青春ブタ野郎はパラレルスプリングの夢を見ない 作:もドえラん
十一月九日
大学の講義を終えて訪れたロマンスカーミュージアムのガラス張りのエントランスは、家族連れでごった返していた。
小さい子どもが、目を輝かせながら歴代のロマンスカーの車両に駆け寄る。親たちはその後ろでカメラを構え、係員のアナウンスが館内に柔らかく響いている。
(……まあ、迷子が出てもおかしくない場所だよな)
#夢見る に投稿された一行を思い出す。
{海老名のロマンスカーミュージアムで迷子の子を見た。夕方かな?小さい女の子が一人で泣いてた。夢かもしれないけど、やけにリアルだったなぁ。#夢見る}
それを見つけて、俺にLINEを送ってきたのが、今隣を歩いている赤城郁実だ。
「……思ったより混んでるね」
三角巾で吊っていた右腕は、今日は白い包帯だけになっていた。
昨日の夜、「明日には吊らなくてよさそうって言われた」とLINEが来たとき、正直かなりほっとしていた。
「まあ、電車好きの聖地みたいなとこだしな、ここ」
「聖地?」
「小さい頃連れて来られたら、一生ロマンスカー乗りたいって言い続けるやつだよ」
「……それは、親御さん大変だね」
小さく笑う赤城の横顔は、いつもより少しだけ力が抜けて見えた。怪我が少し楽になったせいか、それとも、学祭の日よりは緊張していないからか。
受付でチケットを買い、中へと進む。
ジオラマのエリアでは、模型のロマンスカーが滑るようにレールを走り、ライトがきらきら光っている。子どもたちが「わー!」と叫んで寄っていく。
「投稿では、小さい女の子が一人で泣いてたって書いてあったよね」
赤城が小声で言う。
「うん。時間帯までは書いてなかったけど……ここに来る家族連れの数を考えたら、可能性はいくらでもある」
だからこそ、夢で見た“可能性”に意味を与えてしまうのが、赤城らしいところでもある。
「とりあえず、館内ぐるっと一周してみるか」
「うん。ありがとうね、付き合ってくれて」
「どうせ一人で来るつもりだったんだろ」
「……そうだけど」
少しだけ言い淀む声。
その曖昧さが、日曜日の保健室での「勝負」の続きみたいで、妙に現実感があった。
迷子の女の子を見つけたのは、屋上展望スペースに上がる階段の途中だった。
下のフロアからは、展示車両の中を覗き込む子どもたちの声が聞こえてくる。その喧噪とは少し離れた柱の陰で、ひとり、ちいさな影がしゃがみ込んでいた。
ピンク色のリュック。丸いキーホルダー。肩を震わせるたび、髪に付けた小さな星のピンが揺れる。
「あ……」
赤城の足が止まる。
女の子は、こっちに気づいていない。顔を両手で覆い、声にならない嗚咽だけが漏れている。
(……夢見るの投稿、当たりだったってことか)
胸の奥で、嫌な納得の仕方をする。
「行こうか」
俺が言うより早く、赤城は歩き出していた。
「……こんにちは。ここでなにしてるの?」
膝を折り、目線を合わせる。
声は、いつもより半音くらい柔らかかった。
女の子はびくっと肩を揺らし、顔をあげる。涙と鼻水でぐしゃぐしゃだ。
「……ま、ままが……いないの」
「そっか、ママと離れちゃったんだね」
赤城はすぐに頷いた。
右手はまだうまく使えないはずなのに、左手だけで器用にハンカチを取り出す。
「これで、お顔、拭けるかな?」
女の子は戸惑いながらも、こくりと頷いた。
「名前、教えてもらってもいい?」
「……しずか」
「しずかちゃん。かわいい名前だね」
言葉の選び方も、声のトーンも、完全に正義の味方モードだ。
俺ができることは、その少し後ろで周囲を見ておくことくらい。
(……親御さん、どこ行ったんだ)
近くの展示エリアでは、「写真撮ろうよ」という声や、「あっち行ってみよう」という親子の会話が飛び交っている。
「ママとは、どこで一緒にいたか覚えてる?」
「……あのね、でんしゃのなか……」
女の子が指をさすのは、さっき通ってきた展示車両のひとつだ。
「中入って、席に座って、ママ、しゃしんとってて……でも、わたし先に外出ちゃって……」
「それで、迷子になっちゃったんだ」
「……うん」
泣きべそ交じりの声に、赤城は優しく頷く。
「大丈夫。絶対ママ見つけるから」
「……ほんと?」
「うん、ほんと。ね?」
振り返った赤城に、俺も頷く。
「ここ、スタッフさんも多いからな。迷子センターみたいなところもあるだろうし」
「迷子センター?」
「困ったときに助けてくれる場所、ってこと」
納得したのか、女の子は赤城の袖をぎゅっと掴んだ。
「しずかちゃん、一緒にお姉さんたちと行ける?」
「……うん」
歩き出した赤城の横に、自然と俺も並ぶ。右腕はかばいながらも、左手だけで女の子の手をしっかり握っていた。
迷子案内のカウンターは、エントランス近くにあった。
事情を説明すると、スタッフがすぐに無線で連絡を取り、女の子の母親が見つかるまで、ここで預かってくれることになった。
「しずか!」
五分もしないうちに、慌てた足音と一緒に、女性の声が飛び込んでくる。
振り向くと、エコバッグを肩に下げた女性が、半ば走るように近づいてきた。
「ママ……!」
女の子が飛び出していく。
女性はその小さな身体をぎゅっと抱きしめ、「ごめんね、ごめんね」と繰り返した。
スタッフが簡単な確認をして、ふたりは何度も頭を下げて去っていく。
「よかったね」
赤城がぽつりと呟いた。
その横顔は、安堵と、少しの疲れが混ざっている。
「……やっぱり、ちゃんと来てよかった」
「まぁ、な」
夢の予知なんて本当かどうか分からない。
けれど、結果的に、ひとりで泣いていた子どもを見つけて、親のところへ戻すことができた。
そういう事実だけが、赤城郁実をぎりぎりのところで支えている。
ミュージアムを出ると、夕方の空は薄いオレンジ色に染まり始めていた。
ロマンスカーの線路を挟んだ向こう側には、ショッピングモールの看板が並んでいる。子どもを連れた家族連れが、まだ名残惜しそうに写真を撮っていた。
「……腕、平気か?」
改札に向かう人波から少し外れた場所で、俺は訊ねる。
赤城は包帯の巻かれた右手首を、軽くさすった。
「だいぶラクになってきたよ。先生にも、週明けには三角巾も外して大丈夫って言われた」
「そっか」
「あの子の手を握ってる間も、痛くなかったし」
「それはよかったな」
言いながら、胸の奥で別のことを考えていた。
右腕の怪我が治りかけていることと、あのポルターガイストみたいな現象が治まることが、同じタイミングで来るかどうかは分からない。
むしろ、右腕が治れば、「もう大丈夫」と自分に言い聞かせてしまいそうなのが、赤城の悪い癖だ。
駅に向かうペデストリアンデッキの上は、ロマンスカーを覗き込もうとする子どもたちで賑わっていた。
「……なぁ、赤城」
足を止めたとき、俺は前から気になっていたことを口にした。
「ん?」
「なんで、そこまで咲太のこと気にかけるんだ?」
赤城の足が、わずかに止まる。
「……中三のとき、同じクラスだったから、って言ったら……変かな?」
少し間を置いてから、赤城はそう答えた。
「変じゃないけど」
俺は息を吸い、言葉を続ける。
「その正義感なら、責任感じてるんじゃないかって思っただけだよ」
「責任?」
「咲太のことで」
その瞬間、赤城の表情から、ほんのわずかに色が抜けた。
視線が、どこにも落ち着かないみたいに揺れる。
「……」
「赤城にとって咲太はさ、過去に救えなかった誰かなんだろ?」
静かに言葉を重ねる。
「今になって自分も思春期症候群を経験して……あの頃、咲太が訴えてたことが本当だったって、知っちゃったんじゃないか?」
「……岸和田くんに」
赤城の声が、かすかに震えた。
「私の何がわかるの?」
真正面から突き刺さる問いだった。
「岸和田くんはあのとき、別のクラスだったのに」
その指摘は、正しい。
俺はあの夏、隣の教室の中から、違うクラスの出来事を安全な距離から見ていただけだ。
(……それは、こっちだって同じだよ)
喉の奥まで出かかった言葉を、一度だけ飲み込む。
思春期症候群。
選ばれなかった可能性が、現実に干渉してくるあの春。
机の上のノートを閉じるたびに、世界の輪郭が変わっていった、あの日々。
(……思い出すの、ほんとは一番嫌なんだけどな)
それでも、今ここで黙り込む方が、もっと嫌だった。
「俺だって同じだよ」
気づけば、言葉は自然と口から出ていた。
「違うクラスでも、ただ遠巻きに眺めて、噂を聞き流すしかなかった。静かな日常を守るために」
咲太のことも、その周りの騒ぎも。
関わらない方がいいと、誰かが勝手に決めた境界線の向こう側に置いてきた。
「だから、赤城の気持ちは……少しは分かりたいよ。俺も」
言いながら、自分でも苦笑したくなった。
分かる、じゃない。
分かりたい、の方だ。
赤城は、しばらく何も言わなかった。
人の流れが横を通り過ぎていく中で、ふたりだけ時間が止まっているみたいだった。
やがて、ほんとうに小さな声で呟く。
「……そういうとこだよね、岸和田くん」
その「そういうとこ」が、どんな意味を含んでいるのか。
責めているのか、呆れているのか、ありがたがっているのか。全部に見えて、どれでもないようにも見える。
聞き返す前に、赤城のスマホが震いた。
「……あ、ごめん。ちょっと出るね」
メッセージかと思ったら、着信だった。
画面をちらりと見て、赤城の表情が少し柔らかくなる。
「もしもし、友部さん?」
(友部さん、か)
受話器越しの声は聞こえない。
けれど、赤城の相槌と表情だけで、だいたいの内容は察せられた。
「今週の土曜日……はい、いつもの中学生たちの勉強を見る予定です」
やっぱり、あの中学生三人組のことだろう。
学習支援ボランティア。
「見学したい人……ですか?」
赤城が少しだけ驚いたように目を瞬かせる。
「はい、大丈夫です。私が気にするようなことじゃ……えっと、でも、その子の負担にならなければ……」
その言い方は、いつもの責任の取り方だ。
自分が中心になっている場所に、誰かを簡単には入れたがらないところがある。
通話を終えると、赤城は小さく息を吐いた。
「……ごめん。長くなって」
「いや。友部さん?」
「うん。今週の土曜日、いつもの中学生たちの勉強を見る予定でしょう、って」
「見学したい人がいる、ってやつか」
「……うん」
赤城は、少しだけ複雑そうな顔をした。
「断れるわけないんだけどね。あの子たちの勉強を見るのは、私の役目だと思ってるから」
「役目、ね」
その言い方が、妙に刺さる。
「見学する人って、どんな人なんだ?」
「詳しくは聞かなかったけど……たぶん、ボランティアに興味がある子なんじゃないかな」
言いながら、赤城の視線がどこか遠くを見た。
(……多分、簡単じゃない見学者なんだろうな)
そんな予感だけが、胸に残った。
「じゃあ、その日……俺も一緒に勉強見るよ」
自分でも驚くくらい自然に、言葉が出た。
赤城が、ぱちりと瞬きをする。
「……え?」
「前にも言ったろ。問題を飛ばさないって、俺のことを勝手に決めつけたやつがいたからさ」
「それ、誰のこと?」
「さあ、誰だったかな」
わざとらしくごまかすと、赤城は小さく笑った。
けれど、その笑いの奥には、戸惑いも混じっている。
「でも……そんなに、時間取らせちゃうの悪いし」
「バイトのシフト調整すればなんとかなる。あの子たちの様子も、ちゃんと見ておきたいし」
赤城は視線を足元に落としたまま、しばらく黙っていた。
エスカレーターを降りる親子の声が、遠くから聞こえてくる。
「……ごめん」
やっと絞り出したような声で、赤城は言った。
「ありがとう」
その「ありがとう」は、いつもの社交辞令みたいなやつじゃない。
どこか、諦めと頼りなさとを一緒くたにしたような、危なっかしい響きをしていた。
(……やっぱり、放っとけないな)
心の中でだけそう呟きながら、俺は改札へ続く階段へと足を向けた。
この先、赤城がどこまで自分を追い詰めるのか。
そのそばで、俺がどこまで踏み込むのか。
答えなんてまだ分からないけれど。
少なくとも、次の土曜日。
あの中学生たちと、赤城の「役目」の真ん中に、俺も一緒に立つことになる。
十一月十一日
生徒が帰っていき、教室の時計は二十一時を示していた。
プリントが入ったファイルを片づけていたとき、隣の教室で問題集を揃えていた双葉が、不意に口を開いた。
「おつかれ、岸和田」
蛍光灯の白い光の中で、その言い方はやけに静かだった。
「……ああ、おつかれ」
返事をした瞬間、双葉がこちらに視線を向けた。あの、何かを知っている時の双葉の目だ。
「梓川から聞いたよ。赤城郁実のこと」
喉の奥がひりつくような感覚があった。
「……何を咲太から聞いたんだよ?」
椅子を引く音がやけに大きく響く。
「まずは保健室の勝負の話。それと、着替え手伝ったっこと」
「……いや、それは赤城から頼まれて……」
「肩甲骨のところにあった傷の話もね」
息が詰まる。
双葉は俺を見ず、教卓の上の赤ペンをキャップで閉じた。
「まさか、岸和田がそんなブタ野郎ムーブをするなんて思ってなかったよ」
「だから違うって……!あれは赤城が、右腕使えないから頼んできて……」
「それ、桜島先輩の妹さんと、そのアイドル仲間の前でも言える?」
その瞬間、喉まで出かかった言い訳が全部消えた。
(……言えない。絶対に言えない)
「……確かに。のどかや卯月には……言えないな」
双葉はようやくこちらを見た。
「へぇ。やけに素直だね、岸和田。心境の変化でもあった?」
「いや、別に。何も」
双葉は誤魔化す俺を見てため息をついた。
「梓川から聞いたよ。岸和田、赤城郁実の #夢見る の人助けに付き合ってるって」
「……」
「何がしたいの?岸和田は」
問い詰めるような声じゃない。ただ、本心を抉るように静かだった。
俺は息を吸い、答えた。
「赤城が困ってるなら……そばにいてやりたいよ」
双葉は即答した。
「なんか、モテる男子みたいなセリフでうざいよ岸和田」
「どういう意味だよ、それ」
「……彼女は、梓川のこともだけど……岸和田のことも好きだったんでしょう。だけど梓川は忘れたい。岸和田には頼りたい。その違い、分かんない?」
「……」
「青春ニブ野郎には難しいかもしれないけどね」
双葉は振り返り、まっすぐ俺を見た。逃げ場がない瞳だった。
「……俺は、分かってるよ」
声が自分のものじゃないみたいに掠れていた。
「多分……本当は俺じゃ解決できない。赤城のこと、俺が助けられるわけじゃないって……分かってる。でも……あの時、俺は何もできなかった。だから、せめてもの償いなんだよ」
双葉はしばらく黙っていた。
その沈黙が逆に、胸の奥の痛みを増幅させる。
そして。
双葉は机の角にもたれ、腕を組んだ。
「償いね。じゃあ忠告するけど」
「彼女に取りついてる幽霊みたいなのに、岸和田まで巻き込まれる前に、早く忘れてあげなよ」
幽霊という言葉に、冗談の色は一つもなかった。
赤城が背負っている影のこと。そして、それに近づきすぎる俺の危うさ。
「赤城郁実の抱えてるものは、岸和田が思ってるよりずっと重い。岸和田まで沈んだら、ほんとに誰も浮かべなくなるよ」
教室の蛍光灯が、少しだけ揺れたように見えた。
双葉と別れてエレベーターを待っているとビルの空調の音だけがやけに大きく聞こえた。
頭の中はまだ、さっきの会話の余韻でざらついている。
(……忘れてあげなよ、か)
ため息をひとつ落として、エレベーターのボタンを押した。
扉が開くと、制服姿の少女がひとり乗ってきた。
「あ、岸和田先生」
姫路紗良だった。
いつもの微笑み。けれどその目は、こちらの顔色を一瞬で読み取るような、静かな光を宿していた。
「元気になったと思ったら……また悩んでますね?」
「……前から思ってたけどさ。姫路さんって、エスパーか?」
「さぁ、どうでしょう」
くすっと笑うその表情は、冗談とも本気ともつかない。
「でも、岸和田先生。前より素直になりましたね」
心臓の鼓動が、わずかに強く跳ねた。
(……この子、ほんとに何を見てるんだ)
話題を逸らすように、俺は咳払いする。
「そういえば姫路さん。数学の先生の候補に……俺はまだ入ってるのか?」
「うーん……」
姫路さんは指先を唇に当て、小首をかしげた。
「今は、咲太せんせの方が有力ですね」
「咲太のこと……下の名前で呼ぶんだな」
「はい。山田くんもそう言っていたので」
「山田くんが?」
「山田くんとは学校で同じクラスで。咲太せんせの授業、わかりやすいって話していて。それで、咲太せんせがいいなって……思いました」
(……この子、俺が気になったことまるで察して言ってきたな)
胸の奥がざわつく。読まれている。表情も、心の動きも。
姫路さんは続けた。
「それに、岸和田先生も分かりやすいですけど……」
エレベーターが一階に近づくぴんという電子音が鳴る。
「咲太せんせは、ちょっと面倒くさそうだから」
「なんだよそれ」
思わず突っ込むと、姫路さんは小さく笑った。
「でも、そこがいいっていう子も、世の中にはいますよ?」
エレベーターが開き、外の空気が流れ込む。
姫路さんは軽く会釈して、夜の街へと歩き出した。
去っていく後ろ姿を見送りながら、胸の中に残った違和感だけが、靴裏に静かに貼り付くようだった。
(……本当に、この子はどこまで見えてるんだ)
十一月十二日
「じゃあ今日はここまでにしようか」
赤城がホワイトボードに書いた最後の問題を丸で囲んで言うと、「えー」とか「やっと終わった」とか、三者三様の声が上がった。
時計の針は十五時半を少し回っている。
ワークブックを閉じる音、椅子を引く音、ペンケースをしまう音。それぞれが、今日の勉強時間の終わりを告げていた。
(……なんとか、形にはなったな)
後ろでは、咲太、いや、今日の肩書き的には「見学者の梓川」が、見学していた。
「三人とも、最後までよく頑張ったね」
赤城が笑顔で声をかけると、男子のひとりが「郁実先生、次のテストで八十点いったらご褒美ある?」なんてちゃっかりしたことを言い出した。
「じゃあ、そのときは……友部さんに相談してみようか」
「えー! 郁実先生がなんか奢ってくれればいいじゃん!」
「先生のお財布は無限じゃありません」
そんな他愛もないやり取りに、教室の空気が少しだけ柔らかくなる。
俺は、ホワイトボードの横に立ったまま、それを静かに見ていた。
(……さすがだな)
赤城は距離の詰め方がうまい。
「じゃあ、片づけたら今日は解散ね。忘れ物しないように」
「はーい」
三人はそれぞれの机に戻り、ノートやワークを鞄へしまい始めた。
その様子を眺めながら、ふと昼間のことを思い出す。
友部さんが生徒のプリントを並べている横で、俺と赤城は教室に向かうためにスクエアの階段を上っていた。
「今日ね……#夢見るで、夕方、横須賀で迷子の女の子がいるっていう投稿があったの。それと横須賀中央の自転車盗難、あと夜に久里浜での踏切事故、ていうのも 」
赤城がタブレットを胸元に抱えたまま、小さく息をつく。
「……まさか全部行くつもりなのか?」
俺が呆れ半分で言うと、赤城はためらいもなく頷いた。
「うん」
その迷いのなさが、逆に胸の奥をざらつかせる。
「じゃあ……久里浜の方は俺が行くよ。場所、少し離れてるだろ」
「え……」
赤城は一拍置いてから、すとんと肩の力を抜いた。
「ありがとう、岸和田くん」
その声音が、あまりに自然で、あまりに頼りにしていて。
(……ほんとに、忘れられなくしてるよな、俺のこと)
自嘲が喉の奥に沈む。
忘れるべきなのは、赤城の方なのに。
線を引かなきゃいけないのは、俺の方なのに。
なのに、また一歩、踏み込んでしまっていた。
「今日、見学したいって言ってた子、さっき着いたみたい」
準備をしているとき、友部さんがそう言った。
「じゃあ、あとで紹介してもらえますか?」
赤城が答えた、その数分後だった。
コン、コン、とドアがノックされた。
「失礼します」
聞くまでもなく、声で分かった。
顔を上げた瞬間にはもう、胸の中の温度が少し下がっていた。
「咲太……」
自分でも驚くほど、素のトーンが漏れた。
「お邪魔します」
咲太は、まるでここが最初から自分の居場所だったかのような、飄々とした顔で立っていた。
「え、なんで……」
赤城の口からその言葉がほとんど反射で飛び出す。
「それ俺も聞きたいんだけど」
俺も気付けば口を挟んでいた。
「岸和田もな……」
咲太は肩を軽くすくめた。
「……俺は赤城に頼まれて来てるからな?」
皮肉でも言いたかったのかもしれない。
なのに赤城は、咲太と俺の顔を交互に見て、どう反応すればいいのか分からないそんな表情になっていた。
気まずい空気が、教室にうっすらと満ちていく。
だが、生徒がそろそろ来る時間だった。
この空気を背負わせるわけにはいかない。
「あ、郁実先生、こんにちは!」
元気すぎる声とともに、中学生が走り込んでくる。
「今日はよろしくお願いしますー!」
咲太はさっと視線をそらし、後ろの席に腰を下ろした。
完全に見学に徹する構えだった。
俺と赤城は、自動的にホワイトボードの近くに立つ。
生徒たちを困惑させないためだけに、互いに視線を合わせず、いつもどおりのボランティアを始めた。
数式の説明をし、プリントを配り、進捗を確認する。
そのすべての背後で、咲太が静かに観察しているのが分かる。
(……やりにくいな)
けれど、それ以上に。
(赤城は、もっとやりにくいだろ)
その事実が、なぜか胸の奥をじわじわと締めつけた。
「郁実先生、さよなら〜」
「蓮真先生も、さよなら!」
現実の時間が、記憶から戻ってくる。
廊下に出た赤城と俺は、帰っていく三人の生徒に手を振る。男子がふたりに、女子がひとり。
「気を付けてね」
「気をつけて帰れよ」
彼らの背中が階段の向こうに消えていくのを見届けてから、教室の中を振り返る。
赤城は、生徒たちの姿が見えなくなると、「はぁ」と大きなため息を吐いた。俺と咲太にも聞こえるように……
意図的なため息であることは、わざわざ赤城に確認するまでもない。
「咲太くんのこと、黙っていてごめんなさいね」
廊下から教室に戻ってきた俺たちに声をかけたのは友部さんだ。
「いえ、友部さんが悪いわけではないので」
暗に咲太が悪いと赤城は言っている。
けれど、それには気づかないふりをした。気づいてなければ、存在しないのと同じだ。
「そう?それじゃあ、あとは三人で大丈夫?」
「はい。今日もありがとうございました」
「また来週ね」
胸の高さで小さく手を振ると、友部さんは教室を出ていく。
その足音は一歩ずつ遠ざかり、やがて聞こえなくなった。
教室には沈黙だけが残される。
「………」
「………」
無言のまま、赤城がホワイトボードに書かれた数式を消していく。因数分解の基礎問題。
隣に並ぶと、俺も消すのを手伝った。
「赤城、怒ってる?」
表情には出さないが、先ほどのため息は明らかに咲太を責めていた。
「私たち、今、勝負しているんだよね?」
いつものトーン赤城が聞いてくる。
「だな」
「どんな勝負だっけ?」
「赤城が僕を忘れるのが先か、僕が赤城を思い出すのが先か」
「梓川くんにちょろちょろされたら、忘れたくても、忘れられなくなる」
「勝負の世界は厳しいんだよ」
「勝ちにこだわる人だと思ってなかった」
わずかに語気を強くした赤城が最後の数式を消した。その間、一度も咲太を見ようとしない。なんとも赤城らしい不器用な怒り方だ。
「勝てない勝負はしない主義だって言ったろ」
「それ、本気で言ってたわけじゃないくせに」
赤城が肩をすくめるように言い、最後の数式をホワイトボードから消した。
その横顔を見ながら、俺は内心でため息をつく。
(……咲太、お前さすがに惚けすぎだろ)
ここまで気づいてませんよみたいな顔を貫く必要あるか、と突っ込みたくなる。
だが同時に。
(……いや、これが咲太なりの探りの入れ方なんだよな)
赤城の気持ちの揺れ、俺の踏み込み具合、二人の温度差。
それを測るとき、咲太はあえて空気を読まないふりをする。
観察してますなんて顔は絶対にしないくせに、俺が気づくレベルで惚けてみせる。
相変わらずずるい奴だ。
赤城はというと、気づいているのかいないのか、咲太の存在を意図的に視界から外していた。
「勝てない勝負はしない主義だって言ったろ」
咲太が言うと、赤城はほんの少しだけ目を細めた。
「それ、本気で言ってたわけじゃないくせに」
その声に刺はないが、確かな熱はある。
(……だから厄介なんだよな)
赤城の忘れたいと、咲太の確かめたいと、その狭間で俺だけが立ち止まっているみたいな、この感じが。
自然と俺たちは教室の時計を見上げていた。
時刻は、午後三時四十分。
「赤城もこのあと用事か?」
咲太が何気なく言うと、赤城は小さく肩をすくめた。
「梓川くんって、目ざといね」
「正義の味方って忙しいんだな」
「この話やめない?」
「どうせ、平行線だからか?」
「そう」
困ったように笑って、赤城は咲太の言葉を肯定した。
咲太はホワイトボードの前で腕を組み、わざとらしくため息をつく。
「横須賀で迷子の女の子を保護するのか?それとも踏切事故を止めるのか?あとはチャリの盗難っていうのもあったな」
「……調べたのかよ」
思わず俺が言うと、咲太は肩をすくめた。
「気になるだろ?」
赤城は居心地が悪そうに、けれどどこか諦めたように、薄く笑った。
Xに投稿されていた#夢見るのポストは三件。
迷子、踏切事故、自転車盗難。
時刻はバラバラだが、回れない距離でもない。
それでも。
「時間ないから、もう行くね」
赤城は咲太の追及に答えることなく、鞄を肩にかけると背中を向けた。
その足が教室の出口へ向かいかけた瞬間。
「赤城」
思わず声が出た。
赤城が振り返る。
「久里浜の件は俺が行く。距離あるだろ。赤城ひとりで全部回るのは無理がある」
赤城の目が、一瞬だけ揺れた。
気丈な顔をしていても、その奥にある疲労と焦りは、隠しようがない。
と、そのとき。
「……まだ協力してるんだな」
咲太の声が、静かに、しかし確かに刺さった。
その言い方は責めているわけではなく、ただ確認しているだけだ。
それが逆に重い。
「……協力ってほどじゃない。ただ……赤城が行くなら、俺が行った方がいい場所もあるだろ」
自分でも言い訳じみていると思う。
赤城は視線を伏せ、ほんの一拍置いてから、小さく「……ありがとう」と言った。
その声音は、助けを求めたい気持ちと、それを認めたくない自分の間で揺れている。
そんな赤城の背中に向かって、咲太が静かに言葉を落とした。
「あと何人助けたら、赤城の後悔は消えるんだ?」
ぴたり、と赤城の足が止まる。
教室の空気が、一瞬だけ凍りついたみたいだった。
「……何か、思い出したの?」
咲太が、静かに問いかける。
「中学の時、僕を助けられなかったことを、今も引き摺ってるのかと思って」
その言葉の正確さに、胸がわずかに波立つ。
(咲太……やっぱ気づいてたんだな)
いつからか分からないが、咲太は赤城の後悔の形を明確に捉えていた。
探りではなく、もう核心に近い問いだった。
「私は……!」
弾かれたように赤城が振り向く。
その瞳は刺すように鋭いのに、奥では不安が震えている。
怒りなのか、悲しみなのか、どちらにも振り切れず揺れ続けていて、今にも泣き出してしまう、そんな危うい光だった。
赤城が何を思っているのかは分からない。
ただ。この瞬間の赤城は、俺が見てきた中でいちばん感情的だった。
張りつめた仮面が割れる音が聞こえそうなほどの、むき出しの表情。
だがその顔は、次の瞬間には別の何かに上書きされてしまう。
赤城の身体が、びくんと震えた。
そして。
両手で口元を押さえ、膝が折れるようにしゃがみ込んだ。
「赤城……?もしかして……」
喉が自然とつまる。
学祭の日に見た、あの光景が蘇る。
ポルターガイスト。
俺と咲太が駆け寄るのとほぼ同時だった。
赤城の髪が何も触れていないのに、ゆっくりと持ち上がる。
見えない誰かが手ぐしを入れたように束ねられ、くるりと捻じれ、毛先が空へ向かう。
「また、こんな時間から……」
赤城の唇から漏れた声は、震えているのに、どこか諦めと苛立ちが混じっていた。
その手が太ももを抓る。
痛みに耐えるというより、何かを摘み取ろうとしているような必死の動きだった。
そして気づく。
赤城のブラウスの中を、蛇のような何かが這っている錯覚。
首筋から肩、袖の中へと滑っていく不自然なしわ。
何もいないのに。誰も触っていないのに。布だけが、生き物のように蠢く。
「……っ」
言葉は、一つも出てこなかった。
見てはいけないものを見てしまったような寒気が背を走る。
恐怖というより、もっと静かで深い嫌悪。
この世の理から外れたものを目の当たりにした時の、本能的な反応。
隣で咲太も息を呑んでいた。
けれど。俺の心の中でいちばん強かったのは……
(……赤城)
ただの不気味さでも、ただの恐怖でもない。
こんな状態まで追い詰められて、それでも誰かを助けようとする赤城が、たまらなく心配だった。
何が赤城の身体を侵食しているのか。
何が彼女の心をここまで縛りつけているのか。
そのすべてが理解できないまま、ただ赤城の肩に手を伸ばした。
「赤城……大丈夫か?」
返事はなかった。
ただ、震える肩だけが、俺の手のひらの下でかすかに軋んでいた。
その時、咲太の右手は反射的に伸びていた。
見えない蛇を捕まえようとして、蠢いていた赤城の左手首をしっかり掴む。
「っ!」
だが、咲太の手のひらに返ってきたのは、赤城の驚きと、細い手首の感触だけだ。
「赤城悪い」
そう断ってから、咲太は返事を待たずにブラウスの袖をまくった。肘まで一気に。
やはり、何もいない。蛇など存在するわけがない。
「………!?」
それでも、俺たちが驚きと疑問を同時に感じたのは、赤城の左腕に予期せぬものが見えたからだ。
どういうわけか、白い素肌にはマジックペンで幾つもの文字が綴られていた。
ーそっち、大丈夫?
ーねんざごめん
ー彼に気を付けて
ー全部上手く行ってる
まるで、スマホで誰かとやり取りをしているようなメッセージ。
「これって……」
咲太が言葉を止める。
赤城が目を伏せたまま、小さく返す。
「……離して」
その瞬間、咲太はハッとしたように手を放した。
放された手首から、文字はまるで水でもかけられたみたいに滲み、肘から手首へ逆流するかのように消えていった。
赤城は黙って袖を下ろす。咲太に掴まれて赤くなった手首も、隠れる。
「今のも、ポルターガイストの仕業か?」
咲太が静かに問う。
「梓川くんに関わると、ろくなことがない」
吐き捨てるように赤城が言う。
「原因は、ほんとに僕なんだな」
自嘲めいた声で咲太が続ける。
前回も、俺たちの前でポルターガイストは起きた。咲太が赤城の心を揺らした、その直後だった。
過度なストレス。心の摩擦。
そういう方程式は、すでに成立している。
(……だからなのか)
俺の胸に、ひとつの答えが落ちる。
(俺の前では、この現象は起こらない)
赤城にとって咲太は「心を乱す存在」で、俺はそうではない。
むしろ、安心材料として扱われているのかもしれない。
良いとか悪いとかではなく、赤城の精神が、そう判断しているというだけだ。
「前も言ったけど、治し方ならわかってるから」
咲太は、静かに視線を外す。
「……ごめん。岸和田くんも離してくれる?」
赤城にもう一度言われて、俺もそっと肩に置いていた手を離した。
それ以上、赤城は答えない。ただ、答えないことが返事にはなっている。
でもこんな気味の悪い状態が続けば、普通頭がおかしくなる。
赤城が平然としていられるのは、その正体を知っているから。そして、それは恐らく赤城に害をなす存在ではないのだろう。
言葉を操る以上、人なのは確かだ。
それは、何者なのだろうか。
「誰なんだ?」
「………」
俺が問いかけても、赤城は答えない。
「それを言ったら、梓川くんとの勝負にならないよ」
その言い回しに、俺は一瞬だけ苦笑する。
結局、俺も咲太も、赤城の本質には全然届いていない。
彼女が何を考え、何を思っているのか……
赤城郁実という人間そのものが、捉えきれない。
今日も、俺と咲太は、何の成果も出せずに、このまま撤退するしかない。
もう、誰か援軍でも来てくれないとどうにもならない気がした。
終わりが見えてこない。
いや、もしかしたら……
それこそが咲太にこの勝負を持ち掛けてきた赤城の目的なのかもしれない。
そんなことを思っている時だった。
「郁実」
彼女の名を呼ぶ声が、廊下から響いた。
俺と咲太が顔を上げると、ひとりの男性が立っているのが見えた。
年齢は二十代前半。スーツ姿なので、恐らく社会人。
咲太と似たような身長で、眼鏡をかけた真面目そうな男だった。
(……あれ。九月にも赤城と話してた人……だよな)
ふいに記憶がよみがえる。
「もう会えませんって、言いましたよね?」
しゃがんでいた赤城が、ゆっくり立ち上がる。
ポルターガイストは、もう完全に収まっていた。
「ごめん。どうしても、話を聞いてほしくて」
「私、用事があるんです。ごめんなさい」
赤城は床に落ちていた鞄を拾い上げる。
そして、俺の方だけを振り返った。
「久里浜はお願いね、岸和田くん」
「……あぁ」
それしか言えなかった。
(やっぱ、俺には頼るんだよな……忘れられないだろそれじゃ……)
胸の内でだけ、苦い自嘲が沈む。
赤城は男性と目を合わせることもなく、足早に脇を通り過ぎていく。
スーツの男は、手を伸ばしかけたが、結局その肩に触れようとはしなかった。
足音はすぐに遠ざかり、階段の下へ消えていく。
ふたりの間には訳ありという空気が漂っていた。
赤城のことを何か知っているのなら、話を聞くのもひとつの手段かもしれない、そう思った矢先だった。
男の視線が咲太を捉えた。
「君……もしかして、梓川くんか?」
「………」
(名前、出てくるのかよ……咲太、意外と顔広いな)
驚いてはいたが、咲太は落ち着いていた。
「それに君が……岸和田くんか」
(……なんで俺の名前まで)
眉が自然と寄る。
「そういうあなたは?」
男は小さく息を吐いて、視線を逸らした。その視線の先には、もういなくなった赤城の背中があった。
そして、男は重い言葉を落とした。
「以前、彼女と付き合っていたんだ……」
教室の空気がわずかに揺れたような気がした。
(……赤城に彼氏がいたって噂、本当だったのか)
心の奥でだけ、音のないため息が落ちた。
「それって、つまり」
「元彼ってやつだね」
自嘲めいた笑顔が、やけに痛々しく見えた。
五分後、俺たちはキャンパス内のベンチに座っていた。
銀杏の並木道があるメイン通り。
土曜日にもかかわらず、キャンパスには学生の姿がちらほらあって、並木道もぽつぽつと人が歩いている。
今、通り過ぎたのは、理系学部の四年生だろうか。「卒研、終わんねぇ」、「俺もやばいわ」と、ふたりの男子学生が話していた。
「卒研か、俺も大変だったな」
その声は、俺たちの隣から聞こえた。
ベンチの横に、間を空けて、ひとりの男性が座っている。
自称・赤城の元彼氏。
「人を待つので」と言って外に出た咲太についてきたのだ。
外に出た直後、俺は咲太に声をかけた。
「麻衣先輩か?」
咲太は、ほんの少しだけ目をそらして、「ああ……」と短く答えた。
(麻衣先輩なら、まあ納得か)
そんな会話のあとで、自然と流れで俺たち三人は近くのベンチまで移動した。
名前は、高坂誠一。ここに来るまでに、そう自己紹介を受けた。
もらった名刺には知らない会社の知らない部署名が記されている。
俺たちが横目に高坂さんを見ると、いつの間にか火のついていない煙草を咥えていた。
「あ、煙草、いいかな?」
視線に気づいた高坂さんは、スーツのポケットに手を突っ込んで、ライターを探しながら聞いてきた。
「遠慮してもらっていいですか?」
「え?」
「ここ、喫煙ダメな場所なんですよ」
「ああ、そうか」
口から離した煙草を箱に戻す高坂さんの横顔には、苦笑いが張り付いている。先ほどから、ずっとそんな顔だ。
赤城との妙な場面を見られたことに対する居心地の悪さがそうさせているのだろうか。
「普段は全然吸わないんだ。緊張したりすると、気を紛らわすためにね」
言い訳しながら、黄色い煙草の箱をスーツのポケットに入れた。
高坂さんから煙草のニオイは全然しないので、話は本当なのだろう。
「そんなだから、時々吸って、咳き込んで……だったら吸わなきゃいいのにって、よく言われたな」
聞いてもいないことを高坂さんは一方的に話してくる。
いや、話している。別に、俺たちに聞かせたいわけではない。聞かせようとしているわけでもない。これも、煙草と同じ。居心地の悪さを埋めるための行動だろう。
「赤城とはいつからなんです?」
「彼女が高一のときにボランティアで知り合って、高二の夏に告白して付き合うことになった」
「僕のことは赤城から?」
「切っ掛けは忘れたけど………中学の卒業アルバムを見せてもらったことがあってね。仲の良かった友だちはどの子だとか、初恋の男子はこの中にいるのかとか、クイズみたいにしてクラスの写真を見ていたときだったかな」
「運悪く、僕の写真を指差したんですか?」
「ああ。そしたら、それまで楽しそうにしていた彼女の顔色が変わって………」
「そりゃあ、何かありましたって言ってるようなもんですね」
そこで、俺は一拍置いてから、気になっていたことを口にした。
「それで……俺のことは、なんで知ってるんですか?」
高坂さんの表情が、わずかに強張る。
バツが悪そうに視線をそらしてから、静かに答えた。
「……郁実が、梓川くんの写真を見たあとで、君の写真を見せてきたんだよ」
咲太が横で、ほんのわずかに息を呑んだ。
高坂さんは続ける。
「『この人が、私の初恋』って」
ほんの少し遅れて、その言葉の重さが胸に落ちてくる。
(……やっぱり、双葉や友部さんの言う通り、そう思われてたんだな)
肯定するでも否定するでもなく、ただ静かに現実だけが喉の奥に沈んでいった。
「中学三年のクラスで何があったのかは、そのときに少し聞いたんだ。妙に、梓川くんのことを気にしているようだったから、俺も覚えてて。半分は嫉妬のようなものだけど」
話の途中で高坂さんが横目を向けてくる。
「まさか、その本人たちに会う日が来るとは思わなかった」
「僕も、赤城の元彼に会うとは思いませんでした」
「俺もです」
鹿野さんから恋人がいたらしい話は聞かされていたが、半信半疑どころか、二割も信じていなかったから……
「梓川くんは、彼女とどういう関係なんだ? その、付き合ってるのかな?」
唐突に向けられた問いに、咲太は少しだけ目を瞬かせた。
「全然、そんなんじゃないですよ」
即答だった。
「そうか……」
高坂さんは、ほっとしたように息を吐く。
安心したようにも見えたし、どこか寂しそうにも見えた。
そして、今度は俺の方に視線を向けてくる。
「じゃあ岸和田くんはどうなんだ? 彼女とは」
さっきよりわずかに低い声色には、ほんの少しだけ嫉妬の影が混じっていた。
「俺も、全然そういうのじゃないですよ」
反射的に否定する。
それを聞いた高坂さんは、ほんの一瞬だけ表情を緩めた。
俺たちの返事に何を思ったのだろうか。それはよくわからない。
ただ、今の反応でわかったこともある。高坂さんはまだ赤城のことが好きなのだろう。
「どうして、別れたんですか?」
「端的に言うと、俺のせいかな」
「複雑に言うと違うんですか?」
「それでも、俺が悪いのは変わらないよ」
高坂さんは咲太の言葉に笑う。
だけど、半分は自分自身を笑っているようでもあった。
「彼女が高校を卒業した日に、『もう会えません』って言われてね。こいつで、一方的に」
ポケットから出したスマホを、高坂さんが軽く持ち上げる。
「それを黙って受け入れたんですか?」
「あのときは、何も言い返す資格がないと思ったんだ」
「それはどうして?」
「去年、大学四年生だった俺は就職活動に追われて……彼女を気遣える余裕なんてなかったからさ」
「就活って大変なんですね」
前期の頃は、大学内を歩いていると、スーツ姿の四年生をよく見かけたものだ。
学祭も終わったこの時期になると、ほとんど見かけなくなる。
「俺の場合は、大変だったな。今は売り手市場なんて言われているから、要領いいやつはすぐに大手の内定もらって遊んでたけど」
そんな友人たちの姿を思い出したのか、またしても高坂さんは苦々しく口を曲げている。
「採用試験を五十社受けて、全部落ちてさ。五十一社目の面接で言えることなんて何も残ってないんだよ。だって、五十一番目に行きたい会社ってなんだよって、感じだろう?」
「そうですね」
俺も、就活が大変なことは年上の従姉妹から聞いたことがある。
それでも今の高坂さんの言葉は、想像していたよりずっと重かった。
「『わが社を志望する理由は?』って聞かれても、そんなのあるわけない。最初は誰もが知っている大手を狙って、それがダメで妥協して……次もダメでまた妥協して、五十回も繰り返してたら、もうなんだっていいんだよ。就職できれば。そんなの面接官だってわかってる。こっちは十一月、十二月まで就活続けている売れ残りだったんだから」
「………」
まだ就職活動を経験していない俺たちに返す言葉はない。だから、黙って話の続きを待った。
「就活をはじめる前は、多少なりとも自信があったんだ。大学に入ってからは、ボランティア活動を通して、他の学生よりも社会がわかっている気になっていた。だけど、そんな自分を五十回も『うちにはいらない』って言われていたら、何が自己PRなのかもわからなくなる。それでも周りは内定もらうし、どんどん焦るばかりで……」
高坂さんの声が、そこで一気に暗くなった。
ここまでは乗り越えた過去の体験談として、冗談のように語っている雰囲気があったのに……
「その間、赤城とは?」
だから、咲太は気になってそう聞いた。
「彼女はずっと俺を支えてくれていた。部屋に来て、ご飯を作って、面接用のシャツにアイロンをかけてくれて……朝が早い日も、先に起きて、目覚ましが鳴る前に起こしてくれて、弁当まで用意してたよ」
「面接に出かけるときも、『がんばって』なんて一度も言ってこなかった」
プレッシャーになると思ったからだろう。
赤城らしいと言えば、赤城らしい。
「帰ってきても『おかえり』って言うだけで、『どうだった?』とは聞いてこなかった。言葉でも、態度でも。自分も受験勉強で余裕なんてないはずだったのに」
その赤城の姿は、容易に想像することができた。
彼に尽くしながら、自らの勉強も疎かにしない。
彼女の正義感は、自分にも向けられているから、どちらも手を抜くことができなかったのだろう。サボろうとすら、赤城は思わないから。
(……だから赤城は放っておけないんだよ。危うすぎて)
胸の奥に、自然とそんな言葉が落ちた。
「今のところ、別れる理由が思い当たらないんですけど」
俺はそう言いながらも、言葉の端にほんの少しだけ皮肉を滲ませた。
話を聞く限り、高坂さんは赤城に相当支えられていた。そのくせ……
ここまで聞かされたのは、ただの元カノの美談にしか聞こえない。
「余裕をなくしてた俺は、そんな郁実のことすら、鬱陶しいと思ったんだよ」
「………」
「はっきり覚えてる。クリスマスイブだ。部屋で受験勉強をする彼女を見てたら、もっとがんばれって言われてるような気がして……『しばらく放っておいてくれ』って、気づいたら口にしてたんだ」
「なかなか、最低ですね」
咲太が容赦なく切り捨てる。
俺はその横顔をちらりと見て、胸の奥でひとつ息が揺れた。
(……まあ、人は追い詰められると、そうなるよな)
気づけば、あの春のことを思い出していた。
選ばなかった可能性が現実に混線して、何度やり直しても出口が見えなくて。
机の前で、自分自身がどんどん狭くなっていった、あの感覚。
(他人事みたいに責めるだけじゃ、片づけられないのは……よく知ってる)
俺は口には出さなかったけれど、心の底では、咲太の言葉にも高坂さんの後悔にも、どこかで同じ重さを感じていた。
「すぐに謝ればまだよかったんだろうな。でも、それができるほど大人じゃなかった。これ以上、格好悪い真似はできないと思った。その方が格好悪いのに」
「そうですね」
咲太が頷いて同意すると、高坂さんは呆れながらも軽く笑みをこぼした。
変に気を遣われるより、いっそ清々しいと思ったのだろう。
「でも、無事に就職はできたんですよね」
手の中の名刺に咲太は視線を落とす。
「年が明けて、ようやく」
「赤城に連絡は?」
「受験が終わるまではやめておこうと思ったんだ。そしたら……」
「まさか待っている間に、振られたんですか?」
「ああ、その通り」
咲太の言葉に頷いて、この日一番の苦笑いで、高坂さんは過去の情けない自分を笑っていた。
「でも、どうして今になって赤城に会いに?」
心の整理に時間が必要だったと考えればそれまでだが、他に理由があるのなら聞いておきたい。咲太もそう思ってるだろう。
「彼女のSNSを見たんだ」
「………」
「今、気持ち悪いやつって思ったろ?」
「まあ、少し」
「まぁ、そうですね……」
正直に答えた方がいいと思って、俺も咲太もそのまま口に出した。
高坂さんは「だよな」と苦く笑う。
「それが世間の反応だよな。だから、言いたくなかったんだけど……そこに書いてあったんだよ。傷害事件を起こして、警察に捕まる夢を見たって」
「赤城が?」
傷害事件も、警察も、赤城とは縁遠い言葉だ。だから、反射的に聞き返していた。
「噂になっているだろう?#夢見るって」
「あんなの、信じてるんですか?」
それを聞いて、胸の内側で、別の焦りが静かに灯る。
(久里浜の #夢見る……早く行かなきゃな)
赤城が言っていた踏切事故の時刻が頭を過ぎる。
今日も、時間は待ってくれない。
そして赤城はきっと、それでも全部ひとりで背負おうとする。
(……赤城、絶対に無茶するよな)
咲太と高坂さんの会話を聞きながら、気づけば俺の意識は、次に動くべき場所の方へと先に行っていた。
「大人が信じるような話じゃないよな。でも、見たら気になって」
高坂さんはスマホを握ったまま、ぽつりと呟いた。
もし本当になったら。そんな風に考えてしまう気持ちは、わからなくもない。
実際、#夢見る が現実になる出来事を経験した俺としては、無視できる話ではなかった。
「それ、日付はわかります?」
「ちょっと待って……」
スマホを操作する指が震えているように見えた。
「十一月二十七日」
画面を見つめる高坂さんの横顔は、どこか弱々しい。
「この書き込みを見て不安になったんだよ。郁実をひとりにしてはいけなかったのかもしれないと思ったんだ」
ぽつりとしたその声には、未練というより罪悪感が滲んでいた。
「彼女は、誰かを支えることで、自分を支えているところがあるから」
独白のようなその言葉が、胸に染みていく。
「そうですね」
遅れて出たその言葉は、ただの相槌じゃなかった。
誰かを助けることで、自分を支えている。
それは、赤城郁実という人間の一番危うい部分だ。
正義の味方なんかじゃいられないくせに、正義の味方でいることでしか立ち続けられない。
(……だから、赤城は正義の味方をやめられないんだ)
誰かを助けていないと、自分が倒れてしまう。
そして、そんな生き方は、どんな人間よりも脆い。
(危うすぎるんだよ……ほんとに)
高坂さんの言葉を聞きながら、胸の奥で確信する。
(だから、俺は……赤城を支えたいんだ)
それが償いだとしても。それが誰かの役目を横取りする形になったとしても。
倒れそうな誰かを支えずにいられるほど、俺は無関心じゃない。
いや、ループを繰り返したあの日々から立ち戻れるきっかけをくれた背中を見過ごすことなんて、できないから。
「高坂さんは」
「ん?」
「今も赤城のこと、好きなんですよね?」
「未練タラタラなのは自覚してる」
その時、高坂さんは少し肩の力を抜いた。
きっと彼自身も、赤城の危うさにずっと気づいていたのだ。
そして、それでも支えきれなかった自分を許せていない。
(……似てるな)
思わず胸の奥に沈んだその感覚を、そっと飲み込んだ。
違う形でも、俺も同じだ。
赤城を助けられなかった過去に縛られている。彼女みたいな危うさを放っておけない。
支えたいと思うのは、きっと償いなんかじゃない。
俺自身がそうしないと、前に進めないからだ。
苦笑混じりに言ってから、高坂さんは立ち上がった。
スマホの時計を気にしていたので、仕事の途中なのだろう。
「そうだ。迷惑でなければ、連絡先を交換してもらえないかな? 彼女のことで何かあったときのために。面倒ならあとでブロックしてくれていい」
「すみません。スマホ持ってないんです」
「え?」
咲太が本当のことを言うと、当然の驚きが返ってきた。
「下手な断りの文句とかじゃなくて……中学のときに嫌気が差して、それから持たなくなったんです」
「そうか」
「じゃあ……岸和田くんだけでも、いいかな?」
今度は、まっすぐ俺の方を見る。
「郁実のことで何かあったら、教えてほしくて」
一瞬だけ、ポケットの中の自分の携帯の存在を意識した。
(……電源、普通についてるけど)
さっきからLINEの通知が一件来たまま、バイブの余韻が指先に残っている。
それでも、口から出た言葉は別のものだった。
「……すみません。今、電源切れてて」
「え?」
「充電し忘れてて。さっきから完全に落ちちゃってるんです」
自分でも驚くくらい、滑らかに嘘が出てきた。
高坂さんは、一瞬だけ怪訝そうに俺の顔を見てから、すぐに小さく笑った。
「そっか。タイミング悪かったな。悪い、変なこと言って」
「いえ」
ポケットの中で、俺の携帯は何事もなかったように沈黙している。
画面の向こう側に繋がるはずだった一本の線を、自分の手で切った感覚だけが、じわじわと指先に残った。
(これ以上、赤城のことで大人を巻き込みたくないのか……)
(それとも、俺が勝手に踏み込みすぎるのを、誰かに管理されたくないだけなのか)
答えは、自分でもよく分からない。
ただひとつはっきりしているのは。今の「電源切れてて」は、赤城のためというより、たぶん俺自身のためについた嘘だ、ということだけだった。
高坂さんは困ったような顔をしていたけれど、あっさり諦めてスマホをスーツのポケットにしまった。
「じゃあ、また機会があれば」
実際には、たぶんもう会うことはないだろう。
そんな予感をお互い抱きながら、形だけの挨拶を交わした。
「じゃあ、俺は行くから」
咲太に声をかけると、咲太は立ち上がりもせずに言った。
「……岸和田。お前、無理するなよ」
思わず足が止まる。
さっきまでの空気とは違って、ほんの少しだけ、俺と咲太の関係がやわらいだ瞬間だった。
きっと咲太も気づいたんだ。
俺が赤城の危うさに寄り添おうとしていること。
そして、それが俺自身の負い目や償いに近い感情に。
(ありがとう、咲太)
心の中で呟いてから、自然と声に乗っていた。
「……ありがとう、咲太」
咲太は驚いたように目を丸くしたが、すぐに視線をそらして小さく「ああ」と返した。
その背中に、少しだけ頼もしさを感じた。
結局、この問題を本当に解決できるのは咲太なんだろう。
俺は、ただ赤城の隣にいることができるだけだ。
そんな実感が、静かに胸の奥に落ちていった。
「高坂さん、正門まで送りますよ」
俺がそう言うと、高坂さんは軽く会釈をして歩き出した。
並んで、銀杏並木を正門に向かって歩く。
「……さっきのさ」
「はい?」
「携帯の電源切れてるって、あれ嘘だろ?」
図星だった。
ポケットの中のスマホの温もりが、ちょっとだけ気まずい。
「やっぱりバレますよね」
苦笑しながら返すと、高坂さんも苦笑した。
「まあ、だいたい分かるよ。俺だって……郁実の初恋の人と連絡するのは、正直気まずいから」
「……そうですか」
そう言われると、否定できなかった。
赤城の中に残っている過去に、無遠慮に踏み込むことはできない。
ましてやその当事者だった相手に対してなら、なおさらだ。
正門まであと数十メートルというところで、高坂さんが立ち止まった。
「岸和田くん」
「はい」
「その代わり、一つだけ……お願い、できないかな?」
真面目な声だった。
「なんですか?」
「郁実のこと……支えてあげてくれ」
その言葉は、懇願よりも祈りに近かった。
(ああ……高坂さんも、自分なりに償いをしたいんだ)
彼の中では、まだ終わっていないのだろう。
それでも、もう自分にはその資格がないと分かっている。
だから俺に託したのだ。
「……わかりました。俺ができることであれば」
そう言うと、高坂さんはほっとしたように笑い、深く頭を下げた。
正門前。
「じゃあ、ここで」
「ありがとう。本当に」
軽く会釈を交わし、高坂さんは人混みの中に消えていった。
残された銀杏の匂いと、冷たい風だけが、しばらく俺の周りに残った。
深く息をついてから、俺はスマホをポケットに押し込み、歩き出した。
向かう先は、久里浜。
#夢見る。
(……急がないと)
足取りが迷いなく早まった。
久里浜駅から伸びる住宅街を抜けると、かすかに踏切の警報音が聞こえてきた。
(赤城の投稿にあった時間まで……あと三分)
俺は歩くというより、ほとんど走っていた。
冷たい風が頬を刺し、アスファルトを蹴る足音が、やけに響く。
踏切が見えたとき、俺の胸がざわついた。
赤城が見た#夢見る
{踏切に飛び出した男性が電車に巻き込まれて……人身事故の夢なんて嫌だなぁ……#夢見る}
その男性が本当にいるのかどうか。
それは確かめなければわからない。
警報音が高くなる。
遮断機が降り始めた。その時。
「待ってください!」
スーツ姿の男性が駆け込んできた。
走る方向が、どう見ても悪い意味でまっすぐだった。
(やっぱり……!)
俺は反射的にその腕を掴む。
「危ないですよ!」
男性はこちらの存在に今さら気づいたようで、足をもつれさせ、線路の手前で倒れ込む。
俺も一緒に地面に膝をついた。
その直後、電車の風圧が頬を掠めた。
派手な警告音と共に、車両が猛烈な勢いで通過する。
ほんの数歩分の差。
あと少し遅れていたら、間違いなく大惨事だった。
「す、すみません……!」
男性は動揺したまま、震える声で言った。
謝罪の言葉か、助かった安堵の声か。それを判断する余裕は、俺にもなかった。
ただ息を整えるだけで精一杯だった。
踏切の近くのベンチに男性を座らせると、遠くに赤城の姿が見えた。
心配して駆けつけてきたのだろう。
「久里浜はどうだった?」
息がまだ整わない俺は、喉の奥で「なんとか」と返す。
「そっちは?横須賀の迷子の女の子と、自転車盗難」
赤城は、少しだけ誇らしげに、けれど疲労を隠さずに言った。
「……どっちも無事。迷子は駅員さんに引き渡したし、自転車は放置場所を見つけた」
「そうか」
安堵が胸に広がる。
(結局、全部救われる未来になっている……)
#夢見るは厄介だけど、そこに込められている赤城の想いはひとつ。
救えるなら、救いたい。
その正義感が危うさを孕んでいると分かっていながら、俺はどうしても放っておけなかった。
「赤城、無茶しすぎだよ」
「……岸和田くんだって」
ぶつけられた視線は真っ直ぐで、少しだけ痛い。
彼女の真意に近づくこと。それは俺にはできないかもしれない。
けれど、だからといって目を逸らすこともできない。
(例え償いでも……俺は赤城の力になりたい)
そう思った。
この時点ではまだ。
十一月十四日
基礎ゼミの教室の前では、先生がパソコンをいじりながら、「じゃ、今日は三人二組でディスカッションお願いしまーす」と、いつもどおりゆるい調子で仕切っていた。
自然と班が分かれる。
俺・のどか・卯月の三人組。
咲太・福山・美東さんの三人組。
この並びは最近のゼミではもうお馴染みの配置だ。
のどかがプリントを広げながら言う。
「はい!司会やる人ー?」
「はぁーい!はーいっ!私!!」
卯月は最初から元気いっぱい、机の上に両手ついて前のめり。だけど黒縁メガネをかけたまま、配られたプリントも真剣に見つめている。
(今日もメガネなんだな)
変装なのか、単純に集中力を上げたいのかは分からない。
「あ、でも今日は司会はのどかでいいよ!」
そしてなぜか一瞬でのどかに譲った。
「え、卯月やんないの?」
「んー……今日はね、私静かモード。たぶん」
そう言いつつ、プリントを覗き込む距離が近い。息が当たるくらい近い。
(……これで静かモード?)
のどかが話を進める。
「じゃあ若者の地域参加について〜。卯月、なにか意見ある?」
「ある!」
元気よく手を挙げて話し始めると思ったら、
「……あ、でもその前にきっしー、今日の髪ちょっといい感じじゃない?」
「急に話題飛ばすなよ!?」
のどかが「卯月、授業中〜!!」とつつくと、「え、でも気になったから。気になったら言っちゃうじゃん?」
(これだよ……卯月……)
しかし話し始めると、一転して真面目になる。
「地域のお祭りってね、最初は見る側でいいと思うんだ〜」
「でもね、楽しさとか人の顔とか覚えていくうちに、『あ、次は出たいなぁ』って、自然に思えるようになるんだよ。私がそうだったから!」
のどかがほっこりした顔をする。
「卯月のそういうところ、いいよね」
「えへへ。でしょ?」
褒められるとすぐ素直に喜ぶ。ほんとに天気みたいに感情が変わるやつだ。
みんな帰り支度をし始めた頃、卯月だけは席に座ったまま。
メガネをかけたままノートを開いて、じーっと歌詞カードを見ている。
(めずらしく真面目だな……?)
俺が近づいて声をかける。
「卯月、どうした?」
「あ、きっしー!ちょうどよかった!」
ぱたん、とノートを閉じかけるが、すぐに開き直す。
「これね、二十日のやつ。初ソロライブの。」
ノートにはびっしり書き込み。
矢印、丸、リズムのカウント、ちょっとしたイラスト。
「すごいな……思ったよりガチだな」
「思ったよりって何それぇ!?私ガチだよ!?いつだってガチだよ!?」
卯月はペンをくるくる回しながら言う。
「でもね……」
ペンがぴたりと止まる。
「ひとりで立つのはさ、想像より、ずっとドキドキして」
声がほんの少しだけ小さくなる。
天真爛漫の下に隠れていた、不安の影。
「いつもは、のどかもメンバーもいて……間違えたら誰かがフォローしてくれて……でも今度は、全部私一人だから」
おそらく本人は気づいていないだろうけど、卯月は話しながら俺の袖をちょっと掴んでいた。
(無意識に距離縮めるの、こういう時出るよな……)
俺はその手に軽く目線を落としてから、言った。
「卯月」
卯月が顔を上げる。
「ひとりで立とうとしてるやつを、笑うやつなんていないよ。むしろ、ちゃんと向き合ってるからドキドキするんだろ。怖がっていいんだよ」
卯月は小さく瞬きする。
「きっしーってさ……たまに、ずるいよね?」
「ずるい?」
「そうやって、言われたら元気になる言葉……
ちゃんと選んでから言ってくるじゃん?ずるいよ」
そう言いながら、卯月の手はまだ俺の袖を掴んだまま。
無自覚。でも、ちゃんと伝わってくる。
「……だからさ」
卯月はメガネを外し、髪を耳にかけ直す。
その仕草はステージの練習みたいに自然だった。
「二十日、きっしーが見ててくれたら……私、ちゃんと歌える気がする」
「見てるよ。絶対」
「えへへ。……言ったね?」
指先が俺の袖からそっと離れる。
「じゃあリハ行ってくる!もし歌詞飛んだら助けてね!」
「ステージから俺に助け求めるなよ!」
「え、だめ!?」
「だめだよ!!」
「じゃあ……目で合図するから!」
「それもだめだろ!!」
「えー!?空気読むのむずかしい〜!」
最後まで天真爛漫で空気読めない卯月だった。
でもその背中は、不安を抱えながらも確かに前に進んでいた。
卯月が鞄を肩にかけて、小走りで教室を出ようとした、その時だ。
「あ、そうだ、きっしー!」
くるっと振り返った卯月が、黒縁メガネの奥でぱっと笑う。
「はい、これ!」
勢いよく手を伸ばしてきて、俺の胸にぺたんと押し付ける。
薄い白い封筒。
中には、ライブのチケット。
「……え、俺に?」
「そうだよー?だって来てくれるんでしょ?絶対って言ったもんね?」
自分で蒔いた種とはいえ、あまりに無邪気に信じられると、断る隙がない。
「……まあ、行くけど」
「えへへ、知ってる!」
なんでそんなに自信満々なんだ。
封筒を胸に抱えたまま固まっていると、卯月は「あ、あとこれ!」とさらに小さな箱を取り出した。
「バイト先の後輩さんに渡しといてほしいんだ」
「古賀に?」
「うん。前頼まれたイヤホンセット!」
中には、ピンクのワイヤレスイヤホン。
「ありがとう、卯月」
「うん!」
(空気は読めないけど、こういう時は人のことはよく見てるんだよな……)
「じゃ、よろしくね!」
「ああ、渡しとく」
「きっしーは二十日、ちゃんと来てね!……来なかったら、ライブ中にきっしー!!って叫ぶから!」
「絶対やめろ」
「えー!?」
卯月は最後まで大声で文句を言いながら、メガネを押し上げて教室を飛び出していった。
紙袋と箱の重さが、妙に温かい。
(……あいつ、ほんと真っ直ぐだな)
天真爛漫で、空気読めなくて、怖がりで、努力家で。
その全部を抱えて、ステージに立とうとしている。
俺は深く息をつき、封筒を鞄にしまった。
ちゃんと見に行く。
絶対なんて軽く言ったけど、あれは軽い約束じゃない。
卯月の声を支えるための席だから。
その日の夜、自分の部屋でレポートの下書きをいじっていたときだ。
ベッドの上に放り出していたスマホが、机の明かりの外でぶるっと震えた。
(……誰だ)
画面をのぞき込むと、「赤城郁実」の名前が通知欄に浮かんでいた。
トークを開くと、いきなりスクショが一枚送られてくる。
Xのタイムライン。
見慣れたハッシュタグが目に入った。
{#夢見る 武蔵小杉駅で、エスカレーターが逆走して怪我する夢見た。エスカレーターが逆走なんてあるのかなぁ}
その下に、いいねとリポストがいくつか。
《……さっき見つけた。木曜日の夕方に、武蔵小杉で一緒に見てくれないかな?》
木曜日。カレンダーを頭の中でめくる。
《武蔵小杉って、東横線の?》
返事はすぐに返ってきた。
《うん。東横線と南武線のところ》
《駅の構造までは夢には出てこなかったけど……エスカレーターって、人が多い時間に逆走したら、危ないでしょ》
(……まあ、そりゃそうだよな)
エスカレーターが逆走なんて、ニュースでしか見たことない。
でも、まったくあり得ない話でもない。
《本当に起きるかはわからない、起きないなら、その方がいい》
《でも、もし何かあったときに、何もしなかったって思うのだけは……いやだから》
文字の打ち方はいつもの赤城なのに、行間ににじんでる焦りみたいなものは、前より濃くなっている気がした。
(……双葉の、巻き込まれる前に忘れてあげなよってやつ、思い出すな)
頭のどこかでそう思いながら、指はあっさり動いていた。
《木曜、空いてるよ、時間は?》
少し間があってから、ぽん、とバイブが鳴る。
《十八時くらい》
《その時間帯が、いちばん怖い気がするから》
帰宅ラッシュの時間帯だ。
もっと早い時間なら……と一瞬だけ思ったが、それを否定する根拠もない。
《分かった。じゃあ、武蔵小杉の改札に十八時前に着くように行く》
《#夢見るのポスト、他に続きとかあったら、また送ってくれ》
送信ボタンを押してから、しばらく画面を見つめる。
既読の表示がついて、数秒後。
《ありがとう、岸和田くん》
《……頼りすぎてるのは分かってるけど、もう少しだけ、付き合ってもらってもいい?》
(もう少しなんて、レベルじゃないけどな)
心の中だけでそんなことを呟きながら、短く返す。
《問題は飛ばさない主義だからな》
《もう少しでも、もう少しじゃなくても、最後まで付き合うよ》
打ってから、ちょっと言いすぎたかと思う。
《ずるい返し方するよね》
《……じゃあ、木曜日、お願い。ありがとう》
画面が暗くなる。
静かな部屋の中で、さっきまで手にしていた封筒の存在を思い出した。
卯月のソロライブのチケット。
古賀にプレゼントするつもりのイヤホン。
(……俺、ほんとに問題飛ばさないなんて言ってる場合か?)
自分で自分に苦笑しながら、ベッドに仰向けになる。
目を閉じても、頭の中ではエスカレーターの段差が逆流するイメージと、赤城の「ありがとう」と、卯月の「絶対来てね」が、同じくらいの鮮やかさでぐるぐる回っていた。
十一月十六日
水曜日の夕方。
いつもより早く制服に着替えてバックヤードに向かうと、ちょうど古賀がエプロンを結んでいた。
「あ、きっしー先輩。今日一緒じゃん!」
「そうみたいだな」
古賀は相変わらず元気いっぱいで、俺の方を向くと、にへっと笑う。
夕方の店内はそこそこ忙しかったけど、二十時を過ぎると一気に客足が落ち着いて、ようやく交代で休憩時間に入れた。
休憩室のテーブルに腰かけて、お茶を飲んでいると、古賀がふと思い出したように言った。
「ねぇ、きっしー先輩」
「ん?」
「今度さ、福岡の友だちに会いに行くんだけど……」
言いながら、ストローを少し噛んで、目だけ上げてくる。
「向こうの友だち用のお土産は決まってるんだけど……逆にさ」
「逆?」
古賀はにへっと笑って言った。
「きっしー先輩と先輩と花楓ちゃんに、何買ってくれば喜んでくれるかなって!」
「俺たちに……?」
「うん。どうせ買うなら、渡して嬉しいやつにしたいし」
ああ、そういう気遣いはサラッとするんだよな、古賀は。
「明太子系の菓子でいいんじゃないか?定番だし」
「たとえば〜?」
「めんべいとか」
「あ、それいい!先輩も絶対好きだよね」
「咲太は……なんだかんだ何でも食うだろ」
「それはわかる!」
古賀が笑いながら頷く。
「でもさ、せっかくだから……福岡らしいけど、ありきたりじゃないやつがいいんだよね〜」
「欲張りだな」
「だってぇ、先輩たちに渡すんだもん。雑なのはやだよ?」
言い方がどこか子どもっぽくて、ちょっとだけ笑う。
「じゃあ……明太バターサンドとか、瓦煎餅の現代アレンジみたいなのもあるよな確か?」
「それおしゃれじゃん!それにするかも!」
「さすがきっしー先輩。詳しいね!」
古賀はスマホを取り出して検索を始めた。ふと、別の流れで話題が過去に戻る。
「そういえば古賀、中学までは福岡だったんだよな?」
「うん。だから向こうの友だちとは久しぶりに会うよ〜」
「どんな話題で盛り上がるんだ?」
古賀は少し考えてから言う。
「最近ならねー、中学の卒アルに何書いたっけ?とか、高校の卒アル何書く?とか、そんな感じかも」
「卒アルか……」
「そうそう」
古賀はストローをくわえながら、急に目を細めた。
「きっしー先輩とか、先輩とか、国見先輩に寄せ書きしたの、懐かしいなぁ」
「そうだな……あったな、そんなの」
ぼんやりと脳裏に浮かぶ。
「そうだ古賀」
「ん?」
「指定校推薦、受かったのか?」
古賀の顔が一気に明るくなる。
「うん、受かったよ!」
「そっか。なら、ちょうどいいな」
俺はバッグの中を探り、卯月から預かった小さな箱を取り出す。
「これ。卯月から譲ってもらったイヤホン。古賀に渡してくれって言われた」
「えっ……ありがとう、きっしー先輩!でも本当にいいの?」
「大丈夫だよ。受かった祝いだと思えばいい」
古賀は箱を胸元に抱え込んで、ちょっと照れながら笑った。
「でも受かったからって遊びすぎるなよ。油断して滑るやついるからな」
「それはないよ〜。奈々ちゃんの受験あるし、遊ぶ暇ないし!」
「ああ、そうだったな」
そう言いながら、俺の頭の片隅に別の人物の名前が浮かんだ。
(……赤城も、よく卒アルの話をしていたよな)
中学の卒業アルバム。
(確か、俺の実家にあるはずだよな……中学の卒アル)
日曜日は卯月の初ソロライブ。
場所は渋谷のエッグマン。
(なら、土曜日か……目黒の実家に帰って、確認できる)
(赤城がなぜ卒業アルバムに縛られてるのか。その手がかりくらいは、俺にも探せるかもしれない)
そんな淡い期待だけが、胸に残った。
物語解説
今回の章では、日常の連なりの中に、いくつもの予兆が静かに差し込まれていく様子を描きました。
ロマンスカーミュージアムでの迷子保護。横須賀・久里浜での #夢見る。ボランティア教室での咲太との再会、そして赤城の元恋人・高坂誠一との対話。
どれも一見すると別々の出来事でありながら、そのひとつひとつが、赤城郁実という人物の「強さ」と「脆さ」を、蓮真が否応なく覗き込んでしまう入口になっていきます。
助けたいと思う衝動と、踏み込みすぎることへのためらい。償いのつもりが、いつの間にか、それ以上の感情へと形を変えつつある危うさ。
赤城の正義に共鳴しながらも、決して届かない距離に立ちすくむ自分への苛立ち。
蓮真が抱えるこれらの揺れは、過去のループで刻まれた傷とも静かに響きあい、彼を「観察するだけの立場」から、知らず知らずのうちに一歩前へ踏み出させています。
一方で、軽やかに日常を彩るのが、のどかや卯月や朋絵の存在です。
卯月が黒縁メガネで歌詞カードを必死に追い、袖を掴む無意識の不安。のどかと朋絵は当たり前のように寄り添い、気づけば蓮真を必要とする言葉を落としていく。
そして終盤では、赤城の中学時代と、卒業アルバムという鍵が再び浮上し、物語は十一月二十日の卯月の初ソロライブ、そしてその先、二十七日の#夢見るへと、確実に向かい始めました。
赤城郁実が抱える影は何を語り、#夢見る はどんな未来を暗示し、蓮真はどこまでその中心へ踏み込んでいくのか。
次回も、その一歩一歩を見届けていただけたら嬉しいです。
蓮真は最終的にどちらを選ぶと思いますか?
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豊浜のどか
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広川卯月