青春ブタ野郎はパラレルスプリングの夢を見ない   作:もドえラん

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『青春ブタ野郎はディアフレンドの夢を見ない』の公開時期が、来年秋に決まりました。

原作がまた一歩、先へ進むその前に、この物語も、きちんと終わらせたいと思っています。

岸和田蓮真という人物は、原作の隙間に立ちながら、咲太たちの物語を静かに見つめてきました。

けれど、彼自身もまた、夢と現実のあいだで迷い、選び、誰かを救おうとしたひとりです。

原作へ向かう時間の流れと並走するように、この物語も完結まで書き進めていく予定です。

原作を大切に思う方にこそ、最後まで読んでいただけたら嬉しいです。

これからも、岸和田蓮真の物語を、どうぞよろしくお願いします。


8.サイレントな決意は、境界の向こうで息づく

 

 十一月二十五日

 

 講義棟を出ると、空気が一段冷たくなっていた。

 

 コートの前を留め直すと、右腕のギプスが布の内側で軽く擦れる。もう痛みそのものより、「不便です」と主張してくる存在感の方が強い。

 

 その足で、藤沢のファミレスに向かった。

 

 今日はバイトとして、じゃない。バイト先の店長に、骨折の件を伝えるためだ。

 

 ピークを少し外した時間帯の店内は、落ち着いたざわめきに包まれている。

 

 ドリンクバーの氷が落ちる音と、キッチンから聞こえる油のはぜる音が、妙に日常的だった。

 

 事情を話すと、店長はギプスを一目見て、すぐ頷いた。

 

 「そりゃ無理だね。一か月くらいは、シフト外そう。治るの優先で大丈夫だよ」

 

 あっさりした判断に、肩の力が抜ける。

 

 「ありがとうございます」

 

 頭を下げながら、この一週間を思い返していた。

 

 大学の講義。

 

 基礎ゼミでは、卯月とのどかが当たり前みたいに隣に座って、ノートを寄せてくれた。

 

 中国語は福山が、英語と国際商学部の講義は美東さんが、それぞれ「ついで」と言いながら手を貸してくれた。

 

 (……ちゃんと、回ってるんだよな)

 

 自分が一人欠けたくらいで、世界は止まらない。

 

 でも同時に、自分が一人じゃないことも、否応なく実感させられる。

 

 席に戻ってメニューを眺めていると、トレーを持った花楓ちゃんが近づいてきた。

 

 「蓮真さん、骨折……大丈夫ですか?」

 

 心配そうに覗き込んでくる視線は、まっすぐで、余計な詮索がない。

 

 「うん。まあ、不便だけどな」

 

 そう答えると、花楓ちゃんは少しだけ安心したように頷いた。

 

 「よかったです。あ、こちら、ご注文のパスタです」

 

 トレーを置きながら、ふと思い出したように言う。

 

 「そういえば……卯月さんのソロライブ、見に行かれたんですよね?」

 

 「……ああ」

 

 「どうでした?」

 

 その聞き方は、興味というより純粋な期待だった。

 

 「すごかったよ。卯月らしくて、でもちゃんと一人で立ってて」

 

 花楓ちゃんの顔が、ぱっと明るくなる。

 

 「やっぱり……!」

 

 それから、少しだけ声を落として言った。

 

 「私、行けなかったんです。チケット、人気すぎて取れなくて……」

 

 「あー……」

 

 (卯月からもらった、なんて言える空気じゃないな)

 

 内心で苦笑しながら、曖昧に頷く。

 

 「それは残念だったな」

 

 花楓ちゃんは「ですよね」と小さく笑ったあと、思い出したように続けた。

 

 「そういえば、蓮真さん」

 

 「ん?」

 

 「お兄ちゃんに、伝えてほしいことがあるって昨日LINEで言ってましたよね?」

 

 「……ああ」

 

 一瞬、言葉を整理する。

 

 「日曜、咲太シフト入ってるよな?何時までか、分かる?」

 

 「えっと……十五時までのはずです。私と入れ替わりで」

 

 「そっか」

 

 「終わったあと、会いたいってことですか?」

 

 「まあ、そんな感じ」

 

 花楓ちゃんはすぐに頷いた。

 

 「分かりました。お兄ちゃんに伝えておきますね」

 

 その即答が、ありがたくて、少しだけ申し訳なかった。

 

 店を出る頃には、外はもうすっかり夜だった。

 

 帰り道、駅前で見覚えのある影とぶつかりそうになる。

 

 「……岸和田?」

 

 振り向いた先にいたのは、塾のシフト帰りらしい双葉だった。

 

 「本当に骨折したんだ?」

 

 「噂になるの早いな」

 

 「そりゃなるでしょ、その格好」

 

 双葉は一歩引いて、ギプスを観察する。

 

 「少しは懲りた?」

 

 「正義の味方に飽きるくらいにはな」

 

 そう返すと、双葉は小さく鼻で笑った。

 

 「赤城郁実の思春期症候群、少しは分かった?」

 

 「……まあ、多少は」

 

 即答しない俺を見て、双葉は目を細める。

 

 「半分本当で、半分嘘っぽいね」

 

 「やっぱり、隠し切れないか」

 

 「岸和田は分かりやすすぎるから」

 

 図星だった。

 

 双葉は少し考えるように歩調を緩めてから言う。

 

 「答え合わせ、したいでしょ?」

 

 「……ああ」

 

 「私、明後日、梓川がファミレスのシフト終わったあと、会うんだよ」

 

 胸の奥で、点が線になる。

 

 「そのとき、一緒に答え合わせでもする?」

 

 「俺も、その日、咲太に会うつもりだった」

 

 双葉は、満足そうに頷いた。

 

 「じゃあ、ちょうどいいね」

 

 夜風が、二人の間を抜けていく。

 

 十一月二十七日へ向かって、それぞれが、それぞれの場所から、静かに歩き始めている。

 

 (……逃げ場は、もうないな)

 

 そう思いながら、俺はギプスの重さを確かめるように、右腕を少しだけ引き寄せた。

 

 痛みはある。

 

 でも、それを理由に立ち止まる気は、もうなかった。

 

 十一月二十七日

 

 咲太は古賀と同じシフトに入っていて、古賀は咲太からもらったシュークリームを頬張っていた。

 

 「でさ、先輩が言ってた #夢見る の話なんだけど」

 

 口の中のクリームを飲み込んでから、朋絵はスマホを取り出す。

 

 「先輩に言われて思い出したんだけど……」

 

 「なにを?」

 

 「昨日、気になる書き込みを見つけて……うちの高校のことだったから」

 

 言いながら、視線をスマホに戻した朋絵は、Xの画面をスクロールさせる。

 

 「あった。これだ」

 

 再び顔を上げると、見つけた書き込みを咲太に見せてきた。

 

 {十一月二十七日、教室の蛍光灯割って、ケガする夢見た。いたたぁ〜。峰ヶ原高校の二年一組だったから、部活終わりの着替え中だな。バスケットボールで遊ぶの禁止にするべ.……#夢見る}

 

 確かに、これが本当なら気になる。

 

 ただ、書き込みが偽物だとわかっている咲太は、まったく気にならなかった。

 

 書いたのは咲太なのだ。新しいアカウントをわざわざ作って……

 

 「大丈夫だろ、別に」

 

 「なんで?」

 

 「正義の味方がなんとかしてくれる」

 

 赤城なら必ずやってくる。そういうエサを咲太は撒いた。

 

 「先輩、なに言ってんの?」

 

 呆れた朋絵の目は、「頭、大丈夫?」と語っていた。

 

 「おはようございます」と、花楓が休憩室にやってきた。

 

 「花楓ちゃん、おはよう」

 

 「おはようございます。朋絵さん」

 

 笑顔で挨拶したあとで、真顔に戻った花楓が咲太を見てくる。

 

 「お兄ちゃん、外で理央さんと蓮真さん待ってたよ?」

 

 「時間ぴったりだな、あいつら」

 

 休憩スペースに置かれた時計は、午後三時二十分を示している。

 

 「じゃあ、お先」

 

 「あ、うん、先輩、お疲れ。花楓ちゃん、シュークリームあるよ」

 

 「やった。いただきます」

 

 「あたしも、もう一個食べようかな」

 

 そんなやり取りを背中で聞きながら、咲太は休憩室を後にした。

 

 花楓が言った通り、ファミレスの外には双葉理央と岸和田蓮真が待っていた。

 

 街灯の下。寒さをやり過ごすみたいに、二人ともポケットに手を入れている。

 

 「お待たせ。わざわざ悪い」

 

 「塾のバイトで、どうせ出てくる予定だったし」

 

 言いながら、双葉は早速歩き出す。

 

 その隣に俺と咲太も並んだ。

 

 「まず、赤城郁実の思春期症候群に関してだけど……梓川と岸和田が考えている通りで、間違いない気がするね。その可能性が一番高いと思う」

 

 「信じがたい話だけどな」

 

 「だよな」

 

 俺も咲太も、自分たちの結論をどこかで疑っていた。

 

 「私が同じ立場だったら、彼女と同じようにはできないと思う」

 

 「同感だな」

 

 双葉の声は、淡々としていた。

 

 「大学の入学式の時点で発症して、それを今日まで……約八ヶ月、意図的に維持してる」

 

 「……同感だ」

 

 その事実が、どうにも現実味を欠いている。

 

 だが、双葉が同じ結論に立っていると知ったことで、咲太はようやく腹を括れた気がした。

 

 俺も同じだった。

 

 実は咲太が来る前、俺は双葉に話していた。

 

 赤城は、可能性の世界から来たんじゃないかということ。

 

 その起点は、おそらく大学の入学式の日だということ。

 

 そして、入学式の一週間後、彼女が俺に話しかけてきたそのズレが、どうしても気になっていたこと。

 

 ——大学の入学式から、一週間ほど経った頃だった。

 

 中庭の前で、背後から声をかけられた。

 

 やっぱり、岸和田くんだよね?

 

 振り向いた瞬間、胸の奥が、ひくりと揺れた。

 

 名前を呼ばれる前から、誰なのか分かっていた気がする。

 

 赤城郁実だった。

 

 彼女は、あの時、ほんの少しだけ笑った。

 

 それは久しぶりに見るはずの笑顔なのに、どこか久しぶりじゃない感触が混じっていた。

 

 まるで、再会ではなく、続きを始めるみたいな。

 

 彼女は俺の顔を見て、それから一拍置いて言った。

 

 「あれ。メガネ、つけてないんだね?」

 

 懐かしむというより、記憶の中の像と、目の前の現実を重ね合わせるような声だった。

 

 俺は軽く首を傾げて、答えた。

 

 「高校に上がるとき、コンタクトにしたんだ」と。

 

 「そう……なんだ」

 

 その一言のあとに、微妙な間があった。

 

 驚きでも、納得でもない。確認している、という間。

 

 そして彼女は、少しだけ視線を逸らしてから、続けた。

 

 「岸和田くんは、高校、どこに進学したんだっけ?」

 

 探るような目だった。

 

 俺は一瞬だけ迷ってから、答えた。

 

 湘南にある、峰ヶ原高校だと。

 

 その瞬間。

 

 赤城の瞳が、ほんの僅かに揺れた。

 

 それは初めて聞いた人の反応じゃなかった。

 

 知っていることを、もう一度なぞった時の揺れだった。

 

 あの時は、気づかなかった。

 

 でも今なら、はっきり分かる。

 

 赤城は、あの時点ですでに、この世界の岸和田蓮真と、別の岸和田蓮真を見比べていた。

 

 だからこそ、あんな聞き方をした。

 

 だからこそ、あんな間があった。

 

 そして俺は、今になってようやく、その違和感の正体に辿り着いた。

 

 双葉が同意してくれたことで、俺も咲太も、自分の考えを信じる気になれた。

 

 「んで、『まず』ってことは、他にもあるのか?」

 

 双葉は、さっき確かにそう言った。

 

 俺たちとしては、ここまでの話で、もう十分すぎるほど要件は満たしている。

 

 「前、見てて」

 

 咲太の返事を待たずに、双葉はスマホを取り出した。

 

 「はいはい」

 

 双葉の指が、慣れた動きで画面の上を走る。

 

 前から来る歩行者とぶつからないように、俺はそれとなく双葉を半歩だけ内側に誘導しながら歩いた。

 

 三十秒ほどして、

 

 「これ」と、双葉がスマホの画面をこちらに向ける。

 

 表示されていたのは、Xの投稿。

 

 まず目に飛び込んできたのは、#夢見る の文字だった。

 

 日付は今日。十一月二十七日。

 

 しかも、投稿されたのは、月のはじめ。

 

 {十一月二十七日、中学の同窓会に行ってた。これがマジだったらビビる。#夢見る}

 

 「……これだけじゃない」

 

 双葉はスマホを引き戻し、次々と画面を切り替えていく。

 

 {十一月二十七日、日曜日。海辺の店で同窓会。それも中学の?でも、みんな楽しそうだったんだよな。すげえ意外。正夢になるかな。#夢見る}

 

 {十一月二十七日。今日の夢、同窓会かな?大さん橋が見える店。なんか、みんなリアルに成長してて、これってホントになったりして。そんなわけないか。#夢見る}

 

 {十一月二十七日だよね、たぶん。わー、中学の同窓会やるって聞いてすぐ夢に出たよお。店、招待状の場所だったし。ほんとかも。でも、あのクラスはちょっとなあ。でも、楽しそうだったなあ。でも、どうしようかなあ。#夢見る}

 

 日付は、すべて一致している。

 

 書き込んでいるアカウントのプロフィールをざっと見ても、年齢層は俺たちとほぼ同じ。

 

 大学名や住んでいるエリアを匂わせる文言もあって、場所もだいたい近い。

 

 もちろん、神奈川県内を探せば、今日、同窓会が行われている学校やクラスなんて、いくらでもあるだろう。

 

 ただの偶然。考えすぎ。

 

 そう思うこともできる。

 

 ……できるはずなのに。

 

 「これって、梓川に関係してない?」

 

 双葉が、あくまで冷静に言った。

 

 「してるんだろうな」

 

 咲太はそう答えて、リュックのポケットから、はがきサイズの紙を取り出した。

 

 今日行われる同窓会の案内。

 

 時間は午後四時から六時まで。

 

 場所は横浜のベイエリア。大さん橋が見える店。

 

 SNSに書かれていた内容と、ほぼ一致している。

 

 「赤城郁実も、同窓会の夢を見たんでしょ?」

 

 「正確には、傷害事件を起こすってやつな」

 

 教えてくれたのは、元彼氏の高坂さんだった。

 

 実際、赤城のものだというアカウントには、そう書かれていた。

 

 「これだけ #夢見る が集中してるのは、偶然?」

 

 「それは、僕が聞きたい」

 

 咲太は肩をすくめる。

 

 「まあ、梓川はもう手を打ってるみたいだから、そこまで心配はしてないけど」

 

 双葉が、ふいに足を止めた。

 

 塾が入っているビルの前だった。

 

 「……けど?」

 

 「一応、気をつけなよ」

 

 「何を?」

 

 双葉は少しだけ考えてから、淡々と言った。

 

 「刺されるのは、梓川かもしれないし」

 

 「……」

 

 その可能性を、俺たちはあまり真剣に考えていなかった。

 

 双葉はビルの入口に向かいながら、立ち止まらずに続ける。

 

 「岸和田も、気をつけなよ」

 

 「俺も?」

 

 「行きはしないだろうけど」

 

 前提を置いた上で、最後に付け足す。

 

 「それと、ちゃんと、赤城郁実のこと、忘れてあげなよ」

 

 言い捨てるでもなく、忠告というほど重くもなく。

 

 でも、妙に胸に残る言い方だった。

 

 双葉はそのままビルの中に消えていった。

 

 「………」

 

 沈黙が一拍、落ちる。

 

 「……腹に、雑誌でも入れといた方がいいかな」

 

 咲太が、ぼそっと言った。

 

 視線の先には、コンビニの雑誌コーナー。

 

 麻衣先輩が表紙を飾ったファッション誌と、スイートバレットが満面の笑みを浮かべる少年誌が並んでいる。

 

 「岸和田も、腹に雑誌入れるか?」

 

 「入れねぇよ」

 

 即答だった。

 

 「だよな」

 

 咲太は苦笑して、歩き出す。

 

 忘れてあげなよ。

 

 双葉の言葉が、遅れて胸の奥に沈んでくる。

 

 忘れることが、優しさになる相手もいる。

 

 でも、見届けることを選んだ以上、俺はまだ、その段階には行けない。

 

 この後、俺と咲太は並んで峰ヶ原高校へ向かうため、藤沢駅に向かった。

 

 久しぶりに乗る江ノ電は、素直に懐かしくて、同時に、どこかよそよそしい感触を俺たちの間に運んでくる。

 

 高校時代は、毎日のように使っていた電車。

 

 当たり前だった、車内のゆるい空気。

 

 民家の隙間を縫うように走る、見慣れたはずの車窓。

 

 車輪とレール、連結部が軋むあの走行音は、今聞くとやけにレトロだ。

 

 全部、かつては日常の一部だったもの。

 

 今は、そうじゃなくなったもの。

 

 江ノ島駅を出て、路面区間に差し掛かると、自然と視線が窓に張り付く。

 

 腰越駅を過ぎてからも、民家の石垣や植木が、ぶつかりそうな距離で流れていくのを、ずっと見ていた。

 

 手を伸ばせば届きそうなほど近いのに、決して触れられない距離。

 

 そのうち本当にぶつかるんじゃないかと、根拠もなく不安になった頃、線路は国道134号線に合流する。

 

 視界が一気に開けて、車窓は青に染まった。

 

 西へ傾く太陽を浴びた海が、きらきらと光っている。

 

 透き通った空は、青く、白く、どこまでも広がっていた。

 

 その中央に引かれた水平線は、まるで発光しているみたいだった。

 

 高校時代は、毎日眺めていた景色。

 

 日常の中に溶け込んでいた風景。

 

 それでも、ここは特別な通学路だった。

 

 俺はタブレットを開いて、記録を残す。

 

 > 観察メモ:十一月二十七日 赤城郁実が、可能性世界の自己像(記憶/人格断片)との過剰同期を契機とした思春期症候群を発症中。現実の情報と別の現実の整合を優先することで、当人の現在の感情判断が遅延・分離する傾向。梓川咲太の接触時のみ、同期の焦点が「答え合わせ」から「今ここ」へ一時的に移り、揺らぎが顕在化する。

 

 > 仮説:梓川咲太が発症条件の鍵である可能性大。峰ヶ原高校にて、赤城郁実と梓川咲太の再同期を観察。

 

 打ち込み終えたところで、隣から声が飛んできた。

 

 「そういえば岸和田」

 

 「ん?」

 

 「最近、あんまり記録してないよな」

 

 言われて、少し考える。

 

 「……そうか?」

 

 「前は、気づくと何か書いてたのに」

 

 俺は、窓の外を見たまま、何でもないことみたいに言う。

 

 「もしかしたらさ」

 

 間を置いて、続けた。

 

 「お前みたいに、走れるようになったからじゃないか?」

 

 「走れる?」

 

 「観察する側じゃなくて、ちゃんと中に入って」

 

 咲太は、鼻で小さく笑った。

 

 「要するに、暇じゃなくなったってことか?」

 

 「まあ、そんなとこ」

 

 否定はできなかった。

 

 しばらく電車の揺れに身を任せてから、ふと思い出して聞く。

 

 「なあ、咲太」

 

 「ん?」

 

 「可能性の世界では、俺ってどんな感じだったんだ?」

 

 咲太は一瞬だけ考えてから答えた。

 

 「僕が可能性の世界に行ったとき、お前、留学の手続きで学校休んでたらしい」

 

 「……会えてないのか」

 

 「ああ。だから直接は会ってない」

 

 「向こうの俺、優秀だな」

 

 「優等生が言うとウザいな」

 

 即座に返されて、苦笑する。

 

 「まあでも」

 

 咲太は続けた。

 

 「スマホでは、よくやり取りしてたっぽいぞ」

 

 「へえ」

 

 「それに、向こうの世界の双葉が言ってた」

 

 少しだけ声色を変えて、咲太は言葉をなぞる。

 

 「『桜島先輩や私の思春期症候群も、一緒になって解決してくれたよ?』」

 

 「……」

 

 「『梓川と岸和田は、いつも“二人で”動いてた。少なくとも、私から見たらそうだった』ってな」

 

 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で、何かが静かに噛み合った。

 

 だから、赤城は。

 

 咲太の隣じゃなくて。自分の隣に、俺を置きたかったんじゃないか。

 

 その可能性が、はっきり形を持って浮かび上がる。

 

 でも、その答え合わせは、このあと三人でやればいい。

 

 今は、まだ口にしない。

 

 「向こうの世界で、そんなにやり取りしてたならさ」

 

 俺は、少しだけ軽い調子で言った。

 

 「お前がスマホ持つようになったら、俺たちのやり取りも増えるかもな」

 

 咲太は、即答した。

 

 「スマホ買ったら、一番に連絡するのは麻衣さんだな」

 

 「……お前らしい」

 

 そう言うと、咲太は小さく笑った。

 

 江ノ電は、変わらない速度で走り続ける。

 

 過去と現在を、同じ線路の上で繋ぎながら。

 

 そして俺たちは、もうすぐ峰ヶ原高校に着く。

 

 答え合わせの場所へ。

 

 七里ヶ浜駅の小さなホームに降りると、空っぽの世界に放り出されたかのように、駅は静かだった。

 

 それなりに混雑していた江ノ電の車内とは対照的に、乗り降りする人が殆どいない。そういう時間帯なのだろう。

 

 けれど、そこに寂しさはない。むしろ、その逆で、降りた瞬間に、潮の香りが全身をあたたかく包み込んだ。

 

 鼻から呼び起こされた記憶は、体中の血管を駆け巡って、懐かしさを全身に伝えていく。あの頃の記憶を細胞レベルで思い出していた。

 

 改札にSuicaをかざして駅を出る。

 

 歩き出すとすぐに、小さな橋の先に思い出の校舎が見えた。

 

 去年までの三年間、俺たちが通っていた峰ヶ原高校。

 

 一緒に電車を降りた他の人たちは、海の方へと緩やかな坂を下っていく。

 

 俺たちだけが反対に進んで、遮断機が上がったままの踏切を渡った。

 

 その先にあるのは、峰ヶ原高校の校門だ。

 

 半分だけ開いたその門の中に、俺たちはひとつ大きく息を吐き出してから足を踏み入れた。

 

 在校生のときには感じることのなかった独特の緊張感がある。

 

 卒業生とは言え、今はもう部外者なのだ。

 

 それに、校内を私服で歩くのも、妙な気分だった。

 

 ただ、幸いなことに、日曜日の今日は校内に生徒の気配はない。部活動で登校している生徒もいるにはいるのだろうが、俺たちは誰にも会わずに校舎にたどり着いた。

 

 最初に、寄ったのは事務室。

 

 遠くの体育館から響いてくるバスケットボールの音を背中で聞きながら、咲太が「すみません」とガラス戸を軽くノックした。

 

 すると、事務のおばさんが奥から顔を出す。

 

 「連絡くれた卒業生の方ね」

 

 「はい、梓川咲太です」

 

 「岸和田蓮真です」

 

 「じゃあ、ここに名前をお願いします」

 

 出されたノートに名前を書こうとすると、ひとつ上の欄に知った名前が見えた。

 

 赤城郁実。

 

 横に記された入館時刻は三時四十分。十五分ほど前。日付は今日だ。

 

 「ああ、それ?大学のレポートか何かの資料として、校内を見学したいという学生さんがひとりいらしているの」

 

 「そうですか」

 

 適当に返事をしておく。咲太も似たような理由をでっちあげて、今日は校内を見学する約束を取り付けていた。

 

 右手を使えない俺の代わりに、咲太がノートに名前を綴る。

 

 「個人を特定するような写真の撮影は控えてくださいね。お願いします」

 

 「はい」

 

 「校内では、これを首から下げてください」

 

 差し出されたのは、紐で吊るされた、来賓と書かれたカード。

 

 「終わったら、ここに戻しに来てください」

 

 「わかりました」

 

 言われた通り、来賓カードを首から下げる。

 

 「たぶん、一時間もかからないので」

 

 事務のおばさんにそう告げてから、俺たちは校舎の中に歩き出した。休日の校内には、不思議と懐かしさはなかった。

 

 人がいない静けさの方が勝ってしまい、思い出に浸る雰囲気になっていないせいだろうか。

 

 聞こえているのは、階段を上がるスリッパの足音だけ。

 

 それを一段ずつ確かめているうちに、俺たちは二階に上がっていた。

 

 真っ直ぐに伸びた廊下。視界を遮るものは何もない。

 

 誰もいない。二年一組から九組までの白いプレートが天井の近くに飛び出しているだけだ。

 

 何も変わっていない。卒業して一年足らずで、変わるわけがない。

 

 だけど、もうここは自分の居場所ではないのだと、俺たちの体は理解しているようだった。

 

 なんとも居心地が悪いのだ。きちんと許可を取っているのに、少しだけ悪いことをしているような気分が胸のあたりをもやもやさせる。

 

 だが、それに構ってもいられない。母校を探索するために、俺たちはここにやってきたわけではないから。

 

 二年の教室は、どこもドアが閉まっていた。

 

 よく見ると、ひとつだけ開いている。

 

 二年一組の後ろのドア。

 

 当時、俺たちが在籍していたクラス。

 

 一年間使っていた思い出の教室。

 

 開いたままのドアに、一歩ずつ近づいていく。その中に、躊躇うことなく足を踏み入れた。

 

 「………」

 

 入ってすぐに俺たちの足が止まったのは、教室には先客がいたから。

 

 窓際に誰か立っている。一番前の席の横。窓から吹き込む風を、高校の教室には不釣り合いな私服姿で浴びている。その後ろ姿を俺たちは知っていた。

 

 赤城郁実だ。

 

 教室に誰か来たことに、彼女はとっくに気づいているはずだった。

 

 それでも赤城は、振り向かない。

 

 俺たちが一歩進むたび、スリッパの間の抜けた音が、やけに大きく教室に響いた。

 

 後ろのドアから、真っ直ぐ。

 

 黒板の前を横切って、海を臨む窓際まで進む。

 

 鍵を外して、窓を開けると、潮の匂いを含んだ少し冷たい風が頬を撫でた。

 

 その感触が、懐かしさを連れてくる。

 

 峰ヶ原の、いつもの風だ。

 

 「……岸和田くんも、いるなんて」

 

 赤城が、ぼそっと呟いた。

 

 独り言みたいで、でも、確かに俺に向けられた言葉だった。

 

 「思わなかった」

 

 振り返らないまま、そう付け足す。

 

 その声に、驚きよりも、諦めに近い温度が混じっているのが分かった。

 

 咲太が、先に口を開いた。

 

 「赤城はずっと後悔してたんだな」

 

 「……」

 

 返事はない。

 

 赤城は、ただ海を見ている。

 

 窓の外に広がる水平線を、まるで答えが書いてあるみたいに。

 

 咲太は、構わず続けた。

 

 「花楓の体に、わけの分からない傷や痣ができて」

 

 「それを先生やクラスのみんなに信じてほしくて、誰かに助けてほしかった、あのときのことを」

 

 言葉が、教室の空気に落ちていく。

 

 結果は、知っている。

 

 誰も信じなかった。

 

 先生も、クラスメイトも。

 

 咲太に向けられたのは、「梓川、やばい」とか、「あいつ頭おかしいんじゃね」とか、そんな言葉と、冷えた視線だけだった。

 

 救いの手は、どこにもなかった。

 

 そして俺は、それを隣のクラスで見ていた。

 

 見ていただけだ。

 

 助けもしなかった。

 

 声を上げることすらしなかった。

 

 その記憶が、今になって喉の奥を苦くする。

 

 俺は、咲太の言葉を引き取るように、続けた。

 

 「赤城はさ」

 

 一拍、置いてから。

 

 「咲太を助けられなかったこと、ずっと後悔してたんだろ」

 

 赤城の肩が、ほんのわずかに揺れた。

 

 それは、否定じゃなかった。

 

 窓の外の海は、相変わらず静かで、何も答えない。

 

 でも、この教室の中で、確かに何かが、動き始めている気がした。

 

 「少し、違う」

 

 それまで黙っていた赤城が視線を送ってくる。

 

 「違うって?」

 

 「私が後悔していたのは、友だちから『郁実、この空気なんとかしてよ』って言われたのに、何もできなかったこと」

 

 「………」

 

 「子供の頃から、落ち着いてるとか、頼りになるとか………親や先生、友達にそう言われてきて、何でもできるつもりでいたのに」

 

 実際、同世代と比べたときに、赤城が落ち着いているのは事実だ。頼りになるのも本当だ。

 

 多分その時までは、そうした周囲からの期待に応えられていた。

 

 求められてできなかったことなど、赤城にはなかったのだろう。できるように努力して、すべてを成し遂げていた。

 

 だが、中学での出来事は、あまりにもイレギュラーだった。

 

 双葉から以前聞いたことがある。

 

 花楓ちゃんのいじめにはじまり、思春期症候群が起こり、花楓ちゃんは解離性障害まで発症したこと。

 

 それを、中学三年生にひとりで解決しろという方がどうかしている。

 

 赤城が背負うべき問題ではそもそもなかった。けれど、赤城はそれを言い訳にはしない。

 

 「結局、私は……あのときに転んだまま、どうすればいいかわからなくなっていただけなんだと思う。起き上がることもできずに」

 

 この真面目さが、思春期症候群を引き起こす要因になったのは間違いないだろう。

 

 真っ直くで、頑なで、でも繊細で。

 

 それでも自分を律する厳しさが赤城にはある。それが赤城郁実らしさにもなっている。

 

 「今日は、こんな思い出話をするために、私をここに誘い出したの?」

 

 赤城が言う。

 

 「嘘の書き込みまでして」

 

 「ケガ人が出なくてよかったろ?」

 

 「そうだね。でも、これを最後にしてよ?」

 

 そして、少し間を置く。

 

 「……岸和田くんにも、同じこと、この間やられたから」

 

 その言い方は、責めるというより、呆れに近かった。

 

 「嘘を混ぜて、反応を見るの」

 

 ちらりと、俺の方を見る。

 

 責める目じゃない。でも、見抜いている目だった。

 

 「二人して、そういうところ似てるんだね」

 

 そう言って、赤城は小さく息を吐いた。

 

 「正直、あんまり気分はよくないから」

 

 「同窓会にも行きそびれたし」

 

 それきり、赤城はまた海に視線を戻した。

 

 教室の時計は午後四時になった。同窓会の開始時刻。幹事が乾杯の挨拶をはじめた頃だろう

か。

 

 「彼氏持ちの女子がマウント取ってくるから、行かないんじゃなかったのか?」

 

 「一応、クラス委員の役目は果たそうと思ってた」

 

 「今、この状況もある意味、同窓会だろ?思い出の教室にいるんだし」

 

 「梓川くんにとってはね」

 

 少し呆れた声で、赤城は吐き捨てる。

 

 その顔は「私は関係ない」と、迷惑そうに笑っていた。

 

 けれど、それは違う。違うことを俺たちは知っている。もう気づいてしまった。

 

 だから、その話をするために、俺たちはあえてこの教室を選んだのだ。

 

 「赤城にとってもだろ?」

 

 「………」

 

 俺の何気ない一言に、赤城の瞳が揺れた。

 

 考え込むような横顔。俺たちの意図を探る、不安を含んだ視線。

 

 何かを言いかけて、わずかに開いた唇。けれど結局、言葉は零れ落ちない。

 

 余計なことを口にすれば、こちらの思う壺だと、警戒しているのだろう。

 

 実際、俺は彼女の言葉を引き出すつもりで、あの一言を投げた。

 

 だが、誘導に乗らないのなら、やることはひとつしかない。

 

 構わず、核心を突く。言うのはタダだ。

 

 ……もっとも、その役目は俺じゃない。

 

 ここから先は、咲太の番だ。

 

 「赤城も、この教室に通ってたんだし。もうひとつの可能性の世界では」

 

 「………」

 

 赤城からの返事はない。自然な瞬きを繰り返しながら、目の前に広がる海を見ているだけ。

 

 特に驚いた様子はなかった。その代わり、咲太の発言を笑い飛ばしたりもしない。

 

 やがて、ゆっくり息を吸い込むと、「この風、懐かしい」誰にともなく呟いた。

 

 海からの風で、赤城の髪がなびく。それを手で押さえながら、「潮の香りも、水平線も……」と、続ける。

 

 同じように、俺たちも海を見た。横目に赤城の存在を感じながら。

 

 「全部、あの頃のままなのに、もう懐かしい」

 

 「どうしてわかったの?」

 

 夕日を浴びた赤城の声を風が運ぶ。

 

 「なんか引っ掛かったのは、入学式のときかな」

 

 「………」

 

 「赤城、わざわざ僕に話しかけてきたくせに、そのあとは全然だったろ?」

 

 「ま、最近までは、そのことも殆ど気にしてなかったんだけど」

 

 「じゃあ、ハロウィンのあとから?」

 

 「そうなるな。あれ以降、違和感が目についてさ」

 

 「たとえば?」

 

 「上里と仲いいとか」

 

 「高校は、二、三年が同じクラスだったから」

 

 もうひとつの世界での話だ。こちらの世界では、赤城はそもそも峰ヶ原高校に通っていない。同じクラスになれるはずがない。

 

 「初対面で『沙希』って声をかけて、怪訝な顔をされたのが、こっちに来て最初の失敗。友だちに似ててってごまかしたけど。それから、よく話をするようになって」

 

 「赤城に彼氏がいたって話もな。嘘だと思ったのに、本当にいるから」

 

 「こっちの沙希にも言われた。『郁実は岸和田くんは除くとして男っ気なさすぎて心配』って」

 

 「あとはポルターガイストだな」

 

 「………」

 

 「普通、ビビるだろ、あんなの」

 

 それなのに、赤城は平然と受け入れていた。

 

 怯えている様子はなかった。

 

 それは、害がないとわかっていたからだ。

 

 「あれって、向こうの世界に行ったこっちの世界の赤城の感覚が、流れてきてるんだよな?」

 

 本来、それらはこちら側の世界にあるべきものなのだ。だから、赤城の体を通して、こちら側の世界に感覚が発現した。

 

 「腕の文字も、向こうに行った赤城が書いたものなんだろ?」

 

 そうであるなら、赤城の態度にも納得がいく。

 

 やっているのは自分。別の可能性の世界に存在していたもうひとりの自分。だから、大丈夫と言えた。心配しないでと赤城は笑えた。だっ

て、自分だから。

 

 赤城は、首を横にも縦にも振らない。その代わりに、「ここまでは全部憶測だよね?」と、聞いてきただけ……

 

 「確信したのは、卒業アルバムを見たときだよ」

 

 求められた最後の答えを、咲太は口に出した。

 

 「捨てたって言ってたのに」

 

 「嘘は言ってない。引っ越し業者の人が拾って、父さんに渡してたらしい」

 

 「迷惑な人」

 

 「赤城、言ってたろ?卒業文集に僕がなんて書いたか」

 

 「いつか、やさしさにたどり着きたい」

 

 その言葉を赤城は空に投げかける。

 

 「僕はそんなこと書いてない」

 

 「もうひとつの世界の僕ほど、僕は出来がよくないんだ」

 

 赤城の口元が小さく笑う。その通りだと認めている。

 

 恐らく、ふたつの世界はよく似ているけれど、少しだけ違う点があるのだろう。

 

 赤城にしろ、咲太にしろ。多分俺にしても。

 

 そのわずかな違いが、取り返しのつかない違いになったのだ。

 

 そう思った瞬間、胸の奥で腑に落ちるものがあった。

 

 咲太は、俺よりもずっと深く、赤城郁実という人間を見ている。

 

 上里のことや、ポルターガイストのこと。

 

 きっと双葉と相談しながら、一つひとつ検証してきたんだろう。

 

 そう思うと同時に、俺ははっきり理解していた。

 

 (やっぱり、この問題を解決するのは咲太なんだ)

 

 その確信が、胸の奥に静かに落ちる。

 

 咲太の質問がひと段落したところで、赤城がふいにこちらを見た。

 

 「……岸和田くんも、同じ考えなんでしょ?」

 

 「まあな」

 

 少しだけ肩をすくめて、俺は続ける。

 

 「俺の場合は、入学式のときにメガネのことを聞かれたのと、峰ヶ原の名前を出したときの反応が、やけに意味深だったのが引っかかっててさ」

 

 「……」

 

 「それで、気づいた」

 

 赤城は小さく息を吐いた。

 

 「岸和田くんも、迷惑な人だね」

 

 責めるようでもなく、かといって冗談でもない。そんな微妙な調子だった。

 

 沈黙の中で、咲太が口を開く。

 

 「よく今まで、平気な顔していられたな」

 

 入学式から数えて半年以上……約八カ月もの間、赤城はこちらの世界にいたことになる。今も、居続けている。

 

 「私にとっては、こっちの世界の方が居心地いい」

 

 「僕の出来が悪いから?」

 

 「半分はそう」

 

 「私の卒業文集は読んだ?」

 

 「人の力になれる大人になりたい。そう書いてあった」

 

 「その夢は、向こうの世界では叶わなかった」

 

 「諦めるのは早いだろ」

 

 大学生活はまだまだ序盤。時間はたくさんある。それでも、叶わないと赤城が強く言う。

 

 「出来のいい梓川くんがいるから叶わない」

 

 「………」

 

 「中学のとき、私は何もさせてもらえなかった」

 

 「それって」

 

 「妹さんがいじめに遭っても、梓川くんは、岸和田くんと協力しながら自分で解決した」

 

 そのとき、胸の奥に、ひどく重たい実感が落ちてきた。

 

 (この時間、この出来事のそばには、本当にいつも俺がいたんだな)

 

 可能性の世界でも。そして、この世界でも。

 

 気づけば、咲太の隣には、当たり前みたいに自分が立っていた。

 

 それを選んだつもりはなかったのに、結果として、そうなっていた。

 

 赤城は、海から視線を外さないまま、続ける。

 

 「高校に入ってからもそう。桜島先輩を助けて、古賀さんを助けて、双葉さんの助けになって……私が力になりたかった問題を、梓川くんは岸和田くんと一緒に、全部解決していった」

 

 「………」

 

 「私がなりたかった『何か』になっていたのは、私じゃなくて梓川くん」

 

 俺は、その話を聞きながら、思う。

 

 これは嫉妬じゃない。敗北感でもない。

 

 居場所を失った人間の、正確すぎる自己分析だ。

 

 そして、この問題を終わらせる言葉を持っているのは、やっぱり咲太だけだ。

 

 赤城は言葉を選んでいるようで、実は選んでいない。

 

 胸の底に沈んでいた感情を、そのまま掬い上げた声音だ。

 

 「……私は、そんな梓川くんのそばにすら、いられなかった」

 

 そこで、ほんの一瞬だけ、赤城の視線がこちらに向く。

 

 「……岸和田くんが、いたから」

 

 責める調子じゃない。

 

 けれど、否定もできない事実として、そう告げられた。

 

 「高校三年間を使っても、私は何にもなれなかった。梓川くんと岸和田くんを、羨んでいただけ……」

 

 「………」

 

 「大学受験にも失敗して、何かどころか、大学生にもなれなかった。何もかもが上手くいかなかった。だから、毎日思ってた。ここじゃないどこかに逃げたいって……」

 

 「そしたら、こっちの世界に来てたのか?」

 

 ゆっくりと赤城が頷く。

 

 「気付いたら、大学の並木道にいて……その中に、梓川くんを見つけた」

 

 「夢を見ているんだと思った」

 

 「まあ、そうだよな」

 

 咲太もそう思った。

 

 「でも、違った。そう思えたのは、向こうの世界で、一度会ってたから」

 

 赤城の眼差しが真っ直ぐに咲太を捉える。

 

 「………」

 

 「二年の冬、『こっち』に来たよね?」

 

 「よくわかったな」

 

 「いつも、見てたから」

 

 その言葉に甘酸っぱさはかけらもない。どこか厳しそうなだけ。

 

 「翌日、あの日に話したことを、梓川くんは覚えてなかったし。何か変だなってずっと思ってた」

 

 赤城自身がこの世界に来ることで、その疑問は解消されたことになる。

 

 納得する気持ちとともに、もうひとつの可能性の世界の存在を、赤城が認める切っ掛けになってしまったのだろう。

 

 それは結果として、思春期症候群を信じることにも繋がったのかもしれない。

 

 「悪いことしたな。あれは全面的に僕のせいなんだ。向こうの僕は悪くない」

 

 「ううん、むしろ、感謝してる。梓川くんのおかげで、私はこの世界に来られたのかもしれないし」

 

 そこに因果関係があるのかは、正直わからない。

 

 だが、咲太が行き来をしたことで、それが道になってしまったのかもしれないと考えることはできる。

 

 「……帰りたいとは思わなかったのか?」

 

 「思わなかったし、今も思ってない」

 

 即答だった。

 

 「………」

 

 「ここでは、私は通いたかった大学の『大学生』で、ボランティア団体の『代表』で、それに『正義の味方』」

 

 言葉を区切るたびに、肩の力がわずかに抜けていく。

 

 そして、最後に付け足すみたいに、でも、いちばん大事なことみたいに続けた。

 

 「……そして、私のそばに岸和田くんがいてくれた」

 

 俺はその話を聞いて、自分が立っている場所を初めて意識した。

 

 (それは、俺が望んだ役割じゃないんだけどな)

 

 「この世界で、私はなりたかった自分になれた」

 

 だから赤城は帰りたくない。帰る必要がない。

 

 時々、起こるポルターガイスト現象くらい、大した問題ではない。

 

 そう強く思えるほどに、赤城はこの世界で充実した日々を送っていた。向こうの世界ではなれなかった理想の自分を手に入れたんだろう。

 

 赤城の言動は筋が通っている。

 

 けれど、咲太に対してだけは辻褄が合っていない。

 

 一貫性を欠いている。今、この瞬間も。

 

 「だったら、どうして僕に勝負を吹っ掛けてきたんだよ」

 

 充実した今を守りたいのなら、咲太を遠ざけておけばよかったはずだ。赤城の嘘に気づく人物がいるとすれば、咲太の他にはいない。

 

 半年一緒にいた俺ですら気づかなかったのだから。

 

 でも、そんなこんな簡単なことを、赤城がわからないはずない。

 

 「この世界でなら、梓川くんに勝てると思ったから」

 

 「じゃあ、どうして、その勝負に負けたのに、赤城は今ほっとしているんだ?」

 

 ゆっくり言葉を吐き出しながら、咲太は赤城を真っ直ぐに見つめた。

 

 穏やかな顔をした赤城を……

 

 「それは……」

 

 赤城の言葉はすぐに途切れる。嘘が下手だから、嘘が出てこない。

 

 「………」

 

 しばらく待っても、赤城の言葉は続かなかった。

 

 「本当は、誰かに気づいてほしかったんだろ?」

 

 「………」

 

 咲太の問いかけを、赤城は目を逸らさずに受け止めていた。

 

 「ここにいるのが、本当の赤城郁実じゃないって」

 

 「……なんで、そう思うの?」

 

 か細い声を風が運んでくる。

 

 今日、ここで聞いた赤城の言葉は、すべて彼女の本心だろう。

 

 この世界は、居心地がよかった。

 

 この世界では、なりたい自分になれていた。

 

 満たされた日々を送っていた。

 

 だから、ずっといたい。

 

 嘘はひとつも混ざっていない。

 

 相手が赤城でなければ、話はここで終わりだったろう。

 

 だけど、残念ながら彼女は赤城郁実なのだ。

 

 卒業文集に、「人の力になれる大人になりたいです」と、綴り、掲げた目標を達成するために邁進してきた赤城郁実なのだ。

 

 「逃げた自分を許せるほど、赤城は自分に甘くないんだよ」

 

 だから、ずるをした自分を誰かに見つけてほしかったに違いない。

 

 充実した日々を過ごしながらも、常に罪の意識が働いていたのだと思う。

 

 このままではいけないと、心のどこかでずっと思っていたはずだ。

 

 なりたい自分に近づけば近づくほど、毎日が充実すればするほど……赤城の中で、罪悪感は膨らんでいったのではないだろうか。

 

 馬鹿が付くほどに正直で、そうしか生きられない生真面目。

 

 それが、赤城郁実という人間なのだから。

 

 「まあ、そういうわけだから……赤城、見っけってとこか?」

 

 咲太が話している間、赤城は視線を逸らさなかった。今もじっと咲太を見ている。

 

 その瞳はいつの間にか潤んでいて、瞬きのタイミングで涙の雫がぼたっと落ちた。 

 

 「子供の頃から、かくれんぼは得意だったんだけどな」

 

 涙に濡れた声が掠れる。

 

 「でも、ずっとこのままでいられるなんて、思ってなかった……」

 

 「誰も気づかなくて、気づいてくれなくて……」

 

 赤城の声は、震えていた。

 

 「自分の存在が、よくわからなくなってた。みんなが見ている私は、本当の赤城郁実じゃないのに」

 

 「みんなは、私を赤城郁実だと思ってる。違うのに……私が赤城郁実でいいことになっている」

 

 言葉を吐き出すたびに、赤城の肩が小さく上下する。

 

 それでも、彼女は途中で止まらなかった。

 

 「……でもね」

 

 そこで、赤城の視線が、ふいにこちらへ向いた。

 

 咲太ではなく、俺の方へ。

 

 「気づいてくれなくていい人も、いた」

 

 俺は、何も言えずに立ち尽くす。

 

 赤城は、困ったみたいに、でもどこか優しく笑った。

 

 「岸和田くんには、気づいてほしくなかった」

 

 「……」

 

 「だって、気づいたら……岸和田くんは、遠くに行っちゃうから」

 

 責める調子じゃない。懇願でもない。

 

 ただ、そう思っていた事実を、そのまま差し出すような言い方だった。

 

 胸の奥が、きゅっと縮む。

 

 俺は一瞬、言葉を探してから、正直に口を開いた。

 

 「……ごめん」

 

 赤城が、わずかに目を見開く。

 

 「気づいちゃって」

 

 それだけ言うと、俺は視線を逸らした。

 

 本当は、謝る資格なんてないのかもしれない。

 

 気づいたこと自体が、赤城にとっては裏切りだったのだから。

 

 それでも。

 

 「でもさ」

 

 続けていいのか迷いながら、それでも言った。

 

 「気づかないふりをするのは……俺には、できなかった」

 

 赤城は何も言わなかった。

 

 ただ、ぽろりと、もう一粒、涙を落とした。

 

 「……だから、咲太に勝負を仕掛けたんだろ」

 

 赤城は、ゆっくり頷いた。

 

 もう、隠れる必要がなくなった人の頷きだった。

 

 「赤城は、何でもひとりで抱え込む、欲張りなやつなんだよ」

 

 咲太は瞳に海を映しながらそう告げた。

 

 「………」

 「笑っちゃうくらい真面目で、ナースのコスプレがよく似合う」

 

 「それが赤城だ」

 

 窓の外では、夕日が沈んでいく。江の島の向こう側に消えていく。

 

 「なにそれ……」

 

  赤城が少し呆れたように笑う。

 

 「数年後には、コスプレじゃなくなるのに?」

 「そのときは、『ナース服がよく似合う』に認識を改めるよ」

 

 夕日に照らされた赤城の横顔に、涙はもう見えなかった。

 

 事務室に寄ってから外に出ると、空はすっかり夜の顔をしていた。

 

 校門に向かう俺たちの足音の隣には、赤城の足音も並んでいる。

 

 「あの日も、こんな風に歩いたね」

 

 前を向いたまま、赤城がぽつりともらす。

 

 赤城が言う「あの日」とは、咲太がもうひとつの可能性の世界に行った日のことだろう。

 

 今、ここにいるが赤城と会った日のこと。

 

 「何を話したか、覚えてる?」

 

 「日直の日誌を、ちゃんと出せって怒られた」

 

 「あれは、注意」

 

 「結構、こわかったけどな」

 

 「……でも、よく覚えてたね。私のこと」

 

 「思い出したんだよ。あの日に会って。そう言えば、中三のクラスにいたような気がするって」

 

 「そのせいで、赤城は印象的だったんだろうな」

 

 「あのとき、僕に何か言いかけたよな?」

 

 「そのあと、私がなんて言ったのかは忘れてるみたい」

 

 「『………なんでもない。忘れて』だろ?」

 

 「続きの言葉、向こうの僕には言ったのか?」

 

 「あの日、私が最後まで言ってたら、梓川くんはどうした?」

 

 困った顔をした赤城が、質問を咲太に返してくる。

 

 「とりあえず、浮かれたよ、たぶん」

 

 「……あんな素敵な恋人がいるのに?」

 

 「好きって言われて迷惑するほど、僕はモテないんだよ」

 

 「梓川くんって、聞いてることに真っ直ぐ答えないよね」

 

 「赤城もな」

 

 「振られるのがわかってるのに、告白する意味はある?」

 

 咲太の言葉に軽く笑ったあとで、赤城はまた聞いてきた。

 

 「僕は昔、言いたいことを言えないまま会えなくなった人がいた。追いかけたけど、見つからなくて……そのときは、もっと早く言っておけばよかったって思ったよ」

 

 「だから、言った方がいいって話?」

 

 「僕はそうだったってだけの話」

 

 「……わかった。参考にする」

 

 赤城が、ふいに俺の方を見る。

 

 咲太ではなく、俺。

 

 まるで今から言う言葉の行き先を、先に決めてしまうみたいに。

 

 視線だけで十分だった。

 

 「向こうの僕は出来がいいんだから、何を言ったって大丈夫だろ」

 

 「好きでも、嫌いでも、むかつくでも、目障りでも、言いたいことを言ってやれ」

 

 「こっちの梓川くんにそう言われたって言うよ?」

 

 「どうぞご自由に」

 

 校門を通り抜ける。踏切の前に出た。

 

 すると、俺たちを待っていたかのようなタイミングで、電車の接近を知らせる警告音が鳴り出した。

 

 ゆっくりとカーブを曲がって、鎌倉方面から藤沢行きの電車が走ってくるのが見える。帰るなら、あの電車に乗った方が便利だ。逃せば、次は十数分後。

 

 高校時代からの癖で、咲太は自然と早足になる。反対側に渡り切ったところで、丁度遮断機が下がる。

 

 その時、赤城の指が、俺の服の裾をつまんだ。

 

 引っ張るほど強くはない。指先ひとつぶんの、控えめな力。

 

 でも、それだけで足が止まるには十分だった。

 

 「……岸和田くん」

 

 呼び方が、いつもより近い。

 

 俺は踏切を渡る咲太を一瞬だけ見て、それから目の前の遮断機に視線を戻した。

 

 下りた棒の向こうで、電車のライトが白く膨らんでいく。

 

 もう渡れない。渡らせてもらえない。

 

 いや、渡らない。

 

 赤城がそれを望んでいない。

 

 (……そういうことか)

 

 喉の奥が、ひどく乾く。

 

 赤城が今から何を言おうとしているのか、察してしまう自分がいる。

 

 察してしまった瞬間に、逃げ道は消える。

 

 遮断機のこちら側で、赤城の指が、まだ俺の裾を掴んでいる。

 

 その小さな接触だけが、今の俺をこの場所に縫い止めていた。

 

 「ここで、お別れ」

 

 警告音に負けないように、赤城が咲太に対して声を張る。

 

 「もう、いいのか?」

 

 咲太の声も大きくなる。

 

 「準備できたみたいだから」

 

 何かを成し遂げたかのように、赤城は清々しい顔で笑った。

 

 先ほど、教室でも見せなかった晴れやかな表情。その意味が俺にはわからない。「準備」の意味も、咲太にはわからないだろう。

 

 「どういう……」

 

 咲太が聞き返すよりも先に、「私から伝言」

と言って、赤城は立ったまま前屈するように身をかがめる。

 

 左脚のワイドパンツの裾を掴むと、太ももが全部見える高さまで一気にまくり上げた。

 

 白くて綺麗な脚。

 

 そこに、黒いペンで何か書いてある。

 

 ——同窓会で待ってる

 

 電車が近づいてきて、赤城の声はもう殆ど聞こえない。

 

 「赤城はなにするつもりなんだ!」

 

 叫ぶように咲太は疑問を投げた。けれど、咲太に届けられたのは、「ばいばい」という唇の動きだけだった。

 

 直後、鎌倉方面から走ってきた電車が、踏切に進入する。咲太と赤城の間をゆっくり横切っていく。

 

 二両ずつ型式の違う短い四両編成。

 

 車体が踏切に進入し、金属音と振動が夜気を満たす。

 

 赤城は、そこで初めて俺の方を向いた。

 

 距離は、ゼロ。

 

 裾を掴む必要もないくらい、近い。

 

 電車の騒音の中で、赤城の声は不思議なくらい、はっきり聞こえた。

 

 「ばいばいだね、岸和田蓮真くん」

 

 一拍。

 

 「私、あなたのこと、好きだったよ」

 

 胸の奥が、静かに軋む。

 

 逃げる暇も、考える時間もない。

 

 俺は、ただ正直に口を開いた。

 

 「……ありがとう」

 

 それだけで、十分だった。

 

 それを聞いた赤城は、少しだけ目を細めて微笑んだ。

 

 期待も、未練も、どちらも置いていかない笑顔。

 

 そして……

 

 赤城の輪郭が、ふっと、空気に溶け始める。

 

 電車の光に紛れるように、色が薄れ、質感が失われていく。

 

 立っているのに、影が消える。

 

 風に触れているはずなのに、存在感だけが抜け落ちていく。

 

 「……赤城?」

 

 呼びかけるより早く、赤城の姿は、俺の目の前で完全に掻き消えた。

 

 そこにあったはずの体温も、距離も、痕跡すら残さずに。

 

 俺の隣は、空いていた。

 

 ついさっきまで、確かに誰かが立っていたはずなのに。

 

 (……好きだった、か)

 

 過去形。

 

 それが、赤城郁実の選んだ終わり方だった。

 

 俺は、しばらくその場から動けなかった。

 

 赤城が消えた場所を、ただ見つめたまま。

 

 ついさっきまで、確かに誰かが立っていた場所を、ただ見つめたまま。

 

 ——その瞬間だった。

 

 何の前触れもなく、赤城が消えた、その場所に。小さな女の子が、立っていた。

 

 「……っ」

 

 息を呑む。

 

 さっきまで、赤城がいたはずの場所だ。

 

 そこに、まるで最初からいたみたいに。

 

 四、五歳くらいの女の子が、踏切のこちら側に立っている。

 

 俺は一歩も動けないまま、その姿を凝視した。

 

 赤城とは、明らかに違う。

 

 背は低く、体も小さい。服装も場違いだ。

 

 それなのに、顔立ちだけが、妙に見覚えがあった。

 

 「……?」

 

 どこで見たのか、すぐには思い出せない。

 

 でも、胸の奥がざわつく。

 

 女の子は、俺の存在を気にする様子もなく、ただ踏切の先を見ていた。

 

 まるで、次に渡るべき場所を確認しているみたいに。

 

 警告音が止む。

 

 遮断機が、ゆっくりと上がる。

 

 その音を合図にしたように、女の子は小さく一歩を踏み出した。

 

 線路に足を取られないよう、慎重に。

 

 それでも迷いなく、踏切を渡っていく。

 

 その時、遮断機の向こう側にいた咲太の体は驚きを示した。

 

 咲太の頭の中には新たな疑問が生まれていた。

 

 「………」

 

 二人が立っていた場所に、別の女の子が立っていたのだ。

 

 警告音が止む。遮断機が上がった。

 

 すると、ランドセルを背負った女の子が、線路に足を取られないよう気を付けながら、踏切を渡ってくる。

 

 見覚えのある顔。子役時代の麻衣によく似た女の子。

 

 直感的に、以前、出会った女の子だと咲太は思った。

 

 咲太をもうひとつの可能性の世界に連れて行った女の子だったから。

 

 戸惑う咲太を気にすることなく、麻衣に似た女の子は、小走りになると咲太の横を通り過ぎた。

 

 靡いた長い髪が、咲太の視界の隅を流れていく。

 

 「ちょっと待った!」

 

 慌てて振り返って呼び止める。

 

 「……は?」

 

 けれど、女の子の姿はもうそこにはなかった。

 

 そこには、誰もいなかった。

 

 咲太は一歩、踏切の中央に踏み出しかけて、寸前で足を止める。

 

 警告音はもう鳴っていない。遮断機も上がっている。

 

 それなのに、咲太は戸惑ったまま、その場に立ち尽くしていた。

 

 「……咲太どうした?」

 

 俺がそう聞くと、咲太は視線を外さずに言った。

 

 「……お前には、見えてないのか?」

 

 「なにが」

 

 「……子役時代の麻衣さん、みたいな女の子」 

 

 一瞬、言葉が出なかった。

 

 「………」

 

 「ランドセル背負ってて……五、六年生ぐらいの」

 

 咲太は、自分でも整理しきれていない様子で言葉を継ぐ。

 

 その瞬間、胸の奥が、ひくりと揺れた。

 

 「……見えた」

 

 咲太が、驚いたようにこちらを見る。

 

 「お前にも?」

 

 「いや」

 

 首を振る。

 

 「見えたのは……麻衣先輩じゃない」

 

 少し、言葉を選んでから続けた。

 

 「もっと……小さい。四、五歳くらい」

 

 「……」

 

 「赤城がいた場所にいきなり現れて。俺の方を見たわけでもなくて。ただ、踏切を渡っていった」

 

 「……」

 

 「同じ場所に立ってるはずなのに、俺が見たのは幼い子で、咲太が見たのはランドセルの麻衣先輩だった。ってことか……」

 

 俺たちは、何かを考え込むように黙り込んだ。

 

 やがて、短く息を吐く。

 

 「……やっぱり、延長戦か」

 

 「みたいだな」

 

 警告音は完全に止み、踏切は日常の顔を取り戻している。

 

 ——同窓会で待ってる。

 

 赤城の言葉が、遅れて頭の中に浮かぶ。

 

 「……行くしか、ないよな」

 

 咲太が、ぽつりと言った。

 

 「本当に傷害事件でも起こされたら、洒落にならないし」

 

 「だな」

 

 赤城を峰ヶ原高校に呼び出した時点で、俺も咲太も、役目を終えたつもりだったはずだ。

 

 それでも、物語は終わらなかった。

 

 むしろ、次の段階に進んだだけだ。

 

 咲太が歩き出そうとして、ふとこちらを振り返る。

 

 「……岸和田は、来ないのか?」

 

 その問いに、俺は少しだけ考えてから答えた。

 

 「ここから先はさ」

 

 一拍置いて。

 

 「お前と赤城の物語だろ」

 

 咲太は、一瞬だけ目を細めてから、苦笑する。

 

 「……ずるいこと言うな、お前」

 

 「知ってる」

 

 肩をすくめる。

 

 「でも、途中までは一緒に行くよ」

 

 「会場には?」

 

 「俺は招待状ないから入れないだろ」

 

 咲太は、それ以上何も言わなかった。

 

 ただ、「わかった」とだけ返して、再び歩き出す。

 

 俺たちは並んで、同窓会の会場へ向かう道を歩き始めた。

 

 赤城が消えた場所を背にして。

 

 それぞれ、別の役割を引き受けながら。

 

 七里ヶ浜駅から鎌倉行きの電車に乗り、鎌倉で横須賀線に、戸塚で東海道線に、横浜でみなとみらい線に乗り換えて、ようやく日本大通り駅に辿り着いた。

 

 約一時間の電車旅。

 

 ホームに降りると、俺たちは足早に改札口を目指した。

 

 Suicaをタッチして通り抜ける際、咲太は急ぎすぎて太ももを自動改札の開閉扉に軽くぶつける。

 

 「痛っ……!」

 

 「前見ろ前」

 

 スマホを左手に、俺はすでにマップアプリを開いていた。

 

 現在地と目的地を確認し、最短ルートを頭に叩き込む。

 

 案内板の指示に従って海側の出口から地上に出ると、俺たちはそのまま走り出した。

 

 先ほど、駅構内の電光掲示機で確認した時刻は午後五時五十一分。

 

 赤城から渡された招待状に書かれた終了時刻まで、残り九分。

 

 「なんで、僕がこんなこと……!」

 

 息が切れたタイミングで、咲太が文句を零す。

 

 「お前にしかできないからだろ」

 

 即答すると、咲太は一瞬だけ口を噤んだ。

 

 それ以上、否定しなかった。

 

 ここに来るまで、俺たちはずっと一緒に考えていた。

 

 電車の中でも、ホームでも、乗り換えのたびに。

 

 赤城が何をしようとしているのか。

 

 どうして「同窓会」なのか。

 

 はっきりした答えは出なかった。それでも、いくつかの線は浮かび上がってきている。

 

 「……なあ、咲太」

 

 信号待ちの間に、俺は口を開いた。

 

 「中学のとき、赤城と生徒会の仕事を一緒にやったときにさ」

 

 「書記の手伝いだったんだけど……あいつ、たまに正しいことを言い過ぎるんだ」

 

 青信号に変わり、再び走り出す。

 

 「正論で殴る、みたいなやつか?」

 

 「そう。悪気はないんだけど、逃げ道を残さない言い方をする」

 

 それは責任感の裏返しでもあった。

 

 「だからさ……もしかしたら赤城は」

 

 息を整えながら、俺は続ける。

 

 「中学のクラスメイト全員を集めて、その前で認めさせようとしてるのかもしれない」

 

 「……思春期症候群のことを?」

 

 「自分がここにいたこと。それが逃げじゃなかったこと。もしくは、逃げだったとしたら、それを……」

 

 言い切る前に、信号を渡り切った。

 

 目の前に、目的の建物が見えてくる。

 

 時代を感じさせる洋風の外観。横浜らしい、落ち着いた雰囲気の店だった。

 

 「……厄介だな」

 

 咲太が短く呟く。

 

 「だから、お前にしかできない」

 

 そう言うと、咲太は小さく鼻で笑った。

 

 「ずるいな、赤城も」

 

 俺たちは息を整えてから、店のドアを開けた。

 

 中に入ると、奥から「いらっしゃいませ」という声が響く。

 

 レジ脇には、{同窓会のお客様は屋上テラスへ}と書かれた黒板が、イーゼルに立てかけられていた。

 

 それを見て、咲太が階段に足をかける。

 

 「今日、上は貸し切りなんです」

 

 先ほどの店員が近づいてきた。

 

 咲太は無言で招待状を取り出し、見せる。

 

 「あ、どうぞ」

 

 態度が一変し、店員は丁寧に階段の上を示した。

 

 咲太が一段、二段と上りかけたところで、俺は声をかける。

 

 「……気をつけろよ、咲太」

 

 振り返った咲太は、一瞬だけ真面目な顔をして、それから小さく笑った。

 

 「ありがとう、岸和田」

 

 そのまま、階段の向こうへ消えていく。

 

 俺はその場に残り、下から天井を見上げた。

 

 ここから先は、俺の物語じゃない。

 

 赤城と、咲太の物語だ。

 

 俺はただ、待つ。

 

 何が起こるのかを。

 

 そして、起こったことを、見届けるために。

 

 観察者でいるのは逃げじゃなく、俺の責任だから。

 

 しばらくして、咲太が店の階段を下りてきた。

 

 声をかけようとして、俺はやめた。

 

 咲太の顔を見た瞬間に、それが正しいと分かったからだ。

 

 表情は崩れて、視線が定まっていなかった。何かを振り払うみたいに地面だけを見て、誰とも目を合わせようとしない。

 

 (ああ、これは……)

 

 中学の、あの頃の記憶を引っ張り出された顔だ。

 

 俺は何も言わず、少し距離を取って、後ろについた。

 

 店を出た咲太の足は、最寄りの日本大通り駅には向かわなかった。

 

 目的地を失ったみたいに、ただ真っ直ぐ、海の方へ歩いていく。

 

 中学時代のクラスメイトとの再会は、本人が思っていた以上に、咲太の内側をかき乱していたのだろう。

 

 俺は咲太を呼び止めることも、置いて帰ることもできず、遠くに見えていたランドマークタワーの光を目印にして、黙ったまま同じ速度で歩き始めた。

 

 夜の海沿いの道は、風が冷たくて、やけに広かった。

 

 五分ほど歩くと、右手に赤レンガ倉庫の明かりが見えてくる。

 

 さらにその先、ビルの隙間から、半分だけ顔を出した観覧車のイルミネーションが、きらきらと回っていた。

 

 あの光の向こうに、桜木町駅がある。

 

 観覧車を目印にして、俺たちは人で賑わう赤レンガ倉庫の前を横切った。

 

 日曜日の今日は、何か催しがあったらしく、日が沈んだ今も広場には人が溢れている。笑い声と音楽が、夜気に混ざって流れてきた。

 

 けれど、咲太はそちらを一度も見なかった。

 

 そのまま喧騒から離れていくと、緑で覆われた中央分離帯と、上下合わせて四車線ある道路を、ぐるりと一周するように繋ぐ巨大な歩道橋に出る。

 

 歩行者用の信号はない。

 

 ここを渡るには、上るしかない。

 

 無言のまま歩道橋に上がり、四分の一ほど回ったところで、咲太が足を止めた。

 

 俺も、その少し後ろで立ち止まる。

 

 そのとき、背後でも、パンプスの足音が止まった。

 

 乾いた音。一定の距離を保ったまま、ずっと続いていた足音。

 

 気づいたのは、赤レンガ倉庫の灯りが視界に入った頃だ。

 

 だが、たぶん、同窓会の店を出たときから、俺たちは、ずっとついてこられていたのだろう。

 

 「あれで満足したか?」

 

 背中を向けたまま、咲太は声をかけた。

 

 「満足って?」

 

 思った通りの声が返ってくる。赤城郁実の声だ。

 

 「全部、計画通り上手くいったんだろ?」

 

 そう言って咲太が振り向くと、赤城は困った顔でごまかすように微笑んだ。

 

 「計画ってなにそれ」

 

 「中学のクラスメイトを集めて、僕の前で思春期症候群の存在を認めさせること、かな」

 

 「ばれてるなら仕方ないか」

 

 そう呟く声音は、観念したというより、最初から隠し切れると思っていなかったみたいだった。

 

 そして、赤城はふいに視線をずらす。

 

 咲太ではなく、俺の方を見る。

 

 「……岸和田くんから、助言されたんでしょ?」

 

 その言葉に、咲太は一度だけ頷いた。

 

 「ああ」

 

 短い返事。

 

 赤城はそれを聞いて、納得したように息を吐く。

 

 「やっぱりね」

 

 それから、改めて俺の方を向いた。

 

 歩道橋の上、ほんの数メートルの距離。

 

 街の明かりと車の走行音に挟まれた、曖昧な境界線の上で。

 

 「久しぶりだね、岸和田くん」

 

 責めるでもなく、距離を詰めるでもない。

 

 ただ、事実を確認するみたいな声音だった。

 

 俺は一拍置いてから、短く答える。

 

 「ああ。久しぶりだな」

 

 三人の間に、夜風が抜けていく。

 

 逃げ場も、言い訳もない場所で。

 

 ようやく、本当の延長戦が始まった。

 

 「正直言うと、あんまりすっきりしてない」と、赤城ははにかんだ。

 

 「みんなと僕を巻き込んだんだから、そこは清々しい気持ちでいてくれ」

 

 「そうだね。友だちもなくして、これじゃあ笑い話にもならない」

 

 咲太の一言に、赤城は力なく笑う。

 

 「今日のこと、いつから考えてたんだ?」

 

 「思春期症候群にかかったとき。こうするのが正しいと思った」

 

 「だけど、すぐにはできなかった」

 

 咲太の視線を受け流すように、赤城は下を走る車のテールライトを目で追った。

 

 「私、大学の入学式で梓川くんと岸和田くんを見つけて……ショックだったの」

 

 俺たちもつられて、下を走る車を目で追った。

 

 「梓川くんは、なんでもないって顔でそこにいて。あの頃のことなんて全部忘れたみたいに笑ってて……それも、岸和田くんと一緒に……」

 

 「………」

 

 「梓川くんを見かけた時、今もあの頃を引き摺ったまま、何にもなれていない自分が恥ずかしかった」

 

 少し間を置いて、赤城は続ける。

 

 「岸和田くんも一緒に見かけた時……私は、今の自分を見たら、失望されるかもしれないって思った」

 

 「元彼の家に入り浸ってた私なんて……知られたら、きっと幻滅されるって」

 

 視線が、咲太から外れ、俺の方へと流れる。

 

 「それに……」

 

 「……岸和田くんは、もう私のことなんて覚えてないかもしれないって」

 

 赤城の声は、淡々としているのに、言葉だけが重たく落ちていく。

 

 「豊浜さんと、広川さんと一緒にいる岸和田くんを見たとき」

 

 「……ああ、もう私の居場所じゃないんだって、思った」

 

 「今の私は、もう関係ない存在なんだって」

 

 「こんな自分、見せられないと思った」

 

 「だから、思った。負けたって」

 

 「自分が正しいと思ってたのに……違ったんだって」

 

 寂しげに言って、赤城が視線を俺たちに戻す。

 

 「………」

 

 赤城は泣いているみたいな顔をしていて、咲太はかける言葉を失った。

 

 「梓川くんは立ち直って、岸和田くんは次に進んでいるのに、私は少しも前に進んでいない」

 

 「そう思ったら惨めで、あの場所にはもういられなかった」

 

 「逃げたいと思った。心から」

 

 「随分、遠くまで逃げたんだな」

 

 「人のことを言う資格はないけどさ」

 

 「さすがに、最初は夢を見ているんだと思ったけどね」

 

 「だな」

 

 「向こうの世界で一日過ごして……翌朝になれば戻っていると思ったけど、向こうの世界のままで。本当なんだって思うしかなかった」

 

 「すぐに帰ろうとは思わなかったのか?帰りたいとかさ」

 

 「不安はあったよ」

 

 さっきまで赤だった信号が青に変わる。車の流れが横から縦になった。

 

 「でも、三日が過ぎて、一週間が過ぎて……一ヵ月も経った頃には、このままでいいって思うようになってた」

 

 「赤城にとって、居心地のいい世界だったんだな」

 

 「ここよりは断然」

 

 俺たちを見ていた郁実が、遠慮がちに微笑む。

 

 それは、この世界の居心地の悪さの原因が、俺たちにあると分かっているからだ。

 

 「向こうではね。私、大学受験に失敗して、浪人生活を送ってたの」

 

 「だったら、大学で僕に会わずに済むもんな」

 

 赤城は、ほんの一瞬だけ言葉を選んでから、続けた。

 

 「……それだけじゃない」

 

 「向こうの世界では、岸和田くんは、大学進学のタイミングで海外に留学してた」

 

 「最初から、日本にいなかった」

 

 「だから……会うことは、絶対になかった」

 

 その言葉には、安堵が滲んでいた。

 

 「なにより、気が楽だったのは……中学のときの出来事が、解決していたこと」

 

 「僕が放送室を占拠して、どうにかしたらしいな」

 

 「うん」

 

 赤城は少しだけ間を置いて、付け足す。

 

 「岸和田くんが、協力してね」

 

 「……は?」

 

 「……俺?」

 

 咲太と俺の声が、ほぼ同時に重なった。

 

 「だから、ここでやり直そうと思った」

 

 「やり直せるって。この世界でなら、なりたい自分になれると思った」

 

 「向こうの赤城と同じことを言うんだな」

 

 なりたい自分になること。そうであろうとすること。

 

 どちらの世界の赤城も、生き方は同じだった。

 

 真面目で。

 

 正義感が強くて。

 

 嘘で自分を騙せない。

 

 だからこそ、赤城はここにいる。ここに帰ってきた。

 

 逃げたままの自分を許せるほど、赤城郁実は自分に甘くはないから……

 

 こんな方法で、過去の罪に対する罰を、自らに与えたのだ。

 

 「ねぇ、梓川くん」

 

 「なんだ?」

 

 「どうすれば、何もできなかった嫌いな自分を忘れられるの?」

 

 それはたぶん、赤城にとって、咲太にだけは投げかけたくなかった言葉だ。

 

 負けたと思った咲太には、聞きたくなかった問い。

 

 だけど、口に出すことで、中学から止まっていた時計の針を動かそうとしている。

 

 赤城が、その問いを俺に向けなかった理由は、たぶん簡単だ。

 

 俺は、中学の頃「何もできなかった自分」を、嫌いきれずにいたからだ。

 

 出来なかったことも、逃げたことも、抱えたまま立っている人間に、どうやって忘れ方を聞けばいいのか、赤城には分かっていたんだろう。

 

 だから、聞くなら咲太だった。

 

 立ち上がって、前に進んで、それでも「何にもなっちゃいない」と言えるような人間に。

 

 泣き出しそうな赤城の瞳には、縋るような感情が溢れていた。

 

 「簡単だよ」

 

 「……ほんと?」

 

 「毎日、朝ご飯食べて、学校行って、授業受けて、友だちと下らない話をして、好きな人と楽しい時間を過ごして、バイトして、風呂入って、歯を磨いて、寝ればいい。ま、時々、嫌なことを思い出す夜もあるけどな。そんときは、一晩中眠れなくて、息苦しくなって、ベッドの上でのたうち回って……気がついたら寝てて、最悪な気分で目覚ましに起こされて、でも、朝ご飯食べて、また学校に行けばいい」

 

 咲太の言葉を聞いて、俺は小さく息を吐いた。

 

 (そうだよな……)

 

 理屈じゃなく、感覚として、心の底から納得してしまった。

 

 きっとそれが、普通の、前への進み方なんだ。

 

 嫌なことを完全に忘れられる日なんて来ない。

 

 忘れたふりをしながら、同じ朝を何度も繰り返す。

 

 それでも、生きていく。

 

 けれど、その一方で、胸の奥に引っかかるものもあった。

 

 時間をかけて、少しずつ薄めていく。新しい思い出で、上書きしていく。

 

 そうやって乗り越えていくことすら、俺には許されなかった時間が、確かにあった。

 

 同じ一月を、何度も、何度も繰り返すだけのループ。

 

 昨日の後悔も、今日の痛みも、眠れば終わるはずの夜すら、リセットされてしまう世界。

 

 スイッチひとつで、記憶と気持ちを消せたら、どれだけ楽だっただろうと、何度も考えた。

 

 でも、人間は、そういう風にはできていない。

 

 ある日の失敗を、一瞬でなかったことにするスイッチは、最初から付いていない。

 

 だから、時間をかけるしかない。

 

 思い出を薄めて、新しい記憶を重ねて、それでも時々、ふいに思い出して、眠れない夜を迎えて。

 

 息苦しくなって、目を閉じて、それでも朝は来て。

 

 最悪な気分のまま目覚ましに起こされて、朝ご飯を食べて、また、学校に行く。

 

 それを、何度も、何度も繰り返す。

 

 忘れるとは、きっとそういうことだ。

 

 完全に消すことじゃない。

 

 抱えたまま、平気な顔をできる時間を、少しずつ増やしていくこと。

 

 時間をかけて、乗り越えるということ。

 

 咲太の言葉は、優しくて、残酷で、それでも、間違いなく正しかった。

 

 だから俺は、黙って頷いた。

 

 そのやり方しか、人は前に進めないと、知っているから。

 

 「いつまで続ければいいの?」

 

 「そんなの僕が知るか」

 

 「……そう、だね」

 

 俯くように、赤城が呟く。

 

 そのあとで、「ほんと、私って惨めでかっこ悪い」と、胸の中に溜まっていた感情を静かに吐き出した。

 

 「今日、それがわかってよかったな」

 

 「………」

 

 「明日とか、明後日とか、一週間後とか、一年後じゃなくて」

 

 「随分遠回りをしたけどね」

 

 俯いていた赤城がゆっくり顔を上げる。

 

 見ていたのは、楕円形をした歩道橋の反対側。逆を回っていたら、もっと早くたどり着いたかもしれない場所。だけど、このまま歩いても、いずれたどり着ける場所だ。

 

 「梓川くんの言う通り」

 

 「………ん?」

 

 咲太の疑問に視線を戻した赤城は、「今日でよかった」と、照れくさそうに微笑んだ。

 

 「だろ?」

 

 つられるように、俺も咲太も少し笑う。

 

 その雰囲気のまま、俺たちは楕円形をした歩道橋の上を歩き出した。一歩ずつゆっくりと。時計の針のように。

 

 「みんな、固まってたね。芸能人の彼女自慢に」

 

 「同窓会って、マウント取る場所なんだろ?」

 

 「さすがにあれは性格悪い」

 

 「ちゃんと麻衣さんにはお礼を言うよ」

 

 「みんなに謝るんじゃないんだ。梓川くんらしいけど」

 

 このやり取りを見ていて、俺は改めて思った。

 

 (やっぱり、咲太の救い方は正しかったんだ)

 

 特別な言葉も、奇跡みたいな答えもいらない。

 

 ただ、生き方をそのまま差し出す。

 

 それが、赤城にとって一番必要なものだった。

 

 その空気のまま、咲太が服の中をもぞもぞと探る。

 

 「……今日、ずっと守ってもらってたし」

 

 「………?」

 

 俺と赤城が同時に視線を向ける。

 

 咲太は少し気まずそうに目を逸らしながら、胸元から一冊の雑誌を取り出した。

 

 ファッション誌。

 

 表紙では、麻衣先輩が片目を閉じて、いかにも、計算された自然さで笑っている。

 

 一瞬の沈黙。

 

 それから、俺は思わず口にしていた。

 

 「……それ忍ばせてるの、ほんとお前らしいな」

 

 咲太は肩をすくめる。

 

 「万が一のとき用だよ」

 

 「万が一の基準がズレてる」

 

 そのやり取りに、赤城が一瞬きょとんとして、次の瞬間、ふっと、力の抜けた笑いを零した。

 

 「……なに、それ」

 

 小さく、でも確かに、笑っていた。

 

 さっきまでの張り詰めた表情じゃない。

 

 気を張る必要のない、素の笑顔だった。

 

 それを見て、俺は胸の奥で静かに頷く。

 

 (ああ、これでよかったんだ……)

 

 正しい言葉より、正しい日常。

 

 咲太はそれを、ちゃんと差し出していた。

 

 楕円形の歩道橋の上を、俺たちはまた歩き出す。

 

 一歩ずつ、ゆっくりと。

 

 遠回りでも、確実に進むための速度で。

 

 時計の針みたいに。

 

 止まらず、戻らず、少しずつ。

 

 その日の夜、疲れ切って眠りに落ちた俺は夢を見た。

 

 妙にリアルで、現実のような感覚の夢。

 

 俺が塾のバイトに行くと、姫路さんが咲太に「今日からお願いします。咲太せんせ」と、笑顔で言っているのを見かけるという内容だった。

 

 その後、俺は自分の担当生徒に普通に授業をして、授業が終わると、姫路さんが俺に「スッキリした顔してますね、岸和田先生」と話しかけてきた。

 

 それは、よくある支離滅裂な夢とは明らかに違かった。

 

 十一月二十八日

 

 右腕を骨折したままの状態で、寝返りも打てずに目を覚ました。

 

 目が覚めたはずなのに、俺には、夢から覚めた、という感覚がなかった。

 

 あまりにも、現実みたいな夢だったからだ。

 

 夢の中でも、体の感覚はあった。考えることもできていたし、言葉も交わしていた。

 

 姫路さんの声も、咲太の声も、その余韻がまだ耳の奥に残っている。

 

 まるで、ついさっきまで、そこにいたみたいに。

 

 「……もしかして、今のが、#夢見るか……?」

 

 そんな考えが、自然と浮かぶ。

 

 「塾のカレンダー、十二月一日だったよな。確か」

 

 今日は、十一月二十八日。月曜日。

 

 十一月は三十日までだから、数えると三日後だ。

 

 「……ま、そのときになれば、わかるか」

 

 その日が来るまでは、今のが本当に #夢見る だったのかどうか、判断できない。

 

 それに、ただの夢だったのなら、それでいい。

 

 そう思いながら、俺は天井を見つめた。

 

 十一時を少し回った頃、俺はのどかと卯月と一緒に、早めの昼ごはんを取っていた。

 

 右腕を骨折しているとはいえ、さすがにこれはやりすぎじゃないかと思う。

 

 「はい蓮真、あーん」

 

 「……いや、自分で食べられるから」

 

 そう言ったそばから、今度は卯月が湯気の立つお茶を俺の前に置く。

 

 「はい、きっしー。火傷しないようにね」

 

 「……ありがとう」

 

 ありがたい。ありがたいんだけど。

 

 二人が交互に世話を焼いてくるせいで、周囲の視線がやたらと集まっていた。

 

 さすがに、少し恥ずかしい。

 

 「骨折してるんだから、遠慮しないの」

 

 のどかが当然みたいに言って、卯月も「そうそう!」と頷く。

 

 反論する気力は、もう残っていなかった。

 

 昼食を終えると、二人はすぐに次の予定の話を始める。

 

 次のライブに向けたオンラインミーティングを、基礎ゼミが始まる十二時五十分までに入れているらしい。

 

 「相変わらず、タイトだな」

 

 「今が踏ん張りどころだからね」

 

 のどかが笑って言う。

 

 忙しそうに荷物をまとめる二人を見送りながら、俺は一息ついた。

 

 そのときだった。

 

 視界の端で、黒髪が揺れた。

 

 顔を上げると、赤城郁実が、そこに立っていた。

 

 「……ここ、座ってもいい?」

 

 少しだけ躊躇うような声。

 

 「どうぞ」

 

 そう答えてから、気づく。

 

 この世界の赤城と、こうしてちゃんと話すのは、初めてだ。

 

 席に腰を下ろした赤城は、俺の顔をじっと見てから、ふと思い出したように言った。

 

 「去年のオープンキャンパスのとき……岸和田くん、来てたでしょ」

 

 その言葉で、記憶が繋がる。

 

 模擬授業の時、何度か視線を感じた、あの日。

 

 「ああ……やっぱり、赤城だったんだな」

 

 赤城は小さく頷いた。

 

 「そのときも、豊浜さんと広川さんと一緒だったよね」

 

 「受験勉強、一緒にやってたからさ」

 

 すると、赤城は少しだけ口を尖らせる。

 

 「さっきまで、三人でイチャイチャしてたし」

 

 ……軽く、嫉妬されている。

 

 その様子に、俺は苦笑しながらも、ずっと胸に引っかかっていた問いを口にした。

 

 「赤城。ひとつ聞いてもいいか?」

 

 「なに?」

 

 「どうして……俺を、自分のそばに置こうとしたんだ?」

 

 「この世界の赤城に聞くことじゃないかもしれないけど」

 

 一瞬、赤城は目を瞬かせてから、静かに言った。

 

 「岸和田くんが好きだったから、じゃ……理由にならない?」

 

 「……たぶん、それだけじゃない」

 

 そう返すと、赤城はふっと笑った。

 

 「やっぱり、岸和田くんの観察力はすごいね」

 

 そして、少し真剣な表情になる。

 

 「……岸和田くんも、中学の頃の私と同じなんだって思ったから」

 

 「梓川くんの異変に気づいても、何もできなかった後悔を、抱えてる人間なんだって」

 

 俺は、言葉を返さなかった。

 

 赤城は続ける。

 

 「だから、同じ後悔を知ってる人なら……私を助けてくれるんじゃないかって、勝手に思った」

 

 「でも同時に、同じ後悔を知ってるからこそ、踏み込めない理由も、わかってた」

 

 「結局、梓川くんのそばにいたのは、私じゃなくて岸和田くんだった」

 

 「それが直接じゃなくても……すごく、支えになってたんだと思う」

 

 そこで初めて、赤城はまっすぐに俺を見た。

 

 「……だから、ありがとう」

 

 「あなたなりのやり方で、梓川くんを支えてくれて」

 

 「買い被りすぎだよ」

 

 そう言いながら、俺は腑に落ちていた。

 

 そっか。赤城にとって、咲太は「救えなかった人」だった。

 

 その痛みはまだ癒えていない。

 

 だから、赤城にとって「救えた人」である俺を、頼ってくれたんだ。

 

 同じ後悔を知っている俺ならと、思って……

 

 「俺にできることなんて、たかが知れてるよ」

 

 そう前置きして、俺は言った。

 

 「誰かを直接救う力もないし……たぶん、これからもずっと、人の隣に立ち続けられるわけじゃない」

 

 一度、言葉を切る。

 

 「それでも……少しでも歩きやすい道を照らすくらいなら」

 

 「俺なりに、できるかもしれない」

 

 「たぶん、それが……俺の場所なんだと思う」

 

 らしくない言葉だった。

 

 赤城は、しばらく黙っていたが、やがてふっと微笑んだ。

 

 「やっぱり……そうだったんだね、あなたは」

 

 そのあとで俺は言った。

 

 「ボランティアのことも含めてさ……これからまた、よろしくな。赤城」

 

 「うん。よろしくね、岸和田くん」

 

 満足そうに頷いた赤城は、立ち上がる。

 

 「……じゃあ、そろそろ行くね」

 

 「梓川くんと桜島さんが、近くにいるって聞いたから」

 

 そう言って振り返った、その一瞬。

 

 彼女の手のひらが、俺の視界に入った。

 

 白い指に包まれた掌。

 

 そこには、黒いペンで、小さな文字が走り書きされていた。

 

 ——霧島透子を探せ

 

 ——麻衣さんが危ない

 

 ……霧島透子?

 

 それに、麻衣先輩?

 

 なぜ、その名前が、赤城の手のひらに……

 

 #夢見ると関係しているのか。

 

 それとも……

 

 考えがまとまる前に、赤城は微笑んで言った。

 

 「……ありがとう、岸和田くん。じゃあ、また」

 

 背を向けて、校舎の角を曲がっていく。

 

 その背中を見送りながら、俺は、先月の双葉と咲太との会話を思い出していた。

 

 咲太は、少しだけ声を潜めて言っていた。

 

 「今週の月曜、大学でミニスカサンタに会ったんだよ」

 

 「本人は、霧島透子を名乗ってた。僕にしか見えてなかったけどな」

 

 「しかも、『一千万人分の思春期症候群をプレゼントした』って」

 

 霧島透子……

 

 その名前は、まだ意味を持たない。

 

 けれど、意味を持たないままでは、済まされない気配だけが、確かにそこにあった。

 

 誰にも見えない場所で、誰にも知られない形で、何かが、もう動き始めている。

 

 そんな気がした。

 

 

————————

 

 

どこにも行けなさそうな不安が

 

孤独をぎゅっと抱きとめてくる けど

 

どこかへ逃げ出したい衝動

 

私をそっと誘い出そうと 笑いかけた

 

 

苦しいんだ 無限すぎて

 

誰かと重ね合わせて 傷ついて

 

ここじゃない

 

ここじゃない

 

ここじゃないって

 

何度、何度、何度、叫んだって

 

かっこいい自分探して

 

かっこ悪い自分さらして

 

ここにいるんだよ

 

大っ嫌いなこの世界に

 

ダイスキがほしくて

 

問いかけないで 答えられないよ

 

そばにいる人ひとりも 大事にできない

 

だけど私でもできること 見つけられた

 

ただ ただ 歌があって 君がいた

 

それだけで Ah

 

ここにいたい

 

ここにいたい

 

ここにいたいって

 

本音、本音、本音、とめどない音

 

誰かを助けるため

 

ボロボロになってでも

 

ここにいるんだよ

 

愛のない この世界を

 

愛してみたくて

 

いつも言葉向けた先が 誰だったか

 

わからなくなる 私は何だったんだ 教えてよ

 

特別なひとなんかにならなくたって

 

私は 私を 私で 認めたい

 

ここじゃない

 

ここじゃない

 

ここじゃないって

 

何度、何度、何度、叫んだって

 

かっこいい自分探して

 

かっこ悪い自分さらして

 

ここにいるんだよ

 

大っ嫌いなこの世界に

 

ダイスキがほしくて

 

 

————————

 

 

次回

『青春ブタ野郎はアウトオブサイトの夢を見ない』

 

赤城郁実

『さすが岸和田くん、ブタ野郎だね』

 




この章をもって、『青春ブタ野郎はサイレントナースの夢を見ない』の物語は一区切りを迎えます。

時系列でいえば、『青春ブタ野郎はナイチンゲールの夢を見ない』のお話しです。

今章では、赤城郁実という存在を介して、梓川咲太と岸和田蓮真の鏡像関係を意識して描きました。

同じ景色を見て、同じ痛みを知っているのに、立つ位置が少しだけ違う二人。咲太は「前に出る」ことで、蓮真は「隣にいる」ことで、それぞれのやり方で、誰かの現実に手を伸ばしていく。

郁実にとって咲太は、「救えなかった存在」でした。

中学の頃、どうにもできなかった空気。信じてもらえなかった傷。自分の頼られ役が崩れた瞬間。その悔いの中心にいたのが咲太で、だからこそ郁実は、咲太を直視できなかった。

一方で蓮真は、郁実にとって「救えた存在」として置かれました。救うというより、救われたと言ってもいいのかもしれません。

届かなかった過去の痛みを、少しだけ届く形にしてくれる相手。郁実は蓮真に、そういう役割を重ねたと言えます。

そして今章で描きたかったのは、どちらが正しいとか、どちらが優しいとか、そういう話ではありません。

寄り添い方は違っても、最後に郁実が自分の居場所と向き合うきっかけになったのは、咲太と蓮真の両方だった、という構図です。

救いは一人のヒーローだけで完結しない。複数の手が、別々の角度から支えた結果として、ようやく一つの心が立ち上がれる。そんな形を、この章では選びました。

そして次章は、姫路紗良を主役に据えた物語になります。

原作の大学生編『青春ブタ野郎はマイスチューデントの夢を見ない』と重なる時間の中で、紗良の視点を通して描いていくテーマは、「人を好きになること」とは何か、です。

紗良は、自分の抱え込んだ問題に向き合うために、逃げない好きを学んでいくことになります。そしてそれは、蓮真にとっても他人事ではありません。

のどかと卯月という大切な二人に、曖昧なまま寄り添うだけでは届かない瞬間が来る。

蓮真自身が、ちゃんと向き合うことを選ばなければならない展開を、次章以降で描いていく予定です。

境界の向こうで息づいた決意は、ここから先、別の形で試されていきます。

感想や考察など、一言でもいただけたら、次章を書くうえで大きな励みになります。

これからも、岸和田蓮真の視点が照らす青春に、どうぞお付き合いいただければ幸いです。

蓮真は最終的にどちらを選ぶと思いますか?

  • 豊浜のどか
  • 広川卯月
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