青春ブタ野郎はパラレルスプリングの夢を見ない   作:もドえラん

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7.やさしさの形を変えて、悪役を演じ切る

 

 十一月十七日

 

 武蔵小杉駅の南武線口は、ちょうど帰宅ラッシュのど真ん中だった。

 

 スーツ姿の会社員、部活帰りらしい高校生、ベビーカーを押す母親。ホームから改札へ、改札から商業施設へ、ひとつの駅に流れ込んでくる人の波が、立体交差するみたいにうねっている。

 

 エスカレーターも例外ではなかった。

 

 上りと下りが並んで、休む暇なく人を飲み込んでいく。

 

 (……これ、ほんとに逆走なんてしたら、地獄絵図だよな)

 

 #夢見る に投稿されていた一行を思い出す。

 

 {武蔵小杉駅で、エスカレーターが逆走して怪我する夢見た。エスカレーターが逆走なんてあるのかなぁ}

 

 現実のエスカレーターは、当たり前みたいな顔で上り下りを繰り返している。

 

 安全装置だってついているだろうし、そもそも逆走なんてそう簡単に起きるわけがない。

 

 頭ではそう理解しているのに。

 

 (起きないと言い切れないから、俺たちはここにいるんだよな……)

 

 改札横の柱にもたれながら、俺は視線だけで人の流れを追っていた。

 

 「……来てくれて、ありがとう」

 

 隣に立つ赤城が、小さく言う。

 

 今日の赤城は、大学の帰りにそのまま来たのか、グレーのニットとロングスカート。いつもの大学スタイルだ。

 

 「どうせ、一人で来るつもりだったんだろ」

 

 「……そうだけど」

 

 赤城は、少しだけ視線を逸らした。

 

 その仕草を見ていると、ふと思い出す。

 

 迷子の女の子。

 

 久里浜の踏切。

 

 横須賀の迷子と自転車。

 

 (双葉に釘刺されたんだよな……忘れてあげなよ、って)

 

 けれど俺は、ここにいる。

 

 忘れられないし、忘れないと決めたのも、たぶん自分だ。

 

 「時間、どのくらいって言ってたっけ?」

 

 「夢の中では……たぶん十八時くらい」

 

 赤城は腕時計に視線を落とした。

 

 時刻は十七時五十四分。

 

 あと十分もない。

 

 「時間ぴったりに起きるってわけじゃないだろうけど……」

 

 「人が一番多い時間帯だしな」

 

 目の前のエスカレーターには、途切れることなく人が流れ込んでいる。

 

 下から上へ。

 

 上から下へ。

 

 整然と。

 

 (この秩序が一瞬で崩れるのか……)

 

 想像しただけで、背筋に冷たいものが走る。

 

 「……エスカレーターの近くにいた方がいい?」

 

 「うん。そうだね」

 

 赤城が指さしたのは、改札から南武線ホームへ下る方のエスカレーターだった。

 

 「上から人が流れてきて……下で転んだ人に、次々とぶつかっていく感じかな?」

 

 「玉突き事故みたいなやつか」

 

 「うん」

 

 赤城の喉が、ごくりと鳴った。

 

 怖いなら帰ればいいのに、と誰かが言ったら、赤城はきっとこう返すのだろう。

 

 「怖いからこそ、行くんだよ」と。

 

 (ほんと、正義の味方は大変だよな)

 

 心の中でだけ、苦笑する。

 

 それでも足は、赤城と一緒にエスカレーターの脇へと向かっていた。

 

 「じゃあ、俺は……下の方を見てる」

 

 「私は、上の方の様子を見てる」

 

 自然と役割分担が決まる。

 

 エスカレーターの横には階段もあって、そちらも一定のペースで人が行き来していた。

 

 俺は一番下のフロアに立ち、終点のステップに足を踏み出す人たちの足元を確認する。

 

 赤城は少し上の踊り場寄りで、上から流れてくる人の様子を見ていた。

 

 (何も起きないなら、それでいい)

 

 (でも、もし本当に起きるなら)

 

 その時、エスカレーターの奥から、微かなきしみのような音が聞こえた。

 

 ギギ、と金属が擦れるような嫌な音。

 

 「……え?」

 

 一瞬、気のせいかと思った。

 

 だが、次の瞬間。

 

 エスカレーターの動きが、わずかに止まった。

 

 乗っている人たちが、「あれ?」と小さくざわめく。

 

 停止しただけなら、まだよかったのかもしれない。

 

 だが……

 

 「え、なに?」

 

 「ちょっ……うそだろ……?」

 

 ざわめきが悲鳴に変わるのに、時間はかからなかった。

 

 停止したはずのステップが、ぎし、と音を立てて、逆方向へ動き出した。

 

 上へ運ばれていたはずの人の列が、そのまま下へと押し流されてくる。

 

 「危ない!!」

 

 誰かが叫んだ。

 

 先頭にいた若い女性が、バランスを崩して尻もちをつく。

 

 その背中に、後ろから来た中年男性がぶつかり、さらにその後ろから高校生の集団が雪崩込む。

 

 (……来た)

 

 頭で理解するより先に、身体が動いていた。

 

 「赤城!!」

 

 上の方で赤城も何か叫んだが、その声は人の悲鳴と機械音にかき消される。

 

 エスカレーターの終点、金属のフチに女性の背中が打ち付けられそうになっている。

 

 その後ろから、雪崩のように人が迫っていた。

 

 「危ないです!!手すり掴んで!!」

 

 俺はステップの外側にある狭い縁に足をかけ、倒れ込んだ女性の方に向かって飛び込む。

 

 手を伸ばし、その腕を掴んで、無理やりこちらへ引き寄せる。

 

 「いっ……!」

 

 肩に嫌な衝撃が走った。

 

 だが、痛みを確認している暇はない。

 

 女性をエスカレーターの外へ押し出し、そのまま自分の身体で盾になる。

 

 次の瞬間、ドン、と背中に人の重さがぶつかった。

 

 「うわっ!」

 

 「きゃっ!」

 

 何人分もの体重が、一気にのしかかってくる。

 

 金属の縁で、誰かの足が滑る音がした。

 

 女性を庇いながら、俺も床に膝をつく。

 

 重さで呼吸が詰まりそうになるのを、歯を食いしばって耐える。

 

 「大丈夫ですか!ここ掴んで、ゆっくり……!」

 

 横から別の男性が手を伸ばし、倒れかけている人たちを引っ張り上げ始めた。

 

 (まだだ……)

 

 目線を上げると、まだ上から人波が押し寄せてきている。

 

 エスカレーターの途中で、誰かが転んだのだろう。

 

 中段あたりで、人の塊ができていた。

 

 「止めろ!エスカレーター止めろ!!」

 

 誰かが非常停止ボタンを探している声が聞こえる。

 

 赤いボタンを押す音がした。

 

 ガガ、とさらに大きなきしみ音。

 

 エスカレーターは、ようやく完全に止まった。

 

 だが、その慣性で最後の数人分が、まだ下へと流れてくる。

 

 「こっち、掴まって!!」

 

 声の主は赤城だった。

 

 ステップの途中で足を滑らせた高校生の腕を掴み、引き上げようとしている。

 

 その横では、小学生くらいの女の子が手すりにしがみつき、泣きそうな顔で震えていた。

 

 (あの子……)

 

 赤城の手が届いているのは、高校生までだ。

 

 さらに上、女の子の少し後ろには、重そうなリュックを背負ったサラリーマンが、前のめりに倒れかけている。

 

 このままでは、女の子はその下敷きになる。

 

 「っ……!」

 

 また考えるより先に、身体が動いていた。

 

 「すみません、ちょっと通して!」

 

 まだエスカレーターの脇で立ち尽くしている人たちの間をすり抜け、階段側を一気に駆け上がる。

 

 止まったエスカレーターとの高さが揃う位置まで来ると、手すりに手を届かせて飛び移った。

 

 「うわっ……!」

 

 想像以上にステップの金属が冷たく、靴裏がわずかに滑った。

 

 それでも体勢を立て直し、女の子のすぐ後ろまで進む。

 

 「大丈夫、大丈夫だから」

 

 自分に言い聞かせるように呟きながら、女の子の肩を掴む。

 

 「こっち来れる?手、離さなくていいから、後ろには行かないで」

 

 女の子は涙目のまま、こくりと頷いた。

 

 その間にも、背後からサラリーマンの重い靴音が迫ってくる。

 

 (間に合え)

 

 女の子の身体を自分の方へ引き寄せ、そのまま半ば抱きかかえるようにして、脇の階段側へと身体をずらす。

 

 その瞬間、視界の隅で何かが大きく揺れた。

 

 「っ……!」

 

 女の子を庇う形で姿勢を崩す。

 

 次の瞬間、右腕に鋭い衝撃が走った。

 

 ゴキ、と嫌な音が耳の奥で鳴る。

 

 (あ、これ……)

 

 骨折の瞬間の音だ、と理解するより先に、痛みが一気に押し寄せてきた。

 

 「いっ……!」

 

 息が勝手に詰まり、視界の端が白く滲む。

 

 女の子は俺の胸元にしがみつき、その背中をかすめるように、サラリーマンの身体がエスカレーターのステップに倒れ込んだ。

 

 あと数センチずれていたら、女の子の頭を直撃していたかもしれない。

 

 「お、おい……大丈夫か……?」

 

 サラリーマンが、痛みに顔をしかめながら起き上がる。

 

 女の子も震えながら、俺のシャツを握る手に力を込めた。

 

 「だ、大丈夫……?」

 

 かろうじてそれだけを言う。

 

 右腕は、何かがズレたみたいな感覚と、じわじわと広がる鈍痛で、感覚がうまく掴めない。

 

 (折れたな、これ)

 

 冷静な自分が、妙に遠くでそう呟いていた。

 

 「大丈夫!?岸和田くん!!」

 

 階段側から、赤城の声が飛んできた。

 

 駆け寄ってきた赤城が、俺の顔を見た瞬間、血の気が引くような表情になる。

 

 「腕……!」

 

 「ちょっと……やったかもしれない」

 

 笑おうとしたが、顔の筋肉がうまく動かなかった。

 

 笑顔になったかどうかも怪しい。

 

 「すぐ、駅員さん呼んでくる……」

 

  そう言おうと赤城が周囲を見渡すと、すでに駅員と警備員らしき人がエスカレーター周りに集まり始めていた。

 

 倒れた人たちはそれぞれ立ち上がり、怪我の様子を確認されている。

 

 さっき救い出した女性も、膝を擦りむいた程度で済んだらしく、駅員に支えられながら座席へと移動していた。

 

 「すみません、大丈夫ですか!」

 

 駅員がこちらにも駆け寄ってくる。

 

 俺は女の子の身体をそっと階段側に押しやり、赤城に目配せした。

 

 「この子、ちょっと怖かったみたいで……」

 

 「大丈夫、大丈夫だからね」

 

 赤城が、女の子の目線までしゃがんで話しかける。

 

 「お母さんとはぐれちゃった?」

 

 女の子は小さく頷いた。

 

 「じゃあ、一緒に駅員さんのところ行こう。ママ、絶対見つかるから」

 

 赤城の声は、ロマンスカーミュージアムのときと同じ声だった。

 

 (本当に……どこまで人助けするんだよ、お前)

 

 そんなことを思いながら、俺は左手で右腕を支え、ゆっくり階段を降りた。

 

 駅員に誘導されるまま、近くのベンチに腰掛ける。

 

 座った瞬間、痛みが一気に鮮明になった。

 

 「……っ」

 

 顔をしかめると、赤城がすぐ横に腰を下ろす。

 

 「救急車……呼びますか?」

 

 駅員が申し訳なさそうに聞いてきた。

 

 「いえ、自分で行けます。歩けるので」

 

 ここから病院までの距離を頭の中で計算する。

 

 武蔵小杉なら、救急にかかれる病院はいくつかある。

 

 (救急車呼ぶほどの状態でもないしな……)

 

 「じゃあ、せめてタクシー乗り場まではお送りします」

 

 駅員の言葉に頷く。

 

 その間にも赤城は、何度も俺の顔を覗き込んでいた。

 

 「ほんとに……ほんとにごめんなさい」

 

 「なんで赤城が謝るんだよ」

 

 「だって……私が呼んだから、ここに来てくれたんだし……」

 

 どこか今にも泣きそうな声だった。

 

 「俺が来るって決めたんだよ。赤城に強制されたわけじゃない」

 

 「でも……!」

 

 「でもも何もないだろ」

 

 俺は息を整えながら、なるべく落ち着いた声で言う。

 

 「それにほら、ちゃんと助かっただろ。……少なくとも、人身事故にならなかったのは確かなんだし」

 

 赤城は唇を噛みしめたまま、言葉を飲み込んだ。

 

 その横顔には、後悔と安堵と、罪悪感がごちゃ混ぜになっているのが見て取れる。

 

 (……そうなんだよな)

 

 #夢見るのおかげで救えたのか。

 

 それとも、#夢見るがあったからこそ、この場に俺たちがいて、俺の骨は折られたのか。

 

 因果関係をどう捉えるかなんて、誰にも分からない。

 

 分からないけど……

 

 (選んだのは、結局自分なんだよな)

 

 「岸和田くん……」

 

 赤城が、震える声で呼んだ。

 

 「なに」

 

 「右腕……利き腕、でしょ?」

 

 「まあな」

 

 「講義もあるし、バイトもあるでしょ……」

 

 「なんとかなるだろ。利き腕一本折れたくらいで人生終わらねえよ」

 

 軽く言い過ぎたのは自覚していた。

 

 実際は、レポートもノートも、バイトの仕事も、全部支障が出るのは目に見えている。

 

 それでも赤城の表情をこれ以上曇らせたくなくて、冗談めかすしかなかった。

 

 「……ほんとに、ごめん」

 

 赤城は小さく頭を下げる。

 

 その姿を見ていると、右腕の痛みよりも胸の奥のざらつきの方が気になってくる。

 

 (これ以上、自分を責めたら……またあのポルターガイストみたいなの、出てくるだろ)

 

 それだけは勘弁してほしかった。

 

 「謝るなら、治ったあとに何か奢ってくれ」

 

 「……え?」

 

 あまりに唐突な俺の言葉に、赤城がきょとんとする。

 

 「片腕不自由だと色々不便だしな。プラスマイナスゼロにするの、そう簡単じゃないだろ。でも、飯奢られたら、ちょっとはチャラにしてもいい」

 

 自分でも何を言ってるんだと思ったが、赤城はぽかんとしたあと、ふっと笑った。

 

 「それでチャラになるなら……いくらでも奢るよ」

 

 「じゃあ肉まんとか……」

 

 「それは話が違う」

 

 すかさずツッコミが入る。

 

 そのやり取りだけで、少しだけ空気が軽くなった気がした。

 

 (これくらいの軽さで済むなら、まだマシだな)

 

 そう自分に言い聞かせる。

 

 駅員に誘導されて駅構内を抜ける間、周囲の視線が妙に痛かった。

 

 右腕を抑えながら歩く俺と、その隣で顔を曇らせている赤城。

 

 事情を知らない人から見たら、単に転んで骨折した大学生と、その友達にしか見えないだろう。

 

 (それでいいけどな)

 

 #夢見るも、ポルターガイストも、赤城の過去も。

 

 知らない方が幸せな人は、世の中にいくらでもいる。

 

 タクシー乗り場に着いたとき、赤城が運転手に「京浜総合病院までお願いします」と告げた。

 

 当然のように、赤城も一緒に乗り込んでくる。

 

 「赤城も来るのかよ」

 

 「当たり前でしょ。岸和田くんの腕、私のせいで折れたんだし」

 

 「だから、それは……」

 

 振り出しに戻りそうになって、言葉を飲み込む。

 

 (ここで否定しても、赤城の中では、私のせいは消えないんだよな)

 

 だったら、言い方を変えるしかない。

 

 「じゃあ、せめて俺のせいも半分くらい混ぜといてくれ」

 

 「……どういうこと?」

 

 「俺が勝手に飛び込んだんだよ。『怖いなら帰る』って選択肢もあったのに、それを選ばなかったのは俺だろ」

 

 タクシーが発進し、駅前のロータリーを抜けていく。

 

 窓の外で、夜の武蔵小杉のビル群の灯りが流れていく。

 

 赤城はしばらく黙っていたが、やがて小さな声で言った。

 

 「……半分こ、ね」

 

 「ん?」

 

 「岸和田くんのせいと、私のせい。半分こにする」

 

 「そんなきれいに割り切れるもんでもない気がするけどな」

 

 「いいの。そう決めないと、また……変なこと考えそうだから」

 

 変なこと。

 

 それが具体的に何を指しているのかは、敢えて聞かなかった。

 

 #夢見るが、赤城の中でどれだけ重い意味を持っているのか。

 

 この数日で、嫌というほど思い知らされている。

 

 「……ねぇ」

 

 タクシーが交差点で止まったとき、赤城がぽつりと言った。

 

 「なに」

 

 「なんで、そこまでしてくれるの?」

 

 「そこまでって?」

 

 「骨折までして……」

 

 「骨折はしたくてしてるわけじゃないからな」

 

 「わかってるよ」

 

 赤城は少しだけ睨むような目つきで俺を見る。

 

 「でも、#夢見るのことだって……巻き込まれたくなかったら、断ることもできたでしょ」

 

 「できたかもしれないな」

 

 否定はしない。

 

 タクシーのエンジン音が、妙に大きく聞こえる。

 

 (なんで、そこまでしてるのか)

 

 その答えは、双葉に「償いね」と言われたときから、ずっと胸の奥に沈んでいる。

 

 「……さあ、なんでだろうな」

 

 少しだけ間を置いてから言った。

 

 「多分、俺がそうしたいから、だと思う」

 

 「曖昧だね」

 

 「そういうもんだろ」

 

 そこまで言って、自分でも笑いそうになった。

 

 赤城は、窓の外に視線を向けたまま、小さく息を吐いた。

 

 「……ずるいよね、岸和田くん」

 

 「またそれかよ」

 

 「そうやって、自分のせいにもしてくれるから、安心しちゃうんだよ」

 

 「安心するのはいいことじゃないのか」

 

 「いいことだけど……よくないことでもある」

 

 意味ありげな言い方だったが、それ以上は言葉を足さなかった。

 

 病院に着くと、受付で事情を説明し、整形外科の救急へ回された。

 

 レントゲン室の前で待たされている間も、右腕の痛みはじわじわと存在感を増していく。

 

 「痛み、ひどくなってない?」

 

 赤城が不安そうに覗き込む。

 

 「まぁ……骨折だしな」

 

 「そういう現実的なこと言わないでよ……」

 

 そんなやり取りをしていると、名前を呼ばれた。

 

 レントゲンを撮るために、俺だけ別室に連れて行かれる。

 

 右腕を台の上に乗せるとき、少し動かしただけで全身に電気が走るみたいな痛みが走った。

 

 「っ……」

 

 思わず目を閉じると、技師さんが「もう少しだけ我慢してくださいね」と申し訳なさそうに言った。

 

 数分後。

 

 診察室で、医師がモニターに映し出されたレントゲン写真を指差す。

 

 「右橈骨遠位端骨折ですね。きれいに折れてます」

 

 「きれいに、って褒められてる気がしないんですけど」

 

 「まぁ、手術まではいかなくて済みそうですが、しばらくギプス固定になりますね」

 

 「どのくらい、ですか」

 

 「一か月から一か月半くらいは見ておいた方がいいでしょう」

 

 (……一か月半)

 

 頭の中でカレンダーをめくる。

 

 今日が十一月十七日。

 

 卯月のソロライブは、二十日。

 

 ギプス姿でライブに行く自分の姿がちらりと想像される。

 

 それを見て卯月がどんな顔をするかも。

 

 (……あー、これは面倒な説明をする未来が見えるな)

 

 骨折のショックよりも、そっちの方が胃にきた。

 

 ギプスで固定され、三角巾で吊られた右腕を抱えながら診察室を出ると、廊下で赤城が待っていた。

 

 俺の姿を見るなり、目を丸くする。

 

 「……本当に、折れてたんだ」

 

 「まぁな。医者のお墨付きだ」

 

 わざと軽口を叩く。

 

 赤城は小さく笑ったが、その目の奥の罪悪感は消えていない。

 

 「一か月くらいだってさ」

 

 「そんなに……」

 

 「レポートは……左手でなんとかする」

 

 「バイトは?」

 

 「しばらく皿洗い要員だな」

 

 想像しただけでため息が出そうになる。

 

 そんな俺の表情を見て、赤城はひどく申し訳なさそうに顔を歪めた。

 

 「……やっぱり、ごめんなさい」

 

 「だから、謝りすぎだって」

 

 「でも……」

 

 「じゃあ、今のごめんなさいは、中華街の肉まんに換算しとく」

 

 「だからなんで肉まん……」

 

 ようやく少しだけ、赤城の声に笑いが混ざった。

 

 病院のロビーに出ると、外はすっかり夜になっていた。

 

 自動ドアの向こうの空気は冷たくて、ギプス越しでもひやりとした感覚が伝わってくる。

 

 「送ってくよ」

 

 赤城が当然みたいに言った。

 

 「いや、ひとりで大丈夫だよ」

 

 「片腕なんだから、ひとりで帰らせない」

 

 ピシャリと言い切る。

 

 (……ほんと、こういうところだよな)

 

 誰かを放っておけないのは、いつも赤城の方だ。

 

 俺はただ、その少し横を歩いているだけ。

 

 「じゃあ、駅まで一緒に戻るか」

 

 自動ドアをくぐると、冷たい夜風が頬を撫でた。

 

 ギプスの重さが、右肩からじわじわと伝わってくる。

 

 (これで、#夢見るの償いも、また一つ増えたわけか)

 

 自嘲気味にそう思いながら、俺は赤城と並んで歩き出した。

 

 彼女が、また誰かを救おうとしたとき。

 

 その隣にいることを、俺自身が選んだのだという実感を、右腕の痛みと一緒に抱えながら。

 

 でも……

 

 (……どこまでが赤城のためで、どこからが俺の償いなんだろうな)

 

 そんなことを、ふいに考えてしまう。

 

 赤城のために動くのは、間違いなく俺自身の意思だ。

 

 それは今日の行動が証明している。

 

 だけど同時に、俺はまだ、あの春のノートの記憶に縛られている。

 

 選ばなかった世界。

 

 助けられなかった誰か。

 

 消えていった可能性の後悔。

 

 赤城を助けようとするとき、その全部が一緒に疼き出す。

 

 (赤城だから助けたいのか……それとも助けられなかった誰かの代わりなのか)

 

 境界線が、曖昧になっていく。

 

 赤城が隣を歩いているだけで、その曖昧さはさらに濃くなる。

 

 「……痛くない?」

 

 赤城が心配そうに俺の腕を覗き込む。

 

 「まぁ、痛くないって言ったら嘘になるけど」

 

 「やっぱり……ごめんなさい」

 

 またそれだ。

 

 「謝るなって言ってんだろ」

 

 軽く言ったつもりなのに、声がひどく乾いて聞こえた。

 

 赤城はそれ以上何も言わなかった。ただ、俯いた横顔が街灯に照らされて、やけに弱く見えた。

 

 (支えなきゃ、って思うのは……どっちの赤城なんだ?)

 

 赤城のため、なのか。俺自身のため、なのか。

 

 救えなかった誰かの影を重ねているだけ、なのか。

 

 どれも正しくて、どれも間違っている気がした。

 

 (……いつの間にこんなに曖昧になったんだろうな)

 

 けれど、その曖昧さを今さら切り分けることなんてできない。

 

 赤城は前だけを見て歩いていて、その背中はやっぱりどこか危うくて、そして、どうしようもなく放っておけない。

 

 それが感情なのか、償いなのか、義務なのか。

 

 自分でも分からないまま、俺はその横を歩き続けている。

 

 「岸和田くん……?」

 

 赤城が振り向き、心配そうに覗き込んでくる。

 

 「……なんでもないよ」

 

 答えながら、自分でも気づいていた。

 

 償いと救済の境界線は、もうとうに溶けてしまっている。

 

 武蔵新城駅が見えてきたあたりで、赤城が急に足を止めた。

 

 振り返ったその瞳は、街灯の下で揺れていた。

 

 「岸和田くん……今日、本当にありがとう。岸和田くんがいなかったら、私はきっと……」

 

 言葉が途中で詰まる。

 

 その声は、強いようで弱くて。弱いようで、どこか必死だった。

 

 「でもね……」

 

 赤城は、胸の前で指先をぎゅっと握りしめた。

 

 「岸和田くんが怪我したのを見たとき……怖かった」

 

 「……」

 

 「助けようとしてくれるのは、嬉しい。でも、それ以上に怖かったの。自分のせいで、誰かが傷つくのが……すごく、怖い」

 

 赤城がこんなふうに自分の弱さを口にするのは珍しい。

 

 だからこそ、その言葉は胸に重く沈んだ。

 

 「岸和田くんが……いなくなったら、って……ほんの一瞬でも考えた自分が嫌になるくらい、怖かった」

 

 声が細くなっていく。

 

 (……赤城)

 

 その不安に手を伸ばしたくなる。

 

 けれど同時に、胸の奥で別の痛みがしていた。

 

 (俺が支え続けることで……赤城はまた、自分の足で立とうとする力を失っていくんじゃないか?)

 

 そんな予感が、ふと脳裏をよぎった。

 

 赤城は優しい。

 

 そして脆い。

 

 だから、寄りかかれる相手がいれば、いくらでも寄りかかってしまう。

 

 赤城の危うさは、それほどまでに深い。

 

 「岸和田くん」

 

 赤城が一歩近づく。

 

 あと半歩で触れそうな距離。

 

 「……これからも、力を貸してほしい。じゃないと……私は、私を保てないかもしれないから」

 

 その言葉は、真っ直ぐで、正しくて、それでいて、どこか歪だった。

 

 依存にも似たその響きは、胸の内側を刺すように貫いてきた。

 

 (違う……このままじゃ、違う)

 

 赤城に必要なのは支えてくれる誰かじゃない。

 

 自分の力で立つための場所だ。

 

 そして俺が側にいればいるほど、それは遠ざかる。

 

 (どこかで……線を引かなきゃいけない)

 

 今日、初めてそれをはっきりと思った。

 

 今の赤城の言葉に、優しさだけで答えることはできない。

 

 俺が頷いたら、赤城は自分で立つより先に、俺の影に隠れる。

 

 それは救いじゃない。延命だ。

 

 「赤城」

 

 俺はゆっくりと息を吸う。

 

 曖昧さに逃げられないと悟ったからだ。

 

 「……俺は、ずっと側にはいられない」

 

 赤城が、驚いたように目を丸くする。

 

 「どういう、意味……?」

 

 「今は言えない。でもいつか……分かる時が来ると思う」

 

 赤城の不安が揺れるのを、視界の端でとらえながら、言葉を続けた。

 

 「今日のことが……そのヒントだよ」

 

 それ以上言えば、赤城は何かを失う。

 

 言わなければ、俺が何かを失う。

 

 その境目で、夜風がそっと吹き抜けていった。

 

 (赤城のために、赤城を突き放す)

 

 そんな矛盾した決断に向かう予兆が、この瞬間、胸の奥で静かに形を持ち始めていた。

 

 十一月十八日

 

 中国語の教室に入ると、いつもよりざわつきが強かった。

 

 そりゃそうだ。右腕を三角巾で固定しての登場なんて、どう見てもただ事じゃない。

 

 俺は視線をできる限り受け流しながら、いつもの席に着く。

 

 「……岸和田」

 

 前の席から振り返ってくる低い声。

 

 「お前、その腕どうしたんだよ」

 

 福山だった。眉はいつもより二段階ほど深くひそめられている。

 

 「ちょっと、エスカレーターに負けてな」

 

 「……絶対ウソだろそれ」

 

 本気で呆れられた。

 

 授業が始まり、利き腕を失った俺は左手でのメモを諦め、ほぼ聞くだけに徹する。

 

 講義が終わると同時に、福山がくるっと席を回した。

 

 「で、何があったんだよ。岸和田」

 

 逃げられないな、と思いつつ最低限を話す。

 

 逆走事故。巻き込まれた人をかばったこと。骨折。

 

 福山は話を聞いたあと、信じられないという顔で息を吐いた。

 

 「……いや、お前さ。ヒーロー気取りにも限度ってもんがあるだろ」

 

 「気取ってないよ。気づいたら動いてただけだ」

 

 「それが一番タチ悪だろ……」

 

 そう言いつつ、福山は鞄から自分のノートを取り出し、こちらに差し出した。

 

 「ほら、今日のやつ。コピーしろよ」

 

 「助かる。本気で困ってた」

 

 「お前の左手の字、壊滅してたしな」

 

 そんな言葉を交わしながら、学内のコンビニへ向かいコピーを取る。

 

 終わったあと、福山が妙に真剣な表情になる。

 

 「……なぁ岸和田」

 

 「ん?」

 

 「広川さんと豊浜さんには言わねぇの?」

 

 来た。

 

 「今は、まだいいかな。心配させたくない」

 

 「来週の基礎ゼミで絶対バレるだろ、これ」

 

 「そのときは話すよ。その方がいい」

 

 福山はじっと俺を見て、少しだけ目を細めた。

 

 「……そっか。じゃ、俺からは言わねぇよ」

 

 「ありがとな」

 

 「いや……むしろ言ったら俺が殺されるからな」

 

 「それはある」

 

 二人で苦笑しながら、講義棟の出口へ向かった。

 

 夕方、目黒の家へ向かう。

 

 玄関を開けると珍しくリビングに灯りがついていた。

 

 「ただいま」

 

 「おかえり」

 

 聞き慣れた、けどどこか優しい声。

 

 父が仕事のシャツのままソファに座っていた。

 

 帰宅時間が早いなんて、本当に珍しい。

 

 父は俺の姿を見た瞬間、目を丸くした。

 

 「……蓮真。腕、どうしたんだ?」

 

 「まぁ、見た通り折れてる」

 

 駆け寄る父の顔には、驚きと心配がはっきり出ていた。

 

 「痛まないか」

 

 その声は思った以上に柔らかかった。

 

 「まぁ、多少は。でも昨日よりはマシかな」

 

 「どこで……そんな怪我を?」

 

 隠す意味もないので、事故の概要だけ話す。

 

 途中から、父は何も言わず、ただ静かに聞いていた。

 

 話を終えると、深く息を吐きながら言った。

 

 「……お前は昔からそうだな」

 

 「褒めてる?」

 

 「半分は、だ」

 

 優しいけど少し呆れた声だった。

 

 父はソファをぽんと叩き、座れと言う。

 

 「病院は行ったんだな?」

 

 「うん。ギプスで一ヶ月半コース」

 

 「そうか……」

 

 父はしばし考え込むように黙り、それから穏やかな声で口を開いた。

 

 「蓮真、アルバイト……しばらく無理をするな」

 

 「皿洗いならなんとかなると思うけど」

 

 「無理に働いて悪化したら意味がないだろう」

 

 その言葉は、母親のいないこの家で、父が背負ってきた親としての責任そのものだった。

 

 「しばらくの間、仕送りを少し増やす。生活に困らないように」

 

 「……いいの?」

 

 思いがけない言葉に、胸が少し熱くなる。

 

 父はゆっくり頷いた。

 

 「今まであまりしてやれなかった分、こういうときくらい頼らせてくれ。な?」

 

 その声音があまりに優しくて、久しぶりにひとりの親としての父を見た気がした。

 

 「……ありがとう」

 

 素直にそう言うと、父は照れくさそうに笑った。

 

 「腹、減ってるだろ。今日は外で飯にしないか?」

 

 「外食?いいの?」

 

 「左手じゃ、家の料理は食べづらいだろ。無理してこぼすくらいなら、手でつまめるものの方がいい」

 

 そこで少し笑って、

 

 「寿司とか、どうだ?」

 

 と提案してきた。

 

 「気遣いすぎじゃない?」

 

 俺がそう返すと、父は肩をすくめた。

 

 「気にするに決まってるだろ。片腕なんて不自由で仕方ないんだから」

 

 ……昔の俺なら、こういう優しさに素直に乗れなかった気がする。

 

 今は、ただありがたいと思えた。

 

 「じゃあ……目黒駅のとこの店とか?」

 

 「ああ。あそこなら握りが小さめで、お前でも食べやすいだろう」

 

 父は自然な仕草で俺の荷物を持ち上げてくれる。

 

 「……ありがとう。助かる」

 

 「礼なんていらん。困ったときぐらい、親に頼れ」

 

 そう言って、父は玄関の鍵を確認しながら笑う。

 

 「ほら、行くぞ。寿司が売り切れる前にな」

 

 「売り切れないだろ」

 

 「気持ちの問題だ」

 

 そんな他愛もないやり取りが、どうしようもなく心地よかった。

 

 右腕のギプスの重さは変わらないはずなのに、家を出る頃には、少しだけ軽くなったように感じた。

 

 十一月十九日

 

 昼過ぎ、目黒の部屋で、古い段ボール箱を引っ張り出した。

 

 中学の卒業アルバム。

 

 引っ越しのときにまとめて詰め込んだまま、ほとんど開いた記憶がない。表紙には、当時の校章と年度が金色で刻まれている。

 

 俺は三年二組だった。

 

 その事実を、なぜか改めて確認してから、アルバムを膝の上に置いた。

 

 赤城が言っていた、あの一文。

 

 「いつか、やさしさにたどり着きたい」

 

 それが本当に咲太の文章だったのなら、咲太自身が忘れているはずがない。

 

 最初のページを開く。

 

 長年閉じたまま放置されていたアルバムは固く、ページとページがぴったり貼り付いてしまっている。

 

 一ページめくるたびに、ばきっ、ぴきっ、と乾いた音が、静かな部屋に響いた。

 

 三年一組のページで、手が止まる。

 

 クラス写真の先頭に、仏頂面の咲太がいた。

 

 あ行最初の『梓川』だからか。

 

 そのすぐ下、女子の列の先頭には、澄ました表情の赤城がいる。

 

 こちらも、あ行最初の『赤城』。

 

 並んでいるだけで、どこか象徴的に見えてしまうのは、今だからだろうか。

 

 クラスごとのページを抜けると、学校行事の写真がランダムに配置された見開きが続く。

 

 入学式の初々しい姿。

 

 躍動感のある体育祭。

 

 文化祭では、仮装してはしゃぐ生徒たちの姿もある。

 

 球技大会、修学旅行。

 

 どの写真も、誰もが楽しそうで、充実した三年間が切り取られていた。少なくとも、表面上は。

 

 三年一組の最初の作文ページに戻る。

 

 上段に『梓川咲太』。

 

 その下に、『赤城郁実』。

 

 赤城のタイトルが、目に入った。

 

理想の自分になるため

三年一組 赤城郁実

 

{小学校を卒業する際、私はアルバムの文集に「人の力になれる大人になりたいです」と書きました。

 

当時、中学生はもう大人だと思っていましたが、卒業を迎える今になっても、私は目標を達成することができていません。

 

一年次は、クラス委員を務め、体育祭と文化祭の準備や運営を、先輩方と協力して行いました。

 

特に文化祭では、放課後遅くまで残り、先生方に差し入れをいただきながら、充実した時間を過ごせたと思います。今、思い出しても楽しい時間でした。

 

二年次の思い出は、やはり生徒会です。書記としてはじめて携わる生徒会の仕事は、どれも新鮮でやりがいがあり、各部活動、各委員会と接する機会が増えました。

 

クラスメイト以外の友人や先輩、後輩たちと知り合い、一緒に学校生活を送れたことには、感謝の言葉しかありません。

 

三年次の私は、何もできませんでした。

 

だから、高校では、今度こそ人の力になれる大人になりたいと思います。}

 

 模範的な構成。

 

 赤城らしい、丁寧で誠実な文章だった。

 

 だからこそ、俺は、たった一行の三年次の記述に目を奪われた。

 

 何もできませんでした。

 

 本当は、もっと書きたいことがあったはずだ。

 

 いや、実際には書いたのかもしれない。

 

 提出後に、担任から何か言われて、直した。あるいは、自分で削った。

 

 結果として、この一文だけが残った。

 

 考えすぎかもしれない。

 

 けれど、このクラスにいた人間なら、この一文が何を指しているのかは分かる。

 

 咲太を、救えなかったこと。

 

 赤城は後悔している。

 

 それも、過去形じゃない。今も、現在進行形で。

 

 自分が卒業文集に何を書いたかを、はっきり覚えていること自体が、その証拠だ。

 

 彼女にとって、この文章は記録じゃない。

 

 戒めだ。

 

 「いつか、やさしさにたどり着きたい」

 

 学祭のとき、赤城はそう言った。それを、咲太が書いていたと。

 

 視線を上げ、咲太の作文に目を移す。

 

 字は汚い。

 

 文章も支離滅裂で、まとめる気がない。

 

 とりあえず何か書けと言われて、嫌々書いたのが透けて見える。

 

 中身は薄い。けれど、最後まで読む価値はあった。

 

 何度も読み返す。一行ずつ、丁寧に。だが……

 

 どこにも、書かれていなかった。

 

 「いつか、やさしさにたどり着きたい」

 

 その言葉は、どこにも存在しない。

 

 (……ない)

 

 胸の奥で、静かに何かが沈んでいく。

 

 赤城が嘘をついたとは思えない。

 

 あのときの彼女の表情は、作り物じゃなかった。

 

 だとしたら……

 

 (じゃあ、赤城は、何を見た?)

 

 アルバムの表紙が、鈍い音を立てた。

 

 (じゃあ、何が間違ってる?)

 

 ページをめくり直す。

 

 もう一度、最初から。

 

 咲太の文章は相変わらず読みづらくて、内容も薄い。なのに、その薄さだけは変わっていなかった。

 

 言い換えれば、そこに余白がない。

 

 赤城が言っていた一文が、入り込む隙間がない。

 

 背中が、ゆっくり冷えていく。

 

 小さな違和感が、嫌な形を持っていく。

 

 俺はスマホを取り出して、月曜の基礎ゼミの予定を確認した。

 

 咲太に聞く。

 

 あいつも、きっと同じものを見ているはずだ。

 

 俺と同じ違和感を抱いているはずだ。

 

 そう思わないと、今の俺は、このアルバムを閉じられなかった

 

 十一月二十日 

 

 渋谷の夜は、いつだって音が多い。

 

 人の声。店の呼び込み。信号の電子音。イヤホンから漏れる低音。すれ違う誰かの笑い声。

 

 その全部を押しのけるみたいに、俺の右腕のギプスだけが、やけに現実的な重さで主張してくる。

 

 (……絶対バレるよな、これ)

 

 そもそも卯月のソロライブを見に来る時点で、隠し通せるわけがない。

 

 段差で腕をかばえばバレる。拍手の角度でバレる。人混みで肩をすぼめればバレる。

 

 だから今日は、最初から「悟られる未来」を受け入れていた。

 

 ただ、渋谷のエッグマンの入口付近で、その未来が少しだけ違う形でやってきた。

 

 「岸和田くんじゃん?」

 

 列に並ぶ前に、聞き覚えのある声が飛んできた。 

 

 卯月の大学の友だちの女の子が二人いた。

 

 「……あ、やっぱり。岸和田くんだ。さすが卯月ちゃんの彼氏。そりゃ来るよね」

 

 (……出た)

 

 「彼氏じゃないって……」

 

 「はいはい、そういうのいいから」

 

 「否定が弱いんだって。もう慣れたよ、みんな」

 

 完全に遊ばれている。

 

 けれど、その揶揄に悪意はなかった。

 

 むしろ「来ない選択肢がない人」という扱いだ。

 

 視線は一瞬で俺の顔から右腕へ落ちた。

 

 「で、その腕どうしたの?……怪我?」

 

 ギプスに視線が吸い寄せられる。

 

 (あー、はい来た)

 

 隠すつもりはない。でも、わざわざ大げさにしたくもない。

 

 俺は短く息を吐いて、できるだけ軽い声を作る。

 

 「駅でちょっと。エスカレーターのトラブルに巻き込まれて……人かばったら折れた」

 

 「え、なにそれ、ヒーロー……?」

 

 「ヒーローじゃない。運が悪かっただけ」

 

 そう言ったのに、二人の表情は「運が悪かっただけ」で済ませていい話に見えない、という顔のままだった。

 

 片方が、ふっと真顔になる。

 

 「……卯月ちゃん、見たら絶対心配するやつじゃん」

 

 「うん。やばい。ライブ前にそんなの知ったら、絶対テンション変になる」

 

 もう片方が、俺のギプスと俺の顔を交互に見て、何かを決めたように言う。

 

 「ね。私たちが見えないようにするよ」

 

 「……え?」

 

 「卯月ちゃんに、岸和田くんの怪我バレないように。ここ、私たち何回か来たことあるし。最前じゃなくても、見える位置ってあるから」

 

 「あと、入場の時も、卯月ちゃんの目に入らない導線もあるから。任せて」

 

 そう言って笑う二人の「任せて」が、卯月とは違う種類の頼もしさを持っていた。

 

 俺のせいで卯月のソロが歪むのだけは避けたい。

 

 それは、俺の都合じゃなくて卯月の努力の結果を、正面から受け取りたいっていう、ただそれだけだ。

 

 「……ありがとう。助かる」

 

 そう言うと、二人は小さくガッツポーズを作った。

 

 会場に入る。

 

 満席だった。

 

 天井から吊られた照明は、最初から深い青。

 

 卯月のイメージカラー。

 

 海みたいな、夜空みたいな、逃げ場のない青。

 

 「今回の演出、全部青縛りなんだって」

 

 「衣装も照明も、SEも。私の色で一回、会場沈めたいって本人が言ったらしい」

 

 (沈める、ね……)

 

 俺は、会場の端。ちゃんと見えるけど、卯月の視線からは外れる位置に立たされた。

 

 「ここならOK。拍手は左手だけで」

 

 「右腕は、存在しないものとして扱って」

 

 「それ無理だろ」

 

 「大丈夫、卯月ちゃん、今夜は青しか見てないから」

 

 その言葉通り、開演直前、会場は完全に青に沈んだ。

 

 会場が一段静かになる。

 

 SEが切り替わり、照明が落ちた。

 

 ざわめきが、期待に変わる。

 

 「づっきー!づっきー!」

 

 名前のコールが跳ねて、天井に反響して戻ってくる。

 

 その中心に、卯月が、飛び出してきた。

 

 最初から全開。

 

 笑顔が眩しいとか、元気がいいとか、そういう言葉じゃ足りない。

 

 「みんな、こんばんはー!広川卯月でーす!」

 

 いきなり手をぶんぶん振って、客席にピースを投げて、照明と同じ速度で動く。

 

 (空気読めないのに、空気を掴む才能だけは一流なんだよな)

 

 たぶん本人は何も考えていない。なのに会場の温度を一瞬で変える。

 

 「えっとね、今日はね、ソロ!だからね、いつもよりね、緊張……してるふりをします!」

 

 「ふりかーい!」って客席が返して、卯月が「えへへ、バレた?」と笑う。

 

 その笑い方が、いつもの卯月だった。

 

 でも、次の瞬間。

 

 卯月はマイクを握り直して、急に真面目な顔をした。

 

 「……今日歌う曲、タイトルがね」

 

 照明が、ふっと青に寄る。

 

 「『水平線は僕の古傷』 って言います」

 

 そのタイトルが落ちた瞬間、会場の空気が少しだけ変わった。

 

 卯月が作る「明るさ」って、軽いだけじゃない。軽いまま、深いところに足を突っ込める。

 

 イントロが始まる。

 

 ドラムが小さく脈打って、ベースが海の底みたいに鳴る。

 

 卯月は、軽く肩でリズムを取りながら。でも、目だけは真っ直ぐで。

 

 歌い出した。

 

 >ずっと嘘みたいな うろ覚えの歌

 

 >ふと唐突 醒めた夢

 

 >ずっと泣いてたかった 句点のない世界

 

 >そっと解く 君の腕

 

 声が、真っ直ぐ届く。

 

 いつもの卯月の声だ。明るくて、よく通る。

 

 それなのに、歌詞が「泣いてたかった」と言った瞬間、胸の奥が静かに引っ張られる。

 

 >本当は 離れ離れ

 

 >引き裂かないで

 

 >寄せて返して 返して!

 

 >傲慢なんだ

 

 卯月が歌う「傲慢なんだ」は、妙に可愛くない。可愛くない、って言い方は変かもしれないけど、卯月が普段、言い訳で使わない種類の言葉だ。

 

 だから刺さる。

 

 >水平線は僕の古傷

 

 >永遠まで続いた孤独

 

 >君はそのままなぞり歩いて

 

 >まるで今 大人の表情でいた

 

 サビに入った瞬間、会場の誰かの息が止まったのが分かった。卯月の歌は、盛り上げるためのものじゃなくて、掴むためのものになっていた。

 

 古傷。孤独。大人の表情。卯月が、そんな単語を持ってくるのがずるい。

 

 (……俺の腕、折れたのなんて、ほんとどうでもよくなるな)

 

 今日の主役は卯月だ。卯月が積み上げて、ここまで持ってきた夜だ。

 

 >水平線は僕の古傷

 

 >まだ青く溢れるmonologue

 

 >僕はこのまま象られてくだけなの?

 

 >それじゃ いっそ

 

 「それじゃ いっそ」で切ったのも、卯月らしかった。

 

 その先を言わない。言わないのに、客席は勝手に続きを想像してしまう。

 

 歌は進む。

 

 >ずっと知らなかった みんなが好きな歌

 

 >君も歌えたんだね

 

 >もっと泣いてたかった 融点のない世界

 

 >茫洋あの影は誰

 

 卯月は、相変わらず天真爛漫な顔をしている。間奏で客席に手を振って、ニコニコしている。

 

 なのに、言葉は深い場所に潜っていく。

 

 (融点のない世界って、なんだよ……)

 

 卯月の口から出ると、なぜか意味が分かってしまうのが怖い。

 

 >いつも 流れ任せ

 

 >曖昧がいい

 

 >寄せて返して 返して!

 

 >ちょっと怖い

 

 「ちょっと怖い」が、卯月の声で歌われると、冗談みたいに聞こえる。なのに、冗談じゃない怖さが残る。

 

 俺は、ギプスの重みを忘れていた。痛みも忘れていた。

 

 卯月の声だけが、今の現実になっていた。

 

 >水平線は僕の古傷

 

 >押し寄せた言葉の波間

 

 >君はそれでもやさしかったね

 

 >少し今 そっちへ踏み出すから

 

 「踏み出す」その言葉に、昨日までの俺の思考が勝手に繋がってしまう。

 

 赤城。#夢見る。俺の償い。境界線。

 

 そして、卯月。

 

 (……ああ、そうか)

 

 俺は、卯月の前では、余計にちゃんとしていたいんだ。

 

 卯月が天真爛漫で空気読めないからこそ、俺は勝手に空気を読みすぎて、勝手に重くなる。

 

 でも卯月は、そんなの関係なく、歌でぶん殴ってくる。

 

 >水平線は僕の古傷

 

 >足跡はふたりのダイアローグ

 

 >何も残せない それでも僕は僕だと

 

 >思えたら

 

 その「思えたら」で、卯月が少しだけ笑った。

 

 普段の笑いじゃない。やっと届いたかどうか、確かめるみたいな笑い。

 

 終盤、卯月は言葉を畳みかける。

 

 >行間の透明な言葉や

 

 >誰かの超音波

 

 >共感できないこと

 

 >わかりたくないこと

 

 超音波。聞こえないのに、確かにあるもの。

 

 それは、#夢見るみたいだ、と思ってしまった。

 

 >あの歌も僕の古傷

 

 >消したいのに 消えないでほしい

 

 >波と砂浜 境界線は

 

 >まるで今 手と手を繋ぐみたい

 

 境界線。俺が最近、ずっと考えている言葉が、卯月の歌で出てくる。

 

 偶然だ。偶然のはずなのに、胸の奥の硬いところが、少しだけ緩む。

 

 >水平線は僕の古傷

 

 >まだ青く溢れるモノローグ

 

 >僕はこのまま象られない

 

 >自由で ありのままの形になりたい

 

 最後の一行を歌い切った卯月が、マイクを下ろした。会場が、一拍遅れて爆発したみたいに拍手に包まれる。

 

 俺も左手で拍手をした。右腕は、ギプスごと胸の前で固まったままだった。

 

 隣の卯月友人二人が、そっと俺の様子を見て、何も言わずに頷く。

 

 「……やばいでしょ?」

 

 小声で言われて、俺は息を吐いた。

 

 「……やばい」

 

 それしか言えなかった。

 

 卯月はステージの上で、満面の笑みを作って、客席に向かって大きく手を振った。

 

 「ありがとー!えへへ、楽しい!」

 

 その「楽しい」が嘘じゃないのが、卯月の強さだ。そして、卯月の怖さでもある。

 

 (……この子に、心配させたくない)

 

 ギプスがバレたら、卯月は絶対、今みたいな顔を一瞬でも曇らせる。

 

 それが嫌だった。今日だけは、卯月の夜を、卯月のまま完走させたかった。

 

 だから俺は、友人たちの、見えないようにするよに甘える。

 

 卯月が、アンコールの呼び声に「え、アンコール!?ほんと!?やった!」って子どもみたいに喜ぶのを見ながら。

 

 俺はふと思う。

 

 この子は、境界線を怖がりながら、平気で飛び越える。

 

 そしてその飛び越え方が、誰かの古傷を勝手に撫でていく。

 

 (……ずるい)

 

 でも、嫌じゃない。

 

 少なくとも今の俺は、そのずるさに救われてしまっている。

 

 右腕の痛みよりも、胸の奥の引っかかりの方が少し軽くなった気がした。

 

 帰りの東横線の車内は、渋谷の熱をそのまま薄めたみたいに、妙にぬるかった。

 

 つり革が揺れる。車輪が継ぎ目を踏むたび、床が小さく跳ねる。

 

 その振動のたびに、右腕のギプスが胸の前でわずかにずれて、存在だけがきっちり主張してくる。

 

 (……痛いっていうより、邪魔だな)

 

 帰りの人波に揉まれないように、なるべく端に寄って立つ。左手だけでスマホを扱うのは、思ったよりも面倒だった。

 

 スクリーンに、通知が光る。

 

 卯月。

 

 胸の奥が、いきなり静かになる。

 

 LINEを開くと、短い文章が二つ並んでいた。

 

 《きっしー!ちゃんと来てくれた?》

 

 《どうだった?》

 

 (……バレてない)

 

 まずそれに、ほっとした。

 

 ステージ上の卯月は青の中にいて、目線は客席をなぞっていたけど、俺の右腕には、たぶん届いていない。

 

 卯月の友だちが言っていた通りだ。

 

 「今夜は青しか見てないから」

 

 でも、ほっとした直後に、胸の別のところが重くなる。

 

 明日、基礎ゼミ。

 

 あの場で、この腕を隠しきるなんて無理だ。

 

 福山にも言われた。「絶対バレるだろ」って。

 

 (今日が大丈夫でも、明日は無理)

 

 だったら、このタイミングで、まだ知らない卯月に対して、どこまでを先に置いておくか。

 

 嘘はつきたくない。

 

 でも、今夜の卯月の温度を、俺の怪我で濁したくもない。

 

 慎重に、言葉を選ぶ。

 

 まずは、一番簡単な答えから。

 

 《ちゃんと行った。満席だったし、ちゃんと見えた》

 

 送信。

 

 既読がつくまでが、やけに長く感じる。

 

 次の駅名が流れ、扉が開いて、冷たい空気が入り込んで、すぐ閉まる。

 

 既読。

 

 すぐ返ってくる。

 

 《ほんと!?よかったー!》

 

 《来てくれる気がしてたけど、やっぱり嬉しい!》

 

 (……こういうところだよな)

 

 嬉しいって言葉を、ためらいなく投げられる。

 

 卯月の真っ直ぐさは、油断するとこっちの古傷まで勝手に撫でてくる。

 

 俺は小さく息を吐いて、二つ目の質問に答えるために指を動かす。

 

 《曲、すごかった。青の演出も。あれ、卯月に似合ってたよ》

 

 嘘じゃない。

 

 むしろ言葉が足りない。

 

 ただ、足りないのはいつものことだ。俺は、よかったの一言で済ませられるタイプじゃない。

 

 卯月は、その返事にすぐ反応した。

 

 《えへへ、青ね!いっぱい青にした!》

 

 《ね、曲どうだった?タイトル変じゃなかった?》

 

 変じゃなかった。

 

 変じゃなくて、むしろ刺さった。

 

 でも、刺さったって言った瞬間、卯月はたぶん、理由を聞いてくる。

 

 理由を言ったら、結局、俺の側の話になる。

 

 今夜は卯月の夜だ。卯月の夜のままで終わらせたい。

 

 だから、言い方だけ、ずらす。

 

 《変じゃない。卯月っぽいよ》

 

 《不思議なのに、ちゃんと深いところもあるやつ》

 

 送信して、スマホを握り直す。

 

 右腕のギプスが、胸の前で少しだけずれた。

 

 (……明日)

 

 どう言うか。

 

 骨折したって言えばいいだけなのに、卯月相手だと、その一言の重さが変わる。

 

 心配させるのが嫌だ。

 

 心配されたいわけじゃない。

 

 でも、隠したまま会うのはもっと嫌だ。

 

 卯月から返信が来る。

 

 《深いところ……!それ、褒めてる?》

 

 《ねぇねぇ、終わったあと探したんだけど、いなかった!》

 

 探してた、の一文が胸に落ちる。

 

 (……危なかった)

 

 俺は、友だちに誘導されて、卯月の視界から外れたまま会場を出た。

 

 偶然じゃない。ちゃんと選んだ。

 

 今夜はバレない方がいいって。

 

 でも、その選択が卯月の寂しさに繋がるなら、別の痛みになる。

 

 言葉を選び直す。

 

 《終わったあと、人多すぎて動けなかった》

 

 《今日は邪魔したくなかったし、すぐ出た》

 

 邪魔したくなかったは、半分本音で、半分逃げだ。

 

 卯月は、少し間を置いてから返してきた。

 

 《えー、邪魔とかないよ!》

 

 《でも来てくれたならいいや。嬉しいから!》

 

 また、嬉しい。

 

 その言葉に救われるのは、ずるい。

 

 救われると同時に、明日のことがより重くなる。

 

 (……明日、ちゃんと話す)

 

 隠すより、先に言う方がいい。

 

 でも今夜は、卯月のテンションを落とさない形で、予告だけ置く。

 

 明日話すって、ちゃんと線を引く。

 

 俺は、ゆっくり打った。

 

 《あと、ちょっとだけ。明日、大学で会ったら話すことある》

 

 送信。

 

 車内のアナウンスが「次は自由が丘」と告げる。

 

 卯月から、すぐ返事が来た。

 

 《え?なになに?こわいんだけど!》

 

 怖い、と冗談めかして言うその軽さが、今夜の卯月らしい。

 

 だからこそ、ちゃんと返す。

 

 《怖い話じゃないよ。心配させるほどでもないけど、隠すのも違うから》

 

 送信して、スマホをポケットにしまう。

 

 右腕の重みが、また少しだけ現実に戻ってくる。

 

 (……言葉を運ぶのは、いつも慎重だ)

 

 慎重に運びすぎて、遅れてしまう。

 

 それが俺の悪癖だ。

 

 でも明日だけは、遅れないようにしようと思った。

 

 卯月の色を、俺の事情で濁さないために。

 

 そして、濁らせないためには、ちゃんと濁る前に言わなきゃいけないから。

 

 電車が減速して、自由が丘に滑り込む。

 

 窓に映った自分の姿は、ギプスの白さだけがやけに浮いて見えた。

 

 自由が丘を過ぎて、車内の人が少し減ったころ。

 

 ポケットの中で、スマホがもう一度震えた。

 

 今度は、のどかだった。

 

 画面を確認する前から、なんとなく内容が分かる気がしてしまう。

 

 今日だもんな。

 

 卯月抜きのスイートバレットのライブ。

 

 LINEを開く。

 

 《蓮真、卯月のソロどうだった?》

 

 その一文だけ。

 

 のどからしい、気を遣った聞き方だった。

 

 (……明日、のどかにも話さないとな)

 

 卯月だけじゃない。

 

 のどかにも、基礎ゼミで、この腕は確実に見られる。

 

 隠す理由は、もうない。

 

 ただ、今夜は感想だけでいい。

 

 俺は左手で、ゆっくり打つ。

 

 《すごく良かったよ》

 

 《青の演出が全部卯月で、曲もちゃんと刺さった》

 

 《会場、満席だった》

 

 送信。

 

 すぐに既読がつく。

 

 少しだけ間があって、返信。

 

 《だよね》

 

 《卯月、ソロだと余計にらしさ出るでしょ》

 

 画面越しでも、のどかが小さく笑っているのが想像できた。

 

 卯月のことを、心配もしてるし、ちゃんと信じてもいる。

 

 そのバランスが、のどかだ。

 

 俺は、続けて打つ。

 

 《ああ。天真爛漫なのに、ちゃんと深いとこまで届く感じだった》

 

 《のどかがもし見ても、今日の卯月は良かったんじゃないか》

 

 今度は、少し間が空く。

 

 電車が日吉を過ぎ、揺れが大きくなる。

 

 返ってきたのは、少し長めの文だった。

 

 《スイバレの方も、ちゃんとできたよ》

 

 《卯月いないのはやっぱり不思議だったけど》

 

 《今日は八重がサブリとして仕切ってくれて》

 

 《進行もMCも、思ったより安定してた》

 

 安濃八重。

 

 名前を見ただけで、状況が浮かぶ。

 

 場が崩れそうになると、自然と手を伸ばす人。それが安濃さんへの印象だ。

 

 《安濃さんなら安心だな》

 

 送信すると、すぐに返事が来る。

 

 《うん》

 

 《卯月がいないときは、八重が一番冷静かも》

 

 《だから、心配はいらないよ》

 

 その心配はいらないよが、俺に向けてなのか、卯月に向けてなのか、少しだけ分からなかった。

 

 たぶん、両方だ。

 

 (……のどかも、ちゃんと全体見てるんだよな)

 

 卯月みたいに飛び込まない。

 

 でも、誰かが欠けたときの穴を、静かに測って、埋める。

 

 それが、のどかのやり方だ。

 

 スマホを見下ろしたまま、右腕のギプスに視線が落ちる。

 

 (……明日だな)

 

 卯月にも。のどかにも。同じ事実を、伝えることになる。

 

 心配させたくない気持ちも、隠したくない気持ちも、どっちも本物だ。

 

 でも、のどか相手にだけは、変に取り繕うのは違う気がした。

 

 のどかは、たぶん、気づく。

 

 言わなくても、言い方で分かる。

 

 だからこそ、ちゃんと話す。

 

 《明日、大学で会ったら少し話そう》

 

 《大したことじゃないけど、先に言っておきたい》

 

 そう送ると、のどかはすぐに返してきた。

 

 《うん、わかった》

 

 《ちゃんと聞くよ》

 

 短いけど、逃げ道のない返事だった。

 

 電車が速度を落とし始める。

 

 窓の外の街灯が、少しずつ間隔を広げていく。

 

 今夜は、卯月の色を受け取って、のどかの静けさを確認して、それで終わる。

 

 明日は、その続きを話す日だ。

 

 ギプスの白さが、窓に映る自分の中で、まだ浮いている。

 

 でも、その白さを、誰にも見せずに済ませる夜は、もう終わりだと思った。

 

 十一月二十一日

 

 教室のドアを開けた瞬間、空気が一拍遅れて俺の右腕に集まった。

 

 視線。講義前のざわめきの中で、それだけがやけに分かりやすい。

 

 白いギプスと三角巾は、本人の意思とは関係なく、説明しろと主張してくる。

 

 (……はいはい)

 

 俺はできるだけ普段と同じ速度で歩いて、いつもの席に向かった。

 

 「岸和田くん」

 

 呼び止められる。

 

 振り向くと、美東さんが首を傾げていた。驚きというより、純粋な確認の顔。

 

 「どうしたの、その怪我?」

 

 「ちょっと駅で。トラブルに巻き込まれてさ」

 

 曖昧に返すと、美東さんは一瞬だけ目を細める。

 

 「ちょっとでそれにはならないでしょ」

 

 声は軽いのに、刺さるところだけちゃんと刺してくる。

 

 「……まあ、そうだな」

 

 それ以上は今、言う気がなかった。言えば広がる。広がった瞬間、今日の講義は、俺の怪我の回になる。

 

 美東さんはそれを察したのか、追及せずに頷いた。

 

 「無理しないでね。ノート、とれる?」

 

 「左手で頑張る」

 

 「頑張らないでいいとこもあるから」

 

 その言い方が妙に優しくて、変に胸が詰まった。

 

 席に座ると、前の方から椅子を回す音。

 

 福山が振り返ってきた。

 

 「……岸和田。広川さんと豊浜さんにちゃんと話せよ」

 

 「……ああ。今日言う」

 

 「二人を心配させたくないのは分かるけど、逃げるなよ」

 

 逃げるなよ。

 

 その言葉が、俺の胸のど真ん中に落ちた。

 

 (……分かってる)

 

 逃げたいわけじゃない。

 

 でも、言葉ひとつで卯月の明るさが濁って、のどかの優しさが揺れるのが嫌だった。

 

 いや。

 

 正確には、自分のせいで誰かの顔が曇るのが、怖いだけだ。

 

 講義が始まる直前、隣の列に咲太が座る気配がした。

 

 「岸和田」

 

 低い声。いつもより少しだけ硬い。

 

 「大丈夫か?」

 

 目線だけ向けると、咲太はギプスを見て、それから俺の顔を見た。

 

 その目が言っている。赤城の件だと。

 

 俺が何も言わなくても、咲太は分かってしまう。

 

 (やっぱり、こいつには隠せない)

 

 「大丈夫、って言ったら嘘になるけど。死にはしない」

 

 「……そりゃそうだろ」

 

 咲太が少しだけ眉を寄せる。

 

 「赤城の#夢見る、手伝ったんだろ」

 

 言い当てられて、俺は笑いそうになった。

 

 「察しが良すぎる」

 

 「お前が分かりやすすぎるんだよ」

 

 咲太は小さく息を吐いて、目線を前に戻す。

 

 俺は、一昨日のアルバムの重みを思い出した。

 

 今、ここで聞きたい。

 

 でもここは教室だ。講義が始まる。

 

 俺は声を落とした。

 

 「咲太。後で話がある」

 

 「ああ、わかった」

 

 それだけ。

 

 それだけで、胸の奥が少し軽くなった。

 

 しばらくして、教室のドアが開く音。

 

 のどかと卯月が入ってくる。

 

 いつも通りの二人。なのに、目線はすぐ俺の右腕に吸い寄せられた。

 

 のどかが、息を呑む。

 

 卯月が、一瞬固まる。

 

 そして次の瞬間、卯月が口を開いた。

 

 「……きっしー?」

 

 のどかの方が先に近づいてきた。顔色が変わっている。

 

 「蓮真……それ、どうしたの」

 

 逃げ道はない。

 

 福山の「逃げるなよ」が、背中を押す。

 

 「……骨折。ちょっと駅で事故があって、人かばった」

 

 卯月の目が丸くなる。

 

 のどかの眉がきゅっと寄る。

 

 「なんで言ってくれなかったの」

 

 「昨日は……卯月のソロだったし。のどかもライブだったし。余計な心配させたくなかったんだよ」

 

 言い訳だ、と自分でも思った。

 

 でも二人は、言い訳として受け取らなかった。

 

 のどかが一歩近づいて、息を整える。

 

 「……とりあえず、授業。ね」

 

 卯月も頷く。

 

 「うん。きっしー、今日、右手使うの禁止」

 

 「禁止って」

 

 「禁止!だって折れてるじゃん!」

 

 理屈が雑なのに、妙に安心する。

 

 講義が始まる。

 

 俺は左手でペンを持つ。案の定、字が終わってる。

 

 のどかが静かにノートを寄せてくれる。

 

 卯月がプリントをめくって見せてくれる。

 

 途中で先生が「そこ重要ですよ」と言うたび、二人が小声で補足してくる。

 

 (……助けられてるな)

 

 助けられる側になるのは、苦手だ。

 

 でも今は、素直にありがたいと思えた。

 

 講義が終わる。

 

 教室の熱が一気にほどける。

 

 人の波が外に流れていく中で、のどかと卯月だけが残った。

 

 のどかが腕を組む。

 

 卯月が真っ直ぐ俺を見る。

 

 「で。どういうこと?」

 

 「詳しく話してよきっしー」

 

 逃げられない。

 

 だから、話す。

 

 全部は話さない。でも、嘘はつかない。

 

 「#夢見るってあるだろ?赤城に言われてさ、武蔵小杉で事故が起きるかもしれないって」 

 

 卯月がじっと俺を見る。

 

 「赤城さんって、この間会ったボランティア一緒の人だよね?」

 

 「……それで、行ったの?」

 

 のどかの声が少し震える。

 

 「赤城が行くって言うから、放っておけなかった」

 

 「……それで、この怪我をしたんだよ」

 

 のどかが声を強めた。

 

 「でも、それで蓮真が怪我するのはおかしいよ!」

 

 正論だ。

 

 「でもさ、それは……俺なりの、償いだから」

 

 「償い?」

 

 二人の声が重なる。

 

 俺は少し間を置いてから話した。

 

 ループのことは伏せる。

 

 でも、嘘はつかない。

 

 「中一のとき、俺、不登校になった」

 

 二人の空気が変わる。

 

 驚きじゃない。真剣さの方。

 

 「そのあと中二で転校して。転校先で最初に話しかけてきたのが赤城だった」

 

 言葉が喉を通るたび、昔の空気が少しずつ戻ってくる。

 

 教室の匂い。窓の光。自分の居場所のなさ。

 

 「赤城と一緒に、生徒会の書記を手伝うことになって……そのうち、学校に馴染めた」

 

 のどかが、小さく息を吸う。

 

 卯月は黙ったまま、俺の言葉を待っている。

 

 多分卯月も俺と同じく不登校だった時期があるからだろう。

 

 「でも、中三で別のクラスになってから交流が減って。高校でも連絡しなかった」

 

 「……なのに、大学で再会した」

 

 のどかが、先に言った。

 

 俺は頷く。

 

 「赤城が困ってるなら、助けたいって思った。俺の中で、赤城は……恩がある相手だから」

 

 のどかが顔を上げる。

 

 「だからって、それで蓮真が無理するのはおかしいよ!」

 

 感情が先に出た声。

 

 のどからしい、守る声。

 

 卯月も続ける。

 

 「それが、きっしーの幸せなの?」

 

 俺は答えられなかった。

 

 幸せかどうかなんて、考えてなかった。

 

 助けたい、が先に立つ。

 

 償い、が先に立つ。

 

 卯月が一歩前に出る。真剣な顔なのに、どこか子どもみたいな真っ直ぐさがある。

 

 「私ね、不登校になったときに、お母さんに言われたんだ」

 

 卯月は一度だけ言葉を探して、それから言った。

 

 「『卯月の幸せは、みんなに決めてもらうもんじゃなくて、卯月が決めるんだよ』って」

 

 その言葉が、青みたいに胸に落ちる。

 

 卯月は続けた。

 

 「だから、きっしーの幸せも、赤城さんの幸せも、自分で決めなきゃだめだよ!」

 

 のどかが頷いた。

 

 「うん。今のまま蓮真が傷つくの、あたしは見たくない」

 

 見たくない。

 

 その言葉が、ギプスより重かった。

 

 俺は息を吐いた。

 

 (……そうだよな)

 

 赤城には、支えてくれる誰かが必要なんじゃない。

 

 逃げ続ける自分を許せないはずの、本来の赤城に戻すことが必要だ。

 

 でも俺が側にいればいるほど、赤城は俺に逃げる。

 

 俺に寄りかかって、「自分で立つ」距離は遠ざかる。

 

 それは助けじゃない。

 

 ただの延命だ。

 

 俺は、二人の顔を見た。

 

 卯月は心配している。

 

 のどかは怒っている。

 

 どっちも、俺のことを見て言っている。

 

 「……分かった」

 

 言葉が、勝手に決まる。

 

 俺は、二人を見た。

 

 「……赤城から、離れてみるよ」

 

 二人が息を呑む。

 

 「俺が側にいる限り、赤城は俺に逃げる。だから……離れる」

 

 「赤城を、突き放す」

 

 それは優しさじゃないかもしれない。

 

 赤城を傷つけるかもしれない。

 

 でも、赤城が自分の足で立つためには、俺が逃げ道になっちゃいけない。

 

 (……俺がやるべき償いは、支えることじゃなくて、戻すことなんだ)

 

 自分の中で、線が引かれていくのが分かった。

 

 その線は痛い。冷たい。

 

 でも必要な線だ。

 

 沈黙。

 

 やがてのどかが、ふっと息を吐いた。

 

 「うん。蓮真、それでいいと思う」

 

 卯月も、ゆっくり頷く。

 

 「……きっしー、ひとりで背負わないでね」

 

 「あたしもいるし」

 

 「私もいるから!」

 

 二人の言葉が、胸に落ちる。

 

 償いの形が、ようやく輪郭を持った気がした。

 

 それは支えることじゃない。

 

 手を離す勇気だ。

 

 俺は立ち上がり、深く息を吸った。

 

 次にやるべきことは、決まっている。

 

 咲太に、卒業アルバムの話を聞く。

 

 そして、赤城に、線を引く。

 

 優しさの限界を、自分で引くために。

 

 講義棟を出ると、日が落ちかけていて、空の端だけが薄くオレンジに滲んでいた。

 

 右腕のギプスは、夕方になるほど存在感を増す。寒さで重さが増すわけじゃないのに、ずっと肩に乗ってるみたいにずしりとくる。

 

 「咲太」

 

 人の流れから少し外れたところで呼ぶと、咲太は振り向いた。

 

 「話って、アルバムのことだろ?」

 

 「……ああ」

 

 俺は歩きながら、左手で鞄の肩紐を直した。右腕は吊られたまま、どうしても姿勢がぎこちなくなる。

 

 「赤城が言ってた『いつか、やさしさにたどり着きたい』って言葉さ。卒業アルバムに咲太が書いてたってやつ。でも実際見たら、どこにもなかった」

 

 「……」

 

 咲太はしばらく黙って、視線だけを前に投げた。考える時の癖だ。答えを即断しない。

 

 やがて、小さく息を吐いて言う。

 

 「岸和田。前、僕が、可能性の世界に行ったって話、覚えてるか?」

 

 その一言で、頭の中にあの光景が戻る。

 

 高二の終業式。教室のざわめき。窓から入る春の光。咲太が、いつもより真面目な顔で、まるで天気の話みたいに淡々と告げたやつ。

 

 「……覚えてる」

 

 俺が頷くと、咲太は少しだけ言いづらそうに眉を寄せた。

 

 「たぶん、赤城はそこから来てる」

 

 「……可能性の世界から、ってことか?」

 

 「多分な」

 

 言い切りはしない。けど、咲太の中では結論に近いんだろう。

 

 俺は、ふっと喉の奥で納得してしまった。

 

 「なるほどな……」

 

 それが口に出た瞬間、咲太が横目で俺を見る。

 

 「岸和田、あっさり納得するんだな?」

 

 「まあ……俺も似たような経験はしたからな」

 

 言ってしまってから、少しだけ後悔した。

 

 咲太の目が一段深くなる。

 

 「……どういう意味だ?」

 

 空気が一瞬だけ張る。鋭い。こういう時の梓川咲太は、優しいとか以前に逃がさない。

 

 俺は歩く速度を落とさずに、視線を前に置いたまま言った。

 

 「いずれ話すよ」

 

 今はまだ、全部の言葉が揃ってない。

 

 中学のあの春のことを、説明できる形にできてない。

 

 でも、いずれは。咲太には、ちゃんと話す。

 

 咲太は「ふーん」とだけ言って、それ以上は追わなかった。追わないけど、忘れないやつだ。

 

 沈黙が一拍挟まったところで、俺はもう一つ、引っかかってるものを出す。

 

 「そういえばさ。前に高坂さんが言ってたろ。『十一月二十七日に、赤城が傷害事件起こして警察に捕まる夢見た』って」

 

 咲太の肩が、ほんの少しだけ固まった。

 

 俺は続ける。

 

 「咲太、お前さ。十一月二十七日って日付に心当たりあるだろ?」

 

 咲太は、すぐ答えなかった。

 

 その間が答えみたいだった。

 

 「……その日、同窓会があるんだよ。中学の」

 

 「……なるほどな」

 

 頭の中で線が引かれる。

 

 十一月二十七日。赤城が壊れる可能性が予告された日。

 

 それがリミットなら、俺が赤城の逃げ道で居続ける時間は、短い方がいい。

 

 突き放すのは、早い方がいい。

 

 その決意が、ギプスの重みより先に胸の内側で固まった。

 

 (……やるなら、今だ)

 

 俺は足を止めた。咲太も、自然に立ち止まる。

 

 「咲太。#夢見るのことなんだけど」

 

 自分でも笑いそうになるくらい、ろくでもない考えしか浮かんでいなかった。

 

 声を落とす。周囲には学生がいる。聞かれていい話じゃない。

 

 「十一月二十三日。横浜で、何かが起きるって内容で……俺が書く」

 

 咲太が、はっきりとこちらを見る。

 

 「……自分でやるのか」

 

 「ああ。赤城を、そこに誘き寄せる」

 

 人助けという言葉に、赤城は反射で動く。

 

 正義感じゃない。贖罪に近い衝動。

 

 だから、入口だけを置く。

 

 選ぶのは、赤城自身だ。

 

 咲太は、少し間を置いてから、鼻で小さく笑った。

 

 「……お前も悪役らしいな」

 

 「正義の味方をやるのに疲れたんだよ」

 

 皮肉で返すと、咲太は肩をすくめる。

 

 「疲れた奴が、余計に面倒くさいことやろうとしてるだけだろ」

 

 「……否定できない」

 

 一拍置いて、咲太がさらっと言った。

 

 「まあ、僕も同じことはやるつもりだったけどな」

 

 「……は?」

 

 思わず足が止まる。

 

 「どういう意味だ?」

 

 咲太は、悪びれもせず続けた。

 

 「赤城を誘い出す。十一月二十七日。峰ヶ原高校の教室に」

 

 その言葉を受けて、俺は一瞬だけ立ち止まった。

 

 「なんで、峰ヶ原高校なんだ?」

 

 場所に、意味がありすぎる。

 

 咲太は少しだけ視線を逸らしてから、淡々と言った。

 

 「可能性の世界ではさ」

 

 そこで、一拍。

 

 「赤城も、峰ヶ原高校に通ってたんだよ」

 

 胸の奥で、何かが小さく音を立てた。

 

 「……僕と、同じクラスだった」

 

 その一言で、点が線になる。

 

 九月の七里ヶ浜。

 

 海を見て立ち止まった赤城の横顔。

 

 「ただ……ちょっと懐かしいなぁって思って」

 

 あの時、俺は深く考えなかった。

 

 七里ヶ浜に何回も来たことがある、とか。ボランティア慣れしてるから、とか。

 

 でも、違った。

 

 あれは場所じゃない。時間だ。

 

 さらに、別の記憶が続いて浮かぶ。

 

 俺が、軽い冗談のつもりで言った言葉。

 

 「赤城も、峰ヶ原に来ればよかったのにな」

 

 あのとき赤城は、なぜか立ち尽くした。

 

 ほんの数秒。言葉を探すみたいに、視線を落として。

 

 それから、時間を置いて、小さく頷いた。

 

 「………うん。そうだね………」

 

 肯定なのに、どこか遅れて届く返事。

 

 あれは、知らなかったからじゃない。

 

 知っていたからだ。

 

 そこにいた自分を。

 

 「……そっか」

 

 気づいたら、そう呟いていた。

 

 咲太が、少しだけ驚いた顔で俺を見る。

 

 「納得したのか?」

 

 「ああ」

 

 胸の奥で、静かに腑に落ちる。

 

 赤城が峰ヶ原高校に引き寄せられる理由。

 

 七里ヶ浜で感じた既視感。

 

 峰ヶ原という名前を出した時の、あの間。

 

 全部、同じ方向を指していた。

 

 「赤城にとって、峰ヶ原は……」

 

 言いかけて、言葉を切り替える。

 

 「やり直せなかった場所なんだな」

 

 咲太は否定しなかった。

 

 「だから、そこに呼ぶ」

 

 淡々とした声だった。

 

 優しさでも、怒りでもない。

 

 「逃げ場じゃない場所にな」

 

 その言葉が、骨の奥まで沁みる。

 

 十一月二十七日。

 

 峰ヶ原高校の教室。

 

 赤城が、逃げ続けてきた自分と向き合う場所。

 

 俺は、ゆっくりと息を吐いた。

 

 「……お前、本当、悪役だな」

 

 「お互い様だろ」

 

 どちらが先に言い出したか分からないまま、苦笑が落ちる。

 

 それから俺は、ふと疑問を口にした。

 

 「なぁ、咲太。なんでそこまで俺に話すんだ?」

 

 一拍、間を置く。

 

 「俺は、赤城の味方をしてた側だぞ」

 

 咲太は、少しだけ困ったように笑った。

 

 「前も言っただろ」

 

 「可能性の世界でのお前は……僕と、結構仲が良かったらしい」

 

 「……妙なこと言うなよ」

 

 「妙だけど、事実みたいだ」

 

 そう言ってから、咲太は静かに続けた。

 

 「お前も、赤城を見つけたいんだろ?」

 

 俺は、少しだけ考えてから頷いた。

 

 「ああ」

 

 赤城を救うためじゃない。

 

 正しさのためでもない。

 

 逃げ続けている彼女を、本来の場所に戻すために。

 

 そのためなら、悪役でいい。

 

 右腕のギプスが、わずかに揺れた。

 

 その白さが、まるで、これ以上、同じやり方で誰かを守ろうとするな。

 

 そう言っているみたいに見えた。

 

 十一月二十三日

 

 勤労感謝の日の中華街は、いつもより匂いが濃い。

 

 甘い香辛料。油。蒸気。観光客の香水と、呼び込みの声。角を曲がるたびに、空気が味を変える。

 

 右腕のギプスは相変わらず邪魔で、着込んだコートの中で三角巾の紐が首に食い込む。痛みは鈍いのに、存在だけはやたら主張してくる。

 

 (……こんなこと、やる意味あるのか)

 

 意味はある。あるはずだ。

 

 俺は昨日の夜、自分のスマホで投稿した。

 

 {中華街でひったくりにあう夢見た。華正樓の前だったかな。物騒だなぁ#夢見る}

 

 嘘だ。

 

 夢なんて見てない。

 

 それでも、#夢見るが、世界を動かすのは、もう知ってしまっている。

 

 駅のエスカレーターの逆走もそうだ。起きないと言い切れない。起きたら、取り返しがつかない。

 

 でも、嘘を投げた。

 

 それが、赤城を引っ張り出すための入口になるなら。

 

 赤城の逃げ道を、俺から切り離すための入口になるなら。

 

 待ち合わせは、華正樓の前。

 

 時間通りに来た赤城は、ベージュのコートにマフラー。髪をまとめた後ろ姿が、人混みの中でも真面目さを崩さない。

 

 俺のギプスを見て、一瞬だけ眉が動いた。

 

 「……本当に来たんだ」

 

 「俺が誘ったんだろ」

 

 「……うん」

 

 赤城は、周囲の人の流れを確認しながら小さく息を吐く。

 

 「ここ、いつも混んでるね」

 

 「中華街だしな。逃げるなら今だぞ」

 

 冗談のつもりだった。赤城は笑わない。

 

 「逃げないよ」

 

 即答だった。迷いがない。

 

 (……そういうところだよな)

 

 真面目で、強くて、でも強すぎる。

 

 自分を許さない強さが、いつも自分の首を絞める。

 

 俺は言う。

 

 「赤城。この#夢見る、一緒に見に行かないか?」

 

 赤城の視線が俺のスマホに落ちる。

 

 少しだけ、赤城の目が細くなる。

 

 「うん。行くよ」

 

 言い切って、赤城は華正樓の前に立つ。背後のガラス越しに、赤い提灯と人の影が揺れている。

 

 ここで何かが起きる、という嘘の予告だけが、俺たちを縛っている。

 

 通り過ぎる人の肩。荷物。笑い声。写真を撮るシャッター音。

 

 ひったくりなんて、起きない。

 

 起きないように、起きなくていいように、俺が嘘を投げたんだから。

 

 十分。二十分。三十分。

 

 何も起きない。

 

 赤城は何度も時計を見た。俺の顔を見た。周囲を見た。

 

 「……何も、ないね」

 

 「ないな」

 

 赤城の声は、安心より先に、困惑が混ざっていた。

 

 助けるべき出来事がないとき、赤城は、どこに立てばいいのか分からなくなる。

 

 まるで、救済が起きない世界では、自分の存在理由が薄れるみたいに。

 

 俺は、息を吸った。

 

 ここから先は、俺が悪役になる番だ。

 

 「赤城。種明かしする」

 

 赤城が小さく瞬きをする。

 

 「……種明かし?」

 

 「今日ここで何か起こるってのは、嘘だ」

 

 赤城の目が、はっきりと俺を捉える。観光客の声が遠ざかったみたいに、空気が静かになる。

 

 「……もしかして岸和田くんが、書いたの?」

 

 「書いた」

 

 「……どういう、こと?」

 

 「俺が書いた#夢見るは、嘘ってことだよ」

 

 言葉が落ちた瞬間、赤城の顔から血の気が引く。

 

 怒り、より先に。裏切りが来る。

 

 「……なんで、こんなことするの?」

 

 低い声だった。震えてはいない。でも、揺れている。

 

 俺は続ける。逃げたら意味がない。

 

 「怒ってる?」

 

 赤城は、答えない。

 

 その代わり、同じ問いを落とす。

 

 「……なんで?」

 

 もう一度。今度は、もっとはっきり。

 

 なんで。

 

 そのなんでは、行為の理由を聞いているだけじゃない。

 

 岸和田くんが、こういうことをする人間だったのか。

 

 その問いだ。

 

 俺は、赤城が可能性の世界から来たことに気づいていないふりをしたまま、いや、正確には、気づいてしまった自分を奥に押し込めたまま言った。

 

 「赤城だって、本当は分かってるんだろ」

 

 赤城の眉が、わずかに動く。

 

 「……何を?」

 

 「咲太から逃げた自分のこと」

 

 赤城の喉が、微かに鳴った。

 

 「……」

 

 俺は続ける。心臓が痛い。けど止めない。

 

 「救えなかった事実から逃げた自分のこと」

 

 赤城の目が揺れる。否定が来ると思った。

 

 でも、来ない。

 

 沈黙は、肯定みたいだった。

 

 「赤城は、自分に甘くない。許せるほど、器用じゃない」

 

 赤城の唇が、ほんの少しだけ震えた。

 

 「……岸和田くんは、何を知ってるの」

 

 ここで可能性の世界を言えば、全部が崩れる。

 

 赤城の足場も、俺の線引きも、別の形になる。

 

 だから俺は、あえて知っていることを言わない。

 

 言う代わりに、今起きていることだけを言った。

 

 「赤城は、俺に頼ろうとする」

 

 赤城が目を見開く。

 

 「……頼ってないよ」

 

 「頼ってる」

 

 否定を被せるように、俺は言う。

 

 「俺だって、赤城の役に立ちたいよ」

 

 それは本音だった。骨折しても、動いてしまったのが証拠だ。

 

 でも、その次が本題だ。

 

 「でも……」

 

 赤城が息を止める。

 

 俺は言った。

 

 「それは、赤城にとって良くない」

 

 赤城の目が、刺さるみたいに痛い。

 

 「……良くないって、なんで?」

 

 「俺がいる限り、赤城は俺を逃げ道にする」

 

 赤城が、ほんの少しだけ顔を歪めた。

 

 「そんなつもりは……」

 

 「つもりじゃない」

 

 優しい言い方はできなかった。優しく言えば、赤城はまた、岸和田くんに優しくされたで終わる。

 

 それじゃ、延命だ。

 

 俺は喉の奥の苦さを飲み込んで、最後に言った。

 

 「だから、ごめんな」

 

 赤城の顔が、固まる。

 

 「……ごめん、って」

 

 「俺は、これ以上、赤城の隣に立てない」

 

 赤城の瞳が揺れる。真っ直ぐで、綺麗で、危うい。

 

 そして、赤城は言った。

 

 「……岸和田くんは、私の味方だと思ってた」

 

 その一言が、胸の奥の柔らかいところを殴る。

 

 味方。

 

 その言葉が、赤城の中でどれだけ重いか知ってる。

 

 赤城にとって味方は、救済じゃなくて、免罪符だ。

 

 「味方じゃないわけじゃない」

 

 言い訳みたいに聞こえるのが嫌で、俺は一瞬黙ってしまった。

 

 赤城は、その沈黙を見て、静かに息を吐いた。

 

 「……わかった」

 

 声が冷たいわけじゃない。むしろ、冷たくなれない声だった。

 

 だから余計に痛い。

 

 赤城は、マフラーを指先で握りしめて、視線を落としたまま言う。

 

 「……今日は、帰るね」

 

 「赤城……」

 

 呼び止めた声は、自分でも情けないくらい弱かった。

 

 赤城は振り返らない。

 

 人混みの中へ、まっすぐ歩いていく。

 

 俺は、追いかけなかった。

 

 追いかけたら、線が消える。

 

 線を引くって決めたのは、俺だ。

 

 その代わり、ギプスの中で拳を握った。痛みが走る。現実が戻ってくる。

 

 (……突き放せた)

 

 赤城を突き放せた。

 

 でも、胸の中に残ったのは達成感じゃない。

 

 罪悪感と、空洞だ。

 

 それでも思う。

 

 (俺が側にいたら、赤城はいつまでも、自分を許さないまま、俺に寄りかかっていく)

 

 それは助けじゃない。

 

 俺が欲しかった償いの形でもない。

 

 なのに。

 

 (赤城が、なんでこの世界に来たのか)

 

 (どうして俺を味方にしたいと思ったのか)

 

 そこまでは、まだ見えない。

 

 見えていないからこそ、終われない。

 

 十一月二十七日。

 

 咲太は赤城を、峰ヶ原高校の教室に誘い出すと言った。

 

 彼女が戻る場所に。救えなかったことと向き合う場所に。

 

 そこは、赤城にとって逃げ場じゃない。

 

 逃げ場じゃないからこそ、壊れる可能性がある。

 

 (……なら)

 

 俺も行く。

 

 赤城を救うためじゃない。

 

 味方でいるためでもない。

 

 赤城が赤城を取り戻す瞬間を。

 

 もし取り戻せないなら、壊れる瞬間を、ちゃんと見届けるために。

 

 中華街の赤が遠ざかって、夕方の灰色が戻ってくる。

 

 ギプスの白さが、妙に浮いて見えた。

 

 悪役でいい。

 

 正義の味方じゃない。

 

 今度は、手を離す役をやる。

 

 そして最後まで、見届ける役をやる。

 

 それが、俺の償いの次だと思った。

 




物語解説

今回は、やさしさが形を変えていく過程と、その選択に伴う痛みを中心に描きました。

卯月の初ソロライブという祝祭の夜。青に沈められた会場で響いた歌声と、境界線を越えて届いてしまう言葉の力。

その一方で、武蔵小杉での事故、骨折という現実的な代償が、蓮真の身体に確かな重さとして刻まれていきます。

誰かを助けることで、自分を支えている赤城郁実。そして、彼女を支えようとすることで、自分自身の輪郭を見失いかけていく岸和田蓮真。

救いたいという衝動が、いつしか相手の逃げ道になってしまうこと。償いと依存の境界が、気づかぬうちに曖昧になっていく感覚。その危うさが、具体的な傷や対話を通して、より明確に浮かび上がっていきました。

基礎ゼミでの出来事や、のどかと卯月の言葉は、蓮真にとって初めて「それはあなたの幸せなのか」と問い返される瞬間でもありました。

誰かのために傷つくことが、本当に正しいのか。優しさとは、耐え続けることなのか。

そして、物語の中盤では、卒業アルバムという過去の記録と、可能性の世界という概念が再び物語に接続されます。

郁実が抱えてきた後悔の正体。峰ヶ原高校という場所が持つ意味。それらが断片的な記憶と重なり合い、十一月二十三日、そして二十七日へと続く明確な時間軸が形を取り始めました。

蓮真が選んだのは、助け続けることではなく、突き放すという選択。それは冷酷さではなく、やさしさの形を変えた結果であり、自ら悪役を引き受ける覚悟でもあります。

赤城郁実は何を求め、この世界に辿り着いたのか。#夢見る が示す未来は、回避されるべき運命なのか、それとも向き合うべき必然なのか。そして蓮真は、観察者としてではなく、一人の当事者として、どこまでその中心に立つことになるのか。

物語は、いよいよ避けられない日付へと近づいていきます。

次回も、その行く末を見届けていただけたら幸いです。

蓮真は最終的にどちらを選ぶと思いますか?

  • 豊浜のどか
  • 広川卯月
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