青春ブタ野郎はパラレルスプリングの夢を見ない   作:もドえラん

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4.気づき始めた想いの影で、真意を探る

 

 十一月一日

 

 咲太の家で、スープカレーを食べ終えたあと、食器を片付けながらのどかが言い出した。

 

 「ねぇ、ほたるが出てる特撮、今日の録画あるんでしょ!?見よ見よ!」

 

 「そうだよ!今日のやつ、絶対面白いって~!」

 

 卯月がその場でぴょんと跳ねる。それに花楓ちゃんが小さく笑って頷いた。

 

 「……はい。予約してあります。じゃあ、みんなで見ましょう」

 

 「やったぁ!」

 

 のどかと卯月はもう完全にTV前に陣取り、花楓ちゃんもリモコンを抱えたままソファに腰掛けている。俺はというと、麻衣先輩と食器を拭きつつその後ろ姿を見ていた。

 

 (……ほんと賑やかだな。まぁ悪くないけど)

 

 その時だった。

 

 ガチャリ、と玄関の鍵が開く音がした。

 

 「あ、お兄さん帰ってきた!」

 

 エプロンをつけた卯月が、おたまを片手にダッシュで玄関へ駆けていく。

 

 「卯月!?走ると転ぶぞ!」

 

 慌てて俺も追いかける。

 

 「ただいま」

 

 咲太がドアを開けて、家の中にそう呼び掛ける。

 

 玄関にはいつもよりたくさんの靴が並んでいた。

 

 足の踏み場が殆どない。狭い隙間で咲太がスニーカーを脱いでいると、リビングの方からエプロン姿の女子がひとり出てきた。

 

 「おかえりなさい、お兄さん。ご飯にする?お風呂?そ・れ・と・も~」

 

 「何やってんだ、づっきー」

 

 咲太が素のテンションで突っ込んだ、その直後だった。

 

 「……ていうか、岸和田もなんでいるんだよ」

 

 「今日はカレーだと聞いたので、ご相伴に与かりに来ました」

 

 卯月らしい独特の理由だが、さすがにこれでは咲太も「なるほど」とは頷けない。

 

 だが、納得するまで会話を続けていたら、咲太はしばらく玄関で足止めを食うことになるだろう。だから被せ気味に、俺は慌てて付け足した。

 

 「麻衣先輩から、カレー作るの手伝ってって頼まれたんだよ」

 

 「ああ、なるほどな。……いや、それでもおかしいのはお前らだよ」

 

 咲太はスニーカーを脱ぎながら、深い溜息をこぼした。

 

 「づっきー、今、大事な時期なんだから、スキャンダルには気を付けろよ」

 

 そう言って、部屋に上がる。

 

 「今日撮られたら、キャッチは『広川卯月のカレーなる夜』だね!」

 

 「なんかカレーのCMにありそうだな、卯月」

 

 「たしかにありそう!」

 

 そんなふざけた空気のまま、咲太は上着を脱ぎ、エプロン姿の卯月を見る。

 

 そしてぼそっと呟いた。

 

 「……新婚さんごっこするなら岸和田にやってやれ」

 

 卯月の顔が、一瞬で赤く染まった。

 

 「お兄さん!!」

 

 俺も思わず声が裏返った。

 

 「咲太、何言ってんだよ……」

 

 突っ込んではみたものの、胸の奥が、ほんの一瞬だけ跳ねた。

 

 適当なことを言った後、咲太はリビングに顔を出す。

 

 「ただいま」

 

 「おかえり、咲太」

 

 最初に咲太を出迎えたのは、キッチンに立つ麻衣先輩。

 

 ハイウエストのワイドパンツに、肩が見えそうで見えないニットを合わせている。その上から、エプロンをしている。

 

 「お兄ちゃん、おかえり」

 

 「おかえり~、咲太」

 

 遅れて、TVの前に座っていた花楓ちゃんとのどかの声が首だけで振り向いた。

 

 画面に流れているのは、本来なら日曜日の朝にやっている特撮ヒーロー番組だ。

 

 画面の中では、高飛車に笑う悪者の幹部。スイートバレットのメンバーのひとり。名前は岡崎ほたる。

 

 「おかえり、お兄さん!」

 

 後ろから追いかけてきた卯月が、ハイテンションで咲太の肩を叩いた。

 

 千客万来の室内をぐるっと見回す。

 

 「なんか、多いな……」

 

 それが咲太の率直な感想だった。

 

 「あと咲太だけだから、手洗ってうがいしたら座って」

 

 「えー、麻衣さんと一緒だと思ってたのに……」

 

 「食べるときは、一緒にいてあげるわよ」

 

 麻衣先輩のその言葉を信じて、咲太はダイニングテーブルへ向かった。

 

 「はい、どうぞ」

 

 スープカレー特有のスパイスの香りが、ふわりと立ち上ってくる。

 

 「みんなにも、野菜を切るの手伝ってもらったの」

 

 エプロンを外しながら、麻衣先輩が咲太の正面に皿を置いた。約束通り、ちゃんと目の前で食事に付き合うつもりらしい。

 

 「芋の担当は、豊浜か」

 

 「文句言わずに食え」

 

 「まだ文句言ってないだろ」

 

 「なすを切ったのは花楓か」

 

 「文句言わないで食べてよね」

 

 「まだ文句言ってないだろ」

 

 「ズッキーニは広川さんか。づっきーだけに」

 

 「正解!!」

 

 卯月が嬉しそうに拍手。咲太も苦笑しながらスプーンを動かす。

 

 そして、気付いたように俺の方を見る。

 

 「で、ニンジン切ったのは岸和田か?」

 

 「文句言わずに食えよ」

 

 「お前までかよ。……だからまだ文句言ってないだろ」

 

 そう言いつつ、咲太はスープをすくう。

 

 ひと口、またひと口。

 

 「……ん?これ、なんかコクあるな。何入れた?」

 

 「俺の隠し味」

 

 「へぇ、餡子か?」

 

 「正解」

 

 のどかがすかさず身を乗り出す。

 

 「餡子めっちゃ合ってるよね、咲太!」

 

 「そう思うか?」

 

 「うん!普通にカレー屋で出せるレベル!」

 

 真っ直ぐ褒めてくるもんだから、逆に少し照れた。

 

 咲太がスプーンを止め、首をかしげながら聞いてくる。

 

 「……というかなんでカレーに餡子なんだ?」

 

 俺は肩をすくめる。

 

 「単純な話だよ。餡子使った食べ物が好きなんだ。どら焼きとか、おはぎとか。子どもの頃からドラえもん見て育った影響かもしれない」

 

 咲太は吹き出した。

 

 「つまり、のび太の家の食卓を再現してるってわけか」

 

 「まあ、のび太の家にカレー出る回はあんまり見たことないけどな」

 

 麻衣先輩がくすっと笑う。

 

 「じゃあそれ、のび太くん初体験の味ってことね」

 

 「光栄ですね、麻衣先輩」

 

 「ふふ」

 

 咲太は再びスプーンを口に運び、目を細めた。

 

 「……甘みがいい感じに溶け込んでる。やるな、岸和田」

 

 「どうも」

 

 素直に褒められると、妙に胸の奥があたたかくなる。

 

 TVの前では、岡崎さんの出ている特撮を見ながら、のどか・卯月・花楓ちゃんがキャッキャしていて、その向こうからカレーの湯気がゆっくり立ち上っていた。

 

 「そうだ。お兄さんに渡すものがあるんだった!」

 

 卯月がいきなり声を上げ、ソファの後ろに置いた鞄をひっくり返す勢いで漁り始めた。

 

 「え、ちょ……卯月、落ち着けよ……」

 

 「ない!ない!あったと思ったのに!あれぇぇ……」

 

 鞄の中身がほぼ全部散乱した頃……

 

 「……あった!」

 

 卯月が満面の笑みで二枚の紙切れを掴んだまま、ぴょんとダイニングテーブルに近づいてきた。

 

 「これ!今度の日曜、学祭でライブするの!麻衣さんと来てね!」

 

 テーブルに置かれたのは、確かに大学祭ライブのチケットだった。

 

 「学祭ってどこの?」

 

 「うちの〜」

 

 のどかがソファに沈んだ姿勢のまま、気怠そうに答える。まるで自宅レベルのリラックス具合だ。

 

 卯月がVサインをびしっと決める。

 

 「今年の学祭に、スイートバレットがゲストで呼ばれたのです!」

 

 「お兄ちゃん、なんで知らないの?」

 

 「誰も教えてくれなかったからな」

 

 咲太は眉を上げながら呟く。

 

 のどかがすぐ言い訳するように言った。

 

 「あたしは卯月が言ってると思ってた」

 

 「私は言ったつもりだった」

 

 卯月の言い分はつもりであり、ほぼ自白でしかない。

 

 俺は思わずツッコミを入れる。

 

 「卯月、言ってなかったのかよ?」

 

 「言ったつもりだったんだもん!」

 

 頬をぷくっと膨らませて抗議してくる。

 

 そのやり取りを聞いた咲太が、俺の方へ視線を向けた。

 

 「……岸和田、知ってたのか?」

 

 「ああ。先週、のどかからチケット渡されてさ」

 

 「ちょ、蓮真!それ今言う!?」

 

 のどかがクッションを抱えながら抗議する。

 

 「そういうことなら岸和田も来るのか。……ますます『岸和田のカレーなる学祭ツアー』だな」

 

 「その妙なタイトルやめろ!」

 

 そう返しながらも、部屋はどこか暖かくてにぎやかだった。

 

 「チケットはありがたくもらうけど……麻衣さん、日曜、仕事は?」

 

 「咲太と学祭を回るつもりでいたから、空けてあるわよ」

 

 「初耳なんだけど」

 

 「急な仕事でドタキャンすると、お詫びに咲太のわがままを聞いてあげないといけなくなるから黙ってたの。咲太の方こそ、日曜は平気なの?」

 

 「花楓、ファミレスのバイト、代わってくれ」

 

 「私もこみちゃんとライブ行くから無理」

 

 花楓ちゃんが小さく得意げに、二枚のライブチケットをひらひらさせる。

 

 「あとで古賀に頼むか」

 

 「今、聞いてあげようか?」

 

 「頼む」

 

 「ちょっと待って」

 

 花楓ちゃんはスマホを操作し始め、すぐに「あ、返事来た」と顔を上げた。

 

 「さすが、早いな」

 

 「『駅のシュークリーム食べたい』だって」

 

 「今度、十個おごるって言っといてくれ」

 

 「『一個でいいって言っといてね』だって」

 

 「麻衣さんと学祭デート、楽しみだなぁ」

 

 そこまで言ってから、咲太は何気ない顔で俺の方に振り返った。

 

 「岸和田、最悪バイト代わってくれ」

 

 「いやなんで俺だよ!?俺もライブ行くんだが?」

 

 「じゃあライブ抜けて来いよ」

 

 「無茶振りすぎるだろ!」

 

 のどかがクッション抱えて笑う。

 

 「咲太、蓮真を雑に扱いすぎ」

 

 卯月もケラケラ笑いながら、

 

 「ほんとだよお兄さん、きっしーは優しいけど便利じゃないよ?」

 

 「お前が言うと説得力があるのかないのか分からないんだよ……」

 

 そんなふうに、全員がツッコミだらけの空気の中で、ほんの少しだけ“家族みたいな温度”が漂っていた。

 

 「とにかく!日曜のライブ、ちゃんと楽しみにしといてよ、蓮真!」

 

 のどかが勢いよくソファから立ち上がり、指を突きつけてくる。

 

 「……言われなくても楽しみにしてるよ」

 

 そう返したところに、卯月がぱっと手を挙げた。

 

 「きっしー!一緒に帰ろうよ!」

 

 「え、ああ……まあ、そうだな。帰る方向同じだし」

 

 気づけば当たり前みたいに誘われて、当たり前みたいに頷いていた。

 

 「お姉ちゃん、あたし、卯月と先に帰って、お風呂溜めとくね」

 

 「そう?お願い」

 

 時計の針は、もうすぐ十時を差そうとしている。「じゃあ」と、軽く手を上げて、のどかが玄関の方に向かう。

 

 「花楓ちゃん、お兄さん、お邪魔しました。麻衣さん、お邪魔します」

 

 卯月がのどかを追いかけた。

 

 「づっきー、麻衣さん家に泊まるのか」

 

 咲太は玄関まで見送りに出て、靴を履く卯月の背中にそう聞いた。

 

 「ふっふっふっ」

 

 返ってきたのは、謎の笑い声。その顔は、「いいでしょ」と自慢している。

 

 「お風呂で、のどかの成長はバッチリ確認しておくね」

 

 「卯月とは一緒に入らない」

 

 素っ気ない態度で、のどかは外に出ていく。

 

 「えー、一緒に入ろうよぉ」

 

 「仲良しなのに!」

 

 卯月の腕に振り回されながら歩いていくのどかを眺めて、つい口に出た。

 

 「……お前ら、ほんと仲いいな」

 

 「ふっふっふっ」

 

 卯月が後ろから抱きついたままついて行く。

 

 「あ、花楓ちゃん、またね!」

 

 閉まりかけたドアの隙間から卯月が手を振る。

 

 「は、はい」と花楓ちゃんが慌てて返す。

 

 それを見送りながら、俺も小さく頭を下げた。

 

 「咲太、花楓ちゃん……今日はお邪魔しました」

 

 「はい、また来てください、蓮真さん」

 

 花楓ちゃんがほわっと微笑む。

 

 玄関まで見送りに出てきた咲太が、ぼそりと言った。

 

 「岸和田、お前は麻衣さんち泊まるなよ」

 

 「泊まるわけないだろ!」

 

 即答すると、咲太は「ならいい」と淡々と頷いた。……なんなんだこの彼氏ムーブは。

 

 こうして三人がいなくなると、急に家の中は落ち着きを取り戻す。鍵をかけて咲太はリビングに戻った。

 

 マンションを出ると、夜風がほのかにカレーの匂いを洗い流していった。

 

 「じゃ、送ってくよ。麻衣先輩のマンション、ここからすぐだけど」

 

 「いいの?ありがとう蓮真」

 

 のどかが両手を頭の後ろで組んで歩き出す。その横で、卯月はいつもの調子で俺にくっついてきた。

 

 「やったー!きっしーエスコートつき〜!」

 

 「エスコートって距離じゃないけどな」

 

 人の少なくなった夜道を、三人で並んで歩く。

 

 街灯のオレンジが、アスファルトの上に三つぶんの影を落としていた。

 

 「スープカレー、咲太、めっちゃ褒めてたね!」

 

 「お兄さん、“やるな岸和田”って言ってたよね〜。あれ、ちょっと嫉妬しちゃった」

 

 「なんでだよ」

 

 「なんか、旦那さんポイント稼いでる感じしたから」

 

 卯月がニヤニヤしながら肘でつついてくる。

 

 「やめろ、そのワードはさっき充分だったからな」

 

 「新婚さんごっこ?咲太の声聞こえてたけどさぁ」

 

 のどかが振り返ってニヤッと笑う。

 

 「咲太、わりとガチで言ってたよね〜。“岸和田にやってやれ”って」

 

 「はいはい、この話終わりな」

 

 心臓がじわっと熱くなるのをごまかすみたいに、俺は手を振って打ち切った。

 

 そうしているうちに、見慣れたマンションの外観が見えてくる。

 

 「到着だな」

 

 エントランス前で足を止めると、のどかが大きく伸びをした。

 

 「ふぁ〜、今日は食べ過ぎた〜」

 

 「きっしー、ありがと!買い出しから料理まで、ほぼ主夫だった!」

 

 「主夫いうな。ただの自炊男子だ」

 

 そう返すと、二人とも同時に笑った。

 

 「じゃ、ここで。じゃあな」

 

 「うん、きっしー!」

 

 のどかが、ひらりと手を振る。

 

 「気をつけて帰りなよ、蓮真」

 

 「きっしー、ちゃんと家着いたらスタンプ押してね!」

 

 「母親かお前は」

 

 そう言いながらも、「分かったよ」と短く返す。

 

 最後にもう一度だけ二人の顔を見てから、俺は家がある駅の方へと歩き出した。

 

 背中に、卯月の明るい声が追いかけてくる。

 

 「日曜、絶対遅刻しないでよー!」

 

 「遅刻したら一生根に持つからね!」

 

 「お前ら容赦ないな……」

 

 振り返らずに手だけ上げて、その声に応えた。

 

 「……行っちゃった」

 

 蓮真の背中が角を曲がって見えなくなったところで、のどかがぽつりと言った。

 

 さっきまで賑やかだった声が、夜の空気に溶けていく。

 

 隣で卯月が、まだ名残惜しそうに道路の向こうを見ていた。

 

 「きっしー、ちゃんとスタンプ押してくれるかな」

 

 「押すでしょ。蓮真、そういうとこ真面目だし」

 

 そう言いながらも、のどかの声はどこか柔らかい。

 

 エントランスの灯りが、二人の影を足元に落としていた。

 

 少しの沈黙のあと、卯月がぽん、とまるで思いついたまんまみたいに口を開く。

 

 「ねぇ、のどか」

 

 「ん?」

 

 「さっきのさ……“新婚さんごっこするなら岸和田にやってやれ”ってやつ!」

 

 「……あー、あれね」

 

 のどかが顔をしかめて、返事が半拍遅れる。

 

 卯月は、その間をまるで気にした様子もなく、くるっと身体を向ける。

 

 「もしも、の話だけどさ」

 

 「うん」

 

 「のどか、きっしーと新婚さんごっこ……ちょっとだけ、アリだな〜って思った?」

 

 夜風すら、ぴたりと静止する。

 

 「な、なにその聞き方」

 

 のどかは耳まで真っ赤になりながら、そっぽを向く。

 

 「……全然、アリじゃないとは、言わないけど」

 

 「やっぱり〜!!」

 

 卯月はテンション高めにのどかの顔を覗き込む。

 

 のどかは観念したみたいにため息をついた。

 

 「……うん。あたし、蓮真のこと、好きだよ」

 

 勢いじゃなく、息を整えながら言った“好き”。

 

 卯月は、相槌を打つタイミングも雑なくせに、聞く姿勢だけは真っ直ぐだった。

 

 「最初はさ、気が合う友だちくらいかな〜って感じだったんだけど……あたしのこと、ちゃんと見てくれてて」

 

 「うんうん」

 

 「お姉ちゃんと比べないで見てくれるの、本当に、楽なんだよね」

 

 「分かる〜のどか、それずっと言ってた」

 

 のどかは胸元を押さえ、小さく深呼吸した。

 

 「お疲れって言ってくれるだけでさ……なんか救われるんだよ」

 

 「うん」

 

 「だから……好きなんだと思う。ちゃんと、恋の方で」

 

 卯月は、にへっと笑う。

 

 「えへへ、のどか可愛いねぇ」

 

 「どこがよ!」

 

 「だって今の、告白みたいだったもん」

 

 「うるさい!」

 

 少し騒いだあと、卯月が突然真顔になる。

 

 「じゃ、次は私ね!」

 

 「え?」

 

 のどかが瞬く。

 

 卯月は、夜空に向かって手を伸ばすように言った。

 

 「私もね、きっしーのこと好き!」

 

 のどかは息をのんだ。

 

 「……ストレートすぎない?」

 

 「だって隠す意味なくない? 私、隠すの下手だし!」

 

 (そこは確かに……と、のどかは心の中で頷く)

 

 「でもさ、ちゃんと言っちゃうとね……なんか、世界が変わっちゃいそうでちょっと怖いんだよね」

 

 その一言だけは、少しだけ弱かった。

 

 「卯月……」

 

 「ソロデビュー決まったじゃん。レッスン増えて、前より全然しんどくてさ」

 

 卯月は地面をつん、とつま先で蹴る。

 

 「でもね、きっしー、いつも、後ろは俺が見てるからって感じするの! あれすごいよ? 万能感!」

 

 のどかは笑うしかない。

 

 「……言いたいことは、分かる」

 

 「でしょー? そういうの見てたら、そりゃ好きになるってば!」

 

 卯月は、勢いのまま両手を広げた。

 

 「はい、私の告白終わり!」

 

 「終わりって……軽っ」

 

 「本気なのに軽く聞こえるタイプだから!」

 

 のどかは頭を抱えた。

 でも、優しいため息だった。

 

 「……そっか。卯月も好きなんだ、蓮真のこと」

 

 「怒る?」

 

 「なんで?」

 

 のどかは首を横に振る。

 

 「むしろ、ちょっと嬉しいかも」

 

 「えっ、なんで!?」

 

 卯月は本気で分かってない顔。

 

 「だってさ。あたしが好きになった人を、卯月も好きになるなんて、めっちゃ奇跡じゃん?」

 

 「のどか天才? いや天才通り越して異次元?」

 

 「なにそれ!」

 

 ふたりは声を揃えて笑った。

 

 そして、のどかがふと真面目な声に戻る。

 

 「一個だけ、約束しよ」

 

 「うん?」

 

 「どっちかが振られても、どっちかと付き合っても……あたしたちの関係は変えないこと」

 

 卯月は一瞬だけ目を見開く。次の瞬間には笑っていた。

 

 「当然だよ? そんなの、当たり前」

 

 ぱしっと右手を差し出す。

 

 のどかも、自分の手を重ねる。

 

 「……でも、形にしたほうが安心するでしょ」

 

 「のどかってさ、ほんと可愛いねぇ……!」

 

 指をぎゅっと握り合う。

 

 そのあとで、卯月がぽつりと言う。

 

 「でもさ」

 

 「うん?」

 

 「きっしー、多分この状況に気づく気配ゼロだよね」

 

 「……それは本当にそう」

 

 ふたり同時にため息をつき、同時に笑った。

 

 エントランスの自動ドアが、静かに開く。

 

 「じゃ、上行こっか」

 

 「うん。お風呂、お湯溜めてあげないと」

 

 「きっしーの話しながら入ろ〜」

 

 「それは恥ずかしいから嫌だ」

 

 そんなことを言い合いながら、ふたりは明るいロビーの中へと歩き出す。

 

 ガラス越しに見える夜空の向こうで。

 

 ——同じ時間の、咲太の家。

 

 花楓がお風呂に入っている間、咲太は花楓のノートPCを借りて、#夢見るについて調べていた。

 

 そして麻衣は、咲太に、翔子から届いた手紙を見せていた。

 

 「翔子ちゃん、ますます翔子さんに似てきたわね」

 

 「そうですね……」

 

 「私も、うかうかしてられない」

 

 「ん?」

 

 麻衣の言葉の意図がわからずに咲太が聞き返すと、ちょっと不機嫌な顔を向けられた。

 

 「いずれ、咲太の初恋の翔子さんになるんだから」

 

 写真の翔子の表情には、もう「翔子さん」の面影がはっきりとある。

 

 「あー」

 

 「咲太、うれしい?」

 

 ソファの隣に麻衣が座ってくる。

 

 「うれしいですよ。春になれば、牧之原さんは、念願の高校生になるんだし」

 

 「私が悪者みたいじゃない」

 

 麻衣はわざとふてくされた顔をして、両手で持ったマグカップに口をつける。「粉入れすぎ、苦い」と、さらに文句を言ってきた。

 

 咲太は便箋と写真を封筒に戻した。そのあとで、すでに起動していたノートPCに向き合った。

 

 「#夢見る」について検索するためだ。

 

 タグをクリックすると、ずらっとコメントが並ぶ。

 

 流して見ている限り、それらの内容におかしな点はない。ぼんやりした夢の話をしているのが殆ど。

 

 内容も非現実的で、ストーリーに繋がりがないものが多い。昨晩見た夢の話が、取り留めなく綴られているに過ぎない。

 

 ただ、そうした中に混ざって、日付や時間、断片的だけど内容が妙にはっきりした書き込みがいくつか見つかった。

 

 具体的すぎる内容には、違和感があると言えばある。

 

 普通、夢の中で、今日が何月何日かなんてわからない。

 

 咲太の経験上、そんなことを理解していた夢は、朋絵の未来シミュレーションに巻き込まれたときだけだ。

 

 なんたって、現実だと思っていたのだから……

 

 「咲太って、当時のクラスメイトのこと、どう思ってるの?」

 

 ソファの上で体育座りをした麻衣は、膝の上でコーヒーを飲んでいる。

 

 「どうって……」

 

 あまりに唐突に聞かれたので、咲太は答えを用意していなかった。

 

 「中学の頃の……そういう話は、あまりしたことなかったでしょ」

 

 「どうも思ってない、かな?」

 

 ある時期を境にして、中学時代のことを思い出さなくなった気がする。だから、今、口にした言葉が本心。そう、咲太は疑っていなかった。

 

 「あれを切っ掛けに、色々ありすぎたしさ」

 

 「初恋の人と出会ったりね」

 

 素知らぬ顔で、麻衣は意地悪なことを言ってくる。

 

 「野生のバニーガールに遭遇したりね」

 

 「それはそろそろ忘れなさい」

 

 「あとは、まあ、ほんと色々」

 

 「そうね」

 

 「峰ヶ原高校に入ってから、国見と双葉が友だちになってくれたし、麻衣さんがいたし、花楓も元気になったから……気にしてなかったっていうのが、正しいのかな」

 

 「じゃあ、咲太は、もう赤城郁実って子を許してるの?」

 

 「許すもなにも……」

 

 最初からが赤城に対しては、何のわだかまりもない。そう言葉にするはずだった。

 

 だけど、どういうわけかできなかった。

 

 「………」

 

 わずかながら、自分の中にしこりのようなものがあることに気づく。過去に対するささくれ立った気持ちが、心の奥底にまだ眠っている気がした。

 

 「………」

 

 言葉が続かない咲太に、麻衣は何も言わなかった。何も言わないまま、少しだけ肩に寄り掛かってくる。

 

 それだけで、麻衣が隣にいるという安心感があった。麻衣の存在を強く感じることもできた。

 

 「誰かを許すのって、難しいわよね」

 

 「麻衣さんでも?」

 

  「咲太が女の子と仲良くなるたびに、すごい苦労してるんだけど?」

 

 冗談のような口調。だけど、その目を見ると、言っていることは本気だとわかる。

 

 やわらかい言い方で、釘を刺してきたのだ。

 

 「今後は、気を付けたいと思います」

 

 「期待はしないでおく」

 

 「えー」

 

 「浮気はしないから、大丈夫ですって」

 

 「赤城郁実って子のことばかり、考えているくせに」

 

 そこで、麻衣がふと視線をノートPCから咲太に移した。

 

 「……そういえば」

 

 「はい?」

 

 「同じ中学に通ってた蓮真くんのことは? あの子の存在って、咲太の中でどうなってるの?」

 

 咲太は一瞬だけまばたきをしてから、苦笑する。

 

 「岸和田は別のクラスでしたし。それに、あいつも僕と同じな気がするから」

 

 「同じ?」

 

 麻衣が首をかしげる。

 

 「どういう意味?」

 

 咲太は、少しだけ言葉を選ぶように天井を見上げた。

 

 「多分あいつも、思春期症候群のことで何か抱えてる気がするんですよ。初めて会ったときから、時々“変な勘”が働いてる感じはあったし」

 

 「でも、何も言わない?」

 

 「ですね。自分のことはあんまり表に出さないで、その代わりに他の人に寄り添ってますから」

 

 そこで、咲太は小さくため息をついて笑った。

 

 「……まぁでも。最初に麻衣さんが岸和田に“介添え人”頼んだ時は、普通に嫉妬しましたけどね」

 

 麻衣は、あきれたように目を細める。

 

 「悪かったわね」

 

 そう言いつつも、どこか楽しそうだ。

 

 「でも確かに、蓮真くんは咲太とは違うやさしさを持ってると思うわ」

 

 「違う、ですか?」

 

 「ええ。咲太は正面から押し出して守るタイプでしょ。“自分で責任を取る”って顔してる」

 

 「……まあ、そうかもしれませんね」

 

 「蓮真くんは、もう少し後ろから支える感じ。手は出しすぎないけど、視線だけはずっと向けてるっていうか」

 

 「……言われてみれば、そうかも」

 

 咲太は、さっき玄関で「泊まるなよ」と釘を刺した自分を思い出して、少しだけバツが悪そうに鼻をかいた。

 

 麻衣はマグカップを揺らしながら、ふっと笑う。

 

 「だから、二人ともちゃんと“正義の味方”なんだと思うわよ。タイプは違うけどね」

 

 「“正義の味方”って柄でもないですけどね、僕も岸和田も」

 

 「言うと思った」

 

 麻衣は肩をすくめてから、改めて咲太の横顔を覗き込んだ。

 

 「で、赤城さんのことが気になるのは、どういう意味で?」

 

 その理由は全部で三つある。

 

 「赤城も思春期症候群にかかってるって、霧島透子に言われたし」これがひとつ目。

 

 「それに、もうひとつの可能性の世界で会ってるから、赤城には」これがふたつ目。

 

 「あとは、やっぱり、中学が同じだったからなんだろうけど」

 

 三つ目は、ありきたりで曖味な理由だった。

 

 「赤の他人とは、なんか言い切れないって言うか」

 

 実際、咲太はそう感じている。

 

 昨日の合コンでも、地元の話は盛り上がっていた。「その中学知ってる」とか、「駅前のその店、行ったことある」とか、そういう地域を共有した記憶は、相手を身近な存在に変えてくれる。

 

 「咲太が言うのなら、そうなのかもね。私の場合、その頃の同級生のことは、本当に覚えていないから」

 

 「彼女も、咲太に対して同じように感じているのかしら」

 

 「それは……」

 

 一度は「違うと思う」と言いかけた。

 

 中学時代、咲太の置かれた状況は特殊な面もあったから。

 

 だけど、見ている角度が違っていただけで、赤城もあの場にいたのだ。あの街に。あの学校に。あのクラスに。

 

 こうして指摘されなければ、一生考えなかったかもしれない。

 

 花楓がいじめに遭ったとき、咲太が思春期候群の存在を訴え叫んでいたとき……

 

 クラスメイトたちは何を思い、何を考えていたのかなんて……

 

 咲太にとっては、自分だけが当事者であり、周囲の人間の気持ちなど考えもしなかった。そ

んなものは、自分が抱えている問題の前では、些末なことだと思い込んでいた。

 

 自分だけが不幸だと思っていた。

 

 だが、そうとは限らない。三十数名のクラスメイト全員に感情はある。そして、それは、あの瞬間においては、楽しかったり、愉快だったり………そういう気持ちではなかったはずだ。

 

 中学のクラスの雰囲気は、はっきり言って最悪だったから。

 

 以前、花楓の友達である鹿野琴美から聞いたことがある。

 

 咲太たちが引っ越したあと、花楓のクラスでいじめを起こした女子生徒たちに対して、今度は魔女狩りが行われたと。

 

 その結果、彼女たちも不登校になり、やがて、全員が引っ越していったらしい。

 

 そうやって、悪者をやっつけたことにして、綺麗に蓋をした。

 

 全部忘れたふりをして、残りの中学校生活を続けたのだと………

 

 咲太のクラスメイトたちは、それを待たずに卒業して、みんな中学校を去っている。三年生だったから………

 

 それぞれに進学した高校で、どんな生活を送ったのかはわからない。三年間で、気持ちを清算したクラスメイトはいただろうか。もう咲太のことなどすっかり忘れているのが殆どだろうか。

 

 たぶん、そうだ。

 

 ただ、唯一、赤城郁実だけは、咲太と再会してしまった。

 

 その赤城の胸中は、正直、まったく想像できない。

 

 ただ、影響はあったのだと思う。

 

 今でさえ赤城のことを「中学のクラスメイト」と認識している。そういうラベルが貼られた特別な相手になってしまった。

 

 それは、「恋人」の麻衣さんよりも、「友達」の国見や双葉よりも、そして、「初恋」である翔子さんよりも先に貼られたものだ。

 

 赤城に対して、潜在的な親近感のようなものがある。いや、親近感に似た顔をした嫌悪感なのかもしれない。

 

 赤城郁実のことを問われ、咲太は自分の胸の奥をひとつひとつ確かめていった。

 

 そんな流れの延長で、ふと別の人物のことが頭に浮かぶ。

 

 岸和田蓮真。

 

 尋ねられたわけではない。だが、赤城のことを整理するほどに、自然と比較対象として思い出される相手だった。

 

 (……岸和田に対しては、不思議としこりみたいなものはないんだよな)

 

 理由はいくつか思い当たる。

 

 まず、あの頃の岸和田は「別のクラスの同級生」でしかなかった。

 

 東京から転校してきた、どこか距離のある存在。

 

 毎日顔を合わせるクラスメイトというより、たまに廊下ですれ違う程度の、隣の世界の住人だった。

 

 だからこそ、花楓の件にしても、思春期症候群の件にしても、岸和田を“当事者”として認識したことはなかった。

 

 言ってしまえば、岸和田には、赤城のような「痛み」を背負わせてしまった感覚がない。

 

 そこに罪悪感も、わだかまりも生まれようがなかった。

 

 そして、もうひとつ。

 

 (……別の可能性の世界では、僕と岸和田は“親友”だったらしいしな)

 

 可能性の世界で双葉に言われたあの言葉は、いまだに咲太の心に引っかかっている。

 

 その世界のことを思い浮かべると、岸和田という人間への感情が、ただの「同級生」以上になってしまう。

 

 親近感でもあり、畏怖でもあり、信頼に近いものでもある。

 

 ただ、それがどこから来ているのか説明がつかないから、余計に扱いづらい感情になっている。

 

 不思議な相手だ。

 

 親友だった世界がある。

 

 同じ“病”を抱えている気がする。

 

 それでも、中学時代には交わらなかった。

 

 だから、岸和田に貼っているラベルは、他の誰とも違う。

 

 「心配するべき相手」ではない。

 

 「嫌いになる理由」もない。

 

 「赤城のような傷」もない。

 

 そう。

 

 「いつのまにか隣に立っていた味方」

 

 そんな、第三のラベルが咲太の中には出来上がっていた。

 

 「咲太との再会が、彼女のやっていることに関係しているのかはわからないけど……」

 

 マグカップの中を見つめる麻衣の目は、何かを思い出しているように見えた。

 

 「私と咲太には、わかってることもあるでしょ?」

 

 「そうですね」

 

 「未来を変えるのが、どれだけ残酷で、大変か。それが、大切な誰かのためなら、やめた方がいいなんて言わない。言えるわけがない」

 

 それを言ったら、自分たちがしてきたことを、否定しなければならない。

 

 沖縄の空の下で笑顔を見せる彼女のがんばりを、否定することになる。

 

 「だけど、麻衣さんも、赤城の“正義の味方”には反対なんだ」

 

 「誰かの幸せは、誰かの不幸かもしれないのを、私と咲太は知ってるから」

 

 「ですね」

 

 あんなに泣いて、苦しくて、それでももがいて、もがいて、もがいて……でも、ダメで、その先にようやく掴んだ今がある。

 

 助けたことで変わった未来がある。それが、もっと酷い未来に繋がっている可能性も、誰にも否定できないのだ。

 

 「こんなことを言ったら、正義の味方の邪魔をする悪者みたいね」

 

 「じゃあ、悪者は悪者らしく、悪の組織を起ち上げようかな」

 

 麻衣の話を聞いて、余計なことをする気になった咲太は、ノートPCに改めて両手を伸ばした。

 

 表示したのは、Xのサイト。ささっとIDとパスワードを決めて、アカウントを作る。アイコンには、あくびをしたなすのの写真を採用した。

 

 「なすのが、総帥だからな」

 

 咲太がそう声をかけると、なすのは眠たい声で「な~」と鳴いた。

 

 十一月二日

 

 国際商学部の講義。

 

 教室の後ろ寄り、窓側の列でノートパソコンを開いていると、隣の席に荷物が置かれた。

 

 「ここいい、岸和田くん?」

 

 顔を上げると、美東さんが、いつものゆるい笑顔で座ってきた。

 

 「おはよう。今日も前の方、混んでた?」

 

 「うん、なんか最近、みんなやる気あるよね……」

 

 そうぼやきながらPCを立ち上げたあとで、ふと思い出したみたいにこちらを見た。

 

 「そういえばさ。合コン、どうだった?」

 

 「ああ……」

 

 一昨日の夜のことを思い返しながら、俺は肩をすくめる。

 

 「まぁ、意外と盛り上がったよ。知り合いばっかりだったけど」

 

 「どういうこと?」

 

 「男子側がさ、咲太に、福山に、小谷先輩。女子側も、ボランティアで一緒の子が一人いてさ」

 

 「それもう半分身内じゃん」

 

 苦笑しながら、でもちょっと興味ありそうに身を乗り出してくる。

 

 「やっぱり麻衣さんの話題出た?」

 

 「まぁなぁ。麻衣先輩は有名人だからなぁ」

 

 「だよねぇ」

 

 そこで、美東さんは少し視線を泳がせてから、楽しそうに続けた。

 

 「岸和田くんと梓川くんって、高校のときから麻衣さんと一緒なんだよね?」

 

 「ああ、そうだよ」

 

 「いいなぁ。わたしもその高校通いたかったなぁ。江ノ島も鎌倉も近くて、毎日が青春って感じ」

 

 「それ、合コンで一緒になった女子にも言われたよ」

 

 苦笑すると、美東さんは「あ~絶対言うわ〜」と納得した顔をする。

 

 「そういえば、美東さんは出身静岡だっけ?」

 

 「……え、なんで知ってるの?」

 

 「この前の英語の授業で、美東さん、自分で言ってただろ。“先月は故郷の静岡に帰ってた”って」

 

 「あ、そっか。言ってたかも」

 

 自分で言ったことを忘れていたらしい。マグカップの柄でも眺めていそうな顔で笑う。

 

 「わたしの高校の近く、茶畑ばっかだったなぁ」

 

 「たしかにな。静岡と言えばお茶だよなぁ。市川園のCMとか」

 

 「え、岸和田くん、よく知ってるね?」

 

 「父親の実家が静岡でさ。今もたまに一人で、さわやか行ったり、焼津とか沼津に海鮮丼食べに行ったりするんだよ」

 

 「へぇ……」

 

 美東さんの目が、少しだけ丸くなる。

 

 「じゃあさ。どこかで会ったことあるかもね」

 

 「そうかもな」

 

 軽く笑いながら返した、その時だった。

 

 誰かと一緒に、坂の途中でしゃがみ込んでいる映像が、ふっと頭をかすめた。

 

 夏みたいな光。アスファルトの照り返し。小さな子どもの笑い声。

 

 「……?」

 

 思わず瞬きをする。

 

 細い手が、小さな貝殻みたいなものを差し出してくる。その横で、もう一人の女の子が、「それうたにできそう」と言って笑って……

 

 (……今の、なんだ?)

 

 次の瞬間には、その断片はもう掴めなくなっていた。

 

 まぶしすぎる夏の日みたいに、目を細めた一瞬のすき間からこぼれ落ちていく。

 

 胸の奥に、名前にならないざわめきだけが残った。

 

 「どうかした?」

 

 「いや、なんでもない」

 

 指先に残っていた夏の残像が消えかけたころ、ふっと思い出した。

 

 「そういえばさ、美東さんも合コン行ったんだよな?」

 

 「うん?」

 

 「イケメンとの合コンはどうだった?」

 

 美東さんはノートPCの画面を閉じかけた手を止め、首をこてんと傾けた。

 

 「あー……それね」

 

 少し頬を膨らませて、ため息。

 

 「店に行く途中、ハロウィンの行進に邪魔されてさ。真奈美とはぐれちゃって迷子になって」

 

 「迷子……」

 

 「だから、本当にイケメンだったのかは、わかんないかなぁ」

 

 肩をすくめる姿が、やけに自然で、ちょっとおかしい。

 

 「まあ、美東さんスマホ持ってないしな。場所わからなかったら、そりゃ会えないか」

 

 「でしょ?左?右?ってやってたら、みんな消えてたんだよね……」

 

 へにょっとした笑顔は、諦めているようで、どこか可哀想でもある。

 

 「わたしもお肉食べたかったなぁ。にくにくしいお肉〜」

 

 両手の指をぐっと握って“にくにくしい”を強調するあたり、真剣さだけは本物らしい。

 

 「肉に全振りの感想だな」

 

 「お肉って、正義だからね」

 

 そんなことを言いながらも、美東さんはなんとなく残念そうで、だけど、どこかでまあいっかと笑えるような柔らかさをまとっていた。

 

 その揺れ幅が、美東美織らしいと思った。

 

 だけど、そう言って笑う美東さんの横顔を見ていると、さっき胸の奥に残ったざわめきが、また小さく波紋を描いた気がした。

 

 (……あの記憶、本当に気のせいだったのか?)

 

 夏の残像は消えたはずなのに、指先だけが、まだ何かを掴み損ねたみたいに疼いていた。

 

 講義が終わり、スマホが小さく震えた。

 

 画面を見ると、大津と浜松さんの名前が並んでいた。

 

 講義終了と同時に教室を出て、廊下の窓際でメッセージを開く。

 

 《岸和田、今週の土曜さ、湘南平ヒルクライム行かない?》

 

 《海風のぼりコースなんだけど、岸和田くんも来ない?》

 

 誘われた瞬間、胸の奥がふっと軽くなった。

 

 《行くよ。むしろ行きたい》

 

 即座に返してから、前から気になっていたことを打ち込む。

 

 《……そういえば、この間の平塚の大会、行けなくてごめんな》

 

 送信して数秒。ほぼ同時に、二人から返事が飛んできた。

 

 《気にしないでってば!こっちが勝手に誘っただけだし!》

 

 《そうだよ。むしろ今度は一緒に坂でゼーゼー言おうね、岸和田くん》

 

 思わず笑ってしまう。

 

 大津も浜松さんも、本当にブレない。

 

 (……よかった。二人とも変わってない)

 

 スマホをしまいながら、土曜日の青い空を想像した。

 

 久しぶりのロードバイク、海風の匂い、ペダルを踏むたびに胸につまってたものがほどけていく感覚がした。

 

 夕方。講義を終えた俺は、そのままバイト先のファミレスへ向かった。

 

 バックヤードでエプロンを締め直していると、先に休憩室にいた古賀が顔を上げた。

 

 「あ、きっしー先輩。今日シフト一緒だよ」

 

 「おう。久しぶりだな」

 

 そう言いかけたところで、古賀が急に眉を寄せた。

 

 「なんか先輩がさ……日曜シフト変わってほしいって、花楓ちゃんから連絡来てたんだけど」

 

 「あー……あれか」

 

 バチッと来たらしい。古賀の目が鋭くなる。

 

 「きっしー先輩も日曜日来ないの?」

 

 「ああ、ライブ行くからな」

 

 「それってさぁ、スイートバレットでしょ?」

 

 「……ああそうだけど、なんで分かったんだ?」

 

 古賀は呆れたみたいにため息をつく。

 

 「そりゃあ、きっしー先輩が行きそうなライブって言ったら、それしかないじゃん」

 

 「偏見じゃないか?」

 

 「事実じゃん」

 

 まっすぐに言われて、なんか悔しい。

 

 「どこでやるの?横浜アリーナとか?」

 

 「いや、学祭ライブだよ。俺らの大学の」

 

 「へぇ〜……学祭でやるんだ。すごいねスイートバレット」

 

 古賀は羨ましそうに遠くを見る。

 

 「いいなぁ。あたしも大学生になったら、学校でライブとかあったりするのかなぁ」

 

 「そういえばさ、指定校推薦の結果ってまだなのか?」

 

 「ううん、もうすぐだと思う」

 

 その答えを聞いた瞬間、ふと前から決めていたことを思い出した。

 

 「じゃあ、合格したらさ。前頼まれたイヤホン、プレゼントするよ」

 

 「えっ!? あれ高いじゃん!!」

 

 「卯月に頼んで、譲ってもらったんだよ」

 

 古賀が箸を落としそうな勢いで固まった。

 

 「……きっしー先輩、づっきーのこと呼び捨てになったんだ?」

 

 「ん?」

 

 「付き合うことにでもなったの?」

 

 「おいおい……」

 

 「だって呼び捨てって絶対そういうやつじゃん」

 

 「いや、流れでこうなっただけだよ……」

 

 じとっとした目で見られる。

 

 「きっしー先輩はさ。先輩と桜島先輩みたいに、中々会えない相手がいいの?」

 

 「いや、特にそういうのはないよ」

 

 「ふーん……そうなんだ」

 

 あきらかに何か探っている目だった。

 

 「古賀も早く彼氏作ればいいじゃないか」

 

 「それ言わないでよ! きっしー先輩ばりむかぁ!」

 

 急に不貞腐れたみたいに胸元のエプロンを引っ張る。

 

 「そんな拗ねるなよ……なんかあったのか?」

 

 「……だって。奈々ちゃんにさ、彼氏できそうだから」

 

 「ああ、その話か」

 

 米山奈々。古賀の仲良い友だちだ。

 

 「大学生になったら……あたしも合コンとか行こうかなぁ」

 

 「まあ、それはありかもな。合コン意外と楽しいし」

 

 「へぇ? きっしー先輩、合コン行ったことあるんだ?」

 

 「ああ、ついこの間な。咲太と大学の友だちと一緒に」

 

 「え、先輩も行ったの?浮気じゃん!!」

 

 「それは言ってやるなよ……麻衣先輩から許可得たって言ってたし」

 

 「でも浮気じゃん!」

 

 「言うな言うな……」

 

 そんなやり取りをしていたら、ホールのチャイムが鳴った。

 

 「じゃ、きっしー先輩。仕事戻るよ」

 

 「おう」

 

 古賀はトレーを持ち上げると、少しだけ笑って言った。

 

 「日曜のライブ、ちゃんと楽しんできてね」

 

 その一言が、なんだか妙に嬉しかった。

 

 バイトを終えてアパートに戻り、シャワーを浴びて一息ついたところで、スマホが震えた。

 

 画面には、赤城郁実の名前。

 

 (……この時間に?)

 

 嫌な予感というより、「何かを決めた人間の気配」みたいなものを感じて通話を押す。

 

 「もしもし、赤城?」

 

 「……岸和田くん? 今、大丈夫?」

 

 声が、昼間よりもずっと静かだった。

 妙に落ち着きすぎている気さえする。

 

 「大丈夫だけど。どうした?」

 

 少しだけ間が空いてから、赤城が言った。

 

 「#夢見るのことなんだけど……」

 

 「……ああ、その話か」

 

 「うん、あのね……」

 

 そこで息を吸い直す気配がした。

 

 赤城は頼みごとをする前の癖がある。

 

 呼吸が整うまで、ほんの一瞬だけ沈黙が生まれる。

 

 「……今日の夕方、投稿にこんなのがあったの」

 

 赤城の声が少しだけ硬くなる。

 

 「{こどもの国で、ローラーすべり台から子どもが落ちて怪我する夢みた。私も明日いとこと行くけど大丈夫かなぁ #夢見る}……って」

 

 思った以上に具体的な内容だった。

 

 (……やっぱり、#夢見るは“ただの夢”じゃない)

 

 一昨日合コンで見せられた書き込み。

 

 日付・時間・場所が曖昧ではなく、はっきりしていたもの。

 

 そこに引っかかっていた理由が、胸の奥でようやく形を取る。

 

 「その投稿が……気になったのか?」

 

 「……うん。でも……行けないの。腕、怪我しちゃって」

 

 「あ?怪我って……赤城、大丈夫か?」

 

 必要以上に語気が強くなった。

 自分でも驚くくらい。

 

 「ううん、軽い捻挫だから。本当にたいしたことじゃないよ。日常生活には支障ないよ」

 

 でも、軽いと言える声じゃなかった。

 

 痛みより、悔しさとか、無念のほうが混ざっている音だった。

 

 「家の近くなのに……自分で見に行けないのが、すごく心苦しくて」

 

 そこで赤城は、息を飲んだ。

 

 「……岸和田くん。お願いできないかな?」

 

 まっすぐで、不器用で、逃げ道のない頼み方だった。

 

 責任を押しつけるんじゃなく、助けたい気持ちだけが先に出てしまって、最後にようやく「頼る」という選択を掴んだみたいな声。

 

 「わかった。代わりに行くよ」

 

 そう答えたあと、通話を切ったスマホを見つめながら、胸の奥にひとつの感情が残った。

 

 (……赤城は“#夢見る”を使って、本気で人を助けようとしている)

 

 それは、責任感だけではない。正義感だけでもない。

 

 何か別のことの延長線上で、今回は誰かを救いたいという願い。

 

 だけど、赤城のその気持ちの正体を、俺はまだ掴めていない気がした。

 

 だから。

 

 (#夢見るの書き込みが“本当に正夢”になるのか確かめれば……赤城の“本当の想い”にも触れられるはずだ)

 

 助けるためだけじゃない。予知が現実になるのか知りたいだけでもない。

 

 赤城が何を背負って、何を恐れて、何を願って動こうとしているのか。

 

 それを知るために、俺は、こどもの国へ向かうことにした。

 

 十一月三日

 

 田園都市線の車内は、祝日のゆったりした空気で満ちていた。

 

 こどもの国線に乗り換えると、さらに家族連れが増える。子どもの笑い声、ベビーカー、手をつないだままはしゃぐ兄弟。

 

 (……田園都市線に乗るの、いつぶりだろ)

 

 窓の外を流れる景色が、妙に懐かしかった。

 

 中学の頃。目黒の実家から、あの頃暮らしていた別の家までの往復で、毎週のように乗っていた電車。

 

 ホームの匂い、車両の揺れ。全部、指先が覚えていた。

 

 (……戻ってくるもんだな。こんな形で)

 

 こどもの国駅に降り立つと、文化の日の祝日ということもあり、家族連れで大賑わいだった。

 

 売店の前でソフトクリームを持って跳ね回る子。大きなレジャーシートを広げる父親。ベビーカーを押しながら歩く母親。

 

 そのどれもが、昨日赤城の声越しに感じた、焦りとは無縁の光景に見えた。

 

 (……本当に、何か起こるのか?)

 

 ローラーすべり台の方へ歩いていくと、すでに行列ができていた。

 

 長い坂。鮮やかな青いレーン。

 

 子どもたちの「いくよー!」「まってー!」という声がこだまする。

 

 その瞬間、胸の奥がざわついた。

 

 (#夢見るの投稿……子どもが、すべり台から落ちる夢)

 

 軽く息を吸い、俺はすべり台の下側、落ちる可能性がある位置へと回り込む。

 

 「なんで俺が……」

 

 自嘲するように呟きながらも、足は止まらなかった。

 

 赤城の願い。

 

 赤城の無念。

 

 赤城の、助けたいのに助けに行けない、という声。

 

 それが耳に残っていた。

 

 (……あいつは、本気で誰かを助けようとしていた)

 

 その真意を知りたかった。

 

 だから、確かめる。

 

 #夢見るが、正夢なのかどうか。

 

 その時だった。

 

 「あっ!!」

 

 甲高い悲鳴と、母親の叫び声。

 

 視界の上で、小さな影が横にぶれた。

 

 足を滑らせたのか、カーブでバランスを崩したのか。

 

 男の子の身体が、すべり台のレーンから外れて、ふわりと浮いた。

 

 時間が、伸びた。

 

 (……落ちる)

 

 頭で考えるより先に、体が動いた。

 

 地面を蹴り、腕を伸ばし、着地の角度を読んで。

 

 「……っ!」

 

 衝撃。

 

 小さな体を抱え込んだ拍子に、俺の右肩に痛みが走った。

 

 子どもは泣き叫びながらしがみついてくる。

 

 「だ、大丈夫……俺は大丈夫だから……!」

 

 俺が膝をついたままそう言うと、すぐに母親が駆け寄ってきた。

 

 「ありがとうございますっ、本当に……本当にすみません……!!」

 

 「いえ……無事ならそれで……」

 

 笑おうとしたが、肩の痛みが鋭く刺さって顔が歪む。

 

 (完全にやったな……これ)

 

 子どもの父親も駆け寄ってきて、深々と頭を下げられた。

 

 通りかかったスタッフが状況を確認し、形成外科を案内しようとするが、俺は軽く首を振った。

 

 「大丈夫です。子どもが無事なら、それで」

 

 痛みはあったが、骨まではいってない。多分、打撲。

 

 俺が腰を上げると、母親が震える声で言った。

 

 「助けてくださって……ありがとうございます」

 

 「……いえ」

 

 一歩離れた瞬間、胸の奥に重たい疑問が落ちた。

 

 (……赤城。お前は、これを自分でやろうとしていたのか?)

 

 今日の投稿を見て。怪我をしていなかったら。赤城は、おそらくここへ来て、同じように助けようとしただろう。

 

 自分の身を投げ出してまで。

 

 (なんで……そこまでして……)

 

 責任感だけで説明できる行動じゃない。

 

 彼女は、正しいことをしたいという人間だ。でも、これはそれを超えている。

 

 怪我をしてでも来ようとした。俺に頼んだ声は震えていた。

 

 その裏にあるものは、なんだ?

 

 (……過去か?)

 

 救えなかった誰か。

 

 見て見ぬふりをしてしまった自分。

 

 後悔。贖罪。やり直し。

 

 (赤城……お前、何を抱えてんだよ)

 

 痛む肩を押さえながら、俺は人混みの外れへ歩いた。

 

 助けられた子どもの泣き声が、次第に遠ざかっていく。

 

 祝日の賑やかさの中で、自分だけが別の空気を吸っている気がした。

 

 (#夢見るは……やっぱり、本当になる)

 

 そしてもうひとつ。

 

 それを使って人を助けようとした赤城の真意は、俺が思っていたより、ずっと深いところにある。

 

 そう気づいた瞬間、胸の奥がじわりと熱くなった。

 

 少し離れたベンチに腰を下ろし、呼吸を整える。

 

 肩に残った痛みが、じんじんとうずくように脈打っていた。

 

 (……思ったより、いってるなこれ)

 

 子どもを受け止めた瞬間の衝撃。

 

 あの体勢では、どうやっても右肩に全部のしかかった。時間が経つにつれ、鈍い痛みがはっきりしてくる。

 

 「っ……」

 

 軽く肩を回すと、すぐに痛みが走る。

 

 (これ、明日もっと痛くなるやつだな……)

 

 そこまで考えたところで、ふいに思い出す。

 

 《今週の土曜さ、湘南平ヒルクライム行かない?》

 

 大津の明るい誘い。

 

 浜松さんの《一緒にゼーゼー言おうね》という軽いノリ。

 

 (……土曜、どうするかな)

 

 ロードバイクは、ちゃんと肩を安定させておかないと危ない。

 

 特に湘南平は坂がきつい。

 

 ダンシングなんてしたら、一発で響く。

 

 (せっかく誘ってもらったのに、無理して行って転けたら意味ないしな……)

 

 それでも、気持ちが完全に折れたわけじゃなかった。

 

 大津と浜松さんとのツーリングは、行きたい。

 

 三人で走る、あの空気が好きだから。

 

 だが現実は、肩の痛みがそのまま判断材料となる。

 

 「打撲の調子次第じゃ、考え直さなくちゃな」

 

 そんな現実的な考えが、自然と頭に浮かんでくる。

 

 (……とりあえず今日は安静。明日の朝の痛み次第、か)

 

 自分にそう言い聞かせて、再び肩を押さえる。

 

 冷たい風が頬を撫で、祝日の賑やかな声が少し遠くに聞こえた。

 

 助けられたのは良かった。

 

 でも、その裏で何かを犠牲にしてしまう、そんな現実の重みが、じわりと肩の痛みと一緒に染みてくる。

 

 園内の出口に向かいながら、スマホを手に取る。

 

 赤城との通話履歴が、すぐ上に残っていた。

 

 (……報告、するべきなんだろうけど)

 

 子どもを無事キャッチできたこと。その代わり、自分が軽く肩を痛めたこと。

 

 真っ先に知らせて安心させるのが筋なんだと思う。

 

 けれど……

 

 (あいつのことだ。絶対、自分の怪我みたいに心配するよな)

 

 赤城は、自分の捻挫のことだって「たいしたことない」と言いながら、その声に悔しさを滲ませていた。

 

 ああいう人は、自分のしてほしかったことを、他人がやると、自分事みたいに背負うタイプだ。

 

 俺がケガしたなんて知れば、間違いなく今日の件を自分の責任のように抱え込む。

 

 (……それは避けたいな)

 

 赤城に心配をかけたくない、というより、赤城が自分を責めそうで嫌だという感情のほうが強かった。

 

 だから、俺はスマホをゆっくりポケットに戻す。

 

 (もしかしたら赤城、学祭に来るかもしれないし……そのとき、話せばいいか)

 

 なら、あえて今は連絡しなくてもいい。

 

 (……でも、確かめた方がいいよな)

 

 気づけば、自然と頭に浮かんでいた名前がひとつある。

 

 上里沙希。

 

 赤城とは一番近い距離で行動している友だち。

 

 (上里なら……赤城の予定、ある程度知ってるかもな)

 

 俺は改札を抜け、ホームに降りる階段をゆっくり下りながら、スマホを取り出す。

 

 上里沙希のアイコンに指を滑らせて止める。

 

 《上里さん、赤城が学祭来るか分かる?》

 

 それだけ。

 

 余計な気遣いも、理由もいらない。

 

 赤城が学祭に来るなら、そのときに落ち着いて報告すればいい。

 

 来ないなら……そのときは、別のタイミングで。

 

 風が冷たくなってきた夕方のホームで、俺は小さく息を吐いた。

 

 (……どっちにしても、赤城の本当の理由には、いずれ向き合わなきゃいけないな)

 

 子どもの国の、あのローラーすべり台の衝撃がまだ肩に残っている。

 

 その痛みより、赤城の気持ちのほうが、ずっと重く、ずっと複雑だった。

 

 夕飯を簡単に済ませ、シャワーを浴びたあと。ようやく肩の痛みが少し落ち着いてきたころ、枕元に置いていたスマホが震えた。

 

 上里からの返信だ。

 

 《学祭だけどね、郁実の提案で、私と千春と明日香でタコスの屋台やる予定。だから郁実も来るよ》

 

 《あと福山くんと小谷さんも手伝いに来てくれる》

 

 (タコス……?)

 

 思わず苦笑しながら返信する。

 

 《へぇ、タコスの屋台か、じゃあ俺も食べに行く》

 

 数十秒もしないうちに、既読がついて返事が来た。

 

 《来なよ。材料だけはやたらいいの揃えたから、美味しいはず》

 

 《それと、郁実のことだけど》

 

 そこで文が一拍置かれたのが分かった。

 

 続くメッセージを見た瞬間、わずかに胸がざわつく。

 

 《怪我しちゃったらしいから、当日はバックヤードにいてもらう予定》

 

 《怪我人働かせたくないし》

 

 (……やっぱり怪我したこと、上里は知ってるんだな)

 

 赤城は電話では軽い捻挫と言っていたけど、こうして上里の口から改めて聞くと、その現実味が重くのしかかる。

 

 俺は短く息を吐いて、返信を打ち込んだ。

 

 《さすが上里さん。歯に衣着せぬ言いようだな》

 

 少しだけ間を置いて、上里から返事が来た。

 

 《当然でしょ。郁実って、他人のためなら無茶するタイプだから》

 

 《止める人がいなかったら平気で限界までやるから》

 

 その言葉は、まったくの正論だった。

 

 同時に、こどもの国のローラーすべり台で子どもをキャッチしたときの光景が、鮮明に蘇る。

 

 もし、あの場にいたのが自分じゃなく赤城だったら……確かに、止める人間が必要だ。

 

 だからこそ、上里は赤城を、バックヤードに置くという選択をしたのだと気づく。

 

 《郁実のこと気になるなら、学祭のときに顔見に来てあげて》

 

 その一文に、胸の奥がわずかに波紋を描いた。

 

 (……やっぱり、今日のことは学祭で話すべきだな)

 

 痛む肩をさすりながら、俺はスマホを伏せた。

 

 赤城の本当の気持ち、#夢見るをなぜ追うのか、なぜ人助けに固執するのか。

 

 そして、なぜ今日わざわざ俺を頼ったのか。

 

 その答えに触れるのは、もう少し先になる。

 

 十一月六日、スイートバレット学祭ライブの日。

 

 あのバックヤードに立つ赤城の表情を見たとき。きっと、今日の出来事の続きが始まる。

 

 十一月六日

 

 玄関を出て、肩を軽く回してみる。

 

 痛みはもう、ほとんどない。

 

 (金曜の朝はまだズキズキしてたけど……あの日よりはずっとマシだな)

 

 子どもの国で受け止めた打撲は、金曜にはまだ重さがあった。

 

 だから、あの朝、大津と浜松さんにメッセージを送った。

 

 《肩が少し痛くてさ、土曜日のコース、エボシラインに変えてもらうことってできる?》

 

 二人はためらいなくOK。

 

 むしろテンション高かったくらいだ。

 

 (土曜のツーリングは……結果的に、あれでよかった)

 

 海風が気持ちよくて、肩への負担も少ない。

 

 エボシラインは、ちょうどいい選択だった。

 

 そして帰り道のベンチで、浜松さんが、ふと真剣な表情をした。

 

 「……岸和田くんってさ、誰か……気にしてる人、いるよね?」

 

 その一言は、海風よりよっぽど冷静な音で胸に刺さった。

 

 返事をする前に、彼女はいつもの笑顔に戻ったけれど。

 

 (……なんで、あの時あんなに胸が痛くなったんだろうな)

 

 原因は、分かっている。

 

 俺が“ごめん”と言った理由。

 

 曖昧なままにできなかった理由。

 

 俺の中には、すでに、特別になっていた誰かがいたから。

 

 名前を挙げる必要なんてなかった。

 

 浮かんできてしまった時点で、答えは出ている。

 

 卯月。

 

 のどか。

 

 その二人のうち、どちらか、というより。

 

 (……どっちも、俺の中で、たまたま特別になってた、だけなんだろうけど)

 

 そう言い訳しようとすると、逆に胸がざわついた。

 

 卯月の素っ頓狂な明るさに救われた日がある。

 

 のどかの静かな頑張りに心が揺れた日もある。

 

 どちらも他の誰とも違う距離感で、俺の生活に入ってきていたのに、俺は、気づかないフリをしていたのかもしれない。

 

 (……浜松さんの一件で、誤魔化せなくなっただけだな)

 

 言葉にした瞬間、胸が少しだけチクッとした。

 

 坂を上りながら、大学の校舎が見えてくる。

 

 今日は学祭。

 

 のどかと卯月はステージに立つ。

 

 赤城はバックヤードにいる。

 

 (金曜と土曜の全部が、今日ここで一本に繋がりそうだ……)

 

 変な予感ではない。

 

 でも、なにかが変わる匂いがする。

 

 肩は治った。

 

 気持ちは、まだ途中。

 

 答えを出す勇気なんて、まだない。

 

 だけど、あの二人の顔を見たら、昨日よりもう少し、ちゃんと向き合える気がした。

 

 そんな心の揺れを抱えたまま、俺は学祭の喧騒へ足を踏み入れた。

 

 飾りつけされた正門をくぐるなり、真っ直ぐ伸びる並木道から、人の熱気が押し寄せてきた。

 

 屋台の煙。はしゃぐ子どもの声。 

 

 呼び込みの学生の声が混ざり合って、まるで校舎全体が浮いているみたいな高揚感があった。

 

 (……すげぇな。こんなの、大学でやるんだ)

 

 左右に軒を連ねる模擬店の匂いだけで、腹が減りそうだ。

 

 看板を持った着ぐるみまで歩いていて、道行く人が一斉にスマホを向ける。

 

 活気に溢れた並木道は、通り抜けるだけでも苦労した。

 

 人混みを抜け、メイン会場の野外ステージに近づくほど、音の圧が大きくなる。

 

 リハの音、客席のざわめき、スタッフ同士の短い掛け声。

 

 スイートバレットのゲストライブは、この場所で行われる。

 

 ステージ袖に向かう途中で、聞き慣れた声がした。

 

 「おーい、岸和田」

 

 振り向くと、咲太と麻衣先輩が手を振っていた。その少し後ろに、花楓ちゃんと鹿野さんも見え、二人が同時に小さく会釈してくれる。

 

 「蓮真さん、こっちです!」

 

 花楓ちゃんと鹿野さんが控えめに手を振り、咲太は相変わらずマイペースな笑み、麻衣先輩はもう現場の目でステージを観察していた。

 

 全員でステージ前のスペースに移動する。

 

 開演の合図とともに、客席が一気に沸き立った。

 

 そして、スイートバレットが駆け出してきた瞬間、歓声が爆発した。

 

 のどかは本番の空気を纏うと、まるで別人みたいに強く、美しく見える。

 

 卯月はステージの上だと、天性の明るさが照明みたいに周囲まで照らす。

 

 六曲のブロックは、勢いそのままに駆け抜けていった。

 

 「君のせい」

 

 「スノウドロップ」

 

 「BABY!」

 

 「オトメノート」

 

 「超音波のメロディ」

 

 「ミューズになっちゃう」

 

 そして最後の一曲。

 

 進行役の学生が調子に乗って、質問コーナーをはじめたり、予定にないアンコールを煽ったりと、いくつかのアドリブが飛び出したが……

 

 のどかも卯月も、安濃さんも、岡崎さんも、中郷さんも、まったく動じない。

 

 プロの顔で、すべてを受け止め、盛り上げに変えてしまう。

 

 そして、場内が静まり返る。

 

 「次の曲は……特別に、カバーを一曲やらせてもらいます!」

 

 卯月がマイクを握り、満面の笑みを広げた。

 

 「Social World!」

 

 霧島透子の代表曲。

 

 卯月がCMでカバーし、SNSで話題になったあの曲だ。

 

 イントロが流れた瞬間、客席の空気が明らかに変わった。

 

 熱狂から、静かな期待へ。

 

 のどかの安定したコーラスラインに、卯月の澄んだ声が重なる。

 

 >境界線は溶けて消えた 

 

 >ひとつに混ざった みんなに僕はなる

 

 >いけないことなの、ねぇ

 

 (……なんだよこれ、鳥肌たつな)

 

 歌声が空に抜けるたび、胸のあたりが少しだけ締め付けられる。

 

 卯月の声は明るいのに、どこか寂しさが混ざる時がある。

 

 のどかの声は力強いのに、優しく寄り添ってくるような響きがある。

 

 そのふたつが綺麗に重なるたび、昨日のことが、胸の奥でゆっくりと動き始めた。

 

 (……俺は、本当に気づいていなかったのか?)

 

 卯月の距離。

 

 のどかの想い。

 

 そして昨日、浜松さんから向けられた、あの目。

 

 ステージの光を浴びるふたりを見ながら、胸の奥がざわりと揺れた。

 

 誰の声が好きかとか、誰が特別かとかじゃない。

 

 ただひとつ。俺の世界に、もうずっと前から入り込んできていた。

 

 それが、卯月であり、のどかだった。

 

 ライブは大きな拍手のまま幕を閉じ、ふたりは深く一礼した。

 

 ステージに映るふたりがあまりに眩しくて、思わず目を細める。

 

 (……すげぇよ、お前ら)

 

 その光景を胸に焼き付けながら、俺は静かに手を叩いた。

 

 メインステージでのスイートバレットのライブが無事に終わった。

 

 拍手と歓声の余韻が、まだ薄く残っている。

 

 観客の波を抜け、控え室のドアをノックして開けた瞬間、最初に声をあげたのは岡崎さんだった。

 

 「わ、きっしーくんじゃん! 久しぶり!」

 

 続けて、中郷さんがふっと笑う。

 

 「本当、久しぶりね。大船ライブ以来?」

 

 最後に、安濃さんが腕を組んでこちらを見る。

 

 「やっぱ来てたんだ。花楓ちゃんたちと挨拶に来てくれた時以来だね」

 

 あの日の、ライブの終演後の控え室が一瞬よぎる。

 

 スイートバレットの三人に、花楓ちゃんと鹿野さんが緊張しながらも喜んでいた、あの空気。

 

 今日はステージ衣装のまま、三人ともあの時よりぐっと大人びて見えた。

 

 「お疲れさまです。久しぶり」

 

 軽く頭を下げると、三人それぞれが違う温度で俺を見た。

 

 「きっしーくん、やっぱ安心感あるよね~」

 

 岡崎さんが無邪気に笑う。

 

 (この子、直感で人を判断するタイプだよな……)

 

 「どかちゃんとづっきーの側に、きっしーくんがいるの、安心だよ〜」

 

 さらっと言うのは中郷さん。

 

 最年長らしい落ち着きで、少し離れた位置から状況を測っているのが分かる。

 

 そして。

 

 「頼りにしてるよ、きっしーくん」

 

 安濃さんは、妙に含みのある視線を寄越してきた。

 

 (……やっぱ、この人は気づいてるな)

 

 のどかと卯月、そして俺。

 

 その三角形の空気の変化を、プロの眼で静かに見抜いている。

 

 そんな三人の視線を受け止めながら、中へ足を踏み入れると、のどかが背を預けて深呼吸を繰り返し、卯月はタオルを押し当てて汗を拭っていた。

 

 その姿を見た瞬間、ステージでの華やかさと裏側の息遣いが繋がって、胸が少しだけ温かくなる。

 

 「お疲れ。ちゃんと水、飲んだか?」

 

 冷えたペットボトルを差し出すと、のどかがほっとしたように笑う。

 

 「……ありがとう、蓮真。なんか一気に気が抜けちゃった」

 

 「私も〜……ライブって、やっぱ体力使うね」

 

 卯月はタオルの隙間から、へにゃっと締まりのない笑顔。

 

 「ちゃんと汗引かせてから移動しろよ。外、人多いし風強いぞ」

 

 「うん……でもその前に、卯月のメイク直ししなきゃ」

 

 「え〜、のどかが先にやってよ〜」

 

 二人の言い合いは、さっきまでステージでプロの顔をしていたとは思えないほど日常的で、見ていて少しだけ安心する。

 

 そこへ、控え室の扉がノックされ、麻衣先輩と咲太が顔を出した。

 

 「お疲れさま。だいぶ押したみたいね」

 

 麻衣先輩が言い、のどかと中郷さんが大きくため息をつく。

 

 「アンコールは予定になかったのに」

 

 「進行の子、調子に乗りすぎ〜」

 

 「でも、みんな喜んでたし、良かった〜」

 

 卯月はまるでステージの続きみたいに無邪気に笑う。

 

 「このあと、ミスターミスコンテストのプレゼンターだっけ?」

 

 咲太が確認すると、のどかが「そう。だから……」と言って、こちらへメモを渡してきた。

 

 焼きそば、タピオカ、たこ焼き、チョコバナナ、アメリカンドッグ、タコス……

 

 見事に学祭の象徴みたいなラインナップだ。

 

 「蓮真、咲太、終わるまでに買ってきて」

 

 岡崎さんがすかさず声をあげる。

 

 「チョコバナナはマストで!」

 

 「了解、岡崎さん……」

 

 苦笑してメモを折り畳む。

 

 先に出ていった咲太と麻衣先輩の後を追おうと、控え室の扉に手をかけた。

 

 その瞬間、肩越しに声が届いた。

 

 「二人のこと、頼むよ、きっしーくん」

 

 安濃さんだった。

 

 わざわざ俺の耳元に口を寄せて、小声で。

 

 二人という言葉の意味は訊かなくても分かった。

 

 のどかと、卯月。

 

 振り返ると、安濃さんは意味深に片目を閉じた。

 

 「……いや、俺はただの買い出し担当だから」

 

 「そういうことじゃないでしょ?」

 

 軽く笑って、安濃さんはのどかと卯月の方へ視線を送る。

 

 ほんの一瞬。その視線の意味が、胸の奥にひっかかった。

 

 気づいてる人には、全部見えている。

 

 そんな目だった。

 

 俺は何も言えないまま、「行ってきます」とだけ告げ、控え室を後にした。

 




物語解説

今回の章では、大学生活という何気ない日常に、ごくわずかな揺らぎが差し込んでくる瞬間を描きました。

#夢見るに記された一行の書き込み、赤城郁実が見せた行動の裏側にあるもの。

誰かを救いたいと願う力強さと、その影に潜む脆さ。

それは蓮真自身がかつて抱えていた後悔とも響き合い、ただ観察するだけではいられない感情を呼び起こします。

一方で、土日の出来事は蓮真の心に別の方向から風を吹かせました。

美凪と夏帆とのツーリング、ふとした告白の余韻、それがきっかけとなり、のどかと卯月という二人の存在を、違う意味で意識せざるを得なくなっていきます。

静かに積み上がってきた関係が、ほんの少しだけ別の角度で光を帯びる。

その微細な変化こそが、本章におけるもう一つのテーマです。

日常に混ざり込む未来の気配、それを見落とさず拾い上げるのが蓮真という主人公であり、今回の物語はその最初の一歩を描く章になりました。

#夢見る が告げるものが、これからの日常にどんな影とどんな光を落としていくのか。

蓮真がその渦にどう立ち向かうのか。

次回も、ぜひ見届けていただけたら嬉しいです。

蓮真は最終的にどちらを選ぶと思いますか?

  • 豊浜のどか
  • 広川卯月
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