青春ブタ野郎はパラレルスプリングの夢を見ない   作:もドえラん

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読みに来てくださる皆さん、本当にありがとうございます。

ここまで書き続けられたのは、読んでくれる方がいるおかげです。

そして最近、少しずつ評価を入れてくださる方も増えてきました。

☆は続き、楽しみにしてるよという合図だと思って書いています。

もし今回の話が少しでも良かったら、☆で応援していただけると励みになります。

今後も、岸和田蓮真によるもう一つの青ブタを描いていきます。

これからもよろしくお願いします。


5.救えない誰かと、正義の味方を見届ける

 

 十一月六日

 

 スイートバレットの控え室を後にし、俺は、咲太と麻衣先輩と一緒に買い出しに行くことになった。

 

 順番に屋台を回っていた俺たちは、今、タコスの列に並んでいる。隣には焼きそばを持った麻衣先輩がいる。

 

 タピオカとチョコバナナの買い出しは、花楓ちゃんと鹿野さんが手伝いを買って出てくれた。ふたりも、屋台通りのどこかの列に並んでいるはずだ。

 

 「高校の文化祭とは規模が全然違うわね」

 

 深く使ったキャップのつば越しに、物珍らしそうに麻衣先輩が周りを見ている。

 

 今日は、パーカーにデニム、スニーカーといったラフでボーイッシュなスタイルだ。

 

 注文の順番が徐々に近づき、鉄板の前からはスパイスの匂いが漂ってきた。

 

 咲太が一歩前に出たとき、タコス屋台の店員のうちのひとりがこちらを見て、露骨に顔をしかめる。

 

 「……いらっしゃいませ」

 

 咲太が眉をひそめる。

 

 その店員は、さっきまで愛想よく接客していたのに、今は完全に、見たくないものを見たみたいな顔になっている。

 

 白い看護服。ピンクのライン。見覚えのある仮装。

 

 そして、その視線の主。

 

 「……上里さん」

 

 俺が名前を呼ぶと、上里は、咲太を見るときの死んだ魚みたいな目から一転、俺の方にはちゃんと人間の目を向けてきた。

 

 「あ、岸和田くん」

 

 淡々と、でも嫌そうではない声だった。

 

 「郁実のこと、見に来たんでしょ?」

 

 核心に触れる言葉が、あまりにも自然に飛んでくる。

 

 「……まあ、様子は見たいなと思ってる」

 

 俺がそう答えると、すぐ後ろから咲太が小声でひっかいてくる。

 

 「岸和田、お前……赤城となんかあるのか?」

 

 「いや、別になんかってほどじゃないよ」

 

 「……そうか。タコスください」

 

 咲太はそう言うと、怯まずに注文をした。

 

 「梓川くんだ。それに岸和田くんも」

 

 「あ、ほんと」

 

 上里の後ろにいたのは、先日、合コンで知り合った千春さんと明日香さんだ。

 

 上里と同じくナースのコスプレをしている。その目は、咲太と一緒にいた麻衣先輩に向けられた。

 

 「合コンしたふたり。ご存知の通り、僕の彼女です」

 

 「ほ、本物だぁ」

 

 千春さんが口を開けて驚く。それに、麻衣先輩は微笑んで会釈した。

 

 「ねえ?見た?私、お辞儀されたよ」

 

 興奮した様子で、明日香さんの腕にしがみ付く。

 

 「私にしたんだって」

 

 そんな明日香さんの後ろから、「はい、お待ち」と、タコスを差し出す男子学生がふたりいた。

 

 店の奥でタコスを仕込んでいたのは、福山と小谷先輩だった。

 

 「ふたりはコスプレなしなんだな」

 

 「俺のナース服、見たい岸和田?」

 

 「僕がスマホを持ってたら、写真を撮っただろうな」

 

 「持ってないくせに言うなよ、梓川」

 

 文句を言いながら、福山は仕上げとばかりにサルサソースを垂らした。

 

 支払いは咲太がして、タコスの半分を麻衣先輩が持つ。これで麻衣先輩の両手はいっぱいだ。

 

 残りのタコスを咲太が受け取っていると、屋台の奥にもうひとりナースが現れた。

 

 「こっち、大丈夫?」

 

 屋台の奥から現れたのは、ナース服姿の赤城郁実だった。

 

 その姿を見た瞬間、咲太も麻衣先輩も、そして俺も同時に息を呑む。

 

 右腕が三角巾で吊っている。

 

 包帯で手首を固定し、ほとんど動かせていない。

 

 (……やっぱり、本物の怪我か)

 

 赤城自身は視線を逸らした。バツの悪さと、言い訳できなさが混ざった横顔。

 

 「郁実、サルサの予備どこだっけ?」

 

 明日香さんの問いに、

 

 「クーラーボックスに入ってるよ」

 

 と即答し、

 

 「郁実、マヨネーズもピンチ!」

 

 千春さんの声には、

 

 「それはバックヤードから持ってきた」

 

 と返し、

 

 どん、と業務用マヨネーズを置く。

 

 右手をなるべく使わないようにして動く姿が、逆に痛々しかった。

 

 「キャベツもなくなりそう」

 

 福山が言うと、

 

 「焼きそばの店舗が分けてくれるって……」と言いかけたところで、後ろからキャベツを届けに来た女子学生が現れた。

 

 その一連の忙しさの中でも、赤城は笑おうとしていた。

 

 痛みをごまかすためというより、「大丈夫」を演じるいつもの癖で。

 

 だからこそ、俺の口から勝手に言葉がこぼれた。

 

 「赤城……その怪我、ほんとに大丈夫か?」

 

 赤城は一瞬、動きを止めた。

 

 ほんとうに一瞬だけ、表情が揺れる。

 

 それから、小さく笑って、でも目だけは笑っていないまま言った。

 

 「……ごめん。心配かけて」

 

 その声音の弱さに、胸の奥がきゅっとなる。

 

 (やっぱり……無理してるだろ、赤城)

 

 放っておけるはずがなかった。

 

 俺は咲太と麻衣先輩に向き直る。

 

 「……ごめん。俺、ちょっと赤城と話してくる」

 

 「行ってきていいわよ蓮真くん」

 

 麻衣先輩は、穏やかな笑みなのに、どこか察している人間の目をしていた。

 

 「すみません、行ってきます」

 

 キャンパス内に設けられたフリーマーケットの会場近くで、俺は赤城を見つけた。

 

 学祭を楽しむ人の流れから外れた木陰のベンチに、ひとりで座って休んでいる。

 

 後ろから近づいた俺は、その隣に座った。ひとり分くらいの間を空けて。

 

 「……で、赤城。その腕、どうしたんだよ」

 

 ベンチに腰を下ろした俺は、強引になりすぎないように、でも逃げ道を与えない声で切り出した。

 

 赤城は膝の上で左手を握りしめ、しばらく黙っていた。

 

 風が木の枝を揺らし、その影が赤城の横顔を細かく揺らす。

 

 やがて、観念したように口を開いた。

 

 「……火曜日に新横浜駅で」

 

 「ああ」

 

 「階段の上の方で、おばあちゃんがふらついて……そのまま落ちそうになってたから、支えようとして」

 

 その続きを言う前に、赤城は苦笑いを浮かべた。

 

 「結局、間に合ったけど……私が手首をひねっちゃった」

 

 そこで初めて、三角巾の下の指がわずかに震えた。

 

 #夢見るを見た上での咄嗟の判断。迷いのなさ。

 

 それは赤城郁実という人間の正しさの根本だ。

 

 でも……

 

 「赤城、無茶しすぎじゃないか」

 

 俺の言葉は責めではなく、ただ事実として落ちる。

 

 赤城はそこでようやく視線を上げた。

 

 強がりと弱さが混ざった、あの赤城独特の目で。

 

 「……そう、なのかな。わかんない。助けられるなら、助けたいって……それだけだったから」

 

 静かな声。

 

 でも、その奥で張り詰めていたものが、少しだけ緩んだ気がした。

 

 (問題を飛ばせない……赤城らしいよな)

 

 言いかけて、飲み込む。

 

 俺にも言えないことがある。

 

 自分だって、助けられなかった経験を抱えているくせに。

 

 喉の奥の引っかかりをごまかすように、俺は視線を逸らした。

 

 「……俺も、実は軽く捻挫した」

 

 そう言おうとしてやめた。

 

 赤城の傷の重さの前で、軽口みたいに聞こえたら嫌だった。

 

 それに、いま赤城が必要としているのは、

弱音に寄り添う相手であって、痛みに共感して欲しい相手じゃない。

 

 だから俺はただ、隣で息を吸う。

 

 赤城が口を開くのを待っていた俺の横で、ふいに視線が動いた。

 

 赤城はフリーマーケットの奥の方、テントがいくつか並ぶあたりを、指先でそっと示した。

 

 「……ほら、あそこ。いつもの中学生三人。焼き物のフリマ、出してるの」

 

 言われて見てみると、確かに濃紺のエプロンをした三人組が、陶器のコップや皿を並べている。

 

 どれも形が少しずつ違って、それぞれの癖みたいなのが残っている。

 

 「ああ……あいつらか」

 

 赤城は小さく頷いた。

 

 「うん。あの子たち、すごくがんばり屋だから……学祭のフリマも出したいって。だから、私も手伝う予定だったんだけど……」

 

 右腕に視線を落とす。

 

 その沈黙は悔しさだけじゃなく、責任感の形をしていた。

 

 「そうだったのか。……でも言ってくれれば、俺も手伝ったのに」

 

 ほんとうにそう思った。

 

 赤城が頼んだら、どのくらい忙しくても手伝ったと思う。

 

 赤城は少し目を見開いたあと、申し訳なさそうに笑った。

 

 「……岸和田くん、先月すごく忙しそうだったから。学祭の準備で呼び出すのも、悪いかなって」

 

 その言い方は、言い訳というより気配りの習慣だった。

 

 (……赤城は、こういうとこあるよな)

 

 自分がどれだけ負担を抱えていても、誰かに頼る前に、まず相手の状況を見てしまう。

 

 そのくせ、困っている他人を見ると迷いなく飛び込む。

 

 中学生たちを一人で抱えて、責任を背負って、正しいことをしようとする自分から降りられないタイプ。

 

 放っておけない理由が、またひとつ増えた。

 

 「……ほんと、赤城は気を遣いすぎだよ」

 

 つい口に出ていた。

 

 赤城は苦笑しながら、視線をフリマの方向へ戻す。

 

 「……あの子たち、私がいないと不安がるから。私が勝手にそう思ってるだけかもしれないけど」

 

 「いや、そんなことないだろ。……あいつら、赤城のこと信頼してるし」

 

 言った瞬間、赤城の肩がわずかに揺れた。

 

 照れてるわけじゃない。でも、否定もできない……そんな揺れ。

 

  赤城が口を開くのを待ちながら、フリーマーケットの風景を一緒に眺めていたそのとき。

 

 赤城が、ふいに左手でスマホを握り直した。

 

 画面を見たわけでもないのに、言うか、言わないか”を迷っている仕草だとすぐに分かった。

 

 「……ねぇ、岸和田くん」

 

 声がほんの少しだけ沈む。

 

 さっき怪我の話をしていた時の沈み方とは違う。もっと慎重で、触れたら世界が変わるものを持ち上げるときの声。

 

 俺も無意識に姿勢を正していた。

 

 赤城は続けた。

 

 「#夢見る でね……一つ、気になる投稿を見つけたの」

 

 その瞬間、空気の密度が変わった。

 

 赤城はスマホを開き、俺の方に少しだけ画面を傾けて見せた。

 

 そこには、こう書かれていた。

 

 {変な夢見たんだよな。時計台の前で男の子が転んで泣いてるの。あれ、学祭だよな。金沢八景キャンパスの。ぴったり三時だったけど、これ、噂の#夢見るかな?}

 

 投稿日時は火曜日の夜。

 

 学祭は今日。

 

 時計台。男の子。ぴったり三時。

 

 俺は息を吸う。

 

 嫌な一致の仕方だった。

 

 赤城は腕を吊ったまま、まっすぐ俺を見た。

 

 「……岸和田くんも、一緒に見に行ってもらえないかな?」

 

 その言い方は、助けてとは違う。

 

 けれど、ひとりでは行きたくなという気配が、言葉の外側に滲んでいた。

 

 怪我をしてなお止まらない、あの赤城郁実が。

 

 (……本気で、行こうと思ってるんだな)

 

 俺は頷いた。

 

 「……行くよ。一緒に」

 

 赤城の喉が、かすかに震えたのが分かった。

 

 「ありがと……」

 

 それは、安堵でも、依存でもない。

 

 背負ってきた正しさを、少しだけ分け合えた”ときにだけ出る声だった。

 

 そのとき後ろから軽い足音が近づいてきた。

 

 咲太だ。

 

 キャンパス内に設けられたフリーマーケットの会場近くで、咲太は俺たちを見つけた。

 

 後ろから近づいた咲太は、何も言わずに俺の反対側へ腰を下ろす。

 

 ひとり分の間。赤城の横にも、俺の横にも少しだけ空白を残す座り方。

 

 「……」

 

 赤城はとくに反応を見せなかった。

 

 咲太が来ることを、たぶん最初から織り込んでいたみたいに見える。

 

 俺と話すときとは、わずかに違う呼吸。

 

 その違いに、胸の奥がほんの少しざわついた。

 

 (……やっぱ、この二人、なんかあるよな)

 

 俺のときには見せない、微妙な距離感。

 

 拒絶でもなく、親密でもない。

 

 でも間違いなく、何かを隠している者同士の空気だ。

 

 何を、とは分からない。

 

 ただ、言葉の裏でやり取りしている何かがある。

 

 赤城がぽつりと言う。

 

 「けが人って、退屈なんだね」

 

 フリーマーケットの人混みに目を向けたまま、淡々と。

 

 咲太は苦笑しながら肩をすくめた。

 

 「みんな、けが人を働かせる極悪人だと思われたくないんだよ」

 

 「みんな、心配してくれてるんじゃなかったんだ」

 

 赤城はおどけたように笑う。その笑いが強がりなのは、すぐ分かった。

 

 会話の温度も、間の取り方も、俺と話す時とは明らかに違う。

 

 (……やっぱり複雑なんだよな、赤城は)

 

 その 複雑が何なのかは分からない。

 

 ただ、俺には向けない種類の感情を、咲太には向けている。

 

 それが、どこか悔しいような、でも納得せざるを得ないような、ややこしい感覚を呼び起こす。

 

 銀杏の葉を回しながら、赤城は話題をそらした。

 

 「ハロウィンの写真を見せたら、タコスのお店、これでやろうって千春が言い出して」

 

 「僕が聞きたいのは、そのいかした服装のことじゃなくて、腕のことな」

 

 咲太の問いに、赤城はわずかに肩を揺らす。

 

 逃げられないと悟ったときの表情。

 

 (ああ……俺のときと違う)

 

 俺には言わなかったことを、咲太には言わなきゃいけないと感じている。

 

 そんな空気だった。

 

 やっぱ、赤城の中では咲太は特別なんだ。

 

 それが良い意味なのか 悪い意味なのか、俺にはまだ分からない。

 

 けど、赤城が抱える複雑さの核に、咲太がいるのは間違いなかった。

 

 咲太が静かな声で言う。

 

 「駅の階段で、ふらついた人を支えたらしいな」

 

 赤城は黙る。

 

 銀杏の葉だけが、くるくる回り続けていた。

 

 その沈黙の重さに、俺は息をひそめた。

 

 (……ここ、俺が入り込んじゃいけない場所だ)

 

 直感だった。

 

 俺の観察者の勘が、この沈黙だけは邪魔しちゃいけないと告げていた。

 

 「梓川くんはさ、中学の卒業文集に、自分がなんて書いたか覚えてる?」

 

 赤城が言った瞬間、咲太の表情がかすかに動いた。

 

 「覚えてない。卒業アルバムは、引っ越しのときに捨てたし」

 

 「私は覚えてる」

 

 赤城の横顔に、昔を懐かしむ感情は見えない。

 

 「………」

 

 「自分が書いたことも、梓川くんのも」

 

 今度も、さっきと変わらない顔で赤城は静かに語った。

 

 「僕のはぜひ忘れてほしいな。どうせ、ろくなこと書いてないだろうし」

 

 「そんなことない」

 

 「そうかな」

 

 「だって、『いつか、やさしさにたどり着きたい』って書いてあったから」

 

 「………」

 

 「どう?梓川くんはもうたどり着いた?」

 

 言葉と同時に、赤城は目でも咲太に強く問いかけてきた

 

 (……中学の卒業アルバムの話なんて、なんでいきなり出てくるんだ?)

 

 赤城の言葉は唐突だった。

 

 でも、唐突だからこそ 本音が混ざっていたのだと思う。

 

 「いつか、やさしさにたどり着きたい」

 

 確かに、それは咲太らしい。

 

 そして、あの頃の咲太が言いそうな、ぎりぎりの強がりと弱さの混じった言葉だ。

 

 (……でも、それを今ここで咲太に投げるってことは)

 

 赤城もまた、自分自身に問いかけているのかもしれない。

 

 私は、たどり着けているのかと。

 

 咲太の視線が赤城の三角巾に触れたとき、赤城はほんの一瞬、顔をそむけた。

 

 その反応が、全部を物語っていた。

 

 「赤城はどうなんだ?」

 

 咲太の問いに、赤城はすぐには返さない。

 

 ほんの一瞬、視線が泳ぐ。

 

 「中学の頃に思い描いた理想の自分にはなれそうか」

 

 そこで赤城はかすかに笑う。強がりとも、諦めともつかない、曖昧な笑み。

 

 「あんなの、子供の頃の戯言だって、笑わないんだね」

 

 「大人になった気になるのは早いだろ。まだ学生なんだし」

 

 ふたりの言葉はずっとすれ違っている。

 

 どちらも間違っていないのに、距離だけが縮まらない。

 

 咲太が「正義の味方って大人が夢見ることなのか?」と言ったとき、赤城の表情がほんの少しだけ強張った。

 

 「赤ずきんの女の子がケガをすればよかった?」

 

 その直後の咲太の返し。

 

 「赤城がケガをしなければよかったとは思ってる」

 

 赤城は押し黙ったまま、右腕を見つめる。

 

 その横顔には、後悔と自責と、でも間違えてないという意地が混ざっていた。

 

 (……赤ずきんの女の子にも、赤城にも、俺はどっちにも怪我してほしくないよ)

 

 そう思った瞬間、自分でも胸の奥がざわついた。

 

 女の子を助けようとして支える赤城。

 

 階段から落ちそうな老婆の腕をとっさに掴む赤城。

 

 誰も見ていないところで怪我をして、誰にも弱音を言わない赤城。

 

 (……やっぱ、危なっかしいんだよ赤城は)

 

 正しいことをしようとする力が強すぎて、自分が傷つくことには無頓着すぎる。

 

 咲太がそれを咎めるたびに、赤城は自分を守るみたいに会話をずらす。

 

 ふたりの正しさは反対を向いたまま。

 

 (……だったら俺がそばにいないと)

 

 赤城がほんとうの意味で頼れる場所は、たぶん今のところ俺しかない。

 

 「今後はちゃんと気を付ける」

 

 赤城がそう言って目を伏せたとき、咲太は視線を逸らし、赤城は息を止めるように沈黙した。

 

 その沈黙のあいだ、俺はただ思った。

 

 (赤城を、二度とひとりで無茶させたくない)

 

 「やめるつもりはないんだな」

 

 「………」

 

 それに、赤城は答えない。いや、沈黙で答えていた。何が赤城を頑なにさせるのだろうか。

 

 やはり、それがわからない。そうしなければならない理由が、何かあるのだろうか。ただの善意だとしても、そこには動機があるはずだ。

 

 「私、行くところあるから」

 

 赤城が立ち上がった。並木道の向こう、時計台の方角を見つめて、ゆっくり歩き出す。

 

 「赤城。……行くのか?」

 

 問いかけると、赤城は振り返らなかった。けれど、歩みは迷いのないままだ。

 

 「時計台、三時だろ?俺も一緒に……」

 

 そう言いかけたところで、隣から低い声が飛んだ。

 

 「……待てよ岸和田」

 

 咲太だった。

 

 俺は思わず眉をひそめる。

 

 「時計台なら、行っても無駄だよ」

 

 少し離れていた赤城の背中に、咲太はそう声をかけた。

 

 「何も起きないから」

 

 「………」

 

 赤城の足がぴたりと止まる。向こうを向いたまま。

 

 「男の子が転んで泣いてるってあれ、僕が書いたデタラメなんだ」

 

 「………」

 

 俺は思わず眉をひそめる。

 

 「咲太、お前……最初から赤城を誘い出すつもりで動いてたのか?」

 

 ただの確認のはずなのに、声がきつく聞こえたのは自覚している。

 

 咲太は、言い訳するでもなく、ただ短く息を吐いた。

 

 「確かめたいことがあったんだよ」

 

 その一言では、何も説明になっていない。でも咲太はそれ以上言わなかった。

 

 俺がさらに問い詰めようとしたちょうどその時、赤城の背中は何も答えなかった。

 

 怒ってるのだろうか。苛ついているのだろうか。むかついているのかもしれない。

 

 それらを通り越して、呆れている可能性だってある。

 

 けれど、咲太を振り向いた赤城の反応は、そのうちのどれでもなかった。

 

 「よかった。泣いてる男の子がいなくて」

 

 そう言って、微笑んだのだ。

 

 「………」

 

 今度は咲太が言葉を失う番だった。

 

 赤城の反応は、正義の味方として、あまりにも理想的だったから……

 

 騙されたことに腹を立てることはなかった。

 

 咲太を責めることもなかった。

 

 何も起きなかったことに、誰も傷つかなかったことに、安堵の表情を浮かべただけ。

 

 どんな生き方をしたら、嘘で騙されたことよりも、誰も傷つかなかったことに、安堵ができ

るのだろうか。

 

 「こういうの、もうやめてよ?」

 

 子供の悪戯を叱るように、やさしい口調で言ってくる。

 

 「もう、大学生なんだし」

 

 「そうだな。もう、大学生なんだし」

 

 「真似しないでよ」

 

 おかしそうに赤城が笑った、その直後だった。

 

 彼女の体がびくっと跳ねる。

 

 「っ……!」

 

 脇腹を突かれたように、短い悲鳴だけが漏れる。次の瞬間、赤城は唇をきつく結び、耐えるようにしゃがみ込んだ。

 

 「赤城?」

 

 咲太が急いで駆け寄るのと同時に、俺も身体が動いた。

 

 しゃがみ込む赤城の顔は赤く染まり、震えを抑えるように左腕で自分の体を抱きしめている。呼吸が浅く、明らかに普通じゃない。

 

 「どうしたんだ? 急に……」

 

 病気の発作、最初はそう思った。

 

 けれど、その仮説は一瞬で崩れた。

 

 赤城が「ごめん、平気だから……」と強がって微笑んだ瞬間。

 

 風もないのに、ナースキャップが宙に跳ね上がった。

 

 「……え?」

 

 俺も、咲太も、言葉にならなかった。

 

 キャップは何かに弾かれたようにくるくる回りながら落ち、髪を留めていたヘアピンまで外れていく。

 

 そして、赤城の髪が、誰かに触られているみたいに揺れた。

 

 束ねてもいないのに、勝手にまとまってはこぼれ、また勝手にかき上げられる。

 

 風では説明ができない。重力すら無視したような動きだった。

 

 見えない何かが、ナース服の襟の隙間に入り込み、首筋を這い、胸元を押し広げ、下腹部へ。

 

 布が勝手に引かれ、皺が寄り、ストッキングが伝線し、破れていく。

 

 ありえない光景だった。

 

 「赤城……っ、これ……!」

 

 俺が息を呑んで言葉を失う。

 

 「ほんと、平気だから……」

 

 こんな異常な状況で、赤城はまだ笑おうとする。濡れた吐息さえ洩らしながら。

 

 しかし俺の意識は別のところに向かっていた。

 

 胸の奥が、ざわりと反転するような感覚。

 

 現実が半歩だけズレるときに、必ず生まれる感覚。

 

 (……まさか、これって)

 

 俺の脳裏に、ある言葉が浮かぶ。

 

 思春期症候群。

 

 この感覚を、俺は知っている。

 

 “痛み”や“選ばれなかった可能性”が現実に干渉するときに起きる、あの歪み。

 

 咲太が俺を見た。

 

 「岸和田……赤城と一緒にいるとき、こんなこと……あったのか?」

 

 「……いや。俺も初めてだ」

 

 喉がひりつくほど乾いていた。

 

 赤城の異常は、単なる体調不良ではない。

 

 偶然でも、悪ふざけでもない。

 

 これは、現象だ。

 

 人の心が引き金になって、世界が形を変えるあれだ。

 

 (赤城……お前、一体どれだけ自分を追い詰めてるんだよ)

 

 保健室の白いドアを、俺が先に開けた。

 

 ベッドが四つ。そのうちひとつに赤城を座らせ、俺はその隣に立つ。咲太は「上里呼んでくる」とだけ言って、ドアの向こうに消えた。

 

 中は、祭りの喧噪が嘘みたいに静かだった。

 

 少しして、白衣姿の学校医の先生が奥から出てきた。

 

 「どうしました?」

 

 落ち着いた声。年齢は四十代くらいだろうか。眼鏡の奥の目が、赤城の三角巾と、その顔色を一目で捉える。

 

 「ちょっと、気分が悪くなって」

 

 先に口を開いたのは赤城だった。

 

 さっきまで見えない何かに身体を弄ばれていた本人とは思えないくらい、いつもの調子で言う。

 

 「さっきまでタコスの屋台で働いてて、ちょっと張り切りすぎたのかも」

 

 「右腕の怪我は?」

 

 先生が三角巾を指差す。

 

 「これは、前からで……駅の階段で、よろけた人を支えようとして」

 

 「ああ、それでか」

 

 先生は納得したように頷いた。

 

 「じゃあ、急な痛みとかじゃないのね?」

 

 「はい。痛み自体は、前よりはマシになってます」

 

 嘘ではないのかもしれない。けれど、さっきの赤城の表情を見てしまった後だと、「マシになってます」という言葉は、どこか心許なかった。

 

 「気持ち悪さとか、目が回る感じは?」

 

 「ちょっとふらっとしただけで……今は大丈夫です」

 

 赤城は、最低限の事実だけを切り取って話している。

 

 ナースキャップが勝手に浮いたことも。

 

 髪が誰かに触られたみたいに動いたことも。

 

 制服の布地が、ありえない方向に歪んだことも。何ひとつ、口にはしなかった。

 

 「血圧、測りましょうか」

 

 先生はそう言って、袖をまくるよう促した。

 

 俺はその様子をぼんやり眺めながら、黙ってベッドのそばに立っていた。

 

 (……話す気がないってことか)

 

 赤城の横顔を盗み見る。

 

 さっきまでの異常が嘘みたいに、表情は落ち着いている。むしろ、無理やり落ち着けているようにも見えた。

 

 「付き添いのあなたは?」

 

 先生が俺の方を見た。

 

 「同じ学部の……友人です。さっき、屋台の近くで倒れかけたので」

 

 「ふらついた様子は、他にもありましたか?」

 

 「ちょっと顔色が悪いなとは思ったんですけど……」

 

 そこまで言って、言葉を飲み込む。

 

 「……それ以外は、特には」

 

 見えない何かに身体を撫で回されていました、なんて説明するわけにもいかない。

 

 そもそも、俺自身も、あれが何だったのか完全には整理しきれていなかった。

 

 血圧計のベルクロが赤城の腕に巻かれ、機械の動作音が静かな室内に小さく響く。

 

 しゅう、と空気が抜けていくあいだ、赤城は天井を見上げていた。

 

 「……」

 

 何も言わない。

 

 俺も、何も言えなかった。

 

 (話したくないなら、今は合わせるべきだろうな)

 

 思春期症候群のことを、人に説明する難しさを、俺はよく知っている。

 

 ちゃんと話そうとすればするほど、現実感が遠のいていく。

 

 誰かに「それはおかしい」と言われれば言われるほど、自分の方が壊れているような気がしてくる。

 

 赤城が、その感覚を抱えているかどうかまでは分からない。

 

 ただ少なくとも、いま先生の前で「変なことが起きました」と言う気はゼロなのは分かる。

 

 だったら、俺がそれを引きずり出すわけにはいかない。

 

 「血圧は正常ですね。脈も問題なさそう」

 

 先生はそう言って、聴診器を外した。

 

 「疲れと、ストレスの両方かな。右腕も庇ってるから、余計にバランスが崩れているのかもしれない」

 

 「……そう、ですか」

 

 「今日は、もう無理しないこと。できれば、このあと当番を誰かに代わってもらって、自分の教室で休みなさい」

 

 先生は穏やかにそう言って、少し表情を曇らせた。

 

 「それと、腕はちゃんと整形外科に通ってる?」

 

 「はい。通ってます」

 

 即答だ。

 

 「あまり頑張りすぎないこと。頑張り続けると、そのうち身体の方がサボり始めるからね」

 

 言葉の選び方が、妙に刺さる。

 

 赤城は一瞬だけ目を伏せて、小さく「……はい」と答えた。

 

 診察が一通り終わり、先生がカルテに何かを書き込んでいるあいだ、保健室の静けさの向こうから、ぼんやりと人の声が聞こえてきた。

 

 ドア一枚隔てた廊下。

 

 「……郁実って、中学の頃からああなの?」

 

 上里の声だ。

 

 先生のペンの走る音と重なるように、その会話は断片的に耳に入ってくる。

 

 「語れるほど、僕は赤城のことを知らない」

 

 俺は、ベッドの端で拳を握りしめている自分に気づいた。

 

 (……そこは線引きするんだな、咲太)

 

 中途半端な優しさを見せない。

 

 自分が知らないものは、知らないと言う。

 

 それが咲太のやり方で、だからこそ誰かの物語の中心に立てるのだと、頭では分かっている。

 

 でもどこかで、ちくりとしたものが残る。

 

  上里の声が、少しだけ小さくなった。

 

 「郁実のこと……岸和田くんと一緒に任せていいの?」

 

 そこで、心臓が一瞬だけ止まるような感覚がした。

 

 赤城のことを、「俺と一緒に任せていいか」と聞いている。

 

 上里なりの不安と、信頼と、確認と。

 

 いろんなものが混ざった問いだった。

 

 咲太は、さっきよりも少しだけ静かな声で答えた。

 

 「岸和田は、問題を飛ばさないタイプだよ」

 

 「問題を飛ばさない?」

 

 「見なかったことにしないし、見過ごしもしない。その代わり、自分から中心には立たない」

 

 「……それって、頼りになるの?」

 

 「なるよ」

 

 間を挟まずに、咲太はそう言った。

 

 「上里の助けが必要だったら、また赤城が自分で連絡するだろ。それまでは、岸和田に任せてもいいと思ってる」

 

 胸の奥のどこかが、少しだけ熱くなった。

 

 褒められた、という感覚とは違う。

 

 「任せる」と言われたことが、単純に、重かった。

 

 (……勝手にハードル上げるなよ)

 

 心の中でだけ、小さく毒づいておく。

 

 その横で、ベッドに座る赤城が、膝の上で左手をぎゅっと握りしめたのが見えた。

 

 俺と咲太の会話が聞こえているわけではない。

 

 でも、外から聞こえる上里とのやり取りは、赤城の耳にも届いている。

 

 保健室の静けさの中で、その会話だけが現実感を持って届いてくる。

 

 学校医の先生がカルテを閉じた。

 

 「とりあえず、今日はここで少し休んでいきなさい。気分が落ち着いたら、戻っていいわ」

 

 「ありがとうございます」

 

 赤城は丁寧に頭を下げる。

 

 先生が「ちょっと出てくるから」といいドアを開け、廊下の向こうに消えていくと、保健室には俺と赤城の呼吸音だけが残った。

 

 「……聞いてたの?」

 

 しばらくして、赤城がぽつりと言った。

 

 「何を?」

 

 「さっきの。沙希と、梓川くんの声」

 

 「まぁ、聞くつもりはなかったけど、勝手に耳に入ってきた」

 

 正直に答えるしかなかった。

 

 赤城は苦笑する。

 

 「……沙希、そういうところあるから。心配しすぎっていうか、世話焼きっていうか」

 

 「でも、嫌そうには聞こえなかったけどな」

 

 「そりゃ、沙希だって、私が勝手に怪我してるの見たら、色々思うでしょ」

 

 自分の右腕を見下ろす。その視線は、責めるというより、諦めに近い。

 

 「……で。岸和田くんは、どう思った?」

 

 不意に、こちらを見る。

 

 真正面から。

 

 「何を?」

 

 「さっきの」

 

 思春期症候群、という単語が、喉元で引っかかる。

 

 「……正直、普通の怪我とは思えなかった」

 

 それだけは、ごまかさずに言った。

 

 「でも、先生には話さなかった」

 

 「うん。話せないよ、あんなの」

 

 赤城はあっさり認めた。

 

 「だって、信じてもらえないから。たぶん、自分でもちゃんと説明できない」

 

 そう言って、小さく笑う。

 

 その笑いが、強がりだけでできていないのは分かっている。

 

 俺は一度だけ息を吸い込んでから、言葉を選んだ。

 

 「話したくないなら、無理に聞いたりはしない」

 

 「………」

 

 「ただ……」

 

 そこまで言って、赤城の視線とぶつかる。

 

 「俺は見たことは忘れないし、見なかったことにもできない。だから、多分また口出しはすると思う」

 

 赤城は、きょとんとした顔をしたあと、ふっと目を細めた。

 

 「……やっぱり、問題を飛ばさないんだね、岸和田くんは」

 

 どこかで聞いたフレーズだった。

 

 ああ、と心の中でだけ苦笑する。

 

 (お前ら、勝手に俺のキャラを固めるなよ)

 

 でも、悪くない。

 

 その時だった。

 

 「赤城、入ってもいいか?」

 

 咲太の声がして、返事を確かめてから保健室の中に入ってきた。

 

 赤城はちょうど背中のファスナーに手を伸ばしているところだった。

 

 しかし捻挫した右手は力が入らず、布地をつまんでも思うように動かない。

 

 「手伝おうか?」

 

 咲太が一歩、近づきかける。

 

 「………」

 

 赤城は振り返り、警戒するような鋭い目で咲太を睨んだ。

 

 その無言の拒絶に、咲太は肩をすくめる。

 

 「上里を呼び戻すんでもいいけど」

 

 「……いいよ。岸和田くんにお願いする」

 

 赤城は静かに言い、それから左手で髪をひと束にまとめて持ち上げた。

 

 白い肌があらわになり、細い血管のラインまで透けるほど肌の色は薄い。

 

 俯いた横顔には、かすかに赤みが差していた。

 

 耳の先まで、ほんのりと熱を帯びている。

 

 平然を装っていたけれど、実際にはかなり恥ずかしいのだろう。

 

 だったら、余計な間はつくらないほうがいい。

 

 「……下ろすぞ」

 

 俺はファスナーをつまみ、迷いなく一気に引いた。

 

 背中の真ん中あたりまで下ろしたところで、思わず息を呑む。

 

 太陽を浴びていない、淡い素肌。

 

 その上に、何かに引っ掻かれたような五本の痕が走っていた。

 

 右の肩甲骨から脇へ……あの見えない力が触れた軌跡に、間違いなかった。

 

 「ありがとう、岸和田くん」

 

 赤城が髪を離すと、背中はすぐ服地に隠れてしまった。

 

 「あと手伝うことは?」

 

 「これ以上のことは沙希を呼ぶ」

 

 赤城は淡々と言い、カーテンへ手を伸ばす。

 

 その仕草は、俺と咲太を丁寧に追い出すようでもあった。

 

 カーテンが音を立てて閉じる。

 

 「着替えるから……こっち来ないで」

 

 「だったら、外出てるけど?」

 

 咲太が出口に向かいかけたとき、布越しに赤城の声が落ちる。

 

 「梓川くんも岸和田くんも、私に聞きたいことあるんだよね?」

 

 カーテン越しに落ちた赤城の声は、さっきよりずっと静かで、それでいて逃げる気配はまったくなかった。

 

 「……あるよ。聞きたいこと」

 

 俺がそう言うと、赤城はすぐに続けた。

 

 「どっちから聞く?」

 

 咲太と目が合った。互いに譲る気はなかったらしい。

 

 「じゃあ僕から聞くよ」

 

 咲太がわずかに肩を動かし、静かに口を開いた。

 

 「さっきの……あれは病気じゃないんだよな?」

 

 「先生はいたって健康だって言ってたよ」

 

 赤城は淡々と返す。その声からは、症状を隠す罪悪感より、説明することへの迷いの方が強く感じられた。

 

 「じゃあ、なんなんだ?あの動き……普通じゃなかった」

 

 「もう分かってるんでしょう?」

 

 カーテンの向こうで、赤城の動きが一瞬止まる。

 

 「見当はついてる」

 

 「それを私に言わせたいんだ」

 

 「赤城がどう思ってるかを知りたいだけ」

 

 「意外といじわるなんだね、岸和田くん」

 

 口ではそう言いながらも、赤城は「思春期症候群」という単語を出さないまま、少しずつ言葉をほどいていく。

 

 「あれは……時々起きるの」

 

 「いまいち、何が起きてるのか、こっちには分からなかったんだけど」

 

 「なんて言えばいいかな。誰かに、触られてるような感覚がして……」

 

 脳裏に、さっき見た背中の痕が浮かぶ。

 

 肩甲骨から脇腹にかけて走っていた、五本の薄い線。

 

 あれは、どう見ても「何か」に掴まれた痕だった。

 

 「子供の頃に見た心霊番組みたいでしょ? ポルターガイストって言うんだっけ。誰もいないのに、モノが動いたりして」

 

 冗談めかして赤城は言う。

 

 けれど、笑い声の温度は限界まで下げられていた。

 

 実際、さっき俺たちが見たのは、心霊現象と呼ばれてもおかしくない光景だった。

 

 「苦しいとか、痛いとか、辛いわけじゃないから」

 

 カーテンの向こうで、赤城が自分の胸を押さえる気配がした。

 

 その目が、「心配しないで」と言っているのが想像できる。

 

 「右手のケガ、もしかしてその発作が原因?」

 

 少しだけ言い方を変えて、俺は踏み込んだ。

 

 赤城の視線が、一瞬だけ捻挫した右腕に落ちる気配がする。

 

 階段の上で足を踏み外して、誰かを支えたとき。 

 

 もし、あの見えない何かが同時に起きていたとしたら、ミスをしてもおかしくはない。

 

 「すごい想像力」

 

 困ったような笑いと一緒に、赤城の声が落ちてくる。

 

 「どうすれば治るか、ほんとに分かってるのか?」

 

 「分かってるよ」

 

 「本当に?」

 

 「私、嘘つきに見える?」

 

 「秘密は多そうだと思ってる」

 

 「それは否定しない」

 

 淡々と言い切るその姿勢が、逆に赤城の弱さを際立たせていた。

 

 「……治す方法が分かってるのに治してないってことは、簡単にはできないことなんだよな?」

 

 咲太の質問は、まっすぐで、遠慮がなかった。

 

 赤城はカーテン越しに息を吐いた。

 

 「そうだね。簡単じゃない」

 

 ひと呼吸のあと。

 

 「梓川くんを忘れるのは」

 

 その言葉が落ちた瞬間、空気が変わった。

 

 「……っ」

 

 胸の奥が、きゅっと縮まる音がした気がした。

 

 予想していた言葉じゃなかった。

 

 でも、赤城から出てくるなら、あまりにもらしい答えだった。

 

 (……なんで、そこで真っ先に咲太なんだよ)

 

 喉の奥まで出かかった言葉を、どうにか飲み込む。

 

 俺のことを見てるようで、ちゃんと見ていない。

 

 俺の方を頼ってくれているようで、その背後にはいつも梓川咲太がいる。

 

 そんな感覚が、じわじわと沁みてくる。

 

 「本当に簡単じゃない」

 

 もう一度、赤城は同じ言葉を繰り返した。

 

 そして、今度ははっきりと咲太の方を見た。

 

 自然と、二人の視線がぶつかる。

 

 からかいでも、諦めでもない。

 

 ただ、どうしようもない本音だけを乗せた目だった。

 

 (……赤城にとって忘れなきゃいけない相手は、本当はもう一人いるんだろうな)

 

 そう思った瞬間、自分で自分に苦笑したくなった。

 

 そのもう一人が誰なのか、俺はよく知っている。 

 

 でも、当の赤城は、まだその事実に気づいていない。

 

 気づいていないふりをしているのか。

 

 それとも、本当に見ないようにしているだけなのか。

 

 どちらにしても。

 

 (……俺は、そこを赤城の口から聞きたいとは、まだ思えないな)

 

 少なくとも今はまだ、ここでいい。

 

 赤城が、自分で自分の重さを自覚するまで。

 

 俺は、そのすぐ隣で、「問題を飛ばさない」役だけを続けていればいい。

 

 「自分は関係ないって思ってた?」

 

 赤城の声音は静かだが、鋭さを含んでいた。

 

 「なんで、僕なんだ?」

 

 咲太の問いはもっともだ。けれど俺の胸にも、同じ疑問が芽を出した。

 

 (……なんで咲太なんだ?赤城がそこまで執着する理由ってなんだ?)

 

 赤城がぽつりと呟く。

 

 「やっぱり、あの日のこと覚えてないんだ」

 

 (あの日?……なんの話だ)

 

 心の中で問いが渦を巻く。

 

 赤城は、思わせぶりな言い方を自分で苦笑した。

 

 「今のは思わせぶりで、ウザいか」

 

 喉の奥で笑いながらも、目はどこか遠くを見ていた。

 

 「僕と赤城って、中学でクラスが一緒だったってだけだろ?」

 

 「うん、そうだね。それだけ」

 

 ……なのに、赤城の声色からはそれだけで済ませる気配はなかった。

 

 「私たちは何もなかった」

 

 「じゃあ、なんで僕なんだ?」

 

 咲太の問いが重ねられる。

 

 赤城は少しのあいだ黙り、本当の理由を誰にも渡さないような表情のまま言った。

 

 「なんでだろう」

 

 またしても、核心をすり抜けた。

 

 (……本当に秘密の多い人だよな、赤城は)

 

 そんなことを思っていたら、赤城がゆっくり顔をあげた。

 

 俺の方を見て、やわらかく笑った。

 

 「ひとつ、勝負をしない?」

 

 咲太に向けて言っているはずのその言葉の途中で、一瞬だけ俺を見る、その視線が引っかかった。

 

 「勝てない勝負はしない主義なんだよ」

 

 咲太は苦笑気味に返す。

 

 それでも赤城は止まらない。

 

 「私が梓川くんのことを忘れるのが先か、梓川くんがあの日のことを思い出すのが先か」

 

 (……忘れる?なんで忘れるなんて言葉が出てくるんだしかも俺の方を見てから……)

 

 胸の奥がざわっと揺れた。

 

 「僕になんのメリットがあるんだ?」

 

 「梓川くんが思い出してくれたら、私の思春期症候群はきっと治る」

 

 ついさっきまで頑なに避けていた“その言葉”を、赤城は自分から口にした。

 

 ぞくりと空気が揺れる。

 

 「そう言えば、僕が断らないって顔だな」

 

 「違うの?」

 

 赤城は咲太を見た。

 

 その直後、またこちらを見る。

 

 まるで「私には強い味方がいるから」とでも言うように。

 

 (……どういうつもりなんだよ、赤城)

 

 言葉には出せなかった。

 

 けれど、赤城が誰に対して強がりを見せたのかは、痛いほど伝わった。

 

 「勝負をする前に言っておくけど」

 

 咲太が言う。

 

 「思い出すのは、結構得意な方だぞ、僕は」

 

 「やる気になってくれてよかった」

 

 赤城はほほえみながら言うが、その笑顔はどこか危うい。

 

 「副賞が出ると、もっとやる気になるんだけど」

 

 「梓川くんが勝てば、私はもう、#夢見る に頼る必要はなくなると思う」

 

 咲太は怪訝そうに眉を寄せる。

 

 「どういう理屈だ?赤城が #夢見る を見て人助けをするのは、僕を忘れて、思春期症候群を治すためって言いたいのかよ」

 

 赤城は静かに頷いた。

 

 その瞬間、彼女の瞳に宿る光が変わった。

 

 決意の強さと、悲壮感の両方が滲んでいた。

 

 (……なんだよ、それどれだけ無茶してるんだよ、赤城)

 

 俺は拳を握るしかなかった。

 

 「赤城が勝った場合、僕は何をすればいいんだ?」

 

 「何もしなくていいよ。そのとき、私は梓川くんのことを忘れてる」

 

 「………」

 

 「だから、私の人生にもう関わらないで」

 

 咲太を見ながら、赤城は微笑んでいた。

 

 その微笑みの理由はわからない。

 

 でも、その直前に俺へ向けた一瞬の視線。

 

 あれだけは、はっきり覚えている。

 

 (……赤城。本当に、どういうつもりなんだよ……)

 

 「今からスタートね。よーい、どん」

 

 人生で一番盛り上がらないスタートの合図だけが、静かに響いた。

 

  その一言をきっかけにして、俺たちは保健室を後にした。

 

 無言で廊下を歩いて、保健室がある第一棟の外に出る。先ほどまでの静けさが嘘のように、学祭に集まった人々の気配が風に乗って飛んできた。

 

 「じゃあ」

 

 「ああ」

 

 短い別れの挨拶を交わすと、赤城はフリーマーケットの方に足を向けた。その背中を、俺たちは立ち止まって見送った。

 

 赤城の足取りはしっかりしている。突然しゃがみ込むこともなければ、ポルターガイスト現

象に見舞われることもない。

 

 (……歩けるんなら、ひとまず安心だけど)

 

 十メートルほど離れたところで、その赤城とすれ違う見知った顔に俺は気づいた。

 

 鹿野さんだ。

 

 横を通り過ぎる際に、鹿野さんが一度赤城を気にする。

 

 まるで、久しぶりに知り合いを見かけたかのような反応。それでも鹿野さんは歩みを止めずに、咲太の側まで小走りでやってきた。

 

 「よかったです。見つかって」

 

 「ごめん。鹿野さんにまで面倒かけて」

 

 「いえ」

 

 はっきり返事をした鹿野さんは、躊躇いがちに後ろを気にしていた。屋台が並ぶ並木道に続く景色の中に、もう赤城の姿は見当たらない。

 

 「今の……郁実先輩ですよね?」

 

 ぽつりと鹿野さんの口からもれたのは、先ほどまで一緒にいた彼女の名前だった。

 

 「鹿野さん、知ってたんだ」

 

 俺がそう言うと、鹿野さんは小さく頷いた。

 

 「私、高校も一緒だったので……」

 

 (……やっぱり、そうだったんだ)

 

 岡崎さんのバースデーライブのとき。

 

 「近くの進学校ですよ。グレーのブレザーが可愛くて」

 

 (あのとき鹿野さんが言った学校。やっぱり赤城と同じ学校だった。それに鹿野さん、赤城のこと知ってたんだな……)

 

 「……お兄さんも岸和田さんも、郁実先輩と、仲良かったんですか?」

 

 視線を俺たちに戻した鹿野さんの表情には、はっきりと戸惑いの色が見えた。

 

 咲太は中学時代のことなど思い出したくない………そう、認識しているはずだから。

 

 そして、それは間違っているわけではない。正しいと言ってもいい。

 

 その質問に対して、俺は先に口を開いた。

 

 「……俺は、中学で書記やってた赤城の手伝いしたり、最近はボランティアでも一緒になったりしてる。だから……まあ、仲がいいのかもしれない」

 

 「郁実先輩、今でもそうなんですね」

 

 「郁実先輩、高校の頃から地域のボランティア活動にもすごい積極的で、そういう、誰かがやってくれるのを待ってしまいそうなことを、いつも率先してやっている人で……同級生から頼られて、すごいなってみんな言っていました」

 

 「なるほどな」

 

 その時、咲太がちらりと俺を見る。

 

 (お前、ほんとどこでも赤城と接点あるな……って顔だな、それ)

 

 「僕は中学の頃は、殆ど話したこともなかったよ。別に、仲が悪かったわけでもないけど。今も、まぁ、『中学で一緒だったよね』ってくらいの関係?」

 

 咲太の声は淡々としている。けど、その目だけは赤城の違和感を確かめようとしていた。

 

 (……気づき始めてるな、咲太も)

 

 さっき保健室での、赤城の俺への目線。咲太に対する拒絶と、俺に向く依存にも似た気配。

 

 それらが空気の端にまとわりついていて、咲太の眉がわずかに寄る。

 

 「赤城って、高校ではどんな感じだった?」

 

 「どうと言われても………あ、先にかえちゃんに二人とも見つけたって連絡しますね」

 

 スマホを出した鹿野さんが慣れた手つきでメッセージを送る。「ここって?」と聞かれたので、「第一棟の前」と咲太は答えておいた。

 

 その後も、何度かメッセージのやり取りをしたあとで、鹿野さんはスマホのカバーを閉じた。

 

 その横顔には、微かに寂しさが残っていた。

 

 (赤城に気づいてもらえなかったの、やっぱりショックだったんだ……)

 

 俺は胸の奥に、針の先みたいな痛みを覚えた。

 

 それが、ひどく現実的で。

 

 (……赤城、お前ほんと誰まで巻き込むつもりなんだよ)

 

 「郁実先輩の話ですよね」

 

 「うん」

 

 「私が入学した春までは、高校で生徒会長をしていました。新入生への挨拶を体育館で聞いて、三年生って大人だなぁって思ったのを覚えています」

 

 生徒会長と言われても、特に驚きはない。

 

 赤城なら役割を全うするだろう。

 

 新入生を前に、体育館のステージ上から淡々と挨拶を述べる姿も容易に想像できる。

 

 「三年生というか、郁実先輩が落ち着いていただけなんですけど」

 

 「だろうね」

 

 「赤城は充実した高校生活を送っていたわけか」

 

 学校では生徒会長として活動していた。

 

 体育祭の準備でお世話になったというくらいだから、イベントごとにも積極的に参加していたのだろう。

 

 学校の外ではボランティア。

 

 学業もおそらく問題なく、この大学に進学したのなら、第一志望にきちんと合格したと見るのが自然。

 

 ……ただ、それらを聞きながら、俺はどこかで、赤城らしくはないなと思っていた。

 

 あいつは目立つより、支える側のタイプに見えるのに、と。

 

 だからなのか、「充実した」という咲太の言葉を聞いて、鹿野さんは少し困った顔をしていた。

 

 「違うの?」

 

 「違わないんですけど……」

 

 「けど?」

 

 「去年の今頃から、生徒指導の先生に呼び出されていたんです。何度も」

 

 赤城のイメージとかけ離れた単語が飛び出した。

 

 生徒指導。

 

 もっとも縁がない場所にいそうな人間のはずなのに。

 

 「なんでまた生徒指導?」

 

 「ここからは噂話ですけど……いいですか?」

 

 「そう思って聞くから大丈夫」

 

 「なんでも、年上の恋人がいて、その人の部屋から学校に通っていたみたいなんです。家には全然帰らないで」

 

 「それが本当だったら、充実した高校生活どころか、最高の高校生活だな」

 

 「そう、ですか?」

 

 鹿野さんは難しい顔をする。俺も同じだった。

 

 (……いやいや、あの赤城が?)

 

 (恋人の家に転がり込んで学校通うタイプか?)

 

 想像してみたが、全力で似合わない。

 

 その時、咲太が肩をすくめながら口を開いた。

 

 「だって、生徒会長やって、学校行事の中心に立って、ボランティア活動で人の役にも立って、受験も上手くいって、大好きな恋人がいて、教師に呼び出しまで食らうなんて、青春のイベントを完全制覇だよ、それってさ」

 

 「おいおい……」

 

 小声で突っ込むしかなかった。

 

 (青春イベント完全制覇って……何のRPGだよ)

 

 (そもそも赤城が教師に呼び出されるとか、想像の彼方なんだが)

 

 咲太の言い方が大げさなだけなのか、それとも赤城の高校生活が俺の知らない顔だらけなのか。

 

 ただ、恋人の話はどうにも据わりが悪い。

 

 赤城は誰かに依存するタイプには見えない。

 

 むしろ自分から突っ走って、勝手に傷つくタイプだ。

 

 だからこそ、俺の胸にひっかかった。

 

 (……ほんとに何があったんだ。赤城)

 

 「あ、かえちゃん、来ました」

 

 鹿野さんが手を振る方向を見ると、花楓ちゃんと麻衣先輩の姿があった。

 

 緊張していた空気がふっとほぐれたが、俺の胸のざわつきだけは、まだおさまらなかった。

 

 「こみちゃん、ありがと。お兄ちゃん、ふらふらどっか行かないでよ」

 

 みんなに迷惑をかけるなと、花楓ちゃんは頬をふくらませている。

 

 「別に、ふらふらしてたんじゃない」

 

 「ふらふらしてたの。それと……」

 

 花楓ちゃんが、じとっとした目で俺を見る。

 

 「蓮真さんも、卯月さんが待ち焦がれてましたよ?」

 

 「……え?」

 

 一瞬、言葉が詰まる。

 

 「さっき楽屋に顔出したとき、『きっしー、まだかなぁ』って、ずっと言ってましたから」

 

 その言い方は、からかい半分、事実半分みたいな温度だった。

 

 「それにね」と、今度は麻衣先輩が口を挟む。

 

 「のどかも、『蓮真どこ行ったの?』って心配してたわよ」

 

 「……すみません。そのふたりには、あとで連絡入れときます」

 

 素直に頭を下げるしかなかった。

 

 まだぶつぶつ言っていた花楓ちゃんは、「もうちょっと学祭見て回りたいから」と、鹿野さんを連れて行ってしまう。

 

 残ったのは俺と麻衣先輩と咲太だけ。

 

 「花楓ちゃん、楽しそうでよかったわね」

 

 「花楓、づっきーのファンだから、ここ受けるとか言い出さないか心配です」

 

 花楓ちゃんは現在、高校二年生。そろそろ、進路を本格的に絞っていかなければならない時期だ。

 

 「そのときは、咲太が勉強教えるんでしょ?」

 

 「だから、心配なんですって」

 

 咲太が肩をすくめる。

 

 「まぁ、いざとなったら岸和田に見てもらいますよ」

 

 「なんでそこで俺に振るんだよ」

 

 思わず抗議すると、麻衣先輩がくすっと笑った。

 

 「でも、蓮真くんなら安心ね。教え方、丁寧だし」

 

 「……まぁ、そうなったら頑張ります」

 

 自分で言って、ちょっとだけ覚悟を決める。

 

 「それはそうと……二人とも赤城さんには会えたの?」

 

 視線に疑問を残して、麻衣先輩は持っていたタピオカミルクティーのストローに口を付ける。

 

 「会えました」

 

 「どうだった?」

 

 タピオカの感触を楽しみながら、麻衣先輩が「飲む?」とボトルを咲太の口元に差し出してくる。

 

 「ますます、赤城のことがわからなくなりました」

 

 と、咲太は素直な感情を顔に出した。

 

 「それは困ったわね」

 

 「ええ、困りました」

 

 俺は一呼吸置いてから、胸の内にある言葉をそのまま出した。

 

 「……俺は、赤城が心配ですよ」

 

 ほんとうに、それだけは嘘じゃない。

 

 麻衣先輩が、少し驚いたように、でもすぐに納得した顔になって微笑んだ。

 

 「やっぱり蓮真くんはそうよね」

 

 その言い方は、まるで最初から知っていたみたいだった。

 

 花楓ちゃんたちが去り、麻衣先輩もふと気配を察したのか、「ちょっと楽屋に戻ってるわね」と手を振って離れていった。

 

 残されたのは俺と咲太だけ。

 

 人の流れが絶えないのに、なぜか静かに感じる並木道だった。

 

 咲太が、ぽつりと言う。

 

 「……岸和田。お前、赤城の#夢見るの人助けに協力してるのか?」

 

 「まぁ、なぁ」

 

 否定しても仕方ないので素直に返す。

 

 「赤城の真意を探るなら、それが一番いいだろ?」

 

 咲太は眉をひそめた。

 

 その表情が、怒っているのか心配しているのか、一瞬では判断できない。

 

 「でもお前……わかってんだろ。赤城のこと」

 

 わかっている、という言い方。

 

 俺は思わず、視線を落とした。

 

 「……言い方が回りくどいんだよ」

 

 「わざわざ言うまでもないことだろ」

 

 咲太は立ち止まり、俺の方を見る。

 

 「赤城、もうお前に依存し始めてる。本人は気づいていないかもしれないけど」

 

 胸の奥に、ぐさりと刺さるものがあった。

 

 (……やっぱ、咲太は気づいてるんだな)

 

 俺は少し強めに言い返す。

 

 「お前みたいに、嘘の#夢見る投稿で誘い出すよりはマシだろ」

 

 咲太の眉がわずかに跳ねた。

 

 「……あれ以外、手がなかったんだよ。僕はお前と違って」

 

 ああ、これ以上は踏み込んだらまずい。

 

 そんな気配が、互いの間に漂った。

 

 短いけれど重たい沈黙が落ちる。

 

 風が吹くたびに、落ち葉同士が擦れる微かな音が耳に届く。

 

 それ以外は何も聞こえない。

 

 息を吐いて、俺が先に言葉を戻した。

 

 「……それでも俺は、今のやり方で赤城の様子を探るよ」

 

 咲太が、横目で俺を見た。

 

 「なんで、そこまでする?」

 

 なんでかはいま言わないと、一生言えない気がした。

 

 「……中学の頃さ」

 

 ゆっくりと言葉を探す。

 

 「俺が東京から転校してきたとき、最初に話しかけてくれたのが、赤城だった」

 

 咲太の足が止まる。

 

 「俺は、あいつのおかげで転校してからやり直すことができた。でも……高校に入ってから全然連絡も取らなかった。忙しいとか関係なく、完全に俺の怠慢だ」

 

 あの頃の赤城の笑顔、そして自分の距離の取り方の不器用さが、波のように胸に押し寄せる。

 

 「だから、今赤城が何か困ってるなら……俺は赤城のそばにいてやりたい」

 

 そこで言葉を切る。

 

 その先の一言を言えば、きっと戻れない。

 

 けれど、言った。

 

 「たとえそれで……咲太。お前と対峙することになっても」

 

 咲太の表情がわずかに揺れた。

 

 怒りではなく、悲しみでもなく、ただ、俺というもう一人の観測者の覚悟を見極めるような、静かな目。

 

 「……それがお前の、“やさしさ”なんだな」

 

 いつか誰かに言われたような言葉。

 

 けれど、咲太が言うと全く意味が違って聞こえる。

 

 弱さも、正しさも、矛盾も、全部まとめて肯定しない。

 

 でも否定もしない。

 

 それが梓川咲太だ。

 

 咲太は肩を落とし、視線を地面に落としてから、ほんの少しだけ笑った。

 

 「わかった。じゃあ……僕は僕で双葉に相談したりするよ」

 

 「それでいいのか?」

 

 「いいんだよ。僕は僕のやり方で……赤城を探る」

 

 咲太はその言葉の重さに気づいているのかどうか。

 

 でも、言葉の端が震えていたから、たぶん気づいていた。

 

 俺と咲太は、同じ景色を見ながら、違う方角を歩き始めた。

 

 赤城郁実という、ひとりの女の子を中心に。

 

 咲太と別れて歩き出したところで、ポケットの中がぶるぶる震えた。

 

 スマホを取り出すと、例のグループチャット。

 

 《きっしー観察会》

 

 いや、誰がこの名前つけたんだよ……と毎回思う。

 

 《やっと既読ついたんだけど!?》

 

 《きっしー!どこ行ってたの!》

 

 《蓮真、心配したんだよ!?》

 

 《しんぱいした〜〜〜〜!!》

 

 《語尾で遊ぶなってば》

 

 《えへへ》

 

 画面越しでも“圧”が強い。

 

 俺は急いで返信した。

 

 《ごめん。赤城のことでちょっとバタバタしてた》 

 

 《なるほどね……でも一言くらいほしかった!》

 

 《ほんとそれ!きっしーのばか!》

 

 返事を返しながら、苦笑する。

 

 (……なんか、こういうときに、二人から同時に責められるのって、悪くないな)

 

 もちろん、表では言えないけど。

 

 グループチャットが一段落したところで、ぽん、と画面の上に卯月からの個別通知が浮かんだ。

 

 《きっしー、あのね!ソロデビューのライブなんだけど!》

 

 《二十日に決まった!!》

 

 《きっしー、絶対きてね!!》

 

 勢いだけで画面が光ってるようなメッセージだった。

 

 (ああ、これは本気で嬉しそうだな)

 

 すぐ返す。

 

 《もちろん行くよ。絶対行く》

 

 《やったーー!!!》

 

 少し間が空いて、俺はふと疑問を送った。

 

 《そういえば……のどかは誘ってないのか?》

 

 返ってきたのは、卯月らしくないほど淡い言葉。

 

 《あ……のどか、その日スイバレのライブなんだ》

 

 《だから……来れないの》

 

 なるほど、と胸の奥で静かに納得する。

 

 (卯月の晴れ舞台。のどかがいない日の、卯月ひとりの勝負。……そういうことか)

 

 続けてメッセージが届く。

 

 《だから余計に、きっしーに来てほしいの》

 

 《……ダメ?》

 

 画面越しなのに、声の震えが聞こえる気がした。

 

 俺は迷わず返す。

 

 《ダメなわけないだろ。行くよ》

 

 《ほんと!?》

 

 《お前のソロデビュー、見逃すと思うか?》

 

 《すき!!》

 

 《あ、ちがう!!そーゆー意味じゃなくて!!》

 

 《はいはい》

 

 《きっしーのばか!!!》

 

 にぎやかな怒りと、嬉しさと、照れ。

 

 (……なんか、こういうのも悪くないな)

 

 スマホを閉じた瞬間、胸の奥に少しだけ熱が残った。

 

 十一月七日

 

 翌日。夕方のファミレスはほどよく賑わっていて、注文のベルと子どもの声とコーヒーメーカーの音が混ざっていた。

 

 俺と花楓ちゃんは並んでホールに入っていた。

 

 「蓮真さん、そこテーブル拭いといて貰えますか」

 

 「了解、花楓ちゃん」

 

 そんなやり取りをしていると、入口のドアがからんと鳴った。

 

 入ってきたのは友部さんだった。

 

 「あ、友部さん。こんにちは」

 

 「こんにちは、岸和田くん。それに花楓さんも」

 

 花楓ちゃんはぱっと笑顔になった。

 

 「美和子先生!どうしたんですか?」

 

 「ちょっとね、花楓さんの様子を見に来たのよ」

 

 その言い方が、母親みたいにやさしくて、花楓ちゃんは照れながら「元気ですよ」と笑った。

 

 友部さんが席についたのを見計らって、俺がお冷を持っていく。

 

 その瞬間、胸の奥がずっと言いたかった言葉でざわついた。

 

 「……あの、友部さん」

 

 「なにかしら?」

 

 「この間……赤城と咲太が会ってしまったこと。すみません」

 

 自分でも驚くくらい素直に頭を下げていた。

 

 すると友部さんは、柔らかな笑みのまま、肩を小さく揺らした。

 

 「いいのよ。むしろ気になってたくらい。咲太くんも……赤城さんも、どうだった?」

 

 核心を突くような言い方なのに、優しさが混じっている。

 

 俺は、正直に答えた。

 

 「赤城は……何か悩んでいる感じでした」

 

 そこに俺や咲太のことが含まれているのは確かだったが、そこは口に出さなかった。

 

 「岸和田くんには、赤城さんが何に悩んでいそうか……ボランティア仲間として、分かる?」

 

 「赤城は……真面目で、正義感の強いやつです。だから、そこで悩んでるんだと思います」

 

 俺が言うと、友部さんは小さく頷いた。

 

 「そうね。その正義感で人を傷つける人もいるけれど……彼女は周りもよく見えているから」

 

 「でも、そういうので疲れてるんじゃないかなって思います」

 

 俺が続けると、友部さんは少しだけ遠くを見た。

 

 「真面目だった赤城さんが『真面目だね』って言われるようになったのか。誰かが赤城さんに『真面目だね』って言って、彼女が真面目になったのか。どっちが先なのかはわからないけれど……」

 

 視線を戻すと、少しだけ寂しげに微笑んだ。

 

 「赤城さんの場合、そんな周囲のイメージに応えられているし、そういう自分にやりがいを感じているように見えるわよね」

 

 その言い方が妙に胸に刺さる。

 

 (……赤城は、そういう役を降りられないだけなんじゃないか)

 

 そう思ったとき、自然と質問が口をついた。

 

 「それを踏まえて……友部さんなら、赤城が何かに悩むとしたら、他にどんなことだと思います?」

 

 友部さんは、少し探るように視線を落とし、それから顔を上げた。

 

 「一番ありそうなのは……誰かに恋をしている、とか?」

 

 「……それって、誰にですか……」

 

 「もしかしたらあなたかもよ、岸和田くん?」

 

 語尾を少し上げて、楽しそうに。

 

 「いや、それはないですよ……!」

 

 俺がぶんぶん手を振ると、友部さんはくすっと笑った。

 

 「じゃあ、あとは……そうね」

 

 意味ありげに間を置いてから、こう続けた。

 

 「会いたくなかったんじゃないかしら。咲太くんには」

 

 「……え?」

 

 「たぶん、咲太くんを救えなかったことが、赤城さんにとって一番の挫折だったと思うから」

 

 胸の奥が、ひやっと冷えた。

 

 (……そうか)

 

 確かにそれなら合点がいく。

 

 赤城の正義感なら、責任を感じるのかもしれない。

 

 誰かが傷つくことを、赤城の正義は許さない。

 

 そして、赤城にとって咲太は“過去に救えなかった誰か”なのだ。

 

 今になって思春期症候群を経験した赤城は、あの頃咲太が訴えていたことが本当だったと知ってしまった。

 

 過去は変えられない。でも忘れたい、と願うことだけは、できてしまう。

 

 (……赤城が言った忘れたいって、そういう意味なのか)

 

 苦しい過去を乗り越えるための言葉。

 

 思い出に変えたいからこその忘れたい。

 

 俺は下唇を噛んだ。

 

 そのとき、友部さんがふっと表情を戻した。

 

 「岸和田くん、咲太くんが今どこにいるかわかる?」

 

 「咲太なら、このあと俺と入れ替わりでシフトに来るはずですよ」

 

 「そう。わかったわ、ありがとう、岸和田くん」

 

 立ち上がる友部さんは、どこか決意を宿した背中だった。

 

 「またね」と手を振り、店を出ていく。

 

 残された俺には、洗い物の音と、胸のざわつきだけが残った。

 

 バイトを終えて、店を出た瞬間だった。

 

 ポケットの中でスマホが震えた。

 

 (……誰だ?)

 

 取り出して画面を見ると、そこには赤城郁実の名前。

 

 思わず足が止まった。

 

 昨日、あの保健室で別れて以来の連絡。

 

 タップして開く。

 

 《昨日はごめんね、岸和田くん。迷惑かけて》

 

 相変わらず丁寧で、相変わらず距離の測り方がうまいようで下手な文面だった。

 

 迷惑なんて思っていない。むしろ心配していたのはこっちの方だ。

 

 俺は短く返す。

 

 《気にすんな。大丈夫だから》

 

 すぐに既読がついた。

 

 少し間があって、次のメッセージが届く。

 

 《ありがとう。それでね、またお願いなんだけど》

 

 《明後日、#夢見るで、海老名駅近くのロマンスカーミュージアム》

 

 《迷子の子どもがいるって投稿があったの》

 

 《もし時間あったら、一緒に行ってほしい》

 

 (……また、夢見るか)

 

 思わず空を仰いだ。

 

 海老名のロマンスカーミュージアム。

 

 子ども連れが多い場所だ。迷子が出てもおかしくない。

 

 ただし。

 

 赤城が頼んでくるということは、投稿の内容以上の意味がある。

 

 赤城は、自分の症状を誤魔化すためにも、誰かを助ける理由を必要としている。

 

 それが#夢見るだ。

 

 そして、俺が手伝えば、咲太の言っていた依存が、また一歩進む。

 

 (……わかってる。でも、放れないんだよ)

 

 中学の頃、俺を最初に拾い上げてくれたのは赤城だった。

 

 その事実だけが、今も胸を引っ張る。

 

 俺は深呼吸して、返信した。

 

 《わかった。明後日、行くよ、予定合わせる》

 

 すぐに返事が来る。

 

 《ありがとう。岸和田くん》

 

 短い言葉なのに、妙に重かった。

 

 画面を閉じてポケットにしまう。

 

 (……これでまた一つ、赤城の世界に踏み込むことになるのか)

 

 足取りは軽くない。

 

 でも、逃げる選択肢は、俺にはもうなかった。

 




物語解説

今回の章では、学祭という賑やかな日常の只中に、ごく小さなほころびが顔を見せる瞬間を描きました。

#夢見る に記された何気ない投稿。

郁実が見せた、強さと脆さの同居する行動。咲太との再会で生まれた沈黙と、言葉の裏側に沈んだ記憶の重み。

そしてそのすべてが、蓮真にとってはただ観察するだけではいられない引力となって働き始めます。

助けたいと思う気持ちと、踏み込みすぎることへのためらい。忘れたいと願う痛みと、忘れてはいけない過去の残響。

赤城郁実という人物に潜む矛盾が、蓮真自身が抱え続けてきた後悔とも静かに呼応し、気づけば彼は、観察者からもう一歩だけ前へ踏み出していました。

一方で、日常の側面では、のどかと卯月という二人の存在が、これまでとは違う濃度で蓮真の世界に影を落としていきます。

心配のメッセージ、怒り半分の甘え、そして来てほしいと願われるその一言。どれも大きな出来事ではないはずなのに、積み重ねられた関係がふとした瞬間に別の輪郭を帯びる。その微細な揺らぎこそが、本章におけるもう一つのテーマでした。

日常の中に、未来の気配がそっと混ざり始める。その変化を見落とさず、拾い上げてしまうのが岸和田蓮真という主人公であり、今回の物語は、その始まりを静かに示す章となりました。

#夢見る が告げるものは何か。赤城郁実が背負う過去はどこへ向かうのか。そして蓮真は、それにどう向き合い、どこまで踏み込むのか。

次回も、その一歩一歩を見届けていただけたら嬉しいです。

蓮真は最終的にどちらを選ぶと思いますか?

  • 豊浜のどか
  • 広川卯月
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