶりだし!」

 

 俺は少しだけ眉を上げた。

 

 「いいけど……卯月、今ソロデビューの準備で忙しいだろ? あんまり外出しない方がいいんじゃないか?」

 

 卯月は胸を張って答える。

 

 「大丈夫!お母さんに車出してもらうから!」

 

 「いや、そういう問題じゃないと思うんだけどなぁ……」

 

 のどかは肩をぷらぷら揺らしながら言った。

 

 「でも三人で出かけるの久しぶりだしいいんじゃない? 」

 

 「まぁ……二人がいいなら、別にいいけど」

 

 二人は嬉しそうにハイタッチしていた。

 

 ふと気になっていたことを思い出す。

 

 「そういえばさ。のどかも卯月も……料理、そんなやらないのか?」

 

 のどかは即答だった。

 

 「あたしは、お姉ちゃんと咲太にお願いしちゃうから、あんまやんない」

 

 (だろうな……)

 

 卯月は頬に指を当てながら、いつもの調子で言った。

 

 「私もね、お母さん料理めっちゃ下手だから……そのまま受け継いじゃった!」

 

 「いや、胸張って言うことじゃないからな?」

 

 二人は笑いながら歩き続ける。

 

 (……大丈夫かぁ、これ。カレー作れる気がしないんだけど)

 

 そんな俺の心配をよそに、二人の足取りはやけに軽かった。

 

 藤沢駅の北口に出ると、改札の向こうでひときわ目立つシルエットが手を振っていた。

 

 「蓮真くん、こっち」

 

 マスクと帽子で人混みに紛れながらも、隠しきれないオーラの桜島麻衣先輩。

 

 その隣で、花楓ちゃんが、少し緊張したようにぺこりと頭を下げた。

 

 「お姉ちゃん!お待たせ!」

 

 「麻衣さん!お待たせしました!」

 

 のどかと卯月は、すでに麻衣先輩と合流してテンションが上がっている。

 

 「お疲れさまです、麻衣先輩。花楓ちゃんも」

 

 「お疲れ、蓮真くん。授業はちゃんと受けてきた?」

 

 「……一応、四限までは真面目に」

 

 「一応は余計よ」

 

 軽口を交わしつつ、俺たちはそのまま駅前のスーパーへ向かった。

 

 店内に入ると、麻衣先輩が自然と先頭に立つ。

 

 「じゃあ、とりあえず具材からね。じゃがいも、ニンジン、鶏肉……」

 

 カゴを持った俺の隣で、のどかが指を折って数えていく。

 

 「ナスも入れたい!あとズッキーニも!」

 

 「ナスカレーいいよね~!彩りもきれいだし!」

 

 野菜売り場で、あっという間にカゴの中身が増えていく。

 

 麻衣先輩が確認するように俺の方を見る。

 

 「蓮真くん、他に入れたいものある?」

 

 「そうですね……よくやるんですけど、隠し味で餡子を入れたいです」

 

 「……餡子?」

 

 麻衣先輩が少しだけ目を瞬かせる。

 

 横から、のどかと卯月が「えっ」と同時に声を上げた。

 

 「カレーに餡子?和スイーツじゃん!」

 

 「きっしー、天才かただの暴走かどっち!?」

 

 俺は肩をすくめる。

 

 「ちょっとだけですよ。コクと、まろやかさが出るんです。甘くなりすぎない程度に調整すれば」

 

 「へぇ……」

 

 麻衣先輩は少しだけ考えてから、ふっと笑った。

 

 「面白いわね。それ、採用しましょう」

 

 「やったね、きっしーシェフ」

 

 「責任重大だな……」

 

 餡子をカゴに入れると、隣で花楓ちゃんがそっと覗き込んでいた。

 

 「……カレーに餡子……どんな味なんだろう……」

 

 興味と不安が半々って顔だ。

 

 「失敗したら、俺のせいってことでいいよ、花楓ちゃん」

 

 「いえ、きっとおいしいと思います」

 

 小さくそう言って、花楓ちゃんは照れたように微笑んだ。

 

 その後も順調に買い物は進み……かけていたのだが。

 

 「ねぇねぇ、ポテチ買ってもいい?カレー待ってる間のおやつ!」

 

 「卯月、それカレー関係ないじゃん!」

 

 お菓子売り場の前で、卯月がポテチとプリンとアイスを両手に抱え、のどかに止められていた。

 

 「えー、でもさぁ、お料理するとお腹すかない?」

 

 「気持ちは分かるけどさ!今日のメインはカレー作りなんだから!おやつは一個まで!」

 

 「じゃあどれにしよ……プリン……アイス……ポテチ……」

 

 真剣な顔で三択を見比べる卯月。

 

 その様子を、少し後ろから見ていた花楓ちゃんが、ふっと肩を震わせた。

 

 「花楓ちゃん、笑った?」

 

 のどかが嬉しそうに振り向く。

 

 「あ、はい……卯月さん、ほんとに全部買う顔してたから……」

 

 卯月はむくれながらも、結局ポテチだけをカゴに入れた。

 

 「じゃあこれはがんばった人のおやつね!」

 

 「卯月、それ絶対自分のこと言ってるだろ」

 

 「きっしーもがんばったらあげるよ!」

 

 なんだその上から目線のご褒美システムは。

 

 レジ前でカレールーやサラダ用のドレッシングも買い足し、両手いっぱいにレジ袋を提げることになった。

 

 「じゃあ咲太の家までお願いね、蓮真くん」

 

 「……予想はしてました」

 

 気づけば、一番重い袋は全部俺の担当になっていた。

 

 のどかと卯月は、比較的軽めのお菓子や小物類。

 

 花楓ちゃんは、サラダ用の野菜が入った袋を大事そうに抱えている。

 

 夕方の空はオレンジ色に染まり始めていた。

 

 「ねぇねぇ、カレーってさ、やっぱり最初の煮詰めるとこが勝負だよね!」

 

 「卯月、その“最初の煮詰めるとこ”を誰がやると思ってる?」

 

 「きっしー!」

 

 即答された。

 

 「……ですよね」

 

 「あたしもがんばるよ、皮むきくらいなら!」

 

 「私も……できること、手伝います」

 

 花楓ちゃんの小さな声に、麻衣先輩が穏やかに微笑む。

 

 「ええ、みんなで作った方がおいしいわ。……ね、蓮真くん?」

 

 「……はいはい。じゃあ、俺は総合的な火加減担当ってことで」

 

 そんな他愛ない話をしながら、俺たちは咲太の家へと歩いていった。

 

 咲太のマンション前に着いた瞬間、胸の奥がざわっと揺れた。

 

 (……なんだ、この感じ)

 

 初めて来たはずなのに、足元の感触や、エントランスの匂い、ドアの高さ、階段の段差まで。

 

 どこかで知っているような触覚的記憶が、ふいに浮かび上がってくる。

 

 花楓ちゃんがマンションのエントランスに近づき、ポストの一つに手を伸ばした。

 

 「……あ、お兄ちゃん宛てだ」

 

 取り出された封筒の差出人欄が、俺の視界にちらりと入る。

 

 沖縄県〇〇市〇〇町 牧之原翔子

 

 (……牧之原翔子?)

 

 喉がひゅ、と音を立てて狭くなる。

 

 確か、咲太が中学の頃、七里ヶ浜で出会ったと話していたあの子の名前。

 

 でも、どうして手紙なんか。それも、沖縄から……?

 

 思考がそこに触れた瞬間だった。

 

 胸の奥で、誰かの声が響いた。

 

 ——“思い出しちゃだめですよ、あなたはまだ……”

 

 柔らかく、深く、そしてどこか祈るような響き。

 

 誰の声なのか、判別はつかない。けれどその温度だけは、妙に懐かしかった。

 

 まるで、時間の向こう側から、やさしさだけをすくって差し出すような声だった。

 

 次の瞬間、心臓が一拍遅れて跳ねた。

 

 視界の端が、かすかに歪む。

 

 (……まずい)

 

 身体が、過去の輪郭に引っ張られる感覚。

 

 (……これ以上、考えるのはやめよう)

 

 その一線を越えたら、何かがほどけてしまう。そんな確信だけが、胸の奥に残った。

 

 俺は小さく息を吸い込み、そっと視線を封筒からそらした。

 

 花楓ちゃんが鍵を開ける。

 

 ドアを開けた瞬間、足元から黒い影がすべり込むように走ってきた。

 

 「なすの。ただいま」

 

 花楓ちゃんの声が弾み、なすのがまっすぐ花楓ちゃんにすり寄っていく。

 

 そのすぐあと、卯月の足元にもぴょん、と跳ねるように寄っていった。

 

 「わぁ!なすの〜!覚えててくれたの〜?」

 

 しっぽを全力で立てて、卯月に頭突きをする猫。

 

 その様子を見た瞬間、俺の口が勝手に動いていた。

 

 「……卯月、もしかして咲太の家来たことあるのか?」

 

 卯月はまっすぐ俺に笑顔を向ける。

 

 「うん!だって花楓ちゃんいるし!」

 

 花楓ちゃんが少し恥ずかしそうに、でも楽しげに言う。

 

 「卯月さん、ライブの時とか、いろいろ来てくれるから……なすのも覚えちゃったみたいで」

 

 のどかが両手を腰に当て、呆れたように笑う。

 

 「なすの、卯月によく懐いてるよねぇ……?」

 

 俺も苦笑しながら言う。

 

 「まぁ確かに卯月、猫に懐かれやすいよなぁ。俺の誕生日に猫カフェ行った時も抱っこしてたし」

 

 卯月は得意げに胸を張る。

 

 「ふふん!私は世界に優しいからね!」

 

 (……いや、猫はたぶんそういう基準で動いてないぞ)

 

 のどかが、急にこちらを向いて言う。

 

 「そういえばさ、蓮真の家って行ったことないなぁ。今度遊びに行ってもいい?」

 

 卯月も乗っかってくる。

 

 「行きたい!絶対きれいでしょきっしーの部屋!」

 

 (……いや無理だ。絶対無理だ)

 

 俺の家には、中学のループの記録ノートが置いてある。

 

 誰にも見せたことがない。

 

 誰にも見られたくない。

 

 俺自身ですら触れるのをためらうほどの“死にかけた春”の痕跡だ。

 

 だから、答えは決まってる。

 

 「いや。流石にそれは遠慮してくれ」

 

 「えーなんで!」

 

 「なんでー!」

 

 「……まぁ理由は言わないけど、とにかくダメだ」

 

 二人は顔を見合わせて同時にほっぺを膨らませる。

 

 「つまんないなぁ」

 

 「きっしーのケチ!」

 

 (……いいんだ。ケチって思われるくらいで丁度いい)

 

 エプロンを配り、全員キッチンに集合する。

 

 「じゃあ、今日はスープカレーにするわね」

 

 麻衣先輩の言葉に、三人のテンションが一気に上がる。

 

 「やったー!」

 

 「スープカレー大好き!」

 

 「私、ナス切ります!」

 

 役割は自然と決まっていった。

 

 のどかがじゃがいも担当。花楓ちゃんがナス担当。卯月がズッキーニ担当。俺がニンジンと全体管理。麻衣先輩が監督兼難所担当。

 

 俺と麻衣先輩は鍋でスープを煮詰めながら、追加の具材を投入するタイミングを相談していた。

 

 「蓮真くん、火弱めて。スパイス入れるのはもう少しあとね」

 

 「了解です」

 

 食材を切る三人の方を振り返ると……

 

 「のどか、そこ皮むきすぎだよ!指までいっちゃうよ!」

 

 「えっ!?やばいやばい!!」

 

 「そういう卯月も、それ輪切りじゃないよ!」

 

 「え?ズッキーニってこういう形でよくない?」

 

 「良くないよ!!」

 

 「花楓ちゃん!落ち着いて切れてるから大丈夫!」

 

 「は、はい……!」

 

 思っていた以上に、状況はカオスだった。

 

 俺は包丁を置いて、急いで三人のフォローに回る。

 

 「のどか、手元こう。包丁は寝かせて使う」

 

 「う、うん……!」

 

 「卯月、力入れすぎ。ズッキーニつぶれてる」

 

 「え、なんで!?きっしーのとこ柔らかいの!?」

 

 「いや、卯月の握力が強すぎるんだよ」

 

 「えへへ、アイドルパワー!」

 

 花楓ちゃんのところに戻ると、彼女は丁寧にナスのヘタを切り落としていた。

 

 「花楓ちゃんは完璧だな。助かる」

 

 「……なんか蓮真さん……主夫みたいですね」

 

 思わず手が止まった。

 

 「主夫……?」

 

 「はい。すごく自然にみんなの面倒見てるから……」

 

 その言葉に、のどかと卯月が揃ってこっちを見る。

 

 「たしかに!」

 

 「きっしー、主夫力高い!」

 

 「いやいやいや、違うから」

 

 「じゃあ“きっしーのスープカレー亭”って名前にしよ!」

 

 「店じゃねぇよ」

 

 でも。こんなふうに笑い声が重なるキッチンは、嫌じゃない。むしろ。

 

 (……こういう時間、悪くないな)

 

 そんなことすら思ってしまう。

 

 煮詰まってきた鍋に、麻衣先輩が声をかける。

 

 「蓮真くん、隠し味の……あれ」

 

 「任せてください」

 

 俺は少量の餡子をスプーンで取り、鍋にすっと溶かす。

 

 スパイスの香りの奥に、ほんのり甘い香りが混ざった。

 

 「……おお……なんかスープが深くなった気がする!」

 

 「すごい……ほんとに合うんですね……!」

 

 「きっしー、天才!絶対レシピ本出したほうがいい!」

 

 「出さねぇよ」

 

 でも、楽しそうにしてる三人を見て、少しだけ胸が温かくなった。

 

 ぐつぐつ、と小さく鍋が鳴いている。

 

 スープカレー特有の、さらりとしたとろみと、スパイスの立ち上がる匂い。その奥に、ほんの少しだけ、餡子のまろやかさが混ざっていた。

 

 「……よし、こんなもんかな」

 

 火を止めると、キッチンに立ち込めていた湯気が、ゆっくり落ち着いていく。

 

 「きっしー、どう?味見!」

 

 すでにスプーンを構えている卯月と、その隣でわくわくしているのどか。

 

 「じゃあまずは監督から」

 

 俺はひとくち味を確認してから、麻衣先輩にスプーンを差し出した。

 

 「どうでしょう、シェフ」

 

 「そうね……どれどれ」

 

 麻衣先輩は一口含んで、少しだけ目を細める。

 

 「……うん。ちゃんとスープカレーになってるわ。餡子も、言われなきゃ分からないくらいの甘さね。コクだけ残ってる」

 

 「やった!」

 

 のどかと卯月が、なぜか自分のことのようにハイタッチした。

 

 「花楓ちゃんも、ほら」

 

 「は、はい……」

 

 恐る恐る口に運んだ花楓ちゃんは、もぐもぐと咀嚼してから、ほっとしたように微笑む。

 

 「おいしいです……」

 

 その一言で、肩の力が抜けた。

 

 テーブルには、盛り付けを待つ皿とスプーン。サラダと、買ってきたポテチと、卯月が最後まで悩んで諦めたプリンの不在感。

 

 「さて、と」

 

 鍋の蓋を閉めて、俺はリビングを見渡す。

 

 ソファの上では、のどかと卯月がTVの音量をめぐって小競り合いをしている。

 

 「卯月、そのクイズ番組より、八重が出てるスポーツバラエティの方がよくない?」

 

 「いいかも!」

 

 「じゃあ音量半分ね!」

 

 「え〜!」

 

 二人の真ん中で、花楓ちゃんがリモコンを抱えたまま、おろおろしていた。

 

 その足元には、なすのが丸くなっている。

 

 「……賑やかだな」

 

 思わずこぼれた独り言に、キッチンからコップを持ってきた麻衣先輩が、くすりと笑う。

 

 「賑やかなの、嫌い?」

 

 「いえ。むしろ、落ち着きます」

 

 「ふふ。じゃあ、もう少しこのまま楽しみましょうか」

 

 麻衣先輩は、窓の外に目をやる。

 

 オレンジだった空は、いつの間にか群青に変わっていた。ベランダ越しに見える街の灯りが、一つずつ増えていく。

 

 大皿を並べていると、麻衣先輩から声がかかる。

 

 「蓮真くん」

 

 「はい?」

 

 「咲太、今日塾バイトなのよ。何時ぐらいに帰ってくるか分かる?」

 

 「ああ……たぶん八時二十分にはいつも授業終わるので、帰りの準備も考えたら、家に着くのは九時くらいじゃないですかね」

 

 麻衣先輩は「なるほどね」と軽く頷く。

 

 「じゃあ、しばらく待ちね」

 

 「はい。スープカレーも、温め直せば大丈夫ですし」

 

 「そうね。……咲太が帰ってきて、この匂いを嗅いだら、絶対いい顔するわ」

 

 その言い方があまりに自然で、胸の奥が少しだけあたたかくなる。

 

 (……こうやって、帰ってくる誰かを待つ時間って、久しぶりかもしれないな)

 

 中学のあの春。ループの中で、「帰ってくるはずの誰か」を信じて待つ時間は、なかった。

 

 世界の終わりみたいな静けさと、ひとりきりの部屋。

 

 今、鼻をくすぐるのはカレーの匂いで、耳に届くのは笑い声だ。

 

 (……だいぶ、贅沢になったもんだ)

 

 ポケットの中で、スマホが小さく震いたような気がした。

 

 取り出して画面を見る。通知は、#夢見るのタイムライン。

 

 “新横浜駅”、“階段”、“おばあちゃん”。

 

 さっき、赤城と一緒に見た言葉たちが、脳裏に浮かぶ。

 

 (今ごろ、赤城は新横浜か……それとも、もう帰ってきてるだろうか)

 

 そのどちらなのか、確かめる手段はない。

 

 でも、あのノートを抱えて立ち上がった赤城の背中を思い出す。

 

 その言葉と、今この部屋にあるカレーの匂いが、どこかで繋がっている気がした。

 

 誰かを待つこと。誰かの帰りを信じること。

 

 それを、俺たちは少しずつ取り戻しているのかもしれない。

 

 「蓮真〜!ご飯よそって〜!」

 

 のどかの声が飛んでくる。

 

 「きっしー、私のズッキーニ多めにして!」

 

 「それ不公平じゃない?」

 

 「きっしーは主夫兼シェフだから特権でしょ!」

 

 なんだその適当な理屈は。

 

 「はいはい、わかった」

 

 スマホをポケットに戻し、エプロンの紐を結び直す。

 

 玄関の向こうから、まだ足音は聞こえない。

 

 でも、ドアの向こうにいる誰かの顔を想像しながら、ただいまを待つこの時間は、悪くない。

 

 リビングからは、のどかと卯月がじゃれあう声が聞こえる。

 

 花楓ちゃんは、その横でクッションを抱えて小さく笑っていた。

 

 なすのはソファの上を行ったり来たりして、誰が帰ってくる気配があるか、ずっと玄関の方を気にしている。

 

 (……たぶん、この家にとって待つ時間って、もう習慣なんだろうな)

 

 カレーの匂いが、部屋の中に隙間なく満ちている。人の声が重なり合っている。

 

 誰かのただいまを迎える準備が、もう整っている。

 

 椅子を引くと、ほんのわずかに窓の外の風がカーテンを揺らした。

 

 遠くで、車が通る音。

 

 時計の針は、まだ八時にもなっていない。

 

 咲太の足音は、まだしない。

 

 それでも。

 

 この部屋の空気は、「帰ってくる誰か」を迎える準備を、ゆっくりと進めていた。

 

 鍋の蓋に手を添える。

 

 (……九時近くになったら、もう一回だけ温め直すか)

 

 そんな他愛ないことを考えながら。

 

 そして玄関の方を、なんとなく見てしまう。

 

 「……さて。咲太、どんな顔で帰ってくるか」

 

 この静かな待機時間が、妙に心地よかった。

 




物語解説

今回の物語では、大学生活の延長線上に見えるただの日常の中へ、ごく小さな異変。#夢見るという予兆が静かに染み込んでいく様子を描きました。

桜木町での合コンという雑多な空気、咲太と久しぶりに顔を合わせた沙希の沈黙、そして郁実が抱え込んでいた、言葉にならない焦燥。

それらはどれも単体では取るに足らない出来事に見えるかもしれません。

けれど蓮真という観察者の視点を通して眺めると、その全てが、静かな変化の入口として輪郭を帯び始めています。

特に郁実が見せた一歩。誰かを救おうとする強さと、その強さが生む脆さ。それに気づいた瞬間、蓮真は「観察者」としての冷静さと、「同じ後悔を持つ人間」としての胸のざわつきを
同時に抱えることになります。

日常の光と影がゆっくり混ざり合い、世界の色がほんのわずかに変わり始める。その前触れが、今章の中心です。

静かに幕を上げた #夢見る の気配とともに、岸和田蓮真の青春は、また次の段階へと進んでいきます。

次回もぜひお楽しみください

蓮真は最終的にどちらを選ぶと思いますか?

  • 豊浜のどか
  • 広川卯月
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。